けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

ISILの今回の動きは論理的・戦略的ではないのではないか・・・

2015-01-30 22:15:19 | 政治
こう着した感があるISILによる日本人誘拐事件であるが、少しばかり思うことを書いてみる。全体的にバラバラな内容だがご容赦願いたい。

まず、サジダ・リシャウィ死刑囚との交換との要求が出てきたとき、誰よりも先に東京大学先端科学技術研究センター准教授の池内恵氏が「日本・日本国民と、ヨルダン政府・ヨルダン国民との間に亀裂を走らせようとする戦術と思われます」と指摘した。私は当初、もっと直接的な目的があってのことだと感じたが、現在の推移を見る限りはその予測は正しそうに見える。ヨルダン側がヨルダン軍パイロットのモアズ・カサスベ中尉の解放を最優先するのは当然であるが、ISIL側は完全にこれを無視した形になっている。ISIL側の主張からすると、要求が受け入れられなければパイロットを先に殺害するとしているが、この辺は少々、おかしなロジックがある。まずは、この辺から・・・。

まず、そもそも今回の誘拐事件の真の目的は何なのか・・・。というより、誘拐は横に置いたとして、SISL側において優先順位の高い課題は何かを考えてみた。彼らにとっての第1の課題は収入(経済力)の確保である。空爆等により一時の勢いは完全に失速し、新たな地域の制圧と略奪による財源の確保はとん挫し、石油の密売による収入も石油施設に対する攻撃と原油価格の暴落でじり貧状態である。次なる財源は身代金によるものだから、その意味では当初の身代金誘拐は現状に沿った理に適った行動と理解できた。しかし、その後に「金ではない、サジダ・リシャウィ死刑囚の解放が目的だ」と変わってきたところで何が目的かが分からなくなった。彼女は自爆犯という捨て駒だから、彼女の重要性はそれほど高くないという理解に私も同意する。しかし、その理解の基で何かの真実を探し出そうとするよりも、それが何かの攪乱目的であるかも知れないことを考え、「そもそも、ISILは何をしたいのか?」と考えてみた。

多分、金の次に来るのは「空爆の阻止」であろう。その次に来るのは、戦力の拡大(新たな戦士のリクルート)ではないかと私は考えた。この視点が仮に正しいとすると、その先にあるものが少し見えてくる。

まず、「空爆を中止しろ!」とISILが世界に向けて要求しても、それは「なんだ、空爆がボディーブローの様に効いていることを認めるんだね!」と思われてしまう。だから、本音はともかくとして建前上は「空爆なんて、へっちゃらさっ!」と彼らは振る舞わざるを得ない。とすると、日本の様に直接空爆に参加していない国に対し揺さぶりをかけ、「空爆側の十字軍陣営に少しばかり距離を置いた方が実際は得だよね(リスクが小さいよね!)」という空気を醸し出すのが有効である。しかし日本だけがターゲットである訳はないので、その他の空爆に参加する国々に対して暗黙の別のメッセージを出したいはずである。そのメッセージとは、「空爆した際に撃墜されると、パラシュートでパイロットが脱出しても、ISILに捕らわれの身になった時に、恐ろしい事態が待ち受けているぞ!」という恐怖を空爆に参加するパイロットやその家族に植え付けるためのものであろう。今回のケースでの空爆とは、本来は地上軍の投入などよりも圧倒的にリスクの小さな戦術で、だからこそ厭世気分のアメリカでも許容される選択肢なのである。しかし、そこで撃墜されて捕らわれの身になると、地上戦で相手からの銃撃を受け、恐怖と苦しみの中で死んでいく兵士以上に、長い長い恐怖と苦しみに耐えなければならない可能性があるのである。

ちなみに話は逸れるが、テロやゲリラとは異なり、戦争とは国際法で認められた殺し合い行為である。兵隊が相手兵士を幾ら殺しても、戦争に勝つ限りにおいて、その罪を問われることはない。いわば、一種のスポーツの様な位置づけで、それ故に関連したルールがそこにある。そのルールでは、捕虜と言えども扱いを紳士的に行わなければならず、そこで虐待を行えば戦争犯罪として問われる可能性がある。だからこそ、捕虜交換もそのルールの上で行われることになる。しかし、テロやゲリラにはその様なルールは適用されず、基本的に捕虜交換のルールはそこには存在しない。青山繁晴氏などの指摘では、サジダ・リシャウィ死刑囚との交換が捕虜交換と見なされれば、ISILが戦争の当事国として「国家」との扱いを受けたことになり、その様な既成事実の積み上げのために今回の後藤氏とサジダ・リシャウィ死刑囚との交換を主張しているものと解釈される。ただ、このロジックで考えれば、本当の捕虜であるヨルダン人パイロットの方が「捕虜交換の既成事実」には好都合であり、この解釈は一部に腑に落ちない部分が残される。

次に、先ほどの説明の様に、捕虜になった空軍パイロットへの恐怖を植え付けたいのであれば、さっさとヨルダン人パイロットを殺してしまったら、ISIL的には非常に大きな損失になる。どうせ捕虜になっても殺されると分かっていれば、捕虜になる前に自決されてしまう可能性が高まるからだ。選択肢がなければ、人間はそれほど苦しむことはない。しかし、選択肢があると悩まざるを得なくなり、生き残るための地獄の苦しみが、大きな恐怖心を芽生えさせることになる。したがって、常識的に見れば、パイロットの解放がされないとヨルダン政府はサジダ・リシャウィ死刑囚を解放しないが、それに対するペナルティとしてパイロットを殺してしまうと、結局は恐怖を植え付けるISILの戦略に対してはマイナスの効果を生むことになる。この辺が不思議な展開なのである。

次に、最初に後藤氏と湯川氏の誘拐に対する身代金要求のビデオは、今までと同じ作りで動画であった。画像に細工がされているのではないかとか、色々と多くのプレーヤがやいのやいのと話題にし、世界にISILのプレゼンスを示すのには効果的な戦略であった。しかし、その後に公開された情報はそれらと一線を画すものであった。大体、今時、静止画なんてインパクトが無さすぎる。終いには、写真すら出てこないで文字しか表に出ないとなると、更に宣伝効果としては低いものになる。湯川氏の殺害を示す写真を手に持っていた映像は、画像解析で「本当は湯川氏は死んでいない」ことがばれないように、わざと映像の画質を落とすための細工ではないか・・・とも読めなくもなかったが、その流れで行けばパイロットの写真を手に持っていたのは、「本当はパイロットは生きていない」ことを隠すための細工ということになってしまう。どちらにしても、国際的な情報発信の効果としては、明らかに最初の映像よりもインパクトは小さいものである。新たな兵士のリクルートが目的であれば、ここは何としてでも話題性のある映像を流すべきで、非常に高精細の残虐な動画を流せばそれの方が効果は絶大である。しかし、日ごとにチープになっていく展開は、全く持ってリクルートに対しては超裏目の展開である。ここも不思議な展開である。

ここで、本当は当初の目的と同じ金目当てであるにしても、折角だから一粒で三度美味しい方がいいに決まっているで、金目当てならば第2、第3の目的、課題に対してマイナスの効果を許容できるというものでもない。つまり、ISILの上層部が意図している効果的で理に適った戦略を、少なくとも後藤氏の監禁されている周りでは、適切に実行できない状況になっていることが証明された形である。これは、やはり空爆や原油価格の暴落が、ボディブローの様に徐々に効き始めていることの表れであろう。元々、彼らはシリアの政府軍及び反政府勢力とも対立しているのだから、彼らとの関係が拮抗状態(ないしはそれ以下)になれば、お互いの間の消耗戦でじり貧となり、その結果として地上軍を投入するまでもなく、みるみる勢力が弱まることが期待できる。

とまあ色々考えると、それが後藤氏の解放にとってプラスかマイナスかは読めないが、日本人誘拐事件がISIL側にとっては彼らの行き詰まり状態を世間に晒すきっかけとなったことになる。それは、今後の日本人誘拐のリスクを若干ではあるが減らす効果をもたらすかも知れない。まだ答えは出ていないが、答えがでたらその辺の解析も含めて世界各国で総括を行って頂きたい。

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論理的な議論の土俵の確保(情報ソースの開示要求について)

2015-01-27 23:33:54 | 政治
幾つか私も愛読しているブログがあるが、元フジテレビのアナウンサーの長谷川豊氏のブログもその一つだ。彼がフジテレビを退社せざるを得なくなった背景を事細かく説明する長い長い記事(と言うより、殆ど小説)は読みごたえがあったし面白かった。以下の記事も同じく全面的に賛同する内容である。今日はこの先の議論を発展させてみたい。

本気論 本音論(長谷川豊公式ブログ)2015年1月26日「イスラム国を『利用』して安倍批判をするな!

これは1月23日の報道ステーションで日本人誘拐問題について古賀茂明氏の発言に対してのツッコミである。ツッコミと言うのは少し表現が軽く、実際には糾弾と言った方が良いかもしれない。私もこの番組は見ていたが、確かに酷かった。後藤氏の母親もそうだし、過去のイラクでの日本人人質3人の救出過程での親族による反政府的な運動もそうだが、本題の人質問題にかこつけて、政権を批判しようというご都合主義的な論調は余りにも自己中心的で酷いとしか言いようがない。長谷川氏は特に酷かった発言は下記の部分だと書き起こし、以下の様に批判している。

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「(安倍総理は)イスラム国と戦っている有志連合の仲間に入れて欲しい」と、まぁ正式なメンバーとまではなれないけど、まぁ「仲間と認知して欲しい」と。
で、そのためには本当は空爆をしたりだとかですね、あるいはイラクに武器を供与したりとか出来ればいいんですけど、これ 出来ないじゃないですか。だから、もともと その「安倍さんが願っている目標」っていうのは本当は出来ないことなんですよ。でもそれをやりたい。で、それをやるために「じゃあ何ができるか」っていうと人道支援しか出来ないと」
(報道ステーション 古賀茂明氏談)
さすがにちょっと待てよ、と。
無理やりすぎる情報操作をするのは本気でやめてほしい。安倍さんは別に空爆をしたいんじゃないぞ?一体何のソースをもとにこのおっさんはそんなことを言ってるんだ?そもそも日本の資金援助も、空爆の援助をしたのではない。人道支援のためのお金を提供したのだ。この古賀というおっさんはそんなことも勉強せずにテレビに出てタラタラとしゃべってたのか?それとも、本気で頭のおかしな人なのか?
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さらにテレビ出身のジャーナリストとして、放送法第4条4項にある「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」に抵触するとして批判している。そしてポイントは、「一体何のソースをもとに」の部分が問題である。

これまでもテレビ局には様々な情報操作の報道が多くあった。いつも言っていることだが、「安倍総理は、集団的自衛権の容認で、戦争をする国になろうとしている」と繰り返し繰り返しネガティブキャンペーンを行っている。反原発や特定秘密保護法、更には従軍慰安婦や靖国参拝などについても同様で、ネガティブキャンペーンの激しさは常軌を逸している。しかし、その様なネガティブキャンペーンに対して、多くの場合には仕掛けられた方は泣き寝入りになる。その様な悪質な攻撃に対して、如何に公平公正な議論をさせるのかは悩ましい問題である。
そこで、ここではその先について幾つか考えてみた。

(1)裁判による攻撃
例えば最近では下記の記事の様に、朝日新聞に対して裁判を仕掛けるという戦略がある。

産経ニュース2015年1月26日「『朝日新聞』を8700人が集団提訴 慰安婦問題『虚偽報道で人格傷つけられた』…1人『1万円』の慰謝料と謝罪広告求める

これは朝日新聞の慰安婦誤報による世界的な誤解により、日本人としての人格を傷つけられたという被害に対する訴訟であり、多分、裁判の中では朝日新聞の記事の妥当性(十分に、報道すべき真実と信じるに足る根拠があるか否か)が議論されるので、記事の作成過程における内情や決定責任者が誰であったかなどを明らかにするには有効な戦略であろう。しかも、話題性もそれなりにあるから、これで朝日新聞が敗訴することになれば、世界的にも「朝日新聞は、裁判にも耐えられないような無理筋の報道姿勢により慰安婦報道を行ってきた」ことがある程度は示せるだろう。

ただ、この様なアプローチにはある種のリスクもある。例えば下記の記事を見て欲しい。

アゴラ2015年1月18日「反原発フリーライダーを駆除する方法

この記事は、九州電力川内原発の再稼働の差し止めを求めた仮処分申請により、九電は再稼働の日程が後ろ倒しにならざるを得なくなったが、これに対抗して下記の様な対応で対抗している。

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仮処分が認められた後で本訴で住民側が敗訴した場合、九電は仮処分の申立人に再稼働が遅れたことで被った損害を求めることができる。九電は審尋の準備書面で「再稼働が遅れれば、火力発電の燃料費などで1日5億5400万円の損害を被る」として、地裁に対し、申立人に賠償に備えた「妥当な金額」の担保金を積み立てておくよう命じることを求めたという。
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池田信夫氏は、この作戦を「反原発フリーライダーを駆除する方法」として称賛している。私も有効な方法であると思うし、大いに賛同する。しかし、この手の方法は諸刃の剣であり、良識ある側の武器にもなるしネガティブキャンペーンの側の武器にもなる。元朝日新聞記者の植村隆氏も慰安婦問題の支援者の大きな組織力を武器に、裁判で敵対する相手に経済的な負担を強いることで、グウの音も出ない様に相手を抑え込む戦略を利用している。この様な戦略が出来るのは大企業や経済力のあるバックがある場合であり、その意味では大規模にネガティブキャンペーンをする側に有利である。勿論、日本政府や自民党なども経済力では負けないのだが、こちらには別のリスクがある。つまり、「権力に物を言わせて、自由な言論を封殺する行為」として別のネガティブキャンペーンを仕掛けてくる可能性があるのである。こちらは、その元ネタの是非とは関係なく、政治家にとっては非常にリスクの大きな攻撃だから、政府与党にはこの様な形での反撃は実行不可能と言える。ケース・バイ・ケースで有効な場合はあるにしても、これとは違う形での対策は必要であると思う。

(2)誤報と思しき記事に情報ソースの開示を求めるサイトの開設
新聞などの報道に誤報があった場合、その誤報の警告を発するサイトがあるのはご存じだろうか?

GoHoo(マスコミ誤報検証・報道被害救済サイト)

こちらを見ると、新聞やテレビの報道の中の様々な誤報を抽出し、その検証を行っている。断定的に「誤報」と指摘する場合と、Warning的に警報を発し、注意を呼びかける場合もある。新聞が誤報を認めて謝罪・訂正記事を掲載した場合には、その記事を原文で紹介したりしている。ただ、こちらは明らかな事実関係を検証可能で明確な誤報と断定できるケースに有効であり、例えば慰安婦問題での広義の強制連行の様な議論については取り上げにくい。ましてや「戦争をする国」という表現は未来の可能性に言及しているだけなので、ここで扱う「誤報」の対象にはなり難い。更には、福岡第一原発の吉田調書などの問題の様に、公開されていない一部の人にしか閲覧できない情報をもとに「本当はこうですよ!」と言われても検証のしようがない。この様に、「誤報」という切口は中々、狡猾なマスメディアの情報操作には対抗しにくいという特徴がある。そこで、ではどうすれば良いか?ひとつのヒントはWikipediaなどを読んでいるとその中にある。Wikipediaでは、様々な詳細な情報がボランティア的に収拾されているが、記述した人が実質匿名であるために、時として間違った情報、怪しい情報も含まれる。誤っていればその記載は削除されるが、怪しい情報に対しては出典を求める表示がなされる。そこで、政治家や報道機関の様に情報操作を意識的に行う可能性がある人の発言の中で、情報の出典が不明な発言を収集し公開するサイトを立ち上げ、そこで情報ソースの開示を求めるのである。先の古賀氏の発言では、安倍総理が「空爆をする仲間に入れて欲しい」と思っているという根拠が何かを問われれば、多分「日頃の発言から明らか」と言いたいのだろうが、直接的な発言がなければ裁判には勝てない。裁判でも勝てる様な根拠となる情報ソースを求め、その様な情報ソースの開示がなされない場合には、Warning的に警報を発し、「この発言は、情報操作目的の主観的な発言である可能性が高いです」と発信すれば良い。ちなみに情報ソースを求めると、「○×新聞に書いてあった」と答えるケースがあるが、その情報ソースが単に意見を述べたもの(ないしは他紙からの引用)であるのであれば、それは情報ソースには該当せず、発言において明確に「○×新聞からの引用になるが・・・」と断らない限り、「この発言の情報ソース開示要求に対する回答は客観的事実に基づく根拠に乏しく、情報操作目的の主観的な発言である可能性が高いです」と同様の警告を発するべきである。人のせいにするのは更にたちが悪い。

以上、ここではふたつの対策案を示したが、他にも考えればあるかも知れない。ひとつひとつは万能ではないかも知れないが、その様なアイデアを集め、決めつけやレッテル張りで情報操作をする輩を追い出していかないと、中々、丁寧で論理的な議論が出来なくなってしまう。

論理的な議論の土俵の確保は民主主義の生命線だとつくづく感じる。

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イスラム国への非対称な戦略

2015-01-26 23:58:58 | 政治
これまた関係ない話題から入らせて頂く。物凄い勢いで軍事費を拡大している中国に対し、真っ当な形で対抗しようとしては日本に勝ち目はない。例えば、中国が空母を持つと聞いたとき、素人考え的には「日本も同様に空母を持たなければならない。空母の運用のノウハウ蓄積には20年程の年月がかかり、今こそ日本も空母を持つべきだ・・・」などと考えがちだが、実際にはその様な考え方は正しくない。圧倒的な火力や兵力を持たない国が負けないためには、非対称な戦略と言う考え方が常識で、例えば空母に対抗するためには、静穏性に優れた潜水艦による艦隊を組織し、中国の空母の接近を阻止すれば良いのである。空母には多数の艦載機を搭載するが、肝心の空母自体が沈没したらその時点でThe Endなので、潜水艦による攻撃を受ける可能性が高い状況で空母を日本近海に寄せることは出来ない。結果的に、接近を阻止できれば空母の存在価値はなく、自らが相手よりも優位な立場に立つのではなく、相手の優位性を完全に削ぐことが有益な手段となる。

イスラム国に対するアメリカの考え方はこの考え方とは直接は関係ないが、空爆主体の考え方はこの考え方にも似たところがある。オバマ大統領はイスラム国を壊滅させると言い、ヘーゲル前国防長官は壊滅のためには地上軍の投入は必須と強く主張したが、結果的にこの意見を強硬に主張したために更迭されるに至った。オバマ大統領は口では「壊滅」と強気なことを言っているが、実際には壊滅に必要な地上軍の投入は眼中になく、あくまでも空爆主体の攻撃に専念している。これまでであれば軍事的にも横綱相撲を取っていたアメリカ軍が、見栄も外聞もなく空爆のみでイスラム国を叩くのである。地上軍主体のイスラム国に対して、これまた非対称の戦闘を仕掛けていると私には見える。この結果、イスラム国の快進撃は勢いをそがれ、一時期の飛ぶ鳥を落とす勢いは今はすっかりと影を潜めた。しかし、それまでは目に見える場所、例えて言えば胃や肺に癌細胞が出来ていたところが、外科的手術でそれらを取り除いた途端に、血液に乗って体全身に小さな細胞が転移してしまったかの様で、イスラム国の戦闘員は今は住民の中に紛れ込んで、ゲリラ的な戦い方に変異した。支配地域を拡大することで、行く先々で略奪を繰り返し、それを資金源としていたのがビジネスモデル的には完全に崩れてしまった格好だが、しかし一方で、アメリカによるイスラム国の殲滅の難易度は逆に高まってしまったかも知れない。これまたイスラム国側の非対称な戦略とも読める。そこで今度は、サウジアラビアと組んで石油価格を暴落させ、石油の密売による収入のルートを断ち、兵糧攻めにすることで傭兵を雇う財力を根絶やしにしようと打って出た。軍事力で駄目なら、外交力や補給ルートを断つなど、様々な戦略がある。双方は色々と手を変え品を変え、如何にして相手に対して優位に立つかを知恵比べしている。

そんな中での日本人誘拐事件である。通常、誘拐事件は犯人側のペースで事が進むが、日本政府は最悪の場合には後藤氏や湯川氏の命を失うことも覚悟の上で、身代金の支払いを断固拒否するというスタンスを示し、イスラム国ペースを乱しにかかった。イスラム国の財力不足を熟知しての判断だろう。結果的に主導権を日本が奪いかけたが、イスラム国は身代金要求を捨て、ヨルダンの死刑囚の釈放というこれまた意表を突いた戦略を仕掛けてきた。日本政府が設定した身代金は払わないという原則とは関係ないところでの取引であるため、日本政府もここで判断を誤ると、国内世論がどう転ぶか分からないところである。ヨルダンにはヨルダンの事情もあり、日本とヨルダンの思惑がぶつかり、これらの国々の結束を乱す様な変なカードを切ったのである。大体、爆弾を体に巻いて自爆テロをしようとしたのに、それに失敗したようなお間抜けな戦士?を、イスラム国側がそれほど重要視しているとは思えない。この次に、第2、第3のカードを切ってくることは予想できる。

この様に、国際社会では狐と狸の馬鹿し合い的に、正攻法でのガブリ四つではなく、如何にコストパフォーマンスに優れた戦略を取るべきかが勝負の鍵を握る。その意味では、日本政府(ないしは日本国民)の取るべき戦略は、正攻法ではない非対称な戦略であったりする。その非対称さというのは単純なものではなく、様々な可能性が秘められている。以下の記事はその一つの可能性を示したものである。

Blogos 2015年1月25日「イスラム国(ISIS)に対するツイッター利用者の攻撃と海外からの評価(ESQ)

ナルホド、目から鱗の記事である。イスラム国による日本人誘拐の映像がテレビで流れる中、日本のツイッターの利用者が「ISISクソコラグランプリ」と称したタグを付けて、この映像に超不真面目な細工を施したコラージュ画像を投稿しまくるという攻撃を仕掛けた。この記事の著者によれば、これは明らかに著作権侵害であるのでリンクを張ったりはしないが、「ISISクソコラグランプリ」などのキーワードで検索すれば直ぐに画像が引っかかる。誰もがこの画像を見て「不謹慎だ!」と考えがちで、これでイスラム国側を刺激すれば人質の命にもかかわると私も思った。しかし、海外での評価は必ずしもそうではない。

ポイントは、例えばオバマ大統領を怒らせて「イスラム国を壊滅させる!」と言わしめれば、あまりオバマ大統領に好感を持っていなかった人々は、イスラム国のやり方には賛同できなくても、そこまでオバマ大統領を怒らせることができるなら「敵の敵は味方!」的に、イスラム国の正当性が高められるという。同様に、恐怖を煽ることができれば、イスラム国の優位性を世界に誇ることも出来る。イスラム国の狙いが何処にあるかを考えれば、そこに真正面から対決する姿勢はイスラム国側の思う壺であるという。

しかし、先ほどのクソコラ画像を投稿する輩は、イスラム国側から見ればエライ迷惑な存在である。日本のアホなオタクとじゃれ合っている姿は、決してイスラム国の勧誘においてプラスには働かない。嘲笑の対象にされてしまっているのである。では、それに切れて後藤氏を殺害できるかと言えば、その程度のアホなオタクにマジでブチ切れて、折角の金づるを捨てる様な計画性のなさは、状況の管理能力のなさの象徴と言える。大体、シャルリー・エブドの事件にしても絶対の預言者のムハマドを風刺したので暗殺の対象になったが、高々外国人傭兵のジハーディ・ジョンを風刺したところでイスラム教的にはあまり問題ではない。この辺もムハマドを嘲笑してガブリ四つの戦いをイスラム世界に挑んだシャルリー・エブドとは異なり、ターゲットとしての対象が丁度手頃に非対称なのである。だから、そんなおふざけに切れて後藤氏を殺害したら、何処までも暗黒の不気味さを感じさせるイスラム国ではなく、非常に軽いノリの世俗的な集団の様にみられてしまう。多分、最高責任者はそんな理由で殺害することを許可しないはずである。あくまでも、ビジネス的な視点で判断を行うはずである。であるとすれば、これほどイスラム国にとって非対称な攻撃はないわけで、これが続くとイスラム国的にも日本人誘拐のモチベーションは自然と失せてくることになる。日本政府のどんな政策よりも有効かも知れない。

もちろん、日本政府がこんな戦略を取れる訳もなく、これを行うのはあくまでも日本国民である。しかし、この様な考え方は日本政府内にもあって構わない。つまり、イスラム国が嫌う何かを、日本政府が仕掛ければそれはそれで非対称な戦略として意味があるのである。過去のブログでも書かせて頂いたが、例えばイスラム国的に嫌うことは何かと考えた時、戦線の過剰な拡大ではないかと思う。つまり、例えば中国の新疆ウイグル地区でのイスラム教徒への迫害は、イスラム国にとっても本来であれば攻撃の対象となるべきであろう。しかし、アメリカ、欧州だけでなく、中国とも敵対し、更にはロシアとも敵対するとなると、どんどん戦線が拡大する。表立ったルートではなく、中国とイスラム国の対立を煽るような仕掛けを欧米諸国と結託して何処かで仕込めば、イスラム国側の戦力は拡散し、持久戦の中で自滅していく可能性は十分にある。例えば、次号のシャルリー・エブドの表紙に、オレンジ色の装束で「I am ウイグル人」と書いた紙を持ったイスラム人二人に、黒装束の習近平国家主席がナイフで脅しをかける画像などを使ったら良いかも知れない。人権を大事にするフランスだから、中国の人権弾圧は同様に問題視するはずだ。イスラム世界に、「お前ら、西欧諸国には食って掛かるけど、中国には何で食って掛からないんだ!」というメッセージなど気が利いているのではないかと思う。

別に中国を巻き込むだけが手ではないが、如何に非対称で相手に対峙するかと言う考え方は、いつでも重要なのだと改めて感じた。

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日本人誘拐事件に関する4つのシナリオ

2015-01-25 22:14:56 | 政治
今日のニュースは湯川氏殺害と後藤氏のメッセージビデオに関するもので持ちきりだった。二人の殺害予告に対し、1名だけを殺害したとのメッセージは私にとっては予想外であったので、今日はこの点に絞って考えられるシナリオについてコメントしたい。

まず、常識的に言って今までのアメリカやイギリス人の殺害の経緯を考えれば、イスラム国が単なる脅しではなく本気で殺す気がある(というより、「あり得る」)というのは明らかだった。だから、たった二人しか人質がいないところで、二人のうちの1名を殺したとして残りの1名で「当初の要求以上の見返りを期待する」ことは現実的ではない。10名の人質がいて、1名だけを殺すのとは訳が違うのである。また、これまで240億円という有り得ない要求をしていたのに、今回の要求で「お金の問題ではない」と言い出したことは特筆すべき変化で、安倍総理の「新たなテロを誘発する身代金要求には絶対応じない」という強いメッセージがイスラム国側に伝わっていることを意味している。通常、イスラム国がこんなあっさり相手の主張に屈するとは考えにくく、その意味では様々なチャネルを通じて相手に明確なメッセージを伝えることに成功したことは理解できる。この点は、湯川氏が実際に殺害されているか否如何に関係なく、今後の誘拐の目的として、日本人に対しては何らかの政治的なアピール目的以外には、あまり利用価値がないことが確認された形であり、非常に有益な展開ではある。この意味で、まずは安倍総理の強いリーダーシップが功を奏した結果と理解できる。

さて、最初の話に戻って、何故、湯川氏が一人だけ殺害されたのかについての解釈を考えてみたい。私としては、4つのシナリオが考えられると思っている。

(1)湯川氏が実は最初から殺害されていたというシナリオ
まず最初の誘拐と身代金要求の映像が流れた時から、その映像に細工がなされている可能性が指摘されていた。3人の人物の影の出方や風の当たり具合などが明らかに不自然と言うものである。ただ、その映像を良く見ると、後藤氏と黒装束の男の影や風による服の揺れ方は、それなりに整合性が取れていた。一方で、湯川氏の方だけは様子が異なり、全体で見れば後藤氏と黒装束の男は同時に撮影を行い、湯川氏の映像を後から張り付けた感が強かった。解説者のコメントでは、人質を一カ所にした場合のリスクを嫌っていたとの話だが、たかだか二人でしかも相手が日本であることを考えれば、そこまで慎重になるとは考えにくい。更には、二人を別々に撮影し、それを2件連続して流しておけば、わざわざ映像を合成する必要もない。したがって、イスラム国側に何らかの映像を合成しなければならない理由があったと考える方が自然である。この場合、一番考えやすいのは、利用価値の薄い湯川氏は早々と殺されていて、それを悟られない様にすることで身代金要求の効果を倍増させることを狙っていたのではないかというシナリオである。また、後藤氏は湯川氏の殺害の写真を手に持ちながら淡々と喋っており、直前に殺されたのを知ったのであればもう少し動揺した雰囲気が漂っていてもおかしくなく、その点でも以前から湯川氏は死んでいた可能性が高いと感じるのである。

(2)日本政府との交渉において湯川氏の存在が邪魔であったというシナリオ
既に日本国内では後藤氏が保険に入っていたことが知られており、後藤氏が解放された場合でも「日本政府自体は身代金を払わなかった」という説明が可能であるが、湯川氏が同時に解放されたとなると、そこで「日本政府が身代金を払ったことが確定的」と社会が受け止めるという現実がある。つまり、後藤氏のみに関する交渉であれば、仮に身代金を日本政府が支払らっても「いや、払っていない!」と日本政府が言い訳をするチャンスが残されるが、湯川氏の交渉を絡めると、話がややこしくなるのでイスラム国側もやり難いという仮説である。

(3)ヨルダン政府を巻き込むための方便というシナリオ
先にも述べた通り、日本政府が身代金を払わないという方針は変わらない。しかし、安倍総理が「身代金を払わない」と明言していることの裏には、「巡り巡って、実際には身代金を払ったのと等価」なシナリオがあり得るということである。例えば、イスラム国はサジダ・アルリシャウィ死刑囚の釈放を求めているが、一方でヨルダン側はイスラム国に拘束された自国のパイロットの釈放を要求しており、その時に「後藤氏+ヨルダン人パイロット(合計2名)」と「死刑囚(1名)+10億円」という交換交渉はあり得る。死刑囚を拘束しているのはヨルダン政府で、したがって交渉の決定権はヨルダン政府にある。その時、ヨルダン政府が「死刑囚+10億円」の条件に同意した場合、日本政府はそれを拒否することは出来ないが、一方でその様に日本政府に応えてくれたヨルダンに10億円以上の支援を行うことは可能である。当然、テロ対策への支援と言う名目であれば、日本国内でも世界でも非難のしようがない。しかし、翌々見れば、「死刑囚」と「ヨルダン人パイロット」のトレードの裏で「後藤氏」と「10億円」の交換が行われたとも解釈できるので、この場合には交渉はやり易い。金額も20億かも知れない。その時、そこに実は生きていた湯川氏がオマケで解放されるというシナリオもあるかも知れない。ただ、この様な交渉に臨むとき、ヨルダン政府を巻き込むための積極的な理由が必要であり、そのために湯川氏を殺害したことにするという話はあり得る。また、この(3)と(2)の合わせ技で、(3)の交渉をするのに湯川氏が邪魔で先に殺したというシナリオもあるかも知れない。

(4)後藤氏を解放した後で後藤氏を操るための人質というシナリオ
現在、ヨルダン政府も介在して人質交渉がなされており、後藤氏の保険のことも考えれば、何処かで後藤氏が解放される可能性は高い。今回、映像の中で後藤氏は声明文を読み上げていたが、誰が見ても強制的に言わされていたのは明らかなので、政治的にこの発言が影響力を持つ可能性はゼロである。もし、この様な政治的な要求を効果的に日本政府に突き付けるならば、私ならば湯川氏が殺されたことにして後藤氏を別途開放する一方、後藤氏に「日本に帰国後、『日本政府がアメリカやイギリスと一緒に十字軍に加わるのには反対する! 』という発言を日本国内で行え!ある程度の政治的な効果が確認できたら湯川を解放してやる!このことを誰かに喋ったら、その時点で湯川は殺す!」と脅しをかける戦略をとるかも知れない。後藤氏は湯川氏の救出のために命がけでイスラム国に潜入するのだから、日本に帰国後、湯川氏の救出の為に何でもすることは容易に予想できる。

以上が私の描くシナリオである。どれが答えかは今は分からない。私のもっともありそうな予想は(1)+(3)のシナリオである。最初の合成映像には何か訳があるはずである。また、身代金要求を簡単に取り下げたのにも訳があるはずである。しかし実際に身代金を諦めた可能性は低い。

どちらにしろ、これからが正念場である。安倍総理には初心を貫徹して欲しい。

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「自己責任論」に政治的思想を持ち込むな

2015-01-24 23:29:52 | 政治
昨日はブログを書こうと思ったが結局諦めた。何とも後味が悪い思いだった。

先日もイスラム国の日本人人質事件の記事を書いたが、昨日は後藤健二氏の母親の記者会見が日本外国特派員協会で記者会見を開いた。ご存知の方も多い様に、その記者会見は何とも言えない意味不明な会見であった。写真の映像を見た限りでも、この母親は何処かの「お金持ちオーラ」を出していて、何を語るのかと思えば意味不明だった。実際、生放送のTVでも映像を途中で打ち切っている。何より、「昨日健二の妻である嫁と初めて電話で交信いたしました。」という発言が壮絶過ぎて、何故、後藤氏が孫の出産の事実も母親に打ち明けないのかと考えると、この親子の間の深い闇の様なものが垣間見れて何とも気持ち悪くなった。

しかし、それだけではなかった。去年の夏の記事だが、実は湯川遥菜氏の父親が夕刊フジのZAKZAKの中で湯川氏の誘拐事件に絡んでインタビューに答えているのだが、こちらの方も壮絶過ぎて眩暈がしそうであった。こちらの方は後藤氏とは真逆で、父親はどうも真っ当な人間である一方、湯川氏はどうも、真っ当な生き方をしていない様だ。父親が「自殺を図って局部を切り取ったことも知りました。」と発言していて、私がニュースで流れた湯川氏の写真を見た時に感じた違和感が正しかったと分かった。しかし、調べてみると未だに湯川氏のブログがアメブロに残っていて、「ちょっと珍しい自殺経験」と題して自らの異様な体験を書き記している。リンクを張る気も起きないので興味のある方は自己責任で読んで頂けばよいが、相当、吐き気がするような記事である。

そんなこんなで昨日は気分が悪かった。この手の事件を語る時、どうしても「自己責任」という言葉が付いて回るのだが、その「自己責任」の何たるかを語る前に、マスコミも被害者の家族も、単に淡々と「人命救助」についてだけを語り、この事件に絡めて余計な話題で振り回さないで欲しいと感じた。これは、過去にも同様の話がある。実はWikipediaで「イラク日本人人質事件」と検索すると、色々な情報が書き示されている。面白いと言っては失礼だが、ここに登場する人物は全て氏名が伏せられている。理由は単純で、特に最初の3人の人質事件がその後に物凄いバッシング問題に発展したからである。これには背景があり、誘拐されている最中に被害者家族が記者会見で政治的宣伝を繰り返したり、3名の誘拐も「自作自演説」があることをWikipediaで説明している。しかも、その「自作自演説」の根拠までご丁寧に示しており、パッと見だけではそれなりの説得力がある。私は、この3名が自作自演でここまでできる程の人間とは買い被ってはいないので、流石に自作自演説は有り得ないと思う。しかし、この3人が解放される直前に誘拐された人のうちの一人は、解放の後に「人質となった被害者の一人は『人質である自分たちを助けるために政府は自衛隊を撤退させるべきだった』とし、後に『自衛隊を撤退させなかった事』に対し損害賠償を求める訴訟を起こしたが全面敗訴。また、解放後日本政府が負担した日本への帰国費用について、支払いを拒否している。(Wikipedia)」とあり、自作自演は別として、自己の責任に対する自覚のなさが明らかとなっている。

この様に「自己責任」の問題を問われると、ニュースキャスターの辛坊治郎氏がヨットで航海中に遭難して自衛隊機で救助された件が比較される。私は、危険を承知で行ったことであれば「助けてもらえなくて当然!」などという考えではないし、その様に考える人も少ない。例えば後藤健二氏の誘拐でも、彼はジャーナリストとしての(それが良いか否かは別の議論だが)正義感で行動し、死と隣り合わせの現実に今ある。辛坊氏も、遭難のリスクを覚悟の上で冒険にチャレンジし、命からがら救助されて返ってくることになった。イラクでの人質もそうであるが、それなりに身の危険を覚悟して行っていたはずである。そして、同時に、実際に危険な状況になった場合には、その救助の為に多くの関係者が命がけで救助を行うことになる。場合によっては経済的な膨大な負担をかけることもあるだろう。今回の件でも、ヨルダンでの対策本部の設置とそれに割かれる人員などを考えれば、大したことなく解放されてもそれなりに無視できない膨大な金額を要することになる。

だから、私の考える自己責任はシンプルである。以下の4点である。

(1)危険な事態に陥って救助されたことに対する批判は反論せずに甘んじて受けること
(2)危険に陥った被害者家族は「生きて帰って来て欲しい」旨のコメントはしても良いが、それ以上のコメントは記者に聞かれても応えない(ないしは、自由な質疑応答のある記者会見はすべきではない)
(3)救助に要した費用は規定以上の額を支払う責任はないが、規定の額の支払い責任責任は負うべき
(4)実際には膨大な経済的な負担や関係者を身の危険に晒したことに対し、最大限の謝罪と感謝の気持ちを示すこと

別に難しい理屈などここには何もない。人の道に沿った、最低限のお話である。今回の様な事件を利用して、政治的な主張を込めて「自己責任」に関するややこしい議論をする人がいるが、あくまでもシンプルに人の道を語るべきであると感じる。

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勝負は72時間後ではない!

2015-01-22 23:58:07 | 政治
最近では、イスラム国による日本人人質の殺害予告のニュースが大変注目を集めている。

まず当初、人質が二人と聞いたとき、湯川遥菜氏についてはすぐ思いついたが、一体もう一人は誰なのだろうと思った。その後、そのもう一人が後藤健二氏と聞いて絶句した。彼は多くのテレビにも出演していた中東などの紛争を熟知したジャーナリストで、様々なリスクを考慮して思慮深い行動をしていたはずである。様々な仲介者などを探し、ある程度の身の安全を確保して取材のためにイスラム国にアクセスしたのだろう。また、途中まで同行したガイドからの要請ではあるが、別れ際のビデオ映像でこの様な事態をも予測した覚悟の映像も残されている。このビデオを求めたガイドはシリアへの潜入の危険を強調し、自らは同行を拒否すると共に後藤氏にも思いとどまる様に説得したが、別のガイドを探して後藤氏はシリアに行くことになった。報道ステーションによれば、さらにその先に頼った3人目のガイドがイスラム国の兵士だったようで、そこでイスラム国に拘束されたらしい。ここから先の情報は若干錯綜しているが、後藤氏からは最初のガイドに「(別の)ガイドに騙されてイスラム国に拘束された」と連絡し、その後に連絡が取れなくなったようだ。この状況の詳細は不明だが、その拘束された旨の連絡を入れることができたことが驚きである。湯川遥菜氏が捕まった時の状況は身ぐるみはがれてボコボコにされた感があり、とても連絡を入れれる余裕があるとは思えない。湯川氏は銃を携帯していたり軍事コンサルタントを目指していたり、日本人からしても怪しい存在ではあり、完全にスパイ(と言うよりも敵対勢力側の人間)と誤解されていたので下手に仲間に連絡をされては困るという背景もあるのだろう。しかし後藤氏の場合には、拉致した相手も後藤氏の素性をある程度知った上で、お金のなる木(身代金のネタ)としてそれなりに丁重に扱っていた可能性が高い。

ちなみに、私の好きな「ぼやきくっくり」さんのページでは、青山繁治氏の解説の紹介がされている。

ぼやきくっくり2015年1月21日「1/21放送 関西テレビ『アンカー』青山繁晴の“ニュースDEズバリ”

ニュースなどでは今回の事件は安倍総理の中東歴訪のタイミングで降って湧いた様な事件の扱いだが、実際には昨年11月の段階から後藤氏の家族の元には身代金の要求があり、首相官邸でも中東歴訪の最中にぶつけてこの様な要求がぶつけられる可能性をシミュレーションしていたという。それを意識して、このタイミングでの中東歴訪を見送る意見もあったそうだが、テロ組織には如何なる要求にも屈しないとの宣言の意味も込めて、敢えて予定通りに振る舞ったようである。そして、青山氏のご指摘の様に、安倍総理がテロ組織に身代金を払う可能性は小さい。それは、身代金を払うと「日本は身代金を払う国」との評判が世界中に広まり、イスラム国に限らず色々なところで身代金要求をされるリスクが高まるからである。目先の二人の命と、その先の何百人もの命とを天秤にかけるような判断である。この辺は下記の記事にも記されている。

On Off and Beyond(渡辺千賀)2015年1月20日「誘拐される→身代金払う→もっと誘拐される(New York Times記事要約)

これは半年ほど前にニューヨークタイムズに記載された記事を渡辺千賀氏が紹介したものだが、フランス、スイス、スペイン、オーストリアなどの国は身代金を払い、アメリカ、イギリスなどは払わないという。先にも説明した通り、明らかに身代金の支払いは次の誘拐を誘発する原因になるから、長期的な視点では払わないのが正解であるということである。

ちなみに、現在の相場では、身代金額の平均は一人当たり10億円だという。また、身代金を払う国にしても、身代金の支払い理由が「テロに屈して止む無く・・・」という名目は常識的にあり得ず、したがって実際には民間企業を通じて支払われたり、途上国支援金名目であったりするという。先の青山氏の解説に話を戻せば、イスラム国側の内部事情として、原油価格の暴落が石油に依存するイスラム国にとっても致命的で、身代金は今まで以上に重要な資金源になっているという。だから、かなり本気で身代金を得ることを考えているのではないかと予想される。

ところで、この身代金の額は2億ドル(約240億円)だが、どうもアラブ諸国での身代金誘拐では、最初に吹っかけて徐々にディスカウントするのは当たり前なようで、本気でこの金額を要求しているかは怪しい。一方で、お金が無くて困っているのは本当の様で、日本政府が欧米の味方であるかどうかよりも、取りあえずお金を払って欲しいというのが本音の様である。その意味では、イスラム国側も日本政府とのパイプ役を求めているのかも知れない。

そんな最中、下記の2件の記事の様に「我こそはパイプ役」と名乗り出るものが出てきている。

Blogos 2015年1月22日「【全文】「警察の捜査が、湯川さん後藤さんの危機的状況を引き起こした」〜ジャーナリスト・常岡浩介氏が会見
Blogos 2015年1月22日「【全文】「72時間は短すぎる。時間をもう少しいただきたい」〜イスラーム法学者・中田考氏がイスラム国の友人たちに呼びかけ

この二人の共通点は、先日の26歳の北大学生がイスラーム国で戦闘員になるために渡航を試みたとして、私戦予備・陰謀事件として阻止された案件で、その関係者として警視庁公安部によりマークされている人物である。二人とも、この事件以降、様々な活動の身動きが取れなくなったとして愚痴をこぼしているが、特に常岡浩介氏に関しては、日本政府が邪魔をしなければ湯川氏の解放も夢ではなかったとして、日本政府との信頼関係は崩壊していると語っている。彼らは口をそろえて、イスラム国とのパイプは自分たちを置いて他にはないとしており、仮に日本政府が彼らにお墨付きを与えたとしても、内々にイスラム国にアクセスしてもイスラム国側に「本当に日本政府側の交渉の窓口なのか?」と信じて貰えないので、何とかオフィシャルにお墨付きの公言をして欲しいということを期待している様に見える。

ここで話を少し戻せば、先のニューヨークタイムズの記事の紹介でもあったが、日本政府は身代金の支払いを前提とする交渉は全くするつもりがない。アメリカに至っては、家族の元に身代金要求があった際にこれをFBIに相談した際に、FBIはアドバイスは返してくれたが犯人側との交渉に関しては完全に放棄し、家族で勝手にやってくれ・・・という態度だったらしい。日本政府はここまでではないが、日本政府の立場を説明し、「決して、イスラム同胞にとっては日本の援助は悪い話ではない」と説得するのが基本路線である。したがって、仲介役に関してもこの様な説得を行える人が重要な訳で、上述の二人の様に日本政府に懐疑的な人物はあまり意味はなく、中東の何処かの部族の長や宗教指導者などがメインターゲとの様である。この辺に関しては、各国政府の協力の元、それなりのコネクションを活用しているようだ。

最後に、身代金について若干私の理解を書いておく。まず、後藤氏は過去にTBSの「ひるおび」に出演した際に、ジャーナリストの身代金に関する保険の話題に言及している。その保険は掛け金が1日10万円程度のものであるが、後藤氏は危険がある時にはこの保険に加入し、イザと言う場合に備えていたという。最初に後藤氏の家族に入った連絡では要求額が10億円で、先のニューヨークタイムズの記事の相場と一致している。したがって、これだけであれば身代金を支払って、早期に解放されていた可能性はあったはずである。しかし、あるところで身代金が約20億円の2倍に跳ね上がった。報道ステーションでは、原油価格の暴落などで資金源が不足しての身代金の釣り上げだと解説していたが、私の理解では湯川氏とのセットで2名分の金額に跳ね上がったのではないかと予想している。つまり、身代金の支払いの可能性の湯川氏の活用価値がないので、セット販売をしようとしたのだと思う。しかし、これだと身代金の保険会社が2名分を払ったりはしないので、交渉がとん挫したのではないかと思う。また、後藤氏も湯川氏を残して1名だけ先に10億の身代金で解放されることを望まなかったのかも知れない。結局、湯川氏の10億円分は日本政府に請求するしかなくなり、結局、今回の様な事態になったのではないだろうか?

この場合、少なくとも保険適用で10億円の価値のある後藤氏を殺すのは彼らにとっても損失なので、殺すことなく長期戦になる可能性は高い。菅官房長官はデッドラインを明日の午後2時50分頃と答えたそうだが、常識的にデッドラインを明確に切るのは定石的には有り得ない。しかし、最初から長期戦を見込むなら、ズルズルとデッドラインが後ろ倒しになるのを逆に回避する為、あっさりとデッドラインを越えてしまい、相手に長期戦を覚悟させるのも手のひとつである。裏目に出るリスクはあるので無謀な賭けではあるが、日本政府の立場としては身代金支払いに応じる短期戦は選択肢にないので、妥当な判断の様にも思える。

その後の展開次第ではあるが、後藤氏は期せずしてイスラム国の内情を長期間観察する機会を得た。何らかの形で解放されることになれば、色々な意味で有益な情報が得られる可能性は高いので、日本政府は粘り強く長期戦の覚悟で交渉に当たって欲しい。

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悪質さに見合った制裁を求めるには程遠い

2015-01-19 23:57:20 | 政治
「ナッツ姫」こと大韓航空の趙顕娥前副社長の初公判が始まった。確かに面白い話ではなるが、はっきり言ってどうでも良い話題である。しかし、セウォル号転覆事故においてもそうだし、ナッツ・リターン事件でもそうだが、やはりこの国は病んでいるとしか言いようがない。今日はこの辺についてコメントしてみたい。

最近になってナッツ・リターン事件の詳細が明らかになってきたが、確かに3代目のボンボンのお嬢の行為は褒められたものではない。航空法や刑法など5つの罪状に抵触する可能性があると言うが、この程度の悪行であれば世の中にゴマンとあるはずである。例えばチンピラが一般市民に因縁を吹っ掛けて、お金をカツアゲしたりする方がよっぽど悪質ではあるが、社会的制裁の規模は桁違いである。当初、私は大韓航空機の取締役などの役職を手放すぐらいで収まるかと思ったが、既に人格破壊のレベルまで追い込んでいる。そして、現在は拘置所に収監され、その状況が生々しく報道されている状況である。日本でも、逮捕された人の手錠などは映さないなど、罪人と言えど人権に配慮した報道がなされるが、韓国でのナッツ姫の扱いは、どの様な立場の人か分からないがナッツ姫を強引に報道陣の前に引っ張り出して、それをテレビカメラが一斉に映し出し、完全に晒し者にしている。自業自得ではあるが、彼女が精神的に鬱病などの症状に追い込まれた時に、その責任問題はどの様になるのだろうか?

この状況はセウォル号事件でも同様で、かなり早い段階から船長を報道陣の前に引きづり出し、こちらも晒し者にしていた。「未必の故意」が問われる可能性は大きいが、裁判が始まる前から「死刑だ!死刑だ!」と騒ぎ立て、事件の究明などよりも、早く晒し者にされた船長が死刑になるのを優先する様な論調である。しかし、犠牲者数から責任の重さは重大であるのは間違いないが、あの状況では無期懲役止まりになるのが常識的な判断なのだと思う。

これらは全て、「奴らは悪い奴だから、とことん、地獄の底まで苦しみを味わってもらう」という理屈で人民裁判や公開処刑を弄んでいる様な様相である。重要なのは、その悪質性に見合うペナルティではなく、人心が満足する様な(犯罪者側からすれば不合理な)一方的な重度の罰則が適用される。そこでは証拠や事実認定などは不要で、「問答無用」のもとに切って捨てられる。それを良しとする国民性なのである。

慰安婦問題などが解決不能な背景にもその様な傾向はあるだろう。「日本は悪い国だから、世界的にレイプ国家と蔑まれても当然である」という理屈が先にあり、証拠に基づいた事実認定や、悪質性の定量評価などはどうでも良い話となっている。最初から証拠など興味はなく、悪質性の定量評価もどうでも良いと思っていて、国民感情を掻き立てれば掻き立てる程、重い罪を課すことができると考えているから、韓国のマスコミも韓国政府もあの様な行動に出てしまう。

これは虐めの構図に似ていて、誰かがその場の雰囲気でイジメのターゲットを決めてしまうと、例えば「汚い」とか「暗い」とか適当な理由で、理不尽な状況に相手を追い込んで、そしてその周りの人々は、自分が如何にして「虐める側」に居続けるかに腐心する。マスメディアなどはその典型だし、韓国の政治家も同様であろう。自分が虐められる側に置かれないための最大の対策は、常に虐める側に所属し続けることであり、このためには虐められる側が何時までも虐められ続けることが好ましい。周りの傍観者も巻き込んだ方がリスクは小さいから、アメリカ国内にまで慰安婦像を作ったりして共犯者に巻き込もうとしている。慰安婦もナッツ・リターンもセウォル号も似た様なもので、これが事態を益々醜悪な状態に導いてしまう。

今回の事件を他国で起きた面白い事件と笑うのは簡単だが、日本のマスコミはもう少し冷静にこれらの事件を報道すべきである。妥当な判決であったり、妥当な社会的制裁であったり、その辺がどの程度の事件だったのかを過去の事件との対比の中で定量的且つ具体的に示すべきだと思う。それが今回の制裁とどれほど乖離しているかを示すことが、韓国という国の現実を写す鏡になるのだと思う。

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今はステレオタイプの声ばかりではない!!

2015-01-18 23:42:34 | 政治
今年は戦後70年の年であり、この件に関連した話題が幾つか散見された。今日はこれらに少しコメントしたい。

まず、安倍総理は昨年の内から戦後70年の節目の年の首相談話に関し「未来に向けた談話を出していきたい」と言及し、内容に関しても村山談話を引き継ぎ「もちろん戦前の出来事の反省の上に立ち、戦後の歩み、日本がこれから世界の平和と安定のために何をしていくかを示していく談話を作っていきたい。そのために英知を結集していきたいと考えている」としていた。今年に入っても同様のコメントをしており、多分、終戦記念日に合わせて発表されることと思われる。ここまでに明らかになっている情報では、決して「強烈なナショナリスト(国粋主義者)」「歴史修正主義的」を感じさせるような言及はないが、しかし、米議会調査局が今月発表した日米関係に関する報告書では、断定的に安倍総理をこの様に断定し、安倍総理の言動が「日本と近隣諸国の関係を左右する」としている。

産経ニュース2015年1月18日「安倍首相を『国粋主義者』米議会調査局の日米関係報告書  事実誤認も

この記事にも言及があるが、この米議会調査局の報告書の根拠は(氏名不明の)某評論家連中ということで、少し前であれば朝日新聞などのネガティブキャンペーンとそこに名を連ねる評論家連中の言い分が、(資料の性質から当然ではあるが)反論の余地なく一方的に採用された形である。歴史問題では「周辺国との関係を悪化させ、米国の国益を損なわせたかもしれない」としているそうだ。この様な記述があるのは、日本国内でも右派から左派まで色々な勢力があるのと同様に、アメリカ政府内にも親中派が非常に膨大な数を占めいていて、少なくともこの程度の報告書内では安倍総理をこの様に根拠の伴わない理屈で非難することが可能になっているからである。しかし、アメリカを責めるのもお門違いで、日本国内の特にマスコミの論調が、集団的自衛権や特定秘密保護法などに関してネガティブキャンペーンを行い、選挙などでも喜んで安倍総理を「強烈なナショナリスト」的にイメージ戦略を打っているがために、結果的に大きな国益を損ねるに至っているのである。これらは今に始まったことではなく、長い長い歴史の中で繰り返され、日本のメディアはニューヨークタイムズなど海外の著名な新聞にも記事を発信し、これらを真に受けた人々の間で慰安婦問題や安倍総理の評価など、小さな種となる事実を誇大に捻じ曲げて報道し、結果的に取り返しのつかない事態に陥っている。

ただ、そうは言っても少しづつ状況は変わりつつある。下記の記事を読んで頂きたい。

The Wall Street Journal 2015年1月14日「戦後70年、日本が謝罪しても東アジア情勢は改善せず

これはウォールストリートジャーナルの記事であるが、やはり安倍総理の戦後70年の談話についてコメントしているものである。ただ、少しばかり論調が違うところが注目される。それは、世界的に見れば「日本は第2次世界大戦に対して近隣諸国に謝罪していない」という認識が強く、これが東アジアの緊張緩和の足を引っ張っていると考えられている様だが、それは事実と異なるということを下記の様な表現で明確に指摘している。

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しかし日本の指導者たちが謝罪しないと非難することはできない。この数十年間、彼らは繰り返し謝罪してきたからだ。
例えば1991年、当時の宮沢喜一首相はアジア太平洋で日本が与えた「耐え難い苦しみと悲しみ」に許しを請うた。また降伏50年目の1995年に当時の村山富市首相は植民地支配と侵略について「痛切な反省の意」を表し、「心からのおわび」を表明した。
==================

しかし、では日本の謝罪で何が足りなかったのかと言えば、ウォールストリートジャーナルは、例えば、西ドイツのウィリー・ブラント首相が1970年にワルシャワ・ゲットー蜂起の記念碑前でひざまずいて謝罪したケースを引き合いに出し、被害者国の国民の目にシンプルに伝わる演出がなかったことがいけないと指摘している。つまり、村山元総理は村山談話を出すのは良いが、それ以上に中国に行って人民英雄記念碑の様な施設の前でいざまずけば、その方が象徴的で良かったということであろう。

私はそれは否定しない。しかし、私の理解はこの記事の理解とは少し違う。もし、この様なひざまずいた謝罪を行うとすれば、それは中国や韓国に対しての謝罪以上に、欧米諸国への強いアピールになったからである。つまり、日本は中国・韓国に謝罪を色々としているのであるが、元々日本など興味がない欧米の人々にとっては、殆どニュース価値がないのである。だから、派手に「世界に報道されるようなアピールの仕方」が求められているということである。その意味では、今の安倍総理は世界から注目を浴びていて、その安倍談話は日本政府により英訳されて世界を駆け巡るだろうから、それはそれで良いことである。

ただ、このウォールストリートジャーナルの記事の注目すべき点はこの先である。下記の言及が的を得ている。

==================
もっと謝罪をしても、それは東アジアにおける真の問題を解決しないだろう。歴史をめぐる議論は、同地域の政治家たちによってそれぞれの国内目標のために利用されているのだ。
歴史論議は、この地域では競合するナショナリスト的なアジェンダ(目標)をあおる。それらは領土紛争をかき立て、実際的な外交上の解決を排除してしまう。
(・・・中略・・・)
しかし、安倍氏が何を言おうと、日本の近隣2国(中国と韓国)をなだめられる公算は小さい。リンド氏は「魔法の言葉」というものはないと述べ、「それでも、中国は不満だろう」と語った。
たとえ日本がドイツをモデルとし、アジアにおける第2次世界大戦の傷を癒やそうとした場合でも、問題は、中国と韓国がその後、「赦(ゆる)しのモデル」であるフランスのように行動するかどうかなのだ。
==================

この記事の(・・・中略・・・)の部分では、安倍総理が歴代政権の立場を踏襲して「先の大戦への反省」を発信することを紹介しており、かなり「強烈なナショナリスト」的イメージの真逆の存在であることを紹介している一方、中国と韓国がフランスの様な大人の国ではないことを暗に非難している。つまり、戦艦大和の様な大鑑の舵を急激に切ろうとしても転覆してしまうが、徐々にではあるが一部の欧米のメディアの中でも、上述の米議会調査局の様なステレオタイプの主張を真に受けない人々が増えているということである。

ここで重要なのは、「中国」と「韓国」がセットで扱われている点である。以前からも紹介しているが、少なくともアメリカは韓国の態度に非常に苛立っている。アメリカ政府でなくても、韓国系の住民の数を背景にした恫喝的なヒステリー現象にウンザリしている人々は少なくないはずである。例えば、下記のニュースなどは米国の元商務省次官がこんなメッセージをYou Tubeに上げる必要などないはずなのに、わざわざ物議を醸すことを狙って投稿したことなので、(仮に中国には親中意識があったとしても)韓国に対してはこの様な考え方をする政府系の人間も増えている証左である。

ケントギルバートの知ってるつもり2015年1月9日「シャピロ博士から朴槿惠大統領への公開声明(二カ国語)

これは元商務省次官で高名な経済学者のロバート・J・シャピロ博士が朴槿惠大統領に当てたメッセージで、色々と産経新聞の加藤前ソウル支局長の話題なども触れているが、それ以上に「過去に日本は、韓国の戦争被害者に対して約8億ドルを支払っています。ところが情報公開された書類によると、当時の朴正煕大統領はこの資金を被害者、いわゆる慰安婦たちには分配しませんでした。」と日本がこれまでに行ってきた誠意に対する過去の韓国政府の不誠実さを非難するところがポイントである。さらに、「さらにこれらの古傷は韓国メディアに見られる日本への不愉快かつ敵対的な態度によって再び傷口が開き、韓国政府の声明がこれを後押しすることが多いのです。」として韓国メディアの行き過ぎた報道と、韓国政府がこれに乗っかって暴走したことをたしなめている。言い換えれば、朴大統領は安倍総理に「お前の方が態度を改めよ!」と言っているのであるが、シャピロ博士は「朴大統領こそ態度を改めよ!」としている。さらに、以下の言葉で締めくくっている。

==================
朴大統領、私はこれら全ての課題に対して行動を起こすことをあなたにお勧めします。あなたは、ベトナム戦争のときに韓国人兵士がベトナム市民に行った行為のことは脇に置いて、ベトナムとの貿易協定を見事に成立させたではありませんか。朴大統領、過去の争いごとよりも、更なる発展を優先させて、日本に対して友好の手を差し出すべき時期が来ているのです。
==================

このシャピロ博士は経済学者とのことだから、多分、韓国国内では経済関係の人々に強いメッセージが送られたはずである。つまり、「韓国が態度を改めないと、韓国経済が今後、どの様な道を辿るかは(分かる人には)分かっているはずである。であれば、今少し歴史の勉強をしてみれば、日本への態度を改めるきっかけにはなるはずだ・・・」と僅かな証拠・キーワードを織り込んでメッセージを送ったのである。

いずれにしても、戦後70年の安倍談話は徐々に世界に注目されることになる。日本国内では、安倍政権が中国・韓国と対立をし続けることを期待するサヨク系の人々からは、「そんな談話、出させるな!!」という声が聞かれる。彼らは、どうも安倍談話が怖いようだ。上述のシャピロ博士やウォールストリートジャーナル記者の様な欧米人が出てくることを恐れているのだろう。

米議会調査局の報告書の様な昔ながらの記事に一喜一憂することなく、大きな波の潮目を見極める時が来ていると感じる。

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丁寧な議論と乱暴な議論

2015-01-15 00:51:56 | 政治
政治や経済の問題を議論するとき、その問題の複雑な背景を丁寧に扱い、データに基づき正確な議論をする人と、真逆の乱暴な議論をする人がいる。今日は、既に周回遅れの議論となっているが、朝まで生テレビでの竹中平蔵氏の発言を引き合いにだしてコメントしてみたい。

まず、いつもの如く関係ない話題から入る。例えば、科学やエンジニアリングの世界では、ある現象に着目してそこから真実を引き出そうとするとき、その背景にあるメカニズムを簡単なモデルで表現することを試みる。そのモデルを出発点として様々な物理現象を説明するとき、観測される結果とモデルからの予測結果が一致するか否かでそのモデルの妥当性を議論する。そのモデルが妥当であれば、そのモデルの数学的な記述を出発点として、未知の更なる有益な情報を引き出すことが可能であったりする。ただ、多くの物理現象はやはり複雑な効果を伴うため、シンプルなモデルで全てを表現できる訳ではなく、ある部分まではそのモデルで実際の現象を説明できても、別の側面に関しては説明できない可能性もある。その様な時、ある人はひとつでも現実の現象に合致しない条件を見つけ出してそのモデルの妥当性を否定するかも知れないし、別のある人は、どの様な条件の時にそのモデルが有効であり、逆にどの様な条件が重なると有効でなくなるかを詳細に調査するかも知れない。その規則性が分かれば、そのモデルを最大限に活用し、様々な有益な技術を引き出すことが可能かも知れない。しかし、ひとつの失敗例から単純にそのモデルの妥当性を否定してしまうと、折角の有益な技術をみすみす棒に振ってしまうかも知れない。様々な可能性を丁寧に吟味し、複雑に入り組んだ様々な問題の背景にある真実を少しでも見出そうと努力するならば、そこに道は開けるかも知れない。

更に道を逸れるが、先日読んだある雑誌で、ある評論家がアベノミクスに関して変なコメントをしていた。(私の意訳であるが)その評論家曰く、「現在の経済は非常にグローバルであり、ある一国がその国だけに特化したときには完璧な経済政策を取っていたとしても、世界的な視点で見た時には逆に悪い経済政策であるという可能性がある。しかし逆に、その国に特化してみた時に無茶苦茶な政策を取っていたとしても、世界全体でみるとそれなりにプラスの効果を生じる結果に繋がるかも知れない。つまり、アベノミクスが出鱈目な政策であっても、安倍総理達が『アベノミクスは有益な政策だ!!』と言い続けられるチャンスがあり、それが現在の様に安倍総理が好き勝手なことを言う困った結果に繋がっている・・・」といった主張をしていた。しかし、パッと聞いただけで変な主張である。1年ほど前に株価がグングン上がっていた中、急に米国の金融緩和策の縮小やそれに伴う新興国リスクが高まり株価が一時的に暴落し、それを受けて「アベノミクス程、危うい政策はない!」と貶す人達がいた。しかし考えて欲しい。もし民主党政権下でこの様なことが起きていたら、タダでさえ不況で株価が低迷している中、更なる株の暴落に繋がりどうなっていたか分からない。アベノミクスのある程度の成功があったからこそ、あの程度の結果で済んでいた可能性は高い。世界経済の影響を受けての景気失速の責任を、全て安倍総理のせいにするのは筋違いである。つまり、グローバルな世界経済に不安定要素があったとしても、そこから日本の経済政策の是非を議論する際には、外的要因によるバイアスをキャンセルし、純粋な日本の政策の妥当性を議論するのが筋である。先の評論家の言葉を借りれば、アベノミクスがそれなりに妥当な政策であったとしても、安倍総理が嫌いな評論家に「アベノミクスは無茶苦茶な政策だ!!」と言い続けられるチャンスも同様に転がっているとも言える。しかし、先の評論家はその様な可能性を全く排除して、一方的に自分の主張が正しいと言っている。そのどちらの主張の方が妥当であるかを議論したいなら、ある一面で物事を単純化して判断するのではなく、複雑な現実を丁寧に精査しなければならない。

さて、ここからが本題である。

元旦の深夜から早朝にかけて放送された「朝まで生テレビ」の中で、(既に周回遅れの話題であるが)竹中平蔵氏が発言した内容な物議を醸しだしていた。BLOGOSの中で「竹中平蔵」のタグで検索すると、例えば下記の4件の様な記事がヒットする。

BLOGOS 2015年1月2日「竹中平蔵『正社員をなくしましょう』これが安倍政権が目指す新自由主義経済だ(宮武嶺)
BLOGOS 2015年1月5日「竹中平蔵氏に欠けている左右のイデオロギーに関係ない大切な資質〜『木走日記』が竹中平蔵氏に政治を語ってほしくない理由
BLOGOS 2015年1月6日「竹中平蔵氏の『正社員をなくしましょう』はどんな流れで発せられたか?(文字起こし)(弁護士ドットコム)
BLOGOS 2015年1月8日「話題沸騰『正社員制度をなくしたらどうなるか問題』を、ファイナンス論的に考えてみた。- 本田康博(Sharescafe ONLINE)

事の発端は、正社員と非正規社員の問題を議論している最中、「同一労働(同一価値)同一賃金」の原則に話題が移り、竹中氏もその原則には大いに賛成しながらも、しかし実際に同一労働同一賃金を実現しようとするとそれはハードルが高く、敢えて実現するならば尤も実現可能性が高いアプローチのひとつとして「正社員と非正規社員を同一化する」という選択肢を示し、民主党の辻元氏に対して「同一労働・同一賃金と言うんだったら、『正社員をなくしましょう』って、やっぱり、あなた、言わなきゃいけない」と迫った。つまり、机上の空論を振り回していても仕方なく、強硬に同一労働同一賃金と言うならば、「正社員をなくしましょう」という覚悟があるのか・・・と辻元氏をたしなめた発言である。この辺は3つ目の弁護士ドットコムの記事に事実関係として記されている。また、竹中氏の直接意図することではないが、滅茶苦茶噛み砕いて意訳しまくった解説記事が4件目の記事である。

ただ、先の2件ははっきり言って酷い記事で、単なるボヤキと言って良い。1件目の記事の途中には下記の様な記載がある。

「そして、せめて竹中氏のような、小泉『改革』によって、日本の失われた10年を生み出したような戦犯くらいは、2度とテレビに出られないくらいにお仕置きできるようになりたいものです。」

世界的に日本の不良債権問題が失われた10年と呼ばれて深刻に受け止められている中、その不良債権処理を一気に短期間で実行したのは竹中氏であり(大局的にはそれを支えた小泉氏であり)、これは世界中で評価されている事実である。多分、竹中氏を悪く言うのは日本国内だけであろう。にも拘らず、既に失われた10年が経過していたにもかかわらず、そこから日本の失われた10年が始まるかの様な言い方で、戦犯呼ばわりする。しかも、本当に問題があるのなら議論で相手を論破すれば良いのだが、私の知る限り、竹中氏がテレビで討論して論破されたところは見たことがない。大抵は論理的に相手を言い負かし、相手が止むを得なく議論を煙に巻くための「話題を逸らす」戦略に出て、収拾がつかなくなるケースがほとんどである。だから、彼の様な人は竹中氏がテレビに出るのを嫌うのだろう。

また二つ目の記事にしても、竹中氏の経済政策はともかくとして、「経済弱者に対する無慈悲な論考」が酷いと主張して「政治を語って欲しくない」としている。しかし、竹中氏も繰り返しっ主張している話だが、弱者救済には二つのアプローチがあり、ひとつは富の再分配で富める者から貧しい者への富の移動であり、もう一つは経済成長に伴う国民全体の富の増大である。民主党政権は実質的には経済成長を否定(ないしは成長を半ば諦める)する立場から今あるパイをより多くの人が喜ぶように再分配をしようという制度であったが、結果的に経済が失速することを許容していたがために、失業者が増え生活保護が増大した。働かずに生活保護でそれなりの生活をしている人は良いが、働きまくって生活保護より貧しい生活を余儀なくされるワーキングプアが生じた。全体のパイを増やさずに、これらのワーキングプアの救済のため最低所得の補償などしようものなら、更に多くの赤字国債で借金を増やさなければならない。超円高政策を取り、ドル建てで見れば日本の資産は増大したようにも見えるが、高い法人税や円高に不安定なエネルギー供給など、国内の産業が海外に逃げ出し空洞化を起こした。気が付けば、当初の予定よりも遥かに速いペースで、全体のパイが縮小し、景気が減退した。年金運用の財源の株価は底を突き、財政破たんを起こす年金基金も増えた。弱者救済とは耳触りは良いが、実際には自分の手をチューチューしゃぶって食べているスルメ烏賊の様なものである。つまり、選択肢は経済成長に伴う国民全体の富の増大しか残されておらず、その全体のパイの拡大の政策と共にセーフティネットを如何に張り、成経済長の果実を味わうことの出来ない者に、如何にその恩恵を味あわせるかを合わせて考えることが必要である。その議論は経済成長の部分とセーフティネットの部分とを分けて議論する必要があり、どちらかと言えば竹中氏は経済成長の部分を中心に責任を担っているのである。過剰に弱者だけに気を取られていては、思い切った経済成長政策は取れないのである。

さて、少し話を戻してみたい。竹中氏の「正社員と非正規社員を同一化」の意味を今一つ考えてみたい。

まず、上記の記事には記載がないが、朝生の議論の前半の方で宋文洲氏が面白いことを言っていた。アメリカなど海外では、従業員と企業の間では「契約書」を交わすのが普通であるが、日本では一般的にはその様な契約書がないという。私もその様な契約書を交わした記憶がないが、多分、学生が企業に就職の応募をする段階で学生側は企業の採用条件に合意したものと見なされ、企業から採用通知が送られればその時点で契約が成立したような状況になっているのだろう。自分の就職時を思い出しても正確な記憶がないので、多分そんなもんだったのだろうと思う。しかし、これを聞いた出演者がテレビのフレームの外でぼやく声が多数拾われていた。曰く、「そんなこたぁーない。契約書があるから派遣労働者のことを『契約社員』とよぶのではないか・・・」。実はこれが的を得た答えであり、日本では有期の期間限定で雇用する場合には、解雇などで煩わしい問題が発生しないよう、「契約書」で解雇すべき期限を明確にする契約書を交わす。しかし、終身雇用が前提の日本では、この期間を明記する必要がないため、明示的な契約書がなかったりするのである。勿論、それなりの書類にサインをしたりはするのだろうが、本人たちが「契約書」と意識する様な明確な労働条件や賃金の条件などを明記したものにはなっていない。海外で契約書を交わす背景には、所謂「年俸制」の様に「どれだけのことをすれば、どれだけの報酬を払う」という明確な条件を明確にし、後で裁判沙汰にならない様に防御線を張っているのだが、一方では当人のモチベーションを高め、その成果に対する責任の所在も明確にしている。上述の本田氏のご指摘に明確にあるように、「正社員制度のキモは、『終身雇用オプション』と『正社員を好きなだけ働かせられるオプション』、それから『団体契約』です。」という本質がある。これは明らかに海外の「契約」の概念からは大きく外れたものであり、これらの「オプション」と団体契約部分を外すと海外の「契約」に近づく。言い換えれば、これらの「オプション」と団体契約部分を外すと、「非正規社員」と呼ばれる「契約社員」の「契約」に近づくのである。この本田氏のご指摘は真っ当であり、是非ともご一読をお勧めする。そして、これが竹中氏の言うところの「正社員と非正規社員を同一化」の意味である。

ただ、この様なラディカルな改革を民主党や共産党などは決して好まない。それは「正社員」の地位を得ている6割方の有権者の反発を恐れるからである。つまり、「弱い者の味方」の振りをしたいから、耳触りの良い事ばかりを言っていて、本質を議論していない。例えば、先の本田氏の記事の中では正社員を非正規と同一化した結果を以下の様に整理している。

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■「正社員採用」取引をキャンセルするとどうなるか
(・・・中略・・・)
現状と比較した場合の変化の方向を矢印で表すと、概ね次のようになります。
若年または優秀な正社員↑↑   優秀でない中高年の正社員↓↓
優秀な非正規社員↑↑↑      その他の非正規社員↑↑
失業者↑↑↑↑            ブラック企業の元社員↑↑↑(転職による)
企業→(短期)↑↑(長期)      ブラック企業↓↓↓↓↓
社会全体としては、格差是正の絶大な効果により経済状況は短期的にも長期的にも上向くでしょう。
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例えば「優秀な非正規社員」「その他の非正規社員」「失業者」に属する所謂弱者を「正社員と非正規社員を同一化」することで「同一労働(同一価値)・同一賃金」を実現し、結果的に彼らを大幅に救済することが可能であるが、この場合には価値以上の対価を受け取っていた「優秀でない中高年の正社員」が大幅に損をすることになる。民主党や共産党は既得権益者の彼らの反発が怖いから、決してこの様な政策を好まない。「企業」だけが泣いてくれればそれでいいじゃないか・・・という発想である。しかし、企業が儲からなくて会社の成長はない。新規の投資も期待できないし、親成長分野での技術革新も期待できない。これでは社員は不幸になるだけである。

また、番組中、田原総一郎氏が例示していたが、田原氏がテレビ局に入社した頃、テレビや新聞には多くのアルバイトが働いていた。安く人材を確保するためだが、3年以上働いたそれらの人が正社員を希望したとき、裁判を起こすとことごとく新聞社などは敗訴し、正社員として受け入れなくてはならなくなった。そこで、3年もアルバイトを継続的に雇うことを止め、1年で首を切ることにした。それでも裁判で負ける恐れが出ると、今度は派遣社員を使うようになった。つまり、社会正義として弱者の権利を守ろうとすると、それに対する抜け道・逃げ道を相手は探すから、結果として弱者の権利はより失われる結果に繋がっている。だから、本気で「結果」を求めるなら、短絡的な耳触りの良いことを訴えるのではなく、もっと本質的な改善を目指すのか、逆に企業に逃げ込む余地を残しながら、その妥協点の様なものが結果的に弱者の首を絞めない様にするのが現実的な解となり得るのである。

以上、長々と書いてきたが、政権政党として責任ある立場にない人は、耳触りの良い無責任な短絡的な議論を好む。しかし、議論が雑になると、生産的な議論には繋がらない。あくまでも丁寧な議論が必要であり、誰かを貶める為に取ってつけたような議論は最悪である。

竹中氏の発言は少々勇気がいる発言だと思うが、4つ目の記事の本田氏の様な議論を呼び起こすことに繋がったことを考えれば、それなりに意味のある問題提起であると感じた。日本に求められるのは、この様な論客である。それを忘れてはいけない。

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元朝日新聞記者、植村氏の記者会見に思う

2015-01-14 01:13:41 | 政治
先日、元朝日新聞記者の植村隆氏が外国特派員協会で記者会見を行った件についてコメントしたい。

まず最初に大前提について触れておくが、いかなる理由があるにせよ、誰かに対して匿名で脅迫行為を行うことは許されるべきではなく、この様な輩がいるから「まっとうな議論」が「愚劣な議論」とレッテル張りされてしまう訳で、単なる自己満足・鬱憤晴らしがその人たちの本来の主張の足を引っ張り首を絞めていることを自覚すべきである。

さて、植村氏の記者会見の内容は例えば下記の記事に詳細が書かれているのでここでは敢えて触れない。

Blogos 2015年1月9日「【全文】『私は捏造記者ではありません。不当なバッシングに屈するわけには行かないのです。』〜慰安婦問題で元朝日新聞記者の植村隆氏が会見

言うまでもなく、「私は被害者」の一点張りで、この記者会見の趣旨は「言論の自由を否定する者との戦い」と位置付けているようである。ちなみに、本来、この会見では下記の池田信夫氏の記事の様なポイントをしつこく議論すべきであったが、残念ながら全体は植村氏を糾弾する側よりも、植村氏を擁護する側の勢力が支配的で、この様な議論が出来る土壌はなかったようである。

アゴラ2014年12月11日「『強制連行』をでっち上げたのは植村隆ではない

こちらの記事を読めば、植村氏の行為は全体の中では「雑魚」の部類で、全体のストーリーを書いたのはもう少し上層部で、上手く組織(朝日新聞)に利用された側かも知れない。勿論、彼の責任は重大であり、その責任を問われて然るべきなのだが、既に時間も経過していたりして不明瞭なことが多く、状況証拠的には完全にアウトでも、本人が口を割らない限り決定的な物的証拠を見つけることは困難である。植村氏はその様な事情を利用し、肝心なことには「知らぬ、存ぜぬ、忘れました」と繰り返し、決定的な尻尾をつかませようとはしない。多分、国会の証人喚問に召致しても、同様の言い訳を繰り返すのは目に見えている。中々、難しい状況である。

さて、ここからが本題である。

まず、植村氏がこのタイミングで記者会見を開いたのには二つの理由があると思われる。ひとつは植村氏を糾弾する勢力に対する戦いとして、彼の支援者などが協力して文藝春秋や東京基督教大教授の西岡力氏などを裁判で訴えたこと、更にその後も様々な裁判闘争を繰り広げることを宣言し、逆の意味で自己に対立する勢力に対し「力で恫喝する」戦略を声高に世間に訴えることである。そしてもう一つは、フランスの「シャルリー・エブド襲撃事件」の報道を悪用し、自らがフランスで殺された被害者と同じ側の人間と主張することで、論理的な議論をすっ飛ばして、短絡的に自らへの同情票を集めようと思ったからであろう。具体的な時系列は不明だから推測でしかないが、裁判闘争の記者会見の準備をしていた最中に格好の事件が起きたので、慌ててそこに便乗したのだろう。実際、記者会見でも冒頭でフランスのシャルリー・エブド襲撃事件を引用し、更には朝日新聞阪神支局襲撃事件まで引合いに出し、自分も一歩間違えば殺されかねない・・・というニュアンスを必死で醸し出していた。しかし、彼の置かれている立場とフランスの事件は全く別物で、彼は自分の身の潔白を示したければ産経新聞や彼に批判的な主張をする者の取材を受け、真摯にそのひとつひとつに答えれば良いのである。しかし、実際には彼は自らに批判的なメディアの取材を避け、同情的なメディアだけを選択して取材に答えているから、彼は本質的に問題の解決を目指すのではなく、なし崩し的に力で相手をねじ伏せればそれで良いという判断であることが伺い知れる。

ところで、シャルリー・エブド襲撃事件については最近は少し議論が発散する傾向にある。ベースとしてあるのは、あのテロのことを「言論の自由への挑戦」と位置付けるもので、「言論の自由はいかなる理由があるにせよ、守られるべきである」というシンプルな主張である。これには私も賛同する。しかし、一方で「言論の自由は何処まで保証されるべきか?」という議論もある。ヨーロッパでは、長い歴史の中で宗教が個人の自由を制約していた経緯があり、「言論の自由」と「宗教からの自由」は表裏一体の真理と見なされている。その議論(戦い)の中では多くの犠牲者も見られ、例えば「天動説」の様な真理でさえも宗教的には許容できない「邪悪な説」と位置付けられ、コペルニクスやガリレオの主張は受け入れられなかった。科学的な真理ですら支配しようとする宗教的価値観に疑問を持つ人たちが長い時間をかけて行った改革の成果で、現在、我々は様々な多様な価値観を相互に尊重可能となっている。

これはキリスト教の世界で起きた出来事であるが、しかし、イスラム教の世界ではその様な宗教的改革はなされていない。昨日のテレ朝の報道ステーションでも何処かの有識者が語っていたが、イスラム教の世界では「ムハンマドがいたから今の私がある」という価値観があり、ムハンマドを茶化すメディアはムハンマドと自らの存在を否定するものであり、それは「レイシストのヘイトスピーチと同類」の野蛮な行為であるとイスラム教の人々は認識すると解説していた。日本でもヘイトスピーチに関する対立の構図はマスコミの間にも登場する。マスコミがレイシストと呼ぶ在特会と、そのヘイトスピーチへのカウンター側の勢力がしばしば衝突する。過去に私のブログでも思想家?の東浩紀氏の記事を紹介したが、言っていることは在特会の方が問題だが、行動自体はこのカウンター勢力の方が遥かに暴力的である。しかし多くのマスコミは何故かその暴力には目を瞑り、メディアはこれに結構好意的な報道を行ったりする。「背景にある信念が正しいのだから、その主張の仕方が少々野蛮でも許容範囲」だと黙認しているように見える。「両者とも問題あり」という評価には至らないらしい。日本ですらこの様な発想が自然なのだから、敬虔なイスラム教信者であれば(それ程の過激派的な集団でなくても)自分たちを否定してかかる集団(例えばシャルリー・エブドなど)に対するカウンター勢力が暴力的な報復を行っても「共感」を覚えてもおかしくはない。それすら、彼らにとっては「言論の自由」の範疇だという理解なのかも知れない。

勿論、多くの人々はシャルリー・エブド襲撃事件の犯人を許しはしないだろうが、しかし、だからと言って多くのイスラム教徒がシャルリー・エブドを称賛したりもしない。つまり、「神の前ですら自由と平等という欧米の価値観」は、「アッラーの他に神なし」というイスラム教の価値観に対して極めて「不寛容」であり、そもそもこの「不寛容性」は是か非か?という問いとなって返ってくる。欧米的な価値観では答えははっきりしているが、イスラム教徒にとっては相いれる物ではなく、世界はたったひとつの価値観では動いていないという典型的な例と言えよう。

この辺の事情に対するフェアな論評が、どうやらニューヨークタイムズに掲載されているらしい。

地政学を英国で学んだ(奥山真司)2015年1月13日「私はシャルリー・エブドではない

ニューヨークタイムズ紙の保守論客のディヴィッド・ブルックス氏が書いた記事では、世界はシャルリー・エブド誌のテロ被害者を言論の自由の「殉教者」としてあがめるようであるが、彼らの下品な表現手法は例えばアメリカの大学キャンパス内で出版しようとしたら、「ヘイトスピーチ」として非難されてもおかしくはないもので、その意味で彼らもまた上述の様に対立する意見を持つ者に対して不寛容な存在であることを知るべきであるという。だから、偽善的に「私はシャルリー・エブドだ」と主張するのは不適切で、実際、多くの人は他者の宗教を嘲笑うことを良しとはしない。この記事には指摘していないが、どうやらシャルリー・エブド紙は事件後の最新号の表紙で、ムハンマドが「私はシャルリー」との標語が書かれた紙を手にした絵柄を表紙に掲載するらしい。

産経ニュース 2015年1月14日「ムハンマドが『私はシャルリー』…仏週刊紙、事件後も風刺画掲載へ 仏軍、全土に1万人展開

これは言いたいことは分かるが、イスラム教過激派への挑戦状的な挑発であるのは間違いなく、下品さを否定できない。ディヴィッド・ブルックス氏などはこの様な下品さを指摘しての「私はシャルリー・エブドではない」とのコメントなのだと思う。
面白いのはそれに続く記載で、人は歳と共に現実がより複雑なものであることを自覚する様になり、他者に寛容にもなれるようになるという。他者の言い分も聞く耳を持ち、対立した意見にもある種の尊敬の念を抱けるようになるという。一方で、風刺家や嘲笑家たちは問題の所在を時として指摘し、原理主義者の馬鹿らしさも暴いてくれる。心地良いばかりではないが、必要悪的にこの様なスピーチへの規制はあってはならず、結論としては「われわれに法律的には攻撃的な声には寛容ながら、社会的にはそれを許さないような姿勢が大切であることを思い起こさせるべきなのだ」としている。

ただ現実の世界に立ち戻れば、中々、対立した価値観の対立の和解は簡単なものではない。植村氏や朝日新聞の主義主張も同様で、まさに相容れない価値観の対立の様に見える。例えば、我々が長い歴史の中で勝ち取ってきた「証拠に基づく議論の原則」に対し、裏付け可能な証拠に基づかない「抽象的な弱者救済の観点からの議論」は相容れないだろう。しかし、植村氏の言葉に騙されて相容れない価値観の対立の様に感じてしまったが、冷静になって考えてみれば、宗教的価値観の様な「どうしようもない対立」に比べたら、少なくとも日本国内での慰安婦問題の対立は、もう少しは対処可能な対立のはずである。もう少し言えば、相手が韓国や中国となると、既に宗教論争に近いものがあり、多分、解決は不可能だろうが、少なくとも日本国内での対立が決着しなければ韓国相手に問題解決など図れるはずはないから、まずは国内の議論をもう少しは丁寧に行うべきであろう。

先にも述べたとおり、既に植村氏の責任追及は余程彼がポカでもしない限り厳しい状況にある。であれば、我々としては彼の様な元朝日新聞記者に謝罪させることを第1の目的とするよりも、日本国内だからこそ成り立つ可能性のある議論にエネルギーを集中させるべきである。例えば、朝日新聞は慰安婦問題の「広義の強制性」を問題にするが、朝日新聞社長に「狭義の強制性」の有無に対する認識と、その認識の根拠を明確にするように求めればよい。「広義の強制性」の問題に関しては、勿論、自らの意思に反して不幸な経験をした女性がいる事実を争うのではなく、その事象が法的に日韓請求権協定で未解決の問題(これから補償問題を議論すべき問題、更にはアジア女性基金でも解決しえない問題)であるかを、法的な視点で議論をすればよい。女性の人権問題も同様で、戦時中の殺人行為までを含むはずの日韓請求権協定で未解決というのであれば、その法的根拠を明確にしてもらえれば良い。勿論議論はそんな単純ではないが、議論の仕方次第ではまだ議論が噛みあうチャンスだけは残されていると思う。

植村氏などの記者会見を見れば、どうも彼は宗教論争に持ち込み議論を煙に巻きたいようであるが、我々は世界を相手に宗教の教義の正しさを議論しようとせずに、まじはあくまでも国内限定で冷静に議論できる領域を探していくべきだろう。

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正義ぶってリスクを語るなら、全てのリスクに言及しろ!!

2015-01-10 00:49:01 | 政治
最近、年が明けた元旦の深夜から早朝にかけて放送された「朝まで生テレビ」を、毎日少しづつ見ている所である。色々書きたいことがあるのだが、順番に書かせて頂く。今日は集団的自衛権に関するコメントである。

まだ最後まで見ていないので、その後の議論がどうなったのか分からないが、集団的自衛権の議論をするとき、必ず出てくるのが「戦争をする国になることのリスク」問題である。まず「戦争をする国」という表現が、これまでも書いてきたように間違っているのだが、今日はそこは問わずに「リスク」について議論したい。

ここでの「リスク」にも色々あって、例えば安全保障は専門外の竹中平蔵氏が指摘していたが、サヨク系の人々は「米軍の戦いに巻き込まれることで戦争に参加するリスク」だとか「自衛隊員が死ぬリスク」を問題にするが、彼らは決して「経済大国であることを武器に覇権主義に走る中国により領土を脅かされるリスク」を語ろうとはしない。ただでさえ厭戦気分で「世界の警察ではない」と言わざるを得なくなったアメリカでは、覇権主義の中国から領土を侵害されて局所戦が勃発した際に、日米同盟を根拠に中国からの攻撃を受けた日本の自衛隊への防衛出動の為に、米国の若い兵士が命を落とすことを良しとしない事態に流されるリスクが否定できない。そんな中、そのアメリカ国民に防衛出動拒否の「言い訳」を与えることになりかねない、他国から米軍が攻撃された時の「傍観」状態に至れば、そのリスクはかなりの確率をもって現実になりかねない。しかし、そのリスクを指摘されると、彼らは議論を煙に巻く戦略に打って出る。それは、米軍は尖閣問題で中国と衝突するリスクを犯すことを避け、元々、日本を守る気など無いのだ・・・と主張する。フェアな議論をするならば、この「仮説」の真偽は明らかではない。常識的に考えれば、そこで中国にNoという態度を突きつけることができなければ、それは止めどない中国の横暴を生じさせることになるから、傷口が大きくなる前段で「1発、お見舞いしてやる!」という展開が最も信憑性が高いのであるが、その時の大統領がどの様な大統領であるか、ないしはその時のアメリカの国内事情がどの様なものであるかなどに応じて、アメリカが身動きできない可能性は否定できない。つまり、最初から確信犯的に日本を裏切るつもりはなくても、結果的に裏切らざるを得ない状況は有り得るから、尖閣で中国が暴発しても、日本は独自の防衛力と外交力で対抗しなければならないかも知れない。しかし、この可能性は別に他国から米軍が攻撃された時に自衛隊が「傍観」し、その結果として米軍が尖閣で日米同盟を発動しなくなるリスクを「議論しなくて良い」というロジックには繋がっていない。それぞれはあくまでも別の議論であるので、常識的なアメリカ国民が理不尽な片務性に嫌気がさすという尤もらしい感情を持つことに対しては、十分にリスクとして議論する価値がある。

「自衛隊員が死ぬリスク」が高まるのは当然否定しないが、中国が「アメリカは尖閣問題で中国に弓を引かない」と確信するに至れば、上述の尖閣などの東シナ海周辺に繰り出す中国軍が海上保安庁や沖縄の漁師などに発砲などして挑発を試みる心のハードルを引き下げることになり、結果的に自衛隊員以外の日本国民の生命・財産が脅かされることに繋がる。こちらの「一般国民が死ぬリスク」については彼らは議論をしようなどとはしない。

竹中氏が適切な表現をしていたが、ノーベル平和賞のマララさんの行動に対し、パキスタンの地元の一部の人々は「彼女のせいで、子供たちが怪我するリスクが高まった」として「だから、マララの行動など決して許してはいけない!」主張したりする。その気持ちは痛いほど分かるのだが、しかし、悪いのはマララさん殺害や小学校の襲撃を行った野蛮な暴漢たちであり、イスラム教の正しい教えを捻じ曲げ、女性のみならぬ多くの人権を虫けらの様に扱う彼らを放置すれば、後世、更に悲惨な事態が起きることになることは目に見えている。日本で言えば、暴力団から「みかじめ料」を求められて払っていた人達が、改正暴対法の施行で緊張が走る中、「警察や日本政府が余計なことをするから、俺たちの身が危なくなるのだ!もっと、暴力団の好きなようにさせてやってくれ!!」という人がいたら、それを容認することは出来るのだろうか?当然、一般市民を守りきれない警察は責められて然るべきだが、警察を追い出して「みかじめ料」を払い続けた時、その後にとても払えないような膨大な「みかじめ料」を暴力団が要求しないと誰が言えるだろう。既に警察を追い出し、無法地帯となった世界では誰も助けてはくれない。商売をたたんで逃げ出すしか道はなくなる。しかし、そうなる前に、そうなるリスクをちゃんと評価して、「怖いけれども、最悪の事態だけは避ける」覚悟が必要なのである。しかし、集団的自衛権の議論では、その様な議論を彼らは語ろうとはしない。自分の都合の良い1面だけにフォーカスし、その他の議論には頬かむりをする。

ただ、ここで問題としなければならないリスクには、もっと需要なリスクがあると私は感じる。それは、民主党や共産党などに加えて朝日新聞などの反日メディアが「日本は戦争をする国になった!」とか、「戦前の軍国主義が復活した!」とか、更には「安倍総理はヒトラーの再来だ!!」みたいなことを言ったとすれば、それが諸外国でどの様に評価されるのかというリスクを誰も考えようとはしない。朝日新聞はニューヨーク・タイムズとつるんでいるから、朝日の記事はそのままアメリカ国内にも展開されることになる。これは慰安婦問題に関しても同様で、安倍総理を歴史修正主義者として糾弾し、偏狭なナショナリストとか極右の軍国主義者と吹聴することのリスクがどの様なものであるのかを全く無視しているのと等価である。

考えても見て欲しい。もしあなたがアメリカ国民だとして、一体、どれほど自分から日本の国の真実を努力して知ろうとするかを。この様にさして知識がない中で、天下の大新聞ニューヨークタイムズやワシントン・ポストなどが、安倍総理を偏狭なナショナリストでレイシストで、パールハーバーで多くの米国民を殺したのに、再度、アメリカに襲い掛かるかも知れない極右の軍国主義者だ決めつけていたならば、尖閣問題で日本と中国の間に小競り合いが起きた時に、アメリカ国民が米兵がその戦争に加担して命を落とすことをどれだけ快く思わない様になるのかを考えてみて欲しい。つまり、尖閣周辺で海上保安庁の船が撃沈され、周辺の沖縄の多数の漁船が拿捕され、そこに海上自衛隊が出動した際に米軍が沈黙を続けたら、それが日本国にとってどれだけの損失になるのかというリスクを考えて欲しい。そこで失われる命のリスクも真面目に考えて欲しい。

勿論、朝日新聞や野党の主張に妥当性があるならそれも仕方がないが、例えば慰安婦問題や南京大虐殺など、証拠ベースで議論すれば(旧日本軍に落ち度や反省すべき点は多々あったとしても)そこら中で「レイプ国家」「残虐非道な国家」などと言われることもなければ、アジア女性基金などの妥当な着地点を見出すことも簡単であったはずである。しかし、既に取り返しのつかないところまで来てしまっているから、朝鮮半島で有事の際にも、日米韓の連携がとても上手く機能できる状況ではない。さらに言えば、経済的依存度の高まりも背景にあるとはいえ、韓国が歴史問題で中国と連携するに至り、結果的に中国と韓国の距離が極端に縮まり、アメリカですら中国にすり寄る韓国に見切りをつけざるを得ない状況にある。これは中国を調子づかせ、更に中国の覇権主義を加速する効果を生じさせている。これらの状況が生むリスクも、慰安婦問題などの歴史問題を証拠を無視して捻じ曲げた議論に終始した福島瑞穂や反日メディアに責任があると言わざるを得ない。まさに彼らの行動は、中国の手先としての切り込み先方隊の様なものである。

この様に、反政府主義、反体制主義と云うのは一見、ジャーナリズムの基本の様に見えるのだが、論理的な議論に基づかない一面的な暴論であるならば、それは国民を不幸に導く悪魔の囁きに他ならない。囁かれた多くの国民は、ついつい洗脳されてそれが正しいと思い込み、更に国民を危険のリスクの高い状況に追い込むことになる。桑田佳祐などもその類だろう。

あくまでもリスクというのは多面的である。一面だけを強調する現在の風潮に風穴をあけるため、この様な議論が活発化することを望む。

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朝日新聞の社外委員コメントと安倍総理への中傷に思う

2015-01-06 00:56:19 | 政治
今日のブログは下記の2本の記事をベースにコメントしたい。

朝日新聞Digital 2015年1月5日「社外委員4氏からのメッセージ 朝日新聞信頼・再生委

アゴラ2015年1月5日「安倍首相はヒトラー? 歴史知識のなさを笑う--本当に怖いのは…(石井 孝明)

1件目の記事は、慰安婦問題の吉田証言や福島第一原発の吉田証言に関する捏造記事などについて検証するために設置された3つの委員会の中で、特に社内からの検証を進める為に設置した「信頼回復と再生のための委員会」において、検証が内向きにならない様にと招いた4氏からのコメントを掲載している。その4氏とは朝日新聞曰く、「社外委員は、冤罪(えんざい)など社会の問題を幅広く発信するジャーナリストの江川紹子氏(56)、企業の危機管理を専門とする弁護士の国広正氏(58)、部門の垣根を取り除いたチームの導入などで経営再建を果たした日産自動車副会長の志賀俊之氏(61)、テレビコメンテーターも務める社会学者の古市憲寿氏(29)です。」とある。第三者委員会も人選は微妙だが、こちらはさらに疑問を感じるものであるが、江川氏と国広氏のコメントは中々的を得たコメントであると感じた。

このお二方のご指摘の共通点は(私の意訳によれば)、まずは新聞の役割を「読者が正しく考え判断するための公平・公正な情報提供をすること」と定義し、朝日新聞が道を踏み外した根底には、「読者がどの様に判断すべきか」を新聞の側から押し付ける為に、アンフェアに事実(≠真実)をつまみ食いし、読者が複眼的な物の見方をする機会を奪うことを「正義」と誤解した点にある。国広氏はこの様な初めに結論ありきの朝日新聞の姿勢を「権力を監視しなければならないという過剰な使命感」と表現しているが、私にはその様には見えない。何故なら、民主党政権が誕生したとき、朝日新聞などは手放しで民主党政権を称賛していたからである。勿論、如何にも叩きやすい失敗は叩きまくるが、安倍政権の様な辛辣な誹謗中傷には至っていない。これでは「権力の監視」ではなく、自ら信じるイデオロギーの洗脳に近い。勿論、放送法の様な縛りのない新聞社が社説などで意見を主張するのは構わないのだが、例えばAERAなどで良くある一見「記事」の様に見えて、良く読むと「広告」であるような怪しげなページなどは、ステルス・マーケティングと何ら違いはない。芸能人が自身のブログで「xx(商品)を買いました。中々いいですよ!!」と嘘記事を書いて叩かれたが、それと同列である。新聞においても、客観的な事実(=真実)と思わせる様な記事を装い、実際には「バリバリの社説でした・・・」なんてのは許されるものではない。

さらに言えば、その様な多様な議論を排除するために朝日新聞がとった戦略は、物事を単純化することで論理構築の途中段階をすっ飛ばかし、最初の事実から最後の結論を短絡的に直結した報道に徹したことである。この点は、江川氏が適切に指摘している。

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江川氏「エネルギーの問題にしろ、国際関係にしろ、世の中は複雑化しています。なのに、ひどく単純化した物言いが社会に蔓延(まんえん)し、極論が横行している状況です。これでは、改善に向けての建設的議論ができません。」
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つまり、私に言わせれば「現実の世界」は100もの変数を持つ100次元非線形連立方程式の様な複雑系の世界で、厳密解を導く公式などは存在しないような世界である。幾つかのパラメータを固定して、偏微分などしてローカルな局所解を近似的に求めるなど、様々な学者や有識者が近似解法を唱えている様なもので、精度の差はあるがいずれも厳密解には成り得ないのである。その様な複雑系を、あたかも2元1次連立方程式の様に簡単な厳密解が容易に求まるかの様に吹聴するのが最近のメディアの傾向である。分かり易く言えば、韓国に譲歩すれば韓国も日本との関係改善に前向きになるだろうと信じてこれまで歩んできたのに、河野談話や村山談話などで「ほぼ満額回答」したはずが調子づき、IMF危機で苦しむ中で救いの手を差し伸べ、2002年W杯も日韓共催にまで譲歩したのに、失われた20年に苦しむ日本を嘲笑い「もはや、日本などライバルではない」とばかりに日本人や天皇陛下の心を踏みにじり、世界に「残虐非道な国家」と宣伝しまくる姿を見れば、中学1年生の数学問題の様な簡単な問題ではないことに気が付くはずである。4、50年前の日米安保問題では、当時はそれでも複雑系と思われていたが、今では日米安保に正面から反対する人などいない。その当時は計算機が幼稚であったために線形の方程式でも解くことができなかったが、コンピュータが発達した今では変数が100個あっても100x100の逆行列演算で容易に厳密解を求めることができるようになった。しかし、であれば現在では複雑な問題でも一瞬で解けるようになったかと言えば、より複雑な問題を扱うようになって、益々、コンピュータのCPUパワーは不足している状況である。気象予測などでスーパーコンピュータが必要とされる状況の背景と似ている。

(なお蛇足だが、その他の志賀氏と古市氏のコメントは、どうも朝日新聞ファンのオーラがまとわりつき、優等生の高校生が書いた作文の様でつまらない内容である)

さて、遠回しにクドクドと書いたが、複雑な問題を単純化して「ほうら、答えは簡単さ!」と訴える戦術は、悪意を込めたレッテル張りがその典型である。石井孝明氏の記事の方は、その象徴的な出来事として、安倍総理をヒトラーと同一視しようとするメディアや政治家の主張を批判している。先日の記事でも書いたが、サザンの桑田佳祐氏が紅白歌合戦の中でちょび髭をつけて出てきたことを取り上げ、「ヒトラーの真似をして安倍政権を批判した」と指摘している。私は前回のブログを書くときにも、その様な主張があることは知っていたが、公平な立場からそこまで桑田氏を批判はしなかった。と言うのも、その時の服装はヒトラーを連想させる様なものではなく、単なるその辺のちょび髭のオヤジだったからである。これに何らかの(つまりヒトラーを象徴的に表したということ)意図があるとするならば、メッセージと言うのは伝えたい相手に伝わってナンボのモノであり、その伝えたい相手が広く有権者(国民)であるならば、その意図が伝わった受け手はごく少数であろう。そして、その少数の人々は所謂「サヨク」と呼ばれるような人たちで、今更、その様な主張などしなくても最初から安倍政権叩きを繰り返している筈なので、桑田氏がその様な人々を相手におふざけをしているのであれば、それは天下の公共放送の年に1回の晴れ舞台でマスターベーションをしている様なものである。逆に、広く一般の国民にその様なメッセージを伝える為の演出としてちょび髭を選んだのであれば、余りにも幼稚で下手糞な演出である。だから、曲自体には安倍政権批判のメッセージが込められているが、あのちょび髭オヤジには実際にはそこまでのメッセージが込められているとは私は感じなかった。

・・・と、大分話が横道に逸れてしまったが、(サザンの話はどうでも良いのだが)安倍総理や次世代の党などにヒトラーやネオナチのレッテル張りをして、ネガティブなイメージを植え付けて相手にダメージを与えようという戦略は、実際には無視できる状況ではない。先の衆院選では、日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」は次世代の党を「日本版ネオナチ」と呼んでレッテル張りをし、ネガティブ・キャンペーンを繰り広げた。それだけが原因でない事は明らかだが、壊滅的な敗北という結果は余りにもショッキングであった。確かに急進的な右寄りの議員もそれなりの数はいたが、慰安婦問題に対し、「Factベースでの議論を!」と声高に叫ぶことが「ネオナチ」であるという主張は余りにも短絡的である。複雑な方程式(の最小値)を解くのに更に複雑化させてしまう傾向が次世代の党にあるのは確かだが、計算機で複雑な方程式の最小値を求める際に、局所的なローカル・ミニマムへの落ち込みから真の最小解に脱出するためには、多少の揺さぶりを与える外乱要因が必要であったりする。余りにも意見の振れ幅が小さい集団が権力を支配していると、選択肢が狭められて議論が内向きになりかねないから、多少の揺さぶり要因として共産党も次世代の党も、民主主義には必要なのだと私は考える。しかし、それなのに共産党が民主主義を否定するかのような禁じ手に打って出て、しかもそれで成功を収めたというのは許し難い。

石井氏のご指摘は、ヒトラーと安倍総理には類似点がないということを丁寧に語説明されている一方、1点だけ共通点を指摘されている。

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石井氏「ただ一点、警戒すべき点があると思う。ヒトラーを生んだ状況と今の日本は、似た点がある。それは「政治が何も決められない」ということだ。
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多くのメディアが衆院選の後で指摘していたのは、「自民党が勝利したのは、手段的自衛権や特定秘密保護法、原発問題などの全てに対し、自民党に白紙委任することを意味しない」ということであったが、それは裏を返せば「自民党が政権公約を掲げたことを、そのまま実行することを国民は認めていない(政権公約を実行してはならない)」という意味になる。つまり、「100人が100人、納得する様な政策でなければ実行してはいけない」というスタンスでいると、政治が何も決められなくなり、その行き詰まりの状況がヒトラーを生む土壌になるということである。少なくとも、現時点では安倍総理はその様なドン詰まり状況にはない。民主主義のルールで許された、決断できる政治を淡々と実行しており、これが続く限りはヒトラーは出現できないということになる。

この辺は、大学で習う簡単な微分方程式程度の複雑さだろうが、その程度の複雑さでも文系の方々には理解できないかも知れない。しかし、その難しさを伝えようとする努力は、誠意あるメディアには必要である。その意味で、石井氏の様な解説は必要なのだと思った。

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ミュージシャンの「祈り」と、メディアや政治家に求められるものの差異

2015-01-04 01:28:15 | 政治
年末年始のドタバタで、いろいろ忙しくてご無沙汰になってしまった。今日は、大晦日の紅白歌合戦のサザンの歌、「ピースとハイライト」を聞いていて感じたことを書いてみたい。

まず、サザンの歌の歌詞は下記のサイトにある通り・・・。

うたまぷ.com「ピースとハイライト

解説するまでもなく、ジョン・レノンの「イマジン」的な平和主義の歌であると認識されていると思うが、しかし決定的に「イマジン」とは一線を画す歌である。参考までに、ジョン・レノンの「イマジン」の歌詞の検索をかけてみたので下記に紹介しておく。

MAASH 「Imagine(イマジン)の歌詞をそのまま知る 直訳です。

こちらは出だしからして「Imagine there's no Heaven(想像して 天国はないと)」と始まり、「Imagine there's no countries(想像して 国がないことを)」、「And no religion too(そして宗教もない)」とあり、宗教もなければ国もなく、完全にニュートラルを貫く夢想家の歌となっている。争いや戦争を否定しているが、直接的にアメリカ政府を批判したり、逆に何処かの勢力に靡いている訳でもない。宗教や天国を否定する時点で、ひょっとすれば敵(敬虔なクリスチャン)を生むことに繋がるかも知れないのに、逆に(その当時から意識していたかどうかは分からないが)宗教すらキリスト教やイスラム教のどちらにも加担しない意思を示し、ニュートラルさ加減は伝わってくる。どちらかと言えば、「祈り」に近いような歌である。

しかし、サザンの「ピースとハイライト」は明らかに安倍政権を批判する様なニュアンスがあり、逆に中国や韓国は第2次世界大戦のみならず、現在ですら安倍政権からの被害者的なニュアンスすら伝わってくる。決して、新疆ウイグルやチベットでの人権弾圧や、言論の自由のない世界、南シナ海や東シナ海での力を背景にした侵略行為的な覇権主義に目を瞑り、一方的に「まずは、日本から変わろうよ!!」と訴えている様な歌である。

さて、この歌が好きか嫌いかと聞かれれば、明らかに嫌いではあるのだが、言うまでもなく彼ら(サザン)がこの様な歌を歌う権利は絶対的に認められるべきであり、多分、これに異論を唱える人はいないのだと思う。つまり、「安倍晋三の馬鹿野郎!!」と国会議事堂の真ん前で大声で叫んでも捕まらない自由を我々は謳歌しているし、この様な自由のある国であることを誇りに思っている。ただ、所謂「文化人」と言われる類が、ほぼ揃って「左寄り」の発言に偏っていて、ニュートラルなポジションや少しでも右寄りに位置すると「右翼」「極右」や「タカ派」とレッテルを張られる傾向は健全とは言えない。昨年は「嫌韓本」が良く売れたと聞くが、詳しくは確認していないが、所謂「嫌韓本」の中には韓国をケチョンケチョンに貶す本もあれば、暴走する韓国を冷静に捉え、「既に、論理的な議論で答えを見出そうとしても無理な状況にあり、暫くは距離を置くしか手はない」と分析をする本もある。その書きっぷりに「毒」があったりして微妙なニュアンスは難しいかも知れないが、後ろ向きな議論だけではないのは明らかである。その様な中で、「嫌韓本」と一括りにして全てを「劣悪な書籍」とレッテルを張る傾向にも、これまた左寄りのバイアスが強力にかかっている。

例えば、海外の新聞を例に取れば、例えばニューヨーク・タイムズなど著名な新聞社の多くは、無茶苦茶なロジックで安倍総理を歴史修正主義者の極右の覇権主義者とレッテル張りをしている。だから、日本の新聞社、例えば朝日新聞が安倍総理をケチョンケチョンに叩きまくり、「安倍の葬儀はウチが出す!それが社是だ!」と言っても良いのだが、であれば中国の人権弾圧や南シナ海での覇権主義、法を無視した力に寄る現状変更などを、安倍総理の行うことの悪質さと比例関係にある分だけ、大きく糾弾する一大キャンペーンを行ってくれれば良いのだが、しかし、実際には中国や韓国の「犬(ポチ)」となっている。これは、例えば中国の外交部報道局などの記者会見で質問をする記者がいるが、あれは完全に事前に何を質問するかを事前に仕込んでいて、中国の意向に沿った質問をすれば日本の新聞社でも質問が出来る。この辺の事情は、私の好きな「ぼやきくっくり」さんのページに解説がある。

ぼやきくっくり2014年4月7日「中共指導者の“やらせ”記者会見でよく指名される朝日・日経・共同

完全に事前打ち合わせに応じることが条件で、だからガチの産経新聞などは決して中国では記者会見で指名されることはない。話が少々逸れたが、サザンの歌が紅白歌合戦で流される自由を謳歌するなら、命がけで中国や韓国の問題点を糾弾する勇気も欲しいところだが、こちらの方は完全に「他人のことをとやかく言う前に、まずは我が身を正すこと」などと言い逃れをして逃げてしまう。これが悲しいかな日本のマスコミであり、日本の文化人の現状なのである。

さて、最後に少しばかり言葉を加えておきたい。私は極端な話、「文化人」に多くのことを望むのは酷であると諦めている。例えば、東日本大震災などの大災害の時、韓国で言えばセウォル号の悲劇が起きた時に、ミュージシャンが「祈り」の様な歌を捧げて被害者やその家族の心の傷を癒すのは大いにアリだと感じる。大津波で壊滅した街を目の前に、多分、死んでしまったであろう行方不明者に何が出来る訳でもないミュージシャンが「歌」を歌うことは、彼らに出来る精一杯のことであるからそれは仕方がない事である。しかし、政治家や時の政権の中枢にいる権力者が「祈り」以外の何もせずにオロオロしていたら、誰もそれを妥当な行為だとは認めない。寝ても覚めても被害者の「ご冥福」だけを祈る新聞社などがあれば、それは叩かれて然るべきであろう。つまり、人にはそれ相応の役割があり、その役割に応じたことを行うことが求められており、サザンがあの様な歌を歌うのはOKだが、この様な外野からの野次を「大そうな有難いお言葉」として持ち上げてばかりのメディアでは意味はない。

例えて言えば、何処かの高校で極悪の不良グループが悪さをしまくっているのに、善良な生徒に対して「彼らは彼ら、我々は彼らに対しても人間の尊厳を尊重する態度で臨もうではないか!!」と説く先生がいれば、「生徒が恐れおののいて、その様な日寄ったことを言うのは理解できるが、先生がそんな態度でどうするんだ!!」と激しく責められて然るべきである。

「話せば分かる」や「相手にも人の心はある」といった性善説を前提に政治ができるなら、この世に戦争などがあるはずがない。にも拘らず戦争が起きるのは、その様な性善説が無力な世界がそこにあるからである。政治家に求められるのはその様な現実の中で「結果を残す」ことであり、即ち我々日本国民の安全と平和に加えて、アジア地域、世界の平和に繋がる行動が求められている。その様な政治家が夢想家であることは断じて許されない。「最低でも県外」と夢想した政治家の末路を見れば分かることである。

最後にもう一度言うが、サザンは別に悪くはない。悪いのは、バランスを失ったメディアであり、その様なメディアに対して迎合するポピュリズムに汚染された政治家である。それだけは忘れないで欲しい。

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