けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

「笑顔で握手することを目的とする外交」を断ち切れ!

2013-01-31 22:55:54 | 政治
最近、元総理や与党幹事長だった過去の政治家が次々と中国に招待され、かの国に政治利用されようとしている。今日はこの問題にコメントしたい。

多分彼らの言い分は、日中関係が拗れた時のパイプがないのは日本にとって致命的だから、そのパイプ役に私がなりましょう…と言いたいのであろう。それにより、国内での自らの政治的なポジションを高めようという下心があるのは言うまでもない。その下心は横に置いておくとして、国益のために有益であるのであればそれを評価するのは吝かではないが、実際のところはどうなのかを彼らには是非とも考えて欲しい。

話を少し逸らせて関係ない例え話をしてみよう。映画やドラマの中で、拳銃を持った二人の人物がお互いに銃口を向け合い、片方が引き金を引けば他方も引き金を引いて両者が即死するのは免れない状況で、それぞれが本音で語り合うシーンを時々見かける。両者が命(国の場合は国益)をかけて真剣勝負で向き合う時、両者がお互いの言い分を言い合い、双方の溝は埋まらないまでも次への展開を感じさせる何かがそこに芽生えたりする。一方、片方が拳銃を突きつけ他方が丸腰で絶体絶命の立場にあるときはどうだろうか?その登場人物がドラマの主役であればお話として対話が成り立つ場合があるが、それが脇役であれば何を言っても相手にされることはない。ため口を叩こうものなら、虫けらの様に殺されるのが関の山だ。

先ほどの話に戻れば、中国、韓国、ロシア、イランなどの国々とのパイプを築くのであれば、一方的に相手が優位な立場にある中で「ご機嫌取り」的な立場で乗り込んで、真の意味で有益なパイプとなる関係を構築することなど出来るはずがない。極端な話、双方の肩書がアンバランスであったとしても、相手の喉元に短刀を突きつけ、こちらは真剣なんだと迫り、相手も同様に真剣にこちらに向き合う関係を作ってこそ、初めてパイプとしての機能が実現される。過去を振り返れば、小泉元総理は靖国参拝などで拗れた中国関係に対し、会いたくなければ会う必要などないと自ら首脳外交を模索せず突っぱねたところ、先方の中国からは是非とも首脳会談を開きましょうと持ちかけられた。小泉元総理が北朝鮮を電撃訪問した際には、金正日と会いながらも一度たりとも笑顔を見せることはなかった。国益と国益がぶつかる外交というものは真剣勝負なのだということを態度で示し、その結果築き上げられる信頼関係がその後の有益な対話につながる。一方的に相手に媚びへつらう外交は外交ではない。要人とニコニコ握手することは目的でも手段でもない。その様なことは全く不要なのである。しかし、何故か日本国内ではニコニコして握手することが目的かのような扱いが多い。外務官僚などは、その様な雰囲気の上に胡坐をかいて、その先にある国益に繋げる何かを模索しようとしない。ニコニコ握手をすれば次に繋がると信じ、そこで満足しているのである。それを疑わないマスコミにも大いに問題がある。

実際、民主党政権下では何百人もの議員団を引き連れ中国に対して朝貢外交を行った。その議員団を率いた小沢一郎氏は、尖閣漁船衝突事件の際にも尖閣国有化の際にも、全く何もすることが出来ず、築いたはずのパイプが単なる張りボテのお飾りのパイプでしかないことを世に知らしめた。天皇陛下まで自らの権威を誇示するために利用しておきながら、ひとたび事が起きた際には全く何も出来なかったという事実は消し去れない。つまり、少なくとも中国、韓国を相手にするのであれば、相手が嫌がることもズバリと言い合い、相手に悪意があることを前提としても、何らかの建設的な前進につなげられる様な何かを双方で見つけられる、その様な信頼関係を築かなければ全く意味がないのである。例えば、尖閣問題の棚上げ論議に関しては、仮に一万歩譲って棚上げするというならば双方はその当時の立ち位置に留まり、抜け駆けしてゲインを得ようとする行為は慎まなければならない。しかし、国内では反日教育を徹底し、反日世論に火をつけ、自国の領土だと新たな法整備まで行っている。両者が尖閣周辺に立ち入らないように自粛するならともかく、大量の漁民が漁に出ることを容認するにとどまらず、あたかも扇動的にそれを推奨しているかの様なありさまだ。にもかかわらず、元々、所有権を有している地権者が存在しているのに、その所有権の移転だけで一方的に非難している。あまりにアンバランスな一方的な言い分であり、せめてその問題の是正を求めることぐらいは言わなければならない。日本の戦争責任に言及するなら、南京大虐殺の30万というあまりに桁外れの事実とかけ離れた一方的な言い分は、双方の歩み寄りを阻害するものになる。証拠に基づき被害者の人数を絞り込み、且つ、その被害者の位置づけがどのようなものであるのかも明確にすべきである。それが国際法的にゲリラ・テロリストと等価とみなされる戦闘服を着用しない非正規戦闘員までを含むのか、敵前逃亡を図ろうとした兵士を中国兵が銃撃した際の死者などまで含むのか、南京以外の中国各地での死者までを含むのかなど、本当はどのぐらい酷かったのかを証拠に基づいて明らかにする気持ちが双方にあるならば、多分、信頼関係を築き上げて問題解決の道を探ることは不可能ではないだろう。

最初の話題に戻れば、鳩山元総理、村山元総理、加藤元幹事長などは、その様な相手の喉元に短刀を突きつけるような覚悟で、真剣に両国の国益に資する成果を上げるつもりで臨んでいるようには思えない。村山元総理、加藤元幹事長などは、鳩山元総理の様なあまりにも中国に媚びたような国益を損なう発言をしていない様だが、鳩山元総理に至っては総理として国民に迷惑をかけ、総理を辞して一議員となった後も迷惑をかけ、さらに議員を引退した後も引き続き国民に迷惑をかけ続けている。あまりに素人過ぎる。

そろそろ、笑顔で握手することを目的とする外交は卒業すべきと、国民が認識すべき時ではないか。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

「幻想」とネット上に流れる「真実」

2013-01-30 23:51:22 | 政治
最近は仕事が忙しく、中々、ネットで色々な情報を検索する時間が取れなかった。先日も桜宮高校の体罰問題についてブログを書いたが、大津のいじめ事件と同様に、報道には流れない裏の情報がネット上では簡単に見つけることができる。今日は、その様な情報を含めてコメントを少し書いてみたい。

実は先日の日曜日、報道ステーションサンデーに橋下市長が出演し、体育科の入試中止の背景について説明していたが、番組の作りは全体的に「一部の指導者の熱血さが行き過ぎて起きた事件なのに、たったそれだけで今回の様な騒動になり、大部分の良心的な先生、生徒がとばっちりを受けてあまりにも可哀そう。生徒にも非があるような言い方で生徒を傷つけて橋下市長は酷い!」というニュアンスを醸し出していた。これまたやり方が汚いと思うのだが、明示的に橋下市長を非難するのではなく、例えば在校生の母親が涙ながらに「子供がバスに乗っていても後ろ指を指される。どうして子どもたちがこんな思いをしなければいけないのか!」と暗に橋下市長を批判するお涙頂戴の映像を流すことで、視聴者の感情に訴えかけ、世論を誘導するような作りである。しかし、その様な中で長野智子キャスターが怯んだ瞬間があった。それは、橋下市長に「入試を行えるような状態ではないというが、何があるんですか?」と問いかけた際に、「色々と答えられないことがたくさんあるが、ネットを見て下さいよ!全て分りますから・・・。」と答えられた時である。その後も何度か「何が書いてあるのか?」と聞き出そうとしていたようだが、とてもではないがテレビで言えるような話ではない。少なくとも、健全な精神は健全な体に宿る・・・と言うように、部活動にいそしんでいる生徒は皆、良心的で、亡くなった生徒の死を悲しみ、その死を無駄にしないようにと真摯にこの問題に立ち向かい、多くの人から体育科の入試中止に絡んで同情されるべきというような幻想からは程遠いのが現実の様だ。勿論、その様な心無い生徒が全てではないのはその通りだが、ネットを検索するとかなりの数の常軌を逸した生徒が実名で登場する。しかも、自分から堂々と名前を語り、多数の友人と飲酒や喫煙している姿を写真付きでTwitter上に投稿している。挙句の果てには、明らかに逮捕されてしかるべき悪質な犯罪行為(橋下市長の殺人予告)まで堂々としている。この辺の件は下記のサイトにさわり部分が記されているが、かなりマイルドに扱われているので、実際にはこの辺の記事にあるキーワードを次から次へと打ち込んで検索をかけると、吐き気が出そうな醜い情報が見つかる。

ニコニコニュース2013年1月30日「“体罰自殺”騒動の「桜宮高校」 生徒らがTwitterで告発する事件のウラ側

繰り返すが、ごく一部の心無い生徒ではない。決して少数とは言えない数の生徒が登場し、部活動毎に何が行われていたかが克明に描かれている。さらに、この期に及んで犯罪的な暴力行為を握りつぶそうとする教員の名前を実名で出して学校批判を(恐ろしいことに、これまた実名で)した生徒が無期限の停学処分を受けたのに対し、同じ同級生がこれまたネットで実名でこの同級生に誹謗中傷を浴びせる。全く、彼(彼女)らには自己防衛の精神がないのかと疑ってしまうほど、無防備で無茶苦茶なアウトロー状態である。特徴としては、同窓生の死を悼む者の発言は少なく、「何で、俺らがとばっちり受けなアカンのや!」という立場の生徒の雄弁さが非常に目立つ。彼(彼女)らは今回の悲劇を無駄にしないという思いの真逆の、何とかして今回の件を有耶無耶にして、何事もなかったように元の状態に戻ろうという精神にある。多分、橋下市長のもとには非公開で詳細な情報の通報があるのだろう。その詳細は知る術もないが、容易にネット上には流れない同窓生の死を悼む者の発言が伝わっていることが予想できる。

このテレ朝の報道ステーションSundayだけではなく、翌朝の月曜日のフジテレビのとくダネにも橋下市長が出演していたが、(私は彼が好きなのだが)小倉キャスターは明らかに(一人か二人ぐらいの例外はあるかも知れないが)ほぼ全員である生徒は一方的な橋下市長の暴走の被害者で、入試の中止は自分たちで立ち直ろうとする努力を踏みにじるものであると非難しているようであった。現実をあまりにも知らなすぎるのだが、それを非難しないで誠意ある回答に終始しようとしていた橋下市長には同情を感じる。「本当はこうあって欲しい」と願うのは良いが、その幻想を現実のものと勘違いするのは報道の場にある者の取るべき行動ではない。

少し話は変わるが、橋下市長の主張のポイントを整理すると、(1)現状は劇薬をもって変えなければならない危機的状況にあること、(2)その危機の責任は一義的には暴力顧問と学校・教育委員会にあるが、その問題である状態を常態化した背景には生徒の保護者(及び生徒)の誤った意識が少なからずあること、(3)「生活指導」でなされる体罰と、「スポーツ指導」でなされる体罰は本質的に異なり、少なくとも「スポーツ指導」では技術を論理的に指導する方が効果的で、体罰は決して許されない、(4)責任ある立場の者は、「可哀そう」とか感情論で議論すべきではなく、心を鬼にしてでも必要な措置を施さなければならず、子供の言い分を時として敢えて拒否するのも大人の仕事である、というところだろう。(1)(2)に関しては、先のブログを観れば良く分かるし、後程示す大阪市役所での生徒の記者会見の背景なども考慮すれば、少なくとも今回の体罰顧問を求めて止まない保護者が多数存在する限り、正攻法で解決などできるはずがないのである。実際、数年前に問題沙汰になったバレー部でも、問題を唱えた生徒が卒業した途端に以前の指導体制が復活した。「一時的な風当たりをやり過ごせば、直ぐに元に戻せる!」という強い意識が顧問、学校、保護者にあれば、少なくとも3年後には元の状態に戻っているのは明らかである。これを考えた上で、結果責任が問われる最高責任者である大阪市長としてどの様な行動をとるべきかを考えれば、今回の行動は評価されてしかるべきである。

なお、ちょっと分かり難いが(3)に関しては、下記の記事などでも理解できる。

産経ニュース2013年1月12日「桑田真澄さん『時代あった指導を』

私は桑田氏のことは個人的にはあまり好きではなかったが、彼の野球に対する情熱は熱く純粋であり、特に巨人を引退した以降は心を熱くする記事を多く見かける。その彼が言った、「私が野球で伸びたのは、体罰の指導がなくなった高校に入ってから・・・」という言葉には非常に説得力を感じる。

最後に、大阪市役所で生徒が記者会見を行った背景には、橋下市長と対立する一部の弁護士グループがいるということである。彼らが、多くの保護者に大阪市役所への集合を呼びかけ、現状維持(何も変えたくない)派の保護者が子供を引き連れ市役所に集まり、結果としてあの様な事態になったようである。少々厳しい言い方をさせて頂けば、(先のニコニコニュースにも記述があるが)どうも亡くなった生徒の心の痛み・無念さ、弱者の気持ちを感じることができる人は多分、あそこであの様な記者会見を行うことはできない。だから、体罰顧問、学校、保護者のグループ側と同様の意識の生徒は当然ながらあの様な発言をするだろうが、それは少なくとも生徒の総意ではない。尾木ママのブログでも取り上げられて話題になったが、やはり記者会見するなら部活のキャプテンOBではなく生徒会などから人が出てきてしかるべきである。

色々書いたが、この手の問題が起きた場合の最高責任者である首長に求められるのは、今後の改善の「結果責任」と、何らかの判断に対する「説明責任」である。結果責任を全うするためのアクションを起こし、テレビに出てきて説明責任を果たすという姿はあるべき姿そのものだと思う。報道の側が情報を集めることもなしに無責任に幻想に惑わされ、視聴者の感覚をある方向に誘導しようとする姿は報道の質の低さを証明するものである。報道機関にも「結果責任」と「説明責任」が問われることを忘れないでの欲しい。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

官民ファンドではないけれど・・・

2013-01-23 23:55:41 | 政治
今日、産業競争力会議の初会合が開かれた。アベノミクスの3本目の矢と言われる成長戦略を担う政策の提言を行う会議が動き出し、短期間でどの様な成果が導かれるかは興味深い。勿論、今まで手付かずだった成長分野を掘り起こし、そこに資金を投入して成長につなげるというようなことは、そう簡単に出来るなら既に誰かが金を投じて儲けを得ているだろう。だから、我々が思っているような新しい何かの発掘というよりは、誰もが知っているけどうっかり忘れてしまっている何かを思い出させ、スポットライトの当たる世界に引き上げるという仕事が彼らの仕事なのかも知れない。例えば電気自動車などでもバッテリーなどに対する規制が開発・普及を阻害するなど、様々な古い考えに基づいた規制が成長の足かせになる例は多数あるから、片っ端からそのような例を民間から吸い上げ、成長を阻害しない新しい形への変更や撤廃などの措置を施して、成長への加速をノーブレーキでアクセル全開に持って行くのだろう。

ところでこの成長戦略におけるキーワードの一つに、官民ファンドというものがある。これは、民間ではリスクがあって手を出しにくいという分野に官(と民)がお金を出すというものだが、ビジネスに関する目利きという意味では民間の方に分があるから、結果的には国策で落ち目となった一部の企業に税金からのお金を大量に投入して生きながらえさせたり、民業圧迫につながるのではないかとの懸念や批判がある。しかし私には、この官民ファンドというものにマッチするのかどうかは良く分からないが、このような枠で是非とも進めて欲しいものがひとつある。それは、神奈川県の黒岩知事が知事選挙中に提唱したソーラーバンク構想の焼き直しである。

菅元総理は、再生可能エネルギーの普及のために、高い金額が設定された電気の買い取り制度を導入した。ある部分までは方向性は間違っていないのだが、一般家庭から高い電気料金で集めたお金を一部の企業がリスクなしで吸い上げることができるボロ儲けのビジネス(メガソーラー発電所の建設)を、一部の怪しげな人達に提供してしまったところが私は気に入らない。ドイツなどでは既に高価な買い取り価格に見直しをしているという時期であるのに、今更ながら一部の企業に便宜供与をするという禁じ手で太陽光発電量を増やそうというのだから私は納得できない。また、過去のブログ「本当にピークカットの役に立つのか?(太陽光発電の買い取り価格に関する情報開示)」でも書いたが、気象条件により発電量が異なる太陽光発電設備を、電気の需要と相関がない形で局所的な場所に設置することは非常にリスキーである。例えば、真夏のある日、東京・大阪などの都市部が晴天で気温が極度に上昇した一方、地価が安い田舎に設置したメガソーラー発電所の周りでは雨が降って発電量が低いという事態になってしまったら、不測の大停電という事態になる可能性も否定できない。だから、先のブログでは私は「太陽光発電は地産地消であるべき」と唱えてきた。黒岩知事のソーラーバンク構想は、首都圏で発電し首都圏で電気を使うというのが私の理解する最大のメリットである。具体的には都市部の天気が悪く、太陽光による発電量が少ない場合には、気温が上がらず電力需要が低めに抑えられるので、大停電のリスクは低く抑えられるということである。勿論、北海道などは大雪で気温が低下する際には太陽光発電など期待できないから、太陽光発電の地産地消は全国に通用するルールではないが、少なくとも東京、大阪近郊では有効なはずである。

しかし、詳しくは分からないが黒岩知事のソーラーバンク構想はとん挫しつつあるという。少なくとも私に関しては、自分の家の屋根に太陽光パネルを設置することに承認すれば、10年程度は発電全量を電力会社に売却するからメリットはないが、設置費用を焼却した後はタダで太陽光パネルを譲り受け、それ以降の発電はすべて自由に使えて残量は買い取ってもらえるというのだから魅力的である。未来の買い取り価格の変動で、いったい何年で元が取れるのか心配だと思えば、設置費用を自腹で払って設置することには消極的になってしまうが、設置費用をどこかの基金、ファンドで払ってくれるというのであれば、これはリスクとしては無視できる。勿論、菅元総理の場合と同様に、一般家庭の高い電気料金で得をする人を産むという点では完全に公平ではないが、しかし限定的な一部の人に儲けが集中するのではなく、広く一般家庭に還元するというのだから不公平さの度合いは低い。何よりも地産地消になるのだから、電力の需要と供給の場ランサーとしての機能を備えもつというのが最大の強みだ。しかし、それほど素晴らしい案がとん挫するのは、多分、基金に出資してくれる人が集まらなかったことが背景の一つにあるのではないかと予想する(間違っていたら御免なさい)。であれば、この様な基金に例の官民ファンドが出資すれば、それはまさに成長分野の育成、エネルギー問題の解決、CO2排出量低減という環境問題への対応という3つのメリットを享受することが可能になるかも知れない。

これはまさに「誰もが知っているけどうっかり忘れてしまっている何か」のひとつではないのだろうか?如何だろう?

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

在校生・受験生は「名を捨て実を取った」のではないのか?

2013-01-22 23:56:12 | 政治
昨日、大阪の桜宮高校の体育科の試験が中止となる判断がなされた。マスコミの報道姿勢は、暗に橋下市長からの横槍を非難するようなものである。明示的に「間違っている!」というならまだしも、「本当にこれでよいのか?」という疑問を呈するという私から言わせれば最も無責任(卑怯?)なスタンスを取った。今日はこれについてコメントを書かせていただく。

まず私のスタンスを最初に述べさせていただけば、今回の裁定はベストではないが及第点の判断だったと思う。更に言えば、この手の議論にベストな解というものは存在しないとも思うので、私はこの教育委員会の判断を大いに支持するし、橋下市長が強権を発動して直接的な職務権限のない事案に影響を及ぼす行動を取ったことにも支持するものである。

この判断へのマスコミの批判は、「看板の架け替え」や「一夜漬けの判断」だとか、「生徒や入試を目指している学生のショックを考えれば可愛そう」だとして駄目出しをしている。ならば、それは「ラディカルに根本的な治療のため、入試を中止し教員を総とっかえしよう!」ということなのか、「教員も入試もそのままで、教員の意識改革だけすれば十分」ということなのか、せめてそのぐらいは明らかにしなければ卑怯である。多分、大多数は後者の方であろうが、これまで教員の意識改革のきっかけがあったのにそれを有耶無耶にしておきながら、「今回だけは心を入れ替えるから・・・」という言い分をどうして受け入れることが出来るのだろうか?そして、今回、自殺者が出たことの責任を誰がどのように取るというのか?単に、バスケ部顧問と校長が責任を取れば済むことなのか?この様な背景は多分、他の高校にも腐るほどあるだろうし、であればそのような高校(中学含む)からも第2の犠牲者が出ないような効果を含む措置を取らなければならないが、今回の判断を非難する人達が主張する別の方法では、その様な効果がどの様に担保されるのだろうか?

多分、今回の判断に駄目出しする人達はこれらの疑問に対する答えを持たない。将来また犠牲者が出たら、第3者的な立場としてその高校をボロ糞に非難しながら、結果としては「その高校内で個別に対応してくれ!」と考えるのだろう。つまり、何も変えなくても自分がその責任を問われることがないから暢気なことを言えるのである。ある案を批判するなら、その対案を示すのが筋であるが、このような人達は誰もその対案など示さない。何故なら、対案を出せばそれを批判する人が出てくるのは明らかだが、そんな批判に責任を持って対応するのは面倒だからである。

ちなみにこの様に言えば、多分、上述の人々は開き直って「では、今回の判断は余りにも中途半端じゃないか!もっと、根本的な解決をすべきではないか!」というはずである。であれば、その人達には声高に、「普通科への振り替えなど許さず、体育科の入試を完全に中止すべきだ!教員も総とっかえだ!」と叫んで頂きたい。しかし、彼らはそんなことは絶対に言わない。その理由は、体育科の入試を完全に中止するという選択肢は今回の判断よりも劣る判断であるという共通認識を彼らも共有しているからである。

少し頭を冷やして、では今回の判断がどの様な効果をもたらすのかを考えてみたい。一部の人は、体育科としての入試を中止した影響を受けるのは新入生であるが、しかし来年も高校に残る在校生は何も代わらないのだから、根本的な解決などにはなっていないと考えるかも知れない。ここで「根本的」という言葉が引っかかるのだが、仮に「実効的な効果があるか、ないか」で議論するならば、今回の措置は無意味であるという捉え方は明らかに誤りである。これまでであれば、ある部活の顧問が何か問題が起こしても校長や教育委員会からお叱りを受けてそれで終わりだった。父兄が擁護してくれれば、学校は何も出来ないことが明らかだった。だから今回の事件が起きてしまった。しかし、今回の措置以降は、あるひとつの部活の顧問が問題を起こすと、永久に体育科が廃止されてしまう可能性を予感させるものであり、その部活だけ、ないしはその教諭だけの問題ではすまなくなることを世に示す効果がある。だから、ひとつの名門高校の歴史をそこで途切れさせるリスクを犯してまで無茶は出来ない、さらには管理側もトドメを刺される前に問題の芽を早期に摘み取ろうという気持ちになるだろう。言わば、連帯責任の明確化をはかり、伝家の宝刀(例えば体育科や部の廃止)をいつかは抜くぞ!というブラフをかけることができるのである。

一方、受験生や在校生はどういう実効的な被害を受けるのか?在校生は既に自殺者を出して精神的な被害を受けているし、受験生は問題が起きた高校に入学してよいのだろうかと悩んだりもしただろう。しかし、今回の判断で追加で受ける被害は、多分、上辺だけの名目上だけの被害である。例えば、過去にもスポーツで有名な名門校が、少子化に伴い市町村内の学校の統廃合などで他の高校と併合され、その結果として日本中に名を轟かせた有名な校名が消えるということを経験している。在校生、OB、その高校を目指している受験生にとっては非常にショックであるが、これを非難する人はいない。今朝のフジテレビの「とくダネ」では、小倉さんが「彼らは、『どこの高校出身?』と聞かれて、『桜宮高校の体育科』と答えられなくなるんだよ!可愛そう!」と言うような発言をしていたが、誰も出身高校を問われて「体育科」か「普通科」かを答える奴はいない。名門の校名自体が無くなってしまう人達からすれば、高校名は全くの無傷で「体育科」か「普通科」かの名称だけに差が生じ、一方で受験科目も配点も入学後のカリキュラムも変わらないのであれば、影響は極めて限定的であると言うべきである。だから、在校生および受験生からすれば「名を捨て実を取った」というのが正しいところだろう。しかし、先ほど説明したように教員および教育委員会にとってはとてつもない銃口をこめかみに突きつけられた様なもので、入試は実施することになったが、今後の活動への強い制約が重くのしかかっているというのが現状である。生徒とは全く逆である。

最後に、桜宮高校の各部活の部長OBの3年生が大阪市役所で集団で記者会見の様なものを行ったが、マスコミにはこの記者会見を仕組んだのが誰かを明らかにして欲しい。(裏などもちろん取ってはいないが)多分、父兄や教員などからのアドバイスを受けての行動だと推察する。如何にも子供を山車に使うというやり方が汚い。私は、生徒が自発的にこの様なことをするのであれば、それ自体は正しいと思うが、その会見を行うのが何故3年生なのかがどうしても納得できない。今回の事件で、最も傷ついた在校生は自殺者の同級生である2年生であり、バスケ部のチームメートである。だから、各部の現役部長である2年生、バスケ部の2年生を中心とする部員、自殺した生徒のクラスメートがあの場で記者会見をするならば私は納得する。しかし、今回の記者会見を行った生徒たちは学年が異なり、部活も違うとなれば、自殺した生徒の痛みを同学年のより近しい友人と全く同じように感じることができないはずである。であれば、その様な生徒が体育科の存続を訴えても何ら不思議ではなく、しかしその意見は本来耳を傾けるべき深い傷を受けた自殺した生徒と近しい生徒の意見とは異なるものである可能性が高い。実際、2年生はその会見には参加していなかったのではないか。まもなく卒業してしまう3年生は、実効的には失うものなど殆どない。だから、2年生が同じ意見を持っているなら、2年生に記者会見をするように促しているはずだ。彼らは橋下市長を非難し、今回の判定を不服としている現状維持派なのだから、仮に2年生であってもその発言は学校や部活の顧問にとって援護射撃となり、少なくともその後に先生などから嫌がらせを受ける心配はない。しかし、逆に入試中止を肯定する発言を2年生が発言したら、部活の顧問から目をつけられるリスクがある。これら一連の背景を考えれば、3年生の記者会見というのは非常に胡散臭いものを感じざるを得ないし、それがこれからまだ桜宮高校に在学する「真の意味での当事者」の総意であるのかといえば甚だ疑問である。

マスコミたる者は、その様なことも含めて是々非々で取り組むべきである。絵になる映像が取れるからと、それを流して「そうだ!そうだ!」と後ろから野次る無責任さではいけない。なお、少しだけ補足しておくが、私は「体罰禁止」だからと言って、先生が生徒との接触を恐れるような事態は望まない。悪いことをする奴に対し、1回だけ頭をひっぱたくぐらいのことを認めなかったら、生徒は先生を舐めきってしまうだろう。だから、「物には限度」というグレーゾーンが残ることは許容する。

話が二転三転して恐縮だが、今回の事件を通し、誰が責任感を感じているのか、逆に誰が無責任なのかが浮き彫りになったような気がする。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

中国の「敵国条項」カードを封殺する必殺技の提案!

2013-01-20 22:28:52 | 政治
鳩山元総理が中国の罠に自ら飛び込み、菅元総理が「もう少し考えて行動・発言をするように」と嗜めるという非常に笑ってしまう事態が起きているが、事態はそう笑っていられる状況ではない。小野寺防衛相が「久しぶりに頭の中に『国賊』という言葉がよぎった」と発言したとも報道され、常識的な感性の持ち主であれば「そう簡単に『国賊』という言葉を使うな!」と感じるところだろうが、この小野寺防衛相がなぜ「国賊」という言葉を使わざるを得なかった背景を考えれば、私はつくづく小野寺防衛相に共感するところである。その理由は、以前から一部の新聞紙面では話題にはなっていたが、中国の持つ最終兵器は核ミサイルでも何でもなく、国連憲章第53条、107条の「敵国条項」というものであり、鳩山元総理の行動はその最終兵器の安全弁を外して何時でも最終兵器(敵国条項)を発射可能な体制に近づけることに協力しているようなものだからである。

この国連憲章の「敵国条項」を理解するには、以下のページを参考にすればよい。私の好きな「ぼやきくっくり」さんのページで紹介される青山繁晴さんの番組の文字起こし記事と、(「ぼやきくっくり」さんが引用している)さらにポイントを絞り込んで紹介している雑誌Willからの記事抜粋である。

2013年1月16日放送 関西テレビ「アンカー」青山繁晴「ニュースDEズバリ」

月刊WiLL:2013年2月号(2012年12月26日発売)「中国の奥の手は『敵国条項』

ポイントを要約すれば、我々は「国際連合」と聞くと世界各国が公平に扱われる平和のための国際機関と勘違いしてしまうが、United Nationsの正式な略は「国際連合」ではなく第2次世界大戦の「連合国」というのが世界中の常識であり、その戦勝国である連合国に都合の良い議論をしましょうというのがUnited Nationsの元々の趣旨であり、その後に「国際連合」の意味合いにシフトしつつはあるが、国連憲章第53条、107条には第2次世界大戦で旧敵国であった日本、ドイツ等(イタリアなども含まれるが、少々複雑な背景がある)が旧戦勝国に対して侵略行為を取るときに、国連決議などを経ずして自由に攻撃できるという例外規定である。そして、実際、楊潔篪外相が昨年の9月27日に国連総会の一般討論演説で「日本は尖閣を盗んだ」と発言したが、この背景には国連憲章に照らせば日本は侵略行為を再開したので敵国条項の対象国に成りうるとの意味合いがあり、最終兵器(敵国条項)の引き金を引く準備があるのだと警告したと受け取られる。

だから、尖閣が国際的な係争地であると認めることは、中国の主張にも一理あることを日本が認めることになり、であれば尖閣防衛のためにここに自衛隊が軍事行動を起こせばまさに「中国にとって日本が敵国である」と中国が主張する口実を与えることになる。そして、少なくとも日本の総理経験者である鳩山元総理が、その中国の主張に沿った考え方であると世界は受け止めるかも知れない。しかも、この敵国条項を根拠とする軍事行動は国連憲章に記載される明文化された権利であり、2国間の条約に過ぎない日米同盟よりも上位の条約であるから、国連憲章に基づき中国が日本を攻撃する権利を米国が阻害すると、今度は米国が国連憲章違反を行ったことに該当し、アメリカ国内の世論として「国連憲章を破ってでも日本を守るべき」か、それとも「国連憲章を優先すべきか」の意見が割れた場合、即座に米軍が出動できなくなる可能性があるのである。この判断の遅れのタイムラグは致命的で、一端、尖閣が中国に落ちれば、そこから先の奪還作戦はそれなりに大掛かりになるから、時の日本政府にそれだけの覚悟があるかが問われることになる。先の小野寺防衛相の発言には長い長い行間があり、その行間を解説すれば、敵国条項に起因するリスクを日本国民に与える行為を総理大臣経験者が軽はずみに取るのであれば、それは確かに「国賊」と呼ばれるに値する内容であるということなのだろう。

ちなみに蛇足ではあるが、この敵国条項は既に国連の場で削除の決議がなされているが、国連憲章の条文の変更が有効となるのは国連加盟国の2/3以上の国での批准が条件となるから、結果的に現時点では変更がなされずに放置され、次の国連改革の機会にまとめて批准してもらおうというペンディング状態にある。だから、法の精神としては明らかに無効であるが、明文が残されている事実は動かし難く、ブラフとしては十分な最終兵器となりうるのである。

ただし、ではお先真っ暗かと言えばそうではない。まず第1に、この最終兵器は核兵器ではないが両刃の剣であり、日本を傷つけることができても中国側の返り血はそれ以上に大きく、結果的に習近平政権は吹っ飛ぶだろう。だから、習近平総書記が自分の政治生命(および、中国共産党の生命?)を犠牲にしてまでその決断をするかと言えば、現実的には有り得ない話である。ブラフはブラフに止めるから意味があり、実際に引き金を引いたらブラフではなくなるので意味がない。

この意味では敵国条項はそれほど心配すべき事態ではないが、リスクマネージメントの観点からすれば、各率は低くてもイザと言う時に致命的になりかねない事態への備えを万全とするために、中国軍部の暴発のリスクも考え、何か保険を掛けておく必要がある。そこで私の提案である。尖閣諸島は沖縄が日本に返還されるまでは米軍の施政下にあったという歴史的な事実がある。そこで、日本政府は米軍に対し既に国有化された尖閣諸島への常駐を依頼するのである。もう少し正確に言えば、オスプレイの訓練飛行のためのヘリ基地として尖閣を利用する権利を10年間に渡り譲渡し、それに関連して米軍が尖閣にヘリ基地を建設することを許可するのである。ヘリ基地建設の作業には日本人は関与せず、基本的に米軍がとりおこなう。米軍に対する思いやり予算やグアム移転費用の追加配算などにより、実質的には米軍はヘリ基地の建設費用を負担せずに建設することになる。10年後(ないしはその時点でも国連憲章の敵国条項が削除されていなければ20年後かも知れない)、米軍からヘリ基地込みで返却されれば、その時点で自衛隊が常駐するための施設をリスクなしで譲り受けることができる。

この事態に中国側が対処できるのは軍事作戦ではなく、外交的な手続きで日米の不法行為を世界に訴えるしかない。であれば、その時は「だったら、国際司法裁判所へ訴えたら如何ですか?我々は受けて立ちますよ!」と答えれば良い。国際司法裁判所で日本国の領土と正式に裁定されれば、日本の自衛隊が尖閣に常駐しても「敵国条項」における侵略行為に該当しないのは明らかである。むしろ、この様な方向に中国を誘導していくのが賢明な策であろう。

もちろん、この様な行動の協力を米国に求めるには米国にとって大きなメリットが必要である。しかし、先のWillの記事ではないが、この尖閣を中国に占領された時のアメリカの東アジアにおけるプレゼンスに対するデメリットは大きく、そのデメリットのリスクを早期に排除できるというメリットは非常に大きい。軍事行動を伴わず、実質的には日本政府がその費用を負担し、しかも実戦を意識したオスプレイの訓練飛行にも最適な場所を確保できるのだから、オバマ大統領としても安部総理との日米同盟の深化の象徴となる取り組みとして魅力的ではないか。尖閣を失えば、その次には沖縄周辺の島々を手始めに、最終的には沖縄本島にまで中国軍の驚異は広がる。先手必勝の観点からは、これに勝る妙案はないものと思われる。勿論、海上保安庁や自衛隊などによる領海・領空の警備は引き続き行い、その際にもヘリ基地の安全確保の観点から米軍との協調行動が期待できる。

さて、話が戻るが産経新聞などでは、鳩山元総理を始めとする政治不信の元凶3人組が如何に世界的・日本の政治にマイナスの人物であったかを明らかにし、その結果として鳩山元総理の言動の価値の低さをアピールしている。さらに追加して言わせていただけば、北朝鮮と関わりの強い政治団体への献金問題など、民主政権の元総理たる人々は国益に反する行動を平気で行う人物であることを世界に発信し、日本が一時的に袋小路に迷い込んだことを告白し、その影響力を実効的に薄めていくことも地道に継続する必要があるかも知れない。そして日本という国は、その様な人達が誤ったことを世界に向けて発信しても許されるという、最も民主主義の進んだ国家であることをアピールすればよい。折しも、中国では言論の自由を奪う行為が注目を集めている。その言論の自由とは、「安倍総理のバカヤロー!」と叫ぶことが許されることを意味する。悔しかったら「習近平のバカヤロー!」と叫んでみれば良い。それが出来ることが如何に幸せなことか、世界中にはその価値がわかる人が多くいるはずである。その人達に、この現状を訴えるのである。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

国益を考えた外交戦略のあり方

2013-01-16 22:11:58 | 政治
相変わらず中国の軍部からの勇ましい挑発発言が続く。ただ、一昨日のブログにも書いたように、少なくとも習近平総書記を中心とする政権中枢の人たちは日本との戦争を望んでおらず、暴発的に何かが起きたとしても冷静な対応がなされるだろう。つまり、中国にとって日本との戦争というシナリオは習政権の終わりの始まりを意味するから、彼らにその様な選択肢はない。

では、どの様な選択肢があるのか?それは、南シナ海での領土問題で強硬な態度を取るというシナリオであろう。フィリピンやベトナムなどとの領土争いに対し、中国は尖閣諸島問題で日本に煮え湯を飲ませることで、「あれだけ大国の日本ですらかなわないのだから、お前たち小国などわけもない!」とプレッシャーをかけてきた。だから先に日本から大幅な譲歩を引き出すという戦略を優先し、中国国内での日本企業や大使館への暴動などを半ば先導してきた。しかし、安倍政権の成立で日本からの譲歩を引き出せる可能性は一気に下がってしまった。日米関係が再度強固になる傾向も見られ、米国は尖閣を日本が守ることを支持する立場を明確にしているから、中国にとっては戦争にならないギリギリのところで寸止めするシナリオを模索するしかない。となると、戦略は順番を逆にし、フィリピンやベトナムなどとの領土争いで先に強硬路線を示し、その結果として日本が対中国に対して慎重にならざるを得ない状況を作り上げた上で、領海・領空侵犯をエスカレートさせ、日本の実効支配のレベルを徐々に引き下げるというのが常識的なシナリオだろう。
実際、産経ニュースでも下記の記事が掲載されていた。

産経ニュース2013年1月16日「『中国と周辺国で衝突の危険性ある』米、南シナ海で危機感

米国務省の政策企画局長というポジションがどの様なレベルか知らないが、中国が南シナ海で先に暴発しないように釘を刺そうという意図なのだろう。言い換えれば、東南アジア諸国連合(ASEAN)というツールを用い、中国包囲網を強固にすることで世界の注目を集め、中国の選択肢を制限しようということだ。その意味で、安倍政権の外交戦略はなるほどと思わせるものがある。主要閣僚が訪れたのも、安倍総理が今日から歴訪するのもアジアの諸国である。しかも、中国でも韓国でもなく、まさにASEANを束ね上げるための外交のようなものである。これは、中国に対して強いメッセージとして働くのは間違いないだろう。

この点は、韓国の新大統領が米国、日本より先に中国に特使を送り中国重視の姿勢を示したのとは大きく異なる。韓国は、対北朝鮮の戦略を立てる上で本来は米国、日本との連携が重要であるにもかかわらず、中国を最優先に選んだのである。竹島を死守するために歴史カードで共闘してくれる中国を選んだわけで、国際司法裁判所への単独提訴カードが韓国にボディーブローのように効いていることの査証であろう。しかし、中国が尖閣絡みで起こした問題がチャイナリスクを世界に知らしめたように、中国、韓国の無理筋の行動はオウンゴール気味の結果につながった。だから、安倍政権は焦らずに地道な正攻法、正論で対応をし続ければ良い。安倍総理の年頭の記者会見でも「政治的目的を達成するために、中国の経済・社会に貢献している日系企業・個人に被害を与えるのは、国際社会で責任ある国家としては間違っている」と明言し、極めて正論で世界中の常識に訴えた。私は「よくぞ、言ってくれた!」と感激しながらこの記者会見の記事を読んだことを覚えている。民主党政権で出来なかった正論・成功法を安倍政権が繰り返せば、結局、追い込まれるのは中国(および韓国)なのである。多くの人が安部総理をタカ派総理と思っているようだが、私の認識では「タカ派」とは戦略もなくナショナリズムを振りかざして強硬論を主張する旧日本陸軍の様な考え方をする人であり、まさに現在の中国中枢にこそそのような傾向がある。一方、安倍総理は国益を優先して戦略を用意周到に練っており、リスクの大きい国益にそぐわない弾けた無理筋の行動は取らないから、安倍総理は「タカ派」とは異なる概念で捉えるべきなのだろう。今後の安倍外交はこの様な視点で見ると面白いかも知れない。

勿論、偶発的な軍部の暴発もあるかも知れないが、そのような事があればあるほど習近平政権は追い込まれる。これまたオウンゴールなのである。安倍政権は国際世論を味方につける抑えた行動により、問題が加熱するのを抑え、微博(ウエイボー/Twitter)を中心とする中国国民の声を味方につけて中国政府のクールダウンを図るようにすれば良い。どうせ、全面戦争には成りえないのだから・・・。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

給付付き税額控除(単一消費税率)とインボイス方式の併用ってアリ?

2013-01-15 23:08:58 | 政治
最近、消費税の軽減税率の話題がマスコミを賑わせている。今日は素人ながら個人的な見解を整理しておく。

税金のあり方を議論する場合、私は最も重要なのはその透明性と公平性だと信じている。ここを基準に考えれば答えは自ずから見えてくるのではないだろうか?結論から言えば、私の答えは軽減税率には反対であり、民主党が唱えるような給付付き税額控除が良いと考える。ただし、私の主張にはもう少し話が後に続く。インボイス方式を同時に採用するのである。既に消費税についての議論が話題になっているからご存知の方も多いと思うが、色々なホームページで細かな説明がある。ただ、私のような素人が分かり易いのは下記の「教えて!Goo」の様な説明だろう。

教えて!Goo「消費税インボイス方式のメリット

まず、現在のように全ての商品の税率が同一であれば、請求書等により売買の総額が分かればそれに消費税率をかけることで簡単に税額が求まる。しかし、複数税率を導入するとその異なる税率の品目ごとに細かな明細がなければ計算が不可能なわけで、請求書等に適用税率及び税額の記載を義務付けたインボイスなるものを利用する。例えばこの複数税率ごとの売買の詳細と税額を記入するための3枚綴りのインボイスを利用し、一枚は発行元の会社控え、二枚目は販売先の会社にて保管、残りの一枚は販売先の会社から税務署に税の申告の際に添付する。これにより、税務署は反面調査が可能になり、その透明性が向上して脱税を回避可能にする。

この様に書くと、インボイス方式は複数税率とセットの方式の様に思える。単一税率であればインボイス導入の必然性などないのは事実である。現在、このインボイス方式が導入されていない理由は、その事務処理の煩雑さから特に小規模な事業者に負担が大きすぎるということであり、その意味で単一税率を前提とする給付付き税額控除方式ではインボイス方式の導入はマイナス面だけの様に思える。しかし、上述したとおり、納税の透明性の確保の上ではインボイス方式は非常に重要な方式であり、今後消費税率が向上すれば、その意味合いは大きい。特に、現在の消費税では、少々細かなところである種の条件(課税期間の基準期間における課税売上高が1千万円以下)を満たす事業者は納税の義務が免除されるというルールがある。つまり、売上に消費税を付加して消費者から徴税しておきながら、その集めた税金を国に納付せずに懐に入れることが限定的ではあるが許されている訳である。

しかし、消費税というものが税の逆進性という問題を内在しているがために「複数税率」と「給付付き税額控除」という選択肢が議論されるならば、小規模な事業者の負担増というものに対しても「消費税納税の免除」という現行方式に加えて小規模事業者に対して「(法人税や所得税などの消費税ではない本筋の税に対する)税額控除」という選択肢があっても良い。あくまでも、全ての税種に対する課税対象額が明確になった上で、ある種の条件を満たすと税務署の主導のもとで税額控除がなされ、この結果として透明性を確保することができる。透明性の確保により税収は増加する方向になるし、消費税納税の免除が廃止されるから、税額控除の原資は十分に確保できる。さらに工夫をして台湾のように宝くじ的な遊び心を加えるのもひとつの案だろう。

これから消費税率は欧州のように15%を超える時代にいつかは日本も突入する。私が訴えたいのは、その際、国民に不公平感や不信感があっては絶対に徴税は成功しないということである。消費税の納税免除などはどう考えても許しがたいし、複数税率が導入されれば様々な業界が政治家に軽減税率の対象となるように働きかける動きが活発化し、政財の癒着の根源となる危険性が高い。欧州の高い税率の消費税は長い歴史があるが、どう考えても不自然な扱いのものは腐る程ある。既に出遅れた感のある日本人はあまり納税意識は高くなく、国のために納税するという意識よりも、あわよくば払わずに済ませたいという意識が強い。この様な国である種の業界の働きかけで税率が左右されたという事態が明らかになれば、政権が崩壊するようなことにもなりかねない。納税は国民の義務であるという意識を高める上でも、多少の事務作業が煩雑になることは覚悟の上で、インボイス方式を導入することは意義があるのではないだろうか。

そして、将来、消費税率が15%を超えて真の意味で複数税率が避けて通れない時代が来た時に、インボイス方式が既に定着していればその時の選択肢(複数税率を含む)も広がるだろう。私は素人だから色々抜けているところがあると思うが、現在の議論にはタブーが多く、正しい議論となっていない気がする。真の意味での選択肢を全て出し切り、それから政策の絞込みを行って欲しい。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

安倍政権だからこそ平和を維持できるというシナリオ

2013-01-14 23:53:54 | 政治
産経ニュースに下記の記事があった。

産経ニュース2013年1月14日「『戦争の準備をせよ』対日想定…中国軍指導部が全軍に指示

何とも物騒な話で、一部の人は「これは大変だ!直ぐに中国に頭を下げねば!安倍政権なんてもってのほか!」と言い出しそうな記事である。しかし、本当にそうであろうか?

私は単なる趣味でブログを書いている身だから無責任な発言に終始するが、多分、真実はその真逆であろう。中国に対して貢献外交を続けた民主党政権であればヤバイと感じていたところであるが、安倍政権になったがために戦争の可能性は限りなく低いものと考えるべきであろう。習近平政権がこの様な強硬路線に走るのは、この記事にもあるように権力闘争の中のひとつの動きであるのは確かだろうが、裏を返せばそれだけ習近平体制が不安定であることの裏返しである。習近平総書記に比べれば比較的温和な胡錦濤国家主席の息のかかった軍部に対し、より強硬な態度を示すことで一気に人心を掌握し、逆転をしようと試みているのであろうが、実際に尖閣の奪い合いを行った時に中国にはほとんど勝算はない。第一、尖閣が日米同盟の対象となるという決議までなされているわけだから、本気で戦を仕掛けたら仮に万が一に自衛隊で防ぎきれずとも、米軍の反撃を受けて尖閣からの撤退を余儀なくされるのは確実である。それ以前の問題として、核ミサイルの使用を前提とすれば日本をある程度叩くことはできるかも知れないが、通常兵器で比較すれば専守防衛に徹する自衛隊の防衛能力は高く、中国の軍部の上層部は現実には戦って勝ち目がないことは熟知している。唯一、中国に勝算があるとすれば、尖閣を急襲して一気に支配下に起き、その周りを軍艦で囲んでその本気度を示した時に、日本政府が怖気づいて自衛隊がその奪還を行うための行動を起こせない状況が期待できる場合である。民主党政権下ではその様な状況が容易に想像できたが、安倍政権では絶対にその様なことにはならないことが目に見えているから、中国はその唯一のシナリオを封じられたことに等しい。

この様に考えれば、如何にして平和を維持するかといえば、ニコニコ呑気な笑顔を振りまいて「仲良くしましょう!」というどこかのルーピーの友愛精神では役に立たず、「常識的な行動を取れなければ世界から孤立しますよ!」という強いメッセージを力を込めて訴えることが有効である。そして、基軸となる日米同盟を揺るぎないものにし、中国と言えど、暴発することが許されない環境を整えるべきである。

ところで、この様な習近平政権の強硬路線はどの様な着地につながるのであろうか?まず、この様な強硬路線の報道は軍の機関紙から発信されているが、常識的に考えれば軍が戦争の準備を本気で始めるというのであれば、本来は秘密裏に行うのが筋だろうから、これは習近平政権側からの意図的な情報発信であるのは間違いないだろう。習近平政権にとってこの様な報道が何故都合が良いかといえば、南方週末の様な国内での反政府的な動きを封じ込めるには、戦争の危機意識を高めることが有効である。だから、色々な理由があるのではあろうが、このタイミングというのは半分ぐらいは反政府勢力への牽制的な意味合いがあるのだろう。しかし、現実問題としては習近平政権は何も手を出すことはできない。戦争となれば戦争特需などの景気刺激効果はあるのかも知れないが、アメリカをも巻き込んだ全面戦争などありえないから、実際には直接手を出さずに睨み合いのチキンレース状態がある程度継続することになる。この時、日本との貿易はストップすることになるが、この際に日本も致命的な傷を負うことになるが、経済成長率が鈍化した中国にとっては日本以上の致命傷となり、さらに世界中の資本が中国から一気に逃げ出すことになる。この時、中国中には職を失った失業者が溢れかえり、これらの鬱憤を反日的な行動で全て晴らせるわけがなく、反政府的な動きは一気にジャスミン革命的な動きに発展する。しかし、その様な動きがあれば軍部内の比較的に穏健な勢力が先手を取ってクーデターを起こし、政権を転覆させるかも知れない。

その様なシナリオを幾つか把握した上では、習近平政権はこのまま弾けてしまうことはできず、ちょっとだけ脅しをかけて日本からの譲歩を引き出そうとその為の罠を考えているのだろう。しかし、その罠に日本が興味を示さなければ、中国は手も足も出ない。結局、政権の醜態が明らかになれば、南方週末などは更に勢いづいて行動は過激化する。この動きは中国政府の弱体化に繋がり、日本にとっては好都合なシナリオを描きやすくなる。そこから先のシナリオをどの様に描くかは安倍政権の腕の見せどころだろう。安倍政権の東南アジア歴訪などは、その手始めの戦略なのであろう。

多くの人は、タカ派の安倍総理の登場で極東アジアに危機が訪れると考えるのかも知れない。しかし、実際にはその真逆である可能性も十分にある。無責任なメディアは「友愛」と言っていた方が楽なのであろうが、そろそろメディアも成熟すべき時なのだと思う。私は、今回の流れをこの様に理解した。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

景気の「気」を感じさせる人事

2013-01-10 22:24:23 | 政治
安倍政権が活発に動き出している。デフレ脱却と成長戦略のための車の両輪として、経済財政諮問会議を復活させ、日本経済再生本部を新たに設置して日本の再生を目指している。詳しいことは良く分からないが、報道によれば経済財政諮問会議はマクロ政策を、日本経済再生本部はミクロ政策を行うという記述も見られた。素人なりに理解したことを整理しながら、この辺の事情についてコメントしたい。誤りがあったらご指摘いただければ幸いである。

理系の私は経済のことは良く分からないが、良く分からないなりに私の理解ではこのでのマクロ政策とミクロ政策というのは、マクロ経済学とミクロ経済学とはあまり関係なく、マクロ政策は(こちらはマクロ経済と直結しているかもしれないが)アベノミクスで言うところの金融政策(財政政策も一部含む?)を担い、ミクロ政策は成長戦略の具体策を実行することを担っているように理解した。ここでのマクロ経済政策は金融緩和と円高誘導を中心としており、専門化レベルの詳細な政策では色々あるのだろうが、既に大きなベクトルの方向性を定めるところまでは多くの方々で共有できているのだろう。その意味では、小泉政権時代にはあやふやであったベクトルの方向性を力技でひとつの方向に定めるのに苦労したのかも知れないが、現在の安倍政権では安倍総理のブレーンを中心として定める方向性を全閣僚が共有できているのだろう。だから、現時点では未だに方向性が定まらない成長戦略の方が重要度は大きいのかも知れない。昨日発足した経済財政諮問会議に名を連ねる4人の民間からの有識者も十分にアベノミクスの牽引役に相応しい方であるのだろうが、上述のように重要性という意味では車の両輪のもうひとつの方である日本経済再生本部側に、どの様な人材が配置されるかの方が重要である。と言いながら少々言葉が不適切であるが、日本経済再生本部自体はほぼ閣僚で構成されるから、実効的にはこの日本経済再生本部の配下で具体的な政策を提言する役割を持つ産業競争力会議が日本の浮沈の鍵を握ることになる。一昨日に確定したこの産業競争力会議のメンバの顔ぶれを見れば、ある種の共通項が見えてくる。それは、評論家にありがちな「問題点を指摘する」ことに主眼を置いた人材ではなく、ではどうすれば良いかの具体的なアクションを提案できる人選に主眼を置いているということである。

一昨日の報道ステーションには、このメンバに選ばれた小松製作所の会長の坂根正弘さんが出演されていた。この方の発言を聞いていると、危機的状況の捉え方が単なる評論家とは異なることが良く分かる。10年ほど前に業績の落ち込む企業の最高責任者として失敗の許されない舵取りを任された時、改革の返り血を恐れず、されどその痛みを伴う手術を何度も行う体力がないことを意識し、たった1回の大手術で一気にV字回復を達成するための戦略を練り実現する。成功しても更なる発展のために戦略を立て、技術で勝ってビジネスで負けるという日本人特有の傾向を如何にして脱するかを考える。多分、受身の立場で待ち受けるのではなく、攻めの姿勢で積極手にアクションを取る。色々と番組の中で聞いたお話からは、彼は明らかに評論家ではなく、実務家としての活動が評価されている方のようである。経団連の米倉会長の発言をテレビで見ていると首をかしげることも多いが、この坂根さんという方は経団連の副会長でもあり、この様な方がいるから経団連も機能しているのであろう。

さて、この産業競争力会議のメンバにはあの竹中平蔵さんやローソンの新浪剛史社長、楽天の三木谷浩史社長などが含まれている。アイデアマンで積極的に攻めの姿勢を貫く実務家が揃う。この辺が安倍総理の真剣さの現れであり、民主党政権との違いであろう。民主党政権では政治主導というお題目を達成したいから、政治家が前に出すぎて後ろの黒子がないがしろにされる。菅元総理などは鳩山政権時代には財務大臣を経験したが、例えば経済学部などの学生であれば教養課程で習うような乗数効果という単純な概念を知らず、結局はど素人でありながら政治主導というお題目を掲げていい笑いものになった。それをそのままコピーしたかのように、民主党政権時代の政策には乗数効果という視点で効率の悪い政策が多い。野党として政府与党を糾弾するだけなら自分の得意分野に的を絞り、人のアラを探しまくれば足を引っ張ることができる。攻める側の菅元総理は確かに強さがあったかも知れない。しかし、自分で政策を立案する側になった途端、何も出来ずに短絡的な政策を打ち出して景気の足を引っ張った。この様な評論家精神が強い無責任な立場では、何も筋の良い変革などは出来ない。それを、世界中の様々な国々の政策の目利きをし、筋の良い政策が見つかればそれを選択して導入を検討すると共に、未だに解決の糸口のない課題にはこれまでにない新しい画期的な政策を立案する。これでもか、これでもか、と言うぐらいに具体的な提言を行い、それがアベノミクスのブースターロケットになっていく。

竹中平蔵さん曰く、景気は「気」からと言うように、期待は自己実現をするということらしい。この意味で、「実現できそうな気がする」という希望を与えることは、成功の第一歩なのだろう。私はそのような「気」を産業競争力会議のメンバを見て感じた。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

対立から協調に変わる瞬間!

2013-01-09 23:55:03 | 政治
今日は帰りの車の中で某ラジオ番組を聞きながら帰ってきた。今日はジャーナリストの上杉隆さんがメインキャスターで、ゲストに日本中の火力発電所の現状をしらみつぶしに調べてまわり「ブラックアウト・大停電を回避せよ!」という本にまとめた夏目幸明さんが招かれていた。この方は、内容的に原発推進派のバイアスがかかった人かといえばそうではなく、再生可能エネルギーを推進すべきという考えの方だが、ただその移行期間においての考え方がラディカルではなくて現状を調べ尽くした上で、様々なリスクを天秤にかけて判断する現実主義者ともいう方だろう。

さて、本当に言いたいことは最後に書かせていただくとして、まずはこの番組での議論の流れを簡単に紹介する。私はこの本を読んでいないが、下記のサイトを見ると概ね、今日の議論を知ることができる。

PHP Biz Online衆知2012年11月12日記事「報じられない『火力発電頼み』の限界(夏目幸明)」

要点だけを抜粋すれば、大飯原発が再稼働した際に、関西電力では一斉に火力発電所を停止させたことがスクープされ関西電力がマスコミから一斉に叩かれた。これらの背景には脱原発のバイアスが大きくかかった人達が主導し、原発などなくても電力は十分足りているという刷り込みを一般国民に行うため、かなり偏った情報を垂れ流したことが明らかである。ある意味で良心的なジャーナリストは、実際にはかなり綱渡りの現状であり、特に老朽化した設備を無理やり動かして何とか急場を凌いだという報道を行っていたので、この記事に書かれた内容はそれほど私にとって驚く程の内容ではないが、ただ、その綱渡りの程度がどの程度リスキーであったかは伝わってくる。建設後40年以上を経過した原発を危ないというのと同様、火力発電所に関しても危険度は相当なもので、象徴的なのは緊急用の連絡設備は昔の黒電話の様なダイヤル式の電話機で、モニタはブラウン管、警報は電球でできた、如何にも昭和を感じさせるレトロな作りである。40年物の原発がどうかは知らないが、少なくとも常に後ろ指を刺されて危険視された原発であれば、原子炉は別にしても様々な安全管理の機器類は逐次新しい信頼性の高いものと取り替えられていたであろうが、滅び行く火力発電所はそうはいかず、昔のままの姿を留めているという。このため、不具合・トラブルは起きて当然という中で何重ものバックアップでブラックアウトを回避するように安全管理がなされているのが現状である。

唯一私が驚かされた話は、年に10回もの不具合での運転停止(時として1日以上の継続停止を含む)を余儀なくされるようなこの様な老朽設備が何故取り壊されずに残してあるのかの理由である。よほどの夏や冬のピーク時の非常に限定的な時間にしか利用され得ない設備であっても、何かの緊急事態に備えて残しておくというのがその理由である。であれば、新設の火力発電所を作れば良いと思うのだが、実際にはピーク時とその他の需要は大きく異なり、折角新設しても殆ど使われずに休ませることになるから、新設せずに老朽設備を騙し騙し使っているのである。それは原発などは動き出したら定常的な出力を保ち続けざるを得ないから、出力を調整できない原発では常にフル稼働であり、その他の火力はガスコンロの炎や車のアクセルのように、必要に応じて簡単にON/OFFを微調整して利用し、最もOFFの時間率が長い使用頻度が低い発電をこの様な複数の老朽施設でカバーしている。このため、敢えて取り壊さずに使い続けているのだという。

しかし、原発が停止したために、殆ど使われなかったこれらの設備が3.11以降の夏冬はフル稼働する事態に至った。発電所とは全く関係ないが、私の会社でもビル内に非常用の発電設備を備えていたが、通常は殆ど使われることのないこの発電設備を夏場にはフル稼働させ、電力会社から供給される電力を減らす努力をしていた。しかし、その無理がたたってある日その発電機が止まり、緊急停電を何度か経験した。社内には終夜で動かすコンピュータなどの機器もあり、実は非常にリスキーな状況であったが、それでもバックアップを小まめに取るなどして自己防衛して夏場を乗り切った。関西電力を始め、今年の日本では確かに供給力が需要を上回っていたのは事実であるが、これはあくまでも結果論・確率論なのである。

この電力が足りる確率というのは、老朽化した設備などが一斉に同じ日に故障しない確率であったり、1昨年の夏のように大豪雨でダムに土砂が流れ込み、水力発電が継続的に利用できなくなるなどの自然災害が発生しないという確率である。だから、99%程度の勝算は十分にある話である。賭けとしてはそう悪くない勝負であるが、しかし、残りの1%の時に何が起こるかというリスクをどう評価するかが問題なのである。変な例え話であるが、オリンパスの損失隠しを誰もがケシカランというのであるが、多分、あの様な損失隠しが公になった企業は氷山の一角にしか過ぎず、確率的には内部の人が黙っていれば99%の勝率で隠し通して何年後かに景気が回復した時点でチャラにされる。その時、それに関わった多くの人が「正直に情報公開せずに、隠し通すのが賢明」という教訓を語り継ぐのであろう。しかし、この様に聞いて納得する人はまずいないであろう。それは、バレたら相当やばいのだから、上手くいったといってそれの味をしめて繰り返してはいけないと嗜めるはずだ。

今回の電力が足りた事情もこれと同様のものであり、これまでの原発推進派の人々が相当なバイアスをかけて安全神話を語っていたのと同様に、今回も脱原発派の人がこれまた相当なバイアスをかけて電力が足りるという逆の安全神話を作り上げたのである。福島第一原発にしても、(本当か嘘かは別として)1000年に一度という大地震と大津波が起き、太平洋側の複数の原発は難を逃れて無事だったという状況で、唯一、福島第一原発だけが事故に合い、しかもその後の展開にも不幸が幾つか重なった。だから、確率的に言えば「殆ど安全」と言いたくなる気持ちも分からないでもないが、それでも「安全とは言えない」というスタンスで臨むというコンセンサスが現在は出来上がっている。ならば、何故、老朽化した火力発電所や水力発電所のトラブルが連続することが問題とならないのか?それは、やはり「逆の安全神話」のバイアスによるところが大きいのは明らかである。

さて、ここまで書いてきて、今日書きたかった本当のポイントを書いてみよう。この番組のキャスターであった上杉隆さんは、福島の原発事故に対して非常にラディカルな方で、私は元々好きだった上杉さんのことをかなり幻滅して見るようになった。当然ながら脱原発派とも言うべき存在であるが、しかしその上杉さんがこの夏目さんの主張を認め、この様な視点をも含めて真の意味での安全とは何かを考えようとしている点に私は感動した。議論とはこうでなければいけないのである。自分の主張と対立する立場の人の意見を謙虚に聞き、自らの主張の弱点は弱点として認め、0(ゼロ)か1かの判定ではなく移行期間も含めた真の意味での現実的な解を模索せねば問題は解決しない。原発容認派は原発の危険性を訴える人の話をよく聞き、逆に脱原発派は電力供給のリスクと年3兆円といわれる発電コストの増加による経済へのマイナス効果を熱心に聞かなければならない。それらの議論の先に、最も現実的な解があるはずである。

今日は対立から協調へのシフトする可能性を感じることができた。それが一番書きたかったことである。政治も同様である。とにかく前に1歩踏む出すのである。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

大津事件と靖国放火犯に見る日韓の違い

2013-01-08 23:38:05 | 政治
先日、靖国神社への放火犯が韓国から中国に移送された。韓国でもソウルの日本大使館に火炎瓶を投げ入れ逮捕され、身柄を拘束されていたところで靖国神社への放火についても自供していたようで、本来の日韓引渡し条約に従えば中国への移送ではなく日本に引き渡されるべき事案である。しかし、これを中国からの圧力と国内の反日世論に屈し、法律を曲げた判断を裁判所が行ったのである。これが韓国政府の判断というのであればまだ分からなくもないが、法律を唯一の拠り所とする法治国家の要である裁判所の判断というのがポイントである。これは、一昨年の韓国最高裁での慰安婦問題に対する韓国政府の不作為を認定する判定とセットで理解すべき、極めて政治的な判断を法律に優先させた結果である。建前上は政治犯ということだが、安倍総理や菅官房長官が言うように、「政治犯」というものの韓国政府および韓国の司法界における定義を明確にするよう日本政府として公式に求めることが重要である。

さて、思い起こせば日本にも類似の政治的な判断と法律の間でのせめぎ合いとも言うべき事件が過去にあった。中学、高校の歴史でも学んだ大津事件である。今から100年以上前の明治24年の話であり、当時は大国であったロシア帝国の皇太子が滋賀県の大津で警備の警官に切りつけられ怪我を負ったという事件である。命には別状はなかったが、ロシア帝国が日本に報復することを恐れ、一般世論や政府の間にも犯人に対して死刑を求める声が多かった。しかし、法律に照らせば死刑に該当する事案ではなく、Wikipediaによれば「時の大審院院長(現在の最高裁判所長官)の児島惟謙は『法治国家として法は遵守されなければならない』とする立場から、『刑法に外国皇族に関する規定はない』として政府の圧力に反発した。」のである。ロシア帝国からは強硬な死刑求刑を求める動きがあったが、結局、法は法でありその規定に純粋に従えば一般人に対する謀殺未遂罪が該当するということで無期懲役止まりになった。

これは所謂「司法の独立」として日本が法治国家であることを示した歴史的な事件であるが、今回の韓国の判断を見る限り、かの国では法律に優先する何かがあることが明らかになった訳である。分かりやすく言えば、ウサマ・ビン・ラディンは政治犯かといえば答えは否であり、政治的な背景を伴う殺人者なのである。政治犯という言葉の定義は今回の韓国の例のように、時として姿を変える場合もあるようだが、世界的な常識の範疇で言うならば、思想・信条的に反政府的な者を革命や政権転覆というリスクを、(時の政権の立場からすれば)実現される前に予防的に排除することを目的として犯罪者と位置づけるものが政治犯であり、その思想・信条を背景としなければ本来は逮捕されずに済んだハズの特殊な犯罪者を本来は意味するはずである。ビン・ラディンは政治的な思想信条を抜きに、人を殺したのだから単なる殺人者であり、そしてテロリストである。思想信条を除けば本来は逮捕されるべき犯罪構成要件を満たしていないものを、ある国の政府がその者を犯罪者として処罰する危険性があるとき、その政府からの引渡し要求に対して拒否することは多分、世界中の多くの国で支持されるものであろう。しかし、韓国でのケースでは放火という極めて重い罪を犯していることが明らかであり、しかも日本では過去の実績から思想信条を理由に本来の罪を遥かに超える理不尽な量刑を言い渡すリスクが殆どないのは明らかである。であれば、韓国には「政治犯」とは何であるかを明らかにする義務があり、そしてその定義に照らして今回のケースがどうであったかを説明する責任もある。

これは、日本と韓国の小さな話題ではなく、国際的にこの問題をアピールし、世界中の3件分立が確立した先進国の国々にことの是非を問うべきである。そして、安倍政権は民主党政権とは異なり、理不尽な嫌がらせには断固として闘う姿勢を示すべきである。我々が求めることは、世界標準といえる世界の良心に照らし合わせ、全ての事案を事実をベースとして議論する土壌を醸成することである。歴史問題などはその最たるもので、戦争の勝者側に属する者の言い分で事実を捻じ曲げることの是非を問うものであり、日本に反省するべきところがあれば事実をもとにそれを明らかにすると共に、事実無根の言いがかりであれば証拠不十分であることも明らかにすべきである。

(中国に対しても同じであるが)日韓関係の改善を実現するためには、単に日本人であるからというバイアスを遥かに超えて客観的な視点から韓国側の大きな譲歩が前提条件になる。しかし、その様な譲歩は韓国政府にとっては「国賊」と突き上げられるリスクが大きすぎてとても決断できるものではない。だから、日本からの圧力という形ではなく、世界標準から大きく道を踏み外しているという世界各国からのプレッシャーにより世論を動かして行くしかない。そのためにも、ことを世界にアピールすることは非常に重要なのであり、竹島問題を国際司法裁判所に提訴することもそれらの一連の流れなのである。

ただ、この様に書きながら、個人的には日本にも法律に優先する何かを問われると答えられない汚点が存在する。それは憲法9条と自衛隊の存在の間の大きなギャップである。明文化するまでもない全ての国家に固有の権利である自衛権という概念でそのギャップを埋める努力をするのは分からないでもないが、少なくとも標準的な高校生が読んで理解できない様な行間を含む法律の条文が、国家の最上位の憲法の中に存在するということは、「法律に優先する何かが存在する国」と世界から見られても仕方がない。だから、「韓国と同じじゃないか!」と言われないためにも、この様な現状は改善しなければならない。憲法を維持するなら自衛隊の縮小・解散を、自衛隊を維持するなら憲法9条の改正を、そのどちらかを選択すべきというのはこれまた世界標準であろう。

最後の憲法問題は少々話を膨らませすぎたかも知れないが、今回の韓国の問題は(非常に許せない問題ではあるが)ある意味では日本の反転のきっかけになるかも知れない。物事を前向きに捉えて、安倍政権には前に駒を進めて欲しい。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

「分かっちゃいるけど止められない」は決して人を幸福になどしない

2013-01-06 23:57:45 | 政治
昨日に引き続き、既に過去の話を取り上げさせて頂く。それは昨年末のあるFMラジオの番組を聞いて思ったことである。

その番組は曜日ごとにコメンテータが変わり、毎日何らかのテーマを決めてそのテーマの鍵を握る有識者を呼び、情報を聞き出したり議論をするというものである。番組の方針として、概ねその有識者に沿った方向で議論が進む(と言うか、コメンテータの意に沿う有識者が呼ばれる)のが一般的だ。その日の番組も概ねその様に話が進んでいたが、いつもとは異なり所々でそのコメンテータがズバッと素朴な質問をし、その有識者が開き直り無茶な回答をすることで、その問題の解決の困難さを露わにしていた。

そのコメンテータは私も好きな竹田圭吾さんであり、確か沖縄の米軍基地の開放を求める団体の主催者?が有識者としてゲスト出演していた。基本的に竹田さんも沖縄に米軍基地が集中し、先の大戦で大きな犠牲を強いた上に今もなお続くその沖縄の不公平さには異論を唱え、特に日米地位協定という不平等な条約故に泣き寝入りする被害者が続出する現状に、沖縄だけではなく日本国民全体が怒っているというスタンスを貫く。その点は、ゲストの有識者の主張に私も大いに共感する部分があるが、ただ、米軍の日本におけるプレゼンスが今の東アジアにおいて不可欠であることは客観的に認めなければならないという1点において、そのゲスト出演者と竹田さんとの間にはギャップがあった。

例えば、竹田さんが普天間基地の県外移設において、基地を受け入れてくれる自治体を探すためにどうすれば良いかを聞いても、その有識者いわく、「受け入れ先など不要!即時、無条件での基地明け渡しをして完全撤退させれば、受け入れ先など探す必要はない!」と答え、質問者(竹田さん)の意図とは全く異なる議論を展開させていた。この手の議論は共産党や社民党に見られる議論であり、「外交をしっかりすれば戦争など起きないはずだから軍隊など不要」という前提に立つものである。しかし、世の中の歴史はその様な空理空論の通りにはならないことを証明しているから、「ならば、日本は独自の軍隊をより強化すべきか?」という問が続くが、それに対しても答えはNoとなる。

日本未来の党の「卒原発」という政策ならぬ夢物語の願望も、前回の選挙で打ち砕かれたように現実は甘くはないのだが、「民主党政権に一度は任せてみてはどうか?」という壮大な社会実験により日本国が如何に瀕死の状態に陥ったかを考えれば、それ以上に危険な日本からの米軍追放but自衛隊は現状維持ないし縮小という社会実験は試してみることは決してできない。少なくとも、共産党や社民党が親中の政治団体であるならば、最低でも中国の反日教育を止めさせるだけの政治的な対話の実績を示すべきである。しかし、彼らにはそれだけの政治力がないのだから、仮に彼らが政権を取っても日本の国益を維持しながら中国に様々な譲歩をさせることなど出来はしない。日本が徹底的な譲歩をすることで、中国がその1/100程度の譲歩を見せるというのが関の山だろう。フィリピンから米軍が退いて何が起きたのかを考えれば直ぐに分かる話である。

ただ、私がここで議論したいことは、単に(仮に辺野古移設が実現しても)沖縄に米軍基地が集中している問題をどうすべきかという話ではなく、この様な複雑な議論をする時に、非常にラディカルな主張が有益かどうかという問題である。ラディカルな主張は逆に問題解決を遅らせ、結果的に不利益を長く継続させる原因になりかねないという現実である。これは、良い/悪いの問題ではなく、事実として「メンツを取るか、実益を取るか」という2者択一を迫られた時に、「メンツを取る」と実益を失う可能性が非常に高いという問題である。だから、じっくりと考えた上で質問をすれば、「メンツを取る」という人が大多数派を占めるとは限らないのではないか。先の竹田さんも沖縄の各地を周り、住民の多くに基地問題の率直な感想を深く掘り下げていくと、上辺では「基地反対」と流行言葉で叫びながら、心の奥底では温度差が個人個人で異なることを指摘していた。元々、民主党政権になるまでは辺野古移転容認派が選挙での民意となっていた事実もあり、札束で顔を引っぱたいた結果とは言え、微妙な考えの人は意外に多い。であれば、「メンツよりも実益を取りたい」という人は潜在的にはそれなりの数を占め、今後、数年間の普天間の固定化の現実の後の選挙では、どの様に転ぶかは分からない。一方で、中国や北朝鮮の脅威は日増しに高まり、沖縄県内の米軍不要論は日増しに少数派へと転落することは容易に予想できる。

これは悲しい現実であり、だからこそ、沖縄以外の自治体での受け入れ先を長い目で見て探しながら、15年後、ないしは30年後の沖縄県内の基地の大幅縮小を地道に模索しなければならない。しかし、ラディカルな米軍追放論議は、この様な活動の必要性そのものを否定するものだから、その様な議論を続ける限り普天間は固定化し続けるのが現実である。

やがて、沖縄県内の意見は分極化し、住民内でも隣同士で対立するということもあるかも知れない。その責任が何処にあると問われた時に、勿論、政府に第1義的な責任があるのは事実であるが、そのラディカルな主張を貫く人々にもその責任の一端はあるのではないかと私は感じる。3.11前のラディカルな反原発派、原発推進派間の不毛な対立が、結果的に安全性を高める有益な議論を葬り去り、単なるメンツの争いが続き、それ故にあの事故を生じさせてしまった様に、双方に歩み寄りの気持ちがなければその先には不幸な未来が待っている。

「分かっちゃいるけど止められない」は決して人を幸福になどしないのである。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

反面教師に見る、真の意味での足元を固めることの意義の重要性

2013-01-05 21:55:13 | 政治
年末年始で長いことブログをお休みしていたが、また少しづつ、書ける範囲でブログを書いてみようと思う。本来は年初めで書くべきことがあるはずだが、昨年末にあった出来事である種の示唆に富む出来事について振り返ってみようと思う。今更くだらない話であるが、日本未来の党の分裂の話である。

ご存知のとおり、滋賀県知事でもある日本未来の党の嘉田代表が、小沢一派に軒先を貸して母屋を取られるがごとく、名前だけを貸して国民から340万票もの比例代表の得票を得ながら、比例代表で当選した7人中の6人を新しい生活の党に持ち逃げされてしまった。日本未来の党からの分党という形式ではなく、実効的には嘉田代表が追い出されるという形式となった。しかもご丁寧に、一旦、日本未来の党を生活の党に名称変更し、その後に追い出されることで嘉田代表の原発政策(実際は「政策」ではなく、「願望」でしかなかったが)に賛同した票に伴い発生する政党助成金も全て持ち逃げされ、自らのところには殆ど何も残らなかった。国会議員数が5人を切ったことで政党構成要件も失い、無一文状態で路頭に彷徨い、滋賀県議会からの最後通牒として「国政か県政かの何れかを選択せよ!」との要求に屈し、その辛うじて名前だけ残った「日本未来の党」の名称も手放す形で代表職を辞任することとなった。

このことから何が分かるのだろうか?嘉田元代表は、新党を立ち上げた際に次のように豪語していた。「小沢さんを使えなくて、どうして官僚を使いこなすことができますか?」という言葉を誰もが覚えているだろう。私は、ある意味でこの言葉はまさに的を得た言葉だと思っている。日本の官僚組織は非常に巨大であり、その背後には更に大きな経済界がある。Playerの数が多くなればなるほど、凝り固まった組織を再編成し、新しい方向に向かわせることは困難である。少なくとも、原発を廃止しようというのであれば、返り血と言うには余りにも重すぎる大きな反動が待っており、野田前政権が原発ゼロ政策を閣議決定できなかった理由はそこにある。私のブログでも色々書いたが、使用済み核燃料棒への対応やイギリス、フランスに持ち出されたプルトニウムが日本に送り返された際の(一時的ではあっても)その受け入れ先やその後の処分のことを考えれば、少なくとも本気で原発ゼロを実現したければ一旦原発論議を凍結し、向こう5年間程度の年月をかけて、その手の周辺問題を如何にして解決するかの方法論を議論し、ある程度の道筋をつけてから原発ゼロを訴えなければ猛烈な反動が返ってくることは目に見えている。この辺は、朝まで生テレビや選挙前のニュース番組内での特集の中で田原総一朗さんが繰り返し各党の党首や幹部に問いながら、誰ひとりも答えられなかった問題である。唯一、日本維新の会だけが「その問いには誰にも答えがない」ことを認めていたし、自民党もそれを含めて3年間の議論の期間を必要とするとしていたが、原発ゼロを前提とした途端にこの問題への解が消滅することは正直な人であれば共通認識として認めざるを得ない。

だから、もし仮にこの問題を長い時間をかけて解決しようとするならば、官僚であったり経済界であったり様々なPlayerが協力する側に回れるように、うまく立ち回らなければならない。そのためには、たかだか小沢一郎ひとりを使いこなせるだけの能力程度は持ち合わせている必要があったのだろう。しかし、あれだけのことを豪語した方は、結局、選挙後に起きるであろうことが容易に予想されたこの事態に無防備で、国民の声を背景に謀反を起こして340万票の国民の意志を盗み取ろうとした勢力と正面から戦うことも避けてしまった。おまけに逃げるように国(滋賀県)に戻り、そこで白旗を上げて降伏をしてしまった。これで、本当に卒原発が実現できると思っていたのであろうか?掛け声だけでは物事は動かないのである。代表代行であった飯田哲也氏にしても、小選挙区はおろか、比例区での復活当選すらできなかった。彼は、脱原発は実現可能と豪語していたが、彼の思い描く脱原発へのシナリオとは、多分、今回の選挙で描いたシナリオと同レベルの詰の甘いシナリオだったのだろう。でなければ、橋下大阪市長が「大阪府市エネルギー戦略会議の中でも飯田哲也氏の主張する政策に対しては賛同者が少なく、明らかに少数意見で実現性に問題があった。たったひとりの意見だけを聞いて行動するのはリスクが大きすぎますよ!」と嘉田元代表にアドバイスをした際に、「そんなことはない、大阪府市エネルギー戦略会議の中で飯田哲也氏の主張は賛同者が多かった!」と反論をする仲間が現れてしかるべきであった。しかし誰ひとり声を上げなかったということは、多分、橋下大阪市長の言っていることは真実であったのだろう。

これらの問題は、決して原発だけの問題ではない。鳩山元総理が自爆した普天間問題でもそうだし、財源の組み換えで幾らでもバラマキ資金を捻出できると言った民主党もそうである。物事を動かすには、そのエンジンにエネルギーを供給し続けられる力強いサポーターを味方に付け、官僚の中の良心派の人々から経済界までを巻き込んで、大きなベクトルを形成するだけの戦略が必要である。朝日新聞などはハナから否定的な立場を崩さないが、アベノミクスと呼ばれる安倍政権の政策は意外にも既に外堀を埋めた形で少しづつ実現に向けて動き出した感がある。勿論、メディアを通じて一般庶民にまで聞こえてくる安倍政権の政策はその本質の上澄みの一部でしかないから、その内堀を埋めるために専門家集団が細部に亘る政策を詰め、行き過ぎの円安対策や、円安に伴う原材料の高騰とインフレによる痛みと実際の実りある果実との間のタイムラグを如何にして埋めるかなどの作戦を練っているのだろう。その努力には、嘉田元代表や小沢一派のほんの僅かな議席の中の小さな水溜りの中での争いごととは異なり、より広い大海を目の当たりにした真剣さが感じられる。

確かに、前回の安倍政権は、郵政民営化への逆行とも言える動きや、農水大臣を巡るどう考えても不適切な人事が一部にあったことも認めるし、年金問題の根の深さへの気づきが遅れたこともまずかったが、それ以外の政治的な活動に対しては評価できる部分が非常に多かった。その当時揶揄された「お友達内閣」とは単に誹謗中傷に近いものがあり、年金問題の真っ只中で郵政選挙の寄り戻し効果が予想される参議院選挙に突入せざるを得なかったのは余りにも不運であった。体調不良とは言うが、もし選挙で勝っていれば総理を続けていたのは間違いないだろうから、そこで投げ出したことは彼にとっては致命傷であったはずである。しかし、その傷を癒して再起したその強さの背景には、単にナショナリズムの台頭に乗っかるのとは別の大きな戦略性を感じる。大阪維新の会から党首を打診されて断ったことからも、その意思の強さと遠い将来を見据えた戦略性を感じる。何故なら、維新の会の党首として衆院選で240議席を確保できても、大阪維新の会が軸となる限りは2013年の参院選では両院での安定過半数を確保することができないからである。

今求められているのは、綺麗事の理想を語ることではなく、少なくとも沈みゆく日本丸という大艦の沈没を押し止め、この船を再び力強く進み出せる処置を素早く確実に実行することである。そのために必要な、真の意味での足元を固めることの意義を、今回の日本未来の党のゴタゴタ騒ぎは我々に知らしめてくれたような気がする。

その意味では嘉田さんには感謝しなければならないのかも知れない。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます