けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

渡部建の不倫報道について思うこと

2020-06-13 00:21:31 | 日記
アンジャッシュ渡部建の不倫報道が芸能ニュースで大盛り上がりである。まことにどうでもよい話で、単に「良い子はまねをしないように!」という話なのだが、良い例だから一つコメントしておきたい。

先日の検察庁法改正法案の話もそうであるが、私が何よりも嫌いなのは「恣意的なダブルスタンダード」である。主義主張が一貫しているのではなく、その時々で自分に都合の良いように話をすり替えるのはどうしても耐えられない。マスコミは、誰にでも平等な物差しで、平等な価値観で個々の事案を是々非々で判断し、その結果を自信と責任をもって発信すべきである。しかし、最近のマスコミは極度に劣化が進み、結論を先に決めたら途中の議論を捻じ曲げても構わないと確信を持っているようだ。

不倫報道というのはいつ聞いても不快なもので、しかし、ずっと昔からそこら中であった話である。ビートたけしなどは自ら自虐的な浮気ネタを平気で話をしていたし、実際にそのことを裏付ける報道も数多くあった。奥さんのもとには帰らず好き放題やっていた。結果、つい最近になって数年前から不倫していた相手と再婚することになるが、それを咎めるような論調は何処にもない。「芸の為なら女房も泣かす」というのが芸人という見方もあるが、それを言ったら渡部も同じ単なる芸人。東出の不倫は芸人じゃなくて俳優だから違うという人もいるかも知れないが、それを言うなら、たけしは世界的映画監督、云わば芸術家とも言えるわけで、たけしが責められない理由が分からない。今回の渡部は、相手女性が文春に駆け込んで訴えられるほど、粗雑な扱いをしていたことがいけない…という人がいるかもしれないが、それなら東出は相手に訴えられているわけでもないのに叩かれている。

結局は、叩きやすい相手か、叩いたときに返り血を浴びないか、叩くと新聞/雑誌が売れるか、視聴率が取れるか、が判断基準でしかない。でもそれは、判断基準を恣意的に捻じ曲げているという話である。一瞬だけ報じて、「後は夫婦と関係者で話し合ってください」というなら分かるが、当然、おいしい話を自ら棒に振るマスメディアはいない。ネットで炎上し、そちらでガソリンが投下されて更に炎上すれば、それはマスメディアの思うつぼ。

ついでに言えば、ちょっと前の某政党のマドンナ的な女性国会議員がダブル不倫して離婚したという話があった。これが自民党の女性議員だったら大騒ぎになっただろうが、野党となるとだんまりを決め込む。ちょっとした有名人だったから、マスメディアもニュースバリューは十分にあったはずだが、何故か話題にもならない。

都合の良いときは正義を振りかざすが、別に正義感に駆られて何かをしている訳ではない。単に儲かるからしているだけのこと。戦前の朝日新聞や毎日新聞が、軍国主義を増長していたのと同じ。立派な基本原則などなく、恣意的な判断のみがそこにある。しかし、それは自殺行為だと分からないのだろうか?とても、そんな人の言うことなど、私は信用できないのだが・・・。

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秒速病の処方箋 ~「秒速5センチメートル」鑑賞後に思い悩む方へ~

2017-03-26 00:30:52 | 日記
もう、100回ぐらいの周回遅れの書き込みで恐縮であるが、先週、テレビで「秒速5センチメートル」が放映され、その鑑賞後の1週間、どうしようもなく行き場のない思いに悩まされ続けた状態から立ち直るに至った過程について書いてみたい。

最後に書いたブログから1年以上も経ち、日々の忙しさで政治ネタではとてもブログを書けそうもないのだが、「秒速5センチメートル」については書かずにはいられないという思いは止められず、書かせていただくことにした。一言で「感動」という言葉を使う時、それはどちらかというと清々しい気持ちと共に語られることが多いと思う。しかし、今回は清々しい気持ちとは真逆である。しかし、心を揺さぶる、大好きな映画であることは疑いもない。ネット界隈では、検索してみれば膨大な数の「秒速5センチメートル」の書き込みがあり、ちょっと見ただけでも相当な数だった。新海誠監督の作品の根っからの(「君の名は。」以前からの)ファンの多さと、その思い入れの強さには敬服する。しかし、それらの幾つかを読んでも、行き場のない思いは晴れることがなかった。巷では、「秒速5センチメートル」のことを「鬱映画」と評する人もいるようで、その表現には賛同することは全くできないが、その言葉の意味する処が何かは理解できる気がする。その様なことで思い悩む「病気」を、新海ファンは「秒速病」と呼ぶらしい。実に言い得て妙な命名に、「私も秒速病の患者なんだ・・・」と強く感じた。多分、この状態からは一朝一夕では回復することはできない。以下の内容は、かなり遠回しな書きっぷりで、結論だけを書いた方が良いのかも知れないが、敢えて余計なことも書かして頂く。今までのブログの中でも最長の記事になると思う。しかし、私にとっても、この文章を書く過程がリハビリの様なものなので・・・。

以前の私のブログ、映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」のタイトルの意味を探して・・・
を書いた時も、映画を観終わった後の消化不良な感覚から、その映画をより深く知りたいと思い色々と思い悩んだのだが、今回はそれ以上に悩みに悩んだ。「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」の時と同じアプローチなのだが、映画を観ながら湧いてくる疑問の数々を少しずつ紐解いて、少しずつ答えに近づきたいと思い、まずは映画の中で感じた疑問を整理してみた。以下、ネタバレになるので、これから映画を観ようと思う方は読まない方が良いと思う。

最初に余談ではあるが、少し背景的なことを書いておこうと思う。我が家では長男が「君の名は。」にはまり、長男の薦めで残りの家族全員で「君の名は。」を鑑賞しに行った。確かに面白い映画だった。多くの人が引き込まれるのも良く分かる映画だった。しかし、長男の様なはまり方をすることはなかった。しかし、「秒速5センチメートル」は全く別だった。この映画を観た後、さらに2週間ほど前に放送された新海作品、「言の葉の庭」も観た。この2作品を観て確信したが、新海誠監督が作りたかった映画は、間違いなく「君の名は。」よりも「秒速5センチメートル」や「言の葉の庭」の様な映画だろう。ただ、「言の葉の庭」の方は「秒速5センチメートル」とは全く別で、鑑賞後の感想は極めて心が晴れた状態であった。決してハッピーエンドではないのだけれど、登場人物に対して親心の様な気持ちで「心から良かった・・・」と見守ることができた。ハッピーエンドという言葉の「定義」があまりにも狭すぎて不適切ではあるのだが、あの状況の中で許される限界的な幸福な終わり方であり、深い余韻と共に少しだけ幸せな気分になった。しかし、「秒速5センチメートル」の鑑賞後には余韻などというものはなかった。これも、余韻という心地よい言葉の定義とは違う、しかし胸が締め付けられるような状態が幾日も続いた。その答えの様なものを求めてネットを彷徨うと、驚くほどの考察ブログが見つけられた。ひとつだけ紹介しておくと、以下のブログは半端ない強い思い入れが溢れたサイトであった。これを読んで私も参考にさせていただいた部分は多いし、以下の記述の中にもその受け売り的な内容も含まれる。

筑波嶺夜想曲 「秒速5センチメートル」考察

このブログは考察が何段階にも分かれ、これは「その1」であるが順番に読んでいけばいろいろなことが分かる。「秒速5センチメートル」には映画、小説(新海版)、漫画の他に、新海監督以外が書いた小説(加納新太版)なるものも存在している。小説のあとがきの中でも、新海監督は、映画と小説を同じ内容にするのではなく、少しずつ敢えて異なる部分を残すことで、新たな楽しみを感じてもらえればと思っているようである。映画で描写されていない部分を小説を読んで答えを探すことも可能であるが、私は小説の方も読んでみた後で、「映画と小説は全くの別物」であることを確信した。小説だけを読んだ人が「秒速病」になることはまずないだろう。それは、小説には映画の中で、私が最も重要であると感じているセリフが出てこないのだ。

「そして、ある朝、かつてあれほどまで真剣で切実だった想いが綺麗に失われている事に気付きもう限界だと知った時会社を辞めた。」

私の「秒速病」の病根はここにある。

以下、この映画を観終えて感じた幾つかの疑問を整理し、それらを少しずつ解決することで「秒速病」の病根を治癒していきたいと思う。疑問を数え上げたらきりがないし、しかしその疑問にはひとつずつ大きな意味があるのだが、「秒速病」の治癒に必要と思えるところだけを抜粋してみた。また、小説や漫画などに「答え」が書かれていたとしても、私はあくまでも答えをこの「映画」の中だけに求めてみたいと思っている。映画の中にある描写やセリフなどが全てであり、小説や漫画に描かれたストーリーは「君の名は。」にも出てきた、所謂、パラレルワールドの様なもので、別世界の正解は私の求める世界の正解とは必ずしも言えない。私の勝手なこだわりであるが、この辺はご容赦頂きたい。

(疑問その1)=================================================
貴樹が明里への想いを断ち切れず、何時までもいつまでも引きずっているから彼は明里以外の人を心から愛することができず、そして傷つき傷つけ合い、救われない人生を歩まざるを得ないのが痛いほど良く分かる。であるならば、「かつてあれほどまで真剣で切実だった想いが綺麗に失われている事に気付」いたのであれば、それは明里への想いへの呪縛からの解放に繋がる。であれば、寧ろ「吹っ切れた状態」に辿りつけるはずなのに、それは会社を辞めなければならないほど切実な「限界」であるという。どう理解すれば良いのだろうか?

(疑問その2)=================================================
第3話の中での時間の流れが分かり難い。貴樹と明里が踏切ですれ違うシーンで始まり、やはりすれ違うシーンで終わる。同じシーンで挟まれているので、その間のストーリーが回想的に入り組んでいるのは分かるのだが、その入り組み方が1度見ただけでは理解できない。第3話のオープニングの踏切のシーンに続き、明里が岩舟駅で両親と別れるシーンがあり、それに続けて

「ゆうべ、昔の夢を見た。私も彼もまだ子どもだった。きっと昨日見つけた手紙のせいだ。」

と続く。そして、最後に貴樹が会社を辞めてコンビニに行き、降り出した雪を見つけた時、

「昨日、夢を見た、ずっと昔の夢。
その夢の中では僕たちはまだ十三歳で、そこは一面の雪に覆われた広い庭園で、人家の明かりはずっと遠くに疎らに見えるだけで、降り積もる深雪には、私たちが歩いてきた足跡しかなかった。」

と続く。二人の声が交互に交わされ、同じ時、異なる場所で貴樹と明里が同じ夢を見たことが分かる。しかし、この時系列がやはり分かり難い。この時間の流れの解読が、何かのヒントになっているような気がした。

(疑問その3)=================================================
第3話のタイトルが映画のタイトルそのものである。しかも、映画の途中で山崎まさよしの「One more time, one more chance」の曲と共に、「バーン」と音を立ててタイトルバックの様に出てくる。タイトルバックというのは、オープニングなら分かり易いし、エンディングでも十分に分かる。しかし、エンディングには別のタイトルバックが用意され、天門「思い出は遠くの日々」がエンディング曲として流れる。あのシーンはいったい何だったんだろう?何故、あんな場所で急に前面に出てくるのだろうか?

(疑問その4)=================================================
第2話のタイトルは「コスモナウト」である。「cosmonaut」の意味を辞書で引けば、

【cosmonaut】(特に旧ソ連の)宇宙飛行士 《★【比較】《主に米国で用いられる》では astronaut》.

とある。我々には「アストロノート」は少しは馴染みのある言葉だが、「コスモナウト」は聞いたこともない。また、第2話にはロケット、衛星は出てくるが宇宙船や宇宙飛行士の話ではない。第2話の最後の探査衛星の打ち上げシーンといい、第2話のタイトルに何か意味があるのは間違いないのだが、ならば何故タイトルは「宇宙へ」とかではないのか?百歩譲って「アストロノート」ではないのか?また、ロケットや衛星が明里とどう関係があるのか?

(疑問その5)=================================================
第3話が短すぎる。時間を測っていないから分からないが、あくまでも感覚としては第1話が全体の50%、第2話が35%、第3話が15%ぐらいだろうか・・・。本来なら第3話は重要なはずなのに、あまりにも短すぎる。また、やたらと短いカットの素早い切り替わりシーンが目立つ。とても目で追えるレベルではない。走馬灯の様に頭をよぎったというのも分からないでもないが、その使われ方は半端ではない。また、水野さん(映画に合わせて、敢えて「水野さん」と表現する)という女性が、この映画では一体、どんな人なのかが全く分からない。何故なんだろう・・・。

(疑問その6)=================================================
何故、貴樹は送る宛のないメールを書く癖がついたのか?貴樹と明里は当初、手紙のやり取りをしていたはずである。貴樹があれだけの想いを明里に対して持っていたなら、そして、筆不精な訳でもなく携帯メールを書くだけの気持ちがありながら、手紙が途絶えてしまう。大学に入れば、また会うチャンスがあるのだから、何故、手紙が途切れてしまったのだろうか?

(疑問その7)=================================================
貴樹は踏切ですれ違った女性が明里であると強く感じたのに、何故、彼女の後を追わなかったのか?明里への想いを断ち切れていないのであれば、踏切の向こうまで追いかけて当然なはずなのに、何故か微笑んで踏切を後にしてしまう。誰もが、「ちょっと、ちょっと・・・」と突っ込みを入れたくなるシーンである。しかし、そこで映画は終わる・・・。何故・・・。
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まあ、こんなところだろうか。言い出せば幾らでも書けるが、処方箋のためにはこの辺りで十分であろう。以下、私なりの謎解きである。順番が少し前後するがご容赦頂きたい。

(疑問その2について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
この映画を読み解くには、この時系列の整理が極めて重要である。まず、ポイントは以下の点である。

・踏切のシーンは桜が咲く4月上旬である
・明里が両親と岩舟駅で別れるのは前の年の12月末である
・明里は翌月1月に結婚している
・明里が貴樹との別れの日の夢を見たのは両親と岩舟駅で別れる前日の夜である
・貴樹が明里との別れの日の夢を見たのは明里が夢を見た日と同じ日である(二人が交互に夢のことを語っていた)
・貴樹が会社を辞めたのは岩舟駅の夢を見た日の直前である(12月末)
・貴樹が水野さんから別れのメールを受け取るのは会社を辞めたタイミング(例えば直前)である
・会社を辞めたにもかかわらず、貴樹の部屋にはプログラミングの仕事の納品は4月6日であることが記されている(2月、3月にも仕事の予定が入っている)

つまり、踏切のシーンの前年の年末12月、貴樹は仕事で心身共にボロボロになり、会社を辞めることを決心する。丁度同じ頃、憔悴しきっていた貴樹は水野さんの電話にも出ることができず、最後に別れのメールを受け取ることになる。このタイミングであのセリフをつぶやくのである。

「そして、ある朝、かつてあれほどまで真剣で切実だった想いが綺麗に失われている事に気付きもう限界だと知った時会社を辞めた。」

(疑問その3について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
この映画を観た後、繰り返し繰り返し、山崎まさよしの「One more time, one more chance」を、歌詞を噛みしめながら聞き返している。Wikipediaによれば、新海監督が山崎まさよしに楽曲使用を依頼し快諾された背景があるようで、新海監督はこの曲を聴きながらストーリーを膨らましたのかもしれない。
そしてこの曲の出だしは、こうである。

「これ以上何を失えば 心は許されるの
 どれほどの痛みならば もういちど君に会える」

悲しい歌なのは言うまでもないが、この出だしは自傷的な歌詞である。自分を傷つけることで救われることを祈るような歌詞である。しかし、この曲は歌い続ける中で微妙に表現が変わってくる。急にボリュームが上がって「秒速5センチメートル」のタイトルが表示されるのは、次の歌詞からである。

「いつでも探しているよ どっかに君の姿を
 向かいのホーム 路地裏の窓
 こんなとこにいるはずもないのに
 願いがもしも叶うなら 今すぐ君のもとへ
 できないことは もう何もない
 すべてかけて抱きしめてみせるよ」

既に、自傷的な自分を責める歌い出しから、愛する人への想いを真っすぐに受け止めて、自分を偽ることは止める気持ちが芽生えている。さらに続けて、

「奇跡がもしも起こるなら 今すぐ君に見せたい
 新しい朝 これからの僕
 言えなかった『好き』という言葉も」

この辺りになると、「かつてあれほどまで真剣で切実だった想いが綺麗に失われている」状況から、少しずつだが「真剣で切実だった想い」が再び心の中に芽生えてきたことが読み取れる。あの映画での演出は、あの直前と直後で彼の心の中に何らかの変化が生じたことを、映像的に示した象徴的なシーンなのだと思う。

(疑問その4について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
その変化が生じたのは、立ち寄ったコンビニで立ち読みした科学雑誌に「国際宇宙探査衛星エリシュついに太陽系外へ」の記事を見つけた時である。映像によれば、打ち上げが1999年なので、時系列から考えて花苗と貴樹が種子島での打ち上げを見た衛星である(実際、貴樹の高校の掲示板にもエリシュの張り紙があり、貴樹が高校時代に読んでいた科学雑誌にもエリシュの名称が出ている)。先に紹介した筑波嶺夜想曲さんの考察の中で紹介されているのだが、実は2006年(映画が封切られた前の年)にJAXA(元NASDA)が打ち上げた衛星の中に「赤外線天文衛星『あかり』(ASTRO-F)」がある。宇宙探査衛星ではないが、貴樹にとって、あの衛星は明里の象徴(必ずしも、衛星=明里とは限らない)である。思い切り手を伸ばしても届かなくて、それでも何とかそれに触れようと、触れなければならないとの強迫観念があり、更に手を伸ばそうと必死にもがき苦しんでいた、その象徴があの衛星である。貴樹が書いていた出す当てもない携帯メールには、「今朝の夢」というタイトルで「異星の草原をいつもの少女と歩く・・・」と書かれていた。宇宙(そら)の向こうの存在として明里は位置づけられている。本当は、手を伸ばすどころか宇宙船に乗っていかなければ会うことのできない存在になったということだろう。であれば、明里と再会するためには自分は宇宙飛行士にならなければならない。アメリカのアストロノート(宇宙飛行士:astronaut)はこの時代、宇宙に行くためにスペースシャトルを利用していた。テレビでもたびたび見ることのあったスペースシャトルは、(2度の事故はあったが)変な言い方であるがちょっとした「宇宙旅行」の様な身近な雰囲気があった。日本人宇宙飛行士が宇宙から帰ってきてテレビに出ているさまは、手を伸ばしても届かない存在とはほど遠い。一方で、実際には生きて無事に帰ってくるのではあるが、ロシアの宇宙飛行士(cosmonaut)にはその様な親近感がなく、もう少しストイックな感じを受ける。遠く彼方の異星への旅は、astronautではなくcosmonautであったのかも知れない。

追記). コスモナウトの中で、貴樹と明里が草原で並んで立っている時、遠く向こうに大きな球体の星が見える。あれは何なんだろうと思っていたが、よく見ると、草原の向こうにはクレーターが沢山見られ、貴樹と明里がいる場所が地球ではなく「異星」であることが分かる。その先に見えるのは多分地球で、明里が住む異星に辿り着くためには「コスモナウト」にならなければならない・・・という理解が貴樹にあることが分かる。

(疑問その5について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
第3話の構成は、その短さに反比例して、やたらと短いカットの素早い切り替わりシーンが多い。しかし、その素早い切り替わりシーンをスローモーションで見れば、凄まじい情報量が溢れている。例えば、多くの方がご存じの様に、花苗と貴樹が赤い円形の昔風のポストの横を歩くシーンの直後に、高校生のカップルが後ろ向きで赤い四角い今風のポストの横を歩いているシーンが続く。ほんの一瞬だが、これは言うまでもなく、種子島の昔風の円形ポストと都会の今風の四角いポストを対比していて、これは明里とその彼氏が一緒に歩いているシーンを意味している。貴樹が種子島の空港から大学進学で東京に旅立つとき、花苗は空港に見送りに来ていたことが分かるし、貴樹が旅立った後、花苗はいつものスーパーカブで一人寂しく帰るシーンもある。大学進学で東京に出てきてから以降、貴樹は「One more time, one more chance」の歌詞の様に、色々な場所で無意識のうちに明里の姿を探し求め続けていたようだ。また、社会人になった貴樹が女性(水野さん)とひとつのベッドで寝ているシーンが現れるが、二人は背中合わせで離れて寝ている。一見、あっという間の様だが、凄まじい凝縮された時間の流れがそこにあることが分かる。本当のところは分からないが、ある程度、その様なシーンを書き上げながら、エディティングでエッセンスを極限まで抽出した映像を作り上げたような感じがした。

(疑問その6について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
さらに、短いカットの素早い切り替わりシーンの中から、明里が高校2年で数IIAを習っている時までは、二人の文通は続いていたことが分かる。明里が手紙を待ちわびてポストを開けても手紙がなく悲しむシーンの後で、貴樹も空のポストを見つめ身動きできずにポストを凝視するシーンがある。この流れを見る限り、手紙をいつしか書かなくなったのは貴樹である。高校2年までくれば、あと少しで再開することができるはずであるが、多分、貴樹にも説明できないような複雑な気持ちがそうさせたのだろう。明里の手紙に男友達の存在を感じたのかもしれないし、でも、そんなことはどうでもいい。いつしか、夢の中の異星の草原の少女の顔が見えなくなるほど、心に迷いがあったのかも知れない。しかし、ロケットの打ち上げの日に見た夢の草原の少女は、明里、その人であることを明確に意識することができた。

(疑問その1について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
ここで、最初の疑問に戻ってみたい。

「そして、ある朝、かつて、あれほどまでに真剣で切実だった思いがきれいに失われていることに、僕は気づき、もう限界だとした時、会社を辞めた。」

このセリフは、この時系列の中で、この前のセリフからの続きでその意味が理解できる。

「ただ生活をしているだけで、悲しみがそこここに積もる、日に干したシーツにも、洗面所の歯ブラシにも、携帯電話の履歴にも。
あなたのことは今でも好きです。三年間付き合った女性は、そうメールに書いていた。でも、私たちはきっと千回もメールをやり取りして、たぶん心は一センチくらいしか近づけませんでしたと。」
「この数年間、とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのか、ほとんど脅迫的とも言えるようなその思いがどこから湧いてくるのかも分からずに、僕はただ働き続け、気づけば、日々弾力を失っていく心がひたすら辛かった。そして、ある朝、かつて、あれほどまでに真剣で切実だった思いがきれいに失われていることに、僕は気づき、もう限界だとした時、会社を辞めた。」

貴樹は、宇宙探査衛星に象徴される明里に近づきたくて、精一杯手を伸ばし、背伸びして、我武者羅にもがいている。何処から手を付ければ良いか分からず、目の前の仕事に没頭することで手を伸ばしている自分を実感していながら、何かに触れた感触を掴むことができず、強迫観念の様なものが更に自分を追い込むことになる。水野さんの様に付き合う女性がいても、その強迫観念を癒すことはできず、逆に近しい人を傷つけてしまう。そのことが更に仕事に没頭せざるを得ない状況を作り、まるで自傷的・他傷的な自分に直面し、心の弾力が失せていくのを実感する。であれば、心の中に明里が潜む貴樹にとって、水野さんとの別れは大したことではなかったかと言えば、会社を辞める決心をし、水野さんからの別れのメールを受け取った後のマンションのエレベータの中で、手に持っていた鍵を思わず床に落とすシーンから、貴樹の心の傷の深さが思い知られる。また、「ただ生活をしているだけで、悲しみがそこここに積もる」さまは、貴樹の心の救いがたさが滲み出ている。

多分、貴樹にとって明里を思う気持ちは、他に付き合う彼女がいるとかいないとかとは関係なく、変な言葉ではあるが、彼にとっての存在意義の様なものになっていたのだろう。それほどまでに真剣で切実だった思いが、強迫観念に追われて没頭した仕事の中で失われてしまい、彼にとっては限界に達し会社を辞めることになる。

しかし、傷心の中で街を彷徨い、偶然入ったコンビニで探査衛星の記事を見ることになる。彼の心の中で何かがはじけ、たまたま偶然、神様の悪戯とでも言うか、昨晩、明里と貴樹が夢で見た岩舟駅での一夜の思い出がよみがえる。すっかり消えてしまった「真剣で切実だった思い」が貴樹の心に蘇る。道に出て、空を見上げると、ロケットや宇宙船、衛星ではないが、雪の降る夜空の中で羽ばたく2羽の鳥がいて、手の届くところまででいいから手を伸ばし、羽ばたいてみようかという気持ちが芽生えてくる。

彼にとっての再生の物語の始まりの瞬間である。「秒速5センチメートル」のタイトルバックと「One more time, one more chance」の曲は、その象徴的な映像だったのだと感じる。多分、この後で本当に立ち直ったと言えるまでには暫くの時間を要したのだろう。だから、12月末から翌年4月までの映像がこの映画には描かれていなかったのだと思う。

(疑問その7について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
そこで、第3話の最初と最後の踏切のシーンである。先ほど説明した貴樹の再生の物語の始まりは前年の12月末の話である。踏切のシーンはあれから3か月以上が過ぎたワンショットである。残念ながら、明里は1月に結婚し、東京での幸せな新婚生活3か月目の出来事である。出だしのシーンで、貴樹は自宅でコンピュータで作業をし、一区切りついて席を立つ。つまり、会社を辞めた後、生きていく限界を感じた貴樹が「もう一度、やり直してみよう」と仕事を再開し、その仕事が軌道に乗ってきたところを表しているシーンそのものである。そこには強迫観念はなく、「取り合えず、出来ることを着実に何とかやっている」姿から、彼なりに立ち直ったことが読み取れる。言ってみれば、貴樹の再生の物語の締めを飾る象徴的なシーンと言える。実際、その時の彼の表情は穏やかで血の通った顔である。既に、岩舟駅の夢を見た12月からは3か月以上が経ち、やっと、明里との思いでに溢れるあの街にやって来て、思い出の場所を歩き回るのである。

そして、あの踏切に辿り着く。

多分、満面の幸せを感じさせる明里の姿を見て、貴樹の心も何故か幸せになったのだと思う。その心のゆとりは、貴樹の心の再生を表しているのだと思う。もし明里が貴樹への想いを未だに持ち続けるならば、踏切を渡り切ったところで振り返り、貴樹に微笑み返すだろう。残念なことに、踏切を行きかう電車は、上り、下りと立て続けてやって来て、その電車が通り過ぎた時には明里の姿はそこにはなかった。「何故、追いかけないの?」という気持ちはだれもが持つが、あそこで仮に追いかけていたら、そして仮に二人の気持ちが両思いであったら、明里の新婚生活は破たんに向かうわけで、貴樹はまた誰かを傷つけることになる。
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あの後の貴樹がどの様な人生を送ったかは、あの映画の中には何もヒントがないし、「秒速病」の治療にはあまり意味がない。自分で見ていないので詳しくは分からないが、漫画版では貴樹のことを忘れられない花苗がお姉さんに背中を押されて東京にやって来て、貴樹と再会するシーンがあるようだが、ひょっとしたら既に水野さんとやり直すことができているのかも知れない。

しかし、私にとって重要なのは、あの最悪な年の暮れの出来事の後に訪れる、そこからの着実な再生という事実である。その「再生」は多分に貴樹一人での歩みであり、そこにはもはや鬱の要素はない。多分、「秒速病」患者の多くも、この点については同意していただけると思う。

その様な方に、少しでもモヤモヤが晴れてくれたらと思い、長々と書かせていただいた。書きながらの私のリハビリも順調の様である。これで、私も仕事に復帰できそうである。


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小保方氏のSTAP細胞騒動の裏側を覗く

2014-03-11 23:57:50 | 日記
今日は少々毛色の異なるお話をしてみたい。理研の小保方晴子氏のSTAP細胞にかかわる騒動についてである。

まず最初に断っておくが、私は技術者ではあるがこのSTAP細胞に関する知識を持ち合わせていないので、その真偽については技術的な議論をするつもりはない。また、小保方氏の論文にはとてもケアレスミスでは片付けられない杜撰な落ち度があり、その意味では研究論文の取り下げ&再投稿の手続きを踏まないと、後世において真っ当な評価がなされないであろうことも多分間違いないだろう。漏れ伝わる情報からすると、小保方氏はかなり若気の至り的なミスを繰り返している。その様な部分についてはそのまま受け入れるのは当然であるとして、ここでは、その様な部分を横において、その背後にある、あまり話題にならない部分について(多少の期待の意味を込めて)コメントしたい。

本題に入る前に、確か2週間ほど前だったと思うが、某ラジオ番組の中で哲学者の東浩紀氏がSTAP騒動について簡単に総括していた。既に時間が経ってしまって詳細は覚えていないが、中々鋭く的を得たコメントがあった。最大のポイントは、記者会見の中では如何にも簡単にSTAP細胞を作ることが可能であり、論文を読めば誰でも再現試験に成功しそうなようなアピールをしておきながら、実際にはSTAP細胞を作る上では秘密のノウハウが隠されていて、それを開示していないことが大きな問題だと世間から認識されているということである。ただ、その様な純粋技術的な問題であれば、(発表時もその後の疑惑報道でも)この様なフォーバーぶりはなく淡々と技術的な議論で終始するはずなのに、その技術以上に「理系女子『小保方晴子』」のプロモーションでもあるかの様な演出の仕方をしてしまっていたので、そちらの方が一人歩きして野次馬集団の餌食になっているという解説もしていた。確かに、世紀の大発見であるから多少はお洒落して発表に臨んでも良いのだが、割烹着やムーミンなど、余りにも研究に関係ないところで演出に手が込んでいたということだろう。理研の方も、政府からの研究費の補助とか、何か下心もあってその様な演出に加担してしまったのだろう。

私はこの手の生物学的な論文の常識は知らないのだが、テレビや新聞の報道などの噂で聞く限りにおいては、論文等の公表に当たって、この手の生物学的な論文ではかなり詳細な情報やノウハウの開示が義務付けられているように聞く。その様な視点からは、少なくとも小保方氏はこの情報開示義務に100%応えていないのは事実だろう。論文の記載ミスなどが五万と出てきたとしても、STAP細胞の実験がそこら中で再現していたならば、少なくともこの様にバッシングされることなく、記載ミスなどは大目に見てくれる可能性は高い。ないしは、論文の評価は地に落ちても、その大発見の評価だけは引き続き残り続けて然るべきである。それが再現実験の成功例を聞かないが為に、様々な所から非難の声が聞かれるようになった。もっと正確な情報を開示しろという要求が高まったということである。しかし、まかりなりにも別分野の技術者の端くれとして言わせて貰えば、本当にその100%の情報開示義務は正しいのかと言えば個人的には疑問に思わざるを得ない。これは小保方氏を弁護するという意味ではなく、報道機関はもう少し冷静に情報を扱って欲しいと言う意味である。

少し話は逸れるが、山中伸弥教授のiPS細胞に関しては、テレビでも色々と話題になることが多い。幾つか見た番組の中で、私は山中教授のプロフェッショナルぶりに感動を覚えたことがある。それは、研究の成果である様々な技術ノウハウは、必ず最後には特許という形で権利確保を行わなければならないのだが、この権利確保のための体制・手続きが京都大学内に完璧に作り上げられていて、完璧なサポート体制を組んで分業的に日々のデータやノウハウを取得した日時とその証拠を克明に記録していた。日本を始めとする多くの国々では、通常、特許というのは先出願主義といって先に特許庁に特許を出願した者に権利が与えられる。しかし、最近ではアメリカもその方向に移行しつつあるようだが、少し前まではアメリカは先発明主義といって、出願の有無に関係なく、先に発明をしたことが証明できれば、その人に権利が与えられるとされていた。この辺の微妙なところを防御すべく、山中教授の研究グループは日付入りの研究データの記録を徹底しており、あらゆる特許がらみの裁判で勝てる体勢を作っている。何とも恐れ入る徹底振りであった。研究者としての卓越した能力も疑いもないが、研究のマネージメントにまでも秀でていて、これこそがプロフェッショナルと呼ぶに相応しい世界的にも稀有な存在なのだろう。

しかし、通常の研究者はその様なマネージメント能力には疎いのが実際であり、確保すべき権利範囲を適切な手法で確保するのは難しい。理化学研究所がどの様な体勢で運営されているのかは知らないが、経済的にそれほど潤沢ではない研究機関であれば、特許化は研究者に任されることが多い。ワクワクするような研究とは異なり、権利化の作業は事務的な作業というべきで、第一線の研究者には退屈でしかない。だとすれば、研究の結果として世紀の大発見がなされても、それを権利化という形でサポートする体制が整わなければ、他者に権利をさらわれるリスクを残して学会発表をするような事態も十分予想される。何処かの企業に属する研究所であれば、その企業の利益を最優先するために、研究者の上司は部下の研究動向を管理し、必要に応じてサポート体制を組んだりアドバイスを行うことも可能である。権利化が十分でなければ、せっかくの研究成果を数年間に渡り発表を見合わせる指示をすることも珍しくない。実際、私もその様な道を選んだ経験がある。しかし、独立行政法人というところでは、一匹狼的な研究者が独自の研究を少人数で行い、あまり他の研究者からの干渉なしに行われているのではないかと推察する。であれば、何が起きるのか?

研究者は権利化の重要性は認識しているので、発表に際しては「情報の開示し過ぎ」を忌み嫌い、必要最小限の「論文としての体をなすギリギリ」の情報開示で逃げようと思うのが普通である。それが良いか悪いかはその専門分野のローカルルールによるのであろうが、通常は発明の明細書には、技術の肝になる部分だけは権利確保の範囲を明確にするために開示するが、付随する全てのノウハウを開示する訳ではない。つまり、それさえ分かればあまり技術のない人でも直ぐに作れてしまうという程の具体的な情報かといえばそうではない。その微妙な情報出し惜しみの駆け引きにより時間を稼ぎ、他者へのタイムアドバンテージを最大限に確保しながら、その優位的状態を少しでも長く維持することを考えるのである。

ここから先は推測の話が多くなるが、医療や製薬技術に関する特許などは、その周りに膨大なビジネスがついて回る。ひとつの発明が、膨大なお金を生むのである。だから、関連する企業や研究機関は、日々、凌ぎを削っているのである。この中では、やはりタイムアドバンテージを最大限に確保するために、権利確保に必要最低限の情報しか開示していないと推察される。例え話が適切かどうか知らないが、例えばある薬剤成分を発明し、その化学構造式を特許にて抑えたとする。しかし、構造が分かれば簡単に作れるかといえばそうではなく、製造技術に関しても相当な技術が必要になる訳である。それら全部を一度に出してしまってはもったいないので、核となる部分から順番に権利化し、付随する関連技術は少し隠し持っていたとしてもおかしくはない。STAP細胞についても、それが生むかもしれない膨大な経済的価値を考えれば、同様のことが行われるであろうことが予想できる。つまり、記者会見ではあまりにも「(お料理を作るように)誰でも簡単に作れる」と吹聴しすぎていたのだが、実際には相当なノウハウが隠されていて、そのノウハウに誰も辿りつけないので再現実験に成功していないという事態のようにも思えるのである。そんな時、競合する研究者はどう考えるのか?それは当たり前であるが、「もっと情報を出せ!俺にも一攫千金のチャンスを与えてくれ!」と思うのは当然である。だとすれば、全ての研究者が同様に再現実験が出来るほどの情報開示を小保方氏に強いるような圧力を報道機関が行っているとすれば、(それはあくまでも可能性として)この分野の主要な権利を日本で独占するチャンスをみすみす棒に振るようなことを行っているのであり、大袈裟に言えば「国益」すら損ねかねない。その辺はヒステリックにならずに冷静に対処するのが正しいはずである。

勿論、本当のところがどうなのかは神のみぞ知るという感じである。ただ、小保方氏の場合には不幸なことに、iPS細胞に関して1年半ほど前に「iPS細胞を使った世界初の心筋移植手術を実施した」という出鱈目な発表を経験しているがために、あのペテン師と同類かのような疑惑を向けられてしまうのである。多分、あのペテン師は「iPS細胞を使っただけなので、一部のマイナーなところでちょっとだけ脚光を浴びて、ことの真偽をその後に問われることなく逃げ切れる」と考えてさり気なく発表してしまったのかも知れない。しかし、常識的に考えて、今回のケースは世界を揺るがす世紀の大発見であるから、世界中をニュースが駆け巡ることは目に見えている。多くの人々が追試を試みるのは当然だし、そこで誤りであることが確定すれば、この研究の世界で生きていけないほどのバッシングを受けるのも目に見えている。しかも、理化学研究所という由緒正しい研究機関ということを考えれば、少なくとも内部的にも大々的な報道発表の前にその研究成果の妥当性を吟味していたと見るのが普通だろう。だから、どこぞのペテン師と一緒にするのは余りにも現実的でない。

かって日本では、常温核融合の発見という大失敗を経験しているが、物理現象の解釈(どの様な現象をもって、核融合と判断するかなどの基準)というようなミスが、(分野が異なるので断定はできないが)今回のケースでは入り込み難いのではないかと素人ながらには予測する。

であれば、小保方氏を筆頭とする研究グループが、その研究のマネージメントとしては余りにもアマチュアで、そのドタバタぶり故に世界中で大恥をかくのは仕方がないにしても、それがダイレクトに研究成果の否定につながる訳ではない。研究成果の価値そのものは、今後の追試によって検証されるべきである。であれば、新聞としては現時点では一喜一憂などする必要はなく、今後数年間に渡る専門家による検討結果が出るのを見守るのがスジではないかと思う。

今回の教訓として、研究能力は一流でも、その研究のマネージメントに関しては三流の日本の研究体制に対し、もう少しマネージメントのプロがサポートできる体制が必要であることを再確認したように思う。そのための予算はケチってはいけないのである。それと、もうひとつの教訓は、科学技術分野の発表を余りにも俗っぽく演出することの功罪も問われるべきなのかも知れない。

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映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」のタイトルの意味を探して・・・

2013-10-24 23:43:11 | 日記
今日は政治のお話はお休みで、昨日観た映画(レンタルDVDで借りたもの)について書いてみたい。既に周回遅れという感じだが、日本では昨年の2月に公開された「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い(原題:Extremely Loud & Incredibly Close)」である。私の癖ではあるが、映画のタイトルに対する執着が強く、このタイトルの意味を考えた末の自分なりの結論をここでは書いてみたい。多分、このブログの読者も観たことのない映画だろうからどうでも良い話だが、興味がある方は映画を観れば共感を感じてもらえると信じている。ネタバレになる部分は最後の方に明記するので、映画をいつか観る気のある人は観終えてからコメントを読んで欲しい。

さて、この映画はアメリカの9.11のテロ事件を題材にした映画で、監督はスティーブン・ダルドリー氏で、2012年のロンドンオリンピック、ロンドンパラリンピックでは、開会式・閉会式の総合プロデューサーを務めたという。主人公の子供は新人だが、トム・ハンクスとサンドラ・ブロックが父、母役を演じている。9.11で父を亡くした子供が、その父が残した謎の「鍵」が何の鍵かを捜し歩くというストーリーである。何かのテレビ番組で映画評論家が絶賛していたので非常に気になっていたが、結婚してからは映画館で映画を観る機会がすっかりなくなり、しかもレンタルDVDにしても子供向けの映画を借りてみる機会が多くなってしまったから、大分遅れての鑑賞だった。大人向けの映画を嫁さんと一緒に観たのは久しぶりでもある。

まあ、自称・映画評論家と言われる人は、視聴者が映画に興味を持ってくれてナンボの商売だから、過剰に高い評価をするのは良く分かるが、1度見ただけではその意味が分からなかった。

引き合いに出すのも如何なものかとも思うが、アメリカにおける9.11は、日本における3.11に相通じるものがある。日本においても3.11を扱う映画はあるが、日本人にとって3.11を描くというのはある種、特殊な意味がある。私にとっては、最近の「あまちゃん」が描いた3.11がとても印象的だった。朝ドラという特殊性故に、「あまちゃん」には出演者の中には津波で死亡した設定の者はいなかった。ただ、短絡的には「ドラマチックに描きたい」とお涙ちょうだい的に過剰な演出に走りたくなるところを、宮藤官九郎の本領発揮で、極めて抑えた演出で「あまちゃん」流の3.11が描かれた。多くの登場人物は、打ちのめされ途方に暮れながらも、同情を誘うような素振りを見せず、誰かに頼るのではなく現実を直視しながら何処かで「自分の力で乗り越えなければならないもの」と割り切っているようなところがあった。思ったようには物事は進まないが、ひたむきに頑張り続ければ、いつか乗り越えられる日が来るという描かれ方だった。朝ドラという与えられた場の中で、短絡的でドラマチックなハッピーエンドとは異なる一種独特の抑えたエンディングだった。

一方で「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」は映画という媒体の中で、思いっきり狙った通りの演出が許されるのだが、見終わった後の感想は「???」という、クエスチョンマークが連続するものだった。それなりに「良かったね」という終わり方ではあったが、「それだけかよ!」と文句を言いたくなるような終わり方だった。正直、最初の1時間ほどは恐ろしく退屈なシーンが続く。さっさと先に進んで欲しいのだが、それがどの様な意味があるのかと思うような逸話が多く出てきて、思わずうつらうつらしてしまう様な流れだった。そして何よりも私が消化不良だったのは、何とも独特なタイトルの意味が全く分からないのである。私は確信を持って言わせてもらうが、もし有能な映画監督であれば、そのタイトルを何にするかは滅茶苦茶時間をかけて考えるはずである。それほどタイトルというのは重要な存在である。過去のブログでも少し触れたが、私は「ソフィーの選択(原題:Sophie's Choice)」という映画を観てえらく感動した。ある時、テレビでこの映画を放映した後、映画評論家の水野晴郎氏が、「人の人生には色々な『選択』がある。この映画も、そんなソフィーが下した色々な『選択』を描いている」と解説したが、私は非常に不快になったのを覚えている。この映画のタイトルの「選択」は、決して複数の「選択」など指してはいない。たったひとつの「選択」が全てを決めてしまったのである。物知ったように解説しようとして、脚本家や映画監督の意図を捻じ曲げてしまったという感想を持った。その様なこだわりがあるのでだと思うが、(根拠はないのだが)観終った時に何かこの不思議なタイトル「Extremely Loud & Incredibly Close」の裏に、私が気が付かなかった何かが隠されている様な確信を得るに至った。そこで、映画を観終わった後でネットでタイトルの意味を探しまくった。しかし、何一つとして私を納得させる答えは見つからなかった。

以下はネタバレになるのだが、その様なもがき苦しみと、その後で見出した結論についてまとめておきたい。

まず、ネット上に流れていた答えで一番多いのは、「『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』存在=母親」というものだった。父親との繋がりが強い故に、母親とは上手くいかずもがき苦しんでいた子供が、最後の最後に母親と和解するに至ったので、だから「母親」が答えだと言いたいのだろうが、それは有り得ないと私は確信する。この問題を解く上で、私が気になった点を以下に整理しておきたい。

(1)「Extremely Loud & Incredibly Close」というタイトルは、子供が自分の「鍵探しの旅」の進捗を逐次まとめていた本の表紙に書かれたものであった。だから、この映画のタイトルを理解する上では、この子供が何故表紙のタイトルとして「Extremely Loud & Incredibly Close」を選んだかを理解する必要がある。子供が母親を意識してこの様なタイトルを付ける訳がない。また、本の表紙のタイトルは子供が最初に付けただろうから、母親との最後の最後の和解を予期できていた訳がない中で、母親を表題にする訳がない。

(2)映画の原題と邦題を比べると、「Incredibly」を「ありえない」と訳している。素直に訳せば「信じられないほど近い」となるはずだから、敢えて「信じられない」を「ありえない」と訳すことには何か意味があるに違いない。

(3)タイトルとは直接関係ないが、映画の宣伝では謎の「鍵」がこの物語の非常に重要な「鍵」という位置づけであったが、終わってみれば、「鍵」などどうでも良いものであった。鍵の持ち主が「貸金庫に一緒に行ってみるかい?」と聞かれ、私は当然の如く「行く」と答えると思ったが、少年はそれを拒んだ。家に帰ってからも、膨大な時間をかけた「鍵探しの旅」が無意味であったことに感情を抑えきれなくなり暴れるに至った。「鍵」は「鍵」じゃないじゃないか・・・という不満は私にも伝染して不快になった。

(4)映画のオープニングは父親がWTCビルから落下するシーンから始まる。それ以外にも様々な所で人の落下シーンが登場する。煙を上げるWTCビルは映し出されていたが、WTCビルの崩壊シーンなど、あまり刺激的なシーンを利用していなかったから、どうしてそこまで落下シーンに拘るかが分からなかった。この拘りはあまりに不自然である。

(5)映画監督は最後に母親との和解のシーンや、ブランコで遊ぶシーンを挿入している。少々、短絡的な挿入の仕方の様に思える一方で、前半部分の1時間ほどの間には退屈なシーンを多用している。映画をドラマチックに仕上げたければ色々なやり方があると思うのだが、この監督は一般受けのする映画という誘惑を断ち切って、前半をわざと退屈に演出するという選択をしたように感じた。能力の高い監督なのに、何故、その様な演出にしたのだろうか?

まあ、こんなところだろうか?1日ほど考えて、最後の最後に(1)の「何故、少年は本の表紙に『Extremely Loud & Incredibly Close』を選んだのだろう」という問題に立ち返り、「では、少年にとって『Extremely Loud & Incredibly Close』とは何なのか?」を考えるようになった。少年は目的をもって「鍵探しの旅」を続けていたはずである。だから、その目的を達成できずに家に帰ってから荒れてしまったのである。では、何を求めて「鍵探しの旅」をしていたのか?

私の答えは、この少年は自分の心の中に様々なトラウマがあり、それを乗り越えなければならないものと感じていたに違いない。その「乗り越えるべきもの」を探して「鍵探しの旅」を続けていたのである。その「乗り越えるべきもの」は極めて抽象的で、しっかりとその原因を「これだ!」と言い切れるものではなく、ぼんやりとしたものである。父親がWTCビルからかけてきた電話の向こうの騒々しさや、自分をところ構わず襲い続ける「電話に出なかった自分」を責める声など、タンバリンを叩いていなければ耐えられない「ものすごくうるさい」ものがそこにある。一方で、逃げようとしても逃げれない、自分の体にまとわりつくような「ありえない近さ」も感じていたに違いない。決して、この様に解説する様なものではなく、多分、少年の心の中では「何か良く分からないが、感覚的にしか捉えられない『乗り越えなければならないもの』を敢えて言葉にするならば、それは『Extremely Loud & Incredibly Close』って感じかな・・・」という程度のものだったに違いない。だから、それを「何か、もっと具体的な物」と信じて探そうとしていると「母親?」とか誤解してしまうのではないかと思った。

多分、少年は毎夜毎夜、父親がWTCビルから落下してくる夢を見ているのではないかと私は思った。その夢から逃れる、ないしは電話に出られなかった自分を受け止めるためには、何か父親が与えた試練を乗り越えなければならず、そのために「鍵探しの旅」を始めたのだろう。しかし、見つかった「鍵」の答えは、少年が期待する様な「父親が与えた試練」を感じさせるものではなく、その長い長い時間が全くの無駄になったことが耐えられなかったのだと思う。しかし、答えは意外な所にあったのである。少年が「乗り越えなければならないもの」を探している時、自分の母親も自分なりに「乗り越えなければならないもの」を持っていて、それを乗り越えるために自分と一緒にその何か(「鍵」のことではない)を探していてくれた。自分一人で乗り越えなければ許して貰えないと信じていたのに、自分が上手く関係を構築できないと感じていた母親が、母親なりの「乗り越えなければならないもの」を探している姿を目の当たりにして、永遠の孤独から解放されたような気持ちを感じたのだろう。だから少年は、ブランコという壁を「乗り越えられるかも知れない」と信じるに至り、偶然にもそのブランコの下に父親が残した手紙を見つけ、ブランコを乗り越えるに至った。

時系列的にはどちらが先かは分からないが、「Extremely Loud & Incredibly Close」と題した「鍵探しの旅」をまとめた本の最後に、赤い紐を引っ張ると、ブランコから投げ出された父が放物軌道を描きながら上手くWTCビルに着地するパラパラ漫画を描くことができた。今まで落下してきた父しか思い浮かべることが出来なかったのが、WTCビルにジャンプアップする父の姿に昇華することが出来るようになった。まさに、彼が「乗り越えなければならないもの」を乗り越えたことを象徴するシーンである。

蛇足ではあるが、少年の苦しみは長い長いトンネルであり、(監督にとっては)その感覚を我々が感じるためには前半の退屈な長い長いシーンが必要だったのだろう。決して9.11をドラマチックに描くのではなく、自分自身で乗り越えなければならないものとして描いているように感じた。誰かが手を差し伸べて乗り切るのではなく、あくまでも自分自身で乗り越えるしかないのである。その乗り越えるための「鍵」として、あくまでも小物としての「鍵」が登場する。それは決して「魔法の鍵」ではなく、もっと地味でつまらない「鍵」なのだろう。あくまでも小物でしかないが、それがなければ乗り越えるべきものを乗り越えることが出来なかった、そのきっかけとしての「鍵」は重要な意味を持つ。誰も、「魔法の鍵」に頼ることは出来ないという象徴なのだろう。

映画を観終わった後の不完全燃焼な感覚と、色々と考えて自分なりの答えを見つけて映画を思い出した時の評価は大分異なるものである。アメリカ人にとって9.11を描くということは、そう単純なものではないのだろう。それを理解するには、少々、生みの苦しみの様なものが必要なのかも知れない。だから、あの映画のそれぞれの退屈なシーンは、今となっては全て必然のようにも思えてくる。少年が謎解きの様な「鍵探しの旅」に出かけたように、監督も我々に「謎解き」を投げかけたのかも知れない。多くのユーザによる評価ではこの映画はあまり高い点数を得ていない。その「謎解き」の難しさがその評価の低さの原因であると今は感じている。それも9.11をテーマとする映画の宿命かも知れない。

色々と書きながら、上手く表現しきれていないが、それでも言いたいことの70%ぐらいは表現できたのではないかと思う。あの映画を観た人の多くはタイトルの意味を探しにネットを捜し歩くに違いない。その時の感情を共感してみたい。そんな気持ちで今日のブログを書かせて頂いた。

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「分かる奴だけ、分かればいい」、現代版のお伽噺

2013-09-25 23:55:21 | 日記
今日はドラマのお話である。今更の話題なのであるが、NHKの朝ドラの「あまちゃん」のお話である。

最近はドラマの視聴率の高さが話題になっている。「あまちゃん」以上に高視聴率なのは「半沢直樹」の方で、先日の半沢直樹の最終回では「家政婦のミタ」を超えて関東では42.2%であったという。この最終回を見て何とも不完全燃焼を感じたのだが、原作では既に続編が存在しており、原作者がドラマ終了後に「原作通りでしたね」とコメントをしていたことからも分かる通り、予定通りのシリーズ化ということなのだろう。しかし続編の原作に関しては、(私は読んでいないので)Amazonの書評を読む限りではこれまた素晴らしいお話らしい。「前作の2作品はまさに3作目のための布石のようだ・・・」という趣旨のコメントを読むと、学生時代に読んで感動した三浦綾子の「続・氷点」を思い出した。映画化、ドラマ化されて有名な「氷点」の続編であるが、「氷点」を読んだ時のワクワクしたストーリー展開に対し、「続・氷点」を読んだ後の感想は「作者は『続・氷点』を書きたくてその導入として『氷点』を書いたのでは・・・」というものであった。本を読みながら涙で目が潤み、心の中の汚れたものが流されていく様な感覚に浸ったことを覚えている。

まあ、こちらのお話は将来のお楽しみとして、今日のメインの話題は「あまちゃん」である。ストーリは今更説明するまでもないので省略するが、あと15分×3話で最終回を迎える。言うまでもないが、ひとつ前の朝ドラ「純と愛」とは対極的なドラマである。我が家では、嫁さんと子供が両番組ともハマっていたが、私は「純と愛」を見ていると笑いながらも居た堪れない気持ちになった。朝も早くから、「よくもそこまでやってくれるなぁ~」と言う程、不幸に不幸が重なり、這いつくばって立ち上がると、更に次なる不幸が襲い来る。最後だけはハッピーエンドかと思いきや、最後の最後まで視聴者を裏切って不幸の爆弾を投げつけられた感じだった。それが「あまちゃん」では真逆であり、どんなに逆境になっても何故か自然と切り抜けて、気が付くと歯車がうまく回っている。こう書くと短絡的なストーリーの様に思えるが、その歯車の回り方が極めて自然だから、違和感なく無茶な展開にもすんなりついていける。脚本の工藤官九郎氏のセンスの良さには脱帽である。

しかし、そんな手放しで底抜けに楽しい「あまちゃん」ではあるが、見ている人は誰でも気が付くように、「あまちゃん」の中にも如何にも不自然な「純と愛」と同様の理不尽な不幸が存在する。それが初代ミス北鉄のユイちゃんである。安心して見ていられる「あまちゃん」の中で、唯一、ユイちゃんだけには安心して見ていられない貧乏神の影が付きまとう。如何にもひとりだけ不自然で不公平なストーリー展開である。しかし、東京に上京する電車(北鉄)のトンネルの中で東日本大震災に合い、目の前に続くはずのレールが無くなっている地震の被害を目の当たりにし、何度目かの東京への道を絶たれたユイちゃんのエピソードを見て分かった様な気がした。それは、この朝ドラのテーマは「再生」であるということである。壊れた海女カフェの復活など、震災からの復興は当然であるが、最大のテーマはユイちゃんの「再生」である。多分、明日か明後日かには、ユイちゃんの「再生」を目の当たりにすることができるだろう。そして今日のお話は、鈴鹿ひろ美こと薬師丸ひろ子の「再生」のお話であった。そして同時に、天野春子こと小泉今日子の若かりし頃の幽霊?の「再生」でもあった。言い出すとキリがないが、ここ最近は登場人物が次から次へと「再生」していく。無理をして背伸びする訳でもなく、誰かに一方的に助けられる訳でもなく、皆が何となくまとまって気が付くと歯車がうまく回り出して「再生」がなされる。

言ってみれば、現代版のお伽噺である。生きていく中で壁にぶつかり、一旦は諦め、それでも諦めきれずに再度立ち向かって「再生」していく。あまりにも野暮なので言いたくはないが、日本経済も今が「再生」の最中である。明日は今日よりも良い日が訪れるという期待を無意識のうちに持ち続けられる、そんな「再生」が叶う現代版のお伽噺として「あまちゃん」は何とも心地良いのである。

最後にどうでもよい話だが、漁協の事務員の花巻さんの言葉、「分かる奴だけ、分かればいい」が何ともイイ。これも「分かる奴だけ、分かればいい」話であるのだが・・・。

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最悪の出来の本田圭佑の存在意義!

2013-06-05 23:11:05 | 日記
昨日、サッカー日本代表がワールドカップ・ブラジル大会への出場を決めた。今日はその記者会見も行われ、ほんの束の間の休息というリラックスした雰囲気があった。テレビでは本田圭佑のPKのシーンが繰り返されて、「さすが本田!」という論評ばかりだった。私も全く同じなのだが、微妙に思いは異なる。2011年11月15日に北朝鮮に負けた際のブログ、「本田圭佑という財産」に書かせて頂いた通りなのだが、本田という存在の意味を改めて思い知らされた。

まず、確認をしておきたいのだが、昨日の本田圭佑のデキは最悪だった。それはそうだろう。怪我は治ったと言いながらも足の状態は100%ではなく、爆弾を抱えた状態である。実際、試合が終わった後も足を引きずっていたような雰囲気であった。さらに、ロシアでのカップ戦決勝を終えて、とんぼ返りで中二日、時差ボケも取れずに疲れが溜まっている状況での試合だから、通常であれば後半途中からの投入というのが常識的な線である。しかし、岡崎も含めて先発メンバーに名を連ね、本田に関しては90分、フル出場であった。だから、如何にも体が重そうな動きで、パスなどの判断が遅れ気味で、細かなプレーの精度は低かったと思う。

では、「じゃあダメじゃん」となるかと言えば、試合の最初から、明らかに先日のブルガリア戦とは明らかに異なっていた。何が違うかと言えば、圧倒的にボールが前に前にと送られる点である。細かなデータは知らないが、ブルガリア戦では少なくとも不毛なバックパスだらけで、選手の心の声として「あー、何処にパス出そうかな、中々コースがないなぁ。無理はしたくないから取りあえず戻そうか・・・」という様な声が聞こえるようであった。しかし、昨日の試合では、選手の心の声として「リー、リー、リー。ハイ、行くよ!行くよ!」と、常に前を見て、僅かなパスコースを探しながら、相手選手に「さーさぁー、寄って来いよ!」と挑発をしながら、相手の動きによって出来る隙を常に伺っている様な感じだった。もちろん、調子の悪い本田が前日に加わったぐらいで急に流れるようなプレーが出来る訳もなく、所々でじれったいところはあったが、それでも戦う集団という気迫は伝わってきた。

オーストラリアの攻撃に対して裏を取られるシーンは何度もあり課題も明らかになった。しかし、見た感じではディフェンスラインを積極的に上げて攻めの守備をしていたところを、相手が積極的にその裏を狙っていたのが原因だったと思うから、今の状態は良くなくても目指すべき方向性としては理解できる。2006年のワールドカップで、中田英寿がディフェンスラインをあげてコンパクトなサッカーを目指したのに対し、宮本などのディフェンス陣が「リスクを冒したくない、引いて守りたい」と対立し、前線と守りの間が間延びして組織的なサッカーが出来ずに完敗して終わったことを思い出せば、消極的に戦って負けるよりは100倍良い。

勝負が動き出したのは、PKの前のプレーで、本田が積極的にシュートを打って相手ディフェンダーにブロックされたのに対し、首に血管を浮き上がらせて「チキショーォォォォッ」と吠えた瞬間だったと思う。まさにスイッチが入った瞬間だ。素人から見れば、何であんなところでハンドするんだ(馬鹿だなぁー)と、あまりに棚ボタ的なPKで驚いてしまうが、ギリギリの裏に通すパスがあまりにも絶妙な位置で、相手が相当に「ヤバい!」と思ったから体でトラップするつもりが手が体から離れてしまったのかも知れない。見るからに相手のポカだが、ひょっとしたら本田の狙いの勝ちなのかも知れない。

ところで、最後のPKについて、本田は「真ん中に蹴って止められたらシャーない」と言っているが、絶対に嘘である。変な話題を引き合いに出すが、野球のWBCの韓国戦を前に、イチローが「今後、10年間は日本には勝てない・・・と思い知らせる様な試合をしたい!」と言っていたが、これと似たような思いが本田にはあったのだと思う。本田はかって、シュートチャンスの時に、味方が良いポジションにいて「パスを出した方が、得点の確率が高い」というときに、敢えてシュートを打つ意義を次の様な言葉で語っている。曰く、「その1回限りでは、シュートを打たなくてもどうってことはないが、そこで敢えてシュートを打つことで、次のチャンスの時に『こいつ、また打って来るな!』と相手を怯えさせることが出来る。この様なプレッシャーがかかるから、長い目ではシュートを打ち続けることに意義があるんだ・・・。」という感じだったと思う。では、あのシーンで真ん中にシュートを決めることにどういう意味があるのか。多分、相手キーパーは思ったはずである。「こいつ、化け物かぁーっ!」ゴールの隅に絶妙のシュートを決められても、多分、「やられた!上手いな、こいつ」ぐらいにしか思わない。しかし、あそこに蹴られてしまうと、自分の理解を超えた恐ろしい奴という恐怖が一瞬浮かんだと思う。ひょっとしたら本大会の何処かで当たるかも知れない相手であり、そこで「本田にはかなわないぜ!」と思わせることに意義があったのではないかと思う。

勿論、リスクは大いにある。あそこでPKを失敗すれば、下手をするとそれが原因でワールドカップを逃すという可能性もゼロではなかった。誰もがそんなリスクを取りたくないのだが、リスクを取らねば会心の勝利を収めることはできない。目指すべき目標が高くなければできない決断である。

改めて思うのは、本田圭佑の存在の大きさである。サッカー選手としての能力としては、明らかに香川や中田英に劣る。しかし、より強く歴史に名を残すのは彼の様な選手だろう。これからの更なる進化を期待したいものである。

最後に、TBSの「ひるおび」で紹介された面白い話題をひとつ。昨日の渋谷駅前のスクランブル交差点は、ワールドカップ出場決定で興奮した人達が暴動を起こして車の通行に支障が出ない様に厳戒態勢を引いていたという。そこで交通整理をしていたお巡りさんが、拡声器を手にして粋な誘導をしていたという。曰く

「日本代表は、フェアプレーでワールドカップ出場を決めました。その日本代表を応援する皆さんは12番目の選手です。日本代表はルールとマナーを守ります。日本代表がワールドカップを決めて、お巡りさんもこんな日に怒りたくはありません。だからどうか皆さん、皆さんもフェアプレーでお願いします!」

上手い!座布団10枚!

日本代表の今後の活躍と、こんなお巡りさんの活躍を共に期待したい!

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だから天体ショーはやめられない!

2012-05-21 22:44:56 | 日記
今日は政治の話はお休みである。

昨日の夜の時点ではかなり厳しい予測が広がっていたが、今朝は金環日食を見ることが出来た。自宅で朝起きたときには窓の外は雨だったが、テレビやネットの情報を頼りに方向を決め、車で40分ほど走らせたところで無事に金環日食を見ることができた。ちょうどラジオでカウントダウンが始まったところだったので、雲の切れ間から綺麗なリングが見えた瞬間は感動した。そこで車を止め、思う存分日食を楽しんだ。子供の頃に部分日食を見たことはあるが、部分日食と皆既日食ないしは金環日食は雲泥の差である。私が最も驚いたのは、金環日食では空が真っ暗にはならないということである。天の岩戸の話ではないが、一瞬は夜のようになるのかと信じていたが、よくよく聞いてみれば今回はリング状にはみ出した太陽の面積は10%程度あり、それだけでも十分な明るさになるということのようだ。なるほど納得である。多分、皆既日食を見ることができたらもっと激しい感動をしていたかも知れない。

思い起こせば、就職してまもなくの頃の夏、友人に誘われて見に行ったペルセウス流星群には思い切り感動したものだ。山の中の明かりの全くないところまで車を飛ばし、開けた場所を探して寝転がり空を見上げた。その友人の別荘が近くにあるということでその場所を選んだのだと思うが、明かりのない場所の星空があれほど綺麗だとは思いもよらなかった。「降るような星」とはよく言ったものである。天の川のことをMilky Wayと言うが、これも上手い表現だと感心した。その様な満点の星の中で、流星がビュンビュンと飛ぶのである。その時は、一分間に数個のペースで流星が流れていたと記憶している。何時間も流星を見続けたが、全く見飽きることはなかった。

その次の記憶は百武彗星である。同じく友人と夜中に車を飛ばして彗星を見に行った。高速を飛ばしている間は空が明るく見つけることが出来なかった彗星が、高速を降りて山の中に入ってしばらくして車を止めた途端、空を二つに分けるようにうっすらと白い尾を引いた彗星が空に見えた。更に山奥に入りカメラを構えると、その彗星の尾は標準レンズでは収まり切らないほどの長さだった。当時はデジカメなどなかったから、色々露出を工夫して何枚も撮ったが、流石に端から端までの彗星の尾を写真に収めることはできなかった。後から知ったのだが、丁度この日は彗星の核の一部が分裂し、最も尾が綺麗に見えた日だったらしい。昔の人は彗星を不気味な出来事の余兆だと考えたそうだが、確かに原因を知っているから綺麗だと思えるのだが、知らなかったら気味が悪いと感じたかも知れない。それほど、強いインパクトを感じたのを覚えている。

その後もヘールホップ彗星やしし座流星群など、メジャーな天体ショーは見に行くようにしている。友人の中には海外まで日食を追いかける日食ハンターもいるが、そこまでやらないにしても、手の届く範囲でベストを尽くして見るのは大切である。今回は子どもの小学校の運動会が週末にあり、その代休で子供も休みだった。急に「よし、出かけるぞ!」と私が叫んだ時、嫁さんと子供は呆気にとられていたが、結果は子供たちも満足してくれた。急いでとんぼ返りし、その後に私は仕事に出かけたが、中々良い一日だった。

この程度のことなら、ちょっとその気になれば出来るはずである。今年の夏はペルセウス流星群の条件は比較的良いらしい。山の中のキャンプ場を探すなどして、今年の夏も子供と一緒に宇宙の神秘に触れるのを是非ともお薦めしたい。

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危険な美しさ(You're Beautiful.)

2011-12-12 23:52:50 | 日記
先日から資生堂 TSUBAKIのCMソングで「You're Beautiful」という曲が流れ始めた。

私はここ数年、洋楽の世界に疎いので、2005年にJames Bluntのこの曲がヒットしたことを知らなかった。ちなみに、このCMソングはリミックス作品でJames Bluntのオリジナルの曲ではないらしい。

私がこの曲が気になり出したのは、2ヶ月ほど前の朝の通勤の際に、FMラジオでこの曲がかかってからだ。何処かで聞いた懐かしさと、「You're Beautiful. You're Beautiful」と続くフレーズの美しさに心惹かれ、早速昼休みにネットで検索をかけた。You TubeにJames Bluntが歌うプロモーションビデオがあり、思わず見入ってしまった。

雪の降りしきる真っ白い世界の中で、黒い服を着た彼が歌い続ける。極寒の中、順番に服を脱ぎ、それを白い地面の上にきれいに並べていく。最初に観たときには全く意味不明であったが、非常に意味深な感じはした。

一体、これは何なんだろう。そして、最後は深い深い海に落ちていく。

私は最初、この曲はラブソングだと思った。英語の歌詞とその和訳を探して、何度も読み返しながら、やっと意味が分かった。

CMで流れている部分はこの部分である。

You're beautiful. You're beautiful.
You're beautiful, it's true.
I saw your face in a crowded place,
And I don't know what to do.

どうしてもこの部分が頭に残るので、ラブソングの印象が強いが、実は曲の持つ意味は全くの真逆である。洋楽に詳しくない方は、是非、曲を聞いて、歌詞を読んで、私の受けた感覚を味わって見て欲しい。だからここまでの記述でやめておく。

しかし、本当に美しい曲だと思う。美しすぎて、だから怖い。危険な美しさである。曲を聴くと、地下鉄で天使に出会い、微笑みかけられた主人公に感情移入をしてしまう。完全に酔ってしまい、感覚が麻痺してくるのが分かる。多分、その時はそんな感覚になってしまうのかも知れない。近づいてはいけない世界なのである。

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本田圭佑という財産

2011-11-16 22:37:05 | 日記
昨日、2014年W杯アジア3次予選で北朝鮮に日本代表が負けた。

テレビではその状況の異様さから負けた日本代表に対する同情の言葉が多く聞かれたが、よりによって11月15日という日本にとって大きな意味のある日(横田めぐみさんが拉致された日)に負けたことは残念でならない。何故負けたんだろうと考えながら、負けた理由ではなく勝てなかった理由に思い当たった。

本田圭佑の不在である。

少し時計を遡らせよう。2010年W杯の活躍で、岡田監督はいつしか優秀な監督と位置づけられるなった。しかし、W杯直前の代表強化試合の韓国戦までは、多くの人がその能力に疑問を持っていたはずだ。しかし、次のイングランド戦で流れが変った。岡田監督の決断であるが、「俊介のチーム」から「本田のチーム」に舵を切ったのである。この時から川島もスタメンとなった。

何も、これ以降の本田のプレーがどうのこうのと言う訳ではない。個人的には、W杯のプレーで一番気に入ったのは長友の攻守に渡り完成度の高いプレーであった。しかし、重要なのは個人のプレーではない。本田の持つ、闘争心のオーラなのである。誰もが、このイングランド戦から「戦う集団」となったことを実感したはずだ。

それから1年して、今年の8月の韓国戦。これほど気持ちの良い試合を見たのは何年ぶりだろうと思った。3-0の得点差以上の圧勝で、理想とするサッカーができていたと思う。まさに「戦う集団」。

では、何故、「俊介のチーム」ではダメだったのだろうか?それは緊張感が全然違うからである。聞いた話では本田は、試合の数日前から、同僚と一緒に食事をするのも避け、一人、試合に対する集中力を高め、甘えを許さない厳しい気持ちを維持しようとするそうだ。以前、自民党政権時代の安部内閣が「お友達内閣」と揶揄されたが、「俊介のチーム」は「お友達チーム」だったのである。

なでしこジャパンが北京五輪で4位入賞を果たした際、間宮は「苦しい時には私の背中を見なさい」と澤に声かけられ、戦い抜くことができたそうだ。本田はそんなことは決して言わない。しかし、言わなくても彼のプレーが雄弁に物語るのである。その緊張感が、例えばボールの出しどころに困ってバックパスをするような消極的なプレーを抑え、前を見てチャレンジする気持ちを奮い立たせる。自分が目立つためではなく、チームのために献身的に貢献する。そんな姿に心を熱くさせられる。

試合によって、彼自身の好調不調の波はあるが、彼のオーラがチーム全体に与える影響は大きい。誤解を恐れずに言えば、本田の実力を100%とすれば、中田英のパフォーマンスは明らかに120%以上であろう。選手としての技能という意味では、決してヒデには追いつくことはできないだろう。しかし、彼は自分を追い込むことによって、試合の中で120%の力を発揮できるように、自分と、そして仲間の集中力および戦闘意識を高め、その力を発揮してきたのである。

彼が怪我をして以降、日本代表の試合を見ても緊張感が感じられない。戦う集団としてのファイティングポーズを示せていない。例えて言えば、2010年5月24日の韓国戦以前に逆戻りしてしまった感じだ。

あらためて感じる。本田圭佑は日本の財産だと。。。

そしてリーダーシップとは、こういうものなのだろう。政治の世界も同じである。

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巨人問題に野次馬的視点で・・・

2011-11-15 23:33:09 | 日記
最近、巨人問題が世間を賑わせている。今日は完全に野次馬感覚で思ったことを書いてみる。殆ど、好き嫌いの話なので、あまり論理的な一貫性は無いかもしれないが、その点はご容赦を…。

まず、街角インタビューなどの世間的な評価としては、読売グループ会長の渡辺氏のワンマンぶりに巨人軍球団代表兼GMの清武氏が反旗を翻したとの判断から、理屈は抜きにして「どうせ悪いのは渡辺氏」と圧倒的な状況である。

しかし、法律やビジネス側の人からは、概ね「江川氏の問題の暴露は守秘義務(厳密には『忠実義務?』)違反でコンプライアンス的にNG」と評価されているようだ。さらには、桃井オーナーを始めとする球団関係者は渡辺氏の逆鱗に触れないように慎重な発言をするか模様眺めの状態で、清武氏には何処からも援軍はこない。細かい事情は良く分からないが、圧倒的に清武氏が不利な状況といえる。

この様な状況になったのは、渡辺氏の反撃が完璧だったためだろう。反論の文章を読むと、「内輪喧嘩をしているが、それぞれに言い分があって、その中で『法的』にはどうかといえば清武氏の守秘義務違反の方が重そうだな…。」と感じさせてしまう。

しかしこの球団人事の話は、球団代表兼GMのところに原監督、桃井オーナー等を含むオフィシャルなルートでは上がってきていないので、単に一部の平取締役の思いつき(原監督も「色々話題に上った中のひとつ」としか言っていない)とみなせば、守秘義務の対象とはなりえない案件かも知れない。しかし、(仮に平取締役の発言であろうと)渡辺氏の権力を考えれば暫くすれば本当に実現してしまうだろうと誰もが信じるに至り、結果的に実現性の極めて高い秘密の暴露とみなされてしまうのかも知れない。このような点は、清武氏にとって不運だったかもしれない。

一方、清武氏の最大の弱みには、「何故、日本シリーズにこれをぶつけるのか?」という野球人の守るべきマナーを破ったという背景もあるだろう。しかし、日本シリーズが終わる頃には渡辺氏サイドは江川氏の入閣をすっかり固め、既成事実化してしまうだろう。江川氏が完全に乗り気になってから話をチャラにするとなると、それはそれで禍根を残すことになりかねない。そうなる前にそれを暴露する必要があるが、その時点では既に守秘義務違反となりそうなので、まだ今なら守秘義務違反とならないであろうギリギリのタイミングとして、今回の日本シリーズ直前というタイミングを選んでしまったのだろう。

なお、今回の事件は予想に反したタイミングで清武氏が弾けてしまったために渡辺氏としても予想外なのだろうが、清武氏がどんなに頑張っても、渡辺氏が親会社の権限を駆使して子会社のオーナー、代表兼GMの人事刷新を行なってしまえば、ヘッドコーチの人事など簡単に且つ合法的に出来るわけで、そうなる前にことを起こそうとしてこのタイミングになってしまったのかも知れない。これらの意味で、ことを起こしたタイミングが後々、重要な意味を持つのかも知れない。

話を渡辺氏の反論に戻すと、渡辺氏は清武氏の言い分に対して正面からぶつかっていない。当然のことながら、喧嘩のときに分の悪い話題を受けて戦うよりも、自分の都合の良い別の話題で戦う方がよっぽど勝算がある。それを渡辺氏は実践した訳で、まさに老獪の極みである。「球団の人事権(選手の補強や体制作り)のトップである清武氏が、そもそもGMの能力的に不備があり、本来、首を挿げ替えられるべき状況であった。実際、非常に評判が悪く、今期の成績の悪さがそれを証明している。江川氏の問題は、実際には何もことは進んでいないので、(渡辺氏側に)コンプライアンス違反は無い。一方、清武氏側には守秘義務違反という明確な法令違反に該当する。親会社の権限を駆使して球団人事を刷新しようとしたのに、それが気に入らなくてこのような行為に及んだのだろう…」と来ると、色々渡辺氏にも問題があるのかも知れないが、それ以上に清武氏の方に問題があるのでは…と思ってしまう。食うか食われるかの争いであれば、これぐらいの非情さが必要なのかも知れない。

清武氏に同情の余地は大いにあるし、個人的には応援してやりたいところだが、多分、身内から援軍が出てくる可能性はきわめて低く、討ち死にになることは間違いないだろう。ただ、(かっての長嶋監督更迭の時と同様)今回の件で嫌気が差して読売新聞離れの流れを生むことは目に見えているので、渡辺氏も多くの返り血を浴びてまもなく失脚するかも知れない。

結局、ペナントレースで負けた(結果を残せなかった)人間は偉いことは言えないのである。

これもひとつの「結果責任」なのかも知れない。

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母、娘の喧嘩

2011-11-04 21:46:25 | 日記
毎日の様にであるが、嫁さんと娘が喧嘩している。単純にヒステリーのぶつけ合いなのだが、今朝も嫁さんにたたき起こされた。

嫁さん曰く、「二人では埒が明かないから、間にお父さんに入ってもらおう」ということだった。今朝の喧嘩の原因は明らかに娘の方にあるのだが、話はそう単純ではない。

間をすっ飛ばして結論を言えば、娘が嫁さんを怒らしている理由はこうである。我が家には小学生の男の子、女の子、未修園児の男の子の計3人の子供がいる。一番わがままなのは上の男の子で、ダダをこねまくる。少なくとも数年前まで、娘は非常に聞き分けが良かった。一方、嫁さんは大の面倒臭がり屋さんで、子供にダダをこねられるとアメを与えてなだめるタイプである。お兄ちゃんがダダをこねまくるのを妹は我慢してみていると、やがてお兄ちゃんは美味しいアメを手に入れる。良識のある自分は、褒められることも無く、アメを手にすることも無く、損をしてそのままである。いつしか、「得をするためにはダダをこねないとダメだ!」という感覚が身についた。まさに今、それを実践しているのである。

この様な理由で娘がダダをこねていることに嫁さんが気が付けば直ぐに改善できそうであるが、実際は厳しい。何が厳しいのか?私は心理学に関しては全くのド素人で、大学の授業ですらそんなものを受けたことはない。だから間違っているのかも知れないが、心理学の教科書にでも出てきそうな背景から来ているようだ。

正しいか正しくないかは別として、私の理解はこうである。嫁さんはヒステリックである。自分でもそれを理解しており、それを直さなければいけないという自覚もある。娘もその影響を受けてヒステリックだ。その娘のヒステリーを見ると、自分の中のヒステリックさの鏡写しであることを感じる。「本当の私はヒステリーを忌み嫌う、ヒステリーとは縁の無い人間なんだ!」と信じたい気持ちにより、自分自身の問題を解決するよりも前に、目の前の目を覆いたくなる鏡に映った自分(つまり娘のヒステリー)を押さえつけたくなる衝動に駆られる。必然的に娘に対する態度は厳しくなる。

一方の娘は何が起きたのか分からない。ダダをこね続ければアメをもらえると信じて行動しているのに、いつまで待ってもアメがもらえない。「これは、ダダのこね方が足りないんだ。」と感じ、更にダダをエスカレートさせる。嫁さんもエスカレートして、二人で炎上している。

ではお兄ちゃんの方はどうかと言うと、女と男の差から、息子のヒステリーを見ても、嫁さんは自分の姿を鏡に映して見せられたとは感じないようである。だから、平気でアメを与えることが出来るのである。何とも不公平な話である。

「3人も子供がいて、それぞれがわがまま言うんだから、そんなに冷静に対処なんかできないわよ!」と嫁さんは言う。しかし、40過ぎた大の大人が冷静さを保てないというのであるから、「10歳に満たない子供なんだから、そんなに冷静に対処できないわよ!」という娘の言い分は容易に予想できる。どちらに分があるかといえば、言うまでもない。

嫁さんの性格を知り尽くしている私は、今朝、嫁さんではなく娘に穏やかな口調で諭した。私が好きな落語で「里帰り」というネタがある。私は5代目三遊亭円楽の話を聞いて心を打たれた。ストーリーは次の通りだ。嫁姑が仲たがいして、実家の母に窮状を訴えると、母が紙に包んだ白い粉を渡し、「これは毒薬だから、姑さんに飲ませて殺してしまいなさい。」と伝える。驚く娘に母は続けて、「ただ、今、お姑さんを殺したら犯人はお前だと直ぐにばれてしまう。1年間、お姑さんの言うことを聞いて、仲の良い嫁姑を演じなさい。そうすれば、姑さんを殺しても、誰もお前が犯人だと分からないから…。」

ここまでくれば話は分かると思うが、1年後に嫁姑は本当に仲が良くなり、娘は白い粉を母親に返すと、母親は娘に白い粉が毒薬ではないことをばらすと言うものである。人と人との関係を改善するのであれば、相手を責めて事態の打開を図るより、自分を変えた方が早い。娘は心底、母親に甘えたいのであるから、その希望を叶えさせてあげたいのであるが、嫁さんと娘の性格を比較し、どちらを諭した方がより現実的かを私は判断した。落語の話を引き合いに出せば、もし仮に、白い粉を受け取ったのが嫁ではなく姑だったら、ストーリーは全く違ったものになっていただろう。姑が嫁さんの味噌汁に実際に白い粉(片栗粉)を入れてしまい、トロミが付いてドロドロになった味噌汁を見た嫁さんが怒り出す…という話かも知れない。

私は考えて、白い粉を渡す相手として娘を選んだ。娘は一応、聞き分け良く話を聞いて納得したようだった。事態が変わるかどうかは分からないが、コツコツと地道に対応するのが子育てなんだろうと思う。

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