けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

世間に蔓延する「デッドゾーン現象」

2016-03-12 13:16:40 | 政治
唐突で申し訳ないが、皆さんはデヴィッド・クローネンバーグ監督、クリストファー・ウォーケン主演の1983年の映画「デッドゾーン(原題:THE DEAD ZONE)」をご存じだろうか?以下の内容にはこの映画の「ネタバレ」記述があるので、それを気にする方はご注意をお願いしたい。

まず、映画の紹介は以下にある。

Yahoo!映画「デッドゾーン

簡単に振り返っておくと、主人公はある日、交通事故にあい昏睡状態の5年間を過ごすことになる。その後、奇跡的に目覚めるのだが、その特異な経験故に、何故か手に触れた人の未来を予知する能力を身に着けてしまう。その後のストーリーは、その特殊な能力により悲劇の運命に巻き込まれることになる。

その詳細は(ネタバレなので)後ほど紹介するが、今日のブログでは、3.11以降の日本では、この主人公の様な能力を身に着けてしまったと勘違いしてしまった人々が多く現れ、それが現在の様々な混乱を招いてしまったと私は感じている。

まず、その典型的な「事件」は以下の高浜原発3,4号機の運転差し止めの仮判決である。

日本経済新聞 2016年3月9日「関電高浜原発3・4号機の運転差し止め 大津地裁仮処分決定

これは、昨年にも高浜原発3, 4号機の再稼働差し止めの仮処分決定があったので、その延長線上の話なのだが、その際の福井地裁の樋口英明裁判長は、どうも思想的に偏った感がプンプンとしていたので「この裁判官、特殊なんだ・・・」と勝手に思い込んでいた。実際、その際の判決の要旨を読んでみれば、その異常さは理解できる。世の中には、この様な裁判官が一人ぐらいはいてもおかしくないだろう・・・と思って話を聞いていた。しかし、今回の判決に関しては、そこまでの思想的な偏りは感じられない一方で、結果的には同様の判断をしまうところから、その様な言葉では片づけられない何かを感じた。

例えば、今回の裁判の山本善彦裁判長は、昨年11月には再稼働前の高浜3,4号機をめぐる同様の仮処分申請を「再稼働は迫っておらず、差し止めの必要性はない」と却下していたそうなので、極端なイデオロギーを持った特殊な人という訳ではなさそうである。しかし、以下の判決文を読んでみると、やはり裁判官としての論理性を捨てざるを得ない何かを感じたのではないかと私なりに読み取った。

平成27年(ヨ)第6号 原発再稼働禁止仮処分申立事件

長ったらしいので、下記のサイトの方で要点が整理されている。
アゴラ 2016年3月10日「『ゼロリスク』を求める裁判官」池田信夫

こちらには要約が書かれているが、私個人が着目した点は少々異なる。上記の判決文を読むと、今回の裁判には7つの論点があることが分かり、その中の第1番に上げられたのは、「原子力規制委員会の判断をどの様に評価すべきか」というポイントである。ただし、判決文ではこの様な表記ではなく、16ページ目から始まる[争点1]「(主張立証責任の所在)に関する当事者双方の主張」として扱われ、すなわち「主張の立証責任は誰にあるか?」が議論されている。ここでは、原発関連の裁判に関しては「行政事件」と見なした場合と「民事事件」と見なした場合で判断は微妙であるが、「行政事件」であれば過去に最高裁判決(伊方原原発訴訟最高裁判決)があり、そこでは「原子力委員会若しくは原子炉安全委員会の専門技術的な調査審議及び判断」は尊重されるべきであり、これらの判断を基に行政庁が(行政としての)最終判断を下した際に、その判断に不合理な点があるか否かが争われるべきで、その際の立証責任は(証拠は被告側が殆ど持っているので)被告側にあるとした判決を行っている。つまり、行政側も特殊な専門知識を持ち合わせていないので、当時であれば原子力委員会等、現在であれば原子力規制委員会が技術的な精査を全て行い、その結果の発表を受けて行政が最終判断を判断を行うのであるが、その際の「原子力規制委員会の判断」を受けて「行政の判断」をするまでの間に不合理がある場合には差し止めも止む無しだが、判断は全てこの間の合理性で判断する・・・としている。

ちなみに、民事事件の場合には少々状況は異なり、原告側の主張としては、「行政の話ではないから原子力規制委員会の判断など関係なく、純粋に関西電力が原告側の『人格権』が侵害されていないことを立証すべし」となっている。被告側の主張は当然ながら異なっていて、民事事件であろうが「専門性がなければ判断できないのだから、日本の中でその専門性を持った組織として法的に定められた原子力規制委員会の判断は認められるべき」としている。

これに対して判決では、第41ページ以降で、(行政事件の最高裁判決に従い)「立証責任は被告側が担うべき」だが、多分、民事事件だから原子力規制委員会が下した判断には何ら拘束されず、原子力規制委員会に対して行ったのと同様の反証をこの裁判でも行うことを求めているようである。中では、「(当裁判所が)原子力規制委員会に代わって判断すべきであると考えるものでもない」と言及しており、裁判所が原子力規制委員会並みの判断能力を持ち合わせていないことを暗黙に認めているが、しかし、その他の論点で行っている判断はまさに判断において専門知識が求められる内容ばかりである。言い換えれば、「専門知識がなければ客観的に判断できない事案ではあるが、裁判所なりの主観的な判断で電力会社の主張を解釈し、その妥当性を判断します」と言っているようなものである。

勿論、私は関西電力が原発に向き合う姿勢が謙虚であるとは思っていないし、いい加減にごまかして済まそうとする体質についても糾弾せざるを得ないと考えている。私が原発に対して譲れないと考えている免震重要棟の存在も、高浜原発では免震構造を耐震構造に引き下げて許可が下りている様で、この辺は全て厳しく対処して頂きたいとも思っている。しかし、如何に関西電力の経営層がパッパラパーであっても、原子力規制委員会は取り寄せた客観的な事実から、その原発の安全性を論理的且つ客観的に議論し、定量的な安全性の評価の基で結論を下すという、スペシャリストとしての自負を彼ら(原子力規制委員会)が持っていることだけは私は認めている。多分、その評価は国際機関であるIAEAでも変わらないだろう。

被告側の主張も、まさに民事事件であっても、国内で唯一、その専門性を認定された機関が原子力規制委員会なのだから、その判断結果は尊重されて然るべき・・・と主張したが、裁判長は「それだけでは不十分」として退けた感がある。残りの争点に関しては、まさにその専門性が問われる論点が多いが、明らかに専門性の乏しい裁判官が判断を下してしまった。

池田信夫氏も指摘するように、裁判官がゼロリスクを求めるのは非論理的である。例えば、先の池田氏の記事では下記の様に指摘されている。

===========
(「『ゼロリスク』を求める裁判官」より抜粋)
このように「よくわからないからリスクはゼロではない」という論理は、何にでも使えそうだ。たとえば
・建物の安全性の挙証責任は建設会社にあり、リスクがゼロでない限り高層ビルは建設してはならない。
・東日本大震災の原因究明は今なお道半ばであり、建築基準法が正しいかどうか不安である。
今の耐震基準で十分かどうか、建設会社の資料ではよくわからない。
・したがって高層ビルのリスクはゼロではないので、建設してはならない。
こういう論理は、他にも使える。たとえば年間11万人死んでいるタバコのリスクは、原発よりはるかに大きいので、タバコも製造禁止だ。旅客機のリスクもゼロではないので、航空会社も運航禁止だ。
===========

この様に言ったとき、例えば航空機のリスクは航空機を利用する利益の享受者がリスクを負うことになる一方、原発はリスクを負うべき者と利益の享受者が別なのが問題なのだと指摘する人がいる。しかし、最も分かり易い例である「自動車のリスク」は分かり易い。世の中に車が溢れることになった結果、毎年、膨大な数の歩行者が交通事故に巻き込まれるのである。歩行者は自動車の利益を享受している人ではない。しかし、その利益を享受する運転者のトバッチリを受けて死ぬことになる。原発の問題と異なり、確実に、毎年膨大な数の死者を出している。仮に、「歩行者だって、自宅に車もあればバスにだって乗るのだから、自動車の利益を享受しているじゃないか!」と言われるかも知れないが、だったら「原発を含む電気という利益を享受していない人など、日本には一人もいない」という点で同じである。

この裁判官の論理が正しいなら、誰かが「人格権」を主張して「日本国内での自動車の使用の仮差し止め申請」を出したら何が起きるだろう?多分、「自動車の安全性、危険性を示す証拠の大部分は自動車業界が持っているので、自動車の安全性の立証責任は自動車業界側にある。その自動車業界が、例えばテンカンや心臓発作、ないしは泥酔者や麻薬常習者が適切な運転ができずに歩行者を轢き殺す危険性が存在しないことを自動車業界に証明する義務を課し、それが不十分なら自動車の使用仮差し止めも止む無し」という判決になるだろう。少なくとも泥酔者や麻薬常習者の自動車運転の危険性の除去は「譲れない」となるのは間違いない。しかし、何故か「自衛隊に対しては違憲性を問わないが、安保法案だけは違憲性は重要である」のと同様に、「自動車に対しては危険性を問わないが、原発に対しては危険性を無制限に問いまくる」という議論になっている。肝心なのはリスクの大きさと、そのリスクが顕在化する確率の積で、それを最小化するための「リスクの最小化」のための努力に注目を向けるべきである。だから自動車業界は発展し、人々は様々な恩恵を享受できたのである。

さて話を戻せば、私の感触としては、この裁判長は法律の論理構成に従えば、立証責任が原告ではなく被告にあるとの根拠を上述の「行政事件に関する最高裁判決」に求めているのだから、その最高裁判決で認めた原子力規制委員会の判断結果の尊重は当然のこととして認めていると思われる。しかし、それにも拘らず最後の最後で「やっぱ駄目!!!」とちゃぶ台をひっくり返してしまったのではないかと感じた。それは、3.11以降の日本人にありがちな、根拠のない使命感にあるのだと思う。

ここで話を戻して映画「デッドゾーン」の話題に戻らせて頂く。映画では、主人公が未来予知能力を持ってしまったがために、ある政治家が「将来、世界を核戦争に導くボタンを押してしまう」ことに気が付き、この政治家の暗殺を試みるのである。結局、ど素人が慣れない狙撃を試みても上手く行かず、暗殺には失敗するのだが、その政治家が身の安全を守るために取った行動がその政治家の政治生命を立つことになり、主人公の目的は達成される。彼は警官に撃たれて死んでしまうが、未来が当初の予知内容から変わったことを知った後、息を引き取ることになるのである。

この映画を見れば誰しも考えると思うのだが、「自分が主人公だったらどうする?」と考えるはずである。私もそうだが、ほぼ全ての人が「私も暗殺を試みただろう」と感じるはずだ。「それ(地球を滅亡させる)が確かなら、世界平和のために身を挺することは厭わない」との思いから、その様に感じるのである。しかし、ここにはひとつのトリックがある。それは、「それが確かなら・・・」という前提条件が映画の中では担保されているが、現実の世界ではその様なものが担保されることはないという点である。分かりやすく言えば、自分が特殊能力を持っていれば別だが、自分の友人が「俺は特殊能力を持っている。そんな俺が言うんだから確かな話だが、あの政治家を暗殺しないと人類が滅亡する!!」と言われて実行に移す人はそう居ない。それは、本当にそれが「人類のためになるのか?」が確かではないので、言われたままの決断を下すことなどできないのである。今回の裁判にしても、裁判官は本当にそれが「確か」なのかを下す判断能力が欠如しているにも関わらず、それでも何らかの使命感を感じて「人類のために、私が行動するしかない・・・」と感じてしまったのだろう。

しかし、その様な判断がどの様な未来を生むのか、本当は我々は体験しているのである。教祖、麻原彰晃こと松本智津夫が部下に対してサリンの散布を命じたり、坂本弁護士一家を殺害したりしたのは、常識で考えればありえない話なのに、「教祖が言うのだから、貴と正しいに違いない!」と変な勘違いをした信者が「世の中人の為・・・」と暴走したからである。この様な暴走を止めたければ、論理的な思考に基づき、ルールに則って判断を下すしかない。ルールを外れて、「俺が世界を救うんだ!」とかやりだしたら何が起こるか分からない。ISILの連中だってまさにそうである。彼らは「自分一人で世界を変える」とまでは自惚れていないが、「イスラム世界再興のために、私も立ち上がらねば!」ないしは「キリスト教又は西側諸国による世界支配を防ぐために、私も立ち上がらねば!」と考え、その他大勢の一人として勘違いして「世の中人の為・・・」と暴走しているのである。方向性は違うのだが、その根底の思考パターンは今回の裁判長も同様である。

しかし、「本当にそれで良いのか?」と私は問いたい。

オウムやISILの思考パターンから脱するためには、自分が世界を救うなどとうぬぼれたことを考えるのではなく、純粋に論理的な思考とルール(ないしは法律)に従った行動に徹するべきであり、特に裁判官にはそれが求められる。

しかし、何故か3.11以降の日本では、「自分こそが善悪の判断を下すことができ、その判断の基では『論理的な思考もルールも関係ない』」と思う人が増えてしまった。安保法制にしてもしかり。例えば、「安保法制は違憲だが、自衛隊が違憲か否かは全く議論する必要が無い」という考え方の人々がなんと多いことか。「ISILへの対抗のための人道支援も、ISILに狙われないように止めておこう」という発想が、どれほどISILへの援護になっているのか、何故わからないのか・・・。しかし、デッドゾーンの主人公の様な特殊な能力を持った人であれば、その客観的で論理的な正当性の説明は不要で、「ただ、感じるのみ」で自らの行動を正当化するのには十分なのである。

しかし、私はその様な世界にはなって欲しくない。ISILと同様に、それはもはや宗教の世界である。その様なものを認めていると、いつしか隣人が自らに彼らの宗教を強いるような事態に繋がっていく。そうなってからでは遅いのだ。多分、朝日新聞や毎日新聞なども、その様な勘違いで変な使命感に燃えている人が多いのだろう。

状況な中々深刻である。中東問題が宗教問題でもある以上、話し合いで解決する可能性は限りなく低い。勘違いした正義感も、その様な宗教的な色彩が強い。

我々にはただただ、「論理的な思考とルールの順守」をアピールするしか道はない。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

国家権力の暴走を止めるのが目的ならやり方が違う!!

2016-03-05 00:03:46 | 政治
長いことブログが書けなかったが、少し時間が出来たので久しぶりに書いてみたい。時すでに遅しという感もあるが、先日、田原総一郎氏などが高市総務相の停波発言に対して批判する行動を起こしたことについてのコメントである。

既に多くの議論がなされており、大体はそれで十分なのだが、部分的に議論から漏れていると感じる点について若干補足したい。まず、大局的な話は下記の2件をご確認いただければ、これで十分整理されていると思う。

YouTube 「[2016.2.13]【完全版】辛坊治郎ズーム そこまで言うか!」1:10:15~1:20:54
長谷川豊公式ブログ 本気論 本音論「『政治的公平性は権力者側が決めるものではない』は正論だが、アホみたいな給料をもらい続けている既得権益集団が決めていいものでもない

前者のYouTubeは後半の1時間10分辺りから10分程度なので聞いていただければと思うので、ここでは敢えてその内容についての紹介はしない。それでも私がこの記事を書こうと思ったきっかけは、2/26の朝まで生テレビの冒頭で一方的な主張が垂れ流され、非常に不愉快に感じたからだ。そこで幾つかの追加の論点を整理したい。

(1)田原氏達と民主党の主張の関係
まず、朝まで生テレビには民主党の小西洋之参議院議員が参加していて、好き放題のことを言っていた。番組としては、この小西氏と田原氏達が結託して自民党を批判しているのだが、この批判は何とも不自然なのだ。多方面で指摘されている通り、民主党政権の多くの閣僚も高市総務相と同様の国会答弁をしていたので、その発言の内容自体が問題なら、本来は民主党政権時代に自称ジャーナリスト達は当時の政権に噛みつかなければならなかった。しかし、実績としては誰ひとり噛みついた人はいない。ただ、その当時に噛みつかなかったのは「きっかけがなかった」からだと弁解するかも知れないが、今回、ここまで問題が表に出たのだから、民主党に対してもその立場を明確にすべきである。しかし、番組の中での議論の行方は、決して民主党を批判するものではなく、民主党員からの批判を受けて「そうだ!そうだ!」と一緒になって批判しているのである。

この様に書くと、何故、小西氏は自分達の発言を棚に上げて自民党を責めれるのか…と思うのだが、その理由は以下の点である。それは、「高市総務相はひとつの放送局ではなく、ひとつの番組を例えば4ヶ月とかモニタし、政治的な公平性に明らかに欠ける場合にはそれを理由にテレ朝の電波を停止させることが出来ると発言した」という点である。民主党は国会でも同様の質問をしていて、自分たちは「(停波自体は問題ではなく)少なくともひとつの番組ではなく、複数の番組を見て総合的に判断すべきという立場」だと主張している。その差が「天と地」の差であり、「ひとつの番組」と言った高市総務相は許せないというのである。

そこで私が問いたいのは、田原氏達自称ジャーナリストは、この小西氏の主張に同意するのか否かである。つまり、「複数の番組で判断されるならば、国家権力による停波は止む無し」という立場なのか、「複数かひとつの番組か?などというのは枝葉の問題で、国家権力による停波自体が問題である」という立場なのかである。もし後者ならば、朝生の中で田原氏達は小西氏に対し、「お前が言うな!」「お前に資格などないだろ!」と一喝すべきであった。しかし、場の雰囲気はまったく真逆で、自民党の吊るし上げを結託して行っている同志という感じだった。これは論理的に矛盾している態度である。ジャーナリズムを自称する以上、自分の論点を自分の中で整理し、その主張の論理的一貫性を守るべきである。

ちなみに話は逸れるが、先日、自民党の某議員がゲス不倫問題で辞任したが、彼の何処に問題があったかと言えば、不倫自体が問題だった訳ではなく、育休という少子化問題にまつわる問題を自らの売名パフォーマンスのために悪用した点にあると思っている。その意味では、この小西氏は様々なところで売名パフォーマンスや恫喝的なことを平気でやっていて、安倍総理の言葉ではないが「(私が民主党員だったら)政治家を辞めるという選択肢がある」という言葉を実践して欲しい政治家だ。

(2)問題の本質は「法律の恣意的な運用」では?
次に議論したいのは、今回の議論は「放送法のあり方」という範囲の狭い問題ではなく、国家権力の暴走を如何にして止めるかという問題がその本質にあると思っている。ジャーナリズムが国家権力を監視する必要があるのは、国家権力はいつ暴走しだしてもおかしくないので、常にその暴走を監視する必要があり、報道の自由はその監視機能を正常に機能させることを保証するための権利である。その監視の第一歩は「国家が法律を恣意的に運用する」ことの監視であり、例えば中国政府などは法律を恣意的に運用し、政府に異を唱える者は簡単に牢屋に投獄できるのである。実際、中国国内にはスパイ容疑で数名の日本人が投獄されているが、この様な暴走が日本で起きないようにすることは非常に重要である。この様な国家の暴走を回避する第1の手段は、国家に「法の下の支配」を徹底させることである。勿論、戦時中の日本の様に国会議員が結託して国家の暴走を後押しする法律を作ったら問題だが、そうでなければ「法の下の支配」は最低限守るべき原理原則である。この辺の話は、私の過去のブログで書かせて頂いた。

けろっぴぃの日記 2014年9月7日「ジャーナリズムによる『法律の恣意的運用』の強制

ここでも書いているように、国家による「法律の恣意的な運用」は止めなければならないが、そのためには第1歩として、国家権力サイドでなければ「法律の恣意的な運用」は認められるという甘ったれた考えを払拭すべきである。つまり、ある日突然、恣意的に国家権力により投獄されたくないのならば、仮にオウム真理教の信者であっても、法律を恣意的に捻じ曲げて投獄するようなことはしてはいけないのである。古くは明治時代の大津事件の様に、ロシアの皇太子の殺人未遂だからと言って「殺人未遂に死刑を適用する」ことは当時の法律的には許されておらず、マスメディアが「死刑にしろ!」と言ったからと言って死刑にしてはいけないのである。これは、法律により明確に禁止されている事項を堂々と破り、何度も是正勧告を受けてもそれを無視しまくり、その様なものに対する罰則規定まで明確に設けられている非合法な活動に対し、「国家権力が恣意的に法律を捻じ曲げて黙殺しろ!」と迫るのは、まさに「法律の恣意的運用を積極的に認めよう!」という運動に他ならない。ひとつの番組だけでも判断することがあり得るというのは論理的には正しく、テレビ局が「最も視聴率が高く国民への影響度が高い番組を一つ選び、その番組だけで偏向報道をするなら許される」などというお墨付きを与えたら、それは抜け穴を作るようなものである。それは恣意的な逆運用を強いるようなものである。

この様な問題に直面したとき、賢明な人はどう考えるのか?答えは簡単である。「国家権力が恣意的な法律の運用をする口実に使われないように、まずは自らの行動を顧みて、正すべきことは正していこう!」というのが正解である。しかし、現実はその真逆である。自らの行動を顧みるためには、例えば「放送法遵守を求める視聴者の会」からTBSの「News23」のアンカー、岸井成格氏に公開質問状が送られたが、先日の記者会見ではこの様な質問を「低俗」「品性のかけらもない」と語気を強めて切り捨てているようで、「まずは自らの行動を顧みて、正すべきことは正していこう!」というつもりは鼻から無いようである。これはジャーナリズムの自殺行為であると言わざるを得ない。

(3)放送法の背景を知る
過去にも私のブログで書いたが、テレビ放送の電波というのは無尽蔵な資源ではなく、限られた有限の周波数帯域を複数の事業者が分割してシェアをして利用しているのである。携帯電話の事業会社もそうだが、その電波資源で商売をしている訳であるから、その資源を独占できれば濡れ手に粟の商売が出来るのである。この傾向は同じ電波でもテレビ局に強く、テレビ局の社員の平均年収は他の業界に比べて圧倒的に高い。下記の記事にこの辺の事情が詳細に書かれている。

現代ビジネス「『電波停止』発言に反論できないテレビ局の弱み~政府は切り札を握っている~

例えば、河野太郎氏が2008年頃のブログに書いていた記事によると、日本のテレビ放送局の営業収益総額は3兆1150億円であるのに対し、電波利用料総額は34億円であったという。大雑把に言えば電波利用料の1000倍の収益を上げていることになる。金額が大きくてピンとこないが、たとえ話をしてみよう。

米作農家を例にとると分かり易いだろうか?まず、1ヘクタール当たりの米の収穫は豊作時で6000kg程度である。計算を単純にするために、仮に政府の買い取り価格が10kgで5000円であったとすると、6000kgで300万円の収入となる。3.3ヘクタールの土地を所有している農家の場合、売上高は1000万円となり、そのうちの3割が農薬や農機具などの経費だとする。この場合、大体、700万円の収入になる。3.3ヘクタールの土地というのは、概ね180m×180mの広大な土地であり、誰かからこれだけの土地を借りて農業をするとすれば、相当な借地料になるはずである。しかし、テレビ放送局は収益の1/1000の電波使用料で済んでいるので、180m四方の膨大な土地を、1000万円の1/1000の年間1万円でレンタルして農業をやっている状況に似ている。多分、180m四方の肥沃且つ膨大な土地を年間1万円でレンタルできるとすると、日本全国から膨大な数の応募があるに違いない。しかし、これを毎年、同じ人に繰り返し繰り返し貸し与えているのである。土地の持ち主が、「これだけ便宜を与えているのだから、地域の人が求めている農作物を安価で提供しなさい!」と条件を出しているのに、「うるさい!金儲けのためには外国で高値で売れる農産品を作るのが一番。何を作ろうと俺の勝手だ!」と逆切れし、さらに丁寧にお願いしても聞かないので「あまりにも酷かったら、農地の使用を禁止することもないとは言い切れませんよ!」と言ったら「権力を笠に着あがって、コノヤロー!」と徒党を組んで地主の家の前でシュプレヒコールを上げる…といった状況である。

ここまでくれば答えは簡単で、「自分の作りたいものを作るなら、オークションでレンタル金額を決めますよ!」とその土地を一般の人に開放すれば良いのである。その暁には、アメリカの様に放送法も廃止し、政治的公平性も求めないようにすることができる。放送局によって支持政党が異なるので、結果的に様々な意見を公平に聞き分けることが出来るようになる。しかし、既得権益を握る放送業界は表立っては動かず、左寄りの偏向した放送を支持するジャーナリストが代わって政府を糾弾し、これをテレビニュースで流すというのが現在の構図である。

(4)放送業界は委縮するのか?
この自称ジャーナリストの主張は「放送業界が委縮する」とのことなのだが、それは本当だろうか?私の理解では、放送業界には2種類の人がいて、確信犯的な左巻きの人と、概ね中道の人である。インターネットなどのメディアは別として、テレビ放送では右翼は生きていけない。中道の人は最初から「放送法を順守」する意識を持ち、全体のバランスを気にして番組作りをしている。この人たちは、政府からの「停波」の発言を聞いても委縮することはなく、「常識の範囲でやっている限りは停波を恐れる必要はない」と考えるはずである。一方、確信犯的な左巻きの人はどうかと言えば、確信犯だから「停波」と聞けば更に血が騒ぎ出し、委縮の真逆の反応を示すはずである。いずれにしても委縮することはありえない。あり得るのは、経営層が人事権を使って余りに酷い左巻きのプロデューサを更迭することだが、古賀事件などに代表される様に彼らの放送局に対する圧力は物凄く、更迭でもしようものなら返り血を浴びることにならざるを得ない。これは政府からの圧力とは真逆の圧力で、結果的にどちらの圧力の方が支配的なのかは分からない状況になっている。

では「放送業界が委縮することはないのか?」と聞かれればそんなことはない。我々も先日、天下のテレ朝が委縮した瞬間を垣間見ることが出来た。それは、安保法案が通った日だったと思う。過去のブログにも書いたと思うが、その日の「報道ステーション」は異様だった。それまでは、「放送法遵守を求める視聴者の会」の意見広告などにもあるように、報道ステーションなどでは90%を優に超える時間を割いて「法案反対!」を訴えてきた。街中での市民のインタビューでも反対だらけの報道だった。しかし、その日の放送はちょっと違った。私の記憶では、反対派が60%、賛成派の声も40%程度は拾って報道していた。「何が起きたのだろうか?」と思っていたら、スポンサーの高須クリニックの高須氏が、「こんな偏向は耐えられないからスポンサーを降りる!」と報道ステーションのスポンサーを降りてしまったのだ。ただ、テレ朝の別の番組のスポンサーに切り替えるとのことだったので、結果的にはテレ朝は大きな損失を被った訳ではない。単に、雪崩式にスポンサーを失いたくないので、流石にバランスを取ろうと自主的に行動を正したのである。

しかし、考えて頂きたい。政府に対し、「国家権力の介入は許さん!」と「我こそは正義!」と胸を張るならば、たったスポンサー1件が番組を降りたところで、自らの信念をあっさりと引き下げるのはおかしい。それこそ、「金儲けのためなら正義などあっさり捨てる!」と公言しているようなものである。これは、自らの報道の使命よりも金儲けの方が優先されると白状したようなもので、それは戦前の朝日新聞などの様に、金儲けのために好戦的な紙面を作り、国民を戦争に駆り立てたのと等価である。自称ジャーナリストなら、テレ朝のその様な裏切り行為にまずは非難の声を浴びせるべきであろう。それをしないのは、ある種の裏取引の様なものであり、論理的一貫性の破たんを表徴している。

(5)NHKへの圧力は良いのか?
NHKの予算は毎年、国会審議を経て決まるので、国会ではNHK会長が良く呼ばれて野党の議員につるし上げられている。この様な国会審議が必要な理由は放送法で定められているのだが、ここでの民主党などの恫喝行為は反吐が出るレベルのものである。お財布を握られているのでNHK会長も我慢せざるを得ないのだが、あそこまで堂々と圧力をかけてつるし上げて、ジャーナリストの端くれならば異を唱えないのであろうか?「番組に問題があるならBPOで審査するから、政治家は予算の使い道だけを審査して下さい!」と言っても良さそうなのだが、結局は左寄りの言い分だけがまかり通るのが現状である。この辺の整合性をジャーナリストには解説して頂きたいものである。

以上、色々と書かせて頂いたが、結局のところ、自称ジャーナリストの方々には首尾一貫した論理的な思想などなく、場当たり的なご都合主義で行動しているだけなのである。近年、左翼(サヨク)の劣化が激しいと言われるが、それは健全な民主主義にとっては悲劇でもある。早く、自らの行いに気づき、健全なジャーナリズムを志して欲しいものである。権力の監視と言う意味では、テレビや新聞と共に「ムラ社会」を形成している一部の言論人の発言も、我々は監視していかなければならないのではないか?

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます