けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

今更ながらの安保法制の論点の切り分け~その2~

2015-10-04 23:07:46 | 政治
今日は昨日に引き続き、安保法制についての「議論の仕方」の整理を行う。昨日整理した論点は(A)安保法制の合憲性に関する議論であったが、今日は(B)安保法制におけるリスクの考え方について整理することにする。(1)集団的自衛権に関する議論、(2)集団的安全保障に関する議論、の二つの切り口に関しては、基本は(1)集団的自衛権に関する議論をベースとするが、最後に(2)集団的安全保障に関する議論についても簡単に述べておく。続きは明日以降にしたい。

(B-1)安保法制におけるリスクの考え方 [集団的自衛権の場合]
まず、リスクというものの物の考え方を確認したい。数学的な「期待値」のアプローチでは、様々な事態が所定の確率で発生するとした場合、その様々な事態に起因したメリット、デメリット(例えば、経済効果を利益はプラスで、損失はマイナスでその金額を示す)があるとすると、全体的にどの程度の恩恵が期待できるかを計算するために、様々な事象の「発生確率」×「そのインパクト」の値を個別に算出し、それを全て加算した結果として安全保障的、ないしは経済的なインパクトとして評価する。リスクマネージメントでは、この期待値がプラス方向になるべく大きな値となる様に(ないしはマイナスになるならば、そのマイナスを最小限に食い止める様に)対応の仕方を管理する。

例えば(見積もりとしては非常に雑な議論で恐縮だが)、今回の福島原発事故の程度の事故の発生確率が1%で、その損失が総額で30兆円だとする。この場合、原発を再稼働して利用し続けるとなると、大雑把に100年に1回、30兆円の損失を出すことになる。一方、原発を止めるとこの30兆円は不要になるが、その代わりに100%の確率で毎年、1~3兆円の燃料費の高騰が期待される。最近は原油価格も安くなってきているし、LNGの価格も低下しているから一時の3兆円よりは大幅に安くなるが、それでも1兆円程度は見込まなければならない。控えめに見て、毎年1兆円が100年とすると、100年当たり100兆円の損失を計上することになる。さらに、CO2排出量が増加するのは避けられない。大幅に増大した状況で、発展途上国に対しCO2排出量を減らせと言っても説得力はないから、その影響で地球温暖化が進み、近年の豪雨による甚大な被害がさらに深刻化することが予想される。この影響を金額に見積もるのは困難だが、少なくとも半端な額でないのは確かだ。アメリカや中国が利己的な発言をする中で、日本の様な国が率先して見本を見せないのは、100年スケールの視点で見れば致命的である。

ここで、例えば太陽光発電をより普及させ、そこでCO2排出量を減らすことは可能かも知れない。しかし、そこまでドラスティックにCO2排出量が減るのであれば、高い価格に設定された電気の買い取り制度の影響で、各家庭の電気料金は少なくとも3倍程度に跳ね上がる。これまで、5,000円/月の家庭では15,000円/月に跳ね上がり、年間で12万円の支出増につながる。この影響を簡単に見積もってみよう。昨年、消費税が5%から8%になったことでそれまでのデフレ解消傾向が完全に逆戻りし、多くの経済指標が逆転した。電気料金が5,000円/月の家庭の消費支出が仮に200万円だとすると、3%の消費税増税は年間で6万円の支出増に相当する。ざっと2倍の影響だから、これが日本経済に与えるダメージは半端ではない。多くの家庭で買い物を控え、消費意欲が減退すれば、その経済効果を金額で表せば、年間数兆円のマイナスという結果に繋がるかも知れない。既に、高い太陽光発電の買い取り制度が導入済みだから、今更、原発を再稼働してもこのマイナスの半分ぐらいは織り込まざるを得ないかも知れないが、それでも残りの半分だけでも消費税増税効果並みのインパクトである。この対策で経済対策の財政出動を続ければ、日本としての財政破たんも現実的に近づいてくる。これらの経済効果を合わせれば、100年で30兆円などの金額の比ではない。

ただ、この様に言えば、放射性廃棄物の処理費用に膨大な金額が必要になると言われるかも知れない。しかし、その費用はここで原発を廃止したところで必要な費用であることは間違いない。世界中が対策のために知恵を絞っているが、その道筋をつけるための費用と、その道筋がついた後で、処理するべき量が少し増えた際の費用の増加とを比べれば、前者の費用が圧倒的で、後者の費用は相対的にも絶対的にも小さい。ここで、安全が確認された原発を限定的に再稼働することにより増大する支出は上述の経済的な影響に比べれば微々たるものであろう。

以上は原発に対するリスクの評価である。これと同様のことを安全保障の世界にも適用すべきである。即ち、安保法制を制定することでアメリカの戦争に巻き込まれる可能性が、今後、30年の間で10%程度の確率で発生し、そこで自衛隊員が1000人程度、亡くなると仮定しよう。実際には安全を確保し、後方支援に徹するはずだから、この1000人というのは少々過大評価しているが、取りあえずそこには目を瞑る。結果として期待値は、確率の10%を乗算すると、30年で100人の自衛隊員が死亡する計算になる。一方で安保法制を導入しない場合、中国は益々、東シナ海での影響力を行使し、尖閣諸島で局所戦が勃発する可能性は格段に高まり、今後30年で考えれば、どう少なく見積もっても50%は超えるだろう。日本があっさり尖閣を放棄すれば話は別だが、尖閣を死守しようとすれば、楽勝で1000人規模の自衛隊員が死ぬことになるだろう。期待値で見れば30年で500人ということになる。しかし、尖閣を中国が占領することになると、次は沖縄が狙われるのは間違いない。狙いは沖縄のクリミア化である。米軍基地がある限りは本格的な戦闘になる可能性は低いが、石垣島などの米軍基地のない島々に侵攻する可能性は否定できず、この際には多くの民間人に犠牲者が出ることになる。アメリカの戦争に巻き込まれる際のシナリオでは、日本経済に致命的な影響が出る可能性は極めて低いが、中国との戦争が勃発すれば、経済的な破たんがそこら中で起きてもおかしくない。世界経済全体の停滞にも繋がりかねない。その被害は直接的人的被害とは異なるが、インパクトの大きさでは勝るとも劣らないものである。これらを全て見込まねばならない。

なお、アメリカの戦争に巻き込まれる際のシナリオには、「集団的自衛権」行使に伴う場合と「集団的安全保障」を行う場合のシナリオが存在する。以上の議論はその両方を包含する場合についての議論であるが、「集団的自衛権」行使に伴う場合のみに限定して、若干説明を加えておく。

朝鮮半島有事の場合の議論では、北朝鮮が日本に対する攻撃意志が全くない場合において、北朝鮮が攻撃を仕掛けるアメリカの艦船を自衛隊の艦船が助けようとすると、野党側は自衛隊の艦船も危うくするとしていたが、米軍基地が日本国内にこれだけある以上、別に直接的な攻撃行動を取るか取らないかに関わらず、実質的に北朝鮮は日本が参戦したものと見なすのは間違いない。北朝鮮が様々なミサイル兵器を持っているならば、日本国内の米軍基地も攻撃対象とするのは目に見えており、そこに攻撃を仕掛けると、自動的に日本は個別的自衛権の行使が可能な状態となり、実質的に北朝鮮と戦争状態となる。上述の自衛隊員のリスクに関する議論では、「集団的自衛権」行使に伴うリスクだけを議論していたが、そこで「集団的自衛権」を行使せずとも、在日米軍への基地の供与は既に北朝鮮的には「集団的自衛権」の行使にしか見えないから、自動的に個別的自衛権の行使による北朝鮮との戦争状態が勃発する。「自衛隊員のリスク」という視点、ないしは日本国民のリスクと言っても良いが、そのリスクは「集団的自衛権」だろうが「個別的自衛権」だろうが、結局は同様に危険な状態となるため、その説明に「集団的自衛権」を使おうが「個別的自衛権」を使おうが、全く、同レベルでの危機がそこに生じうるのである。野党やマスコミの議論はこの「個別的自衛権」によるリスクは全く目を瞑るとしている時点で日本国民の安全を既に無視した議論である。また、自民党の小野寺五典元防衛相が参議院での質疑で発言していたが、彼が防衛大臣の時に自衛隊員に問いただした答えとして、自衛隊員は、日本海で米軍艦船が北朝鮮からの攻撃を受けた場合、現行法で米軍の艦船を守るためには、敵のミサイルの衝突コースに自らの艦船を進め、強制的に「個別的自衛権」が使える環境に自らの身を置いて、日米安保が破たんする事態を防がざるを得ないと答えていたそうである。防御の為に有効な手段は、自らの艦船を敵ミサイルからの衝突回避行動を取りながら、同時に敵の艦船を攻撃するのが基本であるはずだが、わざわざ衝突コースに艦を進めなければならないならば、それは自衛隊員のリスクに通じる。上記の行動は日本国憲法にも自衛隊法などの現行法規にも反するものではないから、多分、現状では自衛隊員は同様の行動を取ることになるだろう。この様な事をせざるを得ない自衛隊員のリスクを考えれば、寧ろ安保法制が成立した方が自衛隊員のリスクは低減できることになる。少々極端な例だが、仮に自衛隊員が命を落とすことになった時、集団的自衛権の行使に伴い敵艦船に攻撃されて命を落としたとしても、自衛隊員の家族はそれなりの覚悟でその事実を受け止めるはずである。しかし、わざわざ衝突コースに艦を進めて被弾して死亡した場合には、悔やんでも悔やみきれない状況になるのは間違いない。もし安保法制が成立せずに、この様な事態になった場合、野党やマスコミはその責任を自らのものと受け止める訳がない。「ほうらみろ、衝突コースに艦を進める方が馬鹿なんだよ!自業自得だ!」と言って自己弁護するのは目に見えているが、その声を聞いた自衛隊の遺族はどの様に考えるのだろうか?野党国会議員、マスコミの無責任さを糾弾するのは間違いない。そどうせ自衛隊員のリスクを議論するなら、こまでを考えて議論して欲しい。

(B-2)安保法制におけるリスクの考え方 [集団的安全保障の場合]
以下では、安保法制の中の安全保障関連に限定して追加で議論してみる。

「集団的安全保障」に関わる自衛隊員のリスクとは何か?現行の法規では、自衛隊員はPKOで派遣される先において、正当防衛以外の形での戦闘行為を認めておられず、そのため、携行する銃火器は極めて軽微なものである。しかし、敵の方はロケット砲まで持っているのだから、はっきり言って幼稚園生と大人の喧嘩の様な差であるのは間違いない。それで幼稚園生が自分の身を守ることができるかと言えば、守れる可能性は極めて低いだろう。必然的に、自分の身を守るためには、誰か別の国の軍隊に守ってもらうしかない。

実は先日、この集団的安全保障の行動を日本の自衛隊は取ることになった。

産経ニュース2015年3月12日「【政治デスクノート】違法まがい『韓国軍への銃弾提供』は批判せず、安保法制見直し批判“神学論争”に終始する野党の不思議

これは、南スーダンでPKO活動に参加している陸上自衛隊が、現地で活動する韓国軍に銃弾1万発を無償提供したことに関する話題であるが、ここに説明してある様に、PKO協力法の明文化された規定では直接は違法ではないが、法案の制定過程での国会質疑で「武器・弾薬については要請されても提供しない」としていたので、この意味では違法性が高い事案だ。しかも武器輸出三原則に対しては確実に逸脱した行為だから、安倍政権はわざわざ閣議決定により半ば超法規的緊急事態として「武器輸出三原則の例外措置」を宣言することになった。思考実験であるが、ここで銃弾の供与をせずに韓国兵が死に至ったと仮定する。その後、日本のPKO部隊がゲリラに襲われた時、たまたま近くにいたのが韓国軍だとして、彼らが日本の自衛隊を救援に来てくれるかと言えば、相当疑わしいと言わざるを得ない。もう少し正確に言えば、近くまで救援には来るが、命を張ってまで敵と戦おうとはせずに傍観する事態が容易に想像できる。これは韓国軍だけではない。仮に何処かの軍隊が救援に来て、その軍隊で死傷者が出た場合、その次の駆けつけ警護に支障が及ぶのは容易に想像できる。国際世論として、「自分の身も守れないなら、こんな場所にノコノコ出て来るんじゃねぇー!」と言われるのが関の山である。

ところで日本国憲法の前文には以下の様な記述がある。

==============
日本国憲法 前文
(・・・前略・・・)
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
==============

日本国憲法に違反しないためには、日本国政府はPKO活動を必要とする諸外国に対して「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」のであって、それを実行することは日本国政府の「責務」であると明言している。しかし、この日本国憲法前文を行動で示そうとすると、十分な武器を持たなければ自衛隊員のリスクは計り知れない。しかし、野党もマスコミもこの様なリスクをまともに議論しようとはしない。それは、議論すれば必ず負けてしまうからである。絶対に、その様な話で国民の理解を得ることは出来ない。多くの国民は、自衛隊のPKO活動を支持している。東日本大震災で米軍がトモダチ作戦と称して多くの日本人の命を救ったのは記憶に新しい。それは災害だけでなく、世界中には他国の軍隊の助けを求めている国々が沢山ある。しかし、その助けの背後には、その助けを快く思わない集団が当然ながら存在する。だからこそ、国際社会が一致団結することが必要であり、今後の手段安全保障の在り方を議論する必要がある。しかし、その様な集団安全保障はには協力はしないが、その恩恵だけは被りたいというのが野党やマスコミの考え方である。

その様な考え方は、将来に大きなリスクをもたらせはしないだろうか?真面目にマスコミに問うてみたい。

・・・続く・・・

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今更ながらの安保法制の論点の切り分け~その1~

2015-10-03 22:15:56 | 政治
今更ながらの話題であるが、これまでの反省の意味を込めて、安保法制についての「議論の仕方」の私なりの整理してみたい。

まず第1に重要なのは、論点を切り分けることである。その論点とは、大きくは(A)安保法制の合憲性に関する議論、(B)安保法制におけるリスクの考え方、(C)安保法制における歯止めのかけ方、の3点である。更にもう一つの切り口として、(1)集団的自衛権に関する議論、(2)集団的安全保障に関する議論、の二つがある。これらの組み合わせで3×2のマトリックスを作れるが、ある部分は共通の議論になるかも知れない。その辺は整理して順番に議論すべきである。

なお、書いていたらそれなりの量になりそうなことが分かったので、今日はその一部のみを書き、続きは明日以降にしたい。まずは(A)と(1)の組み合わせについて・・・。

(A-1) 安保法制の合憲性に関する議論 [集団的自衛権の場合]
まず、先日のブログにも書いたが、砂川判決のポイントは、最高裁は高度に政治的な議題に対しては行為統治論を採用し、仮にそこで議論が分かれる様なことがあっても、「一見してきわめて明白に違憲無効と認められない」法案や行為は「違憲」とは見なさないことを宣言している。これは判例として現時点では確立された認識なのだと思う。共産党ですら、この認識は否定できないだろう。上述の論点(B)のリスクとは、安全保障上のリスクを議論しているのだが、多分、共産党などの主張は「判例としては確立しているが、これだけ憲法学者がNoと言っているのだから、違憲立法の判決が出てもおかしくはない。そのリスクは(仮に小さくても)無視できないはずだ!」という、違憲審査上のリスクを主張しているのだと思う。そのリスクはゼロではないのは明らかだが、「リスク・マネージメント」の観点からは、様々な選択肢にリスクもあればメリットもあり、その選択肢を選択した場合のリスクに加えて、選択しない場合のリスクも考えなければならない。その様なリスクを総合的に判断をする権限は、憲法上、その時の政府に与えられており、国家・国民の利益に照らし合わせて最良の判断をすることが義務付けられている。これまでにも行政側の「不作為の罪」が問われた例は腐るほどある訳で、適切な判断を下さないリスクの罪が問われる以上、価値判断が分かれる状況であっても、時の政府が必要不可欠と判断するのであれば、「違憲判決」のリスクよりも重い「不作為のリスク」の回避を選択する権限は政府にあるはずである。とすれば、「違憲」を理由に法案廃棄を主張するのであれば、判断が分かれないほどの「一見してきわめて明白に違憲無効と認められる」理由を説明し、その主張の反論に対して丁寧に論破することをすべきである。現在の状況は、反対派は「政府が俺たちを納得させないから悪い!」というスタンスだが、それは「安保法制の必要性」の議論に関する話であり、「安保法制の違憲性」を主張するのが反対派ならば、「一見してきわめて明白に違憲無効と認められる」理由の説明責任は反対派側にある。

その点をはき違えてはいけない。

次に、次の議論に行く前に例え話をさせて頂きたい。次の様なケースをイメージして欲しい。ある人が、他人の物を盗んだとする。これは窃盗罪である。しかし、「あの人の物を盗みました」と言えば窃盗罪が成立するが、「あの人の物を、拝借しただけです」と言えば罪に問われないなどという話は有り得ない。犯罪行為とは、その行為そのものの犯罪性を問うのであって、その行為を説明する表現の仕方で有罪/無罪が変わるなどということはいうことは有り得ない。即ち、明文化された法律があるなら、その法律に照らした違法性の有無は、その行為自体によって判断されるべきである。しかし、その様な法律とは異なり、ある種のコンセンサスで成り立っている事柄は、そのコンセンサスを崩す様な行動は周りの者から受け入れられない。例えば、会社の寮の同僚同士で車が必要になり、みんなでお金を出し合ってカー・シェアリングをすることになったとする。しかし、忙しくて中々車を使う機会がない同僚に対し、一人だけ頻繁にその車を使う機会がある者がいたとする。コンセンサスとして、他の人が使っていない時には使う権限を認められているので、カー・シェアリングとして利用している分には構わない。しかし、その人が他の人に「(実質的に)あの車は俺の物だよ!」などと豪語しまくっていたら、そのコンセンサスは崩れてしまう。ひとつの行為に対し、他の人が広く認める説明をする限りにおいては、その権限は広く認められるのだろうが、到底認められないような説明をし出したら、その後に大きなトラブルが発生するリスクを回避する為、仲間外れにされても致し方ない。

これは何のことを言っているかと言えば、憲法に照らして合憲か違憲かの議論は、その行為の中身によって議論されるべきで、その行為が合憲であるならば、その行為の呼び方(説明の仕方)を変えたところで合憲/違憲の判断結果に影響を及ぼすのは非論理的である。まず確認したいのは、例えば最近話題になっている通り、民主党の岡田代表は朝鮮半島有事の際に、日本海の公海上で米軍の艦船が北朝鮮からミサイル攻撃された際に、その時近くにいた自衛隊の艦船が防御の為にミサイルを迎撃するのは許されるべきであると発言している。櫻井よしこ氏がNHKで発言し、民主党が発言取り消し要求を求め、それに櫻井氏が反論し、更に民主党が再反論しているが、このやり取りの中でも民主党の公式見解は「その行動自体は認めるべき」「ただし、呼び方は集団的自衛権より個別的自衛権が良い」とのスタンスに立っている。しかし、これは明文化された憲法に関する議論だから、同じ行動に対して呼び方を変えたら合法で、別の呼び方だと違法になるというのは論理的に破綻している。前回の民主党の代表選でも散々、岡田代表はこの様に説明しており、行動自体に問題がない事は何度も認めている。同様のことは、維新の党でも言えるはずである。以前、日本維新の党と結の党が合併する際にも、橋下大阪市長は「集団的自衛権」に賛成で、江田憲次元代表は「集団的自衛権ではなく個別的自衛権で対応」すべしとして、集団的自衛権には反対して対立していたが、両党の議員の説明では「中身的には意見は一致している」から問題ないとしていた。つまり、行動を基準にすれば両党で差がなく、あくまで呼び方のみが違うという説明だった。であるとすれば、「集団的自衛権が違憲である」から安保法案反対というのは論理的に破綻している。さらに言えば、国際法として集団的自衛権も個別的自衛権も認められているが、個別的自衛権の範囲が何処までかというのはコンセンサスベースでしか共通認識は得られていない。そのコンセンサスとしては、「ほとんどすべての戦争は、自衛の名のもとの個別的自衛権の拡大解釈から始まったので、個別的自衛権は極めて抑制的に実施されるべきである。一方、緊急避難的状況で、複数の国家の同意のもとで集団的自衛権を行使することは認められている。つまり、「これは、カーシェアリングで借りてる車だよ!」と言って車を(集団的自衛権と同様に)他の人との合意のもとでの利用ならば認めるが、「この車は俺様のものだ!」と言って車を(個別的自衛権と同様に)俺様のみの勝手な言いっぷりで独占しようとしていれば、それは認められないという話になる。国際的には、集団的自衛権という説明なら納得するが、個別的自衛権との説明だと納得できないという考え方が一般的なのである。だから、政府は個別的自衛権の拡大解釈という見方を明確に否定しているのである。

結論としては、行為としては何処までが合憲かを明確にし、そこまでは法的整備をきっちりやるべきであることを国民として認識すべきことと、その法的整備の対象である行動の呼び方を、国際的なコンセンサスに照らして適切に呼ぶことを、我々はもっと冷静に話し合わなければならない。

なお、集団的安全保障的な視点では、何処までが許されるべき行動かについての民主党、維新の党などの共通の認識は現時点では出来上がっていない様に感じる。この点は、後述する議論となる。

・・・続く・・・

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朝鮮半島が永久に統一できない理由

2015-10-02 00:45:45 | 政治
実は長いことブログをお休みしていた際に、一番書きたかったが時間がなくて書けなかったことを書いてみようと思う。それは、下記の記事に関する話である。

長谷川良 ウィーン発コンフィデンシャル2015年10月1日「朴大統領『南北統一近し』発言の背景

これは今年の7月、朴槿恵大統領が何の脈略もなく突然「来年にも南北は統一されるかもしれないから、準備するように」と言い出したというニュースを受けての続報記事である。ここでは、その根拠が最近になって明らかになったということで、その理由は

「北朝鮮労働党幹部の一人が脱北し、韓国当局に北国内のホットな情報をもたらした。その内容を聞いた韓国当局者は、『南北統一は案外早いかもしれない』という印象を受けたというのだ。その報告を受けた朴大統領からは『南北再統一が来年にも』といった発言が飛び出したわけだ。」
「それでは、脱北の北幹部は何をもたらしたのか。簡単にいえば、『金正恩政権は崩壊寸前だ』というのだ。北指導部は統治能力を失い、いつ崩壊しても不思議ではないというのだ。」

と説明している。

つまり手短に言えば、金正恩政権の崩壊が避けられなくなったときに、金正恩が素直に失脚する訳がないので、絶対に暴発するはずだから事前に備えをしておきなさいと言うメッセージだったということである。

まあ、分からないでもない話だが、少々笑いを抑えられない内容だ。素人の私でも、自分の次に位置するNo.2、No.3の人材を残虐な殺し方で抹殺しているのを見れば、その政権が長くないのは容易に予想できる。過去に北朝鮮では、黄長(ファン・ジャンヨプ)という朝鮮労働党書記であるNo.2の人材が敵国の韓国に亡命した事件を知っている。No.2程の人材が多くの情報を持って亡命すればいざ知らず、少なくとも名前も役職も分からない、中堅クラスの幹部が亡命したところで、それで事態が変わるとは思えない。少なくともその程度の諜報能力は韓国も持っているだろうから、ドラスティックに何かが変わるほどの決定的な事態の変化が知らされたとは考えにくい。だとすれば、私の様な素人ですら周知の事実を改めて知らされて、それで指揮権を持つ最高権力者が「南北再統一が来年にも」などと言うのであれば、何ともお粗末な国である。

しかし、である。今日はそこには目を瞑ろう。そういう話ではないのである。朝鮮半島には、絶対に統一できない理由があるのである。

それは、中国が韓国主導による朝鮮半島統一を認めないからである。もう少し厳密に言えば、中国主導による金正恩政権からの権力移譲以外に選択肢がないからである。例えて言えば、北朝鮮のクリミア化である。

順番に説明してみたい。まず、韓国が期待する韓国主導による朝鮮半島の統一シナリオを考えてみたい。統一後に何が残るかと言えば、そこには核兵器製造技術が残る。その技術者は金正恩ファミリーではないから、統一後は核兵器開発技術者は追放されたり処刑されたりすることはない。一時的にある程度の核兵器は叩き潰されるかも知れないが、何処かに隠し持っていたり、ないしはその技術を生かして短期間に核兵器が製造できる状況ではあるから、統一後の韓国が核兵器保持を目指すことは容易に予想がつく。その時、アメリカは韓国に制裁を課そうとするが、あれだけアメリカがプレッシャーをかけても中国にひた走った韓国を止めることは出来ない。韓国からすれば、いつまで経ってもアメリカにも中国にも大きな態度が取れない背景には核武装していないからという気持ちがあるから、「ここは踏ん張りどころ」とばかりに、歯を食いしばってその制裁に耐えるだろう。韓国の国民感情も極めて感情的だから、アメリカ嫌いで且つ中国嫌いの国民性から、「ここで妥協したら、孫子の代まで禍根を残す」と思って耐えるに違いない。
では中国はどうか?中国は、韓国人が本心では中国嫌いであることを熟知している。事大主義の韓国が中国に長い長い歴史の中で逆らわなかったのは、中国の力が絶大で、全く逆らう余地がなかったからである。しかし、核兵器を持ちさえすれば、中国とやっと対等の関係になれる・・・と思うであろうから、3000年の歴史の中の積年の恨みをここで晴らそうと韓国が考えるのは痛いほど良く分かっているはずである。しかし、その韓国が核兵器を持ち、そして現在の中朝国境にて韓国の核が中国に向けられる時、今までの北朝鮮という緩衝地帯が無くなり、直接的な脅威がそこにあることを実感することになる。
この様な事を中国が黙って見ている訳がない。もっとも考えられるシナリオは、金正恩ファミリー全員の亡命を中国が受け入れ、その際に臨時で樹立されるクーデター政権にクリミアの様に中国併合を申し出させるのである。ロシア軍がそうであったように、電光石火の如く平壌を中国軍が制圧し、中国軍を背景とした臨時政府が早々に宣言してしまえば、もはや韓国は手が出せない。北朝鮮の核がそのまま中国の核に置き換えられ、一方で、世間知らずの若造の暴発の恐怖は払拭される。しかし、韓国が幾ら異論を唱えても、もはや覆水盆に返らずである。平壌を制圧した中国を追い払う力は、韓国にもアメリカにもない。

この様に書くと、金正恩が亡命提案を呑む訳がないと言われるかも知れないが、軍国主義教育を徹底された者であればどうか知らないが、彼はスイスで多感な時期を過ごし、平和的な生活をすっかり享受してきた経験者である。名誉の為に、一族郎党を全て死に追いやるような選択よりも、金正恩ファミリー全員の命の保証と経済的な保証を優先するはずである。これまで、No.2、No.3の人材を残虐な殺し方で抹殺してきた中で、これが単なるバカヤローであればもっと短期に政権は崩壊しているはずである。にも拘らず、未だに政権を掌握している背景には、優秀なブレーンがいると共に、ギリギリのところで感情を抑えて暴発を踏みとどまる能力位はあるのである。であれば、政権の崩壊が確実視された時点で、中国に亡命を打診するのは目に見えている。中国は中国で、その様なサインがいつ出ても大丈夫なように、非常に注意深く見守っているはずである。

その様な関係が中国と北朝鮮の間にあることに朴槿恵大統領は目をそむけ、先日の中国での抗日70周年の軍事パレードに参加し、世界に「習近平国家主席への忠誠」を示してしまった。仮に金正恩政権の崩壊が真近に迫っているとして、現在の韓国の経済状況は風前の灯である。この経済状況で中国が北朝鮮を併合した際に、韓国が中国と絶縁関係を取ることは経済的な自殺となる。既に、「何処までも、中国様について行きます」と宣誓してしまっているのだから、もう、逃げることは出来ない。クリミアを取り返すことができないアメリカを見ても分かるように、アメリカも北朝鮮を取り返すことは出来ない。韓国は、中国のしたことを追認するしか道が残されていないのである。

少し考えれば明らかなことで、多分、中国もアメリカも、この程度のシミュレーションはしているだろう。しかし、韓国は楽天的な考えしかできない国だから、この様なシナリオは思いもしないかも知れない。しかし、現実は思っているより厳しいのである。

結論として、朝鮮半島は永遠の分断が間もなく確定することになるだろう。

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「解釈改憲」と「憲法解釈の変更」の違い

2015-10-01 01:07:41 | 政治
最近、先週末の朝まで生テレビを少しづつ見ているのだが、まだ最後まで見終わっていない。全て見終わったところでまた何か書こうかと思うのだが、途中経過の中で些細な話ではあるがちょっと気になった点を整理してみたい。それは「解釈改憲」と「憲法解釈の変更」の違いについてである。

まず確認しておきたいのだが、安倍政権は明確に「解釈改憲」ではないことを宣言している。私の当初の理解では、「憲法解釈の変更を行ったのではなく、集団的自衛権の解釈を変更した」のだと思い込んでいたが、これはどうやら間違いで、「憲法解釈の変更」は行われていたということらしい。この辺の理解は以下に説明を加えておく。

まず、昨年5月15日に行った安保法制懇談会の報告書提出を受けての「平成26年5月15日 安倍内閣総理大臣記者会見」の中で安倍総理が以下の様に語っていた。

「今後、政府与党において具体的な事例に即してさらなる検討を深め、国民の命と暮らしを守るために切れ目のない対応を可能とする国内法制を整備します。これまでの憲法解釈のもとでも可能な立法措置を検討します。」
「切れ目のない対応を可能とする国内法整備の作業を進めるに当たり、従来の憲法解釈のままで必要な立法が可能なのか、それとも一部の立法に当たって憲法解釈を変更せざるを得ないとすれば、いかなる憲法解釈が適切なのか。今後、内閣法制局の意見も踏まえつつ、政府としての検討を進めるとともに、与党協議に入りたいと思います。与党協議の結果に基づき、憲法解釈の変更が必要と判断されれば、この点を含めて改正すべき法制の基本的方向を、国民の命と暮らしを守るため、閣議決定してまいります。」

つまり、基本的には現行の憲法解釈を逸脱しない範囲で国内法制を目指す一方、どうしても憲法解釈の変更が必要となる法案に関しては、新たな憲法解釈としてどうあるべきかも含めて議論するというものであった。横道にそれるが、ここでは憲法9条の基で自衛隊が合憲である根拠を説明していたが、私がこれまで理解していた芦田修正の立場には歴代内閣は沿っておらず、憲法13条を自衛隊の合憲性に関する法的根拠にしているとのことだ。

この後、7月1日に新しい安全保障法制の整備のための基本方針を閣議決定した後の記者会見で、「現行の憲法解釈の基本的考え方は、今回の閣議決定においても何ら変わることはありません。」と語っている。この後の様々な場での発言でも、今回の安保法制では従来の憲法解釈の基本方針からいささかも逸脱していないとの発言をしている。一方で、今年に入っての参議院での論戦では、「国際情勢にも目をつぶって、その責任を放棄して従来の(憲法)解釈に固執をするのは、まさに政治家としての責任の放棄だ」とも語っている。

この様に考えると、安倍総理は「憲法解釈の変更」を意識しているものの、明確に「憲法解釈の変更」を行ったとは宣言していない。安倍総理の発言を検索する限りでは、少しの検索では引っかからないのだ。

そこで、「解釈改憲」と「憲法解釈の変更」の違いについての解説が何処かにないかと探してみたら、どんぴしゃのものがあった。ただ、これは弁護士ドットコムで読者からの質問に(サイト運営側の?)弁護士の個人的な見解を示したもので、それ程、権威のあるものではない。それを承知で引用してみよう。

弁護士ドットコム「『解釈改憲』と『憲法解釈の変更』の違いとは?

(質問)「解釈改憲」と「憲法解釈の変更」の違いとはどのようなものなのでしょうか?
(回答)解釈改憲というのは、本来は、憲法改正手続を経ない限りできない国家行為を、憲法解釈の枠内で、合憲であると主張して、その国家行為を、政府や国会が行うことを言うのだと思われます。憲法解釈の変更というのは、たとえば、裁判所が、これまで合憲と判断してきた国家行為を、違憲だと判断する場合をいうのだと思われます。

この説明は分かり易い。噛み砕けば、「解釈改憲」とは実質的に「改憲」に相当する行為を一方的な主張で行うことであることに対し、「憲法解釈の変更」とは憲法を維持したまま、時代の変化に伴い「法的安定性」を一部犠牲にしながら、その「法的妥当性」を優先して憲法の枠内で解釈を変更することに相当する。つまり、前者は憲法の枠を逸脱し、後者は憲法の枠内での行動に相当する。この様な理解をした上でかどうか知らないが、朝生に出演した片山さつき氏は「憲法解釈の変更」を行ったと明言している。産経新聞ですら、「憲法解釈の変更」は明言している。

一方で、公明党のホームページ内には下記のニュース記事があった。

公明党「『解釈改憲』の批判は誤り

これは、参院予算委員会で公明党の西田実仁参院幹事長が横畠裕介内閣法制局長官に対して行った質問の紹介である。その一部を以下に抜粋する。

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西田氏は、今回の閣議決定について一部の報道で「9条崩す解釈改憲」などとの不安をあおる論調が見られる点に言及し、内閣法制局の見解を求めた。
横畠内閣法制局長官は「今般の閣議決定は(自衛権に関する政府の憲法解釈の基礎となっている)1972年の政府見解の基本論理を維持しており、これまでの憲法第9条をめぐる議論と整合する合理的解釈の範囲内のものであると考えている」と指摘。
その上で、「今般の閣議決定は、憲法改正によらなければできないことを解釈の変更で行うという意味での、いわゆる解釈改憲には当たらない」と明言した。
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これは公明党の公式見解に相当し、やはり明確に「解釈改憲」ではないとしている。ちなみに、昨年6月の段階で公明党の山口代表は「憲法の規範性、論理的整合性を保つ中で憲法解釈は形成されてきた」、「憲法解釈を基本的な規範の枠内で整理、補充、明確にする機能を政府は持っている」と述べ、実質的に憲法解釈の変更を容認している。

なお、さらに調べると、自民党は昨年7月の閣議決定後に「安全保障法制整備に関するQ&A」を発表している。少々長いが以下にポイントを抜粋する。

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Q2 憲法解釈の見直しは立憲主義に反するのではないですか?
A2 立憲主義に則って政治を行っていく、当然のことです。憲法解釈については、最高裁判所に解釈を最終的に確定する権能がありますが、行政府が憲法第65条(「行政権は、内閣に属する」)の下、行政権を執行するために憲法を適正に解釈します。
今回の閣議決定は、憲法の規範性を何ら変更するものではなく、これまでの政府見解の「基本的な論理」の枠内における合理的な当てはめの結果です。立憲主義に反するものではありません。
なお、読売新聞社説(7月2日掲載)でも、「今回の解釈変更は、内閣が持つ公権的解釈権に基づく。国会は今後、関連法案審議や、自衛権発動時の承認という形で関与する。司法も違憲立法審査権を有する。いずれも憲法の三権分立に沿った対応であり、『立憲主義に反する』との批判は理解し難い」――と指摘されています。
Q3 今回の「解釈改憲」で憲法の規範性が損なわれる、との批判がありますが。
A3 今回のいわゆる自衛の措置としての「武力の行使」の「新三要件」は、わが国を取り巻く安全保障環境の大きな変化を踏まえ、昭和47年の政府見解の基本的な論理の枠内で合理的に導いた、当てはめの帰結です。
解釈の再整理という意味で一部変更ではありますが、憲法解釈としての論理的整合性、法的安定性を維持しています。憲法の規範性を何ら変更するものではなく、合理的な解釈の限界を超える、いわゆる「解釈改憲」ではありません。
集団的自衛権の行使容認の検討にあたり、現行憲法の下で認められる自衛権の行使は、必要最小限度の範囲内にとどまるという従来の基本的立場を変えるものではありません。また、今回の閣議決定により、直ちに自衛隊が活動を実施できるわけではありません。今後、法律の改正が必要となります。政府において必要な法案の準備ができ次第、国会で審議を行うことになります
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つまり、「解釈改憲」と「憲法解釈の変更」は似て非なるものであり、意味するところは180度異なっている。憲法第65条で合憲的に認められた行政府の権能を行使するのが「憲法解釈の変更」であり、合理的な解釈の限界を超えた「解釈改憲」とは全く別物である。
私はその差を理解できなかったが、多分、多くの人はその差を理解せず、自民党や公明党ですら「憲法解釈の変更」を認めているのだから、「解釈改憲」であることが確定!とばかりに勝ち誇った報道が多いが、明らかにミスリードの意図がそこにある。

なお、ついでにコメントしておくと、安保法制反対派が砂川判決が集団的自衛権の合憲性を認めていないという主張は多分正しい。しかし、「この主張が正しいこと」と、「自民党の主張が間違っていること」はイコールではない。少々ややこしいが解説する。以下に高村副総裁講演記事を紹介する。

産経ニュース2015年2月21日
【高村副総裁講演詳報】
『民主・岡田氏の批判は政争のためといえるでしょう』集団的自衛権行使めぐり

この記事の中で、高村副総裁は次のように語っている。

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憲法の番人である最高裁が自衛権に触れたのは後にも先にも(昭和34年の)「砂川判決」だけです。自衛隊の合憲性を判断する判決ではありませんが、「国の存立を全うするために必要な自衛措置は講じ得る。主権国家として当然である」と言っている。
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ここで「自衛隊の合憲性を判断する判決ではありません」としており、当然ながら集団的自衛権の合憲性もここでは議論していない。しかし、砂川判決は統治行為論を認めた判決である。統治行為論とは、「国家統治の基本に関する高度な政治性”を有する国家の行為については、法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても、これゆえに司法審査の対象から除外すべきとする理論」であり、砂川判決の中でも「一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」としている。つまり、高村副総裁は集団的自衛権の合憲性を主張しているのではなく、集団的自衛権が「一見してきわめて明白に違憲無効と認められない」のであれば、「違憲ではない」と主張しているのである。「違憲立法」は禁止されているが、「違憲ではない」立法は禁止されていないから、立法府及び政府の裁量の範囲内と説明しているに過ぎない。しかし、野党の主張や報道を見る限りでは安保法制が「一見してきわめて明白に違憲無効と認められる」根拠は聞いたことがない。あくまでも、これまでの政府答弁との不整合性を突くだけで、解釈の変更に関する裁量権が憲法で認められる以上、「一見してきわめて明白に違憲無効と認められる」とは言えないはずである。

以上、色々書いてきたが、結構、紙一重のところで論点はズレていて、野党やマスコミはそのズレを都合良く利用しているに過ぎない。ミスリードばかりしていると、そのうち、お尻に火がつくことになると思うのだが・・・。

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