けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

現在の法で裁けない利権と利益供与の闇

2014-10-29 23:58:40 | 政治
先日、政治資金がらみのスキャンダルで小渕優子前経産省が辞任した。この様に最近、「政治とカネ」が紙面を賑わしているが、私が最近気になる巨大な利権と利益供与のお話について今日は書いてみる。

まず小渕氏についてはこのブログでもコメントしたが、法律に触れる部分は司法の判断で適切に対処して頂けばよい話で、一方でその悪質さに見合ったペナルティが与えられることを私は期待する。その後の報道では、「選挙区外でしか配っていない」と言われたワインが選挙区内の有権者に(何かのお祝いで?)配られた例が1例見つかったようで、報道機関は勝ち誇ったように報道する。この1例に関しては、(何のお祝いで背景的にどの様に悪質性を評価されるのかは分からないが)少なくとも法に触れている可能性は極めて高いので、司法の物差しで適切に評価して処罰をすればよいと思う。しかし、気になるのはこの一例を除き、観劇会に関する「典型的な買収構造」と言われるケースについての「買収の証拠」などは報道されておらず、こちらの方は政治資金収支報告書への記載不備で終わってしまう可能性が高いように見える。今日の報道では、私からすれば「これほどしっかり者はいない」と感じる民主党の枝野幹事長ですら数百万円単位の収支報告の未記載が発覚しているくらいだから、政治が本業の政治家において、この様な事務手続きに関しては「ミスが発覚したら、誠意をもって修正&説明などの対応する」を前提に、運用を柔軟にするのがあるべき姿の様に感じる。要は「悪質さ」の程度であり、巨大な利権の影がそこになければ、些末なことで本業を疎かにするのは疑問である。

一方の松島前法務相の辞任に関しては、どうやら柄のついた団扇が「有価物」と見なされるのは現実的なようだが、柄を取り除いた円形の紙だけの団扇に関しては総務省的にはOKである。この判例的なコンセンサスが多くの政治家の中では一般的であったようだが、しかし、これは単なる「法の抜け道」を探しているのに等しい。実際、蓮舫氏は過去のツイッターで女子高生から「団扇」としての評価を受けたことに謝意を表しているので、自身の「配布物」も実質的に「団扇」であることは認めている。オークションでの相場は松島氏も蓮舫氏も膨大な額の価格がついているので、結果的に「有価物」となっているのも同じである。この意味において、蓮舫氏などの行為は単に法の網を潜り抜けた行為とみなすことが可能であり、「法的責任」と「道義的責任」と分ければ、「法的責任」はその悪質さを司法に委ねて判断してもらう一方、「道義的責任」としては同罪とすべきだろう。危険ドラッグを例にとれば、その時点で法的な規制がかかっていない「違法とは言えない」ハーブを芸能人が使用していたことをマスコミにすっぱ抜かれたとき、「法的責任」は問えないが「道義的責任」としてぼろ糞に叩かれるのと同様で、柄のある団扇が違法であると知りながら、法的責任を回避可能な柄のない団扇を配布するのは決して褒められた行為ではない。

以上は、マスコミが喜んで扱う「政治とカネ」ネタであるが、私からすると些末な話題で大騒ぎしている様にしか見えない。しかし、ちょっと思い出してみると、もっとややこしくて巨大な利権が動いたケースがつい最近会ったはずである。そう、再生可能エネルギーに関する利権である。

先月、九州電力が送電設備の容量不足のリスクを理由に、再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度に基づく契約の受け付け入れを中断することにし、この動きが日本全国に波及している。誰もが当初から指摘する通り、今回の制度は濡れ手に粟の無謀な制度であり、一旦設備を構築して売電を開始すると、その設備が稼働している間、膨大な利益を生み続けるというリスクのない非常に効率の良い事業である。しかし、その膨大な利益を誰が負担するかと言えば、電気を使う一般国民が電気料金の中で支払うことになる訳で、殆ど消費税に近い「生活に付随して否応なしに支払いが強制される支出」という側面がある。ぽっと出の話に飛びついて投資をする余裕のある財力のある企業は直ぐに飛びつき、そこでその利権を貪ることが出来る訳である。残念なことは、太陽光発電はその発電量が不安定で、年間通じての平均発電量は昼間の最大発電量の11%程度に過ぎない。発電設備は通常は土地が安く、しかも晴天率も含めた年間の日照時間が長い地域に設置されると利益率が高く、実際に電力を多く消費する地価の高い都市部からは離れた場所に位置し、大量の電力が必要な時に雨天等で使い物にならない可能性もある。私の主張する「太陽光発電の地産地消」の視点では、一般住宅の屋根での発電を奨励すれば、都市部で電力が必要な真夏の晴天時には太陽光発電量が増大し、逆に発電量が少なくなる雨天時には電力消費量も少ない。雪が屋根に積もる場合は状況は微妙だが、電力が必要な時に発電量が多く、電力が不要な時に発電量が少ないというのは理に適っている。しかも、その利権を特定の業者が貪るのではなく、より多くの国民に還元するのであれば不公平性は多少はましである。しかも、発電量の多くは自宅でも消費し、残りの余剰電力の買い取りを高価で行うのであれば、発電全量の買い取りを余儀なくされる発電業者のケースよりも、国民の負担は大幅に軽減可能なはずである。

しかし、実際には再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度が成立してしまったがために、一部の業者のみに利益が還元される歪な状態が出来てしまった。その法案が成立する経緯では、反原発の一大キャンペーンを多くのマスコミが繰り広げる中で、菅元総理がポピュリズムの際たる政策としてこの政策をアピールし、孫正義氏とタッグを組んで「これこそは正義」とばかりに多くのニュースで繰り返し流されることになった。巷では巨大なNTTなどの既存の事業者と戦う孫氏を「改革者」的に位置付けていたから、その孫氏の威を借りて菅元総理も自らの政治的ポジションを「改革派」的に国民に印象付けようとし、実際にその試みはそれなりに成功したと言える。その時点では選挙はなかったから公職選挙法とは無縁かも知れないが、結果的には孫氏から菅元総理は「国民からの好感度アップ」の便宜を受けて、その見返り的に孫氏はこの制度を利用して膨大な事業を展開するに至った。実際、孫氏はSBエナジー社を立ち上げ、日本全国にソーラーパークを建設しまくり、原発数基分の電力の発電を行っている様である。

この利権と便宜供与の構図は、今までの絵に描いたような買収の構図とは全く異なるものである。しかも、反原発派の人達にしてみれば、殆ど「必要悪」として許容されてしまうだろう。朝日新聞の様に、目的のためには手段を選ばない報道もあるから、その様な報道機関は孫氏の行動を責めたりはしないだろう。というより、孫氏は純粋にビジネスをしていただけで、菅元総理がエゲツナイ下心で孫氏を利用しただけと見るべきかも知れない。しかし、そこに膨大な利権があり、結果的に貧困家庭からも電気料金の徴収の中で膨大な負担金を捲き上げることになっている。正確に言えば、今現在はそこまで負担金は増大していないが、ドイツの例を見れば将来的にその様になるのは明らかであった。

それが今回、受け入れの中断となったためにこの後の再生可能エネルギーの発電量の伸びは微妙かも知れない。しかし、多くの人が電力会社の受け入れ中断は想定内の展開と認識しており、さらに初年度の買い取り価格の42円/kWhは年々下がるのも容易に予見できる状況だから、孫氏は受け入れ中断の影響を受けることはく巨万の富を長期に渡り得続けることになる。

多分、ここまで来ると孫氏はホリエモンの様に国策捜査で検察に刺されることはないだろう。だから、巧みに合法的に利権を我が物にしたこの状況は既に逃げ切り体制に入ったと言って良い。しかし、この様な新種の買収・便宜供与の構図は今後も出てくる可能性は十分にある。せめて菅元総理には責任を取って欲しいが、現在の法律では追及は厳しい。法的責任が無理なら道義的責任だけでも・・・とも思うが、当の本人は暖簾に腕押し状態で、責められても「自分は良いことをした」と勘違いしているから何ら悪びれることもない。「悪質さ」の定義も人それぞれという訳である。先程述べた通り、反原発を謳うメディアには責任追及は期待できない。

しかし、政治が劇場化しつつある現代では、著名人が絡んだ同種の問題は引き続き起きてもおかしくはない。何が悪くて何が許されるべきかも含めてであるが、何らかのルールは今後必要になるのではないかと感じる。些末な問題で騒いでいる場合ではない。

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北朝鮮が本気で誠意を示すと、日本は困ってしまうかも知れない・・・

2014-10-28 23:48:56 | 政治
今日のブログは有り得ない話をシミュレーションしてみようというお話。現実問題として、確率的には1%にも満たない話だが、もしこの様な展開になった場合にどうすべきかを考えておいた方が良いという指摘である。

その議題は北朝鮮の拉致問題である。今日、外務省の伊原純一アジア大洋州局長が北朝鮮を訪問し、北朝鮮の特別調査委員会の委員長であり、秘密警察の国家安全保衛部副部長でもある徐大河氏をはじめ、副委員長で国家安全保衛部参事の金明哲氏、拉致被害者分科会責任者の姜成男局長など、この問題の責任者が勢ぞろいして拉致問題を議論した。北朝鮮側は、遺骨問題や日本人妻問題などを前面に出して日本側に「じらし」攻撃を仕掛けており、如何にも今回も不誠実な対応をするオーラを出しまくっている。常識的に考えて、北朝鮮が国家機密を多く知り得た拉致被害者を日本に帰すとは考え難く、前回も「全員死亡」と回答していたのでその整合性も考えれば、ごく一部の(北朝鮮的には「雑魚」に相当する)特定失踪者を数人、日本に帰国させて幕引きを狙っていると考えているのが普通だろう。この可能性は極めて高く、その帰国者の人選を進めていたという話も聞かれているが、日本的にはその様なことで「決着」とする訳にはいかない。

ただ、「最後の一人が帰国するまで!!」と安倍総理も言っているが、どの人まで出てきたら「最後の一人」になったのかは北朝鮮しか知らないので、そうなると何処まで行っても拉致問題は決着しないことになる。認定されている拉致被害者と特定失踪者の数を合わせれば800人を超えるが、この中には少なくとも拉致ではなかったことが後になって分かった事例もあり、北朝鮮が本気で全ての拉致被害者を帰国させる決断をしても、特定失踪者のリストの全員が帰国する訳ではない。だとすると、継続的にその後の調査を続けるとしても、「流石にここまで帰国させたら、北朝鮮は誠意ある対応をした」と認定せざるを得ない「一線」が存在するはずである。その「一線」が何処かは微妙だが、北朝鮮がその「一線」を狙って勝負を仕掛けてきたら、これは結構、難しい選択が迫られることになる。

例えば、全く有り得ないとは思うが、横田めぐみさん、有本恵子さん、増元るみ子さん、田口八重子さんなどの超メジャーな拉致被害者を含め100人以上の拉致被害者及び特定失踪者が一括で帰国することになった場合、それは「一線」を超えたと評価すべきなのか?

昨日のフジテレビのMr.サンデーでも金賢姫氏のインタビューを紹介していたが、その中で金賢姫氏は「横田めぐみさんは北朝鮮に拉致された、必死で朝鮮語を覚えたために、ロイヤルファミリーにまで直接接触するポジションに就くことになった。残念ながらそれが原因で、横田めぐみさんが帰国するとしても、帰国できるのは一番最後だろう」という趣旨の発言をしていたが、これは多くの日本人も実感として持っている感触だろう。だとすれば、それだけの国家機密の中枢に近づいた横田めぐみさんが帰国できて、他の拉致被害者が帰国できない訳がない・・・と感じるはずである。

しかし、実際のところでは、日本国内での被害者名の認識の度合いと、(拉致被害者が)北朝鮮内でのより重要な国家機密を知る度合いは比例関係にある必然性はない。意外に上述のメジャーな拉致被害者が大した機密を知らないのであれば、(少々の裏話を暴露されるリスクはなくはないが、既に金正日時代に拉致を認めてしまった以上、今更と言った感じで)北朝鮮としては何処かでカードを切ってきてもおかしくはない。

それの見返りが十分すぎるほどのものであるならば・・・。

以前、日本は韓国との国交正常化をはかる際に、日韓請求権協定の中で日本は当時の韓国の国家予算の数年分の補償を行った。(解釈が微妙だが、仮に建前上は韓国への補償に北朝鮮に関する分が含まれていたとしても、北朝鮮は実際に補償を手にしていないのだから)今更ながらの戦後処理の中で、北朝鮮はそれなりの金額を日本に要求することになる。多分、兆単位の金額を請求するだろうから、外貨不足で幹部連中にご褒美をばら撒く資金不足で困っている金一族からしてみれば、これが実現すれば北朝鮮は渡りに舟である。核開発の予算にも充てられるし、海外からの資源輸入にも使える。より長く生き延びるためには、若き将軍様にとって決して悪い話でもない。勿論、拉致に関する責任問題は日本から要求されるだろうが、例えば拉致被害者に慰謝料1億円/人を払うならば、日本政府としても拉致の実行犯やその当時の意思決定関係者への処罰・引き渡しは諦めざるを得ない状況はあるだろう。こうなると、日本側はこれ以上拉致問題を引っ張るのは至難の業である。

勿論、拉致問題が解決しても核問題は当然残るのだが、100人を超える拉致被害者を帰国させておいて、「補償は核問題が解決した後で・・・」というのは良心的な日本人の常識では「詐欺」と言われても仕方がない。「10人で手を打て!」と言われたら、「ふざけるな!」と卓袱台をひっくり返しても日本人は安倍政権を支持するだろうが、メジャーな人を含む100人単位の拉致被害者の帰国が実現できた時に、日本国内の反応がどうなるかは私は予想が出来ない。50%/50%の確率で、「北朝鮮への戦後補償を行うべし!」との意見が大勢を占めるかも知れない。

しかし、ここでの兆単位での北朝鮮への戦後補償は明らかに北朝鮮に対する核問題での包囲網に大きな風穴を開けることになり、日米同盟に深刻な亀裂を生じさせる。だから日米同盟が安全保障の基軸と考える安倍政権は、そこまでの決断は出来ないだろう。こうなると北朝鮮は、中国、韓国にすり寄って3か国で協調して「日本の誤った歴史認識キャンペーン」を繰り広げるに違いない。国際社会が「100人単位の拉致被害者の帰国という英断をした金正恩」を引き合いに出し、「(誠意ある北朝鮮に対して)こんな汚い手を使う日本なのだから、今よりモラルの低い戦時中なら何をやっていたか分からないぞ・・・」と日本を非難すれば、日本の置かれる立場は今よりも相当厳しくなる。北朝鮮はその見返りに中国からの支援を受けることが出来るようになれば、結果的にそれも悪い話ではない。

・・・とまあ、いろいろ考えると、北朝鮮が本気で誠意を示してしまうと困るのは安倍政権の方なのかも知れない。拉致問題の解決を願う者としては、これは皮肉な話である。今日のニュースを聞いて、その時にどの様にすべきなのか、少しぐらいは今から戦略を練っておいた方が良いかも知れないと思った次第である。多分、相当な確率で取り越し苦労だとは思うのだが・・・。

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ノーベル平和賞と憲法9条と「限定的」非武装の関係

2014-10-23 22:28:10 | 政治
少し前の話題で恐縮だが、念のため振り返っておきたい。ノーベル平和賞に関する下記の記事に関するコメントである。

紙屋研究所 2014年10月17日「読み込み能力欠如もほどほどに

これは憲法9条をノーベル平和賞に申請した件に関する申請者サイドの誤った主張であり、その問題点を正した下記の記事に対してイチャモンをつけている。

JBPress 2014年10月16日「世界に恥を晒した『憲法9条ノーベル平和賞』申請

この記事のサブタイトル「戦争放棄をうたった憲法は99カ国に存在、知識欠如もほどほどに」にもある通りだが、日本国憲法の第9条の戦争放棄に関する規定は決して日本固有の特異なものではない。JBPressはこの点を具体的に示し、世界中の国の憲法は「戦争放棄」を謳いながら、一方で「国家緊急事態条項」として例えば侵略を受けた場合などはその例外措置的に反撃を認めるとしているのだが、日本国憲法9条はその点の明記がない点で欠陥憲法であると指摘している。また、自衛隊が現実に存在していることから、戦力の放棄の規定自体も現実的には憲法解釈で「非武装」から「武装」に変更されており、この点で特異性がないからノーベル平和賞に値しないとしている。

一方の最初の記事の主張は、ノーベル平和賞の申請理由にある「徹底した戦争の放棄」は第9条2項の話であり、戦力の放棄までを謳う憲法は世界中で類を見ないからノーベル平和賞に値すると主張しており、「読み込み能力欠如もほどほどに」と言っている。しかし、読み込み能力の欠如はこの当人であり、何故、自衛隊が憲法9条に抵触しないのかが理解できていないらしい。確かに、高校生レベルでは憲法9条の条文を読んだときに、これでは自衛隊は違憲だろうと感じてしまうはずであり、その様な難解な表現で書かれた憲法と言うものは如何かと思う。しかし、その様なところは余り論点としては重要ではなく、ある程度の知識がある人であれば法律解釈が可能である以上、その条文は法律として読み解かなければならない。私の今年の6月11日のブログ「憲法9条に関するお勉強」では、うさみのりや氏のブログを引用してこの点を再確認した。GHQが最初に示した方針では、少なくとも最初の記事の主張の様に、完全非武装を意図していたかも知れないが、所謂「芦田修正」と呼ばれる修正が第2項に加わり、限定的な非武装に変更された。日本政府も当初は「高校生レベルの一般的な日本語読解力を有する人が感じる解釈」を採用して非武装としてきたが、実は史上最大の憲法解釈変更がなされ、「前項の目的を達するため」という第1項の目的達成とういう視点での「武装」は否定するが、それ以外の自衛が目的のための「武装」はこの範疇にないとしている。つまり、ノーベル平和賞の申請理由にある「徹底した戦争の放棄」は「無条件非武装」の意図であり、そこまでの平和憲法は世界に存在しないから受賞に値すると主張しているのだが、これは法解釈が出来ていない高校生レベルの主張である。

もともと、ノーベル平和賞というのは政治的な意図が背景になり、今回のマララ・ユサフザイさんの受賞にしても、タリバンやアルカイダ、イスラム国などの非人道的勢力の否定をメッセージに込めており、この様な世界レベルでのベクトルを示す「政治利用」は否定されるべきものではない。オバマ氏の「核無き世界」にしても、全くの実績が伴わないにもかかわらず、その期待値を込めて受賞するに至った。金大中氏も南北首脳会談の実現を買われて受賞したが、朝鮮半島という「休戦協定」のまま時計が止まっている危険区域での平和活動を後押しするという政治意図があった(実際にはカネで買ったノーベル賞ではあるのだが・・・)。しかし、今回の憲法9条の話はその様な世界的な政治的ベクトルからくるものではなく、日本国内の政争の道具としての申請であり、余りにもレベルが低い。しかも、自民党の谷垣幹事長も「結構なことではないか。最後まで行ってほしいという気持ちがないわけではない」とボケたことを言っていて、本当に間が抜けているとしか言いようがない。

Wikipediaによれば、ノーベル平和賞は「選考はノルウェー国会が任命する政治的に独立した機関であるノルウェー・ノーベル委員会(5人)が行う」とあり、これらの人々が日本の憲法解釈を知らずに日本に授与することは未来永劫ないであろう。しかし、この様な運動を通して誤解を与え、法的解釈を高校生の読解レベルに格下げし、国民をミスリードすることになる可能性は気を付けて行かねばならない。

事あるごとに、その点は指摘せざるを得ない。

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「ヘイト・スピーチ」とともに「ヘイト・アクション」も同時に根絶やしにしろ!!

2014-10-21 22:49:01 | 政治
暫く前から事の成り行きに興味があった話題が昨日あった。橋下大阪市長と在特会の桜井代表との討論会である。ところが、驚くほどあっけなく喧嘩別れで終わってしまった。

産経West 2014年10月20日「面談詳報(上)『お前それでも男かよ!』『座れ、勘違いすんなよ』至近距離で一触即発に

ここには詳細な会話の記載があるが、はっきり言って子供の喧嘩である。映像ではなく単なる文章を読んだだけでは、明らかに橋下市長側に問題があったと言わざるを得ない。主張はともかく最初から喧嘩口調で、論理的な議論を拒否している態度は明確だからである。検索で「在特会」を検索して出てくる画像を見れば「殺せ!」「追い出せ!」などのプラカードが大量に目に入るから「在特会」に問題があるのは疑いもないが、組織全体が一丸となって「殺せ!」「追い出せ!」と主張しているのか、それとももう少しは論理的な議論に耐えうる組織なのかは見てみたかった。それが門前払いになってしまったので、「だったら、最初から呼び出さなければ良いのに・・・」と橋下大阪市長には言いたくなった。

ただ、橋下大阪市長にすれば「ヘイトスピーチとはそういう位置づけなのだ!」という主張が込められていて、それが良いか悪いかは別としてそういう現実が良く分かった事件でもある。しかし、私はここで少し問題提起をしてみたい。「ヘイト・スピーチ」はドイツにおける「ナチス」と同様で、議論の余地などなく「門前払い」をするのが「常識」であるのなら、この「ヘイト・スピーチ」の定義は明確でなければならない。実際はそれほどクリアに線引きがされているのであろうか?

例えば、分かりやすい例で言えば、「殺せ!」「朝鮮人は出て行け!」は明らかにNGである。しかし、オブラートに包んで「民族(感)」を薄め、「殺せ!」的な過激な発言をしなければ、それは言論の自由的に全然OKということなのだろうか?

もう少し具体的に議論してみよう。最近では嫌韓本が良く売れているそうだが、その様な嫌韓本が堂々と売られているということは、こちらの方はOKなのだろうか?もちろん、決して褒められた話ではないことは分かるが、「話し合えば分かり合える」との幻想を抱く人々に、「現実は話し合っても分かり合えない可能性を否定できない」と諭し、ではビジネスなどで付き合わざるを得ない状況であれば、分かり合えない中でどの様に交渉を進めれば良いのか・・・を示すのであれば、それはそれで実用書としての意義はあるように思う。ないしは、何処かで歴史問題などで一方的に韓国人から攻められた時に、如何にその議論が不毛であるのかを論理的に説明する術を身に着けられるならば、それも有益かも知れない。しかし、仮に日本と韓国が多くの問題を解決して和解できる状態をゴールとするならば、その様なゴールを目指す人々からすれば「永遠に分かり合えない可能性」は不都合な真実であり、「もう、いい加減にそんな話はやめましょう!」となってしまう。この様な人にとっては、この手の嫌韓本も一種のヘイト・スピーチの範疇に入るはずである。実際、在特会へのカウンターと呼ばれる人々は、この様な言論の自由に対して暴力で挑戦し、威力業務妨害を働いていたりするからだ。この様に、いわゆる「狭義のヘイト・スピーチ」に対してこの様な嫌韓本を「広義のヘイト・スピーチ」と勘違いする人はいるのだが、これは明確に言論の自由の範疇であり、朝日新聞が慰安婦問題を「広義の強制性」を導入して煙に巻こうとしたのと同様で、言葉遊びで議論を振り回してはいけない。嫌韓本を「ヘイト・スピーチ」と同一視してはいけないのである。

しかし、では下記の様な発言は如何だろうか?

「(物的証拠はないが)日本軍は10歳そこそこの少女を含め、20万以上の女性を組織的にレイプした!」
「日本はレイプ国家だ!」
「戦時中、親日だった奴の財産は根こそぎ没収しろ!」
「日韓併合などを通して日本が韓国に利益ももたらしたという意見を言う奴は言論空間から抹殺しろ!」
「(日韓請求権協定で解決済みであっても)徴用工を筆頭に慰安婦問題も日本の賠償責任に疑いを示すことは許さない!」
「(何百年も昔の話で正当に譲り受けた経緯が仮にあったとしても、それを証明できなければ)日本からの盗難仏像であっても返す必要などない!」
「罪もなく原爆で犠牲になった被害者であっても、日本人であればその人たちを貶める発言など全然OK」
「安重根がタイムスリープして安倍総理を狙撃する!」
「反日無罪!」
「日本大使館に物を投げ込んで器物損壊してしまえ!」
「日系のお店からは、物を略奪してもOK!」
「日本国旗を燃やす(踏みつけたり屈辱する)」
「安倍総理や天皇陛下などの写真に危害を加え、最終的には燃やしてしまう」

私の感覚では、これらは明らかにヘイト・スピーチの範疇にあると感じる。仮に「スピーチ」ではないだろうとのツッコミが入るのであれば、敢えて言えば「ヘイト・アクション」と言っても良いかも知れない。これらは言論の自由を明らかに超えた領域で、特に安重根が安倍総理を暗殺する小説などに至っては、「殺人教唆」以外の何物でもないと私は感じている。しかし、この様な小説が韓国ではベストセラーになっているようだからタチが悪い。少なくとも日本ではヘイト・スピーチを非難する勢力が言論空間では圧倒的な多数派なのだが、少なくとも韓国や中国では、上述の様な「ヘイト・アクション」をもてはやす勢力が言論空間では多数派を占める。朝日新聞などは「本当の韓国人はそんなではない」とこれまでも主張し続けているが、少なくとも韓国のマスコミではその様な勢力が圧倒的に幅を利かせ、少しでも親日的な発言をする者を言論的に抹殺する姿は腐るほど見せられてきた。少なくともこれには流石の朝日新聞も反論できないだろう。どうも日本人というのはお行儀が良すぎて損をする役回りを演じざるを得ないようだが、これは世界標準としては理解されない。言うべきことをちゃんと言わないと、誤解されたままの状態が確定してしまう。

その意味では、日本は「ヘイト・スピーチ」に毅然とした態度で挑むことを宣言すると共に、韓国や中国に蔓延る「ヘイト・アクション」も同様に世界が毅然とした態度で挑むべき対象だと訴えるべきである。そして「ヘイト・アクション」の何たるかを世界に発信すべきである。韓国や中国の反日教育はその典型的な「ヘイト・アクション」のひとつではないのか?「ヘイト」を生む土壌になるのは明らかであろう。さらには一連の反日行為が「それが『ヘイト』ではないと言うのなら、その明確な根拠を示しなさい!」と説明を求めるべきである。一連の行動は同罪で、それら全ては同等の扱いを受けるべきである。

なぜか「スピーチ」だけが悪者扱いをされているのだが、「スピーチ」だけを特別扱いする時代はもうそろそろ終わらせるべきである。それを欧米に知らせ、理解を求めるべきである。

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国益と疑惑追求のバランスを取るルール作り

2014-10-20 23:58:28 | 政治
安倍内閣の女性閣僚が二人まとめて辞任した。様々な疑惑や、具体的な政治資金規正法の抵触があるのだから仕方がない話だが、その様な正論とは少し違う視点で議論してみたい。

まず、民主党政権時代の鳩山元総理の母親からの「子ども手当」問題の時を思い出してみたい。鳩山元総理は総理在職期間中に、「個人献金」が実は「故人献金」だったなどの問題が発覚し、色々と調べると様々な虚偽の献金などが問題となり、政治資金規正法に抵触する可能性が問題視された。その後、その「故人献金」の出所が実は母親からの「子ども手当」であったことが発覚し、これが今度は相続税法違反や脱税行為としてマスメディアや国会でも追及された。しかし、この時には結局は各種訂正の申告を行い、自らの政治資金規正法違反容疑を否定する内容の上申書を東京地検特捜部に提出するまでに至った。正直、滅茶苦茶脇の甘い状況がもろみえ状態だったのでそこに「悪意」を感じる人はどれほど多くなかったと思う。しかし、仮に悪意がなさそうに見えても外形的には金額的にも「超悪質な脱税行為」であったことは疑う余地はない。総理自らが謝罪会見を行い、「国民の皆さんがなかなか信じていただけないというのはわたくしにもわかります・・・」とまで述べていた通りで、善意の解釈をしなければ「アウト!」であるのは間違いない。しかし、「政権交代の流れを止めてはいけない!」とご都合主義的な主張で辞任を否定し、結局は政権を継続することになった。

民主党政権時代の話で言えば、前原誠司元外相も外国人や外国法人からの献金を禁止する政治資金規正法への抵触で外相を辞任した。この献金の総額は100万円にも満たない程度で、しかも子供時代から付き合いのある知り合いからの献金だったりして、見るからに悪質さは感じない。しかし、明らかに法的には構成要件を確実にクリアしているので「黒」であり、裁判を行えば有罪となってもおかしくはない。ただ、この政治資金規正法の規定の意図するところが何であるかと言えば、敵対する諸外国からの便宜供与を受けて国益を害する行動を取ることを防止するのが目的で、今回のケースの様に献金者の国籍の確認が単に不十分であったというだけのケースであれば、法の運用の妥当性の中で柔軟に泳ぐ範疇であろう。鳩山元総理のケースで結果として鳩山氏が罪に問われないのだから、何故、前原氏が辞任しなければならなかったのかと言うのは違和感がある。

今回のケースではどうだろうか?

実は細かいところは現時点でも良く分からないことが多い。小渕優子前経産相のケースでは、外形的には絶体絶命である。如何にも絵に描いたような有権者の買収の匂いがしていたから、報道関係者は大喜びしてお祭り状態であった。その他の疑惑も多数あるから、少なくとも何処かで引っかかるだろうと、「辞任だ!辞任だ!」と大騒ぎであった。言わば詰将棋の様で、どう転んでも何処かで「法的責任」「道義的責任」が問われる状況だから、その意味ではその責任が問われて仕方がないのだが、週末の段階からどうも腑に落ちないところはあった。それは、その様な新聞記者の調査の中で、明らかな買収行為と言われる事例が上がってこなかったからである。例えば、先週の段階で言われていた内容は、観劇会の参加費が1万円、お弁当が1600円だから、バス代には400円しか残らずに明らかに便宜供与、補填が行われたのは明らかだと言われていたが、膨大な数のチケットを一括して事前購入をしていたであろうから、常識的に何らかの割引があったと考えるのは自然である。しかも、今回のバスツアーはそこで利益を出すことなど全く意図していないので、バス会社へ支払う実費を割り勘に出来ればそれで十分である。目標の参加者数が決まっているので、概ねぞの数で割り勘にして、端数を千円単位に丸めて金額を算出していれば、買収行為の構成要件は満たしていないと考えられる。小渕氏がしきりに「実際に実費を集めているかが重要」と指摘していたのは、少なくともその意図が彼女にはなく、且つ問題が発覚して速攻で調査した限りでは、その程度の発言をしても大丈夫だという自信があったからなのだろう。実際、この辺の事情は今日の辞任会見の中でも彼女が説明した通りであり、少なくとも新聞記者であれば最初に抑えるところである。支払った先が明治座であることは明らかなので、大口顧客への割引サービスがどの様なものであったかは調べればすぐにわかる話である。しかし、その程度のことを報道している記事を目にすることはなかった。

ただ、少しばかり突っ込んだコメント自体はあった。元フジテレビアナウンサーの長谷川豊氏なども下記のブログで解説していた。

本気論 本音論 長谷川豊公式ブログ 2014年10月19日「小渕優子さんの一件の裏にあったこと

ここでの解説では、1000人入る明治座に小渕後援会からの応募が300人程度であったので、残りの数百人は動員としてタダで集めたお客さんであるとの説明であった。この動員の対象が有権者か否かは触れていないが、このぐらいのことは良くある話だと解説していた。しかし、今日の小渕氏の記者会見でも実際の費用を集めた記録を公開しているし、これだけ騒いでタダで参加した人が声を上げないのは考え難い。買収を受けた人が、そこまで一糸乱れず小渕氏を守ろうとするとは考えにくい。私の感覚では、新聞記者は「美味しい情報を提供してくれれば謝礼は出す!」ぐらいのことは言っているだろうから、それを蹴ってまで全ての人が真実を隠して小渕氏を守るとは信じ難い。そこまでのオーラは彼女にはないと感じる。

だとすると、政治資金報告書への記載の不備だけの問題である可能性は十分にある。政治資金報告書の訂正などは腐るほどの事例があり、それらは殆どお咎めなしだから、それを根拠に法的責任を問うのは無理があろう。ここで問題なのは悪質さがそこにあるか否かであるが、余りの処理のお粗末さはある意味でそこに「悪意がないこと」の裏返しの証拠であることは明らかである。もし仮に後ろめたいところがあれば、入金と出金の不整合などという初歩の初歩とも言えるミスなど犯すはずがない。更には、小渕氏がその様な不明瞭な会計を指示した履歴は残っていないし、仮にその様なものがあれば国会で「知らなかったでは済まない問題と認識している」などという訳がない。

鳩山元総理の事例と比較しても、その悪質性の程度は明らかに薄く、金額的にも全然少ない。ちなみに残りの疑惑に関しては、今日の記者会見でも胸を張って応えていたが、一応は筋が通った説明であると感じた。確かにポケットマネーで処理した方が良いだろうという案件は多くあったが、例えば姉のデザインした服飾雑貨にしても、店頭販売価格以上の破格の価格で購入していれば別だが、報道の反応を見る限り、その様な悪質な便宜供与ではなく、実際に商売となっている価格での商取引の様に見えるから、小渕氏が主張する効果(一般の商品ではないという特殊な心のこもったプレゼント)に一理あることは否定できないだろう。今後は後ろ指を指されるぐらいならポケットマネーにするだろうが、多分、彼女は今後も下仁田ネギも姉のハンカチも購入し続けるだろう。

だとすれば、小渕氏は大臣を辞任しなくても切り抜けられた可能性は残されていたはずである。

一方、松島みどり前法相に関しては、うちわの配付が「有価物の有権者への寄付」に相当するとされて辞任に至った。噂によればそれ以外にも次の弾を週刊誌が握っていて、それを暴露される前に手を打ったとの説もあるから良く分からないが、単なるうちわが「極めて悪質な寄付」と主張する民主党などの野党の主張は良く分からない。確かに、公職選挙法に関する慣例として「うちわは有価物」と総務省が判断している様だから、犯罪構成要件を明確にクリアしているのは事実であるが、その悪質性と言う意味では正直「微々たるもの」であるのは疑いもない。彼女が運が悪かったのは、松島前法相はその役職が法務大臣であったため、公職選挙法違反の告発を受けた場合に、その法的権限を実施する検察の指揮監督権を持つ当人であるが故に、公平公正な措置を担保できないという弱点があるからである。もし彼女が少子化担当相であれば、辞任せずに済んだ確率も高いだろう。

この様に考えると、一体、何処までが法的責任が問われて然るべきかといえば微妙である。多分、政治資金報告書の記載に1点の曇りもない政治家は1割にも満たないだろう。悪意がなくても、うっかりミスなど幾らでもあるからである。日本人以外からの違法献金なども、その話題が出るまではつい見逃してしまう様な話だから、同種の落とし穴はゴマンとあるだろうし、それを知らなかった松島氏は問題かも知れないが、当選1回の新人議員が何処まで知っているかは怪しい。だから、余りにも低レベルの事例を過剰に問題視する政治家やマスコミも、余りにも政治をゲームの様に捉えすぎているのではないかと感じてしまう。

ただ、では世の中的に何処までは許容できて、何処からが許容できないのかの線引きをするのは容易ではない。例えば、サヨク系であれば民主党政権に対して寛容であったが安倍政権には極端に厳しく、それよりも右寄りの保守系の人々は安倍政権に寛容で逆に民主党政権には厳しかった。その時に与党か野党かでもその基準は変わるだろう。野党の議員のポカなど暴いても、全くもってニュースバリューはないのだから・・・。

では、判例的な意味での慣例上で「セーフ」と「アウト」の線引きをもう少し現実的にすれば良いと思うのだが、基本的には政治家が自らに厳しくなって頂くのが目的なのだろうから、「ここまではセーフだよ!」と先に言ってしまうのは行政側の望む話ではない。最終的には不起訴であったり書類送検であったり、その辺の運用で逃げれば良いと考えてしまうのだろう。

しかし、今後、この様な「悪質性」の薄い事案に対してこの様な几帳面な対応をするのは国益に照らして有益だとは思えない。今回、その後の政局への影響を懸念して、早期の幕引きを安倍政権は決断した。今回のケースは安倍総理の判断は適切だったと思うのだが、重要なのは国会での野党の対応である。

私の結論は、例えば「政倫審での審査に応じている限りにおいては、国会での質疑ではその疑惑を人質に取らない」という様なルールを与野党間で結ぶことである。この様なルールの締結は、逆に疑惑の張本人が積極的に政倫審を受けることを受け入れやすくすることに役立つ。与党側は誰かを庇おうとすると国政に影響を及ぼすし、当の本人も党に迷惑をかけたくなければ積極的に受け入れやすくもなる。野党は疑惑がおおむね晴れたのに継続的に政倫審の開催を求めれば、その審議時間が国会の本題の審議の時間を潰すことに繋がり、常識的なところでの折り合いにも繋がる。

一般国民による国会の監視のためにも、何らかのルールは是非とも作って欲しい。

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朴槿恵政権の暗い闇 Part II(韓国検察のネット“リアルタイム摘発”)

2014-10-14 23:16:22 | 政治
産経新聞の加藤達也前ソウル支局長が10月8日、韓国で情報通信網法の名誉毀損疑惑で起訴された件について、その後の動向を注視していたので今日はこの件で少しコメントしてみたい。

ご存じの通り、朝日新聞を含むほぼ全ての日本のマスコミはこの韓国検察の蛮行を非難していると共に、フランスを中心とするジャーナリストによる非政府組織「国境なき記者団」からも非難を受けている。アメリカの国務省のサキ報道官も同様に懸念を示し、「韓国の名誉毀損に関する法律について、国務省が毎年公表している人権報告書(2013年版)でも指摘したように『懸念している』と述べた」との発言で韓国の民主主義が後退していることを非難している。

常識的には世界的なこの様な反応が予想されていたので、韓国国内でのこの件に対する動きが注目されていたのだが、どうも韓国国内の動きが面白い。特に、元々の記事は朝鮮日報の7月18日付のコラム「大統領をめぐるうわさ」であったので、朝鮮日報の置かれる立場は非常に微妙である。まずはこの朝鮮日報の対応を確認してみたい。まず加藤前ソウル支局長が起訴されたのが10月8日であるので、その翌日の朝鮮日報の下記の記事を見てみよう。

朝鮮日報2014年10月9日「謝罪・反省しない産経前支局長、名誉毀損罪で在宅起訴

ここで、記事の一部を引用してみよう。

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検察は報道資料を発表し、起訴の理由について「加藤前支局長の記事は客観的な事実と異なり、その虚偽の事実をもって大統領の名誉を傷つけた。取材の根拠を示せなかった上、長い特派員生活で韓国の事情を分かっていながら、謝罪や反省の意思を示さなかったという点を考慮した」と説明した。
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朝鮮日報の主張は、産経新聞は謝罪や反省の意を示さないで、相変わらず朴大統領を貶めているけしからん奴らだ!というスタンスである。しかし、上述の「謝罪や反省の意思を示さなかったという点を考慮した」という点は興味深く、同じ内容の記事を書きながら、産経新聞は責任者が法的に処罰され、一方の朝鮮日報は謝罪の意を示し、大統領のアリバイの正当性を示す記事などをこれまでも紹介してきた。この差が「起訴」と「無罪」の差となって表れるのである。ついつい、この辺が本音として出てしまった記事が上述の記事である。

しかし、この論点に野党の論客が気が付いて、下記の記事の様に与野党間の法務部に関する国政監査の場で議論になったようだ。
朝鮮日報2014年10月14日「産経前支局長に『謝罪すれば不起訴』、韓国法相は否定

しかし、産経前支局長は「反省も謝罪もしないので起訴」、朝鮮日報は脅しをかけたら「態度を改めたので事情聴取すらなし」とは法治国家としてみっともないので、法務部長官が否定しなければならない事態になった。つい口を滑らせたような記事を書いてしまったことに反省し、紙面上で「反省文」を書いたような記事である。

この様に朝鮮日報は防戦一方なのだが、この辺は昨日の記事でも下記の様に変わらない。

朝鮮日報2014年10月13日「【コラム】産経前支局長起訴、問題をすり替える日本

こちらも一部引用すると、下記の様に謝罪どころか韓国を更に非難しているところがけしからんという検察サイドの主張を紹介している。

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韓国政府は記事を装った女性大統領に対するセクハラだと判断し、記事の取り消しと謝罪を要求した。しかし、産経は「大統領批判に対する不当な干渉だ」として、かえって高圧的な態度を見せた。検察の取り調べで疑惑は事実無根であることが分かったが、産経は謝罪どころか、紙面で「韓国は言論弾圧国」だとの主張を毎日繰り返している。
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ただ、この記事のレベルの低さは、タイトルにもある「問題のすり替え」の部分なのだが、どうも朝鮮日報は何故世界からこの件で韓国が非難されているのかが理解できていないようである。様々な韓国側の非礼な行動に対し日本政府や日本のマスコミが「口先だけで非難」する行動と、今回の韓国側の起訴という「国家権力による強権発動」とは全く質的に異なる。口先だけの発言は「言論・表現の自由」の範疇で、それは政府側でも不当なものに「不当」と異を唱える権利を持っている。問題は、強権発動を匂わせて(ないしは実際に発動して)相手を委縮させるような行動をとるか否かが核心なのである。その辺が民主主義の民度の低さだと笑ってしまうのだが、多分、本人たちは全く気が付いていないらしい。

ただ、朝鮮日報もこの様な政権のアシスト的な行動ばかりをしているかと言えば、必ずしもそうではない。

朝鮮日報2014年10月3日「【コラム】産経支局長を処罰してはならない理由
朝鮮日報2014年10月10日「産経前支局長の被疑事実、裁判で立証困難との見方も
朝鮮日報2014年10月14日「産経前支局長起訴、検察は朴政権の顔色をうかがい過ぎでは

上記の記事の様に、起訴に踏み切る前には「思いとどまるべし」との忠告を発し、起訴した後には「裁判での立証困難」との客観的な評価をし、終いには「検察は朴政権の顔色をうかがい過ぎでは」とまで言っている。これは、韓国の野党や左派系新聞の主張が「朴大統領のせいで、韓国が世界の笑いものにされた!」との主張になっていったので、最後の砦として「検察」と「朴大統領」の責任の切り分けを行い、朴大統領の被害を最小限に留めようと必死でヨイショしている様が見て取れる。何ともジャーナリズムの魂の欠片もない恥ずかしい状態である。

この様に、客観的に見れば笑える状態にあるのだが、どうもそれだけではなさそうだ。ハンギョレ新聞などの左派系の新聞は、この辺の事情をもう少し深刻に扱っている。

ハンギョレ新聞2014年10月13日「韓国検察がネットの“リアルタイム摘発”を計画…朴槿恵大統領の意向を受け

これは中々恐ろしい世界に入ってきた。この記事によれば、先月16日に朴大統領が閣僚会議で「大統領に対する冒とくが度を越している」とネットでの朴大統領への不当な非難を問題だと位置付け、「国論分裂および政府・公職者の誹謗」を主要な取り締まり対象に特定単語をリアルタイムでモニタリングすることにしたという。ここで重要なのは大統領が「不当」と言えば不当と決まる点であり、加藤産経前ソウル支局長の場合も、空白の7時間に朴大統領が一体何処にいたのか、何をしていたのかを証拠込みで示すことなく、「私が悪くないと言っているのだから、それを非難するのは不当だ!」と言えばそれで検察は取り締まれるという訳である。しかも自動的に・・・。

これは、全く恐ろしい世界で、中国なのか韓国なのかの区別がつかない世界である。私も昨年8月27日のブログ「韓国国民も知らない朴槿恵政権の暗い闇(破滅に向かう韓国)」にて朴槿恵政権の暗い闇について書いてきたが、これは大袈裟ではないようだ。私は朴大統領が任期を全うできるとは思ってはいないのだが、もし仮に任期を全うできたならば韓国はとんでもない世界に行ってしまうかも知れない。最近の韓国は中国に秋波を送っていると言われるが、それは単に北朝鮮に対する中国の影響力を気にしたり、中国との経済関係が支配的だとは限らず、より強権を持つ政府を志向しているが故に、民主主義の手続きに煩いアメリカに嫌気がさしている可能性も否定できない。普通考えればあり得ない話だが、論理的な議論で正しい答えを導くのではなく、徳治的に「四の五の言わずに、私が正しい方向に導いて差し上げましょう」的な気持ちが韓国では一般的なのである。好き放題のファンタジーとも言える捏造の歴史を盾に、「日本の歴史認識を正してあげよう!」というのもその結果である。

この様に全ての流れはどうも関係しており、加藤産経前ソウル支局長の起訴は歴史の必然だったのかも知れない。問題は、これが「振れ過ぎた振り子」と韓国国民が捉えて中心に戻る力を求めるのか、そのまま振り切れて振り子が何処かに飛んでいってしまうのか、そのどちらであるのか・・・。それは現時点では分からない。

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極論を議論から排除せよ!

2014-10-12 23:08:12 | 政治
最近、朝日新聞の捏造問題などに端を発し、右寄りの主張と左寄りの主張が激しく対立することが多い。ヘイトスピーチの問題にしてもそうだろう。この様な問題に対して最近感じていることを今日は書いてみたい。

結論としては、「極論を議論から排除せよ!」ということである。極端な右寄りも極端な左寄りも有益な議論には結びつかず、同様に「極右の否定=極左の肯定」でもなければ「極左の否定=極右の肯定」にもならない。両者がお互いにバイアスを掛け合っているから、中間が何処にあるかも分かり難い中で、少しでも両者の折り合いのつくところを探そうと思うなら、極端な議論を排除し、残りの上澄みの中から答えを探すのが賢明なやり方である・・・という当たり前の話である。スポーツの世界でも、体操やフィギュアスケートなど採点競技では、最高点と最低点を排除し残りの中間的な点数の合計で評価するというルールが採用されているが、言ってみればこれと同様のアプローチをしようというものである。

まず最初に、少しばかり寄り道の議論からしてみたい。統計学の世界では、様々な物理現象においては平均値付近に度数が集中し、いわゆる正規分布と呼ばれる確率でサンプルが分布することが期待される。視聴率などの評価もそうだが、全てのサンプルに対して平均値を求めなくても、ごく一部のサンプルを基に全体を予測することが出来るのも、この様な平均値周辺にサンプルが集中することを前提としている。学生時代であれば偏差値という言葉に一喜一憂したことも多いと思うが、これも現実のテストの点数が正規分布に従うと仮定した上で、であれば自らの順位が全体のどの程度かを把握する上で役に立つので、多くの予備校などが偏差値を用いて評価をしているのである。しかし、実際の点数の分布は必ずしも正規分布に従う訳ではないので、本当はあくまでも偏差値は参考値に過ぎない。

この議論を言論空間に焼き直すとどうなるか?多くの人は、「より声が大きい主張」が全体の平均値と考える傾向があるので、その意見の周りに大多数が存在していると考えがちである。そして、人は自分の立ち位置を「常識のある人」と見られたいと思うバイアスをかけて判断する傾向があるので、世論調査などのアンケートでは、実際の考えとは別に(自分の感じている)平均値寄りの回答をしようとする傾向がある。このため、声の大きさに世論調査の結果が引きずられることが多々あるのである。

例えば慰安婦問題の様な議論においては、一番声の大きいのは議論の両極端の人だったりする。所謂、「ノイジー・マイノリティ」の人々だが、例えば右寄りの意見であれば、朝日新聞の捏造記事を受けて「慰安婦など存在しなかった!」と主張する人がいる。南京大虐殺でも、「そんなものは全くなかった!」と言ったりする。しかし、それが金で売られた人身売買の結果かどうかは別として、慰安婦となって辛い思いをした人がいたのは事実である。また、戦場であったのだから南京で死傷した中国人が多数いたのも事実である。この様な事態を受けて、左寄りの人々は「あの様な口から出まかせ、日本の恥だ!」といって「戦時中の日本兵は極悪非道の限りを尽くした!」と言ったりする。一時期話題になった「はだしのゲン」では、少年ジャンプに連載されていた前半の巻では(読者が多くの一般人向けであったので)原爆の悲惨さを訴えると共に強く生き抜く主人公の生き様が主題となっていた。後半の左翼雑誌に掲載される頃の内容は通して読んだことはないが、報道によればあることないこと好き放題に書きまくる極端な左寄りの雑誌となり下がっているようだ。この様な人々の主張を聞いていても得るものは少なく、話は泥沼に引きずり込まれるだけである。しかし、議論の中ではマスコミはこれらの極端な主張を面白おかしく取り上げるので、あたかもそれが多数派意見の対立点であるかのように感じてしまうのである。

多分、先ほどの右寄りの人と左寄りの人を1次元の軸で表したとするなら、その中間付近に分布のピークがあるように思えるのだが、世の中から聞こえてくる声を聞いていると、右側と左側にふたつの大きなピークがあり、真ん中には殆ど人が存在しない様に見えてしまう。これは多分、原発問題にしても集団的自衛権にしても同様であろう。一例としては、集団的自衛権の行使容認への賛成/反対の世論調査結果を見ると、朝日新聞や毎日新聞では反対派が多数を占め、逆に産経新聞や読売新聞では賛成派が多数派を占める。「限定的容認」などの表現の仕方で「反対派」とも「賛成派」ともカウント可能な人々は明らかに「中庸」的な人であり、その様な人々が実際には多数派を占めているのが可能性が高い。朝日新聞などはその様な人を「反対派」に取り込むために「盲目的ネガティブキャンペーン」を張るのだが、朝日新聞が本気で自分の主張が正しいと思うなら、論理的に「中庸」的な人を説得すれば良い。それを最初から諦めている時点で勝負は既にあった・・・とも言える。

この様な状況は多々あるのだが、この様な人々が議論を戦わせる時、困ったことはその両者が「自分の対極の極端な存在」を責めることで自らの主張が正しいと胸を張ることである。その様な極端な存在の主張は多くの人に嫌悪されることになるので、ついつい、その対極の主張が正しいと勘違いしてしまうのだが、しかし、その様な議論は本来は不毛な議論である。つまり、極端な右寄りの議論も極端な左寄りの議論も両方を排除し、その中間的な人々の中の「若干右寄り」と「若干左寄り」の人々が議論すれば議論は進展するのだが、極端な存在がそこに介在すると「如何にして声を大きく発言するか(物理的な大きさではなく、影響力と言う意味での大きさ)」に多くのモチベーションが割かれてしまう。
少し話が逸れるが、韓国のマスコミは産経新聞を「日本の極右新聞」と称しているが、実際には産経新聞は「若干右寄り」の新聞に過ぎない。韓国や中国が極右と呼ぶ安倍総理も同様で、産経新聞よりは若干中央よりの「ごく僅かに右寄り」の政治家に過ぎない。朝日新聞は「若干左寄り」であるが、少なくとも極端に左寄りという訳ではない。しかし、あの様な捏造の数々を平気で行っているので、「若干左寄りよりも僅かに左寄り」というのが正直なところだろう。

戦後、朝日新聞を筆頭とする多くのメディアが、戦時中の軍国主義的な紙面構成を懺悔する形で左寄りにポジションを置いたために、進歩的知識人と呼ばれたければ左寄りに位置しないと許されない時代が長く続いた。戦時中、殺されても反政府的な思想を曲げなかった左翼思想家に影響されたところもあるだろう。この結果、日本の言論空間の中心軸は一般国民の平均値よりも左寄りに位置し、そこを平均値として右か左かを判断するようになった。戦時中多くの犠牲者を出した中国や韓国を意識し、これらの国々に懺悔の気持ちを持つことも左寄りにバイアスをかける原因のもととなった。その結果、「若干左寄りよりも僅かに左寄り」の人々は保守的な産経新聞を「右翼新聞」と位置付け、安倍総理を「右傾化している」と非難することになる。しかし、それは真の平均値である原点に左寄りのバイアスをかけているからの結果であり、絶対軸で見ると正しい評価とは言えない。

重要なのは、絶対的なニュートラルの原点が何処か分からない中で、まずは個別の主義主張をこの1次元軸に照らし合わせ、極端な左寄りや極端な右寄りの主張を見極め、その両極の「ノイジー・マイノリティ」のノイズを抑圧し、残った有益な議論の中で何が議論できるかを考えることである。

これは、韓国に対して求める話ではなく、あくまで我々日本人が行うべき話である。我々が相手にするべきは韓国ではなく、欧米を中心とする世界である。残念ながら、世界の常識はかなり中国、韓国により左寄りバイアスがかけられており、中々聞く耳を持ってくれない。この場合、それが論理的には正しいとしても、例えば河野談話の撤回の様なことを言い出すと、極右の主張と勘違いされて議論にならないことになる。極左が極右を排除するロジックで出鼻をくじかれてしまうと、それに続く議論が出来なくなる。だから、「こちらも、あなたが極右と感じる様な議論は排除するし、極左の主張の反論をあなたへの反駁に利用したりしないから、あなたも極右の主張への反論を私への反駁に利用したりしないで欲しい!!」と最初に釘を刺し、両者が軸上の両端の不毛な議論に近づかない様にルールを確認し合うのが好ましい。

話は度々逸れて恐縮だが、少しばかり下記の記事を見て頂きたい。

アゴラ 2014年10月2日「格差是正措置はもう必要ない

ここでは「在特会」と「しばき隊」を比較しているが、結論は「どちもどっち」なのだが、論理的な議論を戦わせようとしているのは「在特会」で、「しばき隊」の方はレッテル張で論理的な根拠もなく業務威力妨害も平気で行っているとしている。ただ、では「在特会」が評価されるべき存在かといえば、「在特会」と検索をかけて出てくる画像を見れば、その主張が朝鮮人差別で「殺せ」と平気で主張していたりするから、これは極めて極端であることが分かる。この意味で「在特会」は世の中から否定されて然るべきなのだが、そもそもの彼らの論理的な主張自体は池田信夫氏も認めている通り、それなりに論理の世界で議論を戦わせようとしているので、この点では真っ当に評価されて然るべきでもある。では、何故、「在特会」がこの様に評価されているかと言えば「日本から出ていけ!」「殺せ!」などと言うからレイシストと呼ばれる訳で、その意味ではその様な発言が「カウンター」勢力からの反撃を許す隙となってしまうのである。先日取り上げた現代思想家の東浩紀氏の「在特会デモ&カウンター『観光』記」の中でも、東氏は「言っていることは在特会の方が酷いが、デモ現場での対立の様相をニュートラルに見ると、カウンター側の対応の方が暴力的」というニュアンスの記述をしていた。こちらも残念なケースの典型である。途中でブチ切れずに政治的な主義主張に徹していれば、今頃はもう少し真っ当に評価されていたかも知れないのに、毒ヘビと毒サソリに成り下がってしまったのであるから残念である。

以上、色々書いてきたが、朝日新聞への攻撃が過激化して極右的になるのは好ましくないし、世界で真っ当な議論をしたいなら、その様な主張をする極端な勢力との共闘は避けるべきである。対外的には、その様な極端な勢力と十把一絡げにされるのは極左的な勢力の思う壺で、その様な勢力の中にも色々いることを分からせるべきである。

現在の状況を「シメシメ・・・」と思う前に、少しばかり冷静になりたいところである。

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イスラム国に関する続報で分かったこと

2014-10-11 11:13:10 | 政治
前回、北大生が中東の過激派組織「イスラム国」に戦闘員として加わろうとして摘発を受けた事件についてコメントしたが、実はあのニュースは分からないことが多々あった。それが、その後の報道で少しづつ分かってきたところがあるので整理しておきたい。

まず、私の疑問は例えば下記の様なものである。

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Q1). あの求人広告の張り紙を出した依頼主は誰なのか?また、その依頼主と古書店主との関係は?
Q2). 1件目の求人は勤務地はシリアであったが、2件目は新疆ウイグルであった。職種は警備員で、暴力に対する耐性のある方と言う条件だったが、こちらは中国側の警備員なのかウイグル族側の警備員なのか?また、こちらへの応募はあったのか?
Q3). 古本屋の店主はイスラムに詳しい元大学教授を学生に紹介したというが、その大学教授とは何者で、イスラム国との関係はどうなっているのか?
Q4). NHKにボカシなしでインタビューに答えた若者は何者なのか?また、イスラム国に参加した背景はどの様なものか?
Q5). 古本屋の店主、元大学教授は北大生のシリアへの渡航を幇助した形だが、「私戦予備及び陰謀」の罪に問われることはないのか?また、既に参加して帰国したNHKインタビューの若者も、同じ罪に問われることはないのか?
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取りあえず、こんなところだろうか?この質問に対する答えの参考になる記事が幾つかあったので紹介する。

●Wedge Infinity 2014年10月9日「北大生支援の元教授インタビュー 公安の事情聴取を受けた中田考氏が語る『イスラム国』
●中東・イスラーム学の風姿花伝 2014年10月9日「自由主義者の『イスラーム国』論~あるいは中田考『先輩』について
●毎日新聞 2014年10月9日「シリア:戦闘に元自衛官 けがで帰国『政治・思想的信条なし』
●朝日新聞Digital 2014年10月9日「元教授『イスラム国司令官に連絡』北大生の渡航計画
中田考への任意の聴取及び家宅捜索に対する弊社見解 株式会社カリフメディアミクス2014年10月9日
●NHK News Web 2014年10月7日「『イスラム国』渡航 古書店貼り紙で決める
●弁護士ドットコムNews 2014年10月8日「『イスラム国』の戦闘員になりたかった!? 北大生の容疑『私戦予備・陰謀罪』とは?

では、順番に分かっていること、分かっていないが推測されることを順番に書いていく。

A1). 依頼主が誰かについては正確なことは分っていないが、多分、報道でイスラム国の傭兵になれば月600ドルの給料が支払われると聞いた古書店主(ないしは関係者)が、勝手な思い込みで面白半分で求人広告を張り出したと言われる。店主側は多少なりともイスラムに関する興味があると見えて、その筋の元大学教授を紹介すれば何とかなると思っていた程度ではないかと言われている。

A2). この疑問に対しては情報がない。ただし、シリアの場合には、戦闘に巻き込まれて死ぬ可能性はあるが、戦闘員を希望して渡航するので何処かの軍事オタクの湯川遥菜氏の様に捕まって捕虜になる可能性は低い。しかし、新疆ウイグルに関しては中国政府の支配下にあり、反政府的な行動をとれば中国政府に国家反逆罪的な罪で逮捕され、死刑になる可能性は高いので、こちらは「犬死」になる可能性が高く、怖くて希望できないだろう。

A3). この大学教授は東京大学文学部イスラム学科の1期生の中田考氏で、同志社大学高等研究教育機構客員教授のイスラム学者である。カリフメディアミクスなる会社の代表取締役社長でもあるという。前回引用した東京大学先端科学技術研究センター准教授の池内恵氏もこの東京大学文学部イスラム学科の出身で、上述の記事では中田氏のことを「先輩」として遠い昔に面識が少しだけあったとしている。単なるイスラムの研究者ではなく、自身もイスラムに傾倒しているが、どうもイスラム国の熱狂的な支持者でもなければ、リクルートに積極的に協力する意思がある訳でもないらしい。中田氏によれば、イスラム国に捕まった湯川氏の裁判のために、「日本語とアラビア語の通訳が出来て、イスラムの知識がある人」という条件に合致したが故にイスラム国に招待された経験があるが、米軍の空爆のあおりを受けて湯川氏には会えていないという。ただ、実質的にはイスラム国と北大生の間の仲介役を買っていたのは事実である。

A4). 毎日新聞の記事では氏名から経歴まで明らかにされている。驚くことに元自衛官である。ただ、戦争への興味は小学校時代の虐めに原因があるようで、新聞では「自分の存在価値に悩んだ結果、『極限状況に身を置いて生きる意味を問いたい』と考えるようになった」と答えている。北大生についても「生きる意味が見つからず、戦場なら何かを見いだせると思ったのでは」として、極限状態に身を置くことで「生きる」実感を得るなどリアリティが希薄な感が否めない。

A5). 古書店主も中田氏も、可能性としては「私戦予備及び陰謀」に問われる可能性はあるが、あまり警察や検察はこの法律で怪しい輩を片っ端から牢屋に送ってやろうと考えている様ではない。実際の公判を維持できるかも怪しい部分があるので、ある程度は同様の考えの若者が続出しない様にするための抑止的な意味合いでニュース沙汰にした感がある。報道によれば、北大生にしても逮捕され身柄を拘束されたところまでは言っている訳でもなく、古書店主や中田氏も任意の事情聴取が行われたところまでという。今後、彼らが再度出国しようとしたどうなるか分からないが、大人しくしている限りにおいてはここまでで終わりとなる可能性は高い。しかし、国連の場でも各国がイスラム国に自国民が参加するのを取り締まることを要請されており、新たな池上氏のご指摘の様にこれから新たな法律を作ることが現実的でない日本の政治状況においては、シリアへの渡航を実際に企てようとした者を今後、本当に逮捕する事態が起きる可能性は高まっていると言える。ちなみに、「私戦予備及び陰謀」は予備行為に対する罪で、実行に移した場合に取り締まる法律はない。殺人予備や未遂が捕まって、殺人罪を取り締まる法律がないような状況である。実行行為は国外で行われるので、それは外国の法律で取り締まって頂くというスタンスなので、NHKのインタビューに答えた若者は、実行行為で捕まることはない。ただ、参加することを意図して渡航したのだから、こちらの方が「私戦予備及び陰謀」の構成要件を満たしている可能性は高い。ただ、法律家でないので分からないが、準備段階で逮捕せずに既に準備を解いた(目的を果たして帰国したので、現状では次の準備行為を行っていない)状態であるので、現行犯的な位置づけであるならば逮捕は出来ないかも知れない。

以上が上記の疑問への回答である。

北大生が報道陣に明かしている内容や、NHKで取り上げられた若者にしても、生と死のギリギリのところに身を置くゲーム感覚が強く、現実の戦場などに対するリアリティが感じられない。自殺すら、ゲームのリセットボタンの様な感覚で考えている節があり、バーチャルな世界とリアルな世界の境界が感覚として失われてきている感じである。まだ救われるのは政治的な思想が希薄であるために、徒党を組んで何かをする訳ではなく、社会的な影響力は小さそうだ。ただ、この辺も考えてみれば個人で行うゲーム感覚故の必然で、その前後の背景とは無縁ではなさそうである。

この意味では、若者たちがテレビで頻繁にイスラム国の訓練映像やリクルート用ビデオを見せられるのは好ましくない。自主規制的に使用の自粛をはかれないものかと個人的には感じている。

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善意の気持ちから悪魔に忠誠を誓う行動

2014-10-08 23:57:29 | 政治
イマイチ、呑み込みの遅い私としては理解するのに少々時間がかかった記事であるが、非常に興味深い記事であったので紹介しておきたい。

中東・イスラーム学の風姿花伝 2014年10月6日「日本人の『イスラーム国』参加未遂の報道に思う

こちらは北大生が中東の過激派組織「イスラム国」に戦闘員として加わろうとして警視庁公安部に事情聴取を受け、刑法93条の「私戦予備及び陰謀」の罪で摘発を受けた事件に関する記事である。著者は、東京大学先端科学技術研究センター准教授の池内恵氏で、私のブログでも何度か引用させて頂いた。毎回記事を読むとその洞察の深さに感心するのだが、今回の記事は最初のうちは良く分からなかった。と言うのも、下記の朝日新聞の社説を引用し、これをケチョンケチョンにこき降ろしていたのであるが、この記事を読んでみると、特に変哲もない普通の記事に思えたからである。

朝日新聞 2014年10月6日「(社説)テロリスト 生まない土壌つくろう

この記事を一読すると、例えて言えば優等生が一億総懺悔的に自らの身(ないしは国)を反省しながら、誰からもイチャモンをつけられなさそうな真面目で前向きな取り組みをして行こうという、面白くも何ともない退屈な記事の様に思えた。それだけに、その様な記事に突っ込むところは何処か「朝日叩き」の一環の様にも見え、「ちょっとやり過ぎでは?」とさえ感じた。しかし、よくよく読んでみるとその様な話ではない。

色々書かれているのを一つ一つ吟味するのはこのブログの趣旨ではないのでポイントだけピックアップすると、池内氏は朝日新聞の「なぜ若者が過激派に走るのか。その土壌となっているそれぞれの国内問題に取り組み、『テロリストを生まない社会』を築く努力が必要である。」という記述を最初に引用し、この表現の裏にある掘り下げの浅はかさが「危険」だと説いているのである。実際、その記事にある欧米等の先進国からのイスラム国過激派への参加人数に関する論評でも、極めて一面的で短絡な解説をしており、その結果として様々なミスリードの罠が散りばめられているのだが、多分、この社説を書いた人はその罠を自らが仕込んでいることに気が付いていないだろう。その後に引用する毎日新聞の記事との対比を見れば明らかなのだが、毎日新聞の掘り下げの深さに比べて、明らかに朝日新聞は学生のレポート並みの低レベルの記事になっている。

ここから先は私の勝手な解説を加えさせて頂く。例えばテレ朝の報道ステーションなどを見ていると、中国が新疆ウイグルなどに対して行う弾圧と殺戮の報道に対して通り一片の報道をしておきながら、集団的自衛権の行使容認の閣議決定や特定秘密保護法案などに対しては、如何にも「この世の終わり」の様な論調で、「立憲主義は死んだ」とか「戦争をする国になった」とか一大キャンペーンを張る。これは、物事の善悪を同じスケールの物差しで測るのではなく、他者の評価に対しては非常に寛容な物差しを用い、自らの政府に関しては恣意的に不寛容な物差しを用い、思いっきり偏った立ち位置から一方を集中的に批判したりする。だから、日本からイスラム国の傭兵になろうとする輩を捉えても、日本国内に潜在的に「テロリストを生むような、悪魔を導く社会の芽」の様なものが存在し、その様な潜在的な何か(「先進国病」的な物)を直さなければ根本的な解決にならないと、物知ったような論調をエリート意識の強い人は考えてしまうのである。しかし、例えばNHKのニュース9ではこの北大生とは別の若者で、実際にシリア経由でイスラム国に参加し、実際に戦闘に加わった人物が顔を隠すこともなくインタビューに応じていたのだが、彼の言い分を聞いてみれば、その様な政治的な思想やイスラム教への傾倒などは何もなく、怖いもの見たさで単に戦場に行って実際に戦ってみたかった的なニュアンスが強い。実際、何処かの施設(警察?)を強襲した際に戦闘に加わり、ロケット砲か何かを近くで被弾し、両足に大怪我をして療養生活を送り、結果的にイスラム国を抜けることになたのだが、その話口調はどこかリアリティがなく、バーチャルなテレビゲーム感覚で戦闘に参加して、怪我はしたけど楽しかった的な反応を見せていた。彼は決して「テロリストを生むような土壌」に不満を感じていた訳ではないし、殆ど政治的な思想は持ち合わせていなかった。

一方、毎日新聞には詳しい記載があるが、ヨーロッパに関しては戦闘員になる人の大半は貧しい移民やイスラムのバックグラウンドを持った人々で、先進国病的な議論の対象となる人々ではない。残りの僅かな経済的にも恵まれた白人で、移民などの貧しい人々と一線を画する人々にしても、先ほどのNHKで紹介された日本人の様な何処かリアリティのない人々は、強い政治性を持ち合わせている訳ではない。リアリティのなさ故に、インターネットでの勧誘ビデオが斬新に見え、ゲーム感覚で参加してしまっているのかも知れない。
池内氏は記事の後半で、次のように指摘をしている。

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そして、このような「とにかく欧米社会が悪い」と言ってしまって自足する議論の根底にある発想は、現地の事情をよく分かりもせず、関係もないのに、ただ戦闘に参加したいと言い出す若者の発想と、同根ではないかとすら思うのです。
テロをめぐる朝日新聞の論評は、「むしゃくしゃしてやった」といったどう考えても薄弱な動機で殺人を犯す人物が現れるたびに「むしゃくしゃさせた社会が悪い」と論評しているようなものです。「むしゃくしゃした」ことと「人を殺す」ことの間を何が繋いでいるのか?という謎に正面から向き合わないのであれば、こういった論評は、テロを容認する社会規範を事実上広めているとすら言い得るものです。
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つまり、所詮は「社会」と言うものは完璧でなどなく、何処かにツッコミどころはあるのだが、新聞などが社会正義の名のもとにそのツッコミどころを片っ端から糾弾していると、無意識のうちに連合赤軍の「総括」の様なそのツッコミどころへの「過激な制裁」を肯定化する若者を生じせしめ、「むしゃくしゃ」することと「人を殺す」ことの間の直接的な関連性を誘導する役割を新聞がはたしてしまっているのではないかと理解した。多様な価値観を計れる共通の物差しを持ち合わせていれば良いが、新疆ウイグルでの人権弾圧にしか適用できない物差しや、安倍政権の糾弾にしか適用できない特殊な物差ししか持ち合わせないと、イスラム国の情報に接したときにどの物差しを使えば良いのかが分からなくなってしまい、欧米諸国や日本など先進国に問題があるからイスラム国に若者が流れると聞いて、残虐な処刑のニュースを新疆ウイグルと同様に過小評価し、先進国の抱える諸問題を過大に評価し、バーチャルな感覚のインターネット勧誘に騙され、ゲーム感覚で戦闘に参加してしまう。

これは形だけは「テロリストを生まない社会」を訴えている様に見せかけながら、実際には「テロを容認する社会規範を事実上広めている」ことに相当する誘導を行っていることになる。当の本人に自覚がないのが最悪なのだが、あくまでも善意の気持ちから悪魔に忠誠を誓う様な行動である。メディア・リテラシーと言う言葉が囁かれて久しいが、もはや新聞の論調を常に疑ってかからなければならない時代が来ているのである。

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朝日新聞の自浄能力を示す踏み絵

2014-10-07 22:00:40 | 政治
朝日新聞は第三者委員会を立ち上げ、あのような捏造報道に至った背景を第三者により明らかにしてもらう道を選んだ。先日の朝生の中でも大勢の意見によれば、朝日新聞は政治の介入や第三者による原因の究明などと言わず、マスメディアはマスメディアの中での自浄能力を示すべきだという結論があったと思う。つまり、まずは朝日新聞内部でその自浄能力を示し、その結果を同業のマスメディアにより検証されるという手続きが必要だということだろう。第三者委員会はそれはそれで淡々と仕事をして頂けばよいのだが、それとは別の自浄能力を示す行動が問われているともいえる。

ただ、ではその自浄能力を示す具体的な行動が何かと問われれば、短絡的には第三者委員会と同様の内部での総括であろうが、私からすれば別にその様なことにこだわる必要はないと思い、違う形での行動を提案してみたいと思う。

それは、朝日新聞としての「クマラスワミ報告の検証」である。これは決して、「朝日新聞の誤報がクマラスワミ報告に与えた影響の検証」ではなく、あくまでも、クマラスワミ報告が断定した判断内容に対する朝日新聞の見解を明らかにすることである。この結果、朝日新聞が「クマラスワミ報告は素晴らしい報告書で、ここで行われている事実認定は疑いもないものであり、結論も当然ながら妥当である」という結論であっても構わない。逆に、「女性の人権を大切にするのは重要であるが、事実認定に大きな誤りがあり、冤罪的な断罪の恐れがあることからその結論は再考の余地があると考える」であっても構わない。

この中での論点は、まずはクマラスワミ報告における事実認定をどの様に考えるかである。G.Hicksという人の著作の“Comfort Women”という本からの引用の証拠能力をどの様に考えるべきかを朝日新聞なりに評価して欲しい。それはあくまでも、クマラスワミ報告が日本の法的責任を扱うものであるから、「法的観点」から証拠能力を議論して、その評価を行うのである。勿論、朝日新聞の情報収集能力的に真偽を判定できない部分もあるだろうから、白黒をはっきりつける必要はない。「疑わしきは罰せず」の原理原則があるが、国家の責任だから少しばかりは厳しめに評価するとしても、「証拠能力としては著しく公平性を欠く」というご指摘があれば、それは「再審」への道を開くものとなり得る。また、慰安婦の証言に関しても、同様に何処までの裏付けのための努力がなされているかについて言及をして頂きたいと思う。別に疑わしいとかその様なことは言わなくてよいから、何処まで裏取りの努力がなされ、何処までの証言が疑いのない証言だと判断できるかを明らかにして欲しい。

そして、その様な情報を総合したときに、この事例が歴史上類を見ない「人道上の罪」「人類に対する罪」と呼ぶにふさわしい悪行なのかを判定して欲しいい。判定できないならば、「証拠不十分につき判断不能」という答えでも構わない。

そしてさらに言えば、戦場での性の問題や女性の人権を訴えるのであれば、上記の判断のもとで議論の対象が日本の慰安婦問題に集中することの是非についてもコメントをして頂きたい。勿論、クマラスワミ報告の付属文書2(Add.2)は「家庭内暴力に関する立法」に関するものだから女性の人権一般を扱っているが、付属文書1が日本の慰安婦問題に特化している現実を考えれば、日本の慰安婦問題を精査することの重要性を認めることは良しとしても、それが日本の問題が戦場の性の問題の全ての様な扱いをされることが、これまでの多くの被害者を漏らさずに救済するために有益であるのか否か、更には未来の犯罪の抑止のために賢明であるのかを議論することは可能であろう。

私の感覚ではこの総括を通して、戦勝国(ないしは戦勝国もどき)は決して戦場の性の問題を追及されないという現実を、朝日新聞がどの様に捉えているかを世界に明らかにする良い機会だと思う。だから、自浄能力を示す一つの練習台として、このクマラスワミ報告の総括を朝日新聞自体が行うことは有益だと思う。

以上、私の提案であるが如何だろうか?

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北朝鮮が韓国に統一されたら慰安婦問題はどうなるのか!?

2014-10-06 22:19:56 | 政治
昨日まで、朝生での議論をベースに慰安婦問題について思うことを書いてきた。今日は、今まで議論されていない慰安婦問題に関する新たなパラメータについてコメントしてみたい。それは、北朝鮮の存在が韓国との慰安婦問題に及ぼす影響である。

クマラスワミ報告の中でも少し触れたが、実は慰安婦問題の主なる対象国は3つあり、韓国、中国に加えて北朝鮮もその対象となっている。クマラスワミ報告では北朝鮮の慰安婦の信じがたい証言(将軍様の命令による証言?)が紹介されており、ここでは北朝鮮相手に日本が「非人道的な残虐国家」と糾弾され、国家賠償をすべきと求められている。まるで喜劇のようなお話だが、最終的に日本が北朝鮮と国交正常化をする際には、戦時補償の問題がクローズアップされることは明らかで、多分、兆単位の賠償が求められるのは目に見えている。拉致問題などを考えれば、北朝鮮からの戦闘行為とも取れる行いを戦後長年に渡り仕掛けられた我が国だから、「ふざけるな!」と言いたいところであるが、少なくともそんなことで納得するはずはないので、現在の金正恩体制下では補償問題が決着して国交正常化となる可能性はかなり低い。

だとすると、このまま行けば北朝鮮との国交正常化がなされる前に、北朝鮮が弾けてドンちゃん騒ぎの後に韓国と統一される可能性が高いと言える。この場合、あの韓国との間で「北朝鮮枠」の戦時補償交渉を行わなければならない可能性が高い。その時、何が起きるのかは少々シミュレーションをしておくべき問題だと考える。

その時韓国は、日本から搾り取れるだけの金を搾り取ってやれ!と考えるだろうから、相当、日本は無理筋の吹っ掛けた金額を請求される可能性が高い。その時、日本は「韓国のため」ではなく、極貧状態の北朝鮮の民主化のために生活レベルの向上に向けた人道支援を「戦時補償」の名目で行うだろうし、それは南朝鮮(韓国)にピンハネされないようにある程度の監視をする必要に迫られるだろう。そこには何らの形で着地点が見いだせるものと仮定しよう。しかし、その補償の中には慰安婦問題に関する補償を含めるように、旧北朝鮮側の関係者は求めるだろう。既にクマラスワミ報告の時点で名乗り出てきている人はいるし、後から名乗り出る人もいるだろう。この時、日本政府はこれらの慰安婦女性への補償を拒否する理由は何もない。韓国では既に補償問題は解決済みだから追い銭を出すわけには行かなかったが、北朝鮮はこれからの話なのでこの部分を含めることは可能なはずである。必然的に、日本政府は慰安婦女性への補償を提案することになると思うが、これを聞いた韓国人が納得するわけがない。

こうなると話はややこしい。

もし仮に、慰安婦問題に関して日本のおかれた事情を熟知した人であっても、同じ(統一後の)韓国内において補償を受けられる女性と補償を受けられない女性がいると、それは直感的には「不公平」と感じる人が出てしまう可能性があるからだ。この不公平感はタチが悪い。論理的な議論が全て吹っ飛び、短絡的で感情的な議論が幅をきかしてしまうからだ。こうなると韓国世論は暴走し、日韓基本条約を破棄して国交断絶などとなる可能性が高い。その時、アメリカがどの様な反応を示すだろうか?

この時、上述のように既に北朝鮮は崩壊し、韓国主導で統一がなされているので中国と西側諸国の間の緩衝材としての北朝鮮は既にないことになる。韓国は中国と直接的に対峙することになり、より中国、アメリカの間の綱引きが激しくなるはずである。少しでも中国側になびかないように促すためには、日本と韓国の対立をアメリカは嫌うに違いない。勿論、韓国がアメリカに嫌われないようにと気を利かせて日本に譲歩する可能性もゼロではないが、国民感情をコントロールできる政府ではないことは明らかである。したがって、アメリカは韓国が譲歩する可能性よりも日本が譲歩する可能性を模索するはずで、そうなると日本に厳しく当たる可能性がある。その時になって日本が慌ててもどうにもならない可能性が高い。

この様に考えると、この様な事態になる前に世界に慰安婦問題の真実を知らしめる必要がある。国際司法裁判所などを介した決着も考えられるが、上述の事態に陥った場合には、韓国は国際司法裁判所への提訴にも応じない可能性が高く、駄々を捏ねたもの勝ちを狙う可能性が高い。韓国が統一される前であれば、日本が提訴したら韓国も応じざるを得ない雰囲気を作ることも可能だろうから、クマラスワミ報告の撤回を実現できた暁には、早期に国際司法裁判所提訴などの対策を考えるべきであろうと思う。

もし北朝鮮と言うパラメータがなければ、もう少し別のやり方もあるのかも知れないが、私にはあの北朝鮮が10年後も行き長らえているとは思えないのである。であるならば、北朝鮮の崩壊がタイムリミットと見なして慰安婦問題を攻めの姿勢で解決に導かなければならない。

少々、話はややこしいのである。

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朝生の「慰安婦問題とメディアの責任」を見て(3)~今後の展開について~

2014-10-05 20:51:31 | 政治
先日からテレ朝の朝まで生テレビの「激論! ”慰安婦問題”とメディアの責任」についてコメントしてきた。今日はその最後で今後のことについて考えてみたい。

アゴラでは出演者の池田信夫氏が朝まで生テレビのまとめを公開している。

アゴラ2014年9月27日「池田信夫:朝まで生テレビのメモ

池田氏のメモでは、ポイントを4つに絞っており、概ね下記の様な整理になっている。

・既に「強制連行がなかった」ことは朝日新聞も認めており決着済み
・植村記者が行った「金学順氏の発言にない『強制連行』との表現の記事」を書いたのは明確な捏造行為である
・捏造以上に重い隠蔽工作は、「泥棒が警官に出世して、自分の犯罪をもみ消した」に等しい形で行われた
・今や問題は「強制連行」ではなく、国際的には「人身売買=性奴隷」的な誤解が問題化している

私も概ねこの様なところだと思う。既に朝日新聞の第三者委員会も人選が完了し、池田氏はこの第三者委員会へのアジェンダも整理している。

アゴラ2014年10月3日「朝日新聞の第三者委員会のためのアジェンダ

こちらの方も、第三者委員会の要点として下記の3項目を挙げている。こちらは原文で引用する。

===============
・検証記事では「強制連行」について曖昧な記述をしているが、記者会見で杉浦編集担当は「強制連行はなかった」と認めた。この事実関係を明確にし、訂正すること。
・1991年8月の植村記者の記事には捏造の疑いが強く、当時のソウル支局長(小田川興氏)が大阪社会部にスクープを提供することもありえない。この2人に事実関係をただすこと。
・1997年の特集記事について、当時の清田外報部長が自分の誤報を握りつぶした疑いがある。これも本人を呼んでただすこと。
===============

上述の4つのポイントの1番、2番、3番にそれぞれが対応しており、この3つが最重要であることは同意するところである。ただ、細かいところでは、3つ目の「誤報の握り潰し」を明確に定義する為、誤報の内容も個別に整理し、それぞれがどの時期からどの様に隠蔽されたかを明らかにする必要がある。朝まで生テレビの中では「吉田証言」の方が重要視されていたが、私は「挺身隊と慰安婦の混同」の方が寧ろ罪は重いと感じている。先日のクマラスワミ報告の中でも挺身隊と慰安婦の混同を受けた記述がそのまま採用されているが、せめてこの点が訂正されていればもう少し韓国の国民感情に注がれた油の量が軽減され、あそこまで炎上が激しくはならなかったかも知れない。「挺対協」なる組織のいかがわしさはその名前からして明らかになり、「挺対協」が韓国国内であれだけの権力を握る事態を回避できたかも知れない。実際、これは池上彰氏が「新聞ななめ読み」のコラムで指摘している様に、朝日新聞の検証記事を読み解けば1993年時点で朝日新聞は「挺身隊と慰安婦の混同」があったと気が付いていたことを白状しているので、この点の訂正を行わずに隠蔽してきたことは罪に問われて然るべきである。朝生でも紹介されていたが、私の大嫌いな朝日新聞の若宮元主筆は政治部長時代の1997年に、当時の清田外報部長に慰安婦報道の訂正報道の提案を行ったが握りつぶされた逸話が明らかになっている。これらの内容から、個別の課題がどのタイミングで誤報と気が付き、どの様に社内で議論され、隠蔽されることとなったかを明らかにして頂きたい。この中で、朝日新聞が誤報を生む土壌の全てを白日の下にさらして欲しいと思う次第である。

ただ、ここまでの話は国内の問題であり、国際的な対応としてはそう単純ではない。例えば、河野談話に関しては吉田証言が河野談話に与えた直接的な影響はゼロである。首相官邸も吉田証言の嘘っぽさには気が付いていたので、霞が関文学の最高峰と揶揄される河野談話の文章からは、吉田証言のみが根拠となる記述は完全に排除されている。この意味で、今回の朝日新聞の一件を根拠として河野談話の撤回を求めるのは国際的な戦略として浅はかである。勿論、国際世論的に河野談話を出さざるを得ない状況に至った背景には吉田証言は大きく貢献したが、直接性と言う視点では議論の余地はないので、この辺は河野談話の撤回は必要ない。というか、この霞が関文学的な視点で見れば、概ね何処にも嘘がない記述になっているのでここを議論のポイントとするのは不毛である。

クマラスワミ報告に関するブログでも指摘したが、本丸はこれが歴史的に類のない「人道上の罪」「人類に対する罪」とまで言えるほどの大事件であったのか否かが重要な訳で、河野談話をそのまま読み解けば、これがホロコーストまがいの残虐性を認めた談話とはなっていないことに着目するべきである。つまり、河野官房長官(当時)が強制連行の有無について記者会見で認めてしまったことは事実としてあるが、あくまでも公的な文書化された書面に記されたことまでを基準とするならば、国際的な条約にも時効にも縛られない事案と見なされる現在の風潮に対し、その法的根拠を広く国際社会に求めることが第一歩だと思う。つまり、証拠能力を有する当事者からの裏づけのある1次資料(証拠)と、証拠能力の乏しいその他の2次3次資料とを区別して精査し、その中で慰安婦問題とは戦時中の様々な犯罪行為のひとつとして見なされるべきものであり、それらの中の悪質なものは実際に東京裁判でB、C級戦犯として罰せられた事実を鑑みれば、国家の組織的犯罪と位置付けられる「人道上の罪」「人類に対する罪」に該当しないことは論理的に説得できるのではないかと思う。

今しばらくは、国際社会に誤解があることを情報発信することが重要だが、その様な疑問が国際社会に芽生え始めたら、その時こそ国際司法裁判所にこの問題を提訴し、法的解釈でこの問題を議論してもらうのが正しいと感じた。クマラスワミ報告の撤回はその第一歩だろう。

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朝生の「慰安婦問題とメディアの責任」を見て(2)~クマラスワミ報告の驚愕~

2014-10-03 23:57:58 | 政治
昨日のブログに続き、今日も朝生の「激論! ”慰安婦問題”とメディアの責任」に関連してコメントしてみる。今日のネタは、番組中で田原総一郎氏が一瞬議題にしたクマラスワミ報告書についてである。

以前、朝日新聞が検証記事を掲載した直後のフジテレビの新報道2001内でのことだと思うが、橋下大阪市長と例えば共産党の小池晃氏の議論の中で、クマラスワミ報告における吉田証言の扱いについて議論があった。橋下市長はクマラスワミ報告において「吉田証言は非常に大きな位置を占めており、この証言が覆ると全体が揺らぐ」としていたが、小池氏の主張は真逆で、「吉田証言は全体の中の一部であり、しかも歴史家の秦氏の反論も掲載されているので吉田証言のウエイトは十分小さく、吉田証言が揺らいだところで結論は変わらない」としていた。当のクマラスワミ氏も小池氏と同様の見解の様で、この辺の実態がどうなっているのかが私には興味があったが、その原文(ないしは和訳)を読む機会がなかったので、本当のことを知る術がなかった。

しかし、朝生の中で田原総一郎氏がクマラスワミ報告を取り上げ、その中の慰安婦の女性が語ったとされる証言部分を一部分読み上げて、これを番組出演者に問うた。それは、「全くリアリティがない!」という言葉で・・・。つまり行間を埋めて何を言いたいかと言えば、「この記述が事実に基づいた証言であるとは考えにくい。かなりリアリティのない作り話の様に見える。如何だろうか?」という意図である。

この番組と前後して、実はアゴラには以下の記事が掲載されていた。

アゴラ2014年9月29日「あなたはクマラスワミ報告書の内容を信じることができますか?
山田 高明


この中ではリンクが張られていて、アジア女性基金の有志がこのクマラスワミ報告の英文の和訳を作成し、ホームページに掲載していたのである。アジア女性基金という組織の意義を考えれば、比較的公平に和訳をしていることが期待できるので、実際にその中身をすべて読んでみた。そうしたら、そこには驚くべきことが書かれていた。愕然とした。

アジア女性基金訳 「女性に対する暴力(クマラスワミ報告)

私は慰安婦問題に興味がある方はこの報告書の全文を一度読んだ方が良いと思うのだが、ここでの議論は私が想像だにしていない論理展開が記されている。多少は噂で聞いていたので予想していたが、これが国連の中で公の資料として存在していることに驚きを隠しえない。

ポイントは3つある。ひとつは、この報告書の結論の根拠の信憑性、ふたつ目はこの報告書の立ち位置の極端な偏り、最後のひとつはこの問題を裁く際の設定された「基準」の高さである。順番が逆になってしまうが、まず最初に最後の項目から説明をさせて頂く。私が一番驚いたのはこの点であるので・・・。

このクマラスワミ報告の第66パラグラフから、北朝鮮の立場が記されている。第68パラグラフでは、北朝鮮の某氏が国際法の下で日本政府の法的責任に対する解釈を説明しているのだが、まず最初に20万人という規模と一般市民に対して行われた犯罪と言う視点から「国際人道法の下の犯罪」と結論付け、1926年の奴隷条約や1948年のジェノサイド条約における集団虐殺の罪に当たるという。ここまではまだ予想の範囲である。

しかし、驚くのはこの先である。これらに加えて、慰安婦問題は1921年の女性と子供の売買禁止条約にも違反するという。また1949年のジュネーブ条約内では、戦時下のレイプは国際戦争犯罪だとしている。さらに、1907年のハーグ条約では「国には家族の名誉及び権利を保護する責務がある」としており、この家族の保護に女性のレイプが抵触するともしている。更にさらに言えば、1910年の売春婦売買禁止条約、1921年の女生と子供の売買禁止条約にも抵触しているという。確かに人身売買やレイプは犯罪行為であることには違いないが、殺し合いが日常茶飯事的に行われていた戦時下の補償において、国民が殺されたことに対して請求をこれ以上は求めず請求権を放棄すると国家間で定めた条約にも縛られずに、これらよりも更に遥かに更に上位の概念で、恩赦も時効も成立しない「人道上の罪」とするのは理解できない。また、1949年のジュネーブ条約の前身である1929年のジュネーブ条約では「捕虜は、その身体及び名誉を尊重される権利を有する。女性は、その性にふさわしいあらゆる配慮をもって取り扱われなければならない」と決められており、この後半部分に慰安婦問題が引っかかると言うのだが、これは捕虜の待遇に関するもので、ゲリラの様な非正規軍に対して正規軍に対しては捕虜になっても正しく扱いましょうと言う規定を一般人に適用する理由が良く分からない。この辺になってくると、既に[何でカンで、日本を糾弾するんだ!!]という結論が先にあって、適用する法的根拠を後から捻り出している様に見えてしまう。あまりにも、適用する基準が厳し過ぎるのである。

また更に、1945年の国際軍事法廷条例及び東京法廷条例では、「戦争前ないしは戦時中に民間人に対して行われた殺人、殲滅、奴隷化、追放その他の非人道的行為を人類に対する犯罪と定義している」という。これは遡及法であり、それ故に東京裁判の正当性にも関連するが、サンフランシスコ平和条約にて東京裁判の判決を受け入れると宣言した以上、東京裁判について今から卓袱台をひっくり返す気はないが、だからと言って過去に遡って民間に被害者が出たら「人類に対する犯罪」というのは腑に落ちない。第96パラグラフでは、国際慣習法の特性として、条約の批准の有無である国だけ特別に適用されて処罰される(言い換えれば、批准していなければ処罰されない)のはおかしいと指摘し、だからそんな理由で「人類に対する犯罪」からは逃れらえないというのだが、であれば何故、東京大空襲や広島・長崎の原爆により、一般市民に対して行った無差別殺戮がこの慣習法の適用範囲外だというのは理解できない。「人道上の罪」は戦争の勝者と敗者に関係なく、等しく犯罪責任は問われて然るべきである。

更に言うならば、人身売買が罪であるということは、慰安婦を利用していたのが日本であっても、人買い的な業務を行っていたのは韓国・朝鮮人だから、自分の娘を売った親や買った業者も同時に罰せられて然るべきである。にも拘らず、人身売買の罪が全て日本に帰着させられるというのは断じて受け入れられない。同時に韓国人業者も糾弾されて然るべきである。しかし、韓国国内やクマラスワミ報告ではその様な動きや言及もない。あまりにもバランスが悪い。

とまあ、色々突っ込みどころがあり、流石に人身売買などや日常の中で普通に起きうる性犯罪を単純に「人道上の罪」と見なすのは無理があると思うので、本質は1948年のジェノサイド条約の様な民族の大量虐殺の様な、歴史上、特異な「人道上の罪」「人類に対する犯罪」に慰安婦が該当するか否かを問うべきだと思うのだが、この部分の法的議論は全く雑に行われている。

以下では、報告書の結論の根拠の信憑性について考えてみたい。

この辺は、先ほどの新報道2001の議論と関連するのだが、橋下市長の主張と小池氏の主張がかみ合わない原因がここにある。順番にかみ砕いて説明したい。まず、公平に評価するならば、この報告書における表面上の吉田証言のウエイトは小さい。これは事実である。全体の巻末に引用文献(ここでは「Notes」)のリストがあるのだが、この中で吉田証言を引用しているのは全体のごく一部である。しかも、秦氏が「吉田証言は信憑性が低い」と指摘している部分もあるので、これを素直に読み解けば小池氏の主張がそのままに導かれる。しかし、それでは橋下市長は何を持って「吉田証言のウエイトが大きい」と言っているのかと言えば、あの報告書の記述の中で、裁判になった場合に証拠能力を認められる証拠は吉田証言しかないからであり、流石、弁護士的な視点で見ているということである。

ちょっと分かり難いと思うので、具体的に説明したい。例えば、クマラスワミ報告の巻末の参考文献のリストを見れば明らかであるが、このクマラスワミ報告は全体の大部分をG.Hicksという人の著作の“Comfort Women”という本からの引用で構成している。残りの部分は、慰安婦からの直接のインタビューによる部分である。ネット上の解説によれば、この“Comfort Women”という本は金一勉という在日朝鮮人の著作からの引用が多く、2次資料、3次資料(又聞きの又聞き)的な位置づけである。しかも、この金一勉氏の著作の特徴は一貫していて、ひたすら攻撃的な反日書籍なのだそうだ。しかも、証拠能力のある当事者を取材したという一次資料ではなく、又聞き的ないしは超主観的な主張で記事が書かれ、明らかに悪意がそこに存在するらしい(確認していないが・・・)。クマラスワミ氏はこの点について何の疑いもなく、検証することもなしに根拠として報告書の拠り所としている。これの意味しているところは、もしまともな裁判を行ったとすれば、このG.Hicks氏の著作の引用に関する部分は「証拠採用」はされず、他の証拠で裁判を闘うことを意味する。

では、1次証拠として採用されている慰安婦本人の証言の信憑性はどうだろうか?先ほど紹介した田原氏の「リアリティがない」の発言はまさにこの部分を指しているのだが、当然ながら裏を取った発言ではない。ただ、裏を取らずとも、その証言が正しい可能性はあるので、その点は冷静に議論したい。まず、このクマラスワミ報告が出たのは1996年だから、聞き取り調査はその前年辺りに行われたと考えるのが自然である。だとすれば、河野談話に関する慰安婦聞き取り調査などを含む、様々な聞き取りは既に行われていた訳である。田原氏が取り上げた逸話を含めて、クマラスワミ報告で引用している証言は極めて残虐な日本兵を描いており、これが本当であれば相当、日本兵に対して恨みを強く持っていた可能性は極めて高い。であれば、1992年頃から高まった慰安婦訴訟に当初から名乗り出てきても良さそうだが、あそこまで残虐な内容は少なくとも河野談話の聞き取り調査時などでは話題になっていなかったはずである。であるとすれば、誰かが指示してあの様な発言に至った可能性が推察される。なお、もうひとつの可能性は、この聞き取り調査には北朝鮮の慰安婦も含まれているのだが、外貨獲得という北朝鮮内の差し迫った指令を将軍様から受けた偽装慰安婦が、あることないこと言いまくる可能性も否定できない。小泉訪朝時に北朝鮮が拉致被害者を返す代わりに1兆円規模のお金を求めて来たように、慰安婦問題で外貨を狙う可能性は大いにあるから、そのために極端な発言をする自称慰安婦が出てくるのは予想に難くない。

次に、信憑性に加えてこの報告書の立ち位置の極端な偏りについても検証したい。ここで少し話はそれるが、クマラスワミ報告がなされたのは1996年である。この当時には、慰安婦の研究はある程度進んでいたはずである。朝日新聞ですら、1993年時点で「慰安婦」と「女子挺身隊」の混同が間違いであることに気が付いているのだが、このクマラスワミ報告では明確に「女子挺身隊」の名のもとに慰安婦が強制連行されたことが記載されている。この混同は朝日新聞の検証記事でも間違いであると明確に認めているように、事実とは異なる記載である。つまり、事実でないことが記載されているということは、何処かで作り話が混在している可能性が非常に高いことを意味する。では、その作り話の作り手はどんな人達だろうか?実は、このクマラスワミ報告にはその犯人を示唆する記述が記載されている。それは、アジア女性基金のことを「国家責任を有耶無耶にするための、悪意のある策略」として捉えており、実際、聞き取りした慰安婦の多くがアジア女性基金を糾弾しているとのことであった。特に北朝鮮ではその傾向が強い。

しかし、これはアジア女性基金側の主張とは大きく異なっている。つまり、アジア女性基金の償い金の受け取りは、あくまでも人道的な償い金であって、国家賠償の可否に影響を与えるものではなく、とにかく生きている間に受け取って欲しいとの訴えをしており、実際に受け取った61人の慰安婦は、日本の総理大臣の謝罪の手紙を合わせて受け取って涙したケースが殆どであったという。しかし、河野談話の作成過程の検証報告において明らかになったように、韓国の挺対協の連中は償い金を受け取ろうとする慰安婦を恫喝し、その受け取りを強制的に拒否するように仕向けたのである。だからこそ、償い金を受け取った人々は、こっそりと隠れるように受け取らなければならなかったのである。これらの人々の評価と全く180度異なる主張がクマラスワミ報告に記載があるということは、この報告は挺対協が主導的に関与してまとめあげられた可能性が高い。実際、クマラスワミ氏は日本語が読めないので、様々な資料は誰かが英訳をしなければならないのだが、それらの英訳は全て韓国側の一部の勢力が仕切っていて、だからこそ、引用文献リストを見てもその様なスタンスの著作だらけになるのである。

この様に、聞き取り調査の対象の女性に対しても、北朝鮮政府や挺対協のフィルタがかかっていることは明らかであり、これらの証言の裏が取れなければ裁判における証拠能力は非常に低いと結論付けられる。実際に日本で裁判を行えば、これらの証言の証拠能力はゼロになるかも知れない。だとすると、クマラスワミ報告の結論の根拠になる大きな二つの柱、G.Hicks氏の著作と慰安婦の聞き取り調査の双方は1次資料としての証拠能力は乏しく、おのずと吉田証言のみが1次資料と位置付けられることになる。橋下市長の頭の中では多分、弁護士的な常識からこの様な途中をすっとばかして、結論の「吉田証言が核」ということになったのだと思う。ここまでかみ砕いて考えれば、吉田証言がオフィシャルに作り話としてオーソライズされたなら、クマラスワミ報告における1次資料は総崩れとなり、裁判的に言えば「差し戻し」的な扱いになって然るべきであろう。

この辺の、クマラスワミ報告が如何に信用できないかの詳細は、先の「あなたはクマラスワミ報告書の内容を信じることができますか?」の記事に記載があるので興味があれば読んで頂きたい。如何にものステレオタイプ的な残虐な日本人像が、何とも嘘くさくて笑えてしまうのだが、既に嘘を100回繰り返されている諸外国の人々には中々その辺を理解してもらえないようだ。

最初の話に戻れば、朝生で議論された「慰安婦問題」の今後としては、やはり国内での朝日新聞との戦争は早々に決着をつけ、クマラスワミ報告の取り下げに向けた行動を早急に進めていく必要があるだろう。そして、世界が慰安婦問題を裁くときの基準を明確に求め、それが上述のように極端に厳しい基準であれば日本は慰安婦問題の責任を問われることから免れないが、その時には同世の基準の適用を諸外国にも求めるべきである。その中で、慰安婦問題の本質は「人道上の罪」か否かに決定的に依存することを明らかにし、完全な法律議論に話を持っていくのである。そうなればしめたもので、証拠能力の有無を個々の証拠に適用し、何が残るのかを炙り出すのである。根拠となったG.Hicks氏の著作や慰安婦証言などの裏取りから、クマラスワミ報告の無力化を目指すのが正攻法なのだと思う。

この報告書を読むと分かるのだが、実際、クマラスワミ氏も薄々強制連行の証拠がないことは察しており、だからこそ「(慰安婦の)リクルート」に関しては「良く分からない・・・」というスタンスを明らかにしている。これこそがクマラスワミ報告の弱点であるのだが、この辺から攻めていくことになるのだと思う。

最後ではあるが、このクマラスワミ報告は余りに酷い報告書である。グレンデールの慰安婦像などの問題は深刻だが、次はこのクマラスワミ報告の撤回に日本全体で取り組まなければならない。

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朝生の「慰安婦問題とメディアの責任」を見て(1)

2014-10-02 21:36:37 | 政治
やっと先日の朝まで生テレビ「激論!“慰安婦問題”とメディアの責任」を見ることが出来た。色々言いたいことがあるので、何回かに分けてコメントしたい。

最初の今日は少々どうでも良い低レベルの話から・・・。

このブログでも何度か書いているが、どうして報道関係者の中には「他人に死ぬほど厳しく、自分や仲間には驚くほど甘い」人が多いのかと絶望させられる。今回の朝生には、元朝日新聞編集委員の山田厚史氏、元共同通信ソウル特派員の青木理氏が参加していたが、この二人の発言は聞くに堪えられないものが多い。少々左寄りかも知れないが、司会の田原総一郎氏も津田大介氏も無条件で朝日新聞のふたつの誤報・捏造に対する反省のなさを糾弾していた。全てが納得できる訳ではないが、彼らの「是々非々」で問題に当たる謙虚さは評価して良い。駄目なものはダメなのである。一方で、だからと言って何でも間でも朝日新聞を叩けば良いという訳でもなく、その辺は責める側にしても是々非々で臨まなければならない。

しかし、山田厚史氏はしょっぱなから産経新聞の不祥事を連呼して「どうして朝日だけ!!」と開き直った様な発言をするし、青木理氏に至っては吉田調書問題での朝日の報道を木村社長が取り消した点に対しても、「どうしてあの記事を取り消す必要があるのか!タイトルだけ訂正すれば問題ないだろ!」という主張をしている。青木氏の他の発言の中では、「新聞記者と言うものは膨大な数の事件や記事を扱うから、そんなもののひとつひとつ裏を取っている暇などない。誤解を恐れずに言えば、全て裏など取っていたらやってられない。誤報なんてあって当然だ!」というニュアンスの内容の発言をしていた。これはある部分まではな得できる部分であるが、それは「誤報があったら即座に訂正し、その誤報によって損害を受けた者がいるならば、その損害を最大限原状回復するだけの努力をする」という前提があっての話である。しかし、吉田調書の事件では、極端なことを言えば「東日本壊滅」の危機を命がけで救った英雄たちを、世界中から「卑怯者」と罵られる様な記事を書いておきながら、その訂正を世界に求める努力のかけらもない状態で「謝れば済む」と短絡的に考えている者を弁護するのだから救われない。

少し話が逸れるが、朝日新聞は障害者郵便制度悪用事件で冤罪の罪に問われた村木厚子氏の無罪を証明する「フロッピーディスクの改竄」をスクープした。朝日新聞のスクープの中にはこの様に賞賛されて然るべきものも多いのは事実である

。ここで、大阪地検特捜部の不正に加わった者は処罰され、村木氏には無罪判決が言い渡され、失ったものは多いながらも司法、行政サイドは村木氏の原状復帰に向けた対応を行った。誤り事態は決して許されるものではないが、結果的には原状復帰のための最大限の処置はなされたとみても良い。しかし、Fukushima Fiftysと呼ばれた英雄たちの名誉は決して回復されることはない。何故なら、ニューヨークタイムズや韓国の新聞などはその様な反日の訳に立たない「弁解・訂正記事」など全くニュースの価値がないから、それを自ら掲載することなどしない。一度広まった噂は、その噂を広めた張本人が本気で訂正と原状回復の努力をしなければ取り返しなどつかない。ましてや慰安婦問題などに関しては、既に嘘が100回以上繰り返され、本当の事実と虚構の境界線が全く分からなくなってしまっている。どちらも朝日新聞が私財を投げ打って原状回復の努力をしなければ、誤った認識は訂正されることなく、失った名誉はこのままでは永久に回復されることがない。しかし、その様な状況が放置されながら「誤報なんてあって当然だ!」というスタンスを貫く報道屋という人たちは、報道する資格などあるのかと私は疑ってしまう。

もう少し言えば、確かに「誤報」や「筆(または口)が滑った」ということはゴマンとあって、そんなのを責められていたらマスコミなんてやっていられないだろう。しかし、例えば橋下大阪市長の慰安婦発言の時の彼らの態度はどうであっただろうか?橋下氏は何度もぶら下がり取材に応えている。ぶら下がり取材と言うのは、原稿などない1対1の真剣勝負だから、ついうっかり口が滑ることなど当然ある。しかし、そこで意図しないことを話の流れで発言してしまったとき、その後に正式に訂正し、誤りのない文書上での公式見解を資料として配布しても、その様な公式見解など全く無視した状態で、「公人なのだから、うっかり喋ったことの責任も負うべきだ!」「喋ったことが事実なら、それが『意図したことではない』などと言い逃れしてはいけない!」と責め続ける。傍から見ていれば極めて非論理的な攻撃だが、100歩譲ってそれがマスコミの仕事だというのなら、自らの誤りに対しても少なくとも同様の厳しい追及をして頂ただかなければならない。それが身内の朝日新聞だから「この辺で許してあげるべきだ!」とか、「朝日だけ叩いてどうなる!」と言われても、言ってることとやってることが真逆でその様な人の言うことを信じることなどできない。殆ど虐めの様な構図で橋下市長叩きをやっていた報道機関として、同様の責めを負って頂くのが筋と言うものである。

他にも、NHKの籾井会長の記者会見の話もそうであった。慰安婦報道に対して何度も何度も応える立場にないと回答を拒否していたのに、挑発して個人的意見でよいから答えろと追い込んだくせに、個人的意見を述べたら叩きまくり、それを撤回すると言ったら「一度喋ったことは取り消せない!」と糾弾する。であれば、一度報道した誤りは取り消せないから、(せめて被害者と同じ苦しみを加害者が味わうといった)その責任をお前も味わえよ!!と言いたくなる。しかし、山田氏も青木氏もその様な覚悟など毛頭なく、ましてや身内の朝日新聞を責めるつもりなど死んでもないだろう。困ったものである。

ちなみに、青木氏の主張の根底にあるのは、「事実なんだから報道して何が悪い」というスタンスである。作話師の吉田証言があったことは事実だから、それを報道するのは誤報ではないと言う。福島第一原発で吉田所長の命令が伝わらずに勝手に福島大に原発に行った人がいたのだから、「命令違反で撤退」というのも事実だと言う。しかし、繰り返しこのブログでも言うように、「事実」と「真実」は異なるものである。しかし、彼らにとっては「真実」はどうでも良いことで、裁判沙汰になった時に「事実」でありさえすれば逃げられるという発想が頭から抜けない。驚いたことに、番組の中では「『真実』は神様のみが知るもの」だから「真実」なんて誰にも分かるものではなく、あるのは「事実」のみだと結論づけていた。しかし、それは誤りである。

確かに、神のみが知る「真実」があるのは事実である。しかし、「福島第一原発において多くの所員が吉田所長の命令に従わずに逃走した」などという認識は明らかに間違いで、伝言ゲームの錯綜や、「前日までの福島第2原発に一時退避しなければならない状況を想定した議論」から、「一時退避と言われて福島第2原発のことと勘違いした」という現実がそこにあったことは、常識的な国語力を持つ人であれば、あの吉田調書から読み取ることができるはずである。それは明らかに「真実」であり、一方で事実の切り貼りで作った誤解へ誘導する内容は明らかに「虚構」である。決して神のみぞ知る「真実」などと言うものではない。せめて、もう少し解読が難解な問題を対象に「神のみぞ知る」と言って欲しい。

私が良く引用する湾岸戦争で米軍がハイテク兵器の映像を垂れ流し、「これなら誤爆などあり得ない」という世論誘導を狙ったケースを例に取るまでもなく、権力と言うものは報道をミスリードするために「事実」のつまみ食いを我々に促すのである。湾岸戦争では「映像」という「疑いもない事実」を突きつけられ、全体の兵器の1割ほどしかハイテク兵器が存在せず、残りの古典的な9割の兵器が誤爆を誘発するという「真実」を覆い隠してしまった。「事実」は「真実」を捻じ曲げるのに利用され、そしてそのテクニックは「権力者」が使うことが多いのも事実である。情報のリークなどはその典型例である。その際、彼らは後で「嘘つき!」と罵られたくないから、「嘘」ではなく「事実」を餌に巻く。だから、「事実さえ書けば、真実なんて知らない」という開き直りは、「私はジャーナリストの才能など有りません」と懺悔する様なものである。にも関わらず、青木氏は「ジャーナリストの才能はないから、誤って多くの人を傷つけるかも知れないが、それが何か・・・」と開き直るようなものである。

報道は既に権力となってしまった。多くの人が報道に傷つけられ、その理不尽さに涙を呑むのである。その責任を感じられない未熟者には、第一線から退いて頂き、ネットの世界でブログでも書いて満足してもらうしかない。

全く困った人たちである。

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個別的・集団的自衛権の区別と国益

2014-10-01 23:58:20 | 政治
少しタイミングを逸したが、先日から気になっていたことを書きとめておく。まず、下記の記事を見て頂きたい。

現代ビジネス2014年9月26日「長谷川幸洋:朝日新聞はまだ懲りないのか!?『米国のシリア空爆』でも『ねじ曲げ』報道

タイトルを見ると朝日新聞叩きの記事の様に見えるが、それは枝葉の話であり、本題は米軍によるシリア空爆である。イラク国内の空爆までは良かったが、シリア国内の「イスラム国」殲滅のための空爆についての是非が問題になっている。この記事を報道するのに、朝日新聞は「米国は集団的自衛権行使に基づいてシリアを空爆した」と印象付けようとしているが事実は違うので問題であると長谷川氏は指摘している。確かにその通りであるが、少々、話はややこしいと私は感じている。

長谷川氏の指摘は、朝日新聞はヨーロッパ諸国が米軍によるイラク国内の空爆に対し冷ややかであることを利用し、「集団的自衛権の行使がこれほど世界で問題視されている」という印象操作を狙い、シリア空爆が「集団的自衛権行使」だとのニュアンスの記事を書いた点が問題だとしている。ただ、このご指摘は少々微妙なところであるので少し確認したい。まず、朝日新聞の記事を引用してみたい。

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朝日新聞Digital 2014年9月24日「シリア空爆、米『自衛権行使』国連に文書、正当化図る」抜粋
米国のパワー国連大使が23日、国連の潘基文(パンギムン)事務総長に提出した文書によると、米国はシリアのアサド政権について、自国の領土を「イスラム国」がイラクへの攻撃拠点としているにもかかわらず、その活動を防げないと指摘。攻撃を受けているイラクからイスラム国への空爆を主導するよう要請を受けたとして、他国が攻撃された場合に反撃する「集団的自衛権」を行使したとしている。
 さらに、シリアにいるアルカイダ系武装組織「コラサン・グループ」の米国などへのテロ計画が最終段階に入っていたこと、米国人記者2人が「イスラム国」に殺されたことを踏まえ、米国は自国民を守る「個別的な自衛権」を行使したと主張している。
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ここでは、今回の自衛権は「集団的自衛権」であり、同時に「個別的自衛権」でもあると記載している。また、国連へ提出されたオフィシャルな見解では「国連憲章51条に基づく自衛権行使」であるとしている。もう少し正確に言えば、国連憲章51条は個別的・集団的自衛権を定めており、個別的自衛権と集団的自衛権の区別は特に規定しておらず、国連憲章51条が根拠だと言えば、別にそれが個別的自衛権なのか集団的自衛権なのかを国連に対して宣言する義務がある訳でもない。長谷川氏の指摘は、この様な状況が正確であるのに「集団的自衛権」のイメージを先行させる報道であることが情報操作であると指摘している訳である。ただ、厳密には「個別的自衛権」の記載もあるので、イメージ操作の効果は実際にはありながらも、裁判では決して負けない仕込みも十分にしているというのが正直なところで、この辺はギリギリセーフであるというのが私の感想である。

そこで、この問題の本質は何かと言えば、朝日新聞などはどうでも良い話で、単純に「世界は『集団的自衛権』と『個別的自衛権』の区別など重要視していない」という典型例を見つけた!と紹介すれば良い話で、少々脱線した感が強い。ただし、私はこの朝日新聞の記事に少々驚いたのだが、シリア空爆が「個別的自衛権の行使」という主張を本当にアメリカがしたのかと言うのは懐疑的で、これを称して「個別的自衛権の行使」と言ったら「何でもアリ」になってしまいそうで怖いと感じたのだ。そしたら、長谷川氏の記事ではその辺を解説していて、朝日は原文の英語の報道を誤訳していたそうで、原文では「加えて米国は、ホラサン・グループとして知られるシリアのアルカイダ系組織が米国や友好国、同盟国に与えている脅威に対処するためにシリア領内で軍事行動を始めた」と言う内容にとどまり、「個別的自衛権」とは表現されていないらしい。つまり、どれが「個別的」でどれが「集団的」かを朝日新聞が意訳し、それが真実の様に振舞ったのがケシカランということである。ただ、アメリカがどの様な表現を使ったかは別として、ヨーロッパ諸国がシリア空爆に二の足を踏む理由は単純明快で、「これを手段的自衛権と呼ぶのは無理がないか・・・」と感じているからである。ただし、ここで補足すれば、「ましてや、これを個別的自衛権と呼ぶのはもっと無理がある・・・」とも考えているはずである。

少し例え話をすれば、北朝鮮は日本国内に工作員を違法に派遣し、日本人に成りすまして罪もない13歳の少女を筆頭に、数多くの日本人を拉致して北朝鮮に連れ去った。明らかに国家による組織的な犯罪で、これは「戦争行為」に匹敵する。アルカイダなどは国家としての形態を持たない組織だから戦争ではなくテロと呼ぶのだが、国家が組織的に行うテロは戦争そのものである。だから、小泉訪朝で北朝鮮の国家犯罪が白日の下にさらされ、残りの日本人に対して不誠実な対応で拉致を解かずに確保し続ける状況は、個別的自衛権の発動対象になり得ることになる。ただ、その人数が少人数は大人数かでインパクトは異なり、拉致と認定された被害者が12人程度であると「宣戦布告」するには国際的な同調を得られず、結果的に日本政府は泣き寝入りとなった。ここで宣戦布告(事前にアメリカや中国にも通告するという前提)をして北朝鮮を空爆すれば、北朝鮮は日本に対して反撃をするから米軍は正式に日米安保を発動し、北朝鮮を空爆することになる。空爆をすれば人心が揺らぐから、窮鼠猫を噛むの如く、核兵器などの飛び道具を無駄に使う可能性はあるが、アメリカが参戦すれば北朝鮮の崩壊は意外に早い。ハードランディング・シナリオを描けばこんなところかも知れない。しかし、仮に国際社会がそれを許しても、日本国民の総意としてはその様な個別的自衛権を認めることはないだろう。つまり、少なくとも我々日本人の感覚では、あれをもって「個別的自衛権」と呼ぶのには無理があるということである。

一方、集団的自衛権はどうかと言えば、反対論は多いのだろうが、シリア空爆を集団的自衛権と呼ぶのは一定の理があると私は思う。例えば、ある国と戦争状態になったとする。さっきまで、ある一個師団が戦闘を仕掛けていたとして、その戦闘終了後に何処かに移動したところ、別の一個師団に遭遇したとする。同じ国の師団であれば、毎回毎回、相手の先制攻撃を待ってから反撃などする訳ではなく、相手国と遭遇した時点で戦闘行為は始まるのである。つまり、ある国と戦争する場合、その部隊の所属で戦闘の可否を判断することはなく、同様に地域によって戦闘の可否を判断することもない。あくまで、自国の自衛権を脅かす国家(ないしは集団)であるか否かが重要で、戦争が始まった後では場所が何処か(イラク国内かシリア国内か)はあまり重要ではなく、自国ないしは同盟国がその一大勢力から自衛権を脅かされていることを阻止する権利は国連憲章的には合法的なはずである。だとすれば、シリア国内でも集団的自衛権との主張には(一定の糊代はあるにせよ)十分に説得力はあると思う。つまり、敢えて言及するのであればシリア空爆も集団的自衛権であり、現実論としてはそれを明確に言及する必要に迫られていないから「個別的・集団的自衛権」と両論併記のままでお茶を濁しているのだろう。

つまり、長谷川氏はそこまで言及していないが、敢えてどちらか選択するとなれば「集団的自衛権の行使」と言った方が国際社会では説得力があるケースが多く、個別的自衛権の「拡張的解釈」は非常に危険な香りがプンプンしているのである。しかし、その様な地雷を敢えて踏むことを誰も希望していないから、オフィシャルには「国連憲章51条に基づく個別的・集団的自衛権行使」と表現するのが妥当なのである。それを、「集団的か個別的かを明示しよう」と強いるのは明らかに筋が悪く、国際社会で要らぬ反発を招くだけなのである。

総括をするならば、日本では「集団的か個別的かを明示しよう」という論調がマスコミを中心に多いのであるが、国際社会は「集団的か個別的かの明示は国益に反する」と考えるのが常識である。であれば、その明示を強いる政治的圧力は、「国益を堂々と無視せよ」との圧力であり、反政府的・反国家的な活動と言わざるを得ない。

この様に、意外に国際的な感覚を無視した自分本位の論調がマスコミには多くはびこり、その傾向は朝日新聞が強い。国益を無視して良いという原理には賛同できないから、その様な連中の主張には信憑性がない。朝日新聞を攻撃するのは分かるが、この辺の軸がブレルと逆効果である。

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