けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

動かぬ証拠があるのに・・・(政府の情報操作の巧さ)

2012-02-29 21:34:03 | 政治
昨日のトップニュースは民間事故調査委員会が出した事故調査報告書に関するものだった。多くのニュース番組でも長い時間取り上げられ、その当時の官邸が如何に酷いものであったかを明らかにしていた。一方で注目すべき点は、この調査報告書には東電関係者の聴取がなされておらず、ここに弱点がある。悪いのは、事故対応を言い訳に聴取に応じない東電側なのだが、結果的にそれが誤った情報を発信する原因になったので触れておきたい。

この報告書の中で、ひとつだけ事故調は菅前総理を評価している。その評価とは、東電が社員を福島原発から全員撤退させようとしている話を菅前総理が聞きつけ、社長を呼んで激怒しながら「全面撤退はあり得ない、そうしたら確実に東電は潰れる」と迫ったことが、迷走していた事態を好転させるきっかけとなった・・・とした点である。呆れたことに菅前総理は、この一点についてのみ言及し、私が正しいことをしたことが評価されて嬉しいというコメントをしたそうだ。言ってみれば、100点満点のテストで1問10点の問題に対してだけ正解し、それを自慢しているかの様な対応だ。

しかし、もし東電が事情聴取に応じていたら、この報告書の中からこの記述(評価)が削除されていたであろうことは間違いない。それは、東京電力のホームページに答えがある。以下のURLを一度見て欲しい。

東京電力ホームページ 当社関連報道について(2011.9.13)
9月11日放送TBS『震災報道スペシャル 原発攻防180日間の真実』における報道について

これはTBSが放送した福島第1原発関連の特番の話で、以前から官邸が主張している「東電全面撤退説」を追認する形で作成されている。しかし、以前からも一部では取り上げられていたが、東京電力は明確に、「全面撤退」発言がなかったと主張している。特にこの反論のページでは、菅前総理が参議院予算委員会で行った2回もの答弁を引用し、(4/18発言)「社長にお出ましをいただいて話を聞きました。そしたら社長は、いやいや、別に撤退という意味ではないんだということを言われました。」、(5/2発言)「ある段階で経産大臣の方から、どうも東電がいろいろな状況で撤退を考えているようだということが私に伝えられたものですから、社長をお招きしてどうなんだと言ったら、いやいや、そういうつもりはないけれどもという話でありました。」と菅前総理自身がこの「東電全面撤退説」を否定している。これだけの動かぬ証拠があるのだから完璧な反論といえる。

この他にも、福島第1原発の吉田前所長の発言としても、作業に直接関係のない一部の社員を一時的に退避させることや、一時的に放射線量が高まった際の緊急的な対応として部下に対して[留まることを強制しない]として、必要最小限の有志の部隊で対応する決断をした話も聞いており、少なくとも現場では「いよいよ、駄目かもしれない」と覚悟を決めながらも「全面撤退」を考えてはいなかったことが明かされている。

ちなみに、菅前総理に広報担当として仕えた下村健一氏(一応、私はこの方は人間的には好きである)は元TBSのアナウンサーであり、この意味で政府からの情報提供(実際には首相官邸の必死の情報操作)にマスコミが頼りすぎ、この様な番組を作ってしまったことは残念である。テレビ朝日も同様に原発事故の検証番組や報道ステーションの中で、何故か政府側の情報を鵜呑みにしており、この様に誤った大本営発表に踊らされた大手メディアが複数みられた状況を、いつかは検証する必要があるのかも知れない。

話を戻せば、枝野前官房長官や海江田元経産相などが東電社長から直接話を聞いたかどうかまでは裏が取れていないが、少なくとも菅元総理は正確な情報を把握していたのは間違いない。だから、民間事故調の報告書で評価した菅前総理の行動は、本当は「たまたま偶然、勘違いをして恫喝をしたら、その恫喝がテレビで話題(テレビ的には「恫喝」を暗に非難するニュアンスがあった)となってしまった。しかし、それを境に事態の展開が良い方に転がったので、その恫喝の話題を逆手に取ったメディア戦略を行った」というものである。

この他にも、海水注入停止の話題の時も情報操作は酷かった。国会でも「俺はそんな指示をしていない」とシラを切ったが、関係者の証言からは常識的な日本語を理解する者であれば、それが明確な「海水注入の停止指示」と受け取らざるを得ない表現で暗黙の指示をしたことが明らかになっている。具体的には、「海水を注入して、再臨界の可能性は完全にゼロなのか?」と詰問し、専門家(斑目氏)が科学的な事象に確率ゼロは存在しない旨を伝えると、「じゃあ、詰めろ!」と指示をしたという。これは最高権力者が「海水注入を認めるには詰めるのが条件」という意味の発言をしたのだから、「詰めた」という根拠を提示するまでは海水注入は許されないと普通の人は解する。しかし、殆ど言葉遊びの世界で「明示的には指示していない」と開き直り、何故かそれがまかり通っている。しかし、その場にいた多くの人は、この「詰めろ」発言は明確に記憶していたようで、いつの日か責任追及がなされるものと信じている。

この様に、この政権(菅前総理と言うべきか)は情報操作で上手く非難をかわそうという意図が多く目に見える。多分、その他にも責められるべき問題点は多くあるだろう。だから、そのような策略に騙されず、より多くの情報を集めて真実に迫らなければならない。政府側からの情報提供に頼りすぎるマスコミは要注意である。

国会での事故の原因究明では、もっと突っ込んだ調査をして欲しい。それができなければ、野党は存在意義がない。

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【追記】
思い起こせば、内閣不信任決議の際の情報操作も素晴らしいものがあった。民主党の両院議員総会での例の演説の直前、多分、午前11時50分頃だと思うが朝日新聞か何処かのホームページに、菅前総理が辞任発表をして鉾を収めることが民主党内で合意された模様と記載されていたように記憶している。その後、昼休みになって職場の茶飲み場のテレビをつけたところ、例の演説が始まった。演説を聞きながら、字幕に「菅総理、辞任表明」と出るのを見て「辞任するなら、はっきりと明言すれば良いのに・・・」と思った記憶がある。まさに、民主党の内輪からマスコミから、彼の情報操作にまんまと引っかかった瞬間である。この政権は、その様な性癖がある、しかも常識が通じないということを忘れてはならないと言いたい。

やはり歴史問題は難しい・・・

2012-02-28 23:58:17 | 政治
先日のブログ「悪意があることを前提とせざるを得ない悲しい問題」で、悪意を前提とせざるを得ない歴史問題の難しさについて書いたが、その後も色々読みあさっている中で、自分が少々青臭い考えの持ち主だと気がついた。

最初に断っておくが、この手の問題は既に真実を明らかにしたくても証拠は限られている上、そろぞれの立場が悪意を持って相手をねじ伏せようとしている部分があるので、私が得た情報も何処まで正しいかは分からない。これで商売している学者やジャーナリストなら、徹底的に裏を取るために時間を費やすことはできるが、素人が趣味でやているブログだから当然ながら、悪意を持った人の術中にはまってしまう可能性は当然ながら否定できない。しかし、仮にそうならそこまで事態は複雑ということを意味しているから、それはそれで問題提起となる。ということで、誤りの書き込むとなる可能性を認めた上で書かせてもらう。

さて、何が青臭いかと言えば、先日のブログで書いた「悪意を持った」活動の内訳を誤解していた点である。南京事件に関して言えば、色々な記事を読んだ中で以下の「ぼやきくっくり」さんのブログが参考になった。非常に詳細に書かれているので、興味のあある方は一度目を通すことをおすすめする。

河村市長頑張れ&支那軍と支那人の特徴及び南京陥落前の大混乱

まず最初に、私が思った南京事件肯定派の人の背景にある悪意とは、「日本を叩いて金を巻き上げよう」「日本を叩いて国際的・政治的に優位に立とう」ということかと思っていた。そして、相当程度の殺戮が日本軍が加害者として行われていたということも信じていた。多分、日本軍が殺した中国人も相当数いたのは今も疑らないが、それ以外に死者がいたとは夢にも思わなかった。しかし、上記のブログの後半の方にかけて書かれているが、中国軍が膨大な数の軍人、自国民を理不尽にも殺していたことは疑いのない事実のようだ。というのは、悪名高きアイリス・チャンの「レイプ・オブ・南京」の中に、この中国軍による大量虐殺の状況が克明に書かれているのである。この手の中国軍による虐殺の記事は、これだけではなくその他の証拠も多数見つかっているようだ。日本でも、沖縄を米軍に占領される際に、日本軍が沖縄の民間人に犠牲を強いた悲しい歴史の数々が語り継がれている。中国軍の上層部が、下級の兵隊が敵前逃亡するのを恐れ、鎖につないで戦わせ、幹部クラスはさっさと逃げて南京を後にしたというが、これと似た話も沖縄戦に関連して聞くことがある。南京に入城した日本兵(今でも生き残りの証人)も、地下壕のような場所の中に足を鎖でつながれた中国兵が沢山いて驚いたという話を聞いたことがあるが、これとも整合性が取れている。どこの国も、似たような事があるものだと思う。しかし、中国軍の残虐さは桁外れのところがあるように私は読んだ。

この様な背景で見つめ直せば、中国側の悪意の背景が読み取れる。つまり、南京事件否定派が「そんな忌まわしい過去はなかったことにしたい!」と思っていることが予想されるのと同様に、中国側にとっても「なかったことにしたい忌まわしい過去」なのである。しかし、流石に戦勝国側なので、過去の中国の歴史が全て勝者の歴史であるのと同様に、勝った側の視点で自由に歴史を書き換えてしまえ!というのは至って自然な発想である。そして、被害者が1万人程度であれば「中国軍も殺戮はしてたよね?」という自国民からの突き上げも予想されるが、30万人にもなれば「石に中国軍もそこまではするまい。そんなことがあったなら、加害者は日本軍のはず・・・」ということになる。言ってみれば、自らのアリバイのためにスケープゴートを探していたところ、ちょうど良いのが日本軍だったというストーリーである。

もちろんこれだけでは、日本軍が残虐行為をしていない証拠にはならないのであるが、意外に日本軍が大人の行動をとっていた証拠の記述(欧米人の日記や手紙の類)が多く残っていて、それらを対比すると中国側の方が部が悪いように見える。もちろん、逆の立場の主張は読んでいないので、この点では公平な判断ができないことは認める。ちなみに、南京陥落の前に、誰よりも早く南京から脱出したのは蒋介石で、東京裁判で日本軍による虐殺を証言した東京裁判でベイツという人は、蒋介石政権の顧問であったというから、所謂中国側の大本営発表ということになる。上述の南京事件否定派にとって都合の良い証拠の類に対し、肯定派にとって都合の良い証拠(ただし、中立的なポジションにいることが確認できる欧米人の直接的な証拠であり、伝聞ではなく、直接的な体験と定量的な被害者数など記したもの)を出してもらい、双方でそれぞれの証拠を検証すればよい。

ちなみに、河村名古屋市長の例の「南京事件はなかった」発言は、実はその前振りがあり、その前振りを聞いても「なるほど」と感じるものがある。実は、事前に名古屋市議が中国に出向き「南京事件に対する相互の理解のギャップ」を訴え、友好親善のために意見交換をしたいと伝えていたという。先方の中国側も、「議論しても結論は変わらないだろうが、議論なら大いに結構!」と受けて立つような発言があったのであるが、それが後になって「議論などしない!」と態度を硬化させたのが例の事件である。なるほどと書いたのは、当初は南京側の担当者は、議論して相手を打ちのめすことには誰も文句は言わない(言われない)はずと読んだのだろう。しかし、それは決して受けてはいけない喧嘩と後から知って、大慌てしたのではないか・・・というのがゲスの勘ぐりである。

なお、そんな中国の勝手な思惑がどうしてここまで知れ渡ったかと言えば、戦勝国アメリカの都合であることはよく言われている。原爆や空襲で罪もない民間人を数10万人以上殺戮した以上、日本軍がそれ以上に残忍でないと都合が悪いこともあり、アメリカ側にとっても都合の良いスケープゴートでもあった。何とも運が悪いとしか言いようがない。しかし、原爆や空襲の非人道的な部分でさえ、日本はアメリカに対して大人の対応をしているのであるから、善意に基づく未来志向とは如何に美しいものか分かる。それが良いかどうかは分からないが・・・。

ついでだから慰安婦問題についても簡単に触れておくが、「ぼやきくっくり」さんの別のページに、やはり慰安婦問題も取り上げられている。

「「WiLL」慰安婦問題特集

このブログのメインは月刊「WiLL」という雑誌の「従軍慰安婦」問題の特集を紹介しているようであるが、私が興味を持ったのはその雑誌の記事以上に後半の日本の敗戦後の占領軍の話である。政治評論家の三宅久之さんが「たかじんのそこまで言って委員会」で発言した内容だそうだが、マッカーサー元帥が厚木に来てからわずか1箇月の間に、神奈川県下だけで290件もの強姦事件が起き、占領軍が慌てて日本に対して慰安施設を作れと命じて、日本人慰安婦を集めて対処したという。それでも、7年間の占領期間中に3万件の強姦事件が起きたというのだが、米軍側は「たった3万件ということは、いかに米軍の軍規が厳粛だったか・・・」と言っているそうだから、戦争に絡んだ慰安婦というのはどこの国でも共通の問題であり、非合法な強制を伴わない、適切な対価を得ての慰安婦であれば、占領された側の不要な強姦被害者と性病の蔓延を防ぐ上でも、世界中から非難される極悪非道の行為とは言い難い。良い悪いは別として、それがその当時の常識であったということである。しかも、前にもブログで書いたが、意外に彼女らは高給取りだったそうだから、どこまでを被害者と言うべきかは微妙である。

この様な歴史上の常識に対し、更に「ぼやきくっくり」さんのブログに書かれた内容が確かならば、自称被害者の大半は相当疑わしいことになる。韓国にわざわざ出向いて「裁判しましょう!費用は全額持ちますから!」と韓国人をけしかけて裁判沙汰になったいきさつもあるので、便乗派の人が相当数いるのは推察できる。しかし、多分、韓国側にも「お互い、証拠を付き合わせて議論しましょう!」と言って受けてくれる人はいないのだろう。

やはり、歴史問題は難しいと改めて感じたところである。

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「維新の会」を国会で仕切るのは誰だ?

2012-02-27 22:14:03 | 政治
先週の報道で、民主党の前原政調会長と橋下大阪市長の密談が話題となった。どうやら橋下市長は前原氏と会談を行ったことを隠すつもりもなかったようだが、前原氏から頼まれて仕方なく非公開としたようである。しかし、前原氏の方はテレビカメラが待ち構えるホテルの従業員用通路から歩いてホテルに入るというガードの甘さから、密談というには程遠いものだったようだ。

泥舟から如何にして脱出するかを模索する民主党からすれば、藁にもすがる思いで橋下頼みをしているのかも知れないが、建前上は密談となると少々意味合いが違ってくる。橋下市長からすれば、自らが国政に打って出られない条件下で、如何にして当選した維新の会メンバを国会内で統率するかを考えれば、その統率できる有能なリーダーを事前に探し出す必要がある。

例えば、大阪市の特別顧問には、日本創新党の中田宏前横浜市長、山田宏元杉並区長(日本創新党代表)などが就任しており、日本創新党と維新の会の連携が注目されている。これらの人達は、衆議院議員も経験し首長としてのリーダシップを発揮した実績がある一方で、現時点では国会議員ではなく、手垢で汚れた既成政党という位置づけではないだろう。彼らが、大阪維新の会に個人的に合流して立候補すればどうか分からないが、党首の山田宏氏は首長時代の実績が非常に高く評価される一方で、結構、コアな立場を鮮明にしていたりもしているので、維新の会と創新党の合流とは簡単にはいかないだろう。党首の山田宏氏はを避けて中田宏氏のみを一本釣りしたらどうか知らないが、一人だけ引っこ抜くのも禍根を残しそうなので、連携する場合にはあくまでも昔の日本新党と新党さきがけの関係的な状態を継続することになり、つまり統率者は別に探さなければならない。

その他、みんなの党などの方向性的に近い政党も無くはないが、合流・合併をしなければやはり統率者を期待することはできない。だから、何処かの党から何らかの事情で離党してフリーハンド状態となる国会議員を探さなければならないが、自民、公明などはある程度の規模のスケールメリットがあるので、中々、有力議員を引き抜くことはできない。一方で、民主党は消費税増税を国会の決議にかけたとたんに空中分解するのは目に見えているので、その際に野田首相率いる部隊と小沢軍団が分裂し、そのドサクサに紛れて一本釣りできる議員があれば、統率者となる可能性も出てくる。前原氏との密会は、その候補の一人として、話だけはしておこうということなのかも知れない。

実は私は当初はこの前原氏を結構評価していたところがある。民主党代表時代には、中国に対しても言うべきことを正論で言える、数少ない議員の一人だと思っていた。しかし、最近の行動をみると、少々、首を傾げたくなることが目に付くようになった。最近の話題では、産経新聞の記者を記者会見から締め出した話題である。たかだか「言うだけ番長」と揶揄されたぐらいで名誉毀損というなら、正式に文書で産経新聞に抗議をし裁判を起こせば良い。しかし、この裁判は多分勝ち目がないことは本人も分かっているから、記者会見からの締め出しと、関係者を通じての口頭での産経新聞への「文書での回答」を求めるという対応になった。産経新聞の記者からは、「文書での回答を求めるなら、正式に文書で要望して欲しい」と逆に切り込まれ、対応に追われることになった。その他にも、代表選での外国人献金問題への説明責任を十分に果たせていないこと、最近の様々な話題でもヒステリックな対応を多く示すところなど、菅前総理ほどではないが類似点を見ることもできる。これは、批判されてぼろ糞に反論する橋下市長に一見似ているように見えるが、橋下市長は言葉は下品でも論理立てた正論を常に発信していて、星一徹張りの「ちゃぶ台返し」まではしていない。しかし、今回の記者会見締め出しは明らかに禁断の「ちゃぶ台返し」そのものであり、その前から類似の傾向はあった。

小泉元総理も野党やマスコミからは色々叩かれまくったが、それでも正面から「それの何が悪い!」と言い返していた。年金未納を指摘されて、一見、開き直りとも取れるが「企業も色々ある。35年前にあったことで、何で今頃になって吊るし上げられなければならないか理解できない!」と正面切って答えたのはある種の潔さである。同様に、赤字国債枠の30兆円を超えるに至り「公約違反!」と糾弾された際にも、「公約違反といえばその通り。しかし物事には優先度がある。その優先度に照らし合わせれば、そんなことは大した事じゃない(もっと、本質的なことで戦おうじゃないか!)」と言い返した。人によっては最近の田中防衛相のトンデモ答弁と対比させる向きもあるが、実際のところは似ても似つかない「正論」を語っている。だから、リーダーとなる人にはぶち切れても正論を吐き続けられる人が求められる。

この様に考えると、中々、維新の会を仕切ってくれる条件に適合した政治家が見つからない。多分、絶対に当たることは無いと思うが、希望的な観測の超万馬券狙いで言えば石原都知事の一本釣り(所謂「立ち上がれ日本」を中心とした「石原新党」ではなく、石原都知事が平沼氏達を振り切って、維新の会に加わるという意味)という選択肢にちょっとだけ触れておきたい。生憎、石原都知事は79歳だから、総選挙のさらに4年後にはやるべきことをやった上で橋下市長に禅譲することも期待できる。だから、両雄合い立たずとはならずに済むかも知れない。現在の維新船中八策には記述はないが、国家の安全保障に関する考え方が、実は橋下市長と石原都知事で近いものがあるのではないかと個人的には推察している。

まあ、言っている自分が馬鹿馬鹿しく感じるぐらいだからありえないが、維新の会は結構な数の議席数を確保できそうなだけに、国会内でのリーダーの不在は橋下市長の悩みの種なのではないだろうか?

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政治における「共通幻想」の復活

2012-02-26 21:39:01 | 政治
大阪維新の会の人気のあおりを受けて野田内閣の支持率が下がった結果、最近では今年の解散総選挙の確率が下がってきているという。選挙の時期はともかく、所詮は近々大きな政界再編を伴う選挙があるのは間違いないのだが、民主党政権で懲りたはずの失敗も、次の選挙後の政界再編でこれまでの失敗を活かせるかは疑わしい。

何を気にしているかと言えば、次こそは本当に政治的に同一の方向を志向した政治勢力が結集できるのかということである。

例えば主要な対立軸だけでも、消費税の増税の賛成/反対、年金に関しても自民党的な自助努力型か民主党的な準横並び型か(過去のブログ「民主党案は現行年金制度よりも優れているのか?」で書いたように民主党案は殆ど積立額が増えても給付が増えない準社会主義型)、TPPに賛成か反対か、原発への反対派と賛成派(脱原発依存を含む)、選挙制度も個別の選挙区の議席の増減や全体の議席減に関連した連用性の賛成/反対、対中国・韓国へのことなかれ的な弱腰派か(正論に沿った)強硬派か、大きな政府(高福祉高負担)か小さな政府(中福祉小負担)か、普天間基地移設先として辺野古にこだわるか否か、などなど数え上げればきりがない。

少なくとも昔の自民党政権時代には、大きくはひとつの方向性を持った保守系集団が集まり、個別の議題には意見が割れたとしても党内の正規な手続きで決定された結論には従う「義務」を負うものだと理解していた。実際、郵政民営化で対立した勢力はペナルティが課せられ、党を追われることになった。昨日のブログでも「幻想」について書いたが、これまでは少なくとも同じ党内の多数決で決めた方針には従うべきという共通幻想があった。誤解しないで欲しいのであるが、「幻想」とは悪い意味で使っているのではない。「共通幻想」はある程度は生きていく上では有益なのである。時として行き過ぎると「幻想」を「真実」と信じて疑わないことがあり、そのような時に「幻想」と気づく意義について昨日のブログに書いていた。しかし、ある種の価値観や守らなければならないルールなどは、それが「幻想」であってもそれを持ち続けなければ組織としての形態を維持できない。よく「権利」と「義務」と言うが、権利を主張するためにはそれ相応の義務が伴うという常識に対し、最近は「義務を放棄する権利」により「義務」をチャラにできるという誤った幻想を持つ人たちが多く現れた。民主党内にもその様な人たちが多い。この様な誤った幻想は時として簡単に人に伝染する。そして、野党の政治家の中にも言ったもん勝ち的な思考が蔓延しつつある。だから、その誤った幻想を正し、人としての「掟」としての「幻想」を取り戻す必要がある。しかし、一度開いてしまったパンドラの箱は本当に元に戻せるのであろうか?

思い起こせば民主党は、反自民・政権交代というお題目で結集した無理筋の集団なので、政治的な「共通幻想」を共有していない。だから各項目で議論するたび殆ど真逆の考え方の意見が拮抗に近い形で表れる。一旦、党内手続きを通して決断しても、同じ党内でありながら異論・反論が耐えない。みんなで渡れば赤信号も怖くないというように、その人数が一大勢力となれば何でもできると考えている。例えば、ある時点での手続きでひとつの課題に対してAという判断が選択されても、党首が変われば真逆のBという判断になるかも知れない。将来をも拘束する形での決定をしようとすると党を分裂させる対立となることから、オブラートに包んだ形で緩い決断をする。当然、決まったあともゴタゴタは続く。これでは物事は決まらない。そして、もうひとつの「政治とは数だ!」という一部の勢力のみが持つ共通幻想も存在しているから、党内の議論よりも権力闘争を優先する。

これだけ不毛な時代が続いたあとの次なる政権には、この様な問題を解決し、決定すべきことを決定できる体制となることが期待される。つまり、政治志向の揃った常識を備えた(ないしは共通幻想を持った)政治集団に結集してもらわなければならない。大阪維新の会はその性格から「共通幻想」を期待することができるかも知れないが、如何せん、参議院での議席数がゼロである。現状では、どの政党が第1党になっても、衆議院と参議院の両方で過半数を抑えるためにはそれなりの妥協が必要となる。このように考えると、数多くの対立軸を乗り越えるためには、ひょっとしたら来年の衆参ダブル選の方が好都合なのかも知れないとも思えてくる。しかし、そこまで世の中は待ってくれないだろう。

まだまだ、方程式は解けそうもない。

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幻想と「恋愛・出産のデノミ」

2012-02-25 21:38:18 | 政治
学生時代に岸田秀の「幻想を語る」という本を読んだことがある。教養部時代の何かの授業で先生から「1冊本を選び、受講しているほかの人に内容を紹介(プレゼン)しなさい」というテーマが与えられ、その一例として先生が挙げていた本である。読んでみて非常に明快で面白く、今でも人生の教訓の様に感じている。

毎度であるが非常に雑な紹介をしておくと、この著者の岸田氏は、世の中には「幻想」が溢れていて、身の回りにある「常識」の殆どは「幻想」であり、逆に言えば「常識」を「幻想ではないか?」と疑ってかかることで見えてくる何かがあるということを言っている。わかりやすい例で言えば、フェティシズム(通称、フェチ)とは性的倒錯であり精神医学的の扱う対象(病気?)として捉えられているが、本来の人が性的な興奮を受けるのは直接的な快楽(物理的な刺激)ないしはその快楽を想像させる直接的な情報(裸の写真やAV等)であるべきなのに、女性の靴下などに異様な興奮を示す現象というのは、快楽とは一切相関のない靴下に何らかの幻想を抱くからである。この様な幻想は、フェティシズムという一見特殊な人に特有のことではなく、幻想の対象は様々に異なるが、誰もが様々な幻想を抱いていてそれに気がつかない・・・ということを説いている。彼はそもそも精神分析学者であるのだが、例えば自分の子供を愛せないということで悩んで訪ねてくる患者に対して、「人間は、自分の子供を愛するのが当然」ということが幻想であることを説明し、動物界などではそれが寧ろ普通であるなどという情報を提供すると、子供を愛せないことで苦しむ母親を救えるという例もあるそうだ。この様に、世の中には幻想が溢れているのだが、その「幻想」が複数の人が集まったコミュニティの中で「共通幻想」となり得ると、それがいつしか「常識」と変わっていく。そしてその「共通幻想」は、誰もが根底を疑ってかかると説明がつかない故に非常に気味が悪い中で、「共通幻想」として安定化することで非常に心地よい世界が生まれてくる。しかし、時として「これは幻想ではないか?」と疑ってかかることも必要な場合があるのも事実である。

実は私は、十日ほど前から少しモヤモヤした気持ちが続いていた。黒木メイサと赤西仁のデキ婚の報道を聞いての反応である。別に私は黒木メイサのファンではないのだが、どうしてあれだけの人たちがデキ婚に走るのかが疑問だった。私の頭の中では、デキ婚とは3パターンに別れていて、貧困で結婚などできないと感じている人たちが「思い切って結婚するためのきっかけ」となるケース、結婚したい女性が結婚したくない男性を結婚に引き込むための戦略のケース、結婚したくない男女が成り行きで妊娠して中絶が嫌で結婚するケース、のいずれかだと思っていた。しかし、彼女らのケースはいずれでもない。何でちゃんと手続き(結婚)してから子供を作らないのか・・・と疑問だった。もちろん、CMやテレビ、映画、音楽業界などの関係者のビジネスに直結する話だから、何の準備も与えずに「事後報告、よろしく!」と開き直られたら困るので、その様な視点から無責任の謗りを受けるのは仕方ない。しかし、その様な常識的な考え方とは違う考え方が台頭し、時代が変わりつつあることを暗示した出来事なのかも知れないと考えるようになってきた。

というのは、直接的には関係ないが、昨日の夜中に放送された「朝まで生テレビ」の中で少子化の問題が部分的に議論され、出生率1.3を2まで改善するためには、結婚という制度自体を破壊しなければならないのかも知れないと感じた。夏野剛氏が断言してハッとしたが、今までは出生率1.3というのは「マズイ状態」ではあるが、枝野前官房長官のお得意の「直ちに危険な状態ではない」的な理解の仕方をしていた。しかし本当は、「出生率1.3が続けば国が滅びる!」ことに目を向けなければならない。同じく出演者の東浩紀が指摘していたが、「『結婚』や『家制度』など、日本に長く信じられていた制度を捨てたら『国が滅ぶ』的なことを言う人がいるが、もはや事態は全く逆になっている。『結婚という制度』を前提としては国が持たない(出生率1.3は改善できない)。もはや『結婚という制度』取るか『国の発展(存続)』を取るか、二者択一だ!」という現状を我々は受け止めなければならないのかも知れない。

と言うのも、出生率危機を乗り越えて現在は出生率2.0以上を達成したフランスなどでは、結婚せずに子供を産む率が50%を超えているという。しかも、一人目を結婚せずに産んだ後で、すったっもんだの挙句に最後は結婚に至るという夫婦が多いともいう。国ごとに事情が異なるから、必ずしも日本でどうなのかは分からないが、この様な選択肢を高齢の方々を中心に大半の方が全く検討に値しないというのはやはりまずい。

これはもしや「幻想」ではないか?という疑念が私の頭の中に芽生えてきた。「デノミ」という制度は、国民の「幻想」「錯覚」を逆手に取る経済政策であり、全ての人が論理的に行動したら絶対に成功するはずのない政策である。しかし、それでも選択肢のひとつとして利用されているのは、その「幻想」「錯覚」が時として人の経済活動を活性化させる可能性があるからである。「結婚」という制度を見直すということは、ひょっとしたら「恋愛・出産のデノミ」的な効果として出産のハードルを引き下げることになるのかも知れない。

それが「モラルハザード」なのか「日本の活性化(出生率大幅増)」なのかは私には分からない。細かい理論付、検証などは専門家がやるのであろうが、この様な不連続性への挑戦もこの国には必要になってしまっている様な気がした。

そして更に言えば、実は多くの若者の考え方は既にその先(専門家の先)を走っていて、「結婚」という制度と「出産」というイベントは既に相関が小さくなっていて、その順番などあまり重要ではないという考え方が定着してきた結果がデキ婚の増加なのかと感じた。黒木メイサほどの失うものが多い女優さんでも、既に我々古典的な世代の周回先を走っているのではないかと思う。こう考えて、不思議とモヤモヤが晴れてきたのが我ながら面白かった。

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悪意があることを前提とせざるを得ない悲しい問題

2012-02-23 22:07:28 | 政治
名古屋市の河村市長の南京事件発言がまた話題となっている。

南京大虐殺にしても慰安婦問題にしてもそうだが、歴史問題についての解決の難しさは、その問題のPlayerが全て何らかのバイアスがかかりまくった人達で構成されている点にある。バイアスというのは、例えば、南京大虐殺の否定派であれば「そんな忌まわしい過去などなかったことにしたい」という背景があるし、肯定派であれば「それを政治利用し、その結果として何らかの利益を得たい」という下心が見えていることをいう。一方で議論に関与しない多くの人は、あまり騒ぎ立てずに歴史の中で記憶が薄れることを期待しているところもあり、三者三様の思惑が時間の浪費と問題の複雑さを増すことに至っている。

まず、私のスタンスであるが、一方的な否定派でもなければ肯定派でもなく、あくまでも証拠に基づいて真相を究明すべきであるという立場である。また当てずっぽうで言わせて貰えば、実際の犠牲者は中国側の主張する30万人よりは一桁以上少なく、その多くはゲリラ兵などの非正規戦闘員が多かったのではないかと予想する。さらには、民間人に対する虐殺や強姦もあっただろうが、当時の世界中の戦場(モラルの低下した環境)での平均的な被害程度からは桁外れに残虐ではなかったとも予想する(多分に希望的な観測が含まれることは認める)。ついでに、この立場に立った上で、村山談話も妥当であると評価する。

ところでWikipediaで「南京大虐殺論争」を引けば、比較的、中立の立場から両論併記がなされている。この記述を読んだだけでも、多分、中国側を中心とする被害者30万人という説は少なく見積もっても相当な鯖を読んだ誇張であることは容易に読み取れる。そもそも事件前の南京の人口が20万人で、南京陥落後3ヶ月の人口が25万人で、その中間に位置する時期に30万人が殺されたとすること自体に???がついて回るのだが、それにも色々と言い訳がついて肯定派も30万人の数を引き下げることなく有耶無耶にされたままだ。この結果、南京にある「南京大虐殺紀念館」の入り口には堂々と「犠牲者30万人」と書かれている。

もちろん、どう考えても虐殺がひとりもいなかったと考えるのは不自然であり、少なからず、それなりの犠牲者がいたのは事実であろう。否定派の人達でも、言葉の綾で「南京事件はなかった」と言うが、それは犠牲者がゼロであることを意味してはいないだろう。多分、戦争の歴史の中で、特筆すべき事件とするほどの被害ではなかったという立場(だから「俺たちは責められる筋合いはない」という開き直りは、私には到底許容できないが)から、中国側の「犠牲者30万人」という様な「事件」はなかったと言っているのが殆どだと思う。今回の河村名古屋市長の発言も、この延長線上だろう。

村山談話などでも、具体的な事件や定量的な犠牲者数を限定しない範囲で、その罪を認め謝罪するに至った。この立場は現在も踏襲されている。しかし、それは中国の主張する30万人の被害者を肯定するかといえば、そうではない。そこまで踏み込んではいない。そこまで踏み込むと、謝罪が謝罪として成り立たないから、敢えて定量化せずに両国の良心を前提とした落としどころを模索したのであろう。

一方で、中国側が悪意を持って意図的に犠牲者を水増ししようとしていた事実は、様々な動かしがたい証拠から明らかになっている。例えばテレビでも取り上げられて話題になったが、「南京事件『証拠写真』を検証する」という本では入手できた143枚の写真を検証したところ、全てに対して捏造の証拠を確認できたとしている。今ではネットで検索すれば、143枚全ての写真情報が見て取れる。この本に対する反論は、「何万枚とある写真の一部に捏造があったからと言って『事件はなかった』と何故言えるのか!」というものが多いが、(本に何とかいてあるかは知らないが)著者もテレビで「この事実は南京事件がなかったことを証明するためのものではない」というような内容を答えていたように、その反論はこの本の問題提起を正面から突いた物ではない。つまり、その著者が否定派の人であり思想的にそちらのバイアスがかかっていることは事実だが、この本が問題提起しているのは、「何らかの勢力が南京事件を政治利用しようとして、証拠でもない写真を悪意を持って証拠に仕立てようと活動をしていたことがある事実」があることを証明した点にある。これらの写真の他にも、欧米の南京事件の肯定派学者のことを調べてみたら、中国から相当な援助を受けていたとか、プロパガンダとして中国が国際的な活動を行なっていた証拠も見つかっているようだ。

つまり、この種の歴史問題を議論する際には、性善説に立った議論は既に破綻しており、この様な悪意を持った人達が肯定派、否定派の双方に陣取っているという前提で物事を判断しなければならないのである。もちろん公平に言えば、否定派の中にも悪意を持って活動している人もいるのだろう。それは否定しない。しかし、南京事件に対する中国側の立場は、肯定派の中でも極端に被害を過大評価する者の主張の上に立っているという事実も合わせて認めなければならない。

南京事件を語るときに、その「残虐性」「違法性」が桁違いに酷いというのが問題となっているわけだが、イメージ先行の中で我々は「犠牲者の多くが罪もない一般民間人」という感覚を持ってしまう。私も当初はその様に思っていた。しかし、それが事実かどうかという点でも議論は不十分である。例えば、上述の「ゲリラ兵」的な非正規の軍人に関しては、国際法上も正規の軍人に対して求めれる人道上の配慮とは一線を画した対応を認めている。ゲリラ兵は見つけ次第銃殺という対応は、通常の戦地であれば一般的な対応であったのだろう。スティーブ・マックイーン主演の「大脱走」という映画でも、大脱走からの逃走時の服の下に捕虜を証明する名盤と軍服の徽章類を身に付けていたことから、ゲリラやスパイと正規兵が異なる扱いを受けて当然の風潮は読み取れる。しかし、当時の中国軍は日本軍に破れて総崩れ状態にあり、南京陥落時には軍服もまともに身に付けていない少年兵が大量にいたそうだから、相当数がゲリラ兵と見なされて処刑されたのは容易に予想できる。日本でも、B29の爆撃を受けながら本土決戦を意識して「竹槍を持ってでも、米兵と戦え!」と言われていたぐらいだから、中国でもそれなりの数の非正規の戦闘員がいたとしても不思議ではない。「数千人規模で、ゲリラ兵とおぼしき人を十分な精査なく処刑した」ことを認めることに対してであれは、多分、(被害者の人数という点で意見は多少分かれても)賛成派、否定派が分かれて争うほど複雑な事態にはならないだろう。しかし、「罪もない一般市民が十万人規模で殺された」と言われると、ちゃんと精査して判断しよう!と言いたくなるのは当然である。

平和な日本、完全に法の支配の確立した沖縄ですら、米兵が民間日本人をレイプするぐらいであるから、それよりもモラルの低い戦場では強姦は少なからずあったのだろう。実際、第2次世界大戦後も、様々な国の軍隊が駐留先で民間人を強姦し、その結果生まれた子供達が社会問題化している例は時折見られる。しかし、軍人に加えて10万人もの罪のない民間人を虐殺したのが事実なら、それほどの完全なモラルハザード状態の南京で、強姦で生まれた子供達が話題とならない程に少ないというのは考え難い。

素人が議論するには限界があるが、それでも悪意を持ったプロパガンダを声高に叫ぶ国々に対し、ちょっとばかし異を唱えた日本の政治家(一般化して国民というべきかも)をつるし上げるような対応はして欲しくない。もう少し前向きな対応を相手側に促すぐらいの対応をしてもらいたいものだ。

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マスコミも政府もやるべきことがある

2012-02-21 20:41:46 | 政治
今日はまず最初に喜ばしいニュースに出会えた。昨日のブログにも書いた光市母子殺害事件の遺族の本村さんが、2009年に再婚していたと言う。記者会見で本村さんは。「2009年に籍を入れさせていただきました。1人で生活し、いろいろと精神的に参っていた私を、支えていただける方と出会うことができました」と語ったと言う。You Tube上で記者会見の様子が見れるので、その中の一番最後の部分を紹介しておく。

You Tube「遺族本村洋さん会見ノーカット12/12 最高裁判決で(12/02/20)

まだ記者会見の全てを見ているわけではないが、全体で1時間にも及ぶ質問に丁寧に答えていたそうである。非常に丁寧な言葉で対応していた。これまで「全国犯罪被害者の会」の幹事として精力的に活動し、高校などでも講義を行なっていた様子がテレビでも流れていた。最近は自分の生活の立て直しのために講演は休止しているという。一時は絶望の淵を歩いていた青年が、やっと平常で幸せな生活に戻りつつあるのかと思うと、他人ながらも目に涙が溢れそうな状況でブログを書いている。ありきたりなつまらない表現だが、「おめでとう、お幸せに」という言葉をおふたりに贈りたい。

さて、せっかくここまで書いてきたので、少し報道の話を続けて書いてみようと思う。

以前、東日本大震災の後に福島原発が暴走し、原子力安全保安院の審議官が「メルトダウン」について言及した後、枝野前官房長官が必至で火消しに走った。「誤った情報に惑わされてはいけない」とか、報道内容を嗜める発言もあり、結果的に正しい情報の隠蔽を行ったこととなった。多分、この問題は後々のために議論されるべき問題だと思う。ジャーナリストの田原総一郎氏も、「枝野(前官房長官)に、『何故、あんなことを言ったのか?』と問い詰めたが、返ってきた言葉は、『政府としては、未確認の情報を認めることはできない。あくまでも、確認できた内容しか発表できなかった』ということだった。」と述べていた。

まず、私のスタンスはこうである。当時の政府は、リスクを考えて早急に避難体制を組むべきであった。3/11中には政府でバスを調達して半径10km程度の避難を行い、翌日早朝の危険な状況を考慮して、翌日の3/12には半径50km程度まで避難区域を広げるべきであった。その後、SPEEDEIなどのデータを元に徐々に避難区域を狭めていくべきだったと考える。ただ、素人なのであくまでも裏づけのない感覚的な話である。この世界で飯を食っている訳ではないので無責任はご容赦を。
一方、政府の対応であるが、あの時の状況をどう捉えるかによって、判断が分かれてくる。確かに水素爆発という事態は予想外だったのかも知れないが、実際に原子炉が暴走して爆発寸前になるまでには若干の時間がある。その時間を使えば、十分にパニックを起こさずに避難できると判断したならば、その兆候が現れる前には避難指示を出さないでおくというのは、(私は間違っていると信じるが)ひとつの判断である。多分、将来的な補償問題などに影響を与えるから、なるべく規模を小さく抑えたいという欲が働いたのだろう。これは、制度からくる体質だと言うべきであろうか。公か私的な関係にかかわらず、日本人は責任を有耶無耶にしたがるという傾向がある。薬害エイズやB型肝炎などなどその最たるものだが、役人は「無作為の責任はきっと問われないに違いない・・・」と頑なに信じている。危険を察知して早期の避難指示を出さなかったら、その後の被害者から個人的な責任追及をされ牢屋に入るかも知れない・・・と思ったら、行動は明らかに変るはずである。しかし、実際はその様な制度にはなっておらず、国民から集めた税金を無駄遣いできないという言い訳もあり、国民本位の対応をしようとは考えない。だから、無責任この上ないのは事実であるが、この様な前提に立てば、枝野前官房長官がこの様に発言せざるを得なかった理由は十分に理解できる(何故そう考えたかを理解できるが、決してそれを正しいとは思わないという意味)。長い歴史の中でその様な慣例が定着している以上、それを打ち破れるのは多分、総理大臣の決断なのだと思う。しかし、残念ながらその様な決断力のある総理ではなかった。総理が必ずしも有能ではないことが分かった現在では、裁判などで政府の「不作為の責任」を追及する実績を着実に上げて、慣例自体の外堀を埋めていくのが重要なのだろう。

この様に、良いか悪いかは別として、政府が情報操作を行おうとするのは理解できる。ではマスコミはどうだったのか?実際には完全に政府の言いなりになり、その手の報道は下火になった。もちろん、「危ない、危ない」とは叫ぶジャーナリストはいたが、単なる自己満足的なお祭りで終わっていた。つまり、取材を重ね、定量的にどの程度危険で、何をしなければならないかを具体的に示すわけではなかった。SPEEDIがなくても気象庁の風向き情報から、どちらの方角が危険かは予測がついただろうし、雨が降ればそこに放射性物質が降下することは予測できる。その地域に放射線測定器を持ち込んで調査すれば、飯館村の人々がどの様に危険だったかは政府が重い腰を上げるよりも前に予測できたはずだ。しかし、その様なこともマスコミはしなかった。「危ない、危ない」と騒げば、それで自分の責任は果たせたと思い込んでいる節がある。

政府の発表は、明らかに大本営発表的な内容で、全てが信用できる訳ではない。しかし一方で、「逆」大本営発表的な報道も信用できない。つまり、「危ない、危ない」と悪戯にネガティブな情報を誇張する報道である。例えば、0.001%の確率で危険だが、その危険を回避しようとすると数千億の損失が発生し、国民にそのツケが回ってくるとした場合、果たしてそのリスクを回避すべきかと言えば答えはNoである。一瞬で確率が0.001%から90%に跳ね上がるのが常識なら別であるが、通常は緩やかに確率は変化する。次なる大地震が来れば一瞬で事態が変るかも知れないが、それを言い出したら福島以外の全国の原発立地地域も同様である。それを、如何にも「直面する危機」とミスリードを誘う報道はフェアとはいえない。確かに、この様な極端な専門家の発言を書くと新聞や週刊誌も売れるだろうし、テレビの視聴率や注目を集めて美味しい話である。しかし、だから、専門家の発言を引用するにも、リスクと損失のバランスを考慮しないで行う発表は無責任だと言わざるを得ない。この様なリスクと費用のバランスを考えるならば、例えば福島原発の吉田前所長が主張したように、福島第一原発の海側に次なる地震の津波に備える防波堤を早急に作るべし!などと言った提言の方が有益である。ないしは、4号機使用済み核燃料プールが崩壊して水が抜けたときの冷却のための放水設備を今のうちに作っておくというのもあるかも知れない。しかし、その様なことを言っても、雑誌は売れないだろうし、視聴率も取れないだろう。

今回の事態は、感覚的にどの程度危険なのかを素人が判断できるものではなかった。専門家でも、大きく意見の分かれるところだったかも知れない。一億総懺悔をしても意味はないが、マスコミは震災後1年を経過するタイミングを目処に、「今から振り返ってみれば、どの様な報道をすべきだったと考えるか?」を問い直す良い機会なのだと思う。そして、ついでに政府に対しても、「この様な対処をすべきだった」とか、「総理大臣はこの様な判断をすべきだった。その際の損失はこれくらいで、リスクと損失のバランス的にそれが妥当である。」というぐらいの試算を突きつけてはどうだろうか。その様な振り返りが是非とも必要であると思う。

東日本大震災は非常に不幸な事件であったが、死んだ人が浮かばれるためにも、活かせる事は全て活かす気持ちが重要である。

【余談】
話が逸れて恐縮だが、あるジャーナリストの責任感を思い知った事件があった。多分、今から20年以上昔だが、多くの企業がバブルの崩壊で大損したが、野村證券などの証券会社が上得意の一部の企業に限定して損失補填した事件があった。その補填先の中にTBSがあり、報道機関のトップとしてその責任を問う声があった。その当時、TBSでは日曜夕方に「JNN報道特集」というお堅い番組があり、そのキャスターも如何にも人当たりが悪そうな堅物が多かった。そのTBS社員の堀宏さんというキャスターが、その番組の終わりに急に顔色を変えて、意を決して「TBS社長の辞任要求」をしたのである。多分、生放送だったのだと思う。その発言はそのまま放送で流れ、最終的に社長は責任を取る形になったのだと記憶している。「クビ」をかけてでも、ジャーナリストの責任感として言わざるを得ないことを言い切った例だと思った。身震いするほど感動した。ジャーナリストには、そのように良心が求められる。それは、政府や国会議員と同様、ないしはそれ以上の厳しさであるべきである。

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まさに「Dead Man Walking」・・・

2012-02-20 22:38:46 | 政治
今日、光市母子殺害事件の最高裁判決が下った。前回の差し戻し審で死刑判決が出ていたので、差し戻しした最高裁が追認するのは当然の結果であり、これで実効上の死刑が確定し裁判が終結となる。

以前、被害者の夫であり父である本村さんの闘いを綴った「なぜ君は絶望と闘えたのか―本村洋の3300日」(門田 隆将著、新潮文庫)という本を読んだことがある。図書館から借りてきて、たった1日で全部読みきってしまった。殆ど読みながら、目から涙がこみ上げてきて、中々先を読めなかったことも覚えている。本を読めば、如何に本村さんが苦しみ、怒り、絶望の中で戦ってきたかが良く分かる。別の事件である女子高生コンクリート詰め殺人事件でも、少年であるが故に相対的に軽い刑期で出所した犯人がその後も再犯し、過去の犯罪に対する反省の念が全くないことが明らかになっていたが、少年であるということと更生可能であるということは相関が低く、やはり年齢以上に個人個人の性格によるところが大きい。光市母子殺害事件の犯人も全く同様で、犯人が友人に宛てた獄中からのあまりにも卑劣な手紙が暴露され、結局、情状酌量の余地がないことの証拠となった。

この裁判のニュースを見るたびに私が印象的だったのは、裁判後の記者会見で感想を述べる本村さんの発言内容であった。彼の言葉は非常に理路整然としており、まるで完璧なまでに推敲された文章を読み上げるかの如く、一言一言、説得力のある発言だった。変な言い方だが、御伽噺を聞くかのように、心に沁み入る言葉であった。一方これと対比されるのは、差し戻し審以降の弁護士の裁判後の記者会見の言葉である。もちろん、凶悪犯を弁護するからといってそれだけで弁護士が非難されるべきものではなく、自分に与えられた仕事を誠実に履行しているのであれば、むしろ同情の余地さえある。しかし、前回の差し戻し審判決後の弁護士の言葉は、本村さんの理路整然とした言葉とは全く対照的であり、全くもって説得力の欠片もなく、ただただ被害者の心の傷に塩を塗りこむかのごとく、弁護士の人間性にすら疑問を抱かざるを得ない内容だった。多分、あの弁護士達は気づいているに違いない。その説得力の格差を。

本村さんの行動を見ていると、その信念の強さに感銘を受ける。もともと健康に不安を抱えた彼だから、多分、命を削る思いでこの裁判に臨んだのだろう。自分の命が尽きようとも、あの犯人と刺し違えても、愛する妻と子供の敵を討ってやろうという覚悟は凄まじいものがある。あれだけの才能を、あれだけのエネルギーを、この様な形で使わなければならないことが残念でならない。この裁判をこれで終えて、その後の彼の人生がどの様になるのかを周りの人は温かく見守ってやって欲しい。大きな目標を達成し、急に力が抜けて廃人の様になってしまわないかが心配である。

多分、彼は望まないだろうが、彼の様な人こそ、今の政治に求められる人材なのだと思う。彼の様に強い信念と、理路整然とした判断能力が、政治家には必要不可欠である。彼が新たな目標として政治家を目指すことはないだろうが、あの彼のエネルギーを社会の中で有益な形で活用できることを祈って止まない。

余談であるが、先日の報道ステーションSundayでも、交通事故の「危険運転致死傷罪」に関するハードルの高さが問題となっていた。昨年名古屋で起きたひき逃げ事件の犯人は、無免許で、膨大な量の飲酒をし、その直前に事故を起こして一方通行を逆走して逃走し、その逃走途中でひき逃げ死亡事故を起こしたのにも係わらず、検察もテレビ出演していた有識者も「危険運転致死傷罪」の適用は困難との判断を下していた。同じくテレビ出演していた国会議員は、この様になってしまったのは国会議員の怠慢によると自らも反省の弁を語っていた。犯罪や事故の被害者の声は、中々、政治の場には届き難い。どうしても、被害者の権利よりも加害者の権利が優先される世界である。「たら、れば」の議論であるが、もし仮に「危険運転致死傷罪」を国会で議論している最中に、今回の名古屋の事例を引き合いに出して政治家に問うことができたならば、全ての議員が「『危険運転致死傷罪』を適用すべき」「適用できるように、法律の記述を定めるべき」と答えたのではなかろうか?しかし、現実の明文化された法律の文言は、そこまでをカバーする記述とはなっていない。逆の場合もあるだろうが、国会議員には想像力も必要であることを示す良い例ではないかと思う。

このブログを書きながら、最新の情報をネットで探したところ、産経新聞の中で前回の差し戻し審で死刑判決が出た後、犯人が死に直面し、自分の罪の重さを噛み締めている状況が報じられていた。まさに、1995年の映画「Dead Man Walking」を思わせるストーリーだ。映画の中での犯人も、死刑執行が目前に迫り本当の意味での死を見つめて、初めて人の心を取り戻すことができた。

今後も犯罪はなくならないだろうし、今回の裁判が今後の犯罪予防に役立つことはないだろう。しかし、犯罪被害者に勇気を与える判決であることは間違いない。

亡くなられたふたりの尊い命に対し、ご冥福を祈る。

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負け犬の遠吠えと知った上で

2012-02-18 23:26:07 | 政治
昨日、小沢一郎元民主党代表の第14回公判が行われ、3人の秘書の供述調書の大部分が証拠採用されないことに決まった。

産経新聞のホームページでは、注目を集める裁判の詳細を報道しているので、一体何が議論されたのかが良くわかる。テレビやその他の新聞では、かなり途中を省略した内容なので、本当のところでは何が起きていたのかも解りにくい。毎回裁判のたびに詳細が報道されているので、何回目かは忘れたが昨年末の公判でのやりとりから、証拠の大部分が採用されないであろうことは察しが付いた。昨日の後半の後での取材に指定弁護士も、言ってみれば想定内的な発言をしていたのは単なる強がりではなく、本音のところなのだと思う。

しかし、検察、しかも天下の東京地検特捜部がこれほど地に落ちていたのかと思うと心底腑に落ちない。少なくともトカゲのしっぽ切りとなる秘書の首を取りに行くなら油断もするだろうが、ありとあらゆる手段で親分を守りに入ることは目に見えていたのだから、秘書たちが任意の取り調べてボイスレコーダを持ち込むことなど余裕で予想が付くはずだし、裁判となれば大物弁護士が「証拠の信憑性」や「捜査の違法性」などを付いてくるのは常套手段なので、当然ながらそれに対する防御線を張っているはずである。米国であれば、O.J.シンプソン事件などでも正攻法のがぶり四つの裁判を避けて、ゲリラ戦、空中戦的に、本題とは関係ないところでの争いが裁判の行方を左右している。天下の東京地検特捜部がそんなことを考えずに行動するはずはないのだが、ポカをしているのが一人ではなく複数なのだから不思議だ。

しかし、どう不思議がっても事実は事実であり、今回の裁判結果に関係なく、政治家vs検察の図式において、今後は検察が非常に重いハンディを背負わされることになるのは間違いない。きっと、これから先20年ぐらいは主要閣僚、大政党の3役や闇将軍的な存在の政治家を裁判にかけることはできなくなったのではないかとすら思う。今回のポカをした検事の(あくまでも道義的な)罪は重い。小沢被告の無罪確率は90%以上と報道では言われているが、多分、その通りなのだと思う。

法治国家であるのだから、無罪となった人間に対してとやかく言っても仕方がないので今のうちに言っておく。これではますます政治家が「全ては秘書の責任」「秘書に任せていたので私は知らない」と言い訳することを許すことになってしまう。政治家は秘書たちに、「やばい話は報告するな。報告せずに、それとなく感ずかせるように工夫しろ!」と言い、細かい指示は直接的ではなく間接的に行うようにして、刑務所の塀の上を歩いても最後の最後で塀の外側に落ちるようにする。更には、通常の政治家であればここまでされれば権威も地に落ちて、周りから取り巻きの人が去りそうなものだが、数の力を借りて権威を示し続ければ、「この人を守り抜けば、その先に道が開ける」と秘書も逃げずに守ろうとしてくれるのだろう。もちろん、それなりに人間的な魅力も必要なのだろうが。

しかし、今回の裁判の産経新聞の報道をよく読んでいると、「秘書は子供のようなもので本当に信頼していた」とか、政治資金収支報告書は「見たことがない」、土地購入の経緯も「知らない」など、小沢被告が何ふり構わずありとあらゆる有罪となるかも知れないリンクを早めに切っておこうという作戦に出ているのが目に付く。これまでの報道でも、土地取得の経緯が2転3転していたり、鉄壁の守りとは言い難い。収支報告書の宣誓書の署名を元秘書らが代筆していたことも認めており、これらのことが別の案件として有罪に成り得るのではないかとすら思ってしまう。もちろん、完璧な証拠がある一方で、軽微な不起訴相当の案件として扱われる可能性は高いのであろうが・・・。

ここまで来ると、殆ど負け犬の遠吠えであるが、裁判官の心象としても明らかに今回の「知らぬ存ぜぬ」はやりすぎであり、故意に無罪となるための予防線を日頃から張り巡らし、秘書の取り調べ時の発言に対しても暗黙の影響力を与えた可能性が高いと感じさせるのに十分である。その様な中で、一点だけ池田元秘書が小沢被告の了承を得たという調書が採用されている。小沢被告がそこまでしても、漏れてきた証拠があるとすれば、真実は小沢被告が全てを把握していたと結論づけられる・・・と判断するかもしれない。

まあ、負け犬の遠吠えだろうから、この辺で止めておこう。

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時間と空間の壁を取り払えば・・・(橋下市長と久保田君のために)

2012-02-17 23:26:22 | 政治
今朝の産経新聞の「産経抄」を読んで思ったことがある。

「産経抄」の記事の最初の書き出しは、静岡県島田市のがれき処理の受け入れの話題から始まった。この話題については、過去のブログ「放射線を正しく怖がる方法(前編)」でも書いたが、一般市民においても「過剰に放射線を怖がる権利」というものは許されないのである。つまり、「自動車は走る凶器だから、全ての自動車に時速10km/h以下を義務づけろ!」というような類の主張には、石原都知事のごとく「黙れ!と言えばいい」の対応で良いと思っている。もちろん、彼らの主張を無視するのではなく、彼らの主張に対して最低限の誠意として、大本営発表としての安全性とは別に、信頼できる第三者機関による安全性の検証ができる体制を確保することが大切だと思う。多くの市民が納得できる方法を確立できれば、全国の自治体が一斉にがれき処理に協力できるようになるので、その様な提案がなされるのを待つのみである。

さて、今日書きたいのはその後に書かれていた話題である。大阪の高校生が橋下市長に手紙を送り、それに橋下市長が応えたという話題である。ご存知の方もいると思うが、その高校生(久保田君)は難病を患い、中学時代から入退院を繰り返していたそうだ。中学時代に長期入院した時には、病院内の院内学級で勉強をすることができた。その後退院したが、昨年9月、また入院することになった。しかし、義務教育でない高校の場合には院内学級がなかったという。友人の協力を受けながら、自力で勉強しながら何とか授業についていったそうだが、「高校生が入院したときに、勉強の遅れで不安にならないような制度をつくってほしい」との訴えを橋下市長にメールで送ったそうである。それに橋下市長が心打たれて、「僕ら政治家は大きな話をしたがるが、久保田君一人を救えないなら政治なんかいらない」と対応を確約したのだと言う。

そこで提案である。この様な難病の学生の数は個々の病院には少数である。そのための院内学級を全ての病院で充実させるのは非現実的である。しかし、技術はできないことを簡単に可能に変えることができる。例えば、大阪府庁や教育委員会などの何処かに教師を配置し、そこで授業をやるのである。その動画映像をIPマルチキャストで配信し、生徒は病院の何処かの部屋で授業を受けるのである。IPマルチキャストは片方向の通信であるが、1地点から多地点に簡易に配信することができる。その映像を生徒がパソコンで見るのである。ノートPCなら2Mbit/s程度のレートで十分に綺麗に映すことができるし、テレビの画面であっても、動きが少なければ4Mbit/sで十分だろう。病院内にも、特定の病室(ないしは会議室?)にはパソコンを利用するためのネットワークを組み、そこで利用するのである。ただ、これだけでは片方向で授業にならない。しかし、例えばSkypeなどのアプリを併用すれば、音声だけであれば簡単に多地点間通話を実現することができる。現在のSkypeの仕様でも25人までの参加(通話は同時に5人?)が可能だから、先生ひとりに生徒24人までなら収容できることになる。さらに、人数が5人までなら同時ビデオ通話も出来るので、24人の生徒を4人づつの6班に分ければ、顔を見ながらの先生と生徒で班ごとの朝礼ないし終礼もできる。当然、休み時間になれば友達同士のおしゃべりを楽しむこともできる。双方向の高精細のビデオ会議システムだと高価となるが、この程度のものであれば明日からでも安価に利用可能である。ちなみに、クラス分けは各病院側から教育委員会に「この様な学生が何人いる」と申告してもらい、適当に同一学年の学生をひとクラスあたり24人以下に編成する。そして、マルチキャストの受信設定と、クラスメートのSkypeのメンバ登録を行なったノートPCを病院側に貸与するのである。生徒は設定されたPCで簡単に授業に参加することができる。病院は生徒の健康状態に配慮して、1日の授業の受講(参加)時間を管理する。

もちろん、病院側にはそれなりの対応が必要であり、通常は病室には有線のLANが引かれていないと思う。ドコモのLTEサービスXiやWiMAXなどの無線アクセスなら有線LANがなくても簡単に対応できるが、病院内での無線機器(PCも同様)使用は場所により制限されるので、その辺をどうするかは考える必要があるかも知れない。防磁対策の施されたPCの開発が必要とあれば大掛かりになるが、簡易の電波吸収体で遮蔽するとか、考えようで何とかなることはあるはずだ。最悪の場合、時間を限定して会議室を利用して授業を受けさせてもらってもいい。仮に1日に2時間でも、皆との授業を受けることが可能にあれば、大分、気持ちの上で張り合いが出るのではないか。

蛇足ではあるが、今から4〜5年前に私は職場の友人と国内・国外(北欧)の4地点をSkypeで結び、「Skype飲み会」をやったことがある。ある仕事がひと段落し、海外出張中の友人を交えて飲み会をするために、Skypeを冗談半分で使ってみた。当時は、多地点通話は音声のみだったので、ビデオ飲み会にはならなかったが、それでも「・・・それでは、乾杯!」「俺、今、一番絞りにおつまみでカキピー食べてます」「2本目、行きまぁーす!(プシュー:缶ビールを開ける音)」・・・てな具合で楽しめた。飲んでいるうちに眠くなれば、もう、その場で寝ればよい(自宅なので)。最後は「では、そろそろお開きにして、明日からまた頑張りましょう!では、最後は関東一本締めで!(よーっ、ポン!)」と締めくくる。馬鹿と言えばお馬鹿であるが、ちょっと昔ではこんな馬鹿なことは不可能であった。しかし、今は、お金をかけずにタダでこんなこともできる。インターネットとは時間と空間の壁を取り払うことができるツールなのである。だからインターネット技術の恩恵は、健常者よりも体の不便な人の方がより便利に受けることができるのかも知れない。高齢者もしかりである。

本当は対面式の授業がベストなのは理解できる。先生が身近にいてくれたらどんなに心強いだろう。しかし、この様な出来ることから始めても良いのではないかと思う。橋下市長はこんなブログを読んでいないだろうが、本格的な院内学級が出来るまでだけでも、この様なものを利用してみては如何だろう。

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ミスリードに騙されてはいけない!(維新船中八策の読み方)

2012-02-15 22:28:31 | 政治
大阪維新の会が船中八策を明らかにしてから、それまでにじり寄っていた既成政党がドン引き状態である。民主、自民、公明の3党は思わず頭を抱えたことだろう。安住財務相などは「こうしたい、ああしたいと話すのはいいが、地に足が着いているのか?」と言ったそうだが、3年前の衆院選の時の彼らにその言葉を聞かせてやりたい。

多分、一番、既成政党の虎の尾を踏んだのは「参議院の廃止」という部分だろう。マスコミもこの点に一番食いついた。しかし、この辺の対応を見ると、論評する人の誠実さがうかがい知れるような気がする。前原政調会長などは、「一院制は良いが、参院の廃止は考え方が違う」という反応を示したようで、つまり言い換えれば「現役参議院議員が路頭に迷わなければ許容できるが、全員クビを切るなら賛成できない」というニュアンスの様に聞こえる。思わず本音が出たのかもしれないが、これほど国会議員の都合のみを考えたエゴはないだろう。

しかし、言葉として船中八策に「参院の廃止」という言葉はあるかも知れないが、マスコミが「参院の廃止をどう受け止めますか?」という質問の仕方はアンフェアである。大阪維新の会の考え方を捻じ曲げた情報伝達と言えるのではないか。私も、報道を見る限りでは正確にはどの様な表現になっているのか知らないが、私が調べた限りでは、正確には「参院を廃止し、首長の代表機関に」というニュアンスの提案だと理解した。何が違うのか?現在の参議院は衆議院のカーボンコピーで、衆院で選挙に受かれない人の受け皿という現実があり、そもそもの2院制とする趣旨からはかけ離れた存在意義が問われる状況である。昔であれば貴族員であったり、戦後は学識経験者を中心とした超専門性の高い集団であったり、衆院とは異なる特徴を持つことが前提であったと思う。であるならば、2院制を維持するならば参院には別の意義を持たせなければならない。地方分権と国政の整合性を取るために、全国の知事(政令指定都市の首長も可?)を国会議員として兼務させ、衆院での決議に対して地方と国政の整合性を審査するための組織として位置づける(参議院ver2?)と解すれば「なるほど」と理解を示す人も多いのではないか。それを、情報を途中でぶった斬り、「参院廃止」のみにフォーカスすると、本来の意図から外れた政策を評価させられている様な気がする。

他にもある。年金の「掛け捨て制度」である。小宮山厚労相もこの「掛け捨て制度」に食いついた。何度も言っていることだが、この手の話は定量的な議論がなければ意味をなさない。論評する際に、この掛け捨てとなる人の条件を明らかにしないでダメ出しするのは如何にも短絡的である。昨日のブログでも年金の公平感は重要と書いたが、それは如何にも「誰もが7万円の最低保証年金を追加でもらえてラッキー」的なニュアンスで国民をミスリードしようとすれば「賛成!」と言う人は多いだろうが、その見返りに「低所得者を除けば殆どみんなが損をする」と言われれば「反対!」となる。どちらの判断となるかは、当然ながらその具体的な意味を明確にして初めて判定できる。だから「掛け捨て制度」も、どの程度の資産を持つ人が対象かを明らかにしてもらわなければ何とも言えない。仮に年金を年200万円もらったとすれば、65歳から90才まで25年受け取ると総額で5000万円となる。つまり、この5000万円の年金を貰えなくてもあまり気にならない資産家(例えば5億円?)であれば、多分、該当者からもあまり反論は上がらないような気がする。一方で、自宅を含む資産が5000万円以下の人であれば、相当な反論が出るであろう。この辺の中間をリニアに結んだ形で受給額を減額すれば、それほど問題とはならないだろう。元々、小沢元代表も、最低保証年金の7万円を受け取れなくなるのは年収1200万円以上と言っていたのであるから、維新の会ほどラディカルではないにせよ、「年金を必要としない人にそれほど支給しなくても良いだろ」という考え方は持っている。この様な前振りの下で世論調査をやれば、かなりの人が「賛成」と言えるような気がするが、前振りなしに「年金は掛け捨てと言われたら、賛成しますか?」と聞かれたら「反対」となるだろう。この辺の世論操作を狙った発言が多く見られたようで私は不満である。

一方、非常に面白いと感じたのは、「国民全てに確定申告をさせる」という提案である。私はサラリーマンであるが、子供の医療費が非常にかかっているため、医療費控除を目的に確定申告している。やはり、国民が納税者意識を強く持つことは、政府の税金の無駄遣いを抑止するに非常に役立つと思う。北欧でも、高い消費税率の代わりに、食料品などの品目に対する税金の還付申請を国民が行い、これが納税者意識を高めていると聞く。これは、些細なこと、面倒なことかも知れないが、ボディーブローの様に将来的には大きな意味が現れる提案だと感じる。

確かに、首相公選制や参院の再定義などは憲法改正が必要な案件で、特に参院廃止を採決にかけて「賛成すれば失業しかねない現職議員」に2/3以上の賛成を期待するのは現実的ではない。しかし、橋下市長は「自らを失職させるために大阪市長になった」その人なのだから、その様な奇特な人が集まれば何とかなるかも知れない。特に、憲法改正の第1関門のハードルを、「衆院、参院の半数以上の賛成とする」提案もしているので、こちらを先に通せば可能性は高まるかも知れない。

また、資産課税については今後、役人に制度設計をさせて、それを叩き台にして発展させるのだというが、どの様な姿になるのかが全く予想できない。例えば、「死ぬまでに財産を全て使い尽くす」という言葉の意味が、生きているうちに土地家屋などの資産にどんどん課税されて、「生きているうちに家屋を没収される・・・」と言うのであれば多分、誰からも賛同は得られないだろう。しかし、帳簿上は課税されるが実際に納税するのは死後に行うというのであれば、逆に早期の子供世代、孫世代への相続を促す効果も期待できるかも知れない。憲法で謳う「法の下の平等」との整合性が取れないかも知れないが、若年層ほど資産家税率が低くなれば、高齢者が持つ資産を若年層に積極的に移転するモチベーションにつながるかも知れない。もちろん、海外の資産やタンス預金などの資産への課税は技術的に厳しいので、制度設計が本当に出来るのかは怪しいが、もし仮に成功すれば死んだお金を流通させて生きたお金に変えることも出来るだろう。ひとつの仮説として検討してみる価値はあるだろう。それこそ、学者さんの腕の見せ所である。

それらをまとめて「実現性がない」と切り捨てるのは如何なものか。実現性のなさでは「財源なんて何とでもなる」と言った民主党のマニュフェストと同類かも知れないが、しかしポピュリズムの真逆のチャレンジという意味では大いに評価できる。これからどんどん政策の方向性が修正され、最終的な姿(制度)は相当変わったものになるかも知れないが、前向きの取り組みと評価している。

もっと詳しい話を是非聞いてみたい。

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民主党案は現行年金制度よりも優れているのか?

2012-02-14 23:38:09 | 政治
民主党の年金改革案の試算が公開され、その詳細が明らかになった。昨日もTBSのお昼の番組「ひるおび」で解説していた。年金制度改革の成否を分けるのは、その緻密な制度設計と、国民感情における公平感の2点だと思っている。その2点において、民主党の提案はとてもではないが議論に耐えうるものではないと感じている。

まずは公平感について考える。生涯平均年収が260万円の人と、690万円の人で月々の掛け金が2.7倍(15000円⇒42000円)になるのに、受給金額は約10万円が約12万円になる程度の差でしかないという。非常に不公平感が強い制度だと言える。これに対して番組に出演していた大塚元厚労副大臣は、「生涯平均年収が690万円ということは、定年間際では1000万近く貰っている世帯だ。そんな裕福な世帯なんだから・・・。」と弁解していた。さらには、「これは個人、一人あたりの受給額で、各家庭では夫婦で2倍の額を受給できる。」とも言っていた。果たして、その主張はどれ程説得力があるのだろうか?

多分、定年時に1000万円の年収の人であれば、その人なりの生活水準があるはずである。高額な住宅ローンを組んでいるかも知れないし、子供だって高学歴となり大学等の学費もかさむだろう。私の周りを見ても、少子化と叫ばれる一方で、それなりの生活水準の世帯となると子供が3人以上いる家庭が昔より多くなっているような実感がある。我が家も年収はそこまで高くはないが、それでも子供は3人いる。3人目の子供が大学を卒業するのは私が65歳を過ぎてからであり、年金の受給開始前に子供の学費で自宅を除きそれまでの預金を全て掃き出して年金生活に突入することを覚悟している。これまでは、「稼いだ分、年金を納めたからその分、後が楽になる(ハズ)」と刷り込まれ、それを信じてここまで来た。多分、年収が何千万円にもなる会社役員などは例外であろうが、定年時の年収が1000万円クラスの人では「定年後は年金などに頼らずに蓄財だけで生きていける」などということにはならない。月々の支給額が12万円ということは年額で144万円であり、住宅ローンや子育ての費用が必要なくなったといっても、とてもではないが生活レベルは極端に下がることになる。少なくとも、住む家があって健康体の人でなければ、年収1000万円からの格差は絶望的なレベルとなるに違いない。詳しくは知らないが、多分、私の父は田舎の町工場の平社員であり高給取りから程遠かったが、それでも年金は総額で年収250万円ぐらいではなかろうか。あまり健康状態も良くなく、介護保険で特別養護老人ホームに入居しているが、快適な環境でありながらも(介護保険の適用もあり)月額17万円程度の費用を払い、持病でそれなりに医療費がかかっているにもかかわらず、何とか赤字にならずにやりくりできている。介護保険を適用できなければ、多分、入居一時金を相当(千数百万円?)な額払わなければ、現在の父の年金でもとても払いきれるものではない。だから、年額144万円の年金では、自力での生活が限界となり介護が必要となったら、子供世代におんぶにだっこで迷惑をかけまくって醜態を晒すことになる。何とも、長生きはしたくないものだ。

これが、年収1000万円の人の老後なのだから、誰だって年金に期待するものは何もない。仮に夫婦ふたりで倍貰えるといって、何の気休めになろうか?もちろん、相対的にはお得感のある生涯平均年収が260万円の人だって、同じように厳しいのには違いないから、別にその人たちを悪く言うつもりはない。しかし、「ああ、馬鹿馬鹿しい!」と言って年金を未納な人たちは、将来、年金をもらえないはずなのに年84万円もタダで貰えるわけだから、相当なお得感はあるだろう。これは間違いない。「セーフティ・ネットのあり方について考える」でも書いたが、「医(≠衣)」「食」「住」を担保するセーフティ・ネットを確立する方法は、現金給付である必要はないはずだ。同様の境遇の方を(比較的、土地代の安い場所に建てた)集合住宅に集め、現金給付額を1万円程度に抑える代わりに食堂で食事提供を行なったり、必要であれば医療機関を無料で受診できるなどすれば、総額的には安く抑えられるはずだ。言ってみれば、食うに困らない生活は絶対保証する代わりに、それ以上の生活がしたければ自助努力を基本とするという方針である。少なくとも、真面目に年金を払おうというモチベーションを維持できない制度であれば、どうしても長くは続くはずはない。払っていない(実際には払えないと言うべきであろうが)人のために、現行制度であればまだましな生活ができるはずの人に犠牲になれと言うのは無理がある。

さて、もう一つの視点である緻密な制度設計であるが、100年先を見越して作ったという制度であるのだから、それをひっくり返すならば自公政権で定めた現行制度よりも遥かに緻密で或ことが絶対条件である。現在の「現行年金制度では破綻する」という感覚は、年金の積立金が凄まじい勢いで消えていく状況と、現役世代がその時の高齢者を養う制度が今後の急激な高齢化に耐えられないという点から来ている。しかし、前者は基礎年金の国庫負担率を1/3から1/2に移行する前の特殊性に起因するし、後者は賦課方式そのものが破綻していることを意味している。現行制度のマクロ経済スライドなどのメカニズムは、受給額を少しづつ減らす方向の微調整をしながら、積立金の破綻を防ぐためのものであり、不十分ではあるがそれなりに考えて作ったことはうかがい知れる。現行制度の最大の問題点は、年金の運用利回りや出生率などのパラメータを、非現実的な値にしたことに問題がある。しかし、民主党がやっと公開した年金の試算では、やはり運用利回りを現行制度で利用していた4.1%などという非現実的な値を用いているのだそうだから、現行制度への反省の色は感じられない。その他の点でも、最低保証年金の導入により生活保護が不要になると説明しているが、それはまるで生活保護を5万円減額して全員に配ると言っているようで、全体的に緻密さを感じることはできない。

岡田副総理が、「民主党案に固執しないから、与野党協議にのってくれ!」と訴えた点は評価できるが、多分、その他の民主党議員はマニュフェストの最後の砦と位置づけているだろうから、与党の方から歩み寄るという姿勢は示さないだろう。私は知らないが、過去の歴史では、与野党協議を行う場合には多くの場合に与党側が折れて協議が始まるのが常識だそうだから、結果として何も進まないことになりそうな気がする。

現行制度が理想とは思わないので制度変更はやぶさかではないが、変えるのであるならば、今度こそ最低でも50年先ぐらいまでは安心と感じられる制度にしてもらわなければ、とても賛成できるものではない。

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次の選挙の後を予想してみた(大阪維新の会はどう動く?)

2012-02-13 23:07:49 | 政治
ニュースによれば、大阪維新の会の政治塾への応募者が3000人を超えたという。次期総選挙で300人を擁立し、200人以上の当選を目指すとのことだ。

この入塾希望者には現職国会議員も含まれるが、既成政党との距離を置くために現職の国会議員は入塾を認めないらしい。今後、選挙になったときには前回の選挙で落選した元国会議員なども取り込むかもしれないし、地方議会の議員もいるだろうから、全くの政治経験なしの者ばかりではないだろうが、圧倒的多数は未経験者なのだと思う。選挙が終わってみたらどうなっているかは分からないが、「小泉チルドレン」「小沢ガールズ(チルドレン)」などと揶揄された未経験者が衆院で多数を占めた事態が、次の選挙でも更なる拍車をかけた傾向になることは容易に想像できる。仮に、大阪維新の会を軸とする政権ができたとしても、下手をすれば今の民主党以上に未熟内閣となることも予想され、如何にしてその様な不幸を繰り返さずに済ませるかは重要な問題である。

もちろん、閣僚は国会議員である必然性もなく、官僚OBなどの実務家を揃えることで、現在の官僚を上手く使った政策を実現することは可能である。しかし、そのためには司令塔が中枢に常にいて、細かな指示をしなければ心もとない。橋下市長は都構想を実現するために少なくとも4年の任期は大阪市長に専念するだろうから、大阪維新の会は司令塔が直近にいない中での国会運営を余儀なくされる。

「小泉チルドレン」は悪名が高い割には、それなりに実務家も揃っていたし、何らかの分野の有識者が意外に多かった。「小沢チルドレン」は、親分の「国会よりも地元での選挙活動に」との指示もあり、国会の中で実務をこなしていると認識できる人は数少ない。もちろん、「数の支配」が目的ならば、その方が好都合なのであろうが・・・。この様な過去の失敗を教訓としているから、多分、次こそは無茶苦茶なことにはならないだろうという希望的な観測はあるが、それでもこれまでは軸となるベテラン議員がいて、そのベテランに対して比率的には少数の新人議員で全体が構成されていた状況だったのが、今回は本当に新人議員が大勢を占めることになるかも知れない。これには正直、楽観できない現実の難しさを感じる。

だから、現実的なことを考えれば、大阪維新の会は仮に多数の議席を獲得しても欲を出さず(総理大臣を始めとする内閣の主要ポストを占めて権力を誇示しない)、都構想に必要な法案成立と地方分権・財源委譲を中心とした政策に限定して少なくとも4年間は政策合意できる政党を探し、獲得する議席数とは関係なしにその連立する政権に主導権を渡し、合意した政策を短期でゴリゴリ行くことに徹するのではないかと思う。

この様なブログを書きながら、橋本市長が船中八策の骨格をまとめ、その概要を公開したとのニュースが入ってきた。なるほど、なるほど。ここまで明確に方向性を示して人を集めれば、後になって国会での造反が出てくることは避けられそうだ。かなり、政治志向的には絞り込まれた分かりやすい政党になりそうな気がする。一方で、万人受けすることを狙ったポピュリズムとは対局にある政策とも言える。

この政策に全面的に同意できる既成政党はなさそうだから、やはり連立となった場合にはこの中の限られた幾つか(都構想と地方分権、TPP参加、行財政改革、公務員制度改革、教育改革あたりを中心に、あわよくば年金の積立方式化まで?)をピックアップして、4年限定で大御所(橋下市長)が国政に進出するまでの露払いをしていくのだろう。個人的に期待したいのは、ここまで大きな変革を目指すなら、当然ながらその細部に関わる設計・法制化は官僚の力を最大限に活用しないと成り立たないだろうから、官僚に「国家の再構築に一定の役割を担うのだ!」というポジティブなモチベーションを持たせ、変な蓄財に走る余裕を与えない効果が生まれることを期待したい。

何か良くわからないが、今回は怖いもの見たさの気持ちが湧いてきた。少々不謹慎であるが・・・。

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TPP議論の全てのパラメータを洗い出せ!

2012-02-13 00:03:03 | 政治
TPPの議論が再燃し出した。米国との事前協議も始まり、この中で米など農産物も含むすべての品目を自由化交渉の対象にすると正式に表明したという。

まず、私はTPP賛成派であるが、死んでも賛成というのではなく、当然ながら細かい議論はあって良いと思っている。韓国では米韓FTAの反対派が国内で勢力を巻き返し、既に野党陣営が次期選挙で政権交代があれば、米韓FTAを破棄すると宣言し、その書簡をオバマ大統領に送っているというのであるから、それはそれはご丁寧なことである。一時期、前原政調会長がTPPの交渉に参加した上で、意に沿わなければ撤退も有りうると発言し、反対派から「ありえない」と言われたことがあったが、政府がどれだけ参加の手続きをとっても、最終的に国会で批准されなければTPP凍結となることは間違いないのだから、論理的に「ありえない」は矛盾している。行政を司る政府と、立法府である国会とは明確に三権分立が保証されているのであるから、国際的にも政府で合意した事項が国会での賛成が得られず頓挫したという話はよく聞く話である。一方で、政権が交代したからといって、国家の代表である政府が国際的に取り決めたことを、政権交代後の政府がチャラにしたという話はあまり聞かない。重要なパートナーであればなおさらである。しかし、そんなことをチャラにするのは民主党は平気なのだから、何も恐ることはない。米韓FTAの様に、批准した後でも何とかなるのかも知れないのだから・・・。

と、まあチャチャを言ってもしょうがないので、前向きな提案をしていこう。TPPの様な複雑な議論は、以前のブログ「非線形の100次元連立方程式を解く」でも似たような事を書いたが、非常にパラメータが多い連立方程式を解くようなものである。現時点では、例えば100個あるパラメータが何なのかも分からない状態であり、各人が勝手に適当なパラメータをいじって、この方程式は「こういう傾向がある」と語り合っている。しかし、その全体像がよく見えない。確かに、参加国間での協議にすら入れていないので、内部の情報が全くわからないから仕方がない部分があるが、それだけunknownのパラメータがあるのに良いも悪いも判断できる訳がない。一方で、参加しなければ大きな不利益が有りうることは容易に理解できるので、協議入りすらしないというのはあまりにも無責任である。少なくとも全体像を把握した上で、国民的な議論も深めて、最終判断をすればよい。政府が前のめりになり過ぎたら、国会がブレーキをかけても良いのである。

この様な前提で考えれば、議論を深めるためには連立方程式の全てのパラメータをあぶりださなければならない。「TPP亡国論」という本も出ているし、色々な雑誌(例えば、私は「日経ビジネス」?という雑誌を読んだ)に「TPP亡国論のウソ」という特集も組まれている。賛成派、反対派共に私の尊敬する政治家、専門家が揃ったTV番組での討論でも、双方は「ここが相手の弱点」という箇所を突いてくるが、間髪入れずにそれに反論し合う状態である。ただ残念なのが、攻めるも守るも、自分にとって都合の良い論点に集中するところが気になるところである。つまり、全体像が見えないのである。

だから、良識ある賛成派と反対派が協力し、議論は全てのパラメータ(すなわち議論が別れうる課題)を全て列挙し、全体像のMAPを作成するのである。そして、その課題のひとつひとつについて、参加した場合のメリット、デメリット、参加しなかった場合のメリット、デメリットを根拠と共に示すのである。そして、それをそのマップに埋めていき、議論を深めていくのである。当然ながら、良識ある人は仮に賛成派であっても参加した場合のデメリットを語るであろうし、その逆も同じである。そして、そのデメリットの対処法があるのかどうか。国内的には対処法がなければ、TPP参加国の中で、その件に関して共闘できる国があるのかどうか。そして、その勝算がどの程度あるのか。仮に勝算がないとして、国内ではどの程度致命的なのか。また、致命的であるとして、その致命傷は純粋にTPP参加によるものか、それとも元々存在する致命的な課題が、時間を早めて露呈されるだけで、TPPに参加しなくてもそもそも問題であったのか。この様なことを議論していくのである。

最近のネットの世界は便利なもので、別に頼んだ訳でもないのに百科事典(ウィキペディア)をボランティアが寄ってたかって作り上げ、誰もが無料でこれを活用することができる。「2ch」などの掲示板では、そこらじゅうでありとあらゆる議題について、喧々諤々、議論を戦わせている。そして、それを傍観者も見ることができる。であれば、ある程度の秩序を守るために、議論に参加できる人の数を絞り込んでも良い(ある程度、社会的に認知されている人に限定する)から、賛成、反対それぞれ100人規模の参加者を大手マスコミが選別し、その人たちに記名前提でネット上の討論会をやって頂けばよい。事務局となる専門家も双方に10名づつぐらい割り当て、マナーを守らない発言は削除しても良いし、ある程度議論が収束したら、それを要約したものを作成し、馴染みのない人も概ねどんな議論となっているかを斜め読み出来るようにすればよい。

国会議員にそれだけの事を期待することができなくても、ネットワークを活用すれば簡単に出来ることもあるのである。別にこれは短期間で答えを出す必要はない。TPPの競技に参加して新たな情報が入手できたら、更にその情報を踏まえて内容を更新すればよい。最新情報と整合しない内容は、どんどん削除して、常に最新の議論が閲覧できればよい。

理想的には、それぞれの項目に対して「深刻度」という評価指標を設け、閲覧者が自分の感想で深刻度を入力する。例えば10段階評価で評価する。「分からない」という選択肢も残しておく。できればその「深刻度」情報は最後まで公開せず、最終的な国会の批准の前の国会論戦などに合わせて公開すればよい。さらに、それぞれの項目に対して、「賛成度」を数値で入力してもらう。賛成なら「賛成度=10」、反対なら「賛成度=1」、その中間であれば、その度合いを10段階で示せばよい。

多分、「深刻度」指標は公開されずとも、議論を見れば明らかなので、国会でも深刻度が高い項目は議論の中心になるであろう。そして、政府や各政党(ないしは議員個人)の考え方を明らかにしていけば良いのである。
この結果、単に「農業票」を選挙のために期待するから反対だとか、その逆の様な人を議論の中心から締め出して行くのである。その様な打算的な人々は、議論にとって百害あって一利なしである。

年金や税制も同様であるが、ネットの力でできることがあるはずである。

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爆笑人事と呼ばれて・・・

2012-02-12 14:33:56 | 政治
つい先日のことであるが、民主党が現在11人いる党最高顧問・副代表に対し、特定分野の政策責任者として担当させる方針を固めたそうだ。その中で、最高顧問の鳩山由紀夫元総理は外交、菅直人前総理は新エネルギー政策を担当し、党に対して提言を行うことになった。輿石幹事長からの提案で、本人たちも喜んで引き受けたという。

「ああ、なんということだ、トホホ・・・」と悲しくなるニュースだ。

ネットを検索すれば、「爆笑人事」という見出しまでついている。まさに爆笑・失笑である。このブログでも何度も書いているし、最近では国民の誰もが理解していることであるが、政治には結果責任が求められるのである。言うまでもなく、現在の日本外交が破綻し、日米同盟が危機に瀕していることの責任は誰にあるかは明らかである。そして、その当の責任を負うべき人物は、自分が日本国民に多大なる迷惑をかけたことを明らかに自覚していない。

例えてみよう。もともと煙が燻っていた場所に、「これは液体だから消火に役立つはずだ」と油(ここではガソリンに近かった)を注ぎ、大火事になってしまった。慌てて皆が延焼を食い止めようとしているのに、次の総理は傍観を決め込み、何も手を打たなかった。さらに次の総理も、慌てて消火班を送り込んだがその消火班がド素人で、肝心の消防車を運転できない。そこに、最初に火に油を注いだ犯人が舞い戻ってきて、「この黒い粉を上から巻けば火が消える」と得体の知れない物質を持ち込み火に入れようとしている。よく見れば黒色火薬ではないか・・・まあ、こんなところだろう。

確かに、一度失敗した人が再チャレンジできない世界はおかしいという声もあるかも知れない。しかし、失敗しても被害が限定的なベンチャービジネスと、1億以上の国民を抱えた日本いう国家では事情が違い、ひとたび失敗したなら何がいけなかったのかをちゃんと解析し、その反省の下に立って次なる行動を起こしてもらわねば困る。その鳩山元総理は、先月の早稲田大学での講演で、「先の大戦で日本がアジア諸国にかけた甚大なる損害と迷惑に対する反省の上に立った行動が重要」として、持論の東アジア共同体の話題を語ったそうだが、自分が総理時代に国民に与えた甚大なる損害と迷惑には気がついていないらしい。

菅前総理についても同様だ。「一介の市民運動家」との立場での行動なら好きなようにやっていただいて構わないが、日本のエネルギー問題を迷走させた責任は何も感じていない。「反原発」と言えば、大阪の橋本市長が比較されることがあるが、橋本市長のスタンスと菅前総理のスタンスは似ていて全く非なるものである。菅前総理はこの点を是非理解して欲しい。橋下市長の基本的な考え方は、東電や関電が原発推進の言い訳として安直に電力が足りないということには断固とした態度で臨み、節電協力を断るなどしてきた。その様にして、定量的な議論のためのデータを強制的に炙り出そうとしていた。しかし、それは無条件での反原発を意味していない。冷静に彼の主張を聞くならば、「電力が足りないというのであれば、その根拠となる細かいデータを、包み隠さず出しなさい。良識ある専門家がその内訳を吟味し、真に原発がないと破綻すると分かったなら、その際は安全性を確認(ないしは確立)した上で、原発の再稼働は許容する。しかし、情報を出さずにどさくさに紛れて原発再稼働は許さん!」というものである。菅総理は、その定量的な評価・議論をすることなく、自分の単なる思いを国民に語り、思い切り拳を振り上げながらも閣僚から「オイ、オイ」とツッコミを入れられた途端に拳を下ろしてしまった。無責任にも程がある。エネルギー政策を語れる人は、少なくとも責任感のある人でないと困るのである。実際、昨夏の東北電力管内では、99%の使用率に達し慌てて東京電力から融通してもらい乗り切った日が何日かあった。結果的には融通で乗り切れた訳だが、この様な綱渡りを前提に産業界は経営戦略を立てられる訳がない。根性論や結果オーライ的な発想は捨てて頂き、定量的かつ緻密な戦略を語って頂きたい。民主党は、本当に菅前総理にそれを期待できると思っているのだろうか。

この様に書きながらも、諸悪の根源がどこにあるかは誰もが知っている。そう、この人事の発案者である輿石幹事長である。党内融和や党員の欲求不満解消のために、微妙なバランス人事をやっているのは全てこの人である。田中防衛相を決めたのも実質的にはこの人であった。多分、野田さんは結構したたかな戦略家で、党内No2の幹事長ポストに小沢派筆頭の輿石氏をあてることで彼に一定の責任を与え、彼が無責任な行動に出ることを封じることには成功したが、その返り血を浴びながら政権運営を続けていかねばならない宿命を背負ってしまった。

信念や理念の異なる人たちを寄せ集めて政党を作っていなかったら、こうはならなかったであろうに。

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