けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

「ちょい悪」ぐらいが丁度良い(外務省改革の重要性)

2012-04-30 22:12:18 | 政治
以前のブログ、「『政治主導』から『官僚主導』へ(官僚の正しい使い方)」にて、少々逆説的な言い方ではあるが、「官僚主導」の重要性を説いてきた。どうやら選挙が頭にちらつく政治家には、国家天下の議論はできないから、むしろしっかりした官僚を育成して政治家に頼らなくても良い世界を目指すべきだということである。実際、官僚には非常に有能な人が多い。天下りの時期が近づき、その先の安穏とした生活のことしか頭にない事務次官クラスの人はどうか知らないが、少なくとも中堅クラスの官僚には有能な人が多いはずである。

しかし一方で、「分析力が国家の命運を分ける」でも書いたが、特に外務省官僚の劣化は少々深刻かも知れない。自民党時代の族議員という習慣は悪しきものといわざるを得ないが、ある意味で、エリート街道をまっしぐらに進んできたお上品なキャリア官僚とは一線を画したノンキャリア組の中から、特に秀でた才能の職員を一本釣りして育てるという鈴木宗男氏がとった戦略は、彼の行なった行動の善し悪しは横に置いておくとして、日本がカードとして持つ選択肢を広げるという意味では、必要悪だったのかも知れない。佐藤優氏が失脚したあとの外務省は、お上品なエリート官僚が幅を利かせ、本当に能力のある人材を活用できない組織になってしまったような気がする。

だから私は、この外務省改革を本気で実行するための体制作りを超党派で取り組んで欲しいと思う。この「体制作り」とは、改革そのものではない。一足飛びにそこまでは行けないのである。どの様なアプローチをとれば理想に近づけられるのか、そのアウトラインをデザインする人達を集めるのである。例えば、手島龍一氏(元NHKワシントン支局長、外交ジャーナリスト)、小泉元総理の飯島勲元総理大臣秘書官、森本敏拓殖大学大学院教授、一部の拉致被害者の帰国に尽力した元外務官僚の田中均氏などの有識者に加えて、防衛・外交通と呼ばれる国会議員を政党を問わずに超党派で集め、そこで政権交代などのごたごたの影響を受けずに3年程度を目処に、外務省のあるべき姿を実現するためのシステムについて議論する組織を立ち上げるのである。この中では、本丸である外務省のあり方の他に、例えばロビー活動のための体制、インテリジェンスと呼ばれる諜報活動の憲法で許される範囲でのあり方、戦略性が高いと位置づけられる国家(例えば中国、ロシア、韓国等)に対する大使館の人材のあり方(例えば外務省OBの花道的な名誉職であったり、丹羽中国大使のような中途半端な民間活用の是非)などが含まれるであろう。先程の鈴木宗男氏の件ではないが、ノンキャリアであろうと優秀な人材を育て上げる育成体制や、情報提供者などの確保の仕方も議題に登るかもしれない。泥臭いところまでやって初めて世界標準に近づけるのである。また、本題からは少しそれるが、民主党政権になってからは拉致担当大臣の首がコロコロと変わりまくっているが、この様な事態も北朝鮮に対して悪いメッセージを発する。であれば、拉致問題の「表の顔」は外務大臣が担い、それをサポートする人材を充実させることで外務大臣の負荷を減らすべきかも知れない。この様な人事までを含めて提案を出して貰えばよい。

この組織は総理大臣の諮問機関としてでも良いし、法律を定めて国会内に正式な組織を立ち上げても構わない。これと並行して、それなりの予算を計上し、民間のシンクタンクを活用して様々な条件での外交上のシミュレーションを委託することも必要であろう。当然ながら、外務省内でも同様のシナリオづくりはなされているだろうが、それらのシナリオと民間シンクタンクのシナリオを合わせて評価し、有事に対するより多数のパターンの想定を事前に手の内に持つことで、政治家(総理や閣僚)の判断を行いやすくする。最終的な判断を行うのは内閣総理大臣、外務大臣、防衛大臣等であろうが、情報の解析まではその筋のスペシャリストが行うべきである。

私にはこの手の話は上っ面しか分からないが、その筋の人にしか分からない奥深い世界があるのだと思う。それなりに問題がなかったとは言わないが、田中均氏などは小泉元総理、飯島元総理秘書官との二人三脚(三人四脚?)で、それまでの政治家では到底成し得なかった拉致被害者の帰国という北朝鮮を出し抜く成果を上げているのであるから、この様な人材が次々と排出される外務省に改革すべきである。

中年オヤジの話ではないが、「ちょい悪」ぐらいが丁度良い世界だと思う。

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首の皮1枚では天下は取れない

2012-04-29 23:04:41 | 政治
私は少々マイナーな産経新聞の読者なのだが、紙面だけでなくインターネットの記事を読んでいると、かゆい所に手が届く記事が多くて敬服する。先日の小沢裁判についても、産経新聞の「小沢元代表無罪詳報(1)〜(6)」などに詳しく書かれている。裁判傍聴記については、産経新聞の右に出るメディアはないだろう。これを読み込んでいると、この裁判の無罪判決の意味が見えてくる。最初に断っておくが、泣いても笑っても無罪判決は無罪判決なので、今回の裁判結果について異論を唱えるつもりはない。

今回の裁判の論点などはテレビでも広く解説されているが、3つの論点があり、検察役の指定弁護士は最初の2点、「強制起訴の正当性」と「虚偽記載の有無」については完勝が認定されている。しかし、最後の砦の3点目である「共謀の立証」については、その共謀が行われたことの妥当性認定までは勝利したが、最後の最後に「それでも、『犯罪行為』の共謀を小沢氏がちゃんと認識していなかった可能性が完全には否定できない」という消極的な理由で、最後の一線を超えた有罪判決に待ったをかけたのである。当日の裁判長の発言の中で、「指定弁護士が虚偽記入ないし、記載すべき事項の不記載について、共謀共同正犯が成立するとする主張には、相応の根拠がある」とまで明言しているのであるから、指定弁護士が「殆ど勝ったという判決の説明なのに、それでも無罪というところが不思議」というニュアンスの発言をしていたが、限りなく黒に近いグレーという状況を、白か黒かに判定する最後のところで白に決まったということである。

更に言えば、石川議員をはじめとする3人の秘書に関しては、虚偽記載が認定されているので、既に裁判で2回連続で違法性を認定されたことになる。つまり、もし、秘書の犯した罪は議員本人も連座制的に(法的ではなく)道義的な責任を負うという立場に立てば、小沢元代表の責任は免れられないという判決であったことになる。今回の裁判の共謀に関しては、次の裁判の判決までは無罪で結構である。大腕を振ってでかい顔をして頂いても構わない。しかし、この裁判の判決において争われていない部分については、すべて無罪放免という訳にはならない。さし当たっては、国会に場を移して証人喚問なりなんなりで争っていただければよい。

ここまでは小沢氏本人の話である。ここから先は、小沢派の議員に関する話である。この週末の報道番組を見ていると、先日の小沢判決の結果を小沢派の人たちが受けて、小沢元代表の完全復活をアピールする発言を繰り返していた。思わず笑ってしまうのであるが、自分の言っていることを論理的にこの人たちは理解できているのだろうかと思ってしまう。挙げればきりはないのだが、非常に分かりやすいのは次の点である。

小沢元代表は1審で無罪判決が出たのだから、世間様は無罪を前提とした扱いをすべきだという。つまり、1審の判決を尊重せよとの主張である。一方で、小沢氏の元秘書であり1審で有罪判決を受けた石川議員ら3名に関しては、1審の判決結果を尊重せずに、「最終的には無罪になるのだから、1審の判決結果などは重要ではない」という様な意味合いの発言をする。もう一度言うが、1審の判決はまだ確定ではないから尊重してはならない!との主張である。論理的に破綻しているとしか言いようがないが、その破綻を有耶無耶にするためのキーワードは「推定無罪」と言っており、本当にこの人達は国会議員でありながらこの「推定無罪」の意味を理解しているのだろうかと、議員としての資質を疑ってしまう。

この人の言う「推定無罪」とは、多分、以下のような意味である。「最高裁判決が確定するまでは、推定で有罪というのではなく、無罪という前提で扱うべきである。だから、判決が確定するまでは、仮に1審有罪判決を受けようが、そんなことに関係なく、有罪を前提とした不利益、社会的な制裁を受けるべきではない」と、まあこんなところだろう。しかし、本当にその様な意味である訳がない。

通常は保釈が認められなければ、逮捕、起訴されてから1審で無罪判決を受けるまでは、一般人は拘留されて自由を奪われるのである。先日のブログ「普通の国民が強いられるゲームのルールとは?」でも書いたが、その間、一般人は社会的な制裁を受けまくり、判決までの生活もままならない日々が続くのである。つまり、逮捕、起訴された人々は有罪を前提に、本人の不利益があても社会はそれを許容して全ての物事は進むのである。それが、一般人に強いられるルールである。しかし、実際には冤罪の可能性も「否定できないから、裁判では最大限、「疑わしきは被告人の利益に!」との原則が貫かれるのである。これが「推定無罪」である。それ以上でもそれ以下でもない。

今回の判決は、まさにこの「推定無罪」の原則で、小沢氏が首の皮1枚で命をつないだのである。あれだけの大弁護団を大金を投じて形成し、それでも「推定無罪」の原則でしか勝てなかったのである。ただでさえ、政治家が作った法律なのだから自分たち政治家を簡単には裁けないようにハードルを高く設定していてもおかしくはない。金もあり、権力が検察に無言のプレッシャーをも与えてもいる。それでも、石川議員を含む元秘書の3人に関しては、有罪が最終的に確定する確率が高まっている。

老婆心ながら、「浮かれている場合ですか?」と声をかけてあげたいところだ。これで本当に次の民主党代表選で立候補しよう(ないしは、させよう)と思っているのだろうか?確実に言えることは、民主党政権で4人目の総理に総選挙もなしに首をすげ替えようとしたら、多分、野党は不信任案、問責決議を連発し、少なくとも参院で問責決議が可決された後には完全審議拒否を貫くだろう。当然、選挙に訴えざるを得なくなり、殆どの議員が落選することになる。ひょっとしたら、刺客を立てられ総理自身が落選する前代未聞の事態もあるかも知れない。だから、民主党員も決して野田総理の首を取りには走らないだろう。だから政党助成金の管理と選挙の公認権を押さえる役職とのバーター取引を狙っている可能性も高いだろう。

野田総理は結構な策士である。どこまで策を巡らしているのであろうか?まだ、先が見えない。

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新しい介護制度への補足

2012-04-28 21:05:19 | 政治
今日は先日の「不幸を最小化する姥捨て山を考えるとき」について、もうちょっとだけ補足を加えておく。

このブログでは、介護保険制度の支出を減らし、持続可能な制度とするための提案を行なっていた。ここでは月10万円で利用可能な制度の例を示したが、個人専有面積が3帖程度の個室で介護保険を必要としない健康な人は、概ね国民年金程度の費用で生活出来る勘定であった。ただ、電気水道などの共益費を考えれば1万円程度の不足が出てくるかも知れない。このような人は、この施設において介護士の補助的な業務をアルバイト的に行えるようにすれば、1万円を補填して若干の小遣いぐらい確保できるかもしれない。

一方、最も低い等級である要支援1が認定されると、1割負担で49700円程度のサービス(負担が4970円)が受けられるので、ブログで書いた33000円の介護費用は、自己負担額5000円弱で済むことになる。だから、共益費を1万円見込んでも、まだお釣りが残る計算である。要介護1であれば、利用限度額は165800円であるが、多分、要介護1の多くの人は少人数の割り勘介護でこと足りるであろうから、可能な範囲で利用限度額を大きく下回るサービスで運用できれば制度の持続可能性を高めることが出来る。

通常のデイサービスは、午前9時頃から午後4時ごろのサービスである。その理由は多分、利用者が利用可能な個室がないために、施設に長時間滞在すると介護側の負担が大きくなるのに加えて、利用者本人の身体的な負担も大きくなるからであろう。提案の制度では、部屋は狭いが個室があるために、朝8時から夜8時までの長時間利用しても特に問題がない。長時間デイサービスというか、宿泊しないショートステイというか、少々、特殊な形態と言える。しかし、個人への個室の確保はこの様な制度を実現可能とする効果が期待できる。宿泊もしないのに個室を割り当てるのは無駄なような気もするが、結果的には高齢者の家族にとって非常にありがたい制度ではないかと思う。

最後に、この様な3帖という限られたスペースでは酷いと言われるかも知れないが、私の世代の数年前までは、会社の独身寮は3帖一間が当たり前だったようだ。ついでに言えば、大学の下宿でも東京であれば3帖一間の下宿は存在していた。1日24時間、その個室の中に篭もりきりだと思えば息苦しいが、そこが不便だからこそ共有スペースに出てきて周りの人との交流を図るモチベーションが生まれてくる。部屋に篭もりきりの人はボケ易く、しかも足腰も弱りやすい。あっという間に要介護の等級が上がってしまう。だから、ちょっと不便ぐらいの方がちょうど良いのである。ただ、夫婦で入居する人がいれば、できれば少し広めの同じ部屋に同居させてあげたい。別部屋が良いと言われれば話は別であるが・・・。

以上の話は、至れり尽くせりの楽園を提供するための制度ではなく、先日のタイトル通り不幸を最小化した姥捨て山と責められる覚悟で行う提案である。もっと良い環境で生活したければ、自前で老後の蓄えを行えばよい。厚生年金受給者であれば、それだけでより条件の良い環境が保証されるだろう。自前の蓄えが尽きたならば、上述の姥捨て山に追いやられる可能性はある。しかし、少なくとも食うに困らない環境ではある。その安心感は無用な貯蓄を消費に回す力になるかも知れない。それは景気を押し上げる力になるはずだ。あの高福祉・高負担のスウェーデンですら、最近、年金の受給開始年齢を65歳から75歳に引き上げようという動きがあるらしい。受給開始年齢を(段階的ではあるにせよ)10年も一度に引き上げるというのだから、高福祉国家で有名でありながら、相当、深刻な事態に迫られているのであろう。であれば、世界中に何処にも高齢者にとってのバラ色の楽園など存在しないことになる。しかし、そんなに不幸ではない姥捨て山なら持続させることもそれほど難しくはない。

後は、どのタイミングで姥捨て山の覚悟が出来るかである。今の政治家にその覚悟があるだろうか?

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ピークカットのための2段階アンペア制限制度の提案

2012-04-27 21:27:57 | 政治
昨日のニュースの中で、関西電力の夏場のピークカット対策に関連して、橋本大阪市長が月1000円ぐらいの増税を行い、そのお金を原資として節電対策を行う話をしていた。色々と電気料金の値上げなどの議論もでている中で、私も以前のブログ「電気使用税の創設と税金還付のインセンティブ」で建設的な提案をしてきたつもりだが、この手のアイデアならば幾らでも出せると自負している(橋下市長の提案と私のブログを比較してもらえると嬉しいのだが・・・)。世の中には幾らでもアイデアマンがいて、しかもネットを使えば超簡単にその提案のコンペなども行なえる。掲示板形式でも良いし、メールで投稿するシステムでも良い。投稿されたものを識者がある程度選別し、さらにそれをネットで公開して掲示板で議論を深めることとしても良い。幾らでも国民の英知を集約する方法はあるのだ。だから、国ではスピードが遅すぎるので、大阪を中心にこの様なシステムを立ち上げてもらえればと期待している。

で、折角なので思いついたアイデアを提案しておこう。現在、自宅に無線LANを導入している家はかなり多くなっていると思う。極端な言い方をすれば、一人暮らしでや高齢者家庭など、あまり電気を使わなそうな家では無線LANを導入してはいない率が高そうであるが、家族の人数が多かったり少々裕福で電化製品を多く使っていそうな家ではまず間違いなく無線LANを導入していると思われる。であれば、自宅のブレーカーの契約アンペア数を2段階に設定・切り替えできるようにして、ピークカットの必要性に迫られたらインターネット経由で電力会社からアンペア数引き下げの指示を出し、ブレーカーに設置された無線LAN子機に接続された切替え装置でアンペア数の上限を速攻で下げるのである。場合によってはユーザをグループ化し、その深刻度に応じて部分的かつ順番にアンペア数引き下げを行えば良い。例えば、10~15アンペア程度もあれば、(意識して不要な電源を落とせば)冷蔵庫やテレビ等の最低限の電化製品と、一部屋に限定した冷房であれば継続して使える可能性が高い。通常は30~50アンペアで契約している家庭であれば、致命的にはならない範囲での使用電力制限だけで時間限定の強制的な節電が実現できるのである。これをやると、家庭によっては一時的にブレーカーが落ちることになる。しかし、家庭のブレーカーが落ちてもそれほど致命的なことにはならないから、それを覚悟でやろうという話である。一斉にブレーカーが落ちると電圧が不安定になるというのであれば、アンペア数の制限変更の指示が来てから変更するまでの時間を、各家庭で乱数を発生させて同時にならないように工夫しても良い。色々、やり方は工夫できる。

真に停電の危機が迫ったとき、緊急でこの措置を取れば、多分、3~5%程度の消費電力圧縮は可能であろう。緊急で3%の猶予を稼げれば、時間的には1時間程度の根本対策をとる時間を稼げるだろう。その間に大口の顧客にお願いして消費電力を下げてもらえれば、無計画停電で大混乱に陥る心配はない。

なお、おまけの情報として次の様な注意も必要であろう。PCを使用中に急にブレーカーが落ちるとハードディスクがクラッシュする可能性がある。だから、緊急のアンペア制限などがかかる時には、インターネット経由でプッシュ型の通知サービスや携帯電話、場合によっては防災無線などで通知してもらっても良いかも知れない。また、ブレーカーのところにLED表示などで、現在の上限アンペア数ぐらいは表示してもらえるとありがたい。LAN接続のハードディスクなどに対しては、この様な緊急のアンペア制限によるブレーカー落ちでクラッシュするリスクを回避するため、メールやサーバに定期的にアクセスし、アンペア制限を検知したら自動でシャットダウンが出来る構成にしても良い。メールは電力会社から送ってもらう場合も、個人でシャットダウン指示のメールを出す場合もあるだろう。自分がアンペア制限の対象であるか否かは、例えば郵便番号などの情報を利用して地域を判別したり、電力会社が事前にグループ分けした場合のグループID(識別番号)を利用して判別できるようにしても良い。また、これは各家庭だけでなく、企業のオフィスや工場に導入することも可能である。例えば、オフィスであれば時間限定の冷房の設定温度変更や、デスクトップPCを落としてノートPCでの作業に切り替えるなどにより、家庭ほどドラスティックに節電できないかも知れないが、20~30%ぐらいの上限アンペア数の抑制は可能だと思う。工場の製造ラインを止めることは出来なくても、10%節電ぐらいなら何とかひねり出せるかも知れない。

とまあ、色々アイデアを書かせて頂いたが、この手のアイデアは全て特許になる可能性が高い。しかし、なるべく早く公知の技術にしてしまい、誰にも権利を押さえられないようにするのが好ましい。ちなみにこのブログの投稿は2012年4月27日である。私が書いたアイデアに関しては、これ以降の日付の出願特許は全て無効である。誰かが他のアイデアを思いついても、出願の準備をしている間に誰かがネットで公開すれば、それも無効である。これで一儲けしようなどと考えずに、広く、国民のために利用すべきである・・・。

ついでに言えば、この様なアンペア制限に協力してくれた家庭には、電気料金の減額を行なえば良い。それを電力会社が負担するのか、税金で賄うのかは適当に相談して決めてもらえればよい。また、この様なことを本気でやろうと思えば、今年の夏には間に合わないかも知れない。しかし、トライアル的に小規模な実験をやってみるだけでも価値はあるだろう。再生可能エネルギーにシフトするのであれば、この手のピークカットは今後何十年も続く可能性があるのだから・・・。だから、橋下市長が「この指とまれ!」と声かけして2ヶ月程度でこの様なシステムを作り、ためしに実験してみれば良いと思う。

多分、このブログを大阪市役所関係者が見ている可能性はまずないだろう。しかし、仮に声をかけていただければ私なら幾らでも協力する用意はある(時折、このメールアドレスにコンタクトして・・・というコメントがあるが、怪しいアドレスには返信しませんので、この辺はご容赦を・・・)。私以外にもその様な人は多いと思う。世の中を変えていくためには、多分、政治家任せで良い時代は既に終わっているのだと思う。だからと言って、反原発派のルールを守らない下品な活動も国民のコンセンサスは産まないだろう。昔なら、こんなブログで声を上げることはできなかったが、今ならそれが簡単だ。ジャスミン革命でもない、全く新しいIT国家の日本発の革命を起こせる可能性に期待したい。

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「ピンポンダッシュ」では済まないかも知れない

2012-04-26 22:26:45 | 政治
今日の新聞の中心はやはり小沢判決(無罪判決)であるが、個人的な希望的観測は別として、世の中はこの結果を織り込み済みだから、急に予想外の動きになることもないのだろう。粗方、言いたいことはこれまでのブログで書いていたので今更言い残したことと言えば、国民の最大の関心は虚偽記載の共謀ではなく、あくまでも4億円の原資であり、その辺を淡々と国会が証人喚問で明らかにしてもらえばそれで良い。

それよりも気になるのは北朝鮮の動向である。

相変わらず、強気の空元気を振りまく北朝鮮なのだが、単に指導者が変ったというだけに留まらない何らかの差がいつもと比べてあるようで怖い。これまでであれば、内向きなメッセージとして、「俺達の方が強いぞ!」と国民に向けたメッセージを送れれば良かったから、金正日であろうが韓国の大統領であろうが、最後の一線よりも大幅に手前のレベルで小競り合いをしていれば良かった。北朝鮮に至っては、所謂「ピンポンダッシュ作戦」とでも言うべきか、サッと攻撃してスッと身を引いて、相手がチンタラしながら怒りまくっているところを「おいおい、平和的に行こうぜ!」と国際社会に訴えたりして、上手い世渡りをしていた。延坪島の砲撃も、韓国が意表を突かれて十分な反撃をしそこなうと、その後は準備万端の韓国に「撃つぞ」と思わせておいて、実際には撃たずに李明博政権に反撃の機会(言い訳)を与えなかった。

しかし、今回の動きは何とも不気味なのである。私がそう感じる理由は、北朝鮮が中国に対し、金正日総書記の長男の金正男氏の引き渡しを求めたという話を聞いてからである。金正男氏とのメールが本の出版で公開された時であれば、金正恩が頭に血が上って命じたことかと思うだけの話だが、今頃になって引き渡し要求というのは意味が分からない。金正恩にとっては自分の権威(世襲)を否定する発言をしていた男だから利用価値がないのは明らかだから、引き渡し要求の理由は単に金正男氏の処刑目的か、中国が金正男氏を利用しようとするのに事前に釘を刺すためのどちらかであろう。多分、そのうちの後者が理由であり、そして予想通り、中国はこれを拒否している。

多くの人が語る通り、金正恩が弾けて北朝鮮が崩壊しそうになった時、金正日総書記の長男という金正男氏の肩書きはピンチヒッターとして絶好の条件である。しかも、3代世襲に批判的だから、ソフトランディングできたら中国型の集団指導体制への移行を促し、中国からすればコントロールし易い状況を作ることもできる。だから、金正男カードを中国が持ち続ける間は、中国はいつでも金体制を切り捨てることが可能である。言い換えれば、北朝鮮と心中する必要がないことを意味する。今回の北朝鮮の要求は、その切り札カードをタダでよこせと言っているのに等しいから、その切り札があっては困る何かを画策している可能性が否定できない。

専門家によれば、北朝鮮の軍事力と韓国の軍事力は1対100程度なのだそうである。ソウルを火の海にすることは出来るだろうが、韓国軍はその100倍返しの準備が出来ている状況だから、北朝鮮としてもいきなり本丸(ソウル)を攻めたりはしない。しかし、単なる「ピンポンダッシュ」では金正男カードを気にする必要もないであろうから、これまでとは違うステージでのいざこざを覚悟していると予想できる。おりしも韓国は大統領選の年であり、これまでの大統領は選挙で(自分の子飼いの大統領を当選させることができずに)政権を失うと、過去の様々な汚職などの罪が洗いざらい明らかにされて、牢屋に投獄される心配をしなければならなかった。だから、日本とは比較にならないくらいに政権に対して執着しているはずである。その選挙で勝つためには、北朝鮮を叩いて意気揚々と選挙に突入したいところだろう。何があろうと、北朝鮮にいいようにやられた状態での選挙など望むはずもない。

もちろん、両者は本気でガチの全面戦争を望んではいだろうから、如何にして相手を出し抜こうかと考えるはずだ。以前の韓国哨戒艦沈没事件に注目するなら、殆どバレバレでありながら、国際社会が完全に北朝鮮の仕業と断定できないことを言い訳に逃げ切った感がある。例えばソウルよりも手薄な第2の都市(釜山?)の様な地域で、人が多く集まるような施設の爆破事件が起きたときに、証拠がなければ韓国も北朝鮮への報復は難しいと金正恩が勘違いをするかも知れない。しかし、民間人に被害者が出たら韓国は反撃に躊躇しないだろう。

実際のシナリオは分からないが、日本政府としても何らかの動きが2~3ヶ月の間に起きることを想定した対応が必要かも知れない。その時、日本は解散総選挙でバタバタしている頃なのだろうか?

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普通の国民が強いられるゲームのルールとは?

2012-04-25 22:00:21 | 政治
先日のブログ「ゲームのルールはゲームを始める前に決めよう!」で、小沢民主党元代表の判決の前に、この様な事象に対する立場の表明を求める書き込みをした。はっきり言って、私はその内容が国民の常識に照らし合わせて到底受け入れられないような内容であってもそれはそれで構わないと思っている。あくまでも、今後、類似の事案があったとき、その人が同一の基準でモノを語るのであれば、その議員がその様な属性だと記録すると共にそれを認めようと思う。

最初の頃のブログ「4つの人種(政治の信頼を取り戻すには…)」でも書いたが、自分に甘い人がいても、他人にも同様に甘い基準で接するならば、それは別にそれで構わないだろう。しかし、自分に甘くて人に厳しいというのは、人として信頼できないということだ。

ちなみに国民の常識に照らし合わせて多くの人が納得する基準とは何だろうか?わかりやすい例として、大企業に務めている会社員が通勤電車で痴漢容疑で逮捕されたとする。さらにわかりやすく、それが仮に冤罪であったとしよう。本人は無実を訴えるだろうから、警察は簡単に釈放してくれない。最終的には起訴されて、裁判に至るのである。この時、大企業の多くはこの社員をクビにするか、無給の休職扱いにするか、少なくとも現状維持を認めはしないだろう。裁判は3審制だから、下手をすれば最高裁まで争うことになる。判決のたびにその社員の扱いをコロコロ変えるのは対応に一貫性がないので、最高裁の判決で無罪が確定するまでは、多分その社員は辛い思いを強いられることになる。その人が誠実な人であれば、友人たちはその扱いを理不尽だと感じるだろうが、誰かに例外を認めるとその後も多くの社員に同様の扱いが求められるだろうから、ひとつの基準を曲げることなく、共通の基準で全てが対応されることになる。そして、無罪が確定して、はじめてその人の名誉が回復されるのである。これが良くも悪くも、世の中の国民に強いられる常識なのである。

もちろん、小沢裁判は検察審査会の強制起訴という特殊な状況だからと言うかも知れない。であれば、JR福知山線の遺族に向かい、「検察審査会の強制起訴は、制度そのものが間違っているから、JR西日本のお偉いさんを糾弾しようなどと言うのは間違っている!」と言えるのだろうか?この制度は、裁判員裁判制度と同様に、国民の感覚と司法制度に乖離が見られることを契機に導入されたのであるから、その制度自体が見直されるまでは、法としてその制度を認めるのが国民の義務である。この様な基準で強制起訴と向き合わなければならない。

ちなみに、政治家というのは逮捕や起訴のハードルは一般人に比べて極めて高い。特に、政権与党の代表経験者ともあれば、もし自宅の家宅捜査を行い何も出なかったら、検察の上層部の誰かの首が飛んでもおかしくはない。だから、その覚悟ができないと決定的な証拠を押えられる可能性が高く、裁判所が捜査の許可を下せる状況であっても、精神的なプレッシャーで最後の一線を超えることに躊躇してしまう。これだけのハンディキャップのもとで有力政治家は戦うことが許されるのである。もちろん、小沢事件では様々な違法捜査が行われていたのも事実である。しかし、民間人(国民)も同じ条件で違法捜査のリスクのもとで戦っているのである。金の力に物を言わせ、大量の有力弁護士を連ねる大弁護団を形成できることも合わせて考えれば、政治家だけは大目に見てくれというのは筋が通らない。

だからゲームのルールをゲーム開始前に宣言して欲しかったのだが、どうやら全員で揃って後出しジャンケンを決め込んでしまったようだ。こんな小さな声が届く訳がないのだが、やはりそれは悲しい現実である。

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拝啓、野田内閣総理大臣様。。。

2012-04-24 22:34:09 | 政治
少し日付が古いが、田原総一郎さんの4/2のブログ「『福島』を『フクシマ』と呼ぶのは、もうやめよう!」を読んだ。この中に、最近の原発問題の鍵を見つけたような気がした。

ブログの内容は福島で農業を営んでいる方にスポットを当てたものだった。全体的には農家の皆さんの苦労と、原発事故に向き合い、前向きに頑張る人々の努力と、その足を引っ張る現状が書かれている。マスコミが好んで使う片仮名書きの「フクシマ」という言葉が、今は差別用語と化して福島の人々を苦しめている。その彼らのもがき苦しみながら明日を信じて行なう努力の数々を紹介し、「もう、『フクシマ』と呼ぶのはやめよう!」と結論付けている。

非常に胸に痛い話なのでが、その中に実は私には予想外だった事実が書かれていた。原発事故の直後から、福島だけでなく周辺地域の農産物が全く売れないという報道を聞いていた。だから、福島であれば安全が確認されても誰もが農産物を買おうとはしなかったのではないかと思い込んでいた。しかし、田原さんのブログに寄れば、以外にも良く売れていたのだという。多くの人々が、同情と言うと言葉は悪いのだが、福島のために力になろうと考えて、それなりに多くの人が買ってくれていたのだという。そして農家の彼らも、自力で除染を考えて、チェルノブイリで行なわれていたように30cmほど地面を掘り返し、土を上下で入れ替えて放射線物質の影響を取り除こうと努力したのだという。

しかし、そんな福島の農産物が急に売れなくなった事件があった。そう、県が福島産の新米の安全宣言を行ない全面解禁となった後、一部地域の米から基準値を超える放射性セシウムが検出されてからのことだ。誰もが福島の良心を信じ、彼らの努力に我々も良心で応えようとした矢先、一部の心無い人々のせいで信頼を根底から失墜させてしまったのである。多分、農協の役員、県庁の職員および県知事は、本人たちは何の悪気もない軽い気持ちで、大して調べもしないで「安全宣言」を出してしまったのである。農家の方々は、この判断に係わった人々を決して許さないだろうが、A級戦犯の当の本人達は何の悪びれもなくケロッとして罪の意識などないのだろう。つまり、責任感の決定的な欠如なのである。きっと「今回は運が悪かった」程度にしか考えていないのだろう。本来は、その責任の大きさを深く理解した上で、1人称で責任の所在を明らかに出来る人が判断していれば、きっと今でも福島の野菜は売れ続けていたに違いない。だから、この福島の経験から、誰が責任者かを明言することが問題解決への第1歩であると気づかされるのである。

現在は、信じていた「安全」が実はちっとも安全じゃないことがバレてしまい、「安全」と言われてもちっとも「安心」出来ない状況であることに国民が気がついてしまった。もちろん、冷静な中立的な立場の有識者が明らかに「安全」と判断できるものを、「大変だ!大変だ!」と過剰に騒ぎ立てるのも問題であるが、大飯原発の再稼動に関しては、我々は正統にその安全性に疑問を呈しているのである。

今、この状態で原発の再稼動を認めなければ日本経済にどの様な影響を与えるかは分かっている。その深刻さは、ひょっとしたら日本を不況のどん底に陥れる可能性すらあることも理解している。だから私は再稼働出来る状況を望んでいるのだが、関西電力をはじめとする電力会社にはその様な状況を積極的に作る気はないらしい。明らかに無保険、無車検の車を運転しようとしているのに目を瞑れと言うのだから、その責任の所在を明らかにする義務はあるはずだ。

ひょっとしたら、野田総理は責任の所在をまもなく廃止される原子力安全保安院に押し付けようとしている訳ではあるまいか?原子力安全委員会にも責任の幾らかを負わせ、何人かに責任を分散させながら有耶無耶にさせようと思っているのではないだろうか?

藤村官房長官は今日の橋本市長との会談の後で、「政治家が安全性を判断などしていない。安全性は専門家(多分、保安院のこと)が判断している」と繰り返し発言していた。ならば、藤村官房長官は「専門家としての判断の最終責任者は保安員の院長にある」と明言すればよい。原子力安全委員会の斑目委員長は、「安全委員会の責任とは、別途誰かが作成した基準に照らし合わせて、保安院の判断が妥当か妥当でないかの判断だけである(つまり、判断基準が間違っていたのなら、保安院が間違った判断をしても、それに対しては安全委員会は責任は負えない、ないしはそこまでの責任を問われてはいない、という意味)」といった趣旨の発言をされている。きっと保安院の院長も、「別途誰かが作った基準に照らし合わせて合否判定を行なっただけ」と答えるだろう。間違いなく、「原発事故が再発し、何千人もの死者を出したとしても、その責任は私にある」と自ら断言する人は出てこないだろう。それだけは間違いない。

だから私はお願いしたい。野田内閣総理大臣様、この状況で大飯原発が安全と仰るなら、少なくとも免震重要棟すらないような明らかに欠陥施設と言わざるを得ない原発に限定してでも構わないから、その原発で次に放射性物質漏れの重大事故が起きた暁には、その責任の所在の全ては政府にあり、損失の全額を国が責任をもって保証すると宣言して頂きたい。決して一義的には電力会社の責任などと責任転嫁などせずに、「私の責任だ!」と胸を張って国民に語りかけて欲しい。

それが言えたら、きっと、多くの人が議論のテーブルに付いてくれるに違いない。

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不幸を最小化する姥捨て山を考えるとき

2012-04-23 23:56:04 | 政治
既に先週号となってしまったAERAの記事に「『親の介護』に 蓄えが消える『自身の生活』『老後の資金』を守る介護費用節約術」というものがあった。

あまり説明するまでもない話だが、親の介護のために子供世代のお金を費やし、自分の老後のための資金がどんどんなくなる・・・という内容である。若い方々にはあまり縁のない話かもしれないが、40代、50代ぐらいになると、この手の話題は冗談交じりには語りにくい、真剣にならざるを得ないテーマとなりつつある。既に、何回かのブログの中でも若干語ってきたが、バラ色の未来を期待するには時既に遅く、如何にして持続可能な現実的な着地点に軟着陸するかという問題を正面から見つめ直さなければならない時期にきている。

AERAの記事にも書かれていたが、例えばボケが始まろうものなら10万、20万の持ち出しなど当たり前で介護をしなければならない。みなさんご存知のとおり、「ボケ」は要介護認定においてはそれほど評価されないのである。また、「寝たきり老人」というのは、要介護度は最高位ではない。何故なら、寝たきりなのだから介護士が常に寄り添わなくても危険なことをする心配がないのである。私の父は、寧ろこれが好条件に働き、なんとか無理をすれば動けてしまい、かえって危険なので若干高めに評価されてしまった。マニュアルに従えば妥当な判断なのかも知れないが、個人的には見かけの深刻さと介護認定の等級は比例関係にはないというのが、既に常識となっている。そして、例えば要介護2程度になると1割負担で2万円を払えば20万円分のサービスを受けることができる。つまり毎月、18万円近くが国から補填されるという状況である。

つまりこうである。国は一部の介護認定を受けた人には大盤振る舞いをし、一方で介護認定のない高齢者の場合には仮に子供世代の未来をも奪うほどの深刻な世帯であっても、全くもって不十分な援助しかできていないのである。では問題は何処にあるのか?もっと介護保険の適用の範囲を広げるべきか?答えはNoである。今、世間の議論の対象になっているのは年金問題であるが、当然ながら介護保険についても時限爆弾が爆発するのは時間の問題である。だから、目指すべき方向性としては、「より少ない税金の投入で、如何にして介護に絡む世の中の不幸を最小化するか」でなければならない。これは勘違いして頂いてはいけない。「如何に世の中の幸せを最大化するか」とは違う問題なのである。これが悲しい現実である。

以前、後期高齢者医療制度を称して「姥捨て山」と揶揄していた政治家がいた。冗談じゃないと言いたい。多分、介護保険制度の向かうべき姿は、本当に姥捨て山の世界なのだと思う。ボケ始めた老人や、介護を必要とする老人を自宅で介護するには、多分、つきっきりで自宅で面倒をみるか、高額の自腹費用を覚悟の上で介護サービスを受けるしかない。運良く介護認定が通れば良いが、現在の大盤振る舞いが何時までも続く訳がないのだから、そのうち自腹負担が増えてくる。その結果、会社を辞めて親の年金だけで親を介護する人たちが急激に増えてくる。これは社会的に間違っているとしか言いようがない。医療の進歩により、人は中々寿命に達しなくなってしまった。それ自体は喜ばしいことだが、自力で健康で文化的な生活ができないのであれば、不幸を長引かせる結果になるのかも知れない。だから「早く死んでしまえ」ではなく、だから「最も効率的な介護とは何か?」の問題と、真面目に向き合わなければならないのである。

親の介護の為に人生を棒に降る世代を生んではいけないというのが私の考え方である。その前提に立てば、月10万円程度の予算で入居費から食費、介護サービスの全てを賄えるサービスというものを実現する方法を考えるべきである。特に十分な介護認定が得られないながらも実際には介護が必要な人の場合、朝8時から夜8時まで施設に預けながら、夜間は自宅で同居することで費用を抑え、且つ自らの仕事を継続できるようにする。

例えば、最近では1食300円ぐらいの食事も現実的であるから、月額の食費を27000円と見込み、残りの73000円程度で入居費と介護サービスを受けるとした場合の提供可能なレベルを考えるのである。個室として3帖ほどの専有面積と、フロア単位での共有スペースを利用可能とし、地域により若干の増減があるだろうが月40000円程度の入居費で運営する。残りの33000円が介護費用となる。1日1100円であるから、当然、一人で介護士を独占することはできない。しかし、要介護1以下であれば、昼間だけ面倒を見てもらえればなんとかなるから、朝9時から夕方5時までを複数人の入居者で割り勘で1人の介護士(ないしは介護士に代わる資格の人)を雇えば良い。正式な介護士ではなく、もう少し条件を緩和することで時給単価の安い人を雇えば、割り勘要員は少なくて済む。例えば8人で割り勘にすれば、日当は8800円であり、月に22日働くとすれば月収が193600円である。60代の定年世代の再雇用を積極的に利用すれば、募集に応じる人は十分にいると思う。もちろん、要介護2以上の人手がかかる高齢者には当然さらにお金がかかる。ボケが始まれば、夜間もケアが必要になる。介護保険はこの様な人達に集中的に投入するのである。また、介護認定を受けれなかったとしても、朝8時から夜8時まで施設に預けることができれば、仕事を継続することはできる。そして、割り勘要員がいれば介護費用の持ち出しは少ない。上記のサービスのショートステイ版である。

もちろん、より収入や資産のある人はオプションのサービスを受ければよい。食事も高価なものを頼めば良いし、居住スペースも広めの部屋を選択しても良い。逆に、介護が不要な人ならば、月に67000円で良いことになり、概ね、国民年金の月額と一致する。

色々、不十分なところはあると思うが、もはやウケ狙いばかりは言っていられない。実際に困っている多数の人を救うための最小不幸の方法論も真面目に考えるたたき台にして欲しい。

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ゲームのルールはゲームを始める前に決めよう!

2012-04-22 23:55:01 | 政治
先週の問責決議で自民と民主のにらみ合い状態が続き、今しばらくは動きが少なそうな気配だが、そうは言いながら4/26に小沢裁判の判決が出る。その辺から、不安定要因は高まり、一気に動き出すかも知れない。しかし、その判決の前に、はっきりさせて欲しいことがある。それは、ご都合主義とは言われないための政治家ご自身の物の考え方である。

例えば、自民党の加藤紘一氏は2002年に自身の秘書が逮捕されるに至り、自民党離党と議員辞職を行なった。彼のことは20年位前だったら少々は評価していたが、現在では私はこの政治家を政治センスのかけらもない政治家だと思っている。しかし、秘書のやったことは親分である政治家の責任との立場を貫き、YKKと称され総裁候補の一角にまで挙げられながら、この判断で完全にその道を断たれることになった。色々人によっては賛否があるかも知れないが、政治家にはこのぐらいの覚悟が必要である。その点は非常ん評価している。だから私は問いたい。特に小沢派と称される政治家に・・・。

もし仮に、小沢氏が1審で無罪になったとして、それで政治的には何の責められる筋合いもなくなったと断言して良いのかを事前に表明して欲しい。そして、仮にその答えが「Yes」であったとしよう。であれば、その理由を聞きたい。その理由は多分、「裁判所が無罪と判断したのだから、綺麗さっぱり、何の非難の言われもない!」となるのだろうが、であれば、裁判所の判断は正しいという前提に立つのかを確認したい。もし、「裁判所が間違った判断をするはずがない」と言うのであれば、仮に有罪判決が出たならば、その時は有罪を前提とした行動を取るべきであると宣言したに等しい。更に私は続けて問いたい。今後、自分の党と敵対する党の議員が裁判にかけられ、裁判の1審で『無罪判決』が出たら、あなたはその判決を受け入れるか?、を。

まあ、聞くまでもなく、その答えは見えている。確実に、小沢氏が「無罪判決」ならば裁判所が正しく、「有罪判決」ならば裁判所は間違っていると答えるだろう。さらには、敵対する党の議員が「有罪判決」ならば裁判所が正しく、「無罪判決」ならば裁判所は間違っているとも答えるだろう。

更に私は聞きたい。仮に小沢氏に「有罪判決」が出たとして、裁判は最高裁まであるのであるから、1審の「有罪判決」は何ら政治的な拘束力はないと解釈すべきなのか?、を。もし、政治的な拘束力は無いと答えるならば、つまりそれば最高裁まで戦って決着が付くのであるから、仮に「無罪判決」が出たとしても、それは単なる通過点であると宣言したに等しい。

更に私は聞きたい。今回の裁判は検察審査会による強制起訴の裁判であるが、強制起訴の制度自体をどの様に考えるのか?、を。検察が捜査して起訴するのに十分な証拠を集めることができなかったのに、それを裁判にかけるなど邪道だ・・・と言われるならば、その他の例えばJR西日本の福知山線脱線事故の強制起訴に対しても同様の立場に立つのかを確認したい。

そして最後に私は聞きたい。世の中には様々なルールがあるが、そのルールはすべての人に例外なく公平に適用されるべきか、それとも当然ながら『人によっては』例外は有りうると考えるべきか、そのどちらかを明らかにして欲しい。

私は、裁判は時として多くの間違えを犯すと確信している。時として、死刑判決を受けた者の冤罪がその後に立証されることもある。だから、絶対に裁判所の判断が正しいという前提で議論しようなどとは言わない。ただ、ルールだけはゲームを始める前に決めておこうと言いたい。ゲームを始めてからルールを変えるのは、明らかに反則である。世の中には、自分が好きなようにルールを変えれると勘違いしているお下品な国家があるが、私は日本という国はそこまでお下品には成り下がっていない国だと信じている。もしその意見に(国会議員の皆様が)賛同して頂けるなら、その国の国会議員にもお上品でいて欲しいと切に願う。

私は、法的拘束力はなくて結構だが、紳士協定的なルールは政党には必要だと信じる。あの田中角栄氏ですら、逮捕後は自民党を離党し、その後は無所属を貫いた。強制起訴というのは初めての事態だが、実効的には起訴されて裁判にかけられているのだから逮捕と等価である。しかし、小沢氏は党員資格停止の状態である。自ら離党するという潔さもない。無罪判決が出たらデカい顔をして頂いて構わないが、有罪判決が出たら覚悟して頂きたい。

以前も負け犬の遠吠えと書いたが、多分、9割方、無罪判決が出るだろうと私は感じている。しかし、池田調書の採用は、それだけでも有罪と判断せしめる破壊力はあるものと感じている。子分たちは意気揚々だろうが、意外に本人(小沢氏)はビクビクではないかと推察する。

小沢派の国会議員がこれらの質問に答えられないなら、せめて、民主党執行部の面々には確認して欲しい。どさくさに紛れた判断は、絶対に政治の自殺につながる。お上品な政党であることを示して欲しい。

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ドラマ「フラッシュ・フォワード」のモザイク掲示板の活用

2012-04-21 22:06:20 | 政治
先日のブログの中では、政治家が正しい選択を出来なくしている原因のひとつに選挙があるという悲しい現実について触れた。ただ、これは政治家だけに限ったことではない。そう、マスメディアも同様に「売れる記事」を書くという強迫観念に苛まれ、本来マスメディアに求められる行動が出来るかが疑問であることも合わせて議論する必要があった。今日はその辺について議論してみようと思う。

3.11以降の震災対応に対する批判を集めてみれば、圧倒的に官僚も含めて政府に対する不満が多く、合わせて原子力ムラなどのこれまでの対応にも不信感からの批判が沸き起こっていた。しかし、同時にマスコミも「何をやっているんだ!」という不満の声も少なくない。震災から1周年を迎えても、自らの反省すべき点を整理し、「あの時は(マスメディアとして)こう対応すべきだった」といった前向・建設的な議論は聞かれない。ついでに言えば、有権者に関しても利益誘導型の政治を払拭できていないのだから、国民全員が悪いという日本人の好きな「一億総懺悔」の結果になってしまう。

この様に考えれば、不確定な要素が多い政治の世界において、彼ら(ここでは主として政治家・官僚とマスメディアを意図している)の議論を正しい方向に進ませるためのエンジンを何らかの形で構築し、それを自由に使える環境を提供することがひとつの道である。

ここ1、2年の間には、ジャスミン革命というそれまで予想だにしなかった新しい形での民主化運動が生まれた。その民主化を進めるエンジンには、フェースブックなどのIT技術が貢献している。技術と政治の接点が生まれた瞬間なのだろうが、その様な事象の応用は幾らでも考えることが出来る。以前のブログ、「TPP議論の全てのパラメータを洗い出せ!」の中でも触れているが、議論を深めるためにインターネットを活用することは無限の可能性を秘めていると思う。今回は、その別の形を提案してみる。

政治的な判断が求められる議論においては、その議論の根拠が何処にあるかが非常に重要になってくる。非常に説得力のある説明には、必ずその背景に裏づけとなるデータが存在する。そのデータと提案が適切な対応を持つものであれば、その提案は非常に有効な選択肢となる。逆に裏付けとなるデータが存在しない提案は、よほど論理的な組み立てをしっかり行なわない限り、単なる思い付きと言われても仕方がない。最近、テレビの討論番組で荻上チキさんという方を良く見かける。彼の説明を聞いているとその発言に非常に説得力があるのだが、彼が口を開く時には頭の引き出しから自由自在に裏づけのデータを取り出して、そのデータとの関連を明確にしながら持論を展開するのである。国会の場においても、この様な形の議論が本来あるべき姿であるのだが、しかし、現実はそうはなっていない。

ただ、私の今回の提案は、ここまでの話のちょっと先の話をしたいのである。一見、データを前提に行なう議論は、「この様なデータがある!」と言われるとついついもっともに感じてしまうのであるが、その裏づけとなるデータをどのように解釈するべきかというところに、実は恣意的な操作が入り込む余地があるのである。データの扱いにおいては、この点を注意しなければならない。

私が学生の頃、工学部の友人が研究室で行なった実験結果のグラフを見せながらこうつぶやいたのを覚えている。それは「ねえ、『山でも谷でもグラフ』って知ってる?実験結果をグラフにプロットするとモヤモヤって雲状にプロットが広がるんだけど、それを指導教官が『山型に上に凸だ』とか『谷型に下に凹』だとか言うんだけど、全然分からない。僕らは、それを称して『山でも谷でもグラフ』って呼んでいるんだ・・・」という内容であった。技術者の端くれとしては、それは明らかに議論の仕方、データの加工・処理の仕方が間違っているとしか言いようがないが、多分、政治の世界で使われるデータは、この様なある種の視点では山型に、別の視点では谷型に見える問題を、自分の立場に合わせて「これは山型だ!」と断言して都合の良い議論を行なっている傾向がある。

例えば、消費税を増税すると消費が冷え込み経済が停滞し、結果的に税収が減るという議論は一見分かり易い。しかし、そのような傾向は間違いないとしても、今回の様に国の借金がここまで膨らんだ状況では、それがそんなに単純ではないことを知っているから議論が白熱するのである。また、小泉政権時代に格差が広がったという見方がある。それをジニ係数などを用いて「小泉政権は悪」と論じる人がいる。一方で、急速な高齢化への移行がジニ係数を引き上げる効果として表れているだけで、小泉政権時代の政策と格差拡大の議論を行なうためにはバックグラウンドにある別のファクターを除外する統計処理を行なわなければならないとして、それを加味した上で政策的には格差拡大にはつながらなかったと断じる人もいる。この様に、様々な要因が複雑に絡み合って起こる現象を理解するためには、時として専門的・数学的な統計処理と、そこに関与しうる要因のあぶり出しなど、事前に手間隙のかかる処理を行なわなくてはならないことが多い。私はこの様な国民(人類?)共通の財産としてのデータを、掲示板形式で整理することを提案するのである。

話が逸れて申し訳ないが、最近、BSのch258 Dlifeが開局され、色々と海外ドラマを見まくっている。そのせいで最近は寝不足気味なのだが、その原因のひとつに「フラッシュフォワード」という番組がある。ある日のある瞬間、世界中の全員が一斉に意識を失い、そこで半年後の映像を夢の中で137秒間だけ見るというお話である。FBIの捜査官がこの原因を突き止めるため、皆が見た未来の情報を各自で掲示板に書き込むことを提案する。ある人とある人が会っていたとすれば、その両方が未来の映像として共有しているはずだから、それらをつむぎ合わせると、何らかの情報が得られるというストーリーである。まだ放送5回目ぐらいだから、その後の展開は私は知らないが、この各自の未来映像をモザイクの繋ぎ合わせの様にまとめ上げる「モザイク掲示板」は、ある種のジャスミン革命的なIT技術の活用方法の様に感じた。多数の「知」の統合による確度の高い[知見]の構築である。

例えば方法はこうである。その掲示板にはデータに関する分類項目を設け、大項目、中項目、小項目毎に各自の考える有益なデータを投稿できるようにする。投稿は、直接掲示板に書くのではなく、ある宛先にメールを送る(ないしはアップロードする)形で直接には公開の掲示板には書き込めないものとする。そのアップロードする情報には、(1)1~2行程度にまとめたデータの示す結論(概要)、(2)その根拠となる文献などの出展、(3)最初の(1)の結論に付随した背景・議論など、所定のフォーマットに則り整理した状態で投稿する。投稿されたデータは、例えばこの掲示板の管理に協力を申し出た大学などの研究機関にてさらに整理され、(1)に対する誤記の訂正、(2)に対する出展の信頼性の評価、(3)の文章の数百文字程度への要約、という作業の後、一般に公開されるのである(これを「要約掲示板」と呼ぶ)。あまりにも件数が多いだろうから、これらの作業は国内の多くの大学の研究室に依頼し、学生が作業したものを指導教官がチェックするという形でも良い。誰(どの機関)がチェック・編集したかも公表し、一定の責任を持たせるのである。こうすると、対立する複数の視点・データが混在することが炙り出されて見えてくる。これらの相違点を詳細に検討し、重要度の高いデータに関しては専門化が吟味する。ここでは意見が分かれるだろうから、両論併記で掲示板上で議論を戦わせても良い。この様な認定された専門家による議論のための「限定掲示板」と、一般人が好き勝手に書き込める「一般掲示板」を設け、それぞれにて意見を戦わせるとその結果から全体像が見えてくると思われる。掲示板を階層化するのは、要点を知りたい人と、その背景の専門家の議論を知りたい人、それに対する一般人の反応を知りたい人が、効率的に掲示板を利用できるようにするためである。認定された専門家は各自で個別のデータに対して1票の投票権を有し、対立する意見のどれに賛意を示すかを投票できるようにする。もちろん、得票数が直接「正しい」「正しくない」にはつながらないが、マジョリティなのかマイノリティなのかぐらいは知ることができる。その様な投票に、匿名の一般人が組織票的な関与が出来ないようにするため、あくまでも限定された人(認定された専門家)にのみ投票権を与えるのである。

この様な形でデータを整理すると、国会議員や官僚などは、皆から支持される議論を組み立て易くなってくる。論理的な議論が可能となってくる。それが、このモザイク掲示板の狙いである。

なお、今回提示した掲示板で扱うのは、あくまでも議論の裏付けとなるデータに限定するものと位置づけている。先にも説明した政策の議論の論点の洗い出しのための掲示板は、多分、別途用意されるべきで、その運用方法は異なるルールになっているだろう。それらを総合すると、多面的な総合評価を制度良く行なうことが可能になる。

政策議論にも新たな革命の波が押し寄せるのかも知れない。

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あの緊張感のなさは本当に危ない!

2012-04-20 22:02:15 | 政治
今か今かと言われた問責決議がやっと可決された。しかし、今更すでに政治は織り込み済みだろうから、急に事態は進展しないだろう。しばらくは、こう着状態を楽しむ状況にありそうな気がする。だから、こちらに対しては特に言うことはない。一方、北朝鮮のミサイル発射失敗から1週間が経過するが、色々と気になることがあるので、こちらの方は少しばかり状況を整理してみる。

まず最初に気になったのは、金正恩の緊張感のなさである。金日成生誕100年の式典で、金正恩が国民の前で長々と20分に亘りスピーチを行なった。色々と「棒読み」とか「噛んだ」とかの突っ込みは横に置いておいて、最も違和感の大きかったのは原稿を読み上げた後の行動である。原稿を読み上げる最中も体をフラフラと揺すってダラけた雰囲気が伝わってきたが、演説の終わった後には画面左側にいた白い制服の側近(多分、崔竜海軍総政治局長?)と笑顔でヘラヘラ無駄話をしていた。その右側にいた黒服のお偉いさん(多分、北朝鮮No.2の最高人民会議常任委員会委員長の金永南氏?)は微動だにせず、険しい顔で国民をにらみ付けていたのとは対照的である。もちろん、父親の金正日もいつも険しい顔をしていた。父親の金正日は長い歳月の中で、肉声が国民に届いたのはたった一回で、それもたったの5秒ぐらいだったという。父親は自らのカリスマ性のなさに劣等感を抱いていたのかも知れないが、下手にボロを出さないようにするため、徹底的に生の映像が流れるのを嫌ったのだろう。しかし、それはある意味、軍に対する自らの緊張感のアピールにつながり、怪しい動きに対するある種の心理的ブレーキとしても機能していたのだと思う。

しかし、金正恩の一連の態度を見る限りでは、いかにも取り巻きからはチヤホヤされていて、直面する深刻な問題を肌で感じて一人称で対処しているようには見えない。一方で、父、金正日の喪中に酒を飲んだ軍の副部長に対しては、着弾地点に立たせて迫撃砲を撃つという残虐な手法で処刑したりもしており、幹部連中からすれば思いつきで何をしでかすか分からないリスクを感じているに違いない。

次に、ミサイル発射失敗を公表することを判断したのは金正恩だという報道があった。詳しいことは分からないが、金正恩が勝手に判断したかのようなニュアンスで伝わっている。結果的には知らばっくれて逃げ切った感があるが、生誕100年を祝う祝砲を打ち上げれなかったのだから、軍部の幹部連中は相当対応に悩んでいたのだろう。しかし、軽い気持ちで金正恩に「失敗を認めろ」と言われると、幹部連中からすれば色々考えてきたことが水の泡である。当然、責任問題を追及されてしかるべきだが、表立っては軍の上層部の中では、未だにミサイル失敗の責任を取って失脚した者は見当たらないという。あれだけの大失態で責任を誰も取らないことへの危機感と、一方で誰かが金正恩に耳打ちして自分が人身御供に貶められる恐怖とが錯綜し、中々ものを言い難い疑心暗鬼の状態が高まっているように思える。

さらに続けて驚かされたのが、金正日の遺言が韓国の政府筋から漏れ出てきたことである。金正日が強く戒めた遺言の中に、「決して、韓国と戦争をしてはならない!」という言葉があったそうである。生前の自分はどうかといえば、延坪島事件で一触即発の事態を平気で招いた。つまり、最終的には戦争は避けるものの、ギリギリの寸止めで韓国に揺さぶりをかけることを行なっていた。しかし、これは「俺が弾けても知らんよ!」とブラフをかけて脅し、韓国が好戦的な態度を取ると平和的な素振りを見せたりして相手との間合いを取っていたのである。悔しいが、絶妙の駆け引きだったと記憶している。しかし、遺訓として何をされても「弾けない(一線を越えない)」ことが分かっていれば、逆に相手の方から揺さぶりをかけられても手も足も出せなくなる。実際、早速韓国からは巡航ミサイルの配備で、北朝鮮の何処でもミサイルで攻撃できると脅しをかけられている。今までの北朝鮮らしからぬ情報統制のガードの甘さである。

また、この辺は単なる新聞の希望的な観測なのかも知れないが、金正恩は地方を切り捨てして平壌さえ居心地がよければそれで良いというような態度を取っているとか、闇市場に対する統制から物資の流通がなくなり国民が疲弊しているとか、金日成生誕100年の国民への配給がシケたもので国民の反発が強いとか、色々、国民の間にも不満が募りだしたという説もある。最後のこの項目は少々疑わしいかも知れないが・・・。

この様な事態を総合すると、金正恩体制の現在は非常に危険な状況にあると予想される。軍部からすると、もう少し経験を積むまではお飾りとして余計なことをさせたくないのだろうが、軍部と距離を置く張成沢などの集団は、そんな軍部を操ろうとするとともに軍部から罠を仕掛けられて失脚させられないように工夫しようと考えるだろう。(例えば中国の立場からすれば)理想的なのは、金正恩が威厳を利かせて、軍部やその他の勢力など如何なるグループも、金正恩を丸め込むことは出来ない・・・という程良い緊張感があることだろうが、金正恩に緊張感がなく威厳がなければ、いち早く金正恩に取り入って丸め込むことが自らの身を守ることになる。お互いを出し抜く競争が内部で始まれば、いつクーデターが起きても仕方がない状況にしか見えない。もちろん、実際のクーデターはまだまだ先なのだろうが・・・。

さて、次に気になるのは中国の動きである。石原都知事の尖閣購入問題にもあまり強硬な反発を示さなかった。インドが中国全土を射程に治めるミサイル実験をしても、一見、余裕をかましているかのような寛容な表現で矛を収めた。北朝鮮のミサイル発射に対する国連での扱いでも、議長声明という形ではあったが、比較的厳しい表現での声明を許容したりしている。石原都知事の尖閣購入問題の前にも、領土問題の棚上げ提案をしてきたり、その他にも色々あるが最近は中国が比較的、(相対的に以前と比べると)弱腰気味の態度が目に付いている。国内の権力闘争が関係しているのか、単なる偶然なのかは分からないが、エアポケット的に北朝鮮への影響力が一時的に且つ急激に低下しているとすると、これまた北朝鮮の今後の動向に影響を与える可能性がある。アメリカもイラン対応で必至だからどこまで本気で北朝鮮に付き合うかも分からず、すっかり、重石がなくなった状態の様に見えるのである。

だから、北朝鮮が暴発する、ないしはクーデターが起こるシナリオを十分に描いた上で、覚悟を決めて北朝鮮への制裁を行なうことは事態を進展させる上では有効かも知れない。少なくとも、今の中国には北朝鮮に付き合ってアメリカと小競り合いをする気もないだろうから、とりあえずは北朝鮮の体制をリセットするには都合が良い。3代続いた金一族体制が消えてなくなれば、次の政権にとっては拉致問題を解決して日本からの支援を引き出した方が得策である。拉致問題が解決すれば、6カ国協議で日本が孤立するリスクは減るから、より日本としても協調的な対応が可能になる。拉致問題は喉元に刺さった小骨(実は大骨なのだが)であり、これをクリアしないと何も先に進めない。

脆弱な民主党政権のスキをついて、中国もロシアも北朝鮮も、好きなように日本に揺さぶりをかけてきた。今は反撃の時かもしれない。何処に人材がいるのか知らないが、日本国内の緻密な戦略家の解析を期待したい。

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原発再稼働 -私はこう思う-

2012-04-19 22:37:41 | 政治
昨日のブログで「ぶれる」「ぶれない」の話題を取り上げたので、ついでなので原発に対する私のスタンスも明確にしておこうと思う。

結論から言えば、厳しい安全基準を確立した上で、その基準を満たす原発の再稼動は許容すべきであり、安全性をより確実にするためには危険であることを前提とした第3者による監視体制の徹底も加えるというものである。さらに付加的な条件として、原発事故が起きた場合には、事故発生時の株主および融資を行なう銀行にも責任を分担させるべきである。また20年程度のスパンで長期的には脱原発依存を目指すべきではあるが、完全な原発廃止までは行なうべきではないとも思っている。

では順番に確認して行こう。安全基準に関しては、IAEAなどの国際的な機関の基準や原子力安全委員会、その他原発事故の検証委員会など様々な報告を総合的に取りまとめ、その中の最も厳しい基準を前提としたハードル設定を行なう。このハードル設定は、多段階の設定を行なう。まず第1弾として、再稼動の条件として、短期的に最低限クリアできていなければならない条件を設定する。第2弾以降のハードルは、例えば2年ないし3年単位でクリアするべきハードルでも構わない。

もう少し具体的に言えば、第1弾のハードルは概ね以下の様なものだろう。まずは地震と津波で原発建屋の健全性が保てること、水素爆発を回避可能なフィルターつきの排気設備を確立すること、全電源喪失時の電力供給方法の多重化、全電源喪失時も考慮して圧力容器からのベントの安全実施方法の確立(フィルターとバッテリー駆動が可能な開閉弁などの設置)、原発建屋から離れた場所への免震重要棟の設置、さらに風向きを考慮した場所(原発から5km程度の場所)へのオフサイトセンターの設置(当然、放射性物質をシャットアウト可能な機密性と免震構造は必要である)などである。

ここでは、例えば津波が来ても原子炉建屋および免震重要棟の健全性が保てることが担保できるのであれば、必ずしも想定される津波を上回る防波堤を全方位に亘り確保する必要はないと思う。ただし、この場合には津波により、外にある配管、細かな設備は全て崩壊する可能性があるので、それらの設備の100%損傷を前提とした安全性を考慮しなければならない。また大飯原発を例に取れば、緊急用電源であるディーゼル発電機が崖下にあることは、がけ崩れによりその設備の破壊は十分に想定されなければならない。もちろん、3重4重のガードのうちのひとつという位置づけであれば問題ないが、それが緊急時のメインの電源であってはならない。この様な前提を設定すれば、例えば防波堤の様なものは3年後を目処にしても構わない。以前のブログでも免震重要棟だけは譲れないと書いたが、何が起きるのかが100%予測できないのは当たり前だから、最後は近場のベース基地から臨機応変な対応を取れるようにするのである。ただ、福島第一原発の吉田前所長も死を覚悟したように、その様な危険な事態は当然予想される。その時、一旦、オフサイトセンターまで避難して、そこから遠隔操作が出来る体制は確保したい。これは第2弾のハードルで構わないから、オフサイトセンターから衛星回線等の無線回線を介した免震重要棟の遠隔操作機能の確立も考慮して欲しい。このオフサイトセンターには、例えば免震重要棟で働く人達の交代用の休憩用の設備としても活用できるようにしたい。1000人規模以上の宿泊環境を整えて欲しい。また、テロ対策などに関しては、第3弾のハードル設定に含めても構わないだろう。

次に、第3者による監視体制の徹底について説明する。以前のブログでも触れたが、原発では様々な事故が発生し、その事故の多くを電力会社は闇に葬ってきた。いくら制度がしっかりしていても、その運用段階でその様な悪意を持った人的な作為が入り込むと、制度は全く機能しないのである。そこで、例えばその様な事故の隠滅行為を行なった者への罰則規定(その行為を指示した者だけでなく、それに従った者にも当然ながら罰則を与える)と、内部告発制度の充実を図る。そして、定期的に安全性検証を行なう委員が原発作業員に対してヒアリングを行い、そこでの調査結果を完全に匿名で扱いながら、悪意のある行動を炙り出すのである。そして、その内部告発者が不利となる制裁がとられた場合には、会社側に被害者の推定年収の3倍以上の賠償責任を課すとか、色々、嘘をつけないシステムを作り上げるのである。

この様な法的整備を行い、利害関係を廃した適切な検証体制を発足させれば、多分、安全と安心を両立させることは可能なのだと思う。

ただ、この様に考えると、(詳しくは知らないが素人目には)大飯原発は再稼動第1号となる資格を殆ど有していないと思われる。今年の夏は、関西電力での電力不足は相当深刻だろうから、60Hz圏の電力会社同士での電力融通が鍵を握る。つまり、関西電力だけでなく、その他の電力会社の原発も含めた中で、安全性を確保し易い原発を早くピックアップし、そこを中心に安全性の確保を進めるのである。具体的に何処が候補になるのかは知らない。ひょっとしたら、ひとつも候補は残らないのかも知れない。しかし、それでも背に腹は代えられないのだから、速攻で準備を進めるしかない。

最後に、付加的な条件である事故発生時の株主および融資を行なう銀行の責任(上場廃止や債権放棄など)に対する考え方はこうである。今回の東電の賠償責任に関する議論の中でも、株主や銀行の責任を問わない方向で作業が進んでいる。何故、株主責任、融資責任を問わないかといえば、そんなことをすると銀行や株主が一斉にドン引き状態になり、全ての電力会社の株価が暴落し経営が立ち行かなくなるからとの考え方が背景にある。だから逆に言えば、その責任を負わされても株式や融資を勝ち取れるためには、安全管理の徹底とその情報公開が鍵を握る。情報をシャットアウト(秘匿)すれば安全神話で生き残れるという考え方だった今までと決別し、絶対的な安全確保を自ら選択せざるを得ない条件を作るのである。この様に、2重にも3重にも、安全性を確保できるルールを構築するのである。ちなみに、事故発生後の銀行の融資に関しては、私は国が保証を与えても構わないと思っている。これだけは別枠の議論である。そうでなければ再建はできない。

一通り説明を行なってきたが、ここまでやった上で、再生可能エネルギーが立ち上がるまでの10~20年間を、敢えて液化天然ガスや石油等を用いた火力発電中心の世界を目指すのか、当面は原発と共存しながら10~20年程度を目標に脱原発依存を目指すのか、それぞれの得失について議論を行なえば良いと思っている。その結果、国民が2~3年の短期的なスパンでの完全原発廃止を選択するならそれは仕方がない。素直にそれに従えばよい。もちろん、返り血は浴びる可能性が高いだろうが、国民は腹をくくるしかない。

最後の最後に一言言葉を付け加えるとすると、それは原発のコストについてである。核廃棄物の中間処理、最終処理のコストは全く読めない。しかし、既に歩き出してしまったので、ここで原発を止めてもそのコストは払わなければならない。この様なものは別勘定で計上すべきであろう。次に、これまでは原発を誘致するために様々な箱物などの投資が行なわれたが、この箱物にかかった費用を原発のコストに含めるのは反対である。なぜなら、それは公共事業としてであったり、住民の生活に貢献したりと、全く無駄とはいえないものであるからである。もちろん、無駄遣いの謗りは免れないかも知れないが、それと発電コストは分けて考えるべきである。また、今更、原発推進の広告費用を計上しようとは思わないだろうから、その当たりも含める必要はない。政治家や政党への献金も同様である。そんな金があれば、電気料金の引き下げに使うのがスジである。この様な前提で計算すれば、多分、まだまだ原発のコストは他に比べて安いのだと思う。

核廃棄物の中間処理、最終処理のコストに関しては、多分、日本がどうのこうのと言うのではなく、事実として世界中がコストに目を瞑り見切り発車をしてしまった。これは、原発のコストと考えるより、科学技術発展のコストなのだと思う。同様に、原爆や様々な殺人兵器(戦闘機、軍艦、ミサイル等、全てを含む)も科学技術発展のコストである。民主主義のコストは「ならず者国家」に対するハンディキャップとして悩ましいが、それでもそのコストを払ってでも我々は民主主義を選択する。科学技術発展のコストも同様なのだろう。いつしか、これらのコストをチャラにできる技術を期待しつつ、今は涙を呑んでコストを払い、前進を続けるしかない。

私の考え方はこの様なものである。ブログの断片で見ると「ぶれている」と感じられる人もいると思うが、それなりには考えてはいるつもりである。蛇足ではあるが、私は政治家の中では橋本市長、枝野経産相、石原都知事、石破前自民党政調会長(既に引退したが小泉元首相)には非常に期待を寄せている。ひょっとすると、その辺のエコヒイキがあるかも知れないが、それは否定しない。批判は甘んじて受ける覚悟である。

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「ぶれる」「ぶれない」の本当の意味

2012-04-18 22:09:00 | 政治
一体、この人達は恥ずかしいという感覚はないのか・・・と思ってしまった。尖閣国有化に関する藤村官房長官と野田首相の発言である。

最近の民主党は、国民の顔色を伺い、媚び諂うような態度が多い。最近の原発再稼動に伴う反対の声の増幅も、その前からあった動きではなく、ところどころでぼやいている人はいたが、ある程度のまとまりのある動きとなったのは、世論調査などで原発再稼動反対が国民に受けると分かってからのことだ。更に言えば、発再稼動反対と消費税増税反対に絡めることで野田政権を揺さぶることが出来るという目論見からの行動に見えて仕方がない。今回の尖閣諸島の国有化も、もし本気で最初からそんなことを思っているのであれば、中国が尖閣周辺で怪しげな動きをすることに対してもっと強く反発しても良いだろう。さらには、実際に国有化・買取の動きを地権者に対して具体的な行動を起こしても良さそうなものである。しかし、その様な行動を取っていた形跡はない。如何にも場当たり的で思いつきの発言に思える。

私が危惧するのは、せっかく石原都知事の発言に対して(単なる自治体の首長の行動ということで)中国が穏やかな反応を見せていたのに対し、政府の場当たり的な反応が中国の強い反発を呼び起こすことになったとして、その時に腹をくくった対応が出来るのか?ということである。つまり、単に石原都知事の戦略的な行動の足を引っ張るだけの結果にならないかということである。だから、本来であれば国会内やマスコミからの質問に対して「これは単なる東京都が勝手に判断したことであり、事の推移を見守りたい。将来的に国に対しての働きかけがあれば、その時に対応する。現在は、特にコメントする状況にない。」と他人事のように突っぱねれば良いのである。しかし、これを言ってしまうと国民の受けは滅茶苦茶悪いだろう。今回は、その反応を嫌っての受け狙いの発言だろうが、その後の中国の反応に対して責任を取れるのだろうか?この様な場当たり的な行動は、信念の伴わないふらついた行動として糾弾されても仕方がないと思う。

一方で、最近のマスコミは「ぶれる」という言葉を非常に好んで使いたがる。しかし、この「ぶれる」という言葉の多用には私は首を傾げたくなることが多い。例えば、枝野経産相の発言がブレまくりであると人々は言う。それは本当だろうか?私は、それは単なるミスリードを意図した発言だと理解している。

確かに、「現時点では原発再稼動に反対」と国会内で発言した翌日に再稼動に前向きな発言をしたのは理解できなかったが、私個人は前後の脈略を全て把握していないので何ともいえない。しかし、例えば「中長期的に脱原発依存を進める決意」と、現時点での短期的な視野での原発再稼動は、決してバッティングするものではないと思う。例えば、「死に物狂いで節約し、最短で100万円貯めるんだ!」という人がいたとしよう。そして、その人がご飯にお塩をかけて食べていたところを目撃したとする。そんな時、誰かが「ご飯なんか食べていたら、100万円貯めるのに最短にならないじゃないか。水だけで我慢すべきだ。」と言ったら説得力があるだろうか?答えを聞くまでもない話である。水だけでは生きていけないから、一切、お金を使わないというアプローチは栄養失調で病院に入院することにつながり、結果的には100万円貯めるのに遠回りになるかも知れない。10年、ないしは20年で脱原発依存を確実に実現させるためには、多大な開発費をその他の発電方法に投入しなければならない。それらが十分に稼動できるまでは赤字続きだが、財政破綻しそうな状況でその赤字を補填し続けるのは至難の業である。国内の景気動向が回復しなければ、消費税率をアップしても増収にはつながらないから、今後の景気の動向は10~20年後の脱原発依存の実現度を大きく左右する。そのためには、国内産業の空洞化回避と、電気料金の大幅値上げによる国債競争力の低下を回避するのは至上命題である。そのために安全の確保を担保した上で、国家が責任を持てる原発に限定して再稼動を許容するというロジックは、確かに理にかなったものであると言える。枝野経産相の発言は、概ねこの様なロジックに沿ったものであろう。であれば、それを「ぶれた」と言うべきかどうかは意見が分かれるところである。マスコミはこぞって「ぶれた」という。本当だろうか?もちろん、安全性の確認方法に関するロジックはボロボロであり、責められるべきはこちらの方であるが、それは「ぶれる」「ぶれない」の議論とは少し違うところにある。

思い起こせば、「ぶれる」という言葉は麻生元総理の頃から多用され始めた。漢字が読めないとか、細かなところでポカをするとか、あまり本質的でないことで責めることに、誰も疑いを持つことがなかった。しかし、本当に麻生元総理はぶれていたのであろうか?あまり褒められない判断も多々あったとは思うが、意外にも及第点を取れる程度の活動はしていたのだと思う。本当にぶれたのは、鳩山元総理と菅前総理だけだろう。「総理大臣を辞めた後、次の衆院選には立候補しない(引退する)」と豪語していたのが今はどうだろうか?いつまでもずっと、自己満足のために日本政府の足を引っ張る活動を積極的に行なうため、差し当って引退は撤回するという。もう一人に関しては、九州電力の原発再稼動を海江田経産相に一旦は指示をしたのに、反原発派のイタリア人と一緒に飯を食っただけで心変わりし、かけたはずのハシゴを思い切りはずしまくり、部下に尻拭いさせるという話も有名だ。何か問題が起きて矢面に立たされたとき、別のネタをぶち上げて注目を集めれば、その前の話題など国民は忘れてしまう・・・と場当たり的な行動を好んだ総理たちには、政策的な信念などないから直ぐにぶれてしまうのである。

マニュフェストで「消費税は上げない」と言っていたのに消費税増税を行なうことは微妙だが、予算の組み換えで財源が幾らでも捻出できると信じていたのが間違いだと分かった時、それでも消費税増税しないと言い張るのか、やはり消費税増税は必要と判断するかは大きな判断である。「ぶれる」、「ぶれない」の問題は、前提条件が思い切り崩れた時に大きな判断で方向を変えることは許容しながらも、細かな目先の状況で方向性を小まめに変えるか否かの問題である。この様な視点で見たとき、野田内閣は比較的ぶれない内閣だと私は評価している。

だからこそ、枝葉の議論で「ぶれた」と決めつけるよりも、今回の尖閣国有化に関する対局を見ない判断をたしなめるのがマスコミや国会の仕事だろう。今からでも遅くないから、国有化の発言をトーンダウンしてみてはどうだろうか?もう既に遅いのだろうが・・・。

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今が攻め時、棚上げなんてしない!

2012-04-17 23:01:57 | 政治
寝ぼけた頭に朝から驚きのニュースが入ってきた。東京都の尖閣購入計画の話である。細かい内容は説明するまでもないが、石原都知事の戦略性の高さを思い知らされた感じがする。

尖閣問題は非常にデリケートな問題であり、確かに日本の外務省としては表立って動き難い。以前に小平が「我々の世代の人間は知恵が足りない。次の世代はもっと知恵があるだろう」といった内容を発言した以降も、様々な問題が起こっては有耶無耶になって現在に至っている。漁船の衝突事件の際には中国政府は事件に関係ない日本企業の社員を拘束し、まともな法治国家ではないことを世界に明らかにした。だから、公に日本政府が動いたとなれば、極端な話、中国は「わが国に対する宣戦布告!」とまで言い出して軍艦を派遣し、一触即発の事態になることも予想される。もちろん、日本の背後にはアメリカがいるから簡単には手出しをできないが、極端な緊張状態を作り出すだけで彼らにとっては十分である。

遡れば、小平の時代には領有権問題は一方的に日本が有利であった。しかし彼らは上手い具合にその時代での決着を先送りし、棚上げと主張しながら国内では着々と権利主張のための手はずを整えていた。経済的および軍事的な国力を高めることで、相対的に尖閣(というより国際社会)に対する自国の立場を改善し、いつの日か「勝てる!」と判断したところで勝負を仕掛けるのであろう。その時に日本が棚上げを主張しても、当然、そんな話を聞くはずもない。明らかに、彼らの戦略は着々とその効果を上げているのであるが、日本政府は尻込みして何も出来ないでいる。

だから、日本政府以外の誰かが半ば国と対立しながらも行動を起こすことは、この問題における日本の立場を改善するためには有効といえる。詳しい法律は分からないが、多分、何処かの自治体が何処かの土地を購入する経済活動に対し、国が法律に則ってそれを阻止することは出来ないのだろう。だから、仮に中国が日本に圧力をかけたとしても、日本政府は(堂々と)何もできない(しない)言い訳が出来るのである。

石原都知事が国政に打って出て国会議員という立場(場合によっては政権与党)になってしまうと、見かけ上は国家の関与とも取れなくもないので、難癖をつけようと思えば付けれそうだが、都知事という肩書きのこのタイミングでは追求は難しい。もちろん、理屈抜きで圧力をかける暴走も予想されるが、漁船衝突事件の際の中国の暴走は、その後の国際社会の中で中国包囲網を作り上げる原動力になり、中国にとっては明らかにマイナスであった。最近、「尖閣問題は一旦棚上げしましょう!」と言ってきている背景には、その様な弱みもあるのだろうから、あの時の再現を覚悟の上で暴走するのは躊躇せざるを得ない。おりしも、中国国内事情としては、胡錦濤国家主席から習近平国家副主席への権力移譲のタイミングであり、そんな中で前重慶氏トップの薄煕来氏のスキャンダル事件があり、付け込むスキが僅かながらに見られたタイミングでもある。下手に暴走して裏目に出れば、その後の権力闘争でも不利に働くかも知れず、今回は非難声明だけの模様眺めで終わることも予想できる。実際、半日以上経過した現時点で、中国の過激な反応は見られていない。これが読めていたのであれば、石原知事は流石としかいいようがない。

また、わざわざアメリカまで行って発表するあたりも、戦略的なインパクトという意味で面白い。今後、どの様に展開していくのかは分からないが、大事に至らずに実効支配の度合いを高め実績を積み重ねるのも良し、問題沙汰になって国際司法裁判所に持ち込み勝利を収めるというのも良し、どちらに転んでも悪くはない話である。もちろん、それなりの返り血は浴びるのかも知れないが、放っておいても第2、第3の漁船衝突事件は起きるだろう。実際、最近も太平洋の島国パラオの海域で違法操業をしていた中国漁船を取り締まろうとして発砲し、 中国人漁師1名が死亡した事故があった。こんな話は今後は日常茶飯事と化すだろうから、目先の波風を荒立てないようになどという主張は、長期的にはより多くの日本人を危機にさらすことになる。

ところで今回の話は、大阪の橋本市長は石原知事から事前に話を聞いていたという。石原知事は最近は「新党構想は白紙!」とも言っている。ここから先は私の勝手な思い込み、空想の世界であるが、2月末のブログ「『維新の会』を国会で仕切るのは誰だ?」の中で、「多分、絶対に当たることは無いと思うが、希望的な観測の超万馬券狙いで言えば石原都知事の一本釣り(所謂『立ち上がれ日本』を中心とした『石原新党』ではなく、石原都知事が平沼氏達を振り切って、維新の会に加わるという意味)という選択肢」とした予測も超万馬券から単なる万馬券ぐらいまでは可能性が増えたのかも知れない。当たる訳がない予想ついでに言わせてもらえば、橋下知事が原発再稼働で民主党に挑戦状を叩きつけ、輿石幹事長が「受けて立つ」と応じる。仙石由人政調会長代行も「集団自殺」という過激な言葉を使って橋本市長に対する対決姿勢を見せる。一部では野田総理は8月末まで通常国会を延長し、新党を塩漬けにして新鮮味を薄めて選挙を戦おうと言われている。私はこれらの状況を見て、民主党は世論に従い原発の再稼働なしに夏に突入させ、電力不足で不便を味わた国民が橋下市長に対する反発を強め、そのタイミングで消費税増税の採決を行い解散総選挙に打って出る・・・という策略を本気で狙っているのではないかと疑ってしまった。橋本市長はその動きを察してか、少しばかりトーンダウンを見せてみたり、間合いを見ながら駆け引きを楽しんでいるようにも見える。

そんなタイミングでの石原知事の発言である。完全に喉元に刃を突きつけた格好になった。仙石政調会長代行辺が策略を練っているのかも知れないが、国会内外の全方位から切りつけられる状況は今後も続き、その急先鋒である橋本市長と石原知事の連携による揺さぶりは続くのだろう。どうせ民主党は9月の代表選を分裂なしに乗り切ることはできないだろうから、起死回生の切り札(解散)は8月末までには切らなければならない。その頃には尖閣購入問題も収束しているだろうから、結果を残せる「決断できる政治集団」が国民に迎えられる結末は容易に予想できる。

まあ、最後は漫画の様なお話だからそんなことにはならないだろうが、何らかの形で1歩づつ前に進める政治が実現することを祈ってやまない。

久しぶりに爽快なニュースだった。今日はよく眠れるだろうか?

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イタリアにも日本にもできること

2012-04-16 23:44:21 | 政治
北朝鮮のミサイル打ち上げが失敗して拍子抜けしたためか、ここ数日は原発再稼働の話題がニュースの中心になっている。野田政権の支持率も一気に下がり、20%近くとなり危険水域に近づいたとの話もある。だから、本来ならばこの辺の話題で何か言いたいところだが、どうにも前向きな議論がなく、単に「だって仕方がないじゃん!」という様な話ばかりだから、もはやコメントしようがない。そんな中、今朝の日経新聞に「イタリアに出来るなら〜『たら・れば』政治超えよ〜」と題してイタリアのスーパー・マリオこと、マリオ・モンティ首相の話題が取り上げられていた。

現在の日本では「決められない政治」が問題になっているが、(イタリアでも同様に)決められない理由は選挙があるからである。何とも逆説的な話である。選挙は民主主義の鍵を握る制度であるが、その選挙のせいで政治家が冷静な判断をすることができなくなってしまう。マリオ・モンティ首相率いる政権は、前任のベルルスコーニ全首相ができなかった多くの政策を、たった就任後数ケ月でバッタバッタと実行に移していった。その様なことができた理由は、以下の2点に尽きる。ひとつは本人も閣僚も、全員が選挙の洗礼から無縁だからである。失うものなど何もないから、純粋に自分が正しいと思う政策を実行することが出来る。もう一つは、政権の全閣僚が学者であり、その道のスペシャリストだからである。これは非常に重要な点である。

私は今でも日本の官僚の多くは、十分に有能な人が多いものと信じている。ただ、適切な命令が与えられないと、良からぬことを考えてしまう傾向は否定できない。だから、有能な人が大臣になればその省庁は機能するし、無能な人が大臣になればその大臣を操って、自分達に都合の良いことをしてしまう。性善説が成り立たない半面、エリート意識は強いから法的な縛りがある中ではクーデターを起こして罪人になるよりも、ちゃんと働いて評価される方を好む。であれば、官僚以上の知見を持った実行力のある人が上司になれば、当然ながら政治は機能し出すのである。

日経新聞の「イタリアに出来るなら」という見出しは極めて失礼である。確かに憲法における制約があるから、首相は国会議員でなければならないし、閣僚全員が国会議員でないことも許されないので、「日本には出来ない」芸当であることは間違いない。しかし、別に本質は首相が学者であることでもないし、国会議員でないことが重要なのでもない。小泉政権時代は、小泉元首相は選挙を武器に自分の目指す政策を実現することができたし、その最重要閣僚であった竹中平蔵氏は最後には国会議員になってしまた。だから、イタリアのそれとは形こそは違うが、別の形で同等の芸当を実現した実績も日本にはあるのである。形式的には相違点があるのだが、一方で共通点にも注目すべきである。それは、選挙や支持率調査などに左右されない強い意志と、議論で相手を論破できる専門性と、カリスマ的な(ないしは強い信頼に裏打ちされた)実行力であろう。

ただ、そこまで多くを望むのは中々難しいものがあるので、せめてこれだけは・・・というものを求めるとすれば、それは「説得力」に尽きると思う。その「説得力」の向かう先は政権与党の身内議員でもなく、衆参で過半数を得るための国会議員でもなく、国民に対する「説得力」である。多分、大抵のテーマには答えは一つではない。目的が正しいと信じさせれば、その手段としては幾つかある選択肢のどれを取っても結果は付いてくる。例えば、将来的(例えば10〜20年後)に脱原発を実現させるのが目的であれば、そのゴールに向かうための手段として即原発廃止であろうと一旦再稼働であろうと、どちらの選択肢も有りだと思う。ただ、大抵は実現のための道は険しいから、ちょっとでも日和ったらその手段は決して実現しない。鳩山元首相が普天間問題を解決できなかったのは、目的や手段を議論する前に、厳しい道を嫌い日和ったからである。鹿児島でも関空でも、こうと決めたら悪人と呼ばれようがその地元民から非難されようが、「俺はこれだけできれば本望だ!」という気持ちで望めば実現できていたかも知れない。しかし、それができないから彼の目的が「選挙で勝つこと」であり、沖縄はその「手段」として利用されたのだと思われてしまうのである。実際に、自分が自ら汗をかいた形跡が全くないのだから、それは多分間違いないのだろう。

現在の野田総理が消費税増税を訴えたとき、本当の意味でその目的が何なのかが伝わってこない。原発を再稼働するにしても、その目的が何なのかが分からない。電力不足回避は目的ではない。税収アップが目的なら、増税による景気の冷え込みは容易に予想できるので、この手段が目的に対して裏目に出る可能性も大いに考えられる。だから、本当の目的は何処か他にあるはずである。この様な目的と手段の履き違えは説得力を著しく低下させる。学者の中には議論のための議論が好きな人も多いから、学者ならば誰でもよい訳ではない。あくまでも、目的を明確に且つ論理的に説明できる人でなければならない。また、その様な人は政策の優先度を正しく判断できる人が多いから、あれもこれもと欲張らず、突破するべき場所を選んで集中的にそこを攻めることが出来る。ひとつ片付けば次のことができる。気が付けば、多くの実績を残すことができる。

今回のイタリアでは、そのような人を集結させて成功に導いたのだろう。小泉政権時代にもそのようなところがあった。当然、パーフェクトなど有り得ないから取残しが少しぐらいは出るだろうし、副作用もあるかも知れない。しかし、大局を見ればそれが良かったのか悪かったのかは分かる。

もし野田総理が国民の同意を得たいのであれば、今一度目的と手段を整理して、その目的が何であるか、説得力のある自分の言葉で国民に語るべきである。少なくとも私は郵政解散の時の小泉総理のような真剣な野田総理の言葉を未だに聞いた記憶はない。

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