けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

秒速病の処方箋 ~「秒速5センチメートル」鑑賞後に思い悩む方へ~

2017-03-26 00:30:52 | 日記
もう、100回ぐらいの周回遅れの書き込みで恐縮であるが、先週、テレビで「秒速5センチメートル」が放映され、その鑑賞後の1週間、どうしようもなく行き場のない思いに悩まされ続けた状態から立ち直るに至った過程について書いてみたい。

最後に書いたブログから1年以上も経ち、日々の忙しさで政治ネタではとてもブログを書けそうもないのだが、「秒速5センチメートル」については書かずにはいられないという思いは止められず、書かせていただくことにした。一言で「感動」という言葉を使う時、それはどちらかというと清々しい気持ちと共に語られることが多いと思う。しかし、今回は清々しい気持ちとは真逆である。しかし、心を揺さぶる、大好きな映画であることは疑いもない。ネット界隈では、検索してみれば膨大な数の「秒速5センチメートル」の書き込みがあり、ちょっと見ただけでも相当な数だった。新海誠監督の作品の根っからの(「君の名は。」以前からの)ファンの多さと、その思い入れの強さには敬服する。しかし、それらの幾つかを読んでも、行き場のない思いは晴れることがなかった。巷では、「秒速5センチメートル」のことを「鬱映画」と評する人もいるようで、その表現には賛同することは全くできないが、その言葉の意味する処が何かは理解できる気がする。その様なことで思い悩む「病気」を、新海ファンは「秒速病」と呼ぶらしい。実に言い得て妙な命名に、「私も秒速病の患者なんだ・・・」と強く感じた。多分、この状態からは一朝一夕では回復することはできない。以下の内容は、かなり遠回しな書きっぷりで、結論だけを書いた方が良いのかも知れないが、敢えて余計なことも書かして頂く。今までのブログの中でも最長の記事になると思う。しかし、私にとっても、この文章を書く過程がリハビリの様なものなので・・・。

以前の私のブログ、映画「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」のタイトルの意味を探して・・・
を書いた時も、映画を観終わった後の消化不良な感覚から、その映画をより深く知りたいと思い色々と思い悩んだのだが、今回はそれ以上に悩みに悩んだ。「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」の時と同じアプローチなのだが、映画を観ながら湧いてくる疑問の数々を少しずつ紐解いて、少しずつ答えに近づきたいと思い、まずは映画の中で感じた疑問を整理してみた。以下、ネタバレになるので、これから映画を観ようと思う方は読まない方が良いと思う。

最初に余談ではあるが、少し背景的なことを書いておこうと思う。我が家では長男が「君の名は。」にはまり、長男の薦めで残りの家族全員で「君の名は。」を鑑賞しに行った。確かに面白い映画だった。多くの人が引き込まれるのも良く分かる映画だった。しかし、長男の様なはまり方をすることはなかった。しかし、「秒速5センチメートル」は全く別だった。この映画を観た後、さらに2週間ほど前に放送された新海作品、「言の葉の庭」も観た。この2作品を観て確信したが、新海誠監督が作りたかった映画は、間違いなく「君の名は。」よりも「秒速5センチメートル」や「言の葉の庭」の様な映画だろう。ただ、「言の葉の庭」の方は「秒速5センチメートル」とは全く別で、鑑賞後の感想は極めて心が晴れた状態であった。決してハッピーエンドではないのだけれど、登場人物に対して親心の様な気持ちで「心から良かった・・・」と見守ることができた。ハッピーエンドという言葉の「定義」があまりにも狭すぎて不適切ではあるのだが、あの状況の中で許される限界的な幸福な終わり方であり、深い余韻と共に少しだけ幸せな気分になった。しかし、「秒速5センチメートル」の鑑賞後には余韻などというものはなかった。これも、余韻という心地よい言葉の定義とは違う、しかし胸が締め付けられるような状態が幾日も続いた。その答えの様なものを求めてネットを彷徨うと、驚くほどの考察ブログが見つけられた。ひとつだけ紹介しておくと、以下のブログは半端ない強い思い入れが溢れたサイトであった。これを読んで私も参考にさせていただいた部分は多いし、以下の記述の中にもその受け売り的な内容も含まれる。

筑波嶺夜想曲 「秒速5センチメートル」考察

このブログは考察が何段階にも分かれ、これは「その1」であるが順番に読んでいけばいろいろなことが分かる。「秒速5センチメートル」には映画、小説(新海版)、漫画の他に、新海監督以外が書いた小説(加納新太版)なるものも存在している。小説のあとがきの中でも、新海監督は、映画と小説を同じ内容にするのではなく、少しずつ敢えて異なる部分を残すことで、新たな楽しみを感じてもらえればと思っているようである。映画で描写されていない部分を小説を読んで答えを探すことも可能であるが、私は小説の方も読んでみた後で、「映画と小説は全くの別物」であることを確信した。小説だけを読んだ人が「秒速病」になることはまずないだろう。それは、小説には映画の中で、私が最も重要であると感じているセリフが出てこないのだ。

「そして、ある朝、かつてあれほどまで真剣で切実だった想いが綺麗に失われている事に気付きもう限界だと知った時会社を辞めた。」

私の「秒速病」の病根はここにある。

以下、この映画を観終えて感じた幾つかの疑問を整理し、それらを少しずつ解決することで「秒速病」の病根を治癒していきたいと思う。疑問を数え上げたらきりがないし、しかしその疑問にはひとつずつ大きな意味があるのだが、「秒速病」の治癒に必要と思えるところだけを抜粋してみた。また、小説や漫画などに「答え」が書かれていたとしても、私はあくまでも答えをこの「映画」の中だけに求めてみたいと思っている。映画の中にある描写やセリフなどが全てであり、小説や漫画に描かれたストーリーは「君の名は。」にも出てきた、所謂、パラレルワールドの様なもので、別世界の正解は私の求める世界の正解とは必ずしも言えない。私の勝手なこだわりであるが、この辺はご容赦頂きたい。

(疑問その1)=================================================
貴樹が明里への想いを断ち切れず、何時までもいつまでも引きずっているから彼は明里以外の人を心から愛することができず、そして傷つき傷つけ合い、救われない人生を歩まざるを得ないのが痛いほど良く分かる。であるならば、「かつてあれほどまで真剣で切実だった想いが綺麗に失われている事に気付」いたのであれば、それは明里への想いへの呪縛からの解放に繋がる。であれば、寧ろ「吹っ切れた状態」に辿りつけるはずなのに、それは会社を辞めなければならないほど切実な「限界」であるという。どう理解すれば良いのだろうか?

(疑問その2)=================================================
第3話の中での時間の流れが分かり難い。貴樹と明里が踏切ですれ違うシーンで始まり、やはりすれ違うシーンで終わる。同じシーンで挟まれているので、その間のストーリーが回想的に入り組んでいるのは分かるのだが、その入り組み方が1度見ただけでは理解できない。第3話のオープニングの踏切のシーンに続き、明里が岩舟駅で両親と別れるシーンがあり、それに続けて

「ゆうべ、昔の夢を見た。私も彼もまだ子どもだった。きっと昨日見つけた手紙のせいだ。」

と続く。そして、最後に貴樹が会社を辞めてコンビニに行き、降り出した雪を見つけた時、

「昨日、夢を見た、ずっと昔の夢。
その夢の中では僕たちはまだ十三歳で、そこは一面の雪に覆われた広い庭園で、人家の明かりはずっと遠くに疎らに見えるだけで、降り積もる深雪には、私たちが歩いてきた足跡しかなかった。」

と続く。二人の声が交互に交わされ、同じ時、異なる場所で貴樹と明里が同じ夢を見たことが分かる。しかし、この時系列がやはり分かり難い。この時間の流れの解読が、何かのヒントになっているような気がした。

(疑問その3)=================================================
第3話のタイトルが映画のタイトルそのものである。しかも、映画の途中で山崎まさよしの「One more time, one more chance」の曲と共に、「バーン」と音を立ててタイトルバックの様に出てくる。タイトルバックというのは、オープニングなら分かり易いし、エンディングでも十分に分かる。しかし、エンディングには別のタイトルバックが用意され、天門「思い出は遠くの日々」がエンディング曲として流れる。あのシーンはいったい何だったんだろう?何故、あんな場所で急に前面に出てくるのだろうか?

(疑問その4)=================================================
第2話のタイトルは「コスモナウト」である。「cosmonaut」の意味を辞書で引けば、

【cosmonaut】(特に旧ソ連の)宇宙飛行士 《★【比較】《主に米国で用いられる》では astronaut》.

とある。我々には「アストロノート」は少しは馴染みのある言葉だが、「コスモナウト」は聞いたこともない。また、第2話にはロケット、衛星は出てくるが宇宙船や宇宙飛行士の話ではない。第2話の最後の探査衛星の打ち上げシーンといい、第2話のタイトルに何か意味があるのは間違いないのだが、ならば何故タイトルは「宇宙へ」とかではないのか?百歩譲って「アストロノート」ではないのか?また、ロケットや衛星が明里とどう関係があるのか?

(疑問その5)=================================================
第3話が短すぎる。時間を測っていないから分からないが、あくまでも感覚としては第1話が全体の50%、第2話が35%、第3話が15%ぐらいだろうか・・・。本来なら第3話は重要なはずなのに、あまりにも短すぎる。また、やたらと短いカットの素早い切り替わりシーンが目立つ。とても目で追えるレベルではない。走馬灯の様に頭をよぎったというのも分からないでもないが、その使われ方は半端ではない。また、水野さん(映画に合わせて、敢えて「水野さん」と表現する)という女性が、この映画では一体、どんな人なのかが全く分からない。何故なんだろう・・・。

(疑問その6)=================================================
何故、貴樹は送る宛のないメールを書く癖がついたのか?貴樹と明里は当初、手紙のやり取りをしていたはずである。貴樹があれだけの想いを明里に対して持っていたなら、そして、筆不精な訳でもなく携帯メールを書くだけの気持ちがありながら、手紙が途絶えてしまう。大学に入れば、また会うチャンスがあるのだから、何故、手紙が途切れてしまったのだろうか?

(疑問その7)=================================================
貴樹は踏切ですれ違った女性が明里であると強く感じたのに、何故、彼女の後を追わなかったのか?明里への想いを断ち切れていないのであれば、踏切の向こうまで追いかけて当然なはずなのに、何故か微笑んで踏切を後にしてしまう。誰もが、「ちょっと、ちょっと・・・」と突っ込みを入れたくなるシーンである。しかし、そこで映画は終わる・・・。何故・・・。
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まあ、こんなところだろうか。言い出せば幾らでも書けるが、処方箋のためにはこの辺りで十分であろう。以下、私なりの謎解きである。順番が少し前後するがご容赦頂きたい。

(疑問その2について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
この映画を読み解くには、この時系列の整理が極めて重要である。まず、ポイントは以下の点である。

・踏切のシーンは桜が咲く4月上旬である
・明里が両親と岩舟駅で別れるのは前の年の12月末である
・明里は翌月1月に結婚している
・明里が貴樹との別れの日の夢を見たのは両親と岩舟駅で別れる前日の夜である
・貴樹が明里との別れの日の夢を見たのは明里が夢を見た日と同じ日である(二人が交互に夢のことを語っていた)
・貴樹が会社を辞めたのは岩舟駅の夢を見た日の直前である(12月末)
・貴樹が水野さんから別れのメールを受け取るのは会社を辞めたタイミング(例えば直前)である
・会社を辞めたにもかかわらず、貴樹の部屋にはプログラミングの仕事の納品は4月6日であることが記されている(2月、3月にも仕事の予定が入っている)

つまり、踏切のシーンの前年の年末12月、貴樹は仕事で心身共にボロボロになり、会社を辞めることを決心する。丁度同じ頃、憔悴しきっていた貴樹は水野さんの電話にも出ることができず、最後に別れのメールを受け取ることになる。このタイミングであのセリフをつぶやくのである。

「そして、ある朝、かつてあれほどまで真剣で切実だった想いが綺麗に失われている事に気付きもう限界だと知った時会社を辞めた。」

(疑問その3について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
この映画を観た後、繰り返し繰り返し、山崎まさよしの「One more time, one more chance」を、歌詞を噛みしめながら聞き返している。Wikipediaによれば、新海監督が山崎まさよしに楽曲使用を依頼し快諾された背景があるようで、新海監督はこの曲を聴きながらストーリーを膨らましたのかもしれない。
そしてこの曲の出だしは、こうである。

「これ以上何を失えば 心は許されるの
 どれほどの痛みならば もういちど君に会える」

悲しい歌なのは言うまでもないが、この出だしは自傷的な歌詞である。自分を傷つけることで救われることを祈るような歌詞である。しかし、この曲は歌い続ける中で微妙に表現が変わってくる。急にボリュームが上がって「秒速5センチメートル」のタイトルが表示されるのは、次の歌詞からである。

「いつでも探しているよ どっかに君の姿を
 向かいのホーム 路地裏の窓
 こんなとこにいるはずもないのに
 願いがもしも叶うなら 今すぐ君のもとへ
 できないことは もう何もない
 すべてかけて抱きしめてみせるよ」

既に、自傷的な自分を責める歌い出しから、愛する人への想いを真っすぐに受け止めて、自分を偽ることは止める気持ちが芽生えている。さらに続けて、

「奇跡がもしも起こるなら 今すぐ君に見せたい
 新しい朝 これからの僕
 言えなかった『好き』という言葉も」

この辺りになると、「かつてあれほどまで真剣で切実だった想いが綺麗に失われている」状況から、少しずつだが「真剣で切実だった想い」が再び心の中に芽生えてきたことが読み取れる。あの映画での演出は、あの直前と直後で彼の心の中に何らかの変化が生じたことを、映像的に示した象徴的なシーンなのだと思う。

(疑問その4について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
その変化が生じたのは、立ち寄ったコンビニで立ち読みした科学雑誌に「国際宇宙探査衛星エリシュついに太陽系外へ」の記事を見つけた時である。映像によれば、打ち上げが1999年なので、時系列から考えて花苗と貴樹が種子島での打ち上げを見た衛星である(実際、貴樹の高校の掲示板にもエリシュの張り紙があり、貴樹が高校時代に読んでいた科学雑誌にもエリシュの名称が出ている)。先に紹介した筑波嶺夜想曲さんの考察の中で紹介されているのだが、実は2006年(映画が封切られた前の年)にJAXA(元NASDA)が打ち上げた衛星の中に「赤外線天文衛星『あかり』(ASTRO-F)」がある。宇宙探査衛星ではないが、貴樹にとって、あの衛星は明里の象徴(必ずしも、衛星=明里とは限らない)である。思い切り手を伸ばしても届かなくて、それでも何とかそれに触れようと、触れなければならないとの強迫観念があり、更に手を伸ばそうと必死にもがき苦しんでいた、その象徴があの衛星である。貴樹が書いていた出す当てもない携帯メールには、「今朝の夢」というタイトルで「異星の草原をいつもの少女と歩く・・・」と書かれていた。宇宙(そら)の向こうの存在として明里は位置づけられている。本当は、手を伸ばすどころか宇宙船に乗っていかなければ会うことのできない存在になったということだろう。であれば、明里と再会するためには自分は宇宙飛行士にならなければならない。アメリカのアストロノート(宇宙飛行士:astronaut)はこの時代、宇宙に行くためにスペースシャトルを利用していた。テレビでもたびたび見ることのあったスペースシャトルは、(2度の事故はあったが)変な言い方であるがちょっとした「宇宙旅行」の様な身近な雰囲気があった。日本人宇宙飛行士が宇宙から帰ってきてテレビに出ているさまは、手を伸ばしても届かない存在とはほど遠い。一方で、実際には生きて無事に帰ってくるのではあるが、ロシアの宇宙飛行士(cosmonaut)にはその様な親近感がなく、もう少しストイックな感じを受ける。遠く彼方の異星への旅は、astronautではなくcosmonautであったのかも知れない。

追記). コスモナウトの中で、貴樹と明里が草原で並んで立っている時、遠く向こうに大きな球体の星が見える。あれは何なんだろうと思っていたが、よく見ると、草原の向こうにはクレーターが沢山見られ、貴樹と明里がいる場所が地球ではなく「異星」であることが分かる。その先に見えるのは多分地球で、明里が住む異星に辿り着くためには「コスモナウト」にならなければならない・・・という理解が貴樹にあることが分かる。

(疑問その5について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
第3話の構成は、その短さに反比例して、やたらと短いカットの素早い切り替わりシーンが多い。しかし、その素早い切り替わりシーンをスローモーションで見れば、凄まじい情報量が溢れている。例えば、多くの方がご存じの様に、花苗と貴樹が赤い円形の昔風のポストの横を歩くシーンの直後に、高校生のカップルが後ろ向きで赤い四角い今風のポストの横を歩いているシーンが続く。ほんの一瞬だが、これは言うまでもなく、種子島の昔風の円形ポストと都会の今風の四角いポストを対比していて、これは明里とその彼氏が一緒に歩いているシーンを意味している。貴樹が種子島の空港から大学進学で東京に旅立つとき、花苗は空港に見送りに来ていたことが分かるし、貴樹が旅立った後、花苗はいつものスーパーカブで一人寂しく帰るシーンもある。大学進学で東京に出てきてから以降、貴樹は「One more time, one more chance」の歌詞の様に、色々な場所で無意識のうちに明里の姿を探し求め続けていたようだ。また、社会人になった貴樹が女性(水野さん)とひとつのベッドで寝ているシーンが現れるが、二人は背中合わせで離れて寝ている。一見、あっという間の様だが、凄まじい凝縮された時間の流れがそこにあることが分かる。本当のところは分からないが、ある程度、その様なシーンを書き上げながら、エディティングでエッセンスを極限まで抽出した映像を作り上げたような感じがした。

(疑問その6について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
さらに、短いカットの素早い切り替わりシーンの中から、明里が高校2年で数IIAを習っている時までは、二人の文通は続いていたことが分かる。明里が手紙を待ちわびてポストを開けても手紙がなく悲しむシーンの後で、貴樹も空のポストを見つめ身動きできずにポストを凝視するシーンがある。この流れを見る限り、手紙をいつしか書かなくなったのは貴樹である。高校2年までくれば、あと少しで再開することができるはずであるが、多分、貴樹にも説明できないような複雑な気持ちがそうさせたのだろう。明里の手紙に男友達の存在を感じたのかもしれないし、でも、そんなことはどうでもいい。いつしか、夢の中の異星の草原の少女の顔が見えなくなるほど、心に迷いがあったのかも知れない。しかし、ロケットの打ち上げの日に見た夢の草原の少女は、明里、その人であることを明確に意識することができた。

(疑問その1について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
ここで、最初の疑問に戻ってみたい。

「そして、ある朝、かつて、あれほどまでに真剣で切実だった思いがきれいに失われていることに、僕は気づき、もう限界だとした時、会社を辞めた。」

このセリフは、この時系列の中で、この前のセリフからの続きでその意味が理解できる。

「ただ生活をしているだけで、悲しみがそこここに積もる、日に干したシーツにも、洗面所の歯ブラシにも、携帯電話の履歴にも。
あなたのことは今でも好きです。三年間付き合った女性は、そうメールに書いていた。でも、私たちはきっと千回もメールをやり取りして、たぶん心は一センチくらいしか近づけませんでしたと。」
「この数年間、とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのか、ほとんど脅迫的とも言えるようなその思いがどこから湧いてくるのかも分からずに、僕はただ働き続け、気づけば、日々弾力を失っていく心がひたすら辛かった。そして、ある朝、かつて、あれほどまでに真剣で切実だった思いがきれいに失われていることに、僕は気づき、もう限界だとした時、会社を辞めた。」

貴樹は、宇宙探査衛星に象徴される明里に近づきたくて、精一杯手を伸ばし、背伸びして、我武者羅にもがいている。何処から手を付ければ良いか分からず、目の前の仕事に没頭することで手を伸ばしている自分を実感していながら、何かに触れた感触を掴むことができず、強迫観念の様なものが更に自分を追い込むことになる。水野さんの様に付き合う女性がいても、その強迫観念を癒すことはできず、逆に近しい人を傷つけてしまう。そのことが更に仕事に没頭せざるを得ない状況を作り、まるで自傷的・他傷的な自分に直面し、心の弾力が失せていくのを実感する。であれば、心の中に明里が潜む貴樹にとって、水野さんとの別れは大したことではなかったかと言えば、会社を辞める決心をし、水野さんからの別れのメールを受け取った後のマンションのエレベータの中で、手に持っていた鍵を思わず床に落とすシーンから、貴樹の心の傷の深さが思い知られる。また、「ただ生活をしているだけで、悲しみがそこここに積もる」さまは、貴樹の心の救いがたさが滲み出ている。

多分、貴樹にとって明里を思う気持ちは、他に付き合う彼女がいるとかいないとかとは関係なく、変な言葉ではあるが、彼にとっての存在意義の様なものになっていたのだろう。それほどまでに真剣で切実だった思いが、強迫観念に追われて没頭した仕事の中で失われてしまい、彼にとっては限界に達し会社を辞めることになる。

しかし、傷心の中で街を彷徨い、偶然入ったコンビニで探査衛星の記事を見ることになる。彼の心の中で何かがはじけ、たまたま偶然、神様の悪戯とでも言うか、昨晩、明里と貴樹が夢で見た岩舟駅での一夜の思い出がよみがえる。すっかり消えてしまった「真剣で切実だった思い」が貴樹の心に蘇る。道に出て、空を見上げると、ロケットや宇宙船、衛星ではないが、雪の降る夜空の中で羽ばたく2羽の鳥がいて、手の届くところまででいいから手を伸ばし、羽ばたいてみようかという気持ちが芽生えてくる。

彼にとっての再生の物語の始まりの瞬間である。「秒速5センチメートル」のタイトルバックと「One more time, one more chance」の曲は、その象徴的な映像だったのだと感じる。多分、この後で本当に立ち直ったと言えるまでには暫くの時間を要したのだろう。だから、12月末から翌年4月までの映像がこの映画には描かれていなかったのだと思う。

(疑問その7について)+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
そこで、第3話の最初と最後の踏切のシーンである。先ほど説明した貴樹の再生の物語の始まりは前年の12月末の話である。踏切のシーンはあれから3か月以上が過ぎたワンショットである。残念ながら、明里は1月に結婚し、東京での幸せな新婚生活3か月目の出来事である。出だしのシーンで、貴樹は自宅でコンピュータで作業をし、一区切りついて席を立つ。つまり、会社を辞めた後、生きていく限界を感じた貴樹が「もう一度、やり直してみよう」と仕事を再開し、その仕事が軌道に乗ってきたところを表しているシーンそのものである。そこには強迫観念はなく、「取り合えず、出来ることを着実に何とかやっている」姿から、彼なりに立ち直ったことが読み取れる。言ってみれば、貴樹の再生の物語の締めを飾る象徴的なシーンと言える。実際、その時の彼の表情は穏やかで血の通った顔である。既に、岩舟駅の夢を見た12月からは3か月以上が経ち、やっと、明里との思いでに溢れるあの街にやって来て、思い出の場所を歩き回るのである。

そして、あの踏切に辿り着く。

多分、満面の幸せを感じさせる明里の姿を見て、貴樹の心も何故か幸せになったのだと思う。その心のゆとりは、貴樹の心の再生を表しているのだと思う。もし明里が貴樹への想いを未だに持ち続けるならば、踏切を渡り切ったところで振り返り、貴樹に微笑み返すだろう。残念なことに、踏切を行きかう電車は、上り、下りと立て続けてやって来て、その電車が通り過ぎた時には明里の姿はそこにはなかった。「何故、追いかけないの?」という気持ちはだれもが持つが、あそこで仮に追いかけていたら、そして仮に二人の気持ちが両思いであったら、明里の新婚生活は破たんに向かうわけで、貴樹はまた誰かを傷つけることになる。
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あの後の貴樹がどの様な人生を送ったかは、あの映画の中には何もヒントがないし、「秒速病」の治療にはあまり意味がない。自分で見ていないので詳しくは分からないが、漫画版では貴樹のことを忘れられない花苗がお姉さんに背中を押されて東京にやって来て、貴樹と再会するシーンがあるようだが、ひょっとしたら既に水野さんとやり直すことができているのかも知れない。

しかし、私にとって重要なのは、あの最悪な年の暮れの出来事の後に訪れる、そこからの着実な再生という事実である。その「再生」は多分に貴樹一人での歩みであり、そこにはもはや鬱の要素はない。多分、「秒速病」患者の多くも、この点については同意していただけると思う。

その様な方に、少しでもモヤモヤが晴れてくれたらと思い、長々と書かせていただいた。書きながらの私のリハビリも順調の様である。これで、私も仕事に復帰できそうである。


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