けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

議論の中の悪意(消費税増税議論の不毛さ)

2012-03-23 23:53:11 | 政治
以前のブログの中で、南京事件を引き合いに出し、悪意の或ことを前提としなければならない問題があることを説いた。もちろん、彼ら(中国人)にしてみれば国益に叶う行動をしているのであるから、国内向けには決して悪意ではなく、善意を前提としていることになる。しかし、それが悪意か善意かという問題は、当人の主観的な判断ではなく、第3者が客観的に見た場合の評価がもっとも説得力がある評価となる。

現在、民主党内では消費税の増税についての議論が戦わされている。先週から延々と議論し続けたが、結局、今週になっても決着がつきそうな気配はない。というのも、前原政調会長が「お尻を切らない」と宣言してしまっているから、昔々、消費税の増税に絡み社会党が牛歩戦術を取った時以上に事態は悪い状態だと言わざるを得ない。何故なら、所謂「慎重派」と呼ばれる(というか、自分たちで名乗っているが実際は「反対派」)小沢派を中心とした面々は、親分である小沢元代表が採決時の造反を宣言している位だから、ハナから議論をするつもりなどない。如何にして法案を骨抜きにするか、実効的には意味の無い法案にするか、という点についてだけ議論するつもりなのだから・・・。

この様に考えると、これは第3者から見れば悪意のある行動と評価せざるを得ない。現時点での妥協案は、低所得者層を救済するために定額の現金を給付する案や、食品などの生活必需品に対する軽減税率の適用など、結果として税収を下げるため、ないしは選挙で票を取るための人気取り政策に傾いている。もちろん、複数税率を設定して生活必需品の税率を下げることはあっても良いが、それは欧州のように平均の税率が20%近い極端な負担増に対し、生活必需品には現行税率を維持するというような案なら良いが、一般税率は10%で食品は5%よりも税率を下げるという条件では、複数税率という消費税の煩雑さのコストをまかなえば寧ろマイナスになり、世界のマーケットが財政再建に対する前向きな対応をしたと評価できない事態になりかねない。その様な条件での消費税増税は愚の骨頂であり、だったらやらない方が良いということにもなる。

これは、日本人の悪いところである。世界的にもその様な傾向は強いのかも知れないが、Aという判断とBという判断があった場合、それぞれに長所や短所があったとして、(A+B)/2という決断はAよりもBよりも遥かに悪い決断であることが多い。政治的な判断として、Aというゴールを設定した際に、少しでもAに近い解として(A+B)/2を捉え、将来的にはAに徐々に切り替えようという割り切りなのだろうが、政治というのは少しづつでも改善していくのが原則であり、変な妥協をしてはいけないのである。

これは「そもそも論」的な考え方をすれば明らかなのだが、悪意のある人には「そもそも論」が通じない。そして悪意のある人は、結論が現状よりも良くなっているか悪くなっているかが重要なのではなく、差し当ってAという決断を阻止したことに意義を認めるのである。現状を考えれば、このままでは国家財政が破綻し、年金制度も崩壊し、国民生活がボロボロになるのは目に見えているのであるが、問題はそれが明日起きるのか、数年後か、数十年後かが分からないために、その日が来るまでは楽観論を吹聴し続けることができてしまう。そして、いつの日か天の恵みで大好景気がやってきて、全てがリセットされたらラッキーと思うのである。先の中国人の例ではないが、多分、本人たちは本気でそれを「善意」と信じているのかも知れないが、世間一般ではそれを「悪意」と呼ぶのである。

しかし、自民党の中でも小さな「悪意」が沸ふつと湧いてきて、その悪意の誤りを正せずにいる。自民党も(3A+B)/4あたりの着地を目指してしまいそうで怖い。

こんな時、求められるのは決断力である。多分、橋下大阪市長のやり方では、変な妥協で現状よりも悪くなる道を選択したりはしない。Aという選択肢を強行するか、AでもBでも駄目なら、それと独立な第3の選択肢Cを示して強行突破するのかも知れない。民主主義として議論を尽くせば最良の選択肢にたどり着けるというのは幻想である。その命題自体は決して悪いものではないが、それが「真」と成り得るためには全員の「善意」が前提となる。今はその条件が満たされてはいない。

しかし、この「悪意」を当人達に認めさせることは不可能である。というか、「政治とはそういうものだ」という暗黙の了解があるのに、それに言及する方がルール違反なのかも知れない。だから、何処かでバッサリ切り捨てて決断する必要があるのだが、それを「独裁」「ファシズム」と呼ぶのか「英断」と呼ぶのかは歴史が決めることである。歴史の判断より前に「独裁」「ファシズム」と呼ぶのは、これこそ「ファシズム」的な行動なのだと思う。

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