今日は昨日に引き続き、安保法制についての「議論の仕方」の整理を行う。昨日整理した論点は(A)安保法制の合憲性に関する議論であったが、今日は(B)安保法制におけるリスクの考え方について整理することにする。(1)集団的自衛権に関する議論、(2)集団的安全保障に関する議論、の二つの切り口に関しては、基本は(1)集団的自衛権に関する議論をベースとするが、最後に(2)集団的安全保障に関する議論についても簡単に述べておく。続きは明日以降にしたい。
(B-1)安保法制におけるリスクの考え方 [集団的自衛権の場合]
まず、リスクというものの物の考え方を確認したい。数学的な「期待値」のアプローチでは、様々な事態が所定の確率で発生するとした場合、その様々な事態に起因したメリット、デメリット(例えば、経済効果を利益はプラスで、損失はマイナスでその金額を示す)があるとすると、全体的にどの程度の恩恵が期待できるかを計算するために、様々な事象の「発生確率」×「そのインパクト」の値を個別に算出し、それを全て加算した結果として安全保障的、ないしは経済的なインパクトとして評価する。リスクマネージメントでは、この期待値がプラス方向になるべく大きな値となる様に(ないしはマイナスになるならば、そのマイナスを最小限に食い止める様に)対応の仕方を管理する。
例えば(見積もりとしては非常に雑な議論で恐縮だが)、今回の福島原発事故の程度の事故の発生確率が1%で、その損失が総額で30兆円だとする。この場合、原発を再稼働して利用し続けるとなると、大雑把に100年に1回、30兆円の損失を出すことになる。一方、原発を止めるとこの30兆円は不要になるが、その代わりに100%の確率で毎年、1~3兆円の燃料費の高騰が期待される。最近は原油価格も安くなってきているし、LNGの価格も低下しているから一時の3兆円よりは大幅に安くなるが、それでも1兆円程度は見込まなければならない。控えめに見て、毎年1兆円が100年とすると、100年当たり100兆円の損失を計上することになる。さらに、CO2排出量が増加するのは避けられない。大幅に増大した状況で、発展途上国に対しCO2排出量を減らせと言っても説得力はないから、その影響で地球温暖化が進み、近年の豪雨による甚大な被害がさらに深刻化することが予想される。この影響を金額に見積もるのは困難だが、少なくとも半端な額でないのは確かだ。アメリカや中国が利己的な発言をする中で、日本の様な国が率先して見本を見せないのは、100年スケールの視点で見れば致命的である。
ここで、例えば太陽光発電をより普及させ、そこでCO2排出量を減らすことは可能かも知れない。しかし、そこまでドラスティックにCO2排出量が減るのであれば、高い価格に設定された電気の買い取り制度の影響で、各家庭の電気料金は少なくとも3倍程度に跳ね上がる。これまで、5,000円/月の家庭では15,000円/月に跳ね上がり、年間で12万円の支出増につながる。この影響を簡単に見積もってみよう。昨年、消費税が5%から8%になったことでそれまでのデフレ解消傾向が完全に逆戻りし、多くの経済指標が逆転した。電気料金が5,000円/月の家庭の消費支出が仮に200万円だとすると、3%の消費税増税は年間で6万円の支出増に相当する。ざっと2倍の影響だから、これが日本経済に与えるダメージは半端ではない。多くの家庭で買い物を控え、消費意欲が減退すれば、その経済効果を金額で表せば、年間数兆円のマイナスという結果に繋がるかも知れない。既に、高い太陽光発電の買い取り制度が導入済みだから、今更、原発を再稼働してもこのマイナスの半分ぐらいは織り込まざるを得ないかも知れないが、それでも残りの半分だけでも消費税増税効果並みのインパクトである。この対策で経済対策の財政出動を続ければ、日本としての財政破たんも現実的に近づいてくる。これらの経済効果を合わせれば、100年で30兆円などの金額の比ではない。
ただ、この様に言えば、放射性廃棄物の処理費用に膨大な金額が必要になると言われるかも知れない。しかし、その費用はここで原発を廃止したところで必要な費用であることは間違いない。世界中が対策のために知恵を絞っているが、その道筋をつけるための費用と、その道筋がついた後で、処理するべき量が少し増えた際の費用の増加とを比べれば、前者の費用が圧倒的で、後者の費用は相対的にも絶対的にも小さい。ここで、安全が確認された原発を限定的に再稼働することにより増大する支出は上述の経済的な影響に比べれば微々たるものであろう。
以上は原発に対するリスクの評価である。これと同様のことを安全保障の世界にも適用すべきである。即ち、安保法制を制定することでアメリカの戦争に巻き込まれる可能性が、今後、30年の間で10%程度の確率で発生し、そこで自衛隊員が1000人程度、亡くなると仮定しよう。実際には安全を確保し、後方支援に徹するはずだから、この1000人というのは少々過大評価しているが、取りあえずそこには目を瞑る。結果として期待値は、確率の10%を乗算すると、30年で100人の自衛隊員が死亡する計算になる。一方で安保法制を導入しない場合、中国は益々、東シナ海での影響力を行使し、尖閣諸島で局所戦が勃発する可能性は格段に高まり、今後30年で考えれば、どう少なく見積もっても50%は超えるだろう。日本があっさり尖閣を放棄すれば話は別だが、尖閣を死守しようとすれば、楽勝で1000人規模の自衛隊員が死ぬことになるだろう。期待値で見れば30年で500人ということになる。しかし、尖閣を中国が占領することになると、次は沖縄が狙われるのは間違いない。狙いは沖縄のクリミア化である。米軍基地がある限りは本格的な戦闘になる可能性は低いが、石垣島などの米軍基地のない島々に侵攻する可能性は否定できず、この際には多くの民間人に犠牲者が出ることになる。アメリカの戦争に巻き込まれる際のシナリオでは、日本経済に致命的な影響が出る可能性は極めて低いが、中国との戦争が勃発すれば、経済的な破たんがそこら中で起きてもおかしくない。世界経済全体の停滞にも繋がりかねない。その被害は直接的人的被害とは異なるが、インパクトの大きさでは勝るとも劣らないものである。これらを全て見込まねばならない。
なお、アメリカの戦争に巻き込まれる際のシナリオには、「集団的自衛権」行使に伴う場合と「集団的安全保障」を行う場合のシナリオが存在する。以上の議論はその両方を包含する場合についての議論であるが、「集団的自衛権」行使に伴う場合のみに限定して、若干説明を加えておく。
朝鮮半島有事の場合の議論では、北朝鮮が日本に対する攻撃意志が全くない場合において、北朝鮮が攻撃を仕掛けるアメリカの艦船を自衛隊の艦船が助けようとすると、野党側は自衛隊の艦船も危うくするとしていたが、米軍基地が日本国内にこれだけある以上、別に直接的な攻撃行動を取るか取らないかに関わらず、実質的に北朝鮮は日本が参戦したものと見なすのは間違いない。北朝鮮が様々なミサイル兵器を持っているならば、日本国内の米軍基地も攻撃対象とするのは目に見えており、そこに攻撃を仕掛けると、自動的に日本は個別的自衛権の行使が可能な状態となり、実質的に北朝鮮と戦争状態となる。上述の自衛隊員のリスクに関する議論では、「集団的自衛権」行使に伴うリスクだけを議論していたが、そこで「集団的自衛権」を行使せずとも、在日米軍への基地の供与は既に北朝鮮的には「集団的自衛権」の行使にしか見えないから、自動的に個別的自衛権の行使による北朝鮮との戦争状態が勃発する。「自衛隊員のリスク」という視点、ないしは日本国民のリスクと言っても良いが、そのリスクは「集団的自衛権」だろうが「個別的自衛権」だろうが、結局は同様に危険な状態となるため、その説明に「集団的自衛権」を使おうが「個別的自衛権」を使おうが、全く、同レベルでの危機がそこに生じうるのである。野党やマスコミの議論はこの「個別的自衛権」によるリスクは全く目を瞑るとしている時点で日本国民の安全を既に無視した議論である。また、自民党の小野寺五典元防衛相が参議院での質疑で発言していたが、彼が防衛大臣の時に自衛隊員に問いただした答えとして、自衛隊員は、日本海で米軍艦船が北朝鮮からの攻撃を受けた場合、現行法で米軍の艦船を守るためには、敵のミサイルの衝突コースに自らの艦船を進め、強制的に「個別的自衛権」が使える環境に自らの身を置いて、日米安保が破たんする事態を防がざるを得ないと答えていたそうである。防御の為に有効な手段は、自らの艦船を敵ミサイルからの衝突回避行動を取りながら、同時に敵の艦船を攻撃するのが基本であるはずだが、わざわざ衝突コースに艦を進めなければならないならば、それは自衛隊員のリスクに通じる。上記の行動は日本国憲法にも自衛隊法などの現行法規にも反するものではないから、多分、現状では自衛隊員は同様の行動を取ることになるだろう。この様な事をせざるを得ない自衛隊員のリスクを考えれば、寧ろ安保法制が成立した方が自衛隊員のリスクは低減できることになる。少々極端な例だが、仮に自衛隊員が命を落とすことになった時、集団的自衛権の行使に伴い敵艦船に攻撃されて命を落としたとしても、自衛隊員の家族はそれなりの覚悟でその事実を受け止めるはずである。しかし、わざわざ衝突コースに艦を進めて被弾して死亡した場合には、悔やんでも悔やみきれない状況になるのは間違いない。もし安保法制が成立せずに、この様な事態になった場合、野党やマスコミはその責任を自らのものと受け止める訳がない。「ほうらみろ、衝突コースに艦を進める方が馬鹿なんだよ!自業自得だ!」と言って自己弁護するのは目に見えているが、その声を聞いた自衛隊の遺族はどの様に考えるのだろうか?野党国会議員、マスコミの無責任さを糾弾するのは間違いない。そどうせ自衛隊員のリスクを議論するなら、こまでを考えて議論して欲しい。
(B-2)安保法制におけるリスクの考え方 [集団的安全保障の場合]
以下では、安保法制の中の安全保障関連に限定して追加で議論してみる。
「集団的安全保障」に関わる自衛隊員のリスクとは何か?現行の法規では、自衛隊員はPKOで派遣される先において、正当防衛以外の形での戦闘行為を認めておられず、そのため、携行する銃火器は極めて軽微なものである。しかし、敵の方はロケット砲まで持っているのだから、はっきり言って幼稚園生と大人の喧嘩の様な差であるのは間違いない。それで幼稚園生が自分の身を守ることができるかと言えば、守れる可能性は極めて低いだろう。必然的に、自分の身を守るためには、誰か別の国の軍隊に守ってもらうしかない。
実は先日、この集団的安全保障の行動を日本の自衛隊は取ることになった。
産経ニュース2015年3月12日「【政治デスクノート】違法まがい『韓国軍への銃弾提供』は批判せず、安保法制見直し批判“神学論争”に終始する野党の不思議」
これは、南スーダンでPKO活動に参加している陸上自衛隊が、現地で活動する韓国軍に銃弾1万発を無償提供したことに関する話題であるが、ここに説明してある様に、PKO協力法の明文化された規定では直接は違法ではないが、法案の制定過程での国会質疑で「武器・弾薬については要請されても提供しない」としていたので、この意味では違法性が高い事案だ。しかも武器輸出三原則に対しては確実に逸脱した行為だから、安倍政権はわざわざ閣議決定により半ば超法規的緊急事態として「武器輸出三原則の例外措置」を宣言することになった。思考実験であるが、ここで銃弾の供与をせずに韓国兵が死に至ったと仮定する。その後、日本のPKO部隊がゲリラに襲われた時、たまたま近くにいたのが韓国軍だとして、彼らが日本の自衛隊を救援に来てくれるかと言えば、相当疑わしいと言わざるを得ない。もう少し正確に言えば、近くまで救援には来るが、命を張ってまで敵と戦おうとはせずに傍観する事態が容易に想像できる。これは韓国軍だけではない。仮に何処かの軍隊が救援に来て、その軍隊で死傷者が出た場合、その次の駆けつけ警護に支障が及ぶのは容易に想像できる。国際世論として、「自分の身も守れないなら、こんな場所にノコノコ出て来るんじゃねぇー!」と言われるのが関の山である。
ところで日本国憲法の前文には以下の様な記述がある。
==============
日本国憲法 前文
(・・・前略・・・)
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
==============
日本国憲法に違反しないためには、日本国政府はPKO活動を必要とする諸外国に対して「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」のであって、それを実行することは日本国政府の「責務」であると明言している。しかし、この日本国憲法前文を行動で示そうとすると、十分な武器を持たなければ自衛隊員のリスクは計り知れない。しかし、野党もマスコミもこの様なリスクをまともに議論しようとはしない。それは、議論すれば必ず負けてしまうからである。絶対に、その様な話で国民の理解を得ることは出来ない。多くの国民は、自衛隊のPKO活動を支持している。東日本大震災で米軍がトモダチ作戦と称して多くの日本人の命を救ったのは記憶に新しい。それは災害だけでなく、世界中には他国の軍隊の助けを求めている国々が沢山ある。しかし、その助けの背後には、その助けを快く思わない集団が当然ながら存在する。だからこそ、国際社会が一致団結することが必要であり、今後の手段安全保障の在り方を議論する必要がある。しかし、その様な集団安全保障はには協力はしないが、その恩恵だけは被りたいというのが野党やマスコミの考え方である。
その様な考え方は、将来に大きなリスクをもたらせはしないだろうか?真面目にマスコミに問うてみたい。
・・・続く・・・
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(B-1)安保法制におけるリスクの考え方 [集団的自衛権の場合]
まず、リスクというものの物の考え方を確認したい。数学的な「期待値」のアプローチでは、様々な事態が所定の確率で発生するとした場合、その様々な事態に起因したメリット、デメリット(例えば、経済効果を利益はプラスで、損失はマイナスでその金額を示す)があるとすると、全体的にどの程度の恩恵が期待できるかを計算するために、様々な事象の「発生確率」×「そのインパクト」の値を個別に算出し、それを全て加算した結果として安全保障的、ないしは経済的なインパクトとして評価する。リスクマネージメントでは、この期待値がプラス方向になるべく大きな値となる様に(ないしはマイナスになるならば、そのマイナスを最小限に食い止める様に)対応の仕方を管理する。
例えば(見積もりとしては非常に雑な議論で恐縮だが)、今回の福島原発事故の程度の事故の発生確率が1%で、その損失が総額で30兆円だとする。この場合、原発を再稼働して利用し続けるとなると、大雑把に100年に1回、30兆円の損失を出すことになる。一方、原発を止めるとこの30兆円は不要になるが、その代わりに100%の確率で毎年、1~3兆円の燃料費の高騰が期待される。最近は原油価格も安くなってきているし、LNGの価格も低下しているから一時の3兆円よりは大幅に安くなるが、それでも1兆円程度は見込まなければならない。控えめに見て、毎年1兆円が100年とすると、100年当たり100兆円の損失を計上することになる。さらに、CO2排出量が増加するのは避けられない。大幅に増大した状況で、発展途上国に対しCO2排出量を減らせと言っても説得力はないから、その影響で地球温暖化が進み、近年の豪雨による甚大な被害がさらに深刻化することが予想される。この影響を金額に見積もるのは困難だが、少なくとも半端な額でないのは確かだ。アメリカや中国が利己的な発言をする中で、日本の様な国が率先して見本を見せないのは、100年スケールの視点で見れば致命的である。
ここで、例えば太陽光発電をより普及させ、そこでCO2排出量を減らすことは可能かも知れない。しかし、そこまでドラスティックにCO2排出量が減るのであれば、高い価格に設定された電気の買い取り制度の影響で、各家庭の電気料金は少なくとも3倍程度に跳ね上がる。これまで、5,000円/月の家庭では15,000円/月に跳ね上がり、年間で12万円の支出増につながる。この影響を簡単に見積もってみよう。昨年、消費税が5%から8%になったことでそれまでのデフレ解消傾向が完全に逆戻りし、多くの経済指標が逆転した。電気料金が5,000円/月の家庭の消費支出が仮に200万円だとすると、3%の消費税増税は年間で6万円の支出増に相当する。ざっと2倍の影響だから、これが日本経済に与えるダメージは半端ではない。多くの家庭で買い物を控え、消費意欲が減退すれば、その経済効果を金額で表せば、年間数兆円のマイナスという結果に繋がるかも知れない。既に、高い太陽光発電の買い取り制度が導入済みだから、今更、原発を再稼働してもこのマイナスの半分ぐらいは織り込まざるを得ないかも知れないが、それでも残りの半分だけでも消費税増税効果並みのインパクトである。この対策で経済対策の財政出動を続ければ、日本としての財政破たんも現実的に近づいてくる。これらの経済効果を合わせれば、100年で30兆円などの金額の比ではない。
ただ、この様に言えば、放射性廃棄物の処理費用に膨大な金額が必要になると言われるかも知れない。しかし、その費用はここで原発を廃止したところで必要な費用であることは間違いない。世界中が対策のために知恵を絞っているが、その道筋をつけるための費用と、その道筋がついた後で、処理するべき量が少し増えた際の費用の増加とを比べれば、前者の費用が圧倒的で、後者の費用は相対的にも絶対的にも小さい。ここで、安全が確認された原発を限定的に再稼働することにより増大する支出は上述の経済的な影響に比べれば微々たるものであろう。
以上は原発に対するリスクの評価である。これと同様のことを安全保障の世界にも適用すべきである。即ち、安保法制を制定することでアメリカの戦争に巻き込まれる可能性が、今後、30年の間で10%程度の確率で発生し、そこで自衛隊員が1000人程度、亡くなると仮定しよう。実際には安全を確保し、後方支援に徹するはずだから、この1000人というのは少々過大評価しているが、取りあえずそこには目を瞑る。結果として期待値は、確率の10%を乗算すると、30年で100人の自衛隊員が死亡する計算になる。一方で安保法制を導入しない場合、中国は益々、東シナ海での影響力を行使し、尖閣諸島で局所戦が勃発する可能性は格段に高まり、今後30年で考えれば、どう少なく見積もっても50%は超えるだろう。日本があっさり尖閣を放棄すれば話は別だが、尖閣を死守しようとすれば、楽勝で1000人規模の自衛隊員が死ぬことになるだろう。期待値で見れば30年で500人ということになる。しかし、尖閣を中国が占領することになると、次は沖縄が狙われるのは間違いない。狙いは沖縄のクリミア化である。米軍基地がある限りは本格的な戦闘になる可能性は低いが、石垣島などの米軍基地のない島々に侵攻する可能性は否定できず、この際には多くの民間人に犠牲者が出ることになる。アメリカの戦争に巻き込まれる際のシナリオでは、日本経済に致命的な影響が出る可能性は極めて低いが、中国との戦争が勃発すれば、経済的な破たんがそこら中で起きてもおかしくない。世界経済全体の停滞にも繋がりかねない。その被害は直接的人的被害とは異なるが、インパクトの大きさでは勝るとも劣らないものである。これらを全て見込まねばならない。
なお、アメリカの戦争に巻き込まれる際のシナリオには、「集団的自衛権」行使に伴う場合と「集団的安全保障」を行う場合のシナリオが存在する。以上の議論はその両方を包含する場合についての議論であるが、「集団的自衛権」行使に伴う場合のみに限定して、若干説明を加えておく。
朝鮮半島有事の場合の議論では、北朝鮮が日本に対する攻撃意志が全くない場合において、北朝鮮が攻撃を仕掛けるアメリカの艦船を自衛隊の艦船が助けようとすると、野党側は自衛隊の艦船も危うくするとしていたが、米軍基地が日本国内にこれだけある以上、別に直接的な攻撃行動を取るか取らないかに関わらず、実質的に北朝鮮は日本が参戦したものと見なすのは間違いない。北朝鮮が様々なミサイル兵器を持っているならば、日本国内の米軍基地も攻撃対象とするのは目に見えており、そこに攻撃を仕掛けると、自動的に日本は個別的自衛権の行使が可能な状態となり、実質的に北朝鮮と戦争状態となる。上述の自衛隊員のリスクに関する議論では、「集団的自衛権」行使に伴うリスクだけを議論していたが、そこで「集団的自衛権」を行使せずとも、在日米軍への基地の供与は既に北朝鮮的には「集団的自衛権」の行使にしか見えないから、自動的に個別的自衛権の行使による北朝鮮との戦争状態が勃発する。「自衛隊員のリスク」という視点、ないしは日本国民のリスクと言っても良いが、そのリスクは「集団的自衛権」だろうが「個別的自衛権」だろうが、結局は同様に危険な状態となるため、その説明に「集団的自衛権」を使おうが「個別的自衛権」を使おうが、全く、同レベルでの危機がそこに生じうるのである。野党やマスコミの議論はこの「個別的自衛権」によるリスクは全く目を瞑るとしている時点で日本国民の安全を既に無視した議論である。また、自民党の小野寺五典元防衛相が参議院での質疑で発言していたが、彼が防衛大臣の時に自衛隊員に問いただした答えとして、自衛隊員は、日本海で米軍艦船が北朝鮮からの攻撃を受けた場合、現行法で米軍の艦船を守るためには、敵のミサイルの衝突コースに自らの艦船を進め、強制的に「個別的自衛権」が使える環境に自らの身を置いて、日米安保が破たんする事態を防がざるを得ないと答えていたそうである。防御の為に有効な手段は、自らの艦船を敵ミサイルからの衝突回避行動を取りながら、同時に敵の艦船を攻撃するのが基本であるはずだが、わざわざ衝突コースに艦を進めなければならないならば、それは自衛隊員のリスクに通じる。上記の行動は日本国憲法にも自衛隊法などの現行法規にも反するものではないから、多分、現状では自衛隊員は同様の行動を取ることになるだろう。この様な事をせざるを得ない自衛隊員のリスクを考えれば、寧ろ安保法制が成立した方が自衛隊員のリスクは低減できることになる。少々極端な例だが、仮に自衛隊員が命を落とすことになった時、集団的自衛権の行使に伴い敵艦船に攻撃されて命を落としたとしても、自衛隊員の家族はそれなりの覚悟でその事実を受け止めるはずである。しかし、わざわざ衝突コースに艦を進めて被弾して死亡した場合には、悔やんでも悔やみきれない状況になるのは間違いない。もし安保法制が成立せずに、この様な事態になった場合、野党やマスコミはその責任を自らのものと受け止める訳がない。「ほうらみろ、衝突コースに艦を進める方が馬鹿なんだよ!自業自得だ!」と言って自己弁護するのは目に見えているが、その声を聞いた自衛隊の遺族はどの様に考えるのだろうか?野党国会議員、マスコミの無責任さを糾弾するのは間違いない。そどうせ自衛隊員のリスクを議論するなら、こまでを考えて議論して欲しい。
(B-2)安保法制におけるリスクの考え方 [集団的安全保障の場合]
以下では、安保法制の中の安全保障関連に限定して追加で議論してみる。
「集団的安全保障」に関わる自衛隊員のリスクとは何か?現行の法規では、自衛隊員はPKOで派遣される先において、正当防衛以外の形での戦闘行為を認めておられず、そのため、携行する銃火器は極めて軽微なものである。しかし、敵の方はロケット砲まで持っているのだから、はっきり言って幼稚園生と大人の喧嘩の様な差であるのは間違いない。それで幼稚園生が自分の身を守ることができるかと言えば、守れる可能性は極めて低いだろう。必然的に、自分の身を守るためには、誰か別の国の軍隊に守ってもらうしかない。
実は先日、この集団的安全保障の行動を日本の自衛隊は取ることになった。
産経ニュース2015年3月12日「【政治デスクノート】違法まがい『韓国軍への銃弾提供』は批判せず、安保法制見直し批判“神学論争”に終始する野党の不思議」
これは、南スーダンでPKO活動に参加している陸上自衛隊が、現地で活動する韓国軍に銃弾1万発を無償提供したことに関する話題であるが、ここに説明してある様に、PKO協力法の明文化された規定では直接は違法ではないが、法案の制定過程での国会質疑で「武器・弾薬については要請されても提供しない」としていたので、この意味では違法性が高い事案だ。しかも武器輸出三原則に対しては確実に逸脱した行為だから、安倍政権はわざわざ閣議決定により半ば超法規的緊急事態として「武器輸出三原則の例外措置」を宣言することになった。思考実験であるが、ここで銃弾の供与をせずに韓国兵が死に至ったと仮定する。その後、日本のPKO部隊がゲリラに襲われた時、たまたま近くにいたのが韓国軍だとして、彼らが日本の自衛隊を救援に来てくれるかと言えば、相当疑わしいと言わざるを得ない。もう少し正確に言えば、近くまで救援には来るが、命を張ってまで敵と戦おうとはせずに傍観する事態が容易に想像できる。これは韓国軍だけではない。仮に何処かの軍隊が救援に来て、その軍隊で死傷者が出た場合、その次の駆けつけ警護に支障が及ぶのは容易に想像できる。国際世論として、「自分の身も守れないなら、こんな場所にノコノコ出て来るんじゃねぇー!」と言われるのが関の山である。
ところで日本国憲法の前文には以下の様な記述がある。
==============
日本国憲法 前文
(・・・前略・・・)
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
==============
日本国憲法に違反しないためには、日本国政府はPKO活動を必要とする諸外国に対して「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」のであって、それを実行することは日本国政府の「責務」であると明言している。しかし、この日本国憲法前文を行動で示そうとすると、十分な武器を持たなければ自衛隊員のリスクは計り知れない。しかし、野党もマスコミもこの様なリスクをまともに議論しようとはしない。それは、議論すれば必ず負けてしまうからである。絶対に、その様な話で国民の理解を得ることは出来ない。多くの国民は、自衛隊のPKO活動を支持している。東日本大震災で米軍がトモダチ作戦と称して多くの日本人の命を救ったのは記憶に新しい。それは災害だけでなく、世界中には他国の軍隊の助けを求めている国々が沢山ある。しかし、その助けの背後には、その助けを快く思わない集団が当然ながら存在する。だからこそ、国際社会が一致団結することが必要であり、今後の手段安全保障の在り方を議論する必要がある。しかし、その様な集団安全保障はには協力はしないが、その恩恵だけは被りたいというのが野党やマスコミの考え方である。
その様な考え方は、将来に大きなリスクをもたらせはしないだろうか?真面目にマスコミに問うてみたい。
・・・続く・・・
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