けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

あの野次がNGで、小松前法制局長官への仕打ちはOKなのか?

2014-06-30 22:43:59 | 政治
先日のブログ「報道ステーションの「産めないのか!」発言発掘を検証すべし!」で報道ステーションの「産めないのか!」発言の発掘についてコメントしたが、昨日の報道ステーションSundayでは、ものの見事に発掘したはずの「産めないのか!」発言を黙殺し、その他の野次だけに焦点を絞った番組作りをした。決定的とは言わないが、状況証拠的には自らの非を認め「産めないのか!」発言の発掘を訂正したかのような展開であった。少し補足すると、報道ステーションが「産めないのか!」発言を発掘した「東京サウンドプロダクション」でのシーンには、テロップで「午後8時」との記載がある。番組は9時53分からだから、わずか2時間前の情報取得ということを意味する。つまり、ごく一部の編集者だけでこの素材を報道するか否かを決断したのだが、時間的には裏取の余裕はないのだから、番組放送後に裏取をして、それ以降の番組においては不採用とする判断をしたような流れだろう。今後、テレビ朝日からの正式なコメントを期待したい。

ところで、色々とネットを探していたところ、私も良く拝見する、うさみのりや氏のブログで「セクハラヤジ問題総括」と題してコメントがあった。別に新しい話しはないが、誰もが感じていることを的確に指摘されていたので私もそれを引用させて頂く。

====うさみのりやのブログ===============
あのヤジ自体が低俗なのは衆目一致することですが、残念ながら低俗なヤジが飛び交うのは日本の議会の常なのでありまして、「なぜこれほど大きな騒ぎになったのか」ということについては、メディア論として一つ考えてみる価値があるように思えます。番組でも触れたのですが、個人的には自民党批判のネタを探していた新聞社と、ネットでの炎上がタイミングよく一致したところに、都議会自民党がまずい対応を繰り返した結果だと思っています。
新聞社側の事情から言うと安倍政権の運営が順調に行き過ぎているので、ここらで少し自民党を懲らしめてやりたい、と批判ネタを探していたところにおあつらえ向きなテーマが転がり込んできたので記事にしやすかったという背景があるようです。一方でネット側としては、塩村議員のtweet、オトキタ議員のブログなどの情報発信が乙武氏や駒崎氏といった協力なtwitterパワーユーザーのRetweetを通して、これはこれでマスコミとは独立の事象として広がっていったのはみなさんご存知の通りです。そこに都議会自民党がウソ、隠蔽、犯人隠し、反省してない反省会見、といったまずい対応を繰り返して炎上の燃料をドバドバと投下して騒ぎが大きくなり、格好のワイドショーネタになっていったというところでしょうか。
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誠にごもっとも。集団的自衛権など、与党自民党の動きが許せないので、足を引っ張るネタを探していたところに良いネタが転がってきたというところだろう。要は、野次の発言者が自民党だからここまで大袈裟になった訳で、逆に共産党などが野次った事件であれば記事には成り得なかったのかも知れない。何故なら、何も面白くない記事だからである。

この様に考えると、先日、私が感じた行き場のない理不尽さを思い出さざるを得なかった。それは、今月23日に亡くなった前内閣法制局長官、故小松一郎氏における国会内外でのバッシングだった。抗がん剤治療を行いながら国会答弁に応えていたが、激務に耐えられなくなり自ら退任の申し出をしてから僅か1ヶ月の死となった。この意味するところは、本人は死期を悟りながら、自らの命を懸けて「集団的自衛権の行使容認」への道筋を付けようとし、一分一秒と命を削りながらの壮絶な生き様であったと言える。

思い出せば、元民主党の参議院議員、故山本たかし氏は自らが癌であることを告白し、がん対策基本法の成立に貢献した。国会議事堂内で痩せ細った体に鞭を打ち、酸素吸入器を装着しながら国会論戦に立った。壮絶な生き様であった。彼が亡くなった後国会では、敵である自民党の尾辻秀久氏が参議院本会議場にて哀悼演説を行ったりもしている。命の灯という、いつ消えてもおかしくないホロホロとした僅かな火種に、その他の国会議員は真摯に向き合っていた美談である。しかし、誰もが抗ガン治療を行っていることを知りながら、小松一郎氏への仕打ちは酷いものだった。毎週、抗がん剤治療は月曜日の午前中と決まっている中で、民主党の尾立源幸氏は月曜日に狙いを定めて質問要求を行い、応えらえないことを受けて、「職務を果たしていない。果たせないならば辞任すべき。」と命がけの小松前長官に対して鬼畜とも言える残虐な仕打ちをしていた。共産党も同様で、「安倍政権の番犬」などと人格否定をするような攻撃に終始し、一分一秒を大切にしたい小松前長官の貴重な時間を全く無駄なことに浪費させ、彼が探し求めた生きた証を無に帰する様な残虐な行いを繰り返した。どうせなら、価値のある論戦を戦わせれば良いのだが、この様な不毛な牛歩戦術的なやり方で、小松前長官を無駄死にさせることで鬱憤を晴らしているという卑怯な行動であった。

しかし、この様な記事は全くもってニュース価値など無いのである。彼ら報道機関にとっては、集団的自衛権の足を引っ張ってナンボだと思っているから、ガブリ四つに議論が噛みあってしまうと都合が悪いのである。だから、どれだけ小松前長官が無念であったのか、そしてどれだけ酷い仕打ちを国会議員やマスコミが行ってきたのかを、殆どの人は伝えようとしない。しかし、私からしてみれば、「自分が結婚してから・・・」との野次を飛ばされ泣き出した塩村都議なんかよりも、よっぽど小松前長官の方が酷い仕打ちを受けたのではないかと確信する限りである。片や「世界中を駆け巡る大ニュース」で、もう一方は「マスコミから黙殺」されて文字通り犬死となってしまった。

これは如何にもアンフェアである。仮に一方はテレビ映りの良い美人議員で、もう一方は冴えないイイ年のオッサンであったとしても・・・。自衛隊だって日米安保だって、元々はマスコミから反対された存在である。しかし、今となっては誰もがその重要性を否定できない存在である。せめて、真面目で前向きな議論をして欲しかった。今となっては、小松前長官は戻ってはこないのだが。。。

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報道ステーションの「産めないのか!」発言発掘を検証すべし!

2014-06-29 01:26:31 | 政治
先日のブログ「水に落ちた犬は叩くべきなのか?」で石原環境相の「金目でしょ」発言と塩村東京都議への女性蔑視ヤジについてコメントした。私のスタンスはこのブログで書いた通りで、どちらの不適切発言も問題であるが、現在のマスコミの行動を「正しい行動」だとは思っていないし。問題であるならその問題の程度を定量的に示し、他の事例とのバランスを取った適切なペナルティがなされるべきだと思うが、一強多弱と言われる政治状況の中で、僅かな落ち度を過剰に誇張するキャンペーンを行い、どさくさに紛れて与党の足を引っ張ろうとしている様に見える。東京都議会であれば、音声鑑定などで不適切発言をした議員を特定し、その事実を公表することとシラを切っていたことを責めて、次の選挙での落選を誘導しようとするなら、それはフェアな行動として非難はしない。しかし、外国特派員協会での記者会見で海外に日本の汚点をアピールしたりするのは、少々、ネガティブキャンペーンのやり過ぎとしか感じられない。ただ、まあフェアなやり方をしている範囲では、これ以上コメントする気などはなかった。
ただ、金曜日の報道ステーションを見て少々気が変わった。

金曜日の報道ステーションではこの問題を取り上げ、音声データを鑑定して「産めないのか!」発言が実際になされていたことをアピールしていた。少しばかり補足しておくと、テレビ朝日がこの様な主張をしたのには背景がある。例えば、下記の記事を見て欲しい。

アゴラ 2014年6月25日「『産めないのか』というヤジはなかった 池田 信夫

別に池田氏だけではないが、本当に「産めないのか!」という発言があったのかなかったのかはネット上では以前から話題になっていた。他の発言と合わせて報道される中で、この「産めないのか!」は群を抜いてセクハラ度が高い。言い換えれば、他の野次は不適切であるが日常的な野次レベルで、それで「議員辞職」など迫っていたら、そこら中の会社でクビ切が発生してもおかしくない程度のレベルである。その様な発言をする人がいたら、「ああ、この人は低俗な人だな・・・」と白い目で見られて終わりである。しかし、「産めないのか!」は仮に塩村都議が不妊治療に悩んでいる様な人であれば、極端な言い方をすればそれを聞いて自殺に追い込まれる可能性も否定できない相当に酷い発言と認識されていると思う。実際には塩村都議は独身なので、その劣悪さは単なる野次のレベルに留まるのだが、それでも攻める側としては「本丸」と位置付けた発言なのである。しかし、池田氏が指摘するように、都議会の様子を録画した映像や報道機関の録音など幾つかの音源を繰り返し確認しても、誰も「産めないのか!」発言を確認することが出来なかった。だから池田氏はブログでここまで断言しているのである。

この様な背景があるので、攻める側はこの「本丸」を何とか攻略しようと必死になるのである。そして、朝日新聞の記者が録音した独自の音源から、その「産めないのか!」発言をひねり出してきたのである。この報道の中で繰り返された問題の部分は、私が聞いても確かに「産めないのか!」と聞き取れた。ネットでは、「異議ないのか?」という発言だったのにテロップや前後の刷り込みのせいで「空耳アワー」的に「産めないのか!」と誘導しているのではという主張もあるが、仮に空耳でも私にも「産めないのか!」と聞こえたのは事実なのでその部分の論争をするつもりはない。元々、私はこの発言の有無にはあまり興味がなかったので、あくまでもどうでも良い内容であった。

ただ、この番組の構成を見直してみると、明らかに不自然な点が幾つかある。STAP問題ではないが、ある証拠を突きつけるなら、当然ながら「再現性」や「他者による検証」に耐えうるものでなければならない。しかし、多分、多くの人が気が付いたと思うのだが、この発言がどのタイミングで発言されたのかを報道ステーションでは明示していないのである。番組内では、一連の発言は完全に文字に起こされ、その文字をテロップで読みながら一字一句を確認し、全体の発言の流れを再確認していた。個別の箇所の問題発言を取り上げて、「この様に酷い発言が多数確認できた!」と勝ち誇った様に説明するのだが、この「産めないのか!」発言がどの部分の発言なのかが全く記載されていない。つまり、他の多くの音源では確認できなかったのだが、具体的な場所を特定してくれれば、その他の音源ではどの様に聞こえているのかは確認できる。それがはっきりと聞き取れなくても、その様な発言に対応する雑音が存在することは他の音源からも証明できる訳である。しかし、その様な他者の検証に対する情報提供はなく、何処からとってきたのか全く不明な野次を示して「あった!」と言われても俄かには信じ難い。

ちなみに、この報道ではまず「日本音響研究所」に調査を依頼している。Wikipediaで調べれば、「日本音響研究所」は「音声・音響の分析を行う民間の研究所」であって、この様な問題の調査を依頼するにはうってつけの機関である。そして、音響分析の結果、複数の野次が被って発言していることから、少なくとも3名の人が野次に関与していたなどという、極めて「その筋のプロ」らしい結論を導いている。だから、最後の「産めないのか!」発言も当然ながらこの「日本音響研究所」の調査結果なのかと思ったのだが、実は、最後の「産めないのか!」発言の掘り起こしは「東京サウンドプロダクション」という会社に依頼して、音声の加工をして掘り起こしている。この「東京サウンドプロダクション」をWikipediaで調べると「主にテレビ番組やビデオソフト企画の制作、撮影技術、ビデオ編集・MA技術、音楽制作及び音響効果・選曲に関わる制作プロダクション」となっている。音源の加工・編集のプロであることは間違いないが、発言が「産めないのか!」なのか「異議ないのか?」などの解析をするようなスペシャリストではなく、番組でもこの会社の担当者と番組スタッフが雑談をする中で「~に聞こえるね!」と主観的な議論に趣旨している。声紋分析や周波数の変化などから発言の内容を確認する様な科学的な作業はしていない。あくまでも、「専門じゃないので間違っていても責任は取れないが、あなたにも『産めないのか!』と聞こえるでしょ!!」と同意を迫っている様な構成になっていて、その他の政治的ネガティブキャンペーンと全く同様で、視聴者への思い込ませ、誘導を最大限に狙っている意図が感じられた。私が言いたいのは、この様なやり方はフェアではない。もしテレビ朝日に疾しいところがないならば、正々堂々と音源を示して反論を示すと共に、「日本音響研究所」に該当箇所を再度検証してもらえば良い。

それが出来ないなら、いつぞやの捏造記事と同種であると謗られても致し方ないだろう。

ちなみに、ネットを検索していると、現在の塩村都議の彼氏は朝日新聞社の社員で、この音源を録音していたのはその彼氏だという噂がある。また、アゴラの池田氏の記事にもあるが、塩村都議は某民主党議員との不倫が噂されていて、特に自民党議員からの野次が酷かったようである。自分の彼女が都議会で質問に立つからと言って都議会の取材が毎回できるほど朝日新聞は暇ではないだろうから、その意味では酷い野次を狙って取材をしていた可能性もある。そうなると、朝日新聞及びテレビ朝日が執拗に記事化するその背後には、身内の主張をアシストする意味もあり、そうなるとついつい慰安婦問題を思い出してしまう。身内となった時点で、ついつい客観性を失い、捏造でもそれを許してしまう土壌となり得るのである。

今回のケースが捏造だと断定する根拠は全くないし、流石に調べればすぐバレるような内容でテレビ朝日が無茶をするとは思えない。しかし、状況証拠的には不自然さは満載の状況である。短絡的に鵜呑みにすることは私には出来ない。

実際のところはどうだったのかと言う結論はどうでも良いが、やはり、報道機関はもう少し自らに厳しい態度で物事に臨んで頂きたい。そうでなければ、日本のマスコミが誰からも信用されなくなってしまうから・・・。

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河野談話の検証報告書21ページを読んでみよう!

2014-06-28 00:24:58 | 政治
仕事やワールドカップサッカーの観戦の忙しさ故に、気になっていたが出来なかったことがある。河野談話の検証報告書21ページの内容の確認である。しかし、私のすきな「ぼやきくっくり」さんのブログの中の「関西テレビ・ニュースアンカー・青山繁晴・ニュースDeズバリ」の文字お越しの中で、その検証報告書が紹介されていた。

こちらの解説を読めば全て要点は理解できるのだが、私なりに要点と感じるところを幾つかの引用をしながら指摘してみたい。

まず、河野談話に関する調査報告書の全文は、下記の首相官邸のホームページで入手できる。

首相官邸ホームページ 2014年6月20日「慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯~河野談話作成からアジア女性基金まで~

青山さんのご指摘の通り、タイトルからして「河野談話の検証」ではなく、「日韓間のやり取り」の検証であることが分かる。また、当然のことであるが、これは閣議決定がなされたものであり、閣議決定のリストの下記のページに含まれている。

首相官邸ホームページ/政府の基本方針・計画等

こちらは既に英語版も公表されており、下記のページで見ることが出来る。
Prime Minister of Japan and His Cabinet・Documents 2014/6/20
Details of Exchanges Between Japan and the Republic of Korea (ROK) regarding the Comfort Women Issue - From the Drafting of the Kono Statement to the Asian Women’s Fund - (Provisional Translation)

ちなみに、首相官邸のホームページは中国語でも公開されているが、パッと見た感じでは河野談話の検証報告書の中国語版は現時点では公開されていない。更には、検索した限りでは韓国語版も公開されていなさそうである。河野談話の場合、日韓のせめぎ合いの結果として非常に微妙な玉虫色の決着をしており、仮に日本語で読んでもその解釈が微妙なぐらいだから、韓国語に翻訳するとなれば単なる文法上の問題に加え、文化的な背景も含めて韓国人がどの様な解釈をするかまで意識したような鉄壁の翻訳が要求されるだろう。しかし、今回の検証結果の報告書はその様な玉虫色の部分を排除し、淡々と事実を述べているだけで、韓国との調整などの複雑な背景もない。多分、この様なものであれば翻訳は比較的簡単に行えるのではないかと予想するが、1週間経ってまだ発表されていないとすれば、日本政府がこの報告書を最もアピールしたい相手はアメリカやヨーロッパなのかも知れないと感じた。

また、韓国政府及びマスコミが今回の検証結果の発表に激怒している理由はこれを読むと良く分かった。先日の私のブログ「日韓の交換日記の先にあるもの・・・」でも書いたが、韓国のマスコミはこの検証報告を受けて、韓国国民の知らない新事実を幾つか自らの紙面で紹介している。その全ては「否定的な論調」の説明書きと共に紹介しているのだが、韓国国民がそれを聞いて「ああ、やっぱり日本は酷いなぁ」と納得する様なものではなく、洗脳故にそう感じる人もいるのは事実だが、少なくとも常識的な判断が出来る人であれば(多分、2割ぐらいの人だろうか・・・)「巷では日本政府は酷い、酷いと言うけれど、どうして中々、誠意を示す努力だけはしている様に見える」と感じる内容である。韓国人の多くはこの報告書を読んでいないし、そのニュアンスも全く理解できないのだろうが、少なくともこの報告書を潜入観念を持たずに読む限りにおいては、この報告書の作成が「右傾化した安倍政権」の産物というものからは程遠く、限りなくニュートラルな立場で書かれていることが読み取れる。つまり、韓国側の主張するようにこの報告書の趣旨は「河野談話の無効化」ではなく、さらには「河野談話の信憑性への疑問」を呈することでもなく、「如何に日本政府が慰安婦女性、韓国政府、韓国国民に真摯・且つ誠意を持って取り組んできたか」に力点を置いて書かれていることが分かる。

キャノン・グローバル戦略研究所の宮家邦彦氏などは繰り返し言っているが、慰安婦問題における日本の主張である「強制性はなかった」的な論争は、アメリカやヨーロッパの人にとっては余り興味がない話題で、何を言われても食傷気味になってしまう。というのも、なかったことを証明する「悪魔の証明」の証拠がない以上、何を言っても白黒はっきりし得るものではなく、結局はどちらの主張に信憑性があるかを相手に求めることになるが、日本はこれまでに反論をしてこなかった故に、今頃になっての反論には胡散臭さが残る。したがって、かっての日本が極悪だったのか極悪でなかったのかの論争ではなく、あくまでも「今の日本は少なくともかっての日本とは違う」ことを示すことに主眼を置き、それを証明するための手段として、如何に日本が誠心誠意、この問題に取り組んできたかをアピールすることに意義があるというのである。その意味で、例えばアジア女性基金の補償の話までをスコープに入れたのは極めて賢明な戦略であった。特に、この報告書の最後の最後の締めの記述は秀逸である。ここだけは引用するので全文を読んで頂きたい。

====(報告書21ページ)========
(3)また,一部の元慰安婦は,手術を受けるためにお金が必要だということで,「基金」を受け入れることを決めたが,当初は「基金」の関係者に会うことも嫌だという態度をとっていたものの,「基金」代表が総理の手紙,理事長の手紙を朗読すると,声をあげて泣き出し,「基金」代表と抱き合って泣き続けた,日本政府と国民のお詫びと償いの気持ちを受け止めていただいた,との報告もなされており,韓国国内状況とは裏腹に,元慰安婦からの評価を得た。
以上
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次に、韓国政府もマスコミも、この報告書が発表されては困る幾つかの「経緯」が明らかになっている。例えば、上述のアジア女性基金の設立に関しては、河野談話での謝罪とパッケージ化された「後続処理」と位置付けられ、(報告書14ページ)「日本政府が何らかの具体的な措置を講じるとしても,日韓両国間では,慰安婦の問題を含め,両国及び両国民間の財産・請求権の問題は,法的には完全且つ最終的に解決済みであり,韓国の元慰安婦に対しては,個人的な賠償となる措置は実施しないことを想定している旨韓国側には確認していた。」との背景から、「後続処理」とは日本政府主体の措置ではなく、何らかの「基金」の設立による補償ということで認識が一致しており、実際、「基金設立」の公式発表の前日に韓国に打診した際に、韓国側からの回答は以下の様な内容だったという。

====(報告書15ページ)========
韓国政府からは,①全般的な感想としては,当事者団体にとって満足いくものでないにしても,韓国政府としては評価できる点もあるような感じがする,②従来より金泳三大統領は,慰安婦に対する補償金は要らないが,徹底した真相究明が行われるべきである旨明らかにしている,③韓国側が要請してきた点である,日本政府としての公的性格を含める必要があること及び日本政府としてのお詫びの気持ちを表明することの2点が概ね含まれており,こうした点において評価したい旨述べた。また,関係団体に対し日本側の措置を説明するにあたっては,韓国政府としてもできるだけ協力したい旨の反応があった。
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実際、この発表を受けての韓国外務省は「これまでの当事者の要求がある程度反映された誠意ある措置であると評価している」と公式発表をしている。

ところが、事態はこの発表の直後から急転する。

ちなみに、この「関係団体」とは反日団体のことで、所謂、遺族会(太平洋戦争犠牲者遺族会)及び挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会)と言われる団体である。基金が償い金を保証するのに加えて、国家間の謝罪だけではなく個人への直接的な謝罪であることを明示するための現職総理直筆のサイン入りの「お詫びの手紙」などを添える旨の説明を遺族会及び挺対協などに説明を行おうとしたが、これらの団体からは拒否されると共に、日本政府を激しく非難した。そして、7名の慰安婦に償い金と総理のお詫びの手紙をお渡ししたところ、韓国メディアも率先して日本の「基金」の事業を非難すると共に、受け取りを決意した慰安婦にハラスメント攻撃が始まるのである。

====(報告書18ページ)========
被害者団体は,元慰安婦7名の実名を対外的に言及した他,本人に電話をかけ「民間基金」からのカネを受け取ることは,自ら「売春婦」であったことを認める行為であるとして非難した。また,その後に新たに「基金」事業の受け入れを表明した元慰安婦に対しては,関係者が家にまで来て「日本の汚いカネ」を受け取らないよう迫った。
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この結果、完全に韓国政府は腰が引けてしまい、「大統領より,この問題は国民感情の面からみると敏感な問題である,外相会談でこの話が取り上げられたと報告は受けているが,最近とられた『基金』の措置は国民感情にとって好ましくない影響を強く与えるものであり,遺憾である,このような措置が今後再びとられることのないようお願いしたいとの発言があった」とまで言うに至った。つまり、当初は「基金」設立に前向きであったが、反日団体の総攻撃を受けて白旗降参となった訳である。この結果、何度かの事業の中断と再開を繰り返しながら、最終的に2002年の5月に基金の受け入れ申請の締め切りを決め、事業が終了することになる。日本政府は多くの慰安婦に補償を受け入れてくれることを望み、韓国国内の新聞広告掲載を試みたが、韓国政府からは反日団体を刺激する広告を嫌い、目立たない行動を求めるに至った。

これだけの逆風の中でも償い金を受け取った韓国の慰安婦の数は61人にのぼる。私は償い金が200万円だと聞いていたが、実際にはこれに医療・福祉支援事業との名目で政府支出の原資で300万円を支給したので、結果として500万円を一人当たり受け取ったことになる。先に示した韓国の慰安婦だけでなく、多くのアジアの慰安婦からも好評を得たことが記されている。

この様に、一連の報告書を読んでみると分かることがある。それは、過去のブログ「諸悪の根源は韓国の自称人権擁護派の市民団体か?」でも触れたが、遺族会及び挺対協などの自称人権擁護派の市民団体が問題解決を阻み、そして韓国政府が過激な遺族会及び挺対協の圧力に負けて初志を曲げて、金泳三元大統領や金大中元大統領などが目指した(補償を問わない)未来志向の日韓関係の構築に背を向けることになったという経緯である。そして、その過激な遺族会及び挺対協の圧力は韓国のマスコミともシンクロして一大キャンペーンとなり、結果的に韓国は泥沼のスパイラルに陥ることになっている。

多分、アメリカやヨーロッパの記者はこの様な事実を全く知らないのであろう。であれば、この様な事実を公表することは、「強制性」の有無などとは全く別次元の話として、これまでの日本の誠意を伝えることになり、世界中の人々が1歩、真実に近づくことに繋がる。これは、「慰安婦」がどうのこうのではなくあくまでも「反日」が基本原理の韓国社会にとって不都合な事態である。だとすれば、韓国政府もマスコミも一斉にこれを非難せざるを得ない。

報告書の全文を読んで、真の意味で何が起きているのかが理解できた。

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水に落ちた犬は叩くべきなのか?

2014-06-26 01:03:07 | 政治
今日も眠い1日だった。日本がグループリーグ敗退となったことで、疲れが一層輪をかけて感じられる状況である。個人的な感想では、最大の敗因は守備の甘さであり、大会直前の親善試合でも失点を重ねていたことから感じられた「嫌な予感」が的中した感じである。コートジボアール戦で、ドログバが出てきた後の2失点などは、組織的な守備が突出した個により簡単に崩れてしまう弱さを露呈したものである。ただ忘れてはいけないのは、守備陣にその責任があるというのとは少々違う、もう少し大局的な問題である。日本代表が強いと感じたときは、前線の攻撃陣が効果的に機能しており、相手陣営はその攻撃を防ぐためにディフェンスを強く意識せざるを得なく、結果的に日本の守備陣への負担は減少することになっていた。この辺のバランスが崩れたことが、今回の敗退の本当の意味での敗因だと思った。

今回の大会では、攻撃陣においては特に香川の不調が際立っていたと思う。マンチェスターユナイテッドでの出場機会が少なく、試合勘が完全に鈍っていて、全く「危険な香り」のオーラが感じられなかった。どうも居場所がないような雰囲気が漂っていた。今日は積極的なシュートを何本も打っていたが、相手が怯える様な凄さはなく、シュートコースを塞ぐようなマークの中で無理に打っていたために、枠に飛ばないか枠に飛んでも勢いがないか、いずれにしても怖さはあまり感じられない。対極的なのは大久保で、決定的なところで仕事は出来ていないが、相手が「こいつ、何するか分かんない・・・」と戸惑う様な動きは出来ていたのだと思う。この辺が実戦経験、試合勘のなせる技なのだと思う。本田も同様に本調子ではなかったが、他の選手とは全く異なる独特のパスの間合いで、相手選手を一人でも多く引き付けて、他の選手の動くスペースを引き出したりする動きの中で、輝きは鈍いながらも、相手選手は否応なしに本田の存在感を無視できない状況であった。実際、コートジボアール戦では得点をしているし、今回も絶妙なアシストをすることが出来た。満足からは程遠いが、一応の仕事はしているのである。しかし香川はその様な相手選手に恐怖感などの影響を与える生ことはできず、シュートだけは沢山打ちまくったが結果的に攻撃陣の迫力を萎えさせ、相手がディフェンスに割くエネルギーを控えて攻撃へのエネルギーを温存させることが出来た。それが結果的に守備陣への負担として広がっていたように思う。

この辺は、より高いところを目指し世界の強豪チームに移籍することへのリスク、光と影ともいうべき問題かと思う。今から20年前のカズもそうだったが、チャレンジが裏目に出ることは多々あるものである。ただ、その失敗がその選手のオーラを打ち消してしまうと選手生命にも影響する。今後続く若い世代の選手のことを考えれば、香川の不振は単なるグループリーグ敗退以上に残念な結果であったように思う。ただ、そんな中でも本田圭佑の今回のプレーは、不調ながらにその様な運命に逆らう「もがき」の様な感じがして好感が持てた。

以上がワールドカップの振り返りである。

ここからが本題である。最近、石原環境相の「金目でしょ」発言や東京都議会の女性蔑視ヤジなどの事件が話題になっている。些細なことだが、少々言っておきたいことがある。

まず、結論から言えば、それぞれの発言は当然許される発言ではないし、つい口から出てしまったとしても、責められて然るべき発言だと思う。しかし、私が言いたいことは一つであり、確かにそれは責められるべきだとしても、「一体何処まで責めるのが妥当なのか」を考えて言っていない様に思える点である。

例えば、車の運転をしていて制限時速が40km/hの道で20km/hオーバーのスピード違反で捕まったとして、それは免許取り消しに相当することなのか?という話である。勿論、道路交通法施行令には詳細な規定があり、販促の内容とペナルティの対応は明確である。しかし、世間一般の様々な出来事において、誰がどの様な基準でどの程度「悪質」と判断するのか?それは、思ったほど単純ではないということである。

一例をあげれば、サッカーの世界では頭にきて「頭突き」をしたらレッドカードで即退場である。今回もドイツvsポルトガル戦で、ポルトガルのDFぺぺ選手が頭突きをして退場になり、結果として4-0で大敗するきっかけとなった。2006年のワールドカップ決勝でのジダンの頭突きも有名であり、フランスは優勝を逃すきっかけにもなった。しかし、野球の世界ではその程度で退場になることはなく、取っ組み合いの殴り合いの喧嘩をしても、退場になるのはごく一部の選手に限定される。サッカーで2試合以上の出場停止となれば、それは野球の2試合出場停止とは意味が違うし、野球では退場になっても人員の補充が許されている。詳しくは知らないが、アイスホッケーなど喧嘩に近い行為が日常的で織り込み済みとなる様なスポーツもあるのではと思う。この様に、同一の行為に対するペナルティの与え方はスポーツの種別にもよって全く異なっている。

同様に、政治の世界でもペナルティの与え方は、何が妥当で何が不当なのかは明確なルールがなく、サッカー並みの厳しい処罰を主張する人もいれば、野球並みにヌルい処罰もある。報道の世界では、弱者に寄り沿うのが正義の味方と思われがちだから、厳しい処罰を主張するのが正しいと思われがちである。しかし、それは一体妥当なのであろうか?例えば、野次を名乗り出た鈴木東京都議などは、世間的には「議員辞職」ものと言われている。政治評論家の方々も、議員辞職止む無しという見方の人が意外に多い。確かに、記者からのインタビューにしらばっくれて答えていた態度からは「許しがたい」という感情を持つ人が多いかも知れないが、仮にも数多くの有権者の選択により当選したのだから、その1票の重みをどの様に考えるべきかという議論が当然の様にあって良いはずである。私の感想は、「次の選挙で有権者が判断する」というのが妥当であり、テレビに映ってさらし者にされればそれで社会的制裁は十分に受けたと感じる。大体、野次の中でも「早く結婚した方がいい!」という発言と、「なんだ、産めない(体)なのか?」という発言では意味が違う。後者は明らかな身体的特徴を揶揄する悪質な差別発言であるが、前者はブラックな野次である。交通違反で言えば、減点1の20km/h未満の速度違反と、減点13で免許停止の酒気帯び運転ぐらいの差がある内容である。しかし、減点13の酒気帯び運転であっても、死亡人身事故で免許取り消しになるのとは訳が違う。90日免停で復帰できる酒気帯び運転に対し、死亡事故であれば自動車運転過失致死傷罪で逮捕され、懲役や禁錮にも十分なり得るというほどに雲泥の差である。だから、「少なくとも悪い行いをした」行為が「即・議員辞職」という結論に導かれるのは極めて短絡的である。一部のマスコミは、塩村都議へのヤジに対して名誉毀損、侮辱罪などの法的な対応を期待する向きもあるが、法律の素人としてはあの様なヤジがこれらの罰則の構成要件を満たしているとは考え難く、単に炎上させて楽しもうという野次馬根性が見え隠れする。犯人探しは勝手にやってくれれば良いので止めはしないが、東京都議会に限らず、この様な情けない、恥ずかしい行為が再発しないようなルール作りなどに主眼が置かれたような議論が発展しないことの方が(私にとっては)寧ろ情けない。更に言わせて頂けば、塩村都議からの処分要求書を東京都議長が受理しなかったことの方が責められて然るべきだと思う。野次はその場の勢いで言えても、処分要求書の不受理は熟考の末の判断だろうから、その判断力及び公平性の妥当性が議長職にふさわしいものか、その辺は問われて然るべきだと思う。しかし、あまりこちらの方は問題となっていないようでその辺が私には疑問である。

次に石原環境相の「金目でしょ」発言である。一部のマスコミではこの発言よりも前から、「政府は結局、金で解決しようとしている」と政府を非難し、今回の発言がまさに「金での解決」の証拠そのものであると鬼の首を取ったようにはしゃいでいたりする。しかし、その様な人には私は聞いてみたい。「お金以外の解決方法」が一体、何処にあるのかを。もしその様なウルトラCの解決策があるのなら、是非とも提案して欲しいものである。

変な例え話をしてみたい。交通事故で息子を失った親がいたとする。例えば加害者が20歳の若者で、事故で死に追いやったことを猛烈に反省し、「私の残りの人生の全てを被害者に捧げる。私が死ぬまでの間、毎日、墓参りを絶やさず、常にお墓に綺麗なお花を捧げる。結婚も諦めたし、二度と車やバイクの運転もしない。」と誓ったとする。下世話な話をすれば、例えば墓参りの花代が千円、交通費が往復で2千円だとする。1日3千円で、月に9万円である。年間108万円で、80歳までの60年間続けると6480万円に上る。それだけの経済的な負担と長い人生を棒に振ることで、精一杯の誠意を見せたことになる。勿論、車の任意保険で賠償金が支払われるから、被害者遺族からしてみると、加害者が墓参りに来たからといって補償金が受け取れなくなる訳ではない。にも拘らず、加害者がその様に提案してきたら、「そんなことはせんでいいから、その分、金をくれ!」と言うのが普通だと思う。つまり、原状回復が不可能な事態において、敢えてそれを解決に導くためには、結局のところは相手の「誠意」と「金銭的解決」のセットが重要なのだろう。誠意の伝え方は色々ではあるが、どんなに心からの誠意を見せても補償金の金額に「誠意」が感じられなければ決着に至らないから、補償金の金額が問題解決においては重要なファクターになるのは自然な流れである。となると、「政府は結局、金で解決しようとしている」というのは当然の話で、その背景に気持ちの上での「誠意」が伴うかどうかだけが論点となる。であれば、石原環境相が問われるべき点は、相手が「誠意」を感じ取れない不信感を生むきっかけを作ったことにあり、石原環境相が謝罪なり何なりをして信頼を回復できれば職務を継続することが出来るし、不信感を払拭できずに中間貯蔵施設の合意に障害となるのであれば、首相が状況に応じて新たな環境相を任命することになる。それを、福島の当事者を横に置いて政争の具に利用しようとして不信任案などを提出するのは、それはそれで私利私欲のドロドロした決して評価できるものではない行為の様に感じる。

結論としては、この夏の内閣改造で安倍総理が環境相の首を挿げ替えて決着させると思うので、最終的には野党の要求は達成されることになるのだが、それは本質とは全く関係ないところでの話である。「金目」という表現が印象を最悪にする表現でありそこが致命的ではあるが、その表現を横にどけて内容を解釈すれば、言っていることは正しいことであるのは間違いがない。それを、偽善者ぶって非難して喜んでいる人たちは、結局は中間貯蔵施設の設置を遅らせることに加担することになる。それで困るのは、多くの福島県民である。それが、住民に寄り添った行動であるかは相当疑わしいと言わざるを得ない。最初の議論に戻るが、不適切な発言をしたのは事実だが、マスコミも含めてそれに相応のペナルティを求めている様には私には見えない。
何か落ち度を見つけると、マスコミは一斉にその政治家などを叩こうとする。中国や韓国のことわざで、「水に落ちた犬は叩け」という言葉があるそうだが、まさにその様な雰囲気が漂っている。それは、その諺の語源である中国、韓国の最近の反日の風潮に通じる。極端な言い方をすれば、日本のマスコミが中国・韓国化しているということだろうか?

本当にそれで良いのか?

この辺は、もう少し冷静に考えた方が良いと思う。水に落ちた政治家を過剰に叩きまくるのはマスコミの仕事ではなく、マスコミは楽しんで炎上させるのではなく事実を伝えることに専念し、叩くのは有権者に任せれば良いのではないのかというのが私の考えである。

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日韓の交換日記の先にあるもの・・・

2014-06-24 00:07:39 | 政治
最近、寝不足が続いている。そう、サッカーの見過ぎである。サッカーを見ていると新聞記事に目を通す時間もなく、体調不良と本業の仕事の忙しさも相まって、今回もブログがご無沙汰になってしまった。今後もなかなか書けそうもないが、出来る限り前向きに努力してみたい。

さて本題である。笑ってはいけないが、まるで中学生の交換日記の様な出来事である。以下の記事を見て欲しい。

中央日報2014年6月9日「慰安婦被害女性が死去…生存者54人に
産経新聞2014年6月22日「『日本びいき』ある元慰安婦の死 『反日』でひとくくり、1面トップ
中央日報2014年6月23日「元慰安婦女性を『日本びいき』に化けさせた産経新聞

説明するまでもなく、先日行われた河野談話の検証の報告書提出を挟んで、日韓双方のマスコミがし烈な争いを繰り広げている状況である。
上述の産経新聞の記事は、先日から「歴史戦 第3部 慰安婦・韓国との対話」と題して連載している記事のひとつだが、今日付けの記事でも河野談話の検証報告を受けて韓国の新聞がどの様な見出しで記事を出しているのかを紹介している

==産経新聞より抜粋========
「河野談話は“殻”だけが残ることになった」(中央日報)
「検証の名で暴露するのは信義に欠け無礼な国家がするような野蛮な振る舞いだ」(京郷新聞)
「報告書は21年前の河野談話に大きな傷をつけるもの」(朝鮮日報)
「今になって検証うんぬんすること自体が天に唾する行為だ」(ハンギョレ)
=====================

探してみると、少々タイトルが異なっているようだが、概ね同様の記事が載っている。

朝鮮日報2014年6月21日「【社説】河野談話検証は韓日関係の破たんが狙いなのか
中央日報2014年6月21日「【社説】日本の歴史挑発…河野談話、『殻』だけ残る

概ね全ての記事は同じようなことを主張しており、日本が韓国に対してベタ降りである「全面無条件降伏」しないことは「天に唾を吐く行為」であり、僅かでも「だって、だって・・・」と口をつけば「絶対許さない!」と切って捨てる様な論調である。しかし、これらの記事の中に私は一筋の光明を見た気がした。

というのは、これらの報道の中には、河野談話の検証報告書の中に記されている幾つかの事実をストレートに紹介しているからである。例えば朝鮮日報の記事では、「90年代末、日本が立ち上げた基金を通じて61人の元慰安婦が500万円相当の補償を受けたことや、また基金の代表が日本の首相が書いた謝罪の手紙を読み上げるのを聞くと、一部の女性が泣き叫び、基金の代表を抱きしめて泣き続けたことなども記載されている。」と紹介している。更には、「日本側は交渉の過程を全て極秘にすることを提案し、韓国側がこれを受け入れたとされている。また『当時の金泳三(キム・ヨンサム)大統領は日本の最終案を評価した』とした上で『韓国政府は(河野談話の)文言を受け入れたという意向を伝えてきた』などとも記載されている。」とまで紹介している。多分、この2点については韓国国民は寝耳に水の話だろう。

記事の中では、例えば後者に関しては、外交上の機密を相手の同意なしに公表することは「もうあなたの国とは外交をしない」と言っているのと等しいとして、日本は信用できない国であることを主張している。確かに、日頃から洗脳されまくっている韓国国民には盲目的に信じるのに十分な内容なのかも知れないが、それでも一部の人は「それって本当なのか?」と疑問に思うのだろう。また、アジア女性基金の補償を受け取った女性が61人いることは、朝鮮日報自ら「日本がいかに補償に力を入れていたかを強調するかのような内容になっている」と認めるように、日本政府も出来る限りのことを行ってきているという事実を知らしめることになている。特に、私も以前、初めて見た時には目を疑るほどの驚きを感じたのだが「日本の首相が書いた謝罪の手紙」の存在が明らかになったことは大きい。

元々、日本政府の主張は日韓請求権協定の中で、日本政府が韓国国民個別に補償をすると主張したところを韓国政府が「我々(韓国政府)が日本政府に代わって個人補償を行うから、日本政府は補償金だけを払ってくれれば良い」として支払ったのだから、完全且つ最終的に決着していると主張しているのだが、韓国政府は韓国国民にその様な個人補償のお金を受け取ったことは隠しておき、そのお金を元に漢江の奇跡を演出したのである。その事実が暴露されて韓国国民は驚いたが、その矛先が韓国政府に向くのを避けるために慰安婦問題をことさら強調していた感がある。そんな中、慰安婦問題も日本政府と折り合いをつけていながら、韓国国民にはバックれた行動を取っていたということを今回、暴露されたことになる。「日本は何もしてくれない」と世界に向かってアピールしていたが、十分ではないにせよ、一生懸命、韓国の要望に応えようとしていた姿は明らかになった訳である。

社説の論調はどれも、安倍政権は信頼するに足りない政権であるということを、韓国国民に植え付けることを狙っている。しかし、この同じタイミングで何が起きているかと言えば、下記の様な事態が韓国では起きている。

中央日報2014年6月17日「朴槿恵大統領の支持率、40%台に下落

韓国のフェリー船、セウォル号の沈没事故で逆風の中行われた統一地方選では、朴槿恵大統領の涙に免じてギリギリのところで大敗を免れさせたが、しかし、やはりこの政権は信頼するには足りぬとの判断を韓国国民が下しつつあるという状況である。こちらの原因は首相候補指名のドタバタ劇が主因なのだろうが、信頼できないという点では共通している。本当か否かは知らないが、一説によれば韓国では韓国国民は意外に反日に対しては冷静で、冷静でないのは韓国政府と韓国のマスコミであるとの解説を聞いたことがある。私はその様な話は信用していないが、しかし、それでも韓国政府と韓国政府のヨイショ役のマスコミが信頼を失えば、「本当のところはどうなんだ!」という疑問は強くなるはずである。

そんな中、多分、慰安婦の女性の方々は「アジア女性基金の補償を受け取った人が61人もいるなら、私も補償を受け取りたい」と思うはずである。以前のブログ「諸悪の根源は韓国の自称人権擁護派の市民団体か?」でも書いたが、韓国の慰安婦の多くはアジア女性基金の補償を受け取りたがっていたが、自称人権擁護派団体が人権を無視して受け取りを拒否するように強要していた事実がある。しぶしぶ、受け取りを拒否した人々も、このタイミングで真実が暴露されると、「なら私も!」と思うのは自然だろう。しかし、その補償金の受け取りを自称人権擁護派団体は圧力をかけて阻止しようとするだろうから、そこで何らかの衝突が起きるのは自然だろう。そうなると、誰が慰安婦に寄り添う人で、誰が政治的に慰安婦を利用しているかが明らかになるはずである。その時、韓国国内の世論は2分されるはずである。

幸いにも、河野洋平元官房長官は講演で「報告書はきのう読んだが、全くそのとおりで、正し くすべて書かれている。足すべきことも、引くべきこともない」と発言している。河野談話の見直しを非難していた急先鋒で、韓国国民からも支持されていた河野氏のこの発言の意味することは世界的に見ても大きい。特に、キャロライン・ケネディ米大使などには、この一連の慰安婦問題の拗れた原因を理解するのに有益であったと思う。だからこそ、アメリカ国務省のサキ報道官の下記の様な発言に繋がったのだと思う。

NHK News Web 2014年6月21日「米 河野談話継承支持の姿勢示す

抜粋すれば、「河野元官房長官による謝罪の表明は、日本が周辺国との関係を改善する重要な区切りとなった」「官房長官が談話を見直さず、これを継承するとしたことに注目している」「われわれは日本に対し、過去から生じる問題について、周辺国との関係強化につながるかたちで取り組んでほしいと促してきた。今もその姿勢に変わりはない」ということである。つまり、河野談話は日本が周辺国との関係を改善する意図をもって行った談話であり、それは報告書に記載の内容とも十分に整合性が取れている。一方で、実際には事実は別のところにある(強制性の有無など)可能性が明らかになったにも関わらず、その様な意図をもった談話であるとの認識で談話の継承を政治的に決断したことを評価している訳で、日本はアメリカの要求に対して概ね満額回答をしたと評しているのである。その際、ちょっとだけ「愚痴をこぼさせてもらった」というニュアンスだろう。

最初の交換日記の話題に戻れば、今までは日本のことを無視して、一方的に自分の土俵で相撲を取り続けてきた韓国のマスコミが、今回の一件で「日本とがぶり四つ」にならざるを得ない状況になったということである。多分、横綱とは程遠い韓国と「がぶり四つ」になれば、大いに勝算は見えて来る。韓日関係は無限地獄の様に感じていたが、河野談話の検証は、少しは事態の打開に繋がるかも知れない出来事であると思った。

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憲法9条に関するお勉強

2014-06-11 00:27:40 | 政治
最近、色々と面白そうな記事をあさっている中で、うさみのりや氏のブログに下記の記事を見つけた。有料のメルマガ用の記事らしく、途中までしか読むことが出来なかったが、そこまでの記述の中にお勉強になることが書かれていたので自分なりに勉強してみた。

うさみのりやのブログ2014年5月26日「メルマガ:集団的自衛権に関する解釈改憲の妥当性についてマジメに考えてみる

ここでは、集団的自衛権の議論をする中で、憲法9条について噛み砕いて説明をしている。まず、憲法9条の記述を引用してみたい。

==================
日本国憲法
「第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
==================

うさみ氏はこの文章の解釈において、第1項については構成要素を下記の様に4つに分けて説明している。

==================
(主語)日本国民は
(目的語)国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は
(条件)国際紛争を解決する手段としては
(述語)永久にこれを放棄する
==================

ここには「条件」として「国際紛争を解決する手段としては」と明記しており、この条件に合致しなければ「武力の行使を永久に放棄する」ことが必ずしも必要ではないと理解できると説明している。さらに続けて第2項において、

==================
(条件)前項の目的を達するため、
(一文)陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
(二文)国の交戦権は、これを認めない。
==================

となっており、こちらも条件である「前項の目的を達するため」を満たさなければ、「戦力の不保持」も「交戦権の放棄」も必ずしも必要ではないと理解できると説明している。この解釈により、憲法9条のもとで自衛隊の存在が認められるとのことである。

ここから先は、うさみ氏のブログは有料で読めないのだが、最後に「芦田修正」というキーワードを残しているので、Wikipediaで憲法9条を調べてみた。すると、この「芦田修正」とは、一般には第2項の「前項の目的を達するため」の加筆部分をさし、この一文を加えることで「明示的」に自衛のための戦力の保持を可能にしたと理解されているらしい。ちなみに蛇足ではあるが、このWikipediaにも憲法改正の審議過程の中で、日本共産党は「自衛戦争と侵略戦争を分けた上で、『自衛権を放棄すれば民族の独立を危くする』と第9条に反対し、結局、共産党は議決にも賛成しなかった。」ということらしい。共産党ですら反対する内容を、微妙な表現で煙に巻いて通してしまうところが何とも面白い。

ただ、憲法9条と自衛権の関係については、憲法学者の間では少々突っ込んだ議論があり、「国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄」自体は、第一次世界大戦後の1928年(昭和3年)に多国間で締結された国際条約である不戦条約(パリ不戦条約、戰爭抛棄に關する條約)において、「同条約では国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することなどを規定した。」とのことで、憲法9条の第1項の記載内容はまさに不戦条約のコピーであり、この意図することは「国際紛争を解決する手段」に対してのみ限定的に有効な条項で、自衛権を縛るものではないとの解釈がなされているらしい。つまり、素人がその文案より受けるニュアンスは全くの素人の勘違いであり、知識あるスペシャリストは常識的に限定的な解釈を取るというのである。

この様な日本国憲法は結局は日本の国会で審議されたものであり、GHQの意図は何らかのものがあったかも知れないが、少なくとも国会で審議する中でこの様なコンセンサスを取りながら、その記述から素人が受ける感覚と全く別物の法文を作り上げてきたようだ。どの程度違うものになったかについては、Wikipediaによれば、「連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、憲法草案を起草するに際して守るべき三原則として、最高司令官ダグラス・マッカーサーがホイットニー民政局長(憲法草案起草の責任者)に示した『マッカーサー・ノート』に表れている。その三原則のうちの第二原則は以下の通り。」として、下記の様に紹介している。

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(邦訳)
国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。
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明らかに、個別的自衛権の行使としての戦争も放棄すべしとされているし、「日本が陸海空軍を持つ権能」や「交戦権」が与えられないことには、何ら制限条件が伴わないことにもなっている様である。つまり、アメリカからの押し付け憲法と揶揄される中で、実際にはギリギリのところで日本の都合の良い様な解釈が可能な適度な骨抜きがなされている様にも見える。ただ、この様なGHQの権威が絶対であった状況を考えれば、取り様によっては骨抜きにできる論理武装は仕込んだが、その本質的な意味の解釈を「マッカーサーノート」に求めるならば、上記のうさみ氏の説明や不戦条約の説明などは、本来のGHQの精神からかけ離れた、単なる言いがかりとも取れなくもない。
我々、法律の素人から見ると、法律とはその解釈が入り込む余地を可能な限り排除して作成されるべきもので、大方の法律、特に憲法などにその様な解釈が入り込む余地などないと信じ込んでいるところがあるが、実際には様々な人の思惑もあり、運用で何とでもなる余地を残した法案も少なくないのかも知れない。そして憲法のその例外ではないようだ。

こう考えると、憲法に解釈が加わることは憲法制定過程においても(建前は別として、本音では)想定されていたことであり、その解釈は国民のため、国家のために必要に応じて運用で逃げるノリシロを残しておいてあったのかも知れない。当然、運用で逃げるということは、その時その時の実情に合わせて判断が変わる訳で、今回も解釈が変わってもおかしくないという根拠にもなり得るかも知れない。

最後の部分は「こじつけ」のようなものだが、思っていたほど、憲法が「ギチギチ」に規定されたクリアーな法案ではないらしいことは良く分かった。この様な気が付かない幻想がある以上、今回の集団的自衛権の議論も、その辺を理解した上で判断すべきなのかも知れない。

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求められるのは「国家が悪魔であるととことん疑うメディア」なのか?

2014-06-07 23:09:47 | 政治
田原総一郎氏のブログに以下の記事が掲載されていた。今日はこのブログに対してコメントしてみたい。

田原総一朗 公式ブログ2014年6月6日「リアリティがない朝日新聞や毎日新聞、それでも存在意義があるこれだけの理由

ここでは集団的自衛権を中心に、賛成の立場を取る「読売新聞」「産経新聞」、反対の立場を取る「朝日新聞」「毎日新聞」「東京新聞」の対立を指摘し、その意見の対立があるからこそ健全であると指摘している。さらに言えば、月刊誌「Will」の記事を引用し、「産経新聞」記者の古森義久氏が「『朝日新聞』の報道は、『外部の要因はすべて無視、脅威や危険はみな自分たち日本側にあるとするのだ』という。すなわち『日本は悪魔だ』という理念のもとに、主張を展開している」と指摘していることを紹介していた。そして追い打ちをかけるように、多くの人が「いまの『朝日新聞』『毎日新聞』『東京新聞』にリアリティをまったく感じなくなっている」ことを指摘すると共に、田原氏自身も「僕も認める」とその感覚の正しさを肯定的に捉えていた。ただ、彼にしてみれば、先の第2次世界大戦で「国家は国民を騙すもの」と身をもって経験した身として、「たとえリアリティはなくても、『国家が『悪魔』だと、とことん疑うメディア』が、ひとつくらいあってもらわなければならない。戦争を知っている世代として、いまの若い人に伝えたいと思う。」とブログを結んでいた。

私はこの意見には納得できる部分が多くある。だから、その様な意味で幾つかの新聞が偏った立場を主張するのは正当であると認める。しかし、では何が問題なのかをもう少し考えるべきだと感じている。

かって第2次世界大戦の時、多くの日本人は戦争に対して疑うことをせずに死に行く戦いに参加していった。勿論、国家が言論統制を行っていたから、それに逆らう意見など大きな声で言えない状況にあったのは確かである。しかし、仮にあの時に言論統制が全く行われておらず、自由に「戦争反対」と言える状況であったらどうなっていたのだろうかと考えてみる必要がある。あの時の日本は、資源の無い日本が欧米列強から囲い込まれ、今後の発展を確保するためには鉄や石油などの資源を海外に求めざるを得ない状況であった。やっと欧米列強に追いついたと自覚したとき、「このまま平和に暮らしたければ2流国に甘んじろ!」と無理難題を強いられたら皆はどう考えるだろうか?それでも、平和のために欧米列強の前に屈するべきと考えるだろうか?さらに言えば、ここで屈した際に、その後に更なる無理難題を要求されたりしないだろうかと思わないだろうか?実際、それまで栄華を誇っていた中国はアヘン戦争に負けて見る影もない立場に追いやられ、朝鮮半島もロシアに狙われている状況である。アジアと欧米という対立を当時の日本人がどれだけ本気で考えていたかは知らないが、少なくとも「中国の様にはなりたくない」という気持ちは確実で、それに加えて「アジアを日本の手で守る」とまで威勢の良いことを考えた人もいたはずである。それはある意味、その当時の水戸黄門や遠山の金さんの様な勧善懲悪的な感覚もあり、正義感の強いものであればあるほど、国家に強いられなくても「いっちょ、やったろうじゃないか!」と感じていたはずである。であるとするならば、「国家が『悪魔』だと、とことん疑うメディア」が存在していたとしても、それ程、大きな流れを作ることはできないのではないかと私は思ってしまう。

では何が問題なのか?

今置かれている世界の情勢を正確に理解し、日本国内の問題に対しても、世界の問題に対しても、多くの日本国民がそれぞれに是々非々で物を言える環境をまずは作らなければいけない。第2次世界大戦前の話をするならば、アメリカやヨーロッパなどで日本の立場を強く訴える「物言う外交」を徹底し、その中で相対する国々に対しても(政府レベル及び民間レベルの双方から)間違っていることを間違っていると指摘し、その中での調和を訴える「強い外交力」を身に付けなければならなかった。その外交力を確かなものにするには、国民全体でそこに起きている事態を正確に把握し、多くの人が考え、議論を戦わせ、その中で何らかのコンセンサスを作り上げ、国民が後押しをする形で「物言う外交」を推進しなければならない。勿論、これは大政翼賛会的な意見の統一を指摘しているのではない。議論を政府にとって都合の良いひとつの方向に誘導しようというのではない。単なるイメージ戦略やネガティブキャンペーンなどで、パブロフの犬の様な思考を省略した結論への到達でもない。問題点や課題の再確認から始め、どの様な選択肢があるのかを模索し、その中の選択肢に○×△の評価をして、議論に議論を重ねた末の結論に辿り着かねばならない。街角でインタビューを受けた人が、誰でも含蓄のある深い意見を言えるような姿が好ましい。その為には、例えば現在の外交にフォーカスするなら、中国の脅威を定量的に把握し、中国や韓国で徹底される反日教育の何たるかを理解し、その結果として起きている現在の事象を正確に理解した上で、「では、是々非々で大局を見据えた議論をしましょう」としなければならない。

しかし、朝日新聞たちの行動はそれと対極のものである。中国が何をしようが、そんなことには寛容に見てみぬふりをして、一方で日本政府が何かすれば「全て日本政府が悪い」と「国家が『悪魔』だと疑う」姿勢を崩さない。こんなメディアが日本の中心にデンと構え、少なくとも半数程度の国民の思想を先導していたら、少なくとも上述の様な「物言う外交」は出来ない。

つまり、何が足りないかと言えば、これらの新聞社には論理的な議論が圧倒的に足りないのである。あくまでも、イメージ戦略でしか勝負をしようとしないのである。議論を入り口で断ち切るような、卑怯極まりない戦術をこれらの報道機関は好むのである。集団的自衛権を例にとれば、「集団的自衛権=悪」の刷り込みを徹底し、何故に憲法9条で自衛隊が違憲でないのかは議論しようとはしない。常識的日本人であれば、憲法9条と自衛隊の関係を議論しようと思えば例えば「あの条文で、何故、自衛隊が存在しえるの?」などという疑問は簡単に湧くはずである。逆に「憲法9条の何処に集団的自衛権はダメと書いてあるの?」とも思うかも知れない。それに対して、「これまで政府は自衛隊はOKで、集団的自衛権はNGと言っていたから」と言われてどれだけの人が納得できるのだろうか?それこそ、「集団的自衛権=悪」の方程式は「政府が言うことは正しい」を前提としているからこそ導かれる答えな訳で、都合の良いところだけは「国家は正しいことを言うはず」と開き直るあたりが何とも矛盾している。


それだけではない。彼らは他の報道機関から論戦を挑まれても、絶対に正面から戦おうとはしないのである。例えば、朝日新聞が口火を切った慰安婦問題に関しては、読売新聞にしても産経新聞にしても、「あの記事は誤報である」「訂正記事を出すべきではないか!」と何度も問いかけをされている。特に産経新聞ではその様な記事を良く目にする。しかし、それに対する朝日新聞の正式な反論を見ることはない。絶対に正しいと信じるなら、その根拠を明確に示し、議論を戦わせれば良いだけである。新聞社が独自の意見を持つのは大賛成だし、それが右と左に別れようがそんなことは許容範囲である。しかし、事実を伝えるはずの報道が、捏造記事で世間を誤った方向に誘導しているのであれば、それを指摘された以上、真摯にそれに向き合うのは最低限のルールであるはずである。しかし、それすら出来ないというのが朝日新聞、毎日新聞などの報道機関である。

勿論、産経新聞も読売新聞も間違いは犯すであろう。それはそれで、逆に指摘をすれば良いはずである。その様な関係は健全なのだから。

多分、田原総一郎氏もその様な形での健全な姿を望んでいるのだろう。正直、「熱ものに懲りてナマスを吹く」という状況の田原氏の本能は私も否定しない。ただ、現状はその不健全なメディアがマジョリティを持っているのが現状で、不健全なメディアにリアリティを感じなくなった人はまだ過半数ではない。例えて言うならば、現在の国会議員における日本共産党ぐらいの割合で「熱ものに懲りてナマスを吹く」人が存在するのが健全な姿なのではないかと思う。このバランスが崩れた状況が長く続きすぎると、それは逆に真の意味の「極右」「偏狭なナショナリスト」を生むことになる。今の安倍総理と「極右」「偏狭なナショナリスト」などと呼んでいる様では、それこそ真の「極右」「偏狭なナショナリスト」が出てきてしまう、そんな危機意識を朝日新聞たちには持って頂きたいと心より願う。

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小説?!STAP細胞問題の裏側の大胆予想

2014-06-06 00:00:48 | 政治
完全に予想が外れた展開である。STAP細胞問題である。

小保方氏は2件目の論文の撤回にも合意し、しかもハーバード大のバカンティ教授までもがその撤回に同意しているということである。一体何が起きているのだろうか?

この問題に関しては、TBSの「ひるおび」が詳しく、今日も詳細を解説していた。TBSの番組的には、最近話題になっているSTAP細胞の遺伝子データに、ES細胞やTS細胞などが混在した特徴があったということで、これがダメ押しになったのだろうという趣旨でまとめようとした感があるが、八代弁護士などのコメントもあり、実際にはそう単純でもなさそうであるという終わり方だった。このES細胞やTS細胞の混在の疑惑は例えば下記の記事に記載がある。

産経新聞2014年6月4日「2種の細胞、混合使用か 存在の証拠揺らぐ データ解析で判明

この記事の最後にも記載があるが、理化学研究所の論文共著者の丹羽仁史プロジェクトリーダーも4月の記者会見で「ES細胞とTS細胞が均質に混ざり合ったものを作るのは、私の経験上困難だ」と否定していたし、笹井芳樹発生・再生科学総合研究センター副センター長なども、STAP細胞の特徴が「細胞のサイズが小さいという特徴がある」などのコメントをしており、当然、ES細胞やTS細胞との取り違えの可能性は、腐るほど事前に検証をしているはずである。したがって、今頃になって「実はES細胞とTS細胞でした」という決着はあまりにも考え難い。八代弁護士などのコメントもあって、それほど単純に決定的な証拠が見つかったというニュアンスではなさそうだということで落ち着いた。

実は過去にも今回の報道と似た様な事例があり、山梨大学の若山教授が小保方氏に提供した細胞からSTAP細胞を制作したにもかかわらず、出来上がったSTAP細胞を調べたところ若山氏が小保方氏に依頼した系統のマウスとは異なる遺伝子が検出されたことがわかったというニュースが流れたことがあった。私などもこのニュースには驚き、とんでもないことが起きたのかと勘違いしたが、実際には結局は尻つぼみで話題から消えて行った。もしこれが本当であれば、写真の取り違えや加工などの問題よりも、寧ろこちらの方が本丸になるはずなのだが、実際には完全に黙殺された状態で現在は落ち着いている。その若山教授の一件に関して詳しいことは良く分からないが、過去の番組での解説の中では、どうも「白」「黒」がはっきりする様な決定的な証拠が見つかったという訳ではなく、当然の予測される結果からすると少々不可解な結果が見つかった程度で、若山教授が疑心暗鬼に駆られる程度の意味はあるのだが、実際には決定的ではないということらしい。行間を思いっきり埋めるならば、例えば何処かで殺人事件があり、ある容疑者の犯行の裏付け捜査をしていたところ、殺害現場の近辺で容疑者に雰囲気が似た人物に会ったと証言する者を見つけることが出来た。しかし、詳しく話を聞くと服装がどうも違うようで、さらに身長に関する証言に至っては20cm程度乖離しているという、まあそんな感じだろうか。顔写真を見せると「似ている」というから疑惑は深まるが、客観的に攻めていくと裁判ではとても証拠能力がないような、そんな感じかも知れない。今回の件に関しても、あまり事情を知らない報道関係者が踊らされているだけで、あまりこの件は気にしない方が良いらしい。

ただ、一方で科学雑誌の「Nature」では現在STAP細胞問題の審査を行っており、近々、その判定結果が公表される予定らしい。その動向がリークされた形跡はないが、小保方氏側で「強制撤回させられるよりは、自主撤回の方がまだダメージは小さい」と判断したのではないかという予測をTBSの番組的にはしている雰囲気であった。また、この「Nature」の判定とは関係無く、理化学研究所の懲罰委員会が小保方氏に下す裁定は、現時点では諭旨退職か懲戒解雇の二通りしか選択肢がないが、情状酌量の余地がある場合には解雇を免れて、理化学研究所に残れる可能性も否定できない。多くの方の予想では、この情状酌量の根拠として論文の取り下げという妥協をしたのではないかという予想であった。ただ、理化学研究所は再現実験への参加と引き換えに論文取り下げを迫ったことはないと否定しており、理化学研究所そのものが何か裏でやっているという印象は私には薄い。

ここから先は少々小説じみた予測であるが、私は少々うがった見方をしている。というのは、情状酌量の担保がない状態で論文の取り下げを行うことは、あまりに小保方氏にとってリスクが大きすぎるからである。ここで論文の取り下げを行うと、最悪の事態では完全に小保方氏の業績が誰かに横取りされる可能性があるのだから、そのリスクを犯すには何らかの取引があってもおかしくないはずである。以下は、何処かの誰かが暗躍し、下記の様な落としどころを小保方氏に提案した者がいるのではないかと思った次第である。

そのストーリーを説明する前に、まず、背景を確認しておきたい。もし仮にSTAP細胞が存在するとして、その製作のレシピを理化学研究所が十分に把握できているのなら、そろそろ何らかの声が聞こえてきてもおかしくはない。ないしは、今頃になって小保方氏を実験に参加させよなどという声が聞かれるのは矛盾している。したがって、実はそれなりにハードルの高いノウハウがそこにあり、そのノウハウが理化学研究所ですら認識できておらず、ましてや外部の研究機関では当面は再現などできそうもないというのが現状なのだと思う。であれば、そこに小保方氏が加わって再現実験がなされれば、世界で最初の再現実験成功として論文投稿にこぎつけられる可能性は高い。だから、論文を一旦撤回しても挽回できる可能性があることを考慮して、断腸の思いで決断をしたのではないかと考える。さらに言えば、仮に論文の世界で先を越されたとしても、実はSTAP細胞製造技術を開発した世界最初の人物が小保方氏を含むグループであるという証明が可能なオフィシャルな証拠物が世の中には存在する。それは、特許出願届である。一般に特許は学術的な論文として扱われることはしないが、しかし明確なタイムスタンプが残された公の文書として世の中には君臨する。しかも、その特許が仮に拒絶されて正規に登録することが出来なくても、それは公の文書としては残り続け、このタイムスタンプが押された時期に、この技術をこの出願人が有していたことを世界に証明することが可能となる。したがって、この特許が撤回されない限り、いつの日かSTAP細胞の存在が示されれば、世界最初の業績が小保方氏のものであることは証明可能なのである。

この様な背景を前提に、私の予測は以下の通りである。今回の事件に心を痛めていた人の中に、政府関係者や与党議員が含まれているのは自然である。この将来の再生医療の鍵を握る可能性がある技術を日本が失うのは余りにも耐えがたく、日本の科学技術を先導すべき理化学研究所がこのまま泥沼にはまり続けるのは何としても避けたい。技術立国として日本がこの先発展していく上では、政府ないしは政治家として、何としても一握りの可能性に保険をかけたいところである。そこで、理化学研究所の改革委員会のメンバか誰かにアプローチをかけ、特定国立研究開発法人への指定を引き換えに小保方氏の検証実験への参加を打診したとしてもおかしくはない。勿論、理化学研究所の上層部までもがその裏取引に応じるとは考えにくいが、下村文科相がその報道を受けて「手放しで大賛成」的なコメントを残した以上、理化学研究所が小保方氏の検証実験参加を拒否すれば、下村文科相などの政治家からの逆鱗に触れるのは目に見えている。理化学研究所が特定国立研究開発法人への指定を蹴ってまで、自らのポリシーを貫いて小保方氏を切り捨てることは不可能だから、下村文科相のコメントが発せられるという担保を取った政府関係者が小保方氏に論文撤回を打診したというシナリオは十分考えられる。そして、その際の殺し文句が「特許が残っている以上、STAP細胞の業績の第1人者は小保方さん、あなただ!!」であったのではないかと予想する。その様な政府関係者の尽力に、小保方氏が「仕方がない」と妥協したと私は予想する。

相当、無理筋な予想である。

なお、このシナリオに、理化学研究所は噛んでいないというのがもう一つの私の予想である。これは、(仮に拒絶されても)特許が小保方氏の業績を証明するという事実は小保方氏にとっては重要な事実である。しかし、理化学研究所からすれば特許の登録に失敗し、特許庁から拒絶されたら大きな利権を失うことになる。それは、自らが論文の撤回を主張していたので自業自得なのだが、あまりに特許という知的財産の権利に無頓着のような気がする。もう少しこの辺に対する意識が高ければ、違う着地を試みるのだと思うが、実際にはそうはなっていない。この様な状況では理化学研究所にだけ救いの手を伸ばし、小保方氏の方はぶった切るという選択肢がないように思える。

結局、何か良く分からない着地点ではあるが、「小保方氏が検証実験に参加できることは喜ばしい」と、非常に遠回りにフォローを入れた弁解のブログになってしまった。

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諸悪の根源は韓国の自称人権擁護派の市民団体か?

2014-06-05 00:23:44 | 政治
先週金曜日の深夜に放送されたテレビ朝日の朝まで生テレビは見ごたえがあった。その中で明らかになった情報の中に、非常に注目すべきことが多いと思ったので、受け売りではあるが、ここに要点を整理してみたいと思う。

テレビ朝日2014年5月30日25:25~28:25「朝まで生テレビ」
激論!反日・嫌韓、ド~する?!日韓関係

番組には色々なパネリストが出演していたが、その中でも特に鍵を握る存在は下記の3人である。

下村満子(ジャーナリスト、元アジア女性基金理事)
趙世暎(東西大学特任教授、元韓国外交通商部東北アジア局長、韓国在住)
黒田勝弘(ジャーナリスト、産経新聞ソウル駐在客員論説委員)

この中で、下村満子氏とは慰安婦問題に対する問題解決のための「アジア女性基金」の創設に尽力し、300人を超える韓国政府認定の慰安婦の女性の方々に直接会って対話を行い、彼女らの生の声を最も理解している人物の一人と言える。趙世暎氏に関しては、韓国の方ではあるが、比較的論理的な議論に耐えうる方であり、宗教論争的な不毛な議論とは異なる有益な議論ができる人物である。黒田勝弘氏は産経新聞のソウル駐在客員論説委員で、産経新聞の記事で良く見かけるが、比較的ニュートラルな記者だと認識している。

さて、色々と論点はあるのだが、今日はこの番組の中で非常に重要であると思われるふたつのポイントに絞ってコメントしたい。ひとつは、2011年8月30日、韓国の憲法裁判所が下した慰安婦問題に対する韓国政府の不作為を違憲行為と断定した判決の意味の理解についてである。もうひとつは、「アジア女性基金」がうまく機能しなかった裏側の事情と、日韓関係が拗れに拗れるその根源ともいえる団体の存在についてである。

まず前者の憲法裁判所の違憲判決について確認したい。この裁判は、韓国政府が日本軍「慰安婦」被害者の賠償請求権に関し、具体的解決のために努力していないことは「被害者らの基本権を侵害する違憲行為である」との判決を下しており、我々日本人の多くは被害者の賠償請求権を憲法裁判所が「認定」し、それに応えない韓国政府を断罪したものだと理解していた。しかし、趙世暎氏の解説によれば、その理解は間違っているらしい。これは下記の資料の記載とも一致している。

国立国会図書館調査及び立法考査局「【韓国】 従軍慰安婦及び原爆被害者に関する違憲決定

つまり、「両審判における争点は、請求人の賠償請求権の有無ではなく、請求人の賠償請求権に関する日韓間の解釈をめぐる争いについて、韓国政府がそれを解決するための手続を履行しないことが、請求人の憲法上の基本権を侵害しているかどうかにあった。」とあるように、慰安婦の請求権の有無は争点となっていない。その争点とは、「日韓請求権並びに経済協力協定」の第3条に記載があるように、双方の解釈に齟齬がある場合にはまず外交努力で解決を心がけ、それでも解決できない場合には第三国の仲裁委員による仲裁の手続きという規定がなされており、この規定があるにもかかわらず、韓国政府は第3条の誠実な履行を実行しようとしなかったことに対して「韓国政府の義務の不履行を不作為と認定した」ことにある。つまり、外交努力及び第3国による仲裁の手続きを進めれば、憲法裁判所は違憲判決をすることはなかったというのである。さらに言えば、請求権の有無はその手続きの中で明らかにされるべきで、憲法裁判所では判断しないというスタンスらしい。

勿論、この説明に納得できない部分は多々ある。我々は、韓国の司法の非論理性にうんざりしているのであるが、例えば徴用工問題に対しては韓国政府ですら「日韓請求権並びに経済協力協定」で解決済みとの立場を示しているのに、それを司法が国内法の上位に位置する国際条約を無視して徴用工の請求権を認める判決を下しているのは理屈に合わない。ただ、趙氏の主張によれば、徴用工問題は司法の判断を受けて現在は行政側にボールがあり、執行の有無の判断により最終的に「無法国家」なのか「法治国家」かが決まるということらしい。行間を私なりに埋めれば、国際条約を締結するのは韓国政府であり、その条約が意味するところを解釈する第1義的責任は政府にある。それは、外交文書などの様々な判断材料が政府内部にある一方、その様な情報から距離を置く司法の世界では、上位概念を無視してあくまでも韓国国内法のロジックで判断せざるを得ず、その意味でこの様な判決が出てもおかしくないということである。

李明博大統領が竹島上陸という暴挙に出た背景には、慰安婦問題への違憲判決が少なからず影響しているのは間違いないのだろうが、その際に司法が慰安婦の請求権を認定している訳ではないという理解の前提に立てば、違憲判決は別に短期的な解決を大統領に強いている訳ではない。つまり、李明博大統領は単に第3国による仲裁ないしは国際司法裁判所への提訴をすればそれで済んだはずであり、不作為状態は解消され違憲状態は消滅するはずである。しかし、その様な道を取らずに竹島上陸という暴挙を選択したのだから、これは司法が行政に対して仕掛けた圧力を、行政側が素直に受け止めて生じた自体ではなく、行政が司法から受けた圧力とは別のプレッシャーにより、求められた行動と違う行動を取ったと理解することが出来るようである。問題は、その政府が感じたプレッシャーが何であるか・・・である。

さて、次の話題は「アジア女性基金」がうまく機能しなかった裏側の事情についてである。先程も簡単に紹介したが、下村満子氏は「アジア女性基金」の創設に尽力した方で、慰安婦の方々の殆どの方々と直接対話を行っている。彼女は慰安婦の女性が仮に自ら進んで慰安婦になった売春婦であっても、戦場で自由を奪われ辛い生活を強いられた事実には変わりないから、彼女たちに謝罪をする、償いをすることに対しては肯定的である。だから、強制連行でないから問題ないという主張とは真っ向から対立する。その様に、慰安婦問題に異を唱える方々からすれば、かなり韓国よりのスタンスに立っている様に見えてもおかしくない方であるのだが、彼女によれば、慰安婦問題が解決できない最大の理由は、女性の人権を語り日本政府を糾弾する自称市民団体が諸悪の根源なのだという。彼女によれば、慰安婦の多くの人は「アジア女性基金」による補償金を受け取りたがっていたというが、自称人権擁護派の市民団体は慰安婦の方々の人権を無視し、受け取りの拒否を強要していたのだという。下村氏たちは、慰安婦の方々が少しでも癒されるよう、極秘で補償金を支払ったりしていたそうだが、その受け取りの人数などの情報がばれると「魔女狩り」的なことが人権を無視した自称人権擁護派の市民団体によりなされてしまうため、極秘でひっそりと補償がなされたのだという。実際、受け取った人がどれほどだったかは公にしていないが、少なくとも、その補償金を受け取ったことで、慰安婦たちの請求権が消滅したりすることがないことを明言するなど、相当、慰安婦に寄り添った活動をしていたようだ。だから、実際の被害者である慰安婦から見たときに、誰が最も彼女たちの気持ちに寄り添っているのかは明らかなのだが、その様な実態を公にすることが(市民団体により)慰安婦の立場を追い詰めることに繋がる為、日本でも韓国でも、殆どその様な地道な行動がなされていたことを知らないらしい。

さらに言えば、この「アジア女性基金」の創設には日本政府も主導的に参加していたのだが、一旦、請求権が消滅したものをひっくり返して賠償する法的根拠がないために、日本政府は完全に黒子に徹していたという背景がある。驚くことに、実は韓国政府もこの「アジア女性基金」の創設には黒子の様に関与しており、現実的な落としどころとして「アジア女性基金」のあり方などの詳細について調整が図られていたという。だから、この「アジア女性基金」は最初で最後の問題解決の切り札であったはずであるのだが、この両国による妥協案を骨抜きにしたのは先ほどの慰安婦に補償金の受け取りを拒否するように迫った市民団体なのである。つまり、日本のベタ降りである国家賠償を認めさせなければ問題解決と認めないという強硬路線のキャンペーンを張り、結果的にその市民団体の動きに翻弄されて腰砕け的に韓国政府が問題解決を放棄してしまったというのが実情の様である。繰り返すが、民間団体と政府が連携した「アジア女性基金」の活動は、私から見ると非常に涙ぐましいまでに地道な活動であり、慰安婦に補償金を渡してもそれを「渡した」こ公言できない状況で、とてもではないが韓国国民が日本の地道な謝罪の活動を理解することは出来ない。しかし、それでも良いという善意の塊の様な典型的な行動である。

さて、話を最初の話に戻すならば、李明博政権が感じたプレッシャーとは何かということだが、この自称市民団体の強硬路線をあの李明博大統領ですら突っぱねることが出来なかったということである。そして、同様に弱者である慰安婦の方々も、このプレッシャーに勝てない訳である。この自称市民団体には日本の政治家も関与していて、日本政府叩きのツールとして悪魔に魂を売って世界で反日のキャンペーンを進めているのである。その自称市民団体が何故反日に走らなければならないかはここでは議論しない。しかし、これらの自称市民団体が結局は日韓関係を決定的にする。番組に出演していた民主党の江田五月参議院議員などは、完全にこの自称市民団体の立場を代弁するかの様な発言に終始し、常に悪いのは日本側だと主張する。まさに、その市民団体の思う壺である。

この事実は実は産経新聞の黒田勝弘氏も同様に指摘しており、この自称市民団体の存在が諸悪の根源だということがこの番組の討論を通して良く分かった。これらの勢力が政治力を持ち、そして政権に対して影響力を行使するが為に、事態は複雑な方に流れて行く。一般のサイレントマジョリティの韓国国民というよりも、ノイジー・マイノリティの市民団体の行動が、真の意味の大多数に迎合するポピュリズムとは違う意味で、少数の大声の暴力に流されている。

事態の解決への戦略を練るには、まずは事態の冷静な認識が第一歩なのだと思う。素人にとっては、その辺の事情を知る上で非常に有益な番組であった。

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一巡めぐって振り出しに戻ったSTAP細胞問題

2014-06-04 00:22:00 | 政治
報道によれば、理化学研究所の改革委員会は、「STAP細胞が存在するかどうか確かめる検証実験に小保方晴子氏を参加させるべき」だと提言する方向で調整しているとのことである。

産経ニュース2014年6月2日「小保方氏、実験に参加を STAP細胞の検証 理研改革委が提言へ

一方、この動きを受けて小保方氏の方は、代理人の三木秀夫弁護士によると「小保方氏は理研の職員なので、指示に従う」との意思表明をしている様である。

産経ニュース2014年6月3日「『理研の職員として指示に従う』小保方氏、検証実験参加へ

細かい裏事情は知らないが、どうも小保方問題があれこれとぐるぐる回って1巡して出発点に立ち戻り、落ち着くべきところに落ち着きそうな雰囲気である。今日はこの辺の事情に対して個人的な感想をまとめておきたい。

まず、正直に感じることは小保方氏側も理化学研究所側も、今回の泥沼騒動で双方が傷つきまくり、その傷ついた状態を一方の圧勝という形で決着させるのではなく、大岡裁きの三方一両損的に痛み分けの落としどころを探し出したのではないかと感じる。これは、第1には小保方氏及び代理人は裁判での徹底抗戦も辞さない覚悟を示していたし、その裁判での議論をクリアにするために、裁判以前の問題として理化学研究所に「偽造」「捏造」などの定義をクリアにすることを求めていた。これらの対応に対し、理化学研究所も裁判で敗訴する可能性を僅かながらに感じながら、所謂「示談」に相当する落としどころを探し始めたのだと思う。

その最重要な出来事は、小保方氏が2通の論文のうちの一方、正確にはFull Paperの論文ではなく、重要性の低い「速報」的な位置づけのLetterの方の取り下げに応じたことにある。これはハーバード大学の共著者も取り下げに同意したそうなので、私は当初はその意味を理解できなかった。しかし、よくよく聞けばFull Paperの論文の方は取り下げに同意していないので、Letterの方が取り下げられても世の中的にはSTAP細胞の学術的成果は小保方氏に帰属することが維持された状態にある。これは非常に重要で、全ての論文の取り下げに応じてしまうと、その隙をついてSTAP細胞を作製した別の誰かが論文を投稿してしまうと、その成果はその人のものとなってしまう。将来、ノーベル賞が授与されるのはその人になってしまうので、小保方氏は絶対に全ての論文の取り下げに応じることは出来ないはずである。

一方の理化学研究所はどうかと言えば、調べた範囲では良く分からないのだが、両方の論文を同時に撤回することを必ずしも求めているのかは怪しく、ひょっとすると片方の論文を撤回することで落としどころにする意図があるのかも知れない。何故なら、ここで論文が撤回されると、既に出願済みの特許にも影響を及ぼしかねないからである。これは、少々話が逸れるのだが、ノーベル賞をとってもおかしくない世界的に極めて重要な業績を挙げた日本人研究者の逸話で理解できると思う。それは、現在の光ファイバーの発明をした人物、西澤潤一氏の逸話である。西澤氏は現在は上智大学の特認教授の様だが、もとは東北大学電気通信研究所長であり、その後、東北大学総長、岩手県立大学学長、首都大学東京学長を歴任している。Wikipediaで「光ファイバー」を検索すると、その歴史のところに以下の記述がある。

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1964年、西澤潤一、佐々木市右衛門は、ガラスファイバーのコア内の屈折率を中心から周辺に向かって連続的に低くなるように変化させ、入射角の異なる光をファイバー内で収束させる自己集束型光ファイバー(今日にいうGI型光ファイバー)の概念を特許出願により提案し、自己集束型光ファイバーによる光通信の可能性について言及した。しかし特許庁は意味がわからないと不受理にした。
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つまり、現在の光通信の基礎となる発明をしたのが西澤氏であるのだが、特許庁はこの出願に対して拒絶対応をしたのである。聞くところによれば、「特許に書かれている様なことは実現不可能で夢物語であり、よって発明と認定されるべきではない」という様なニュアンスでの拒絶だったらしい。特許とは、その技術を特許明細書に開示することと引き換えに、所定の期間におけるその技術の独占権を与えるのであるが、それが開示されても実現不可能であると意味はないので、特許として認定されることはなかったのである。今からして思えば、その実現性は間違いないものであったが、時代がそれを理解できないと、この様に誤った判断がなされることになるという良い例である。これは小保方氏のSTAP細胞についても同様で、理化学研究所のこれまでの行動を見る限りでは、特許を出願している出願人自らが「この方法ではSTAP細胞は作成できない」と公に宣言しているに近い。それでも世の中的にその業績が有効と見なされる論文が生き残っていれば、特許庁としてはその技術が有効と見なす可能性は高いが、しかし、その論文の全てが撤回されてしまうと、特許的にも「その技術によって、STAP細胞が生成できる根拠」を失ったことになるので、その場合には拒絶される可能性が高まる。特に、特許とは出願から数年で審査請求がなされ、その審査の過程で拒絶通知やそれに対する反論などを繰り返し、あまり時を経ずに最終的な「登録」か「拒絶」かが確定する。そろそろ確定の時期に来ていてもおかしくはないので、このタイミングで全ての論文を取り下げることは、膨大な利益を生む可能性を秘めたSTAP細胞の権利を放棄するに等しく、そこまでの決断が理化学研究所的にも出来なかったのではないかと予想する。

一方、理化学研究所の調査委員会の内部にも、写真の切り貼りなどをした人物が多数見つかり、石井委員長も自認するに至った。実験ノートの不備など、色々と小保方氏を責める攻めどころは理化学研究所にもあるのだが、しかし、「偽造」「捏造」の定義次第では、裁判官は多くの調査委員会の委員の行為と小保方氏の行為を同一視する可能性もあり、裁判での決着は場合によっては理化学研究所内部に「小保方氏と同罪」となる人物を生み出すリスクも存在する。場合によっては、非常に重要なポジションの幹部の中に見つかる可能性もあり、その時には理化学研究所は名実ともに崩壊することになる。

勿論、理化学研究所は「勝算」があると思ったから小保方氏切りを断行したのだが、リスクマネージメントの観点からは、小保方氏切りを深追いしたときに大きな返り血を浴びるリスクが無視できない程度に大きく、そのリスクを取る覚悟が現在の執行部にはないので結果的に「示談」的な落としどころを探した可能性が高い。

しかし、その背景がその様な自己中心的な嫌らしいものであったとしても、STAP細胞の再現実験に小保方氏が加わることは非常に好ましいことである。小保方氏がSTAP細胞を再現させ、その再現の仮定を理化学研究所のメンバが確認し、しかも様々な万能性の証明の実験を行いその有効性を証明し、それを対外発表するのであれば、STAP細胞は最終的に小保方氏の成果として世界的に認定されることになる。その過程を論文にまとめ、その論文が採録された後、他の論文でSTAP細胞の提案がなされていないことを確認の後、最初のSTAP細胞の論文を取り下げれば、一通りのゴタゴタはリセットされることになる。
あくまでもSTAP細胞が存在するという前提の話になるが、それが存在するのであれば膨大な利益を生む可能性が高く、その権利を日本(ハーバード大の米国も同様)が保有するということは、将来の再生医療の分野でのアドバンテージを日本が握ることになる。仮にSTAP細胞が存在しないにせよ、存在する可能性とその際に生じる利益の大きさを考えれば、この様な保険的な行動は当然有効であるはずである。

私としては、一刻も早く小保方氏に実験に復帰して欲しいと願う限りである。

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川内原発の再稼働に対する火山学者の批判は妥当か?

2014-06-01 21:47:03 | 政治
確か金曜日の報道ステーションだったと思うが、鹿児島県の川内原発の審査が進み、再稼働の第1号の候補になっていることに火山学者が「待った!」をかけたニュースが流れていた。今日はこの話を切り口に、「駄目な議論」の典型例を示したいと思う。

地震王国とも言われる日本にはそこら中に活断層があり、原発安全審査の中ではかなり厳密にこの辺が審査対象になっている。原子炉の真下に活断層があるなどと言うのは法律で認められていないから当然そのような原発の再稼働は認められない。しかし、では全ての原発がダメかと言えばそうではなく、この鹿児島県の川内原発というのは日本の原発の中でも珍しい部類で、近くに活断層が走っていないということらしい。したがって、再稼働の口火を切る第1号に期待されているところであるが、反原発派の人々は「なし崩し」の再稼働を恐れるから、その安全性を抜きに何とかイチャモンを付けたいということで、色々と策を講じているらしい。その策略にはまったか否かは知らないが、この川内原発は例えば桜島から直線で50km程度離れた位置に存在するが、鹿児島の桜島の周りの鹿児島湾周辺は実は姶良カルデラと呼ばれていて、それ自体が噴火口になり得る大型の火山の様である。火山に関しては素人なので詳しいことは知らないが、そのカルデラの規模を考えても分かるようにその噴火の際のインパクトは富士山大噴火の数百倍にも上るらしく、50km程度の距離でも火砕流が到達する可能性があるのだという。火砕流をWikipediaで調べてみると、下記の様なものらしい。

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火砕流(かさいりゅう、pyroclastic flow、火山砕屑流)とは、火山現象で生じる熱い、気体と固体粒子からなる空気よりもやや重い密度流である。多くの場合、本質物を含む数百度以上の高温のものを指す。ただし水蒸気爆発で発生するような本質物を含まない高温でない密度流も火砕流と呼ばれることがある。最近では、温度や本質物の有無を定義から取り払い、火砕流と火砕サージなどを重力流の一種とみなして、火砕物密度流(pyroclastic density current)とすることも多い。
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どうも、原発本体はともかく、原発の外側の施設は火砕流が到達すれば致命的な被害を受け、結果的に原子炉を冷却不能に陥れる可能性が大いにあると言える。ただ、この際には鹿児島県内の住民はほぼ全滅に近い状況で、九州も壊滅的で、農業を中心に日本全体の産業にも致命的な影響を与えるであろう。その際、最悪のシナリオを想定すれば、原発においてチェルノブイリと同様の爆発が起きる可能性も否定できないだろうから九州、四国、中国地方にその被害が及ぶ可能性がある。こちらの方は、チェルノブイリの現状を見ればどの様なものか理解できる。地震学者が慎重な意見を述べるのは十分理解できる。

ただ、もう少しフェアに見て行けば、最後の大噴火からは2万6千年ほど程度らしいが、その前の噴火は何度かあるものの、それよりは格段に規模が小さいもので、2万6千年ほどの大噴火の周期は更に長い例えば10万年という周期の様である。確かに、あまり楽観できるデータでは無いように思えるが、しかし、これは一体どれほど深刻に受け止めるべきデータなのだろうか?
一例として、東日本大震災のことを考えれば、西暦869年の貞観地震(マグニチュード8.3)で発生した津波の規模に福島第一原発が耐えられないというデータが直前に発覚し、結果としてけれに対する対策を打つことなく予想通りの結果となってしまった。この貞観地震は千年前だが、それ以外にも地震は何度か起きていて、その都度、津波は問題となっている。地震や津波の被害はある程度予測可能で、その予測の範囲で対策を講ずるのと講じないのでは、その後の副次的被害の規模は大きく変わる。福島だけに限定すれば、多分、東日本大震災による被害(津波を含む)を1とすれば、福島第一原発の事故による被害は多分、百、千、ないしは1万を超えるかも知れない。だから、福島のケースでは十分な対策を講じなかったことの問題が非常に際立つケースである。その様な条件を提示されれば、何らかの対策を取るべきとの指示は十分できたはずだし、それを黙殺した人々の罪は重い。

しかし、10万年に1度の周期でしか発生しなく、一旦起きれば100万人規模の人が亡くなる様な自然大災害に伴う副次的な災害をどれだけ真面目に考えなければならないのだろうか?この様な問題を考える時には、何らかの基準になるレベルの物差しが必要る。その基準を、例えば、交通事故の影響を比較対象にして考えてみたい。

例えば、交通事故で無くなる被害者は年間5千人ぐらいだが、実際にはこれは事故後24時間以内に亡くなった人しかカウントしていない。正確な数字は知らないが、数日して亡くなる人を加えると倍の死者を出していると考えても大きくは外れない。死にはしないが、重大な障害が残る人や長い入院を余儀なくされる人は更に多数だが、ここではその様な被害者は無視して死者だけを考えてみる。この交通事故による被害者のレベルを、姶良カルデラの大噴火の影響と比較をしてみよう。大噴火の影響を受けるのは鹿児島県の枠を超えるだろうが、仮に分かり易いところで(都道府県が47なので)全国の1/50のエリアと仮定すると、毎年5000×2÷50=200人の死者に相当する。10万年に1回の頻度の事象と比較するにはこれを10万倍して評価する必要があるから、「自動車事故のリスク」は姶良カルデラの周辺では、10万年当たりで2000万人の死者を出すというリスクに相当する。原発の影響を含めずに噴火の純粋な被害で比較すると、姶良カルデラの大噴火による直接的な死者は多分、交通事故被害者のリスクの数分の1程度は小さい規模だろう。ここにチェルノブイリ的な原発の大爆発が加わっても、多分、被害の規模は2000万人には達しない。しかも、これだけの大噴火であればそれなりの予兆があると考えるのが自然だから、その予兆に合わせて何らかの対策を講じれば、チェルノブイリ的な大爆発ではなく、完全な冷却停止状態での建物の破壊等による福島第一原発的な放射性物質の放出という形に収まる可能性が高い。その際、放射性物質の放出の被害以上に姶良カルデラの大噴火の方が深刻で、ただでさえ危険で住めなくなってしまったエリアと、放射性物質の汚染が問題となるエリアが重なるという事態が現実の事態であろう。

火山学者は予兆を捉えることは十分ではないと主張するが、10万年に1度という物凄いエネルギーの蓄積を全く予測できないとは信じ難いので、これは「100%予兆を捉えることは不可能」と言っているにすぎなく、現実にはそれなりの何かが検出できないとうのはおかしい。殆ど即死と予想されるエリアは勿論、相当致命的な被害が予想される九州全域で避難するほどの大決断をすることが出来るほどの確度が求められる予知など不可能なのは分かるが、経済的なインパクトは限定的な原発を停止した方が良い程度の予知で良いのであれば、多分、90%ぐらいの精度で予測は出来るのではないかと思う。こうなると、リスクはまた1桁、小さくなったと考えて然るべきである。

話を戻せば、自動車事故に関して言えば、交通事故を無くすために自家用車を廃止し、公共交通機関を今の100倍ぐらい便利なものにし、バスや電車、地下鉄などを駆使して生活するようになれば、自動車事故の死者は百分の一、千分の一に抑えられるかも知れない。こう考えると、対策次第で如何様にでもなる交通災害を、このまま黙殺することで10万年で2000万人も死者が出る状態を放置することに、何ら危機意識を感じないという物差しが一方では存在することになる。その一方で、リスクはそれよりも大幅に小さいと予想される姶良カルデラの大噴火は見過ごすことが出来ない大きなリスクだと主張する人がいる。この感覚が私には理解できない。

大体、姶良カルデラの大噴火のリスクなどよりも、北朝鮮や中国から核ミサイルが原発に飛んでくるリスクの方が遥かに大きく現実的である。さらに言えば、原発を爆破しようするというテロの存在の方が、さらに何桁も大きなリスクのはずである。どうせ原発反対というのであれば姶良カルデラの大噴火の議論をするよりも、核関連施設へのテロ攻撃の方にエネルギーを割いた方がよっぽど説得力があると思うのだが、実際にはその様な方向では議論は進んでいない。如何にも短絡的な議論である。

では、何故このような議論になってしまうのであろうか?それは、現在、世の中には理屈抜きで「原発反対」という人と、盲目的に何とかなるさ的な楽観論で「再稼働賛成」という人がいる。特に、地震学者などは東日本大震災の教訓から、無視できないリスクに口を閉じていた過去の反省のもと、過剰に安全を求める傾向がある。多分、火山学者などは「次は、我々に白羽の矢が立った」と感じ、責任を果たそうと感じる人もいる。そんな中に、先ほどの理屈抜きに「原発反対」という人が紛れ込むと、「お前ら、本当に安全と断言できるのか?」「本当に責任を取れるのか?」などと、議論を「反原発」に誘導する方向に走ることが予想される。テレビ局が地震学者に問うたアンケートも、詳しい但し書きもなく「噴火を予知できるか?」と言われれば、多分、「出来ない」と答える人が多いだろうが、「大規模な避難を決断するための予知は不可能でも、原発を停止した方が良い程度の予知で良ければ出来るか?」と問えば、答えは大分変ってくるのだと思う。しかし、本当の丁寧な議論とは、理屈抜きで「原発反対」という人と、盲目的に何とかなるさ的な楽観論で「再稼働賛成」という人も両方を排して、理屈で合理的にリスクを評価し、定量化されたリスクが他のリスクに対して許容可能か否かの判断をし、その結果として「許容できるもの」と「許容できないもの」により分ける、そんな誰にでも納得感のある公平な議論であるはずである。しかし、今回のケースもその様な議論からはかけ離れている。定量的なリスクの比較ではなく、「絶対的なゼロではないリスクの指摘」に終始している。


いずれにしても最初に結論がありきで、「原発再稼働反対!」を導くための「怖い怖い詐欺」を続けていても、議論は平行線を辿るだけである。私の感覚では、番組内で映像が流れた原子力規制委員会の田中委員長の対応はニュートラルな立場の様に感じた。何でも「怖い怖い」と言えば良い訳ではない。しかし、洗脳キャンペーンとは恐ろしいもので、多分、盲目的に納得してしまった視聴者も多いのだろう。

相変わらず困ったものである。

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