けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

対立の構図の変化と議論の質の変化

2014-09-30 22:30:08 | 政治
最近読んだ興味深い記事が幾つかあり、それらを引用しながら少しばかり私の仮説にお付き合いして頂きたい。私の仮説は、「『国家権力v.s.一般市民』の対立が『一般市民v.s.一般市民』の対立構造に変化する中で、言論空間での議論の論理構築技術が低下し、低レベルの粗く雑な議論が支配的になる」というものである。

まず最初に目に入った記事は下記のものである。

ゲンロン出版部 東浩紀「在特会デモ&カウンター『観光』記

肩書をどう言えば良いか悩むが、現代思想家の東浩紀氏のブログに、在特会デモとそのカウンターとの間のデモ現場での対立・イザコザの「現場取材」した模様が記載されている。東氏は非常に丁寧に言葉を選び、それなりの公平性を期すためのフォローもしているが、カウンターの主催者などとこれ見よがしに映った写真などを掲載しているので、カウンター側の立場に立っているのは明らかである。最近は何かと叩かれる在特会だが、以前から主張している通り、在特会とカウンターの関係はロシアとウクライナの関係とでも言ったら良いだろうか、「毒ヘビと毒サソリの関係」に近いと思っている。つまり、どっちもどっちなのである。ウクライナ問題に関しては、世間一般ではアメリカや欧州寄りのメガネを通して見た報道が主流なので、ウクライナ側に正義があるように思う人が大勢を占めるが、何故、今この様なゴタゴタに陥ったのかの背景や、「力による現状変更は許さん」と言いながら、その直前に「力で捻じ曲げて現状変更(欧米より政権を樹立)した背景」を有耶無耶にして話されると「良く言うよ!!」と言いたくなる気持ちも分かる。一方が正義で一方が悪と言うのではなく、立ち位置を変えると評価が180度変わるという例である。大抵の場合、「両方とも駄目!」という結論である可能性が高い。この様な意味で、在特会問題を考えれば考えるほど「ロシアとウクライナに、ホント、似てるんじゃね?」と思うのだが、今日はそこを議論したいのではないので、話を先に進めることにする。

私が先ほどの記事を読んで「ナルホド!」と思わず膝を打ったのは、東氏の次のひとことである。

「いずれにせよ、ここで対立しているのは『権力』と『市民』ではありません。市民対市民の対立がここまで暴力的に顕在化するというのは、やはりそれなりに新しい局面で、真剣に対策を考える必要があるでしょう。」

そう、昔なら「国家権力」という強大な力がそこにあり、それに対抗するためには言論人は相手を打ち負かすだけの論理武装が求められた。時には裁判に訴え、時には足で稼いだ特ダネだとか、丁寧な戦略の構築を図ることが余儀なくされた。自衛隊や日米安保が憲法違反であると思えば、最終的には裁判で勝つための戦略を練らなければならないし、それでも最高裁が期待する様な判決を出してくれないのであれば、例えば日米間の密約をすっぱ抜くなど、八方、手を尽くしていたのだと思う。時としてその取材の違法性を指摘されて返り血を浴びたりする覚悟も必要だった。多くの市民を味方につけるには信頼が必要だから、雑で粗い議論を繰り返し信用を失うことを恐れた。

しかし、その様な時代が過ぎると、いつしか「国家権力」の威厳は地に落ちてくる。与野党を問わず、昔の田中角栄の様な強力な権力の持ち主はもはや存在しない。多分、東京佐川急便事件で旧田中派の流れをくむ竹下派の金丸信氏が会長職を辞したことに端を発する竹下派の抗争が激化して分裂し、自民党内の絶対的権力が弱まり結果的に宮沢政権が55年体制に終止符を打つことになる。これ以降、自民党と言えど与党の座を確保するためには、時として有権者に媚びた対応が求められた。田原総一郎氏などは、テレビ朝日のサンデー・プロジェクトなどを通し、(期せずして)3人の首相の首を取った・・・と言われているが、テレビの普及と民主主義が定着してくると、強力な個性の持ち主でない限り、権力者も有権者の顔色が気になるようになる。有無を言わさずトップダウンで何かを決めることなどできなくなって、市民の声を集約する形で政策を決定することになる。

勿論、そこには政府の持っていきたい方向性(方針)が事前に存在し、学者や有識者などの中の同様な意見の方々を巻き込んで一大勢力を築こうとするのだが、要はトップダウンではなく形式的には「民意」の繁栄の形を取らざるを得なくなった。原発再稼働などはその典型で、経済対策やエネルギー安全保障などの背景に加え、安全管理のための規制や監視能力を高め、手続き的な妥当性を十分に示さないと先に進めない。結果的に、反原発派と直接対峙するのは政府ではなく、原発再稼働容認派の民間人がそのカウンターとして位置付けられることになるのである。この辺は慰安婦問題も同じで、単なる1国会議員であれば好きなことを言えても、内閣の一員となると途端に好きなことは言えなくなる。あくまでも歴代内閣の方針に沿った発言が強要され、国家としての安定性のために個人的な意見は排除されることになる。結果として、国家権力ではなく民間レベルで意見が対立し、市民対市民での代理戦争が繰り広げられることになる。

これが良い傾向か悪い傾向かは分からないが、ヘイトスピーチの問題も全く同列で、東氏のご指摘はこの点を明確にまな板の上に乗せたところが新しい。ただ、私が注目したいのは対立の構造が新しい点ではなく、市民対市民の対立の場合には、(一部の個別論議を除けば)その勝者と敗者は「論理的な正当性」を基準とした争い(議論)によってではなく、「どちらが多数派を占めるか?」の争いによって決定されるケースが圧倒的であるという事実である。「論理的な正当性」を主張するのであれば、様々な議論を仲間内でも戦わせ、相手からの如何なる反論にも反駁できるだけの論理武装が求められるが、多数派争いの戦いであるならば、その様な論理武装など必要ない。あくまでも「イメージ戦略」が有効な手段であり、そのためであれば嘘でも100回言えば真実になってしまうという考え方がまかり通るのである。朝日新聞の吉田調書問題などにしても、あの様なゲリラ戦法などを取らなくても反原発を訴えることは可能であったはずだが、何故か反原発派の主役の座を射止めたと勘違いした元総理を援護するために、「イメージ戦略」先行の戦略を取ってしまった。小学生レベルの国語力を前提とする無謀な戦いを見る限り、もはや彼らは完全に丁寧で緻密な議論などを放棄していることがうかがえる。これがクオリティペーパーを自称する天下の大新聞なのだから目も当てられない。集団的自衛権も特定秘密保護法も同様で、盲目的で狂信的なネガティブキャンペーンが国民を洗脳するのに有効だと思い込んでいるのである。

話が逸れるが、報道機関ではないがBLOGOSに以下の記事があった。

BLOGOS 2014年9月25日「田中龍作:山谷えり子大臣ポロリ『在特会のHPを引用したまで』

これは、著者の田中龍作氏が日本外国特派員協会で開かれた山谷えり子大臣の記者会見を取り上げ、事前に行われた週刊誌のインタビューでは「在特会の存在すら知らない」と答えていたのに、別のラジオ番組内では在特会のホームページに記載された内容を引用する形で自分の知り得た情報を回答していたことをあげ、「週刊誌のインタビューで在特会の存在すら知らないと答えていた山谷大臣だが、彼らのHPを自身の回答に引用したということは、在特会が何であるかを知っていたということだ。ウソがばれた瞬間だった。」と短絡的に切り捨てている。細かい文言と時系列を追わなければ分からないが、当初は知らなかった団体のことが自分に関連して話題になれば、当然ながらその情報を調べるのは当たり前である。あるタイミングでその知り得た情報をマスコミで回答するのも分かるし、それ以前には存在すら知らなかったというのもあり得る話である。しかし、「この嘘つき野郎!!」と短絡的に罵ることで、訳も分からず「嘘つきなんだ、この人・・・」と読者をミスリードすることを好んで行う様なやり方は、最近では朝日新聞的な報道機関で良く見る傾向である。これは単なる一例であるからこれが全てを物語ってはいないが、この様に議論の質が低下しているのは明らかな傾向だと私は感じている。

話を元に戻そう。今から思い返せば、この様な市民対市民の対立の構図は民主主義社会の成熟度を表すバロメータであるのだと思うのだが、形だけは民主主義の形式をとりながら、マスメディアが堕落したがために民主主義までも堕落しかけている感じである。その意味(民主主義が堕落したこと)では、我々よりも何十年か先を行っている感のある韓国だが、我々はその様な人の振りを見て我が身を省みなければならない。強大な国家権力の衰退はある意味では評価すべき結果ではあるが、その先に堕落があるのは何とも頂けない。

吉田調書や慰安婦問題などは単なる個別の事案でしかないが、大局な視点で見た時の民主主義の堕落は致命傷になりかねない。国際社会での慰安婦問題の解決のためには「多数派工作」は避けては通れない重要課題であるが、国内問題に関しては事情は全く異なるのである。

今一度、対立の構図の変化を顧みて、多数派工作ではない、丁寧な論理的な議論での論破を重要視するべきだと感じる。

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メディアの誤報とリスクマネージメント

2014-09-25 23:58:02 | 政治
今日、帰りがけに聞いたラジオで面白い議論があった。朝日新聞の誤報・捏造記事に関する問題を、リスク・マネージメントという視点で考えてみるというものだった。竹田圭吾さんの司会で、駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部の山口浩教授がゲストだった。今日はこのリスク・マネージメントという視点から物を考えてみたい。

まず、番組の中では色々と、「そうそう、そうなんだよ!」と言いたくなるようなご指摘があり、言われてみれば当然なのだが、表現を適切に選ぶことで要点の「しっくり感」がこうも違うのだと感心させられた。朝日新聞の謝罪会見は教科書にも載りそうな悪い謝罪の典型例で、謝罪による損失を最小化しようという下心が裏目に出て、対応すれば対応しただけ裏目に出るというものだった。「戦争で言えば戦力の逐次投入のようなもの」と解説していたが、最初の時点で全勢力を一斉投入すれば即座に鎮圧できるものを、少しづつ少しづつ投入することで、結果的に最終的な被害が増大し、終いには全勢力を投入しても沈静化できないという事態に至るのと似ているとしていた。朝日新聞の慰安婦報道の訂正・検証記事がまさにそれで、折角、大きな決断をして訂正記事を出したのに、謝罪をしたくないばかりに池上彰氏の記事の掲載拒否に至り、それも叩かれて掲載に至ったばかりか、吉田調書の記事撤回の記者会見でも有耶無耶にしたために、今現在では購読者数が極端に減ると共に広告の掲載も激減しているという。結局、第三者委員会による検証を約束させられたのだが、誰もが納得する様な委員を選べばボロ糞の評価が下されるのは目に見えているし、ボロ糞の評価を下さない委員を選べば更に傷を深くすることになる。だったら記事の撤回と検証記事の掲載を判断した際に、最大限の譲歩を最初からしていたら良かったのに・・・と朝日新聞社員なら誰でも思っているだろう。しかし、それが出来なかったのは、朝日新聞にはリスク・マネージメント能力が全くないという驚きの事実によるものである。山口氏のご指摘では(私も全く同感であるが)、普通の企業であれば訂正・検証記事の掲載の前や社長の謝罪会見の前に、リスク・マネージメントに強いコンサルタント会社などに依頼して、対応の方針や訂正・検証記事の構成方法、記者会見のやり方から想定質問など、ありとあらゆる形でコンサルタント会社からアドバイスを受け、(それが見せかけの作られた謝罪となることを覚悟の上で)定石に則った謝罪をすることで損失を最小化することを図るのが常識である。しかし、見た感じでは殆ど内輪の人間で固めた対策チームで様々な対応を主観的に決め、それを見ることになる第三者がどの様に感じるかは2の次の様な対応だった。悪い謝罪の典型例と言われるのも、「さもありなん」である。それは朝日新聞の体質に他ならないが、他の一般の企業ではここまで酷くはならないのである。

そこで、私なりに山口教授のご指摘を受けて考えてみた。朝日新聞の様なメディアがこの様な悪質な捏造を行わない様にするにはどうすれば良いのかを・・・。

まず、一般的にミスに対する対応が組織的に行われている例として、医療関係機関が挙げられるようである。それは何故かを考えればすぐわかると思うが、それは「訴訟」のリスクが余りにも高いからである。例えば病院で医療ミスを起こした際に、適切に対処していれば被害者家族は訴訟などに訴える前に示談に応じることになる。自ら報道機関に情報を公開し、そして合わせて被害者との和解が成立していることを示せば、そのミスを過剰に引きずることは避けられ、場合によっては適切で迅速な対応を称賛される可能性もないとは言えない。しかし、これが訴訟に発展すると賠償金は跳ね上がり、更には社会的な信用も地に落ちることになる。場合によっては優秀な医師の流出にもなりかねず、そこまでに至ればボディブローの様にその病院の体力を長期に渡り奪うことになる。この様に、ミスの影響が直ぐに目に見える形で表れやすい業界は、当然の如くリスク・マネージメントに熱心にならざるを得ないが、朝日新聞はその対極の様な存在である。

と言うのは、例えば慰安婦報道に関しては、朝日新聞の熱心な読者であっても、相当前から「吉田証言」は嘘だらけであることを知っていたのではないかと思う。そして「挺身隊」と「慰安婦」の混同を知っても、そんなことで朝日新聞の購読を止めようと思わない読者が多く、産経や読売が叩けば叩くほど寧ろ朝日新聞を選ぶような状況だったと思う。例えば「美味しんぼ」の鼻血と放射線被ばくの関連の記事を例に取れば、その原因と結果の因果関係の正当性の客観的な評価などはどうでも良く、原発を叩くという姿勢が是か非かという論点にすり替えられれば、誤報などは既にどうでも良い問題とされてしまう。集団的自衛権や特定秘密保護法の問題でも、その議論の論点の正しい整理などはどうでも良く、「右傾化した安倍政権を叩け!」に「この指止まれ」的な問いかけをしているから、朝日新聞の経営層は「誤報そのもののインパクト」を評価するのではなく、「誤報の背景に賛同してもらえるか?」という基準で評価してしまっていた。背景さえ賛同してもらえれば、購読者数や広告収入へのインパクトは限定的だから、結果的に「リスクではない」という過小評価に繋がってしまう。つまり、「誤報」「捏造」が直接的な「経済損失」に繋がらないシステムがそこにあるために、経営層にはリスク・マネージメントを厳しくするモチベーションが働かないのである。

であるならば、これらの報道機関が過ちを犯した際に、訴訟などを通じて直接的な経済被害を目に見える形で実感できるような体制を構築していくことが近道かもしれない。例えば、今回の朝日新聞も自社を攻撃する他者(他社)に対して「法的措置を辞さない」との脅迫をかけてくるのだが、同様のことを一部の有志が報道機関に仕掛ければ良いのである。実際、私の過去のブログ「朝日新聞は池上彰氏の記事の何を恐れたのか?」にも書いたが、「『慰安婦』と『挺身隊』の混同・誤報の事実を21年間にも渡り知っていて隠ぺいした事実」に対して旧日本軍人の遺族などを中心に集団訴訟などを起こせば、それはその後の誤報に対してリスク・マネージメントを厳しくするモチベーションに繋がることは目に見える。それは朝日以外の他社に対しても同様である。あまりやり過ぎると福島瑞穂と同じで「裁判で金儲け!」的な発想になってしまうが、たまにはお灸をすえるのも必要であろう。

雪印の食肉偽装問題がどの様な結末に繋がったのか、食材偽装で阪急阪神ホテルズなどがどうなったかを考えれば、報道機関がこれほどぬるま湯に浸かり続けて良い理由などどこにもない。その意味で、少なくとも経営層がリスクをリスクと実感できる土壌が構築されていることは健全な民主主義において必要なのだと思う。

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セウォル号事件は慰安婦問題の写し鏡だ!!

2014-09-22 23:21:16 | 政治
昨日のフジテレビの「Mr.サンデー」では、何故か今頃になって韓国セウォル号事件の特集を放送していた。今日はこの番組を見ていて思ったことであるが、セウォル号事件の構図が何とも慰安婦問題に酷似しているのではないかと感じたので、その辺のお話をさせて頂く。

まず、「Mr.サンデー」の解説では、韓国国内ではあまり詳しい事故の原因究明に関する報道は少なく、被害者家族は日本や諸外国での報道がきっかけに真相究明が進むことを期待しているかの様なことを言っていた。そして番組の最後の方では、下記の記事にもある通り、最近は国会が空転して法案が1本も通らないと紹介していた。

Yomiuri Online 2014年9月18日「韓国国会マヒ、法案1件も処理できず…沈没余波

これは前日のブログ、「民主主義のコストを嫌い『徳治主義』を目指す韓国」でも書いたが、「セウォル号特別法」の制定に関連し、政府与党側と野党&遺族グループの対立が酷く、一線を越える無謀な要求を遺族グループが求めるあまり、国会が空転しているという状況を指している。上記のブログではこの背景について、韓国では民主主義的な価値観が乏しく、絶対的に正しい君主が「徳」に基づいて正しい裁きを行うのが好ましいという発想から、朴大統領に直談判して事態の打開を図ろうとしている状況を紹介した。

この野党側のスタンスというのは、「遺族は可哀そうだ!」「だから、遺族の言うことは積極的に聞いてやるべきだ!」「そのためには、多少の法律や論理の矛盾なんて問題ではない!」「大切なのは、世界中の皆が亡くなった学生などの被害者のことを憐み、遺族に対して寄り添ってあげるべきだ!」「このことに異を唱えることなど、誰もいないだろ!」という論調で大抵説明出来る。勿論、細かいところで、様々なシステムが無責任に構築されていたことは否めないから、それらの責任者なるものが存在するならその人に与えられていた権限に照らして罪を問うのはその通りだが、罰則の適用は「怒り」に任せて行うべきではなく、法に照らして責任に応じた処罰が行われるべきである。例えば、日本で言えば「海猿」の様な海難救助のシステムは韓国では貧弱で、日本では10か所以上ある海難救助の基地が韓国には1か所にしかないという。しかも、この様な事故の救助を前提とした訓練なども行っておらず、実質は現場に駆けつけるにも時間がかかったし、現場についても無力であった。しかし、その背景には北朝鮮との軍事的な対立があり、海難救助的な専門家は韓国軍に集約されていて、当日、軍の出動の判断が出来なかったために何も出来なかったというのが現実の様である。つまり、民事的な海難事故に対応するシステムが出来ていなかったのが課題の一つであるが、それは日本と異なり軍事的な対立が現実的な国という特殊性からすれば、「救助隊が見殺しにした」と責めるのは短絡的で、船が沈む瞬間に出来る渦などに巻き込まれて2次災害をもたらす危険性を考えれば、彼らに出来たことは限定的であったと考えるべきかも知れない。

少しばかり話が横道に逸れてしまったが、「可哀想!」という論点で全てを押し切り、セウォル号事件の当事者である遺族に捜査と起訴権を与え、「被害者が加害者を裁く」という「人民裁判による復讐」を可能とすることは法律的には絶対に認めてはいけないことである。しかし、全てを「可哀想!」で突っ切ろうとするから、やがて遺族グループもいつの間にか「正義」を逸脱して悪の道に手を染めることになる。

下記の記事を見て頂きたい。

朝鮮日報2014年9月19日「【社説】セ号遺族に見る韓国の歪んだ自画像

これは、韓国の野党議員とセウォル号遺族が飲み屋で呑んだ帰りに「運転代行業者」を呼んだところ、代行業者が到着しても出発しようとしないことにしびれを切らした代行業者が「他の業者を呼んでください」と言うと、遺族らが「国会議員に対してその態度は何だ」と因縁をつけ、更には「俺たちを誰だと思っている!」と暴言を吐き、暴行を加えたという事件である。ちなみにそこに割って入った仲裁者も暴行を受けたが、駆け付けた警察は被害者だけを拘束し、加害者を無罪放免にして朝方まで被害者の尋問を行ったという。この有様をみれば、当初は可哀そうな立場の遺族たちはいつの間にか権力を掴み、世論の後押しを受けて無茶苦茶な好き放題をするようになる。勿論、この様なケシカラン輩は一部であろうが、その様な輩が産まれてくることになる。

これらの勢力が、「可哀想!」という非論理的な人情に訴える武器を頼りに、結局は韓国の国会を空転させることになった。軍事的にも北朝鮮との対立は予断を許さないし、経済状況などは悲観この上ない状況である。にも拘らず、国会は何もすることが出来ず、与党と野党は睨み合っているという状況だ。最近の韓国の報道は、遺族側の暴挙に厳しめで、与党側にエールを送る傾向が出てきたが、少し前であれば遺族側を諌める言動をすれば、ネット上のバッシングにさらされることになっていた。彼らは「正義」の名のもとに、遺族に厳しい者を「成敗してくれる」とばかりに胸を張っていたはずである。

しかしこれらの状況を冷静に見れば、慰安婦の問題にかなり近いものがある。慰安婦の女性たちが辛い生活を余儀なくされたのは事実であり、安倍総理もその点に関しては謝罪の意を示し、前向きに考えている。しかし、「慰安婦女性が可哀そうだ!」が真実なら、「日本国政府が法的責任を負うべき」と結論付けるのは余りにも論理の飛躍に過ぎる。法的には既に日韓基本条約で解決済みという立場を示している以上、慰安婦問題が解決していないというのであれば、その法的根拠を示して議論するのが筋である。何度も繰り返して言うが、ホロコーストと同列の「時効など存在しない、歴史上類を見ない人道上の罪」に相当する罪だから日本政府が責任を負うべきなのか、それとも全ての「虐殺」をも含めて清算したはずの日韓基本条約に含まれていない事象という論点で攻めるなら、アメリカの慰安婦像などは本末転倒である。つまり、法律議論すべきところを「法律議論では勝てない」から、飛び道具で戦おうという論調であり、それは「可哀想!」なら「何でもアリ」の理屈であり、セウォル号事件に酷似している。しかも、そこに本来は政治や法律の専門外の第三者(慰安婦問題では「挺対協」に相当)が国政に異常なほど影響力を与える立場になり、論理的な議論が出来ない状況に至り、国会(慰安婦問題では、日本と韓国の国際関係)が空転して修復不可能な状態に陥ってしまった。

「そもそも論」に戻るならば、遺族の悲しみややるせなさは大いに理解するところだが、その課題は政治や法律で解決すべき問題であった。それが、誰かが「政局」に利用しようと思い、「可哀想!」な側に寄り添えば人気が得られる(慰安婦問題では、日本を叩けば政権支持率が上がる)と悪用し、話がこじれた。つまり、「可哀想!」は国際問題や政治を正しい方向に導くには無用な概念であり、その「可哀想!」の背景にある「不法行為」こそが問われるべき問題である。感情と論理を切り分け、国家間や国家のあり方の議論においては、その優先すべきものが「論理」や「法律」であることを、今一度思い出さなければならない。

そのことを示す、良い事例だったかも知れない。韓国にもこの論調が届けばよいが・・・

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沖縄県民の真意を早期に調査せよ!!(スコットランド独立国民投票に思う)

2014-09-19 23:21:59 | 政治
昨日18日、スコットランドでは英国からの独立に関する国民投票が行われ、本日その結果が明らかになった。新聞では「反対派が大差で圧勝」と伝えるが、それは1%程度の僅差を予測していたが故の言葉の綾で、半年前に予想されたレベルで見ればかなり拮抗した結果となったのは驚きである。そこまでスコットランドがイングランドに対して鬱憤を募らせていたのかと思うと気分は複雑である。報道では、この動きが世界に波及する可能性に言及しており、沖縄を抱える日本においても無縁な話題として捉えられている。

少し時間を巻き戻してみよう。スコットランド独立の国民投票のニュースを最初に聞いた時には、「何故、北アイルランドでなくてスコットランドなのだ・・・」と思ったのが正直な感想である。サッカーが好きな人であれば、ナショナル・チームはイングランドとスコットランドは別だから、その意味で感覚的に(日本の都道府県や「道州制」などとは異なる)個別の「王国」としてのアイデンティティというものが英国国内で根付いていることが理解できるが、一般の感覚ではやはり分かり難い。IRAとの戦いの歴史を考えれば、北アイルランドが独立を目指すのは素人ながらに理解できるが、スコットランドの独立は、デメリットの方がメリットを遥かに大きいことが直感的には予想される。しかし、超楽観論者が「北海油田などの資源があれば高福祉国家が実現できる」と主張し、意外にその楽観論を信じた人達が多いらしい。その背景は、ナショナリズム的な感情論が及ぼす結果なのかも知れない。この辺は外部の者には理解が難しい。

一方、スペインのカタルーニャなども独立を求める声が大きいが、こちらはスペイン国内では経済力が強いエリアで、その意味ではスペインに残留する必然性は弱い。ならば、独立して良いかと言えばそう単純でもないだろう。例えば東京都の税収は膨大で、格差是正の名のもとに東京都の税金が大量に地方に還付されることを東京都は苦々しく思っている。ここで東京都が「日本から独立する」と言い出したなら、東京都的には経済的なメリットは非常に大きく、あくまでもシミュレーション的に考えれば住民投票をやれば独立が成立する可能性も無い訳ではない。しかし、国家における富の再分配を正義とみなすならば、東京都の独立は「富の囲い込み」にも相当するので、損得で国家のあり方を考えるのは如何なものかとも思う。ここまで来ると、何が「正義か?」は分からなくなってくる。損得では割り切れないほど、「膨大な損失を出してもナショナリズム的な感情論が優先する」という覚悟ができたとき、それが独立を決断する時だと考えれば、ナショナリズム的な感情論の扇動が一概に悪いとも言えないような気もする。ウクライナで起きていることも紙一重だと思うので、クリミアの決断だけが「悪」だというのもご都合主義的であろう。

ただ、この様なことは横において結果論で語るならば、スコットランドは独立を声高に叫ぶことにより、多くの収穫を得たのだと思う。キャメロン首相はスコットランド住民を思いとどまらせるために、自治権の拡大など、残留した際のご褒美を提案しており、スコットランド住民からすれば「勝っても負けても、失うものはなく得るものは大きい」のかも知れない。どうせ「賛成多数」など絵に描いた餅なら、少々、ブラフを利かせて条件闘争に入ろうとすら思ったのかも知れない。ただ、結果的には住民が思いの外反応し賛成票が予想より多くなってしまったので、独立賛成が過半数を抑える可能性もそれなりにあり、かなり危険な火遊びだったように私には見える。

さて、話を日本に移すならば、今回の事態を受けて「沖縄の独立」を声高に叫ぶ人が出てくることが予想される。もし、「沖縄の独立」が現実味を帯びてくれば、日本政府も本気で米軍基地の縮小を議論するようになるはずだと考える人は多いだろう。一方で、沖縄独立賛成派(というのが現実に存在するかは別として)の人ですら、本当に沖縄が独立する(出来る)とは思わないだろう。だからこそ沖縄が独立した際のリスクなど考えずに、あくまでも「ブラフ」として独立をちらつかせる戦略が魅力的に見えるのである。ただ、それが危険な非遊びであることは先ほど説明した通りであるから、この様な勢力が今後増長する前に、それなりに手を打っておく必要がある。

さて、そこで考えるのは、沖縄県民の生の声をこのタイミングで拾っておくことの重要性である。例えば、以下のような電話アンケート調査を大手新聞社に行ってもらいたいと思う。

=====以下、アンケート案=========
■全て回答は「Yes」または「No」でお答え下さい。
Q1). あなたは沖縄が日本国から独立することを支持しますか?
Q2). 軍事的及び経済的な損得勘定は抜きにして、かっての琉球王国の歴史などの経緯から、沖縄は本来は日本国から独立した国家であるべきだと思いますか?
Q3). 沖縄が日本から独立するか否かの判断において、独立後の沖縄単独の経済力がどの様になるかを考慮に入れるべきだと思いますか?
Q4). 沖縄が日本から独立するか否かの判断において、第2次大戦中の沖縄の不幸な歴史をあなたは考慮に入れますか?
Q5). 沖縄が日本から独立するか否かの判断において、米軍基地が沖縄に多数存在する事実をあなたは考慮に入れますか?
Q6). Q1でYesの方に質問します。仮に沖縄が日本国から独立した場合に、沖縄にある米軍基地を全て返還するように米国に求めることを支持しますか?
Q7). Q1でYesの方に質問します。仮に沖縄が日本国から独立した場合に、沖縄は米国、日本を含む他国と軍事的な同盟関係を結び、沖縄防衛の一端を他国に依存すべきだと思いますか?
Q8). Q1でYesの方に質問します。仮に沖縄が日本国から独立した場合に、沖縄が自国の自衛のための軍隊を持つことに賛成しますか?
Q9). Q1でYesの方に質問します。仮に沖縄が日本国から独立した場合に、中国の最近の拡張主義が沖縄の「国益」を損ねる危険性を感じますか?
Q10). Q7でYesの方に質問します。仮に沖縄が日本国と同盟関係にある場合、他国から沖縄への侵略に対し、日本国側が集団的自衛権を行使し沖縄のために戦うことに賛成できますか?
Q11). Q7でYesの方に質問します。仮に沖縄が日本国と同盟関係にある場合、他国から日本への侵略に対し、沖縄が集団的自衛権を行使し日本のために戦うことに賛成できますか?
Q12). Q1でNoの方に質問します。外交及び安全保障に関する国家専属の特別機能を除く内政上の「自治権」を、沖縄は日本政府から認められるべきだと思いますか?
Q13). Q12でYesの方に質問します。自治権の獲得に伴い、沖縄に高い経済的な独立性(補助金などに強く依存しない、沖縄県内での経済的自律性)を求められるたら、これを許容できますか?
==============================

私が思いついたのはこの辺だろうか?是非とも沖縄県民の生の声を聞いてみたい。

今後、沖縄の地方紙は世論誘導を更に先鋭化させることが予想される。そこでは多分、都合の良いことだけをつまみ食いする、恣意的な報道となるだろう。その様な報道との真の沖縄県民の声の整合性を図る上でも、早期の電話アンケートを期待したい。

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論理のすり替えに対抗し、論点整理を繰り返せ!!

2014-09-18 23:57:38 | 政治
少々くどくなるが、今日も慰安婦問題についてぼやかせて頂く。朝日新聞を擁護する人々(及び韓国や中国を筆頭とする反日家の人々)の困ったところは、「朝日新聞の捏造記事を(許せない!と)否定する行為」が、「慰安婦の存在そのものを否定する行為」と等価だとレッテルを張る点である。日本の中でも極右の人々はそう考えるかも知れないが、普通の日本人の9割以上は「慰安婦の存在そのものを肯定」しながらも、「朝日新聞の捏造記事」の悪質さを許せないのである。慰安婦が実在し、彼女たちが非常に辛い経験をしたことは、中国や韓国が極右と罵る安倍総理も何度も過去の発言の中で認めているところである。しかし一方で、朝日新聞が検証記事で宣言したように「強制連行を裏付ける証拠は存在しない」という事実もある訳で、にもかかわらず、20年以上の長きに渡り「強制連行」をあたかも存在するかのように報道し続けたその姿勢を我々も安倍総理も否定しているのである。この様に、何を「否定」しているのかを区別しない報道は、それ自体が新たな捏造である。

この様な論点をぼやかして有耶無耶にするのは朝日新聞の得意とする論理のすり替えで、その様なゲリラ戦法に我々は負けてはいけない。以下、池田信夫氏のアゴラでの記事を参考に、慰安婦問題の論点整理を別の切り口でしてみたい。まず、下記の記事を引用してみよう。

アゴラ2014年9月16日 池田信夫「人身売買の批判は「非歴史的」である

この記事では、元外交官の東郷和彦氏の著書「歴史認識を問い直す 靖国、慰安婦、領土問題」から引用する形で、国際社会において「強制連行の有無」がどの様に位置づけられて、どの様に議論されているかを紹介している。この指摘のある部分までは、先日のテレ朝の報道ステーションが行った「朝日新聞の慰安婦問題検証・訂正記事」に対する総括の中で東郷氏が語った内容と重複する。要は、国際世論は「強制連行の有無」など問題にはしておらず、「女性の人権蹂躙」が問題なのである・・・としている。報道ステーションでは多分触れていなかったように記憶しているが、(この著書の中ではこれに加えて)慰安婦の議論は「非歴史的(ahistoric)」であり、現在の価値観で過去を裁くという「遡及的」な要素を含んでいると指摘している。ちなみに、東郷和彦氏は時を同じくして下記の寄稿もしている。概ねこちらに同様の主張をしている模様であるので、興味があればこちらをご覧いただくと良い。

BLOGOS 2014年9月17日「【特別寄稿】慰安婦問題の現状と安倍新内閣におけるこれからの対応 - 元外交官・東郷和彦

話を戻せば、最初のアゴラの記事で池田氏は、「慰安婦問題」というよりも寧ろ「人身売買」というものの議論において、この様な価値観(または法律)の遡及的適用の正当性をどの様に考えるべきかという問題提起の重要性を指摘しているが、多分、凝り固まったクマラスワミ氏の様な方にどの様な指摘をしても、火に油を注ぐような結果になることは容易に想像できる。国際社会は論点が何処にあるのかが分かっていないから、「可哀そうだから助けてあげよう!」に対して「助ける必要はない」と聞こえるような論調を最初に耳にした段階で議論をシャットアウトし、その後の説明を聞かずに結論を導こうとする。実際、東郷氏の記事の中でも世界の大勢のものの考え方を、「アメリカ世論の決定項は、今自分の娘がそういう立場に立たされたらどう考えるか、そして『甘言をもって』つまり『騙されて』連れてこられた人がいたなら、それとトラックにぶち込まれた人と、どこが違うのかという立場に収斂している。」と紹介している。これは変な話で、「自分の娘が外国で騙され、売春婦に無理やりさせられた」なら、その国の政府のことを世界に向けて「ホロコーストと同じ、非人道的な残虐な国家!」と追及するかと言えばそんなことはなく、「騙した奴」を掴まえて徹底的に厳しい罰を与えるように求めるはずである。ここには国家は糾弾の対象にはならない。であるから、その様な非論理的な法律議論を前提にすれば、遡及適用の是非など全く問題とはならないのである。

だから議論のポイントとすべきところは、その様な遡及的適用とは別の点に絞られるべきである。それは何かと言えば、「物事の善悪を、定量的な物差しで議論すること」の重要性であり、さらには「定量的な罪状に見合った、妥当なペナルティの設定」を世界に求めるべきである。仮に旧日本軍の行いが悪いのであれば、その悪さを定量的に示し、その問題を解決に導くのに必要な適切な処罰のレベルを議論させるのである。例えば、人身売買を例にとれば、アメリカを中心とする世界の黒人奴隷制度の悪質さの程度を明確に示し、その悪質さからの救済のために必要とされる対処のレベルを議論するのである。日本やアジア諸国においても、借金の方に身を売られる若い女性は多かったから、その様な人身売買の悪質さを定量的に議論し、その悪質さに見合った処罰の方法について議論する。その様な流れのひとつとして、慰安婦問題もその問題の悪質性を定量的に議論し、同様にその悪質性に見合った処罰の方法、解決方法を議論していただくのである。ついでに言えば、韓国軍がベトナムで行った「ライダイハン」問題も、同様にその悪質さを定量的に議論し、その悪質さに見合った処罰の方法について議論してもらうのが良い。それを求めたハンギョレ新聞が右翼団体に恫喝され、何も言えなくなってしまったことも議論してもらえばよい。この様な定量的な議論であれば、その事実認定などを確認の上、証拠をもとに事実に相違なければ日本政府もその結果に異を唱えないとし、そこでの公正な議論を求めるのである。

この定量的な悪質性の評価というのが重要な理由は、例えば、刑法においては犯罪の悪質性に応じて懲役期間や死刑などのペナルティに大きな差がついていることに対応する。ここで「懲役1年以上は悪質な犯罪だから、全て(悪質さを丸めて)切り上げし、死刑に統一する」ということになれば、それは「死刑賛成論者」でも許容できない死刑制度になってしまうだろう。つまり、「1,2,3・・・、その他大勢」というように、低レベルなところで切り上げして全てを極刑で裁くとなればたまったものではない。逆に「切り捨て」されて強盗殺人も「懲役1年」にされてもたまらない。だから、微罪を1、強盗殺人を100とし、この間の1~100のレベルを線形に「罪状」と「ペナルティ」の対応付けをすることが、多くの国民の「妥当感」を得るために必要なのである。

しかし、例えば飲酒運転などの過失の程度が酷く、懲役5年などの実刑判決を受けた交通死亡事故加害者に対し、被害者遺族は「5年で満足できるか?」と問えば満足などしない。「死刑になっても許せない!」ぐらいの気持ちを持つ人もいるわけだから、その様な感情論に走る人は「定量的評価」を忌み嫌い、何処かで処罰の切り上げを期待するのが常である。しかし、その様な被害者感情に寄り沿い過ぎて「目には目を、歯には歯を」の精神で処罰をしていては、世の中はうまく回らない。だからこそ、公平な視点でみて「妥当感」の得られる定量評価が必要になるのである。

この様に見た時に、慰安婦女性に対してなされた犯罪性の定量評価を「犯罪の行為者」毎に、その「(犯罪行為の内容に見合う)与えるべき罰則」を定量評価する。その評価の妥当性を、被害者に寄り沿うのではなく法律家としての視点で評価すると、議論は公平に行われることになる。慰安婦の問題では、女性の親が借金の方に韓国人の女衒に娘を金で売り、その女衒が慰安所に女性を連れて行き、慰安所の管理者が女性を拘束して強制的に働かせる。当時も人身売買は犯罪だったが、それを取り締まるべき日本軍はその様な慰安所の管理者に時として便宜を図り、また性病の蔓延を防ぐために病気の検査などを指導する。ちなみに、この様な親が娘を金で売るケースは今では見られないが、自分の借金の方に、暴力団を介して風俗店で半強制的に働かせられるケースはいまだに珍しくはない。その様な現在進行形の犯罪行為とも重ね合わせ、その様な業者に対するペナルティを徹底するキャンペーンを世界的に行えば、それは「今、救うことができるかも知れない女性を救う」ことに直結し、有意義な提言となるだろう。

ちなみに、戦時中に行われた迷惑行為に対する国家賠償は既に中国、韓国共になされているから、戦時中の戦闘行為や付随する殺戮行為は既に精算済みと両国は認識している。だから、日本軍に何らかの犯罪性があったとしても、殺戮行為と同程度ないしはそれ以下の(通常の国家賠償・精算行為の範疇にある)犯罪行為については、既に請求権が消滅していると考えるのが世界的な常識である。だから、日本国への国家賠償を求めるのであれば、上述の「罪状」が普通の犯罪行為ではなく、歴史上類を見ない「人道上の罪」に該当することを示さねばならない。単なる犯罪行為に対する救済を求めるなら、河野談話や村山談話などを含む一連の日本政府の謝罪行動と、アジア女性基金での一人500万円もの補償、更には現役総理大臣の謝罪の手紙などを通じて、誠意ある対応を日本政府が行い続けたことを認めた上で、「これでも足りない」のであれば、どこがどの様に足りないかを明確にご指摘いただくのが我々の求めるところである。

ターゲットは欧米の良識ある方々で、この様な切り口を幾つか提示しながら、その食いつきを吟味して新たな作戦を練る必要があるだろう。

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そしてジャーナリストはダークサイドに身を落とす

2014-09-17 23:58:27 | 政治
今日の夕方、ジャーナリストの上杉隆氏が司会の某FMラジオを聞いた。彼の発言には色々と賛成できる部分と賛成できない部分があり、今日の発言の中には賛成できない部分が幾つかあった。今日は、この幾つかの点についてコメントしてみたい。

まず、説明するまでもないが上杉隆氏は鳩山邦夫氏の公設秘書やニューヨーク・タイムズ記者を経験した後、フリーランスとして自由報道協会を立ち上げ、大手メディアによる記者クラブ制度を批判してきた。これは大手メディアの取材機会の独占に対する批判であり、ある種、権力への挑戦とも言える行動であった。今から思えば朝日新聞などは、自ら手にした権力を間違った方向に利用していたことが明らかになっており、その様なメディアという権力への果敢な挑戦は評価されてしかるべきであった。しかし、民主党政権になって以降、かなり民主党には甘いバイアスがかかるようになり、民主党を支持する朝日新聞とも懇ろな関係を醸し出していた。今日の番組でもその傾向は変わらず、安倍政権には厳しく、朝日新聞にはお手柔らかという感じだった。

朝日新聞の度重なる捏造・誤報問題の本質は、記事の取材の前に既に「社としての結論」ありきで、記事はその結論を補強する事実のみに着目し、結果的に恣意的に事実を捻じ曲げてある方向に誘導しようとする姿勢である。つまり、本来は是々非々で事象を吟味すべき立場のジャーナリストが、是々非々の厳しい態度を捨て去り、自分の信じることだけが「真実」という報道姿勢を取ったことである。世界標準では、この様な「自分の主義主張を一方的に主張する」ことを「プロパガンダ」と呼び、決して「報道」の名には値しない。当初は既成メディアに対して「本当にそれでいいのか?」という常識を疑うことから出発したはずのジャーナリストが、いつの間にか「プロパガンダ」的な行動を志向するようになってしまっていた。

例えば幾つか例を挙げてみよう。この日の特集は、増田寛也元総務相が以前にまとめた自治体消滅の危機に関する「地方消滅論」についての是非を問うものであった。私としては、この「地方消滅論」の評価モデル(前提条件など、評価方法全般を意味する)が正しいかどうかはそれほど興味はなく、増田氏は将来訪れる可能性のあるリスクに対する警鐘を鳴らすことが目的だから、当然ながら悲観的なモデルを導入するのは当然で、実際にはもう少し楽観できる可能性は大いにある。しかし、ここではその様な評価の目的は横に置いておき、性悪説に立つならば、これこそが安倍政権が地方に「バラ撒き政策」を行うための世論誘導策であると断定的に扱っていた。例えば、石破茂氏が付いた「地方創生相」という役職を「単なるお飾りの役職」であると断定し、「お飾りの役職に全力を尽くす者などいるはずがない」、「全力を尽くさないのだから成果が上がる訳がない」、「結果的に、バラ撒き政策に成らざるを得ない」という論調で駄目出ししていた。しかし、ご存知の方も多いと思うが、「地方創生」が成功するか失敗するかは「バラ撒き」をするかしないかにかかっており、バラ撒きした途端に「地方創生」は失速するというのは、首相官邸の共通認識である。石破氏のブログで最近、冨山和彦氏に会って話を聞いたことを紹介している。この冨山氏は「なぜローカル経済から日本は甦るのか」の著者で、先日はBS朝日の激論クロスファイアにも出演していた。その番組を見て私も思わず膝を打った口なのだが、ローカル経済の立て直しの重要性と、そのための具体的な処方箋を番組中で幾つか紹介していた。石破氏もこの辺の話を具体的に聞いて参考にしたのだろう。言うまでもなく、「バラ撒き」はイカン!!というのは常識として語っていたはずである。

勿論、国会議員の多くは利己的で、官僚の多くも自らの省の権益を拡大するために、「地方創生」の名のもとに分捕り合戦を目論んでいるのは疑いもない事実である。自民党の中には利益誘導で選挙に勝ってきた議員が多いのも事実である。しかし、安倍総理も石破氏も共に、何故、5年前に民主党政権に政権を奪われたのかを良く知っているし、安倍総理に至っては絶体絶命の政治生命の危機まで経験している訳だから、その原因を生んだ「利権型政治」を排除した政策の実現を(実際に実現できるかは別として)目指すのは当然である。そして、石破氏にしてみれば、2年前にあと少しのところまで手が届いていた総理の座を、本当に現実のものとしたいのならここで成果を上げるのは必須であるはずだから、全力を尽くさざるを得ないはずである。そして、その結果として「地方創生相」は「単なるお飾りの役職」ではないことを証明することは可能だし、大臣政務官には小泉進次郎氏も割り当てられているから、情報発信力としては他の省庁の比ではない。

この様に、相当ハードルが高いのは事実であるが、「お手並み拝見!」というのがニュートラルな立場のジャーナリストのあるべき姿で、どうせ失敗するというのであれば、我々の知らない新たな上手く行かない証拠の暴露ぐらいは必要である。それが、最初から結論ありきの立場を取っているから、この様な結論を導いてしまうのである。

ちなみに、この番組では先日の朝日新聞の吉田調書記事の撤回に関する朝日新聞社長の謝罪会見に関するコメントも聞かれた。上杉氏は「朝日新聞を擁護する訳ではないが・・・」と前置きして説明していたが、それは単なる擁護以外の何物でもなかった。典型的なのは池上彰氏の記事不掲載に関する話題で、「池上彰氏は記事中で『謝罪すべきだ』としていたが、謝れば済むという風潮はおかしい」といったニュアンスの発言をしていた。微妙なので補足すれば、「慰安婦報道において誤りに至った背景の検証が重要であり、今回は謝罪は必要ない」ということらしい。聞きようによっては朝日新聞の検証が足りないことを批判している様にも取れるが、私の感覚では「朝日新聞に『謝れ! 』と言っている連中はけしからん!」というニュアンスに聞こえた。しかし、池上彰氏の掲載された「新聞ななめ読み」の記事を読めば分かる通り、池上氏はその記事を通じて「検証の足りなさ」「取材で裏付けが取れなかったのに放置した理由」「少なくとも『慰安婦』と『挺身隊』の混同は1993年に自覚していたことが朝日新聞の検証記事に明記されており、訂正まで20年以上かかった理由の説明」などを求め、これが記事の核をなしています。そして、検証が不十分な上に「他社も過ちを犯した」と自己弁護しているのに呆れ、「そんなこと言っている暇があれば謝れよ!」と謝罪を促しているのである。「謝れば済むんだから、謝っちまえよ!」ではなく、「やるべきこと、検証して明らかにすべきことをちゃんとやった上で、謝罪も合わせて行いなさい」と言っているのである。ちなみに、産経新聞を始めとする報道陣は「謝れば許す」などと誰も思っていない。「謝れば済むという風潮は良くない」というのは事実を適切に表していない。

「朝日新聞を責める奴は悪い奴に違いない!」という結論が最初にあり、その結果としての論調があの様な内容になっていたのである。

ところで、今更ながら、何故、朝日新聞が吉田調書や慰安婦報道で捏造を行ったのかを考えてみる。「最初に結論ありき!」という説明はその通りだが、もう少し別の表現をしてみよう。ひとつには、「私は『真実』を知っている。だから、その『真実』を伝えるのが私の使命」という発想があるのだろう。「結論」というのはどちらかと言えば「会社の方針」的なニュアンスが含まれるが、「真実」というのは「朝日新聞社員」というバックグラウンドとは関係ないものである。「会社の方針」と言われれば「それって、おかしくない?」と気が付けても、「真実」と確信してしまうと救いがない。これは既に「宗教の世界」の範疇で、洗脳されたら如何ともしがたい。何処かで洗脳されてから朝日に入社するのか、入社した後で洗脳されるのかは分からないが、既に宗教論争的だから救いようがない。もう一つの見方は、「目的が正しければ、手段は何を使っても良い」というマキャベリズム的な発想である。この二つは別物ではなく、ある物の表と裏の関係にある。「真実の普及」という「目的」は絶対的に正しく、宗教的な盲目さの前では「手段は目的の前では重要ではない」と信じ込んでしまう。中国人や韓国人はこの「目的が正しければ、手段は何を使っても良い」という考え方が大好きで、「愛国無罪」などのスローガンはこれを具体化したものである。

しかし、冷静になって考えれば、民主主義とはその様なものではない。民主主義とは目的ではなく手段であり、長い歴史の中では我々は多くの間違いを経験しており、それは「絶対的に正しいと信じるものが、時として誤っていることがある」という真理を手に入れ、その盲目的な思い込みにブレーキをかける手段として、様々な「手続き」をルールとして定め、それが民主主義としての体系をなしているのである。そして、民主主義のコストに時に悩まされるが、それすらもポピュリズムなどの流れを押し留めるスタビライザ的な意味合いがあるのである。したがって、「目的」の正しさを追求するのではなく、「手段」としての「手続き」の正しさを求めるのがジャーナリズムの掟であるべきである。

しかし、彼らはその掟を捨てて、報道のダークサイドに身を落としたのである。それは民族の純潔化という目的のための手段としてユダヤ人の虐殺を肯定するロジックに通じる。今こそ「手続き」の何たるかを大切にし、最初に「結論ありき」ではなく、「証拠に基づく論理的な議論」という手続きに帰るべきである。

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策士、策に溺れる

2014-09-16 21:50:16 | 政治
多分、このタイトルを見て多くの方が想像される記事は朝日新聞の「吉田調書」の記事だろうが、私の意図している答えは違う記事についてである。以下の記事を見て頂きたい。

産経ニュース2014年9月15日「慰安婦聞き取り映像を公開 韓国団体

これは1993年7月に行われた(河野洋平官房長官談話の作成過程で日本政府が実施した)元慰安婦の女性に対する聞き取り調査の映像の公開に関するニュースである。元々は非公開ということであったので菅官房長官は不快感を表明したが、本質はそんなところにはない。これは16人に対して実施された聞き取り調査の中の一部の女性に対して行った映像を編集したもので、17分間に短縮されて公開されている。単純に考えて、一人に20~30分ぐらいは聞き取り調査を行っているであろうから、全体の調査を1/10以下に圧縮する編集が行われたことになる。ここでは2人の女性が「日本の巡査と朝鮮人に両腕をつかまれ連れて行かれた」とか「言うことを聞かないからといって腕をねじ曲げられた」と話すシーンもあるそうだが、その聞き取り調査に係った「太平洋戦争犠牲者遺族会」が最近の安倍政権の動きに業を煮やし、「ほうら、こんなに証拠があるんだよ!!」とカードを切ってきた状況である。

しかし、これって何処かで見た光景ではないか・・・??

そう、朝日新聞が満を持して切った「吉田調書カード」そのものである。今、日本では何が問題になっているのを彼らは理解していないらしい。いま日本で問題になっているのは、膨大な証拠資料の中の一部分をつまみ食いし、それは「事実」なのだから仮に内容が恣意的に編集されていたとしても、「事実=真実」として受け入れるべきだ!という朝日新聞の主張に対し、「恣意的な編集」はあってはならないものであり、証拠を出すのであれば編集する前の全てを公にし、それを全ての人が客観的に評価しましょう・・・という報道姿勢のあり方が問われているのである。そして、少なくとも日本ではこの様なコンセンサスが出来上がっているし、これは欧米のメディアにおいても同様であるはずである。当初、日本政府は「吉田調書」を非公開としたが、恣意的な編集がなされた報道を受けて、最終的には公開に踏み切らざるを得なくなった。

多分、言うまでもなく産経新聞や読売新聞は、日本の朝日新聞の犯した失敗を前面に出しながら、「一部を抜粋した映像では全体が把握できない。そこまで公開するのであれば、そこに恣意的な操作がなされていないことを示し情報の公平性を期すためにも、全ての映像を編集なしで公開すべきである!」と求めるはずである。そして、「日本政府の糾弾のためにも、全てを洗いざらい公開して、欧米の第三者に判断を委ねるのが近道であるはずだ!」と記事を結べば良い。そして、朝日新聞に対し紙面上の公開質問として、「朝日新聞も、慰安婦問題の究明に資すると思われる全ての情報の公開に賛同してもらえますか?」と記事を打てば、ここまで追い詰められている朝日新聞は、自らの犯した過ちと全く同じ過ちが裏にあることが疑われる今回の事態に、「No!」とは言えないはずである。

そして、昨日のブログにも書いた通り、朝日新聞が「映像の全面公開を要求!」との記事を発信することになれば、その記事は米国のニューヨークタイムズや英国のファイナンシャル・タイムズなどの海外の反日メディアでも引用される可能性が出てくる。これらの海外メディアは「まさか、韓国側の人権団体が捏造などしている訳がない」と感じているから、素直に「情報を公開し、早く、日本政府にトドメを刺してしまえ!」と訴えるに違いない。こうなれば韓国側も情報公開に踏み切らずにいられなくなる。仮に日本政府がこの映像を入手していたなら、日本政府サイドから公開される可能性もあり得るだろう。
そうなれば、そこには韓国側に都合の悪い事実も多く含まれる一方、逆に「強制連行」を裏付ける証言がないことも明らかになるだろう。これらは初期の頃の証言であり、まだ、慰安婦の彼女たちが様々な悪知恵を吹き込まれるギリギリ前の状況だと思われるから、証拠能力的にも高いものである。その後の彼女たちの証言との整合性や、彼女たちの出身地での裏取り調査なども検証できるようになるから、それがどれだけ説得力を持つのかも議論ができるようになる。どちらかと言えば、悪質なのは日本軍というよりも人身売買が横行した韓国国内の業者という側面も洗い出されるかも知れない。

繰り返すが、これは千載一遇のチャンスである。朝日新聞の度重なる失策を他山の石とせず、まさに「策士、策に溺れる」状況が再現されたのである。このチャンスを日本のメディアは是非ともモノにして欲しいと思う。

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新聞の自殺

2014-09-16 00:33:02 | 政治
最初に告白するが、このタイトル「新聞の自殺」は下記のブログのパクリである。今日は、慶応義塾大学教授の細谷雄一氏のブログを引用しながらコメントをしてみたい。

細谷雄一の研究室から2014年7月12日「新聞の自殺

大分前の話であるが、私はこのブログを最初に読んだとき、その「的を得た指摘」に非常に感動した記憶がある。7月の記事だから、今回の慰安婦や吉田調書がらみの朝日新聞の悲壮感漂う凋落の予感さえなかった時期で、その時期に「新聞の自殺」というのは少々強引なタイトルと感じる人もいたかも知れない。しかし、ここに書かれていることは吉田調書の捏造と根っこは同じ何かを持ったものである。ここで議論の対象としているのは集団的自衛権に関する政府の閣議決定であり、朝日新聞を代表とする多くの報道機関が「平和主義の終わり」、「立憲主義の否定」と新聞に大見出しを打った。このブログの最初の問題提起の部分を引用させて頂く。

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たとえば、朝日新聞の7月3日付けの記事では、「安倍首相は、憲法の柱である平和主義を根本から覆す解釈改憲を行った」と書かれております。また、7月2日付けの社説では「個人の多様な価値観を認め、権力を縛る憲法が、その本質を失う」と記されています。さらに7月2日の別の記事では、「専守防衛から大きく転換」と題して、「専守防衛を貫いてきた日本の国のかたちを、大きく変えるものだ」としています。
また東京新聞では、7月2日付けの社説で、「9条破棄に等しい暴挙」というタイトルで、今回の政府の決定は「先の大戦の反省に立った専守防衛政策の抜本的な見直しだ」と述べ、また「憲法によって権力を縛る立憲主義の否定にほかならない」といています。
本当にそう言ってよいのでしょうか?
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ここで、最後に「本当にそう言ってよいのでしょうか?」と問われているのに対し、多分、朝日新聞は大きな声で「いいんです!!!」と返すであろう。しかし、このブログではこの文章に続けて次のように書いている。

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もしそうだとしたら、すでに日本は「平和主義国家」ではない、ということになります。また、一度の憲法解釈の変更によって、「立憲主義」が失われたことになります。さらには、日本はもはや「専守防衛」ではない、ということになります。本当にそう、断言できますか?
これらをあわせれば、日本はもはや、平和主義国家でなく軍国主義国家であり、立憲主義国家ではなく専制主義国家であり、専守防衛ではなく侵略国ということになります。朝日新聞や東京新聞でこれらの記事を書いた方は、7月1日の閣議決定以後、日本という国を紹介するときには、「安倍政権での7月1日の閣議決定以後、日本はもはや平和主義でも立憲主義でも、専守防衛でもありません。軍国主義で、専制主義で、侵略国になりました」と書かなければなりません。そうでなければ、それを書いた記者たちは、ウソをついたことになります。幽霊がいないのに、「幽霊がいる!」と叫んでいることになります。
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繰り返させて頂けば、朝日新聞に代表される報道機関が「日本という国は軍国主義国家であり、専制主義国家であり、専守防衛を否定する侵略国である」と国際社会に記事を発信し続けることに対し、「あなた方は、その記事の責任が取れるのか?」と指摘しているのである。当然、その様な虚偽の記事の責任など取れるはずがない。だから、彼らの言い分は「『軍国主義国家』ではなく、『ちょっと平和主義国家ではない』と言っただけ」「その主張はあくまで日本国内向けであり、海外にどの様に発信されるかは我々の責任ではない」といったところだろう。しかし、慰安婦問題にしても吉田調書問題にしても、彼らのいう様な「日本国内向け限定」の記事ではなく、事実は世界向けの記事を発信した以外の何物でもない。しかし、木村朝日新聞社長の記者会見でも、自分たちの誤報・捏造記事が世界においてそれが事実として独り歩きし、取り返しのつかない事態になったことの責任を取ろうという発言はなかった。実際、わたしの好きな「ぼやきくっくり」さんのブログ記事「朝日の英語版慰安婦検証記事は人目につかない場所に埋めてある」に指摘があるが、朝日新聞は慰安婦報道の検証・訂正記事を英語化してネットで配信しているが、これは言い訳としての英語版記事で、これは日本語のサイトから辿って行って初めて辿り着ける記事であり、英語ネイティブの人向けの朝日新聞英語版「The Asahi Shimbun AJW」には記載がなかったという(最近では、目立たない個所に日本語版「朝日新聞」の英訳記事へのリンクが張られたという)。

つまり、国際社会への誤った情報の拡散に対し、それを訂正するための努力はゼロに等しく、その国際社会に何かを発信することは自分たちの義務とは全く思っていないらしい。

しかし、実際には彼らに記事訂正の義務が存在するのは明らかである。例えば、昨日9月13日のフジテレビの「Mr.サンデー」の中で、木村太郎氏が最後にコメントで「ニューヨーク・タイムズは朝日新聞と提携してるんですよ」と発言している。この番組ではそこまで突っ込んでいないが、ネット上での指摘を受けて調べてみると、ニューヨーク・タイムズの東京支局と朝日新聞社東京本社の住所は共に「〒104-0045 東京都中央区築地5丁目3-2」となっている。つまり、朝日新聞東京本社ビル内に部屋を借りてニューヨーク・タイムズの東京支局を運営している訳である。私はNYTでもWSJでも、海外の新聞で日本の記事が掲載されると「まず、執筆記者名を確認する」ことにしているが、反日的記事の大半は日本人名で記事が書かれている。つまり、海外のメディアと共謀して日本を貶める記事を発信し、それでいて「海外メディアがどう報じたかは、我々の責任ではない」と白を切る。

最初に紹介した細谷雄一氏のブログの後半部分には、朝日新聞を代表とする集団的自衛権がらみの報道を中心に、「事実を報道する報道機関」という立場を捨て、自らの主張に沿って、事実を適宜脚色し、あたかもそれが真実と勘違いする様な誘導報道に固執すれば、それは国民の信頼を失うと警告している。それはまさに、慰安婦報道や吉田調書において問題視された論点であり、その体質はたった二つの「慰安婦報道」と「吉田調書報道」だけに限定された話ではない。全ての反政府的報道、全ての反原発的行動、全ての反日的ネガティブキャンペーンが同一の根っこに基づいている。

しかもそれは朝日新聞だけではなく、毎日新聞や東京新聞も同様である。例えば、吉田調書問題などは裁判で争えば明らかに負ける様な捏造や名誉棄損記事であったのだが、裁判では勝負にならないような論点では開き直ることができる。例えば、世の中には様々な意見の相違があり、言論・表現の自由により「日本は軍国主義国家になった」と言っても裁判で負けることはまず考えられない。しかし、それが「単なるネット上での個人のボヤキ」であれば全く問題がないにしても、多くの国民に購読されているメジャー新聞の紙面に記載されれば、それは「嘘も100回言えば本当になる」の言葉通り、(裁判の結果には関係なく)社会的な大きな損失を生じることに繋がる。厄介なのは、多くの読者はそれを「プロパガンダ」とは気づかずに「真実」として受け入れて、長い間に「洗脳」されることになる。

報道の自由や言論・表現の自由は確実に守られなければならないが、「プロパガンダ」を「真実」と思わせて報道する姿勢にメスが入れられないのは困る。しかし、ここで本当にメスを入れてしまうと、それは「新聞の死」を意味する。だから、一連の報道は「新聞の自殺」なのである。

本当は、報道機関がもっと敏感にならなければならないことなのだが、彼らには自分事の様にその危機を感じることが出来ないらしい。自室で練炭を燃やし、直ぐそこに一酸化炭素が忍び寄っているのに、それに気が付かないで「暖かいね!」と喜んでいる様な状況だ。人はそれを「自殺」だと認識するのに・・・である。

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「イスラム国」と「イスラエル」の類似点?

2014-09-15 00:38:18 | 政治
今日は批判を受けそうなコメントを書いてみる。モノには複数の見方があるという例である。

報道によれば、イスラム教スンニ派の過激組織「イスラム国」が、英国人の人道支援活動家の首を斬り殺害したとする映像をインターネットで公開したという。キャメロン首相が「悪魔の仕業だ」と非難するのは当然だし、この様な野蛮な「イスラム国」に対してオバマ大統領がイラクに続きシリア国内での空爆を承認し、「目的は明確だ。包括的・継続的な反テロ戦略を通じて、ISIL(イスラム国)を弱体化させ最終的に破壊する」と強調するのもうなずける。

先日のテレビ朝日の「ここがポイント!!池上彰解説塾」だったと思うが、「イスラム国」をテーマに取り上げ、何故、多くの外国人がイスラム国に集まり、テロの支援をしようとするかなどに解説があった。宗教的な思想による部分以外にも、その財力の大きさが無視できない要素であり、海外から移住してやってくる人々に給料的な経済援助までしているという話だった。驚くべきことは、その様な資金源が何かと言う解説で、私はてっきりアルカイダの様に、サウジアラビアとかどこぞの国の石油王などが資金援助を行っているとか、その様な背景を想像したが、実際にはイスラム国がイラクやシリアの都市の銀行を襲撃し、そこに預金されていたお金を全て奪い、それを財源の一部に充てているということだった。この様なお金で当座をしのげば、行く行くは石油採掘施設を制圧してそこからの上がりも期待できるので、その様な目先の現ナマが重要であったということらしい。この様に見て行けば、最初の野蛮な行為はとても許せないし、支配地域の子供たちに「聖戦」を名目に「殺せ!」と教育しているところなど、突っ込みどころは満載で、オバマ大統領の主張は正しいと多くの人が感じるところだ。

しかし、この様に考えながら一瞬疑問が頭によぎった。世界史は苦手なので詳しいところで認識の誤りがあれば指摘して頂きたいのだが、この「イスラム国」は、何処かイスラエルに似ているところがあるような気がした。

ナチスドイツのホロコーストに限らず、ローマ帝国に国を追われたユダヤ人は、世界に散り散りになりながら所々で迫害を受けていた。それでも「ユダヤ人」との意識を強く持ち、19世紀頃から「ユダヤ人国家」の再興を目指すシオニズムの流れが強まった。悪名高きイギリスの2枚舌、3枚舌外交の中でユダヤ人とパレスチナの人々は翻弄され、ユダヤ人とアラブ系のパレスチナ人の双方に委任統治の約束をし、すなわち建国を認めるかのような行動を取ったので、これが元でユダヤとパレスチナの確執が強まる。その後、第2次世界大戦でのホロコーストを経験し、「やはり、ユダヤ人国家を建国するしかない」という思いが強くなり、ナチスに追われたユダヤ人などを含めてパレスチナへの避難がきっかけで、第2次大戦後にイスラエル建国へと流れて行く。国連での仲裁も色々あったが、イスラエル独立宣言言後のアラブ系諸国によるイスラエルへの攻撃(第1次中東戦争)を撃破し、その後も何度もの戦争に勝ち続け、現在に至っている。つまり、元々の住民が革命・クーデターなどでイスラエルの地を支配し続けているのでもなければ、近隣諸国から現在のイスラエルに侵攻した訳でもない。通常、国と国との戦争によって領有権の変更が行われることは常識的にみられるし、その様なケースであればその国の領土の正当性は国際法的な視点で議論することは可能である。しかし、元々は存在しないバーチャルな「仮想国」としての存在がある日突然、世界地図上に現れた時、その国家の正当性を図る物差しは存在しない。アラブ諸国の多くの国々がイスラエルの存在を否定的的に捉え、地政学的に見れば完璧に四面楚歌状態であるにも関わらず、アメリカを筆頭に財をなしたユダヤ人の主張を受け入れる形で、イスラエルのパートナーとしての支援を行い、国連への国家承認でもアメリカは最初に承認を行っている。アメリカや西欧諸国の指示を得て今現在も国家が存続しつづけているが、元々は国土を持たないバーチャルな国家的存在であったのが、パレスチナの地を奪い、そこに強引に建国したことになる。

これに対しイスラム国も同様で、宗教という概念で強く結びついたイスラム教スンニ派の過激派組織がバーチャルな「イスラム国」を名乗り、別に「ここが俺たちの領土!」という宣言をするというよりも、バーチャルな存在とリアルな存在の接点として至る所で襲撃を行い、実質的な占領地が実効的な国家の「領土」が目に見える形で現れるようになる。別に民族を強く意識する訳でもなく、世界各国から多くの若者がこの地をめざし、そこで兵士となって外国と戦うようになる。宗教的な色彩と民族的な色彩という差異はあるが、「バーチャルな国家」が現実世界に急にリアルに表れた時、その存在を裁く世界的なコンセンサスを得られたルールというのが存在しない以上、アメリカや欧州の一方的な主張で物差しを設定しようとすると、それはイスラエルの建国の再来として、世界がより混沌とする様な気がする。

幸いなことに、イスラム世界の中でもスンニ派と対立するシーア派などの勢力もあるし、その過激さから冷めた目で見ている勢力もあるから、「イスラム国」がアラブ地域を席巻するという様なことにはならないだろう。しかし、イスラム諸国内での対立・勢力均衡による疲弊を期待したいところだろうが、勢力均衡となるには現状はバランスが悪く、少しばかり空爆を行うとともに軍事的スペシャリストをイラクに派遣して指導するなどしないと、その勢力均衡が図れない悩ましい状況でオバマ大統領は空爆を決断することになる。しかし、元々は「イスラム国」の勢力もアメリカから軍事支援を受けていたりした過去もあるから、昔のイギリスの2枚舌外交的なご都合主義は否定しきれない。ウクライナが毒ヘビと毒サソリの争いであるなら、この「イスラム国」を取り巻くゴタゴタも、綺麗事で済むような単純な話ではなく、色々と泥臭い所もあるのだろう。

私的には、オバマ大統領は、この様に「アメリカ(+欧州)」対「イスラム」の構図を明確にするような戦略を取るのではなく、対立は継続しながらも水面下での行動を中心に行い、アメリカだけが突出する構図を最大限抑え、中国の新疆ウイグルのイスラム系の人々への弾圧をきっかけに「中国」対「イスラム」の構図も最大限利用し、「イスラム国」がアメリカや欧州、ロシアや中国に加え、イスラム教シーア派やその他のイスラム勢力とも等距離で対立し、世界レベルでの勢力均衡による疲弊を狙うべきだと思う。

素人なので明確な答えは分からないが、あまり「アメリカ的正義」を前面に出し過ぎるのは得策ではないと思う。イスラエルの歴史がそれを物語っている様な気がする。

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朝日記者の国語力を低下させた「洗脳」の犯人は?

2014-09-14 00:47:52 | 政治
今日、あることに気が付いた。実は朝日新聞の木村社長が記者会見を行っていた時間、BSフジのプライムニュースで「吉田調書」問題が特集されていて、そこには福山哲郎元官房副長官やジャーナリストの門田隆将氏が出演していた。その中での福山元官房副長官の発言に「おやっ?」と思わせるものがあった。その点について今日は指摘しておきたい。

まず、下記の指摘の動画は下記のサイトで見ることが出来る。

You Tube「プライムニュース 140911 part3


この番組でも朝日新聞が捏造した「福島第一原発の作業員の90%が逃げ出した」という部分を繰り返し深く掘り起こしていたのだが、朝日新聞が追い込まれた事の顛末を既に知っているから、福山元官房副長官にしても「逃げ出したか逃げ出していないか?」ないしは「命令違反か、命令違反でないか?」については全く興味がないとし、その点は完全にスルーしていた。しかし、彼はある部分に非常に執着をもって熱っぽく語っていた。それは、「事実として・・・」と何度も繰り返しながら語られていたので、非常に思い入れがある、これこそがポイントであると言わんとばかりの発言であった。

その発言とは、3月15日の福島第1原発2号機のサプレッションプールが欠損し、大量の放射性物質が放出された前後の所員の行動と吉田前所長の気持ちを代弁したものである。吉田調書での発言を引用する様な趣旨で、吉田所長が第一原発の周辺での待機を本来は指示しており、これの意図するところは原発がまさに暴走しそうな状況にある中で、何か事が起こったら色々とやって欲しいことが多々あったのだが、結果として所員たちがF2(福島第2原発)に行ってしまたが為に、やって欲しいことがあっても対応できない状況に追い込まれていた。そして、所員がそのF2に行っている間に2号機のサプレッションプールが欠損して、3/11~3/14の間には見られなかった、全く取り返しがつかない膨大な量の放射性物質がまき散らされてしまった。「これは紛れもない事実である・・・」という内容であった。

この様に聞けば誰もが、「所員が命令違反かどうかは知らないが、F2に行ったので3/15の放射性物質の大量放出が止められなかった」という趣旨だと勘違いしてしまうところである。女性キャスターはCMを挟んだ後でこの点を重要視し、何度も繰り返して「先ほど、この様に言いましたよね・・・」と聞き直した。その都度、福山氏は「そうは言っていない」と繰り返し、門田隆将氏も事実関係の訂正に努めていた。福山氏は劣勢に置かれて繰り返し否定したが、話を整理しながらも「所員がF2に退避した」「それは吉田所長の意図することではない」「何か事が起きた時に、吉田所長には所員たちにやって欲しいことが色々あったはずである」「所員がF2に行っている間に2号機から大量の放射性物質がまき散らされた」という断片的な「事実」を「事実」として受け止めるべきであることを主張しようとしていた。確かに、この断片的な「事実」は「事実」であることは間違いし、この事実の羅列には「命令違反」とか「逃げた」という表現はない。こう聞くと、朝日新聞の様な明ら様な捏造と非難される筋合いの話ではないのだが、しかし、この事実をどの様に繋ぎ合わせるかは注意が必要である。この様な「事実の並び」は、明らかに聞いている者をある方向に誘導する悪意が含まれている。

本当の「真実(≠事実)」とは、吉田前所長は3月15日に起きたような大量の放射性物質の放出と言う様な危険な事態が起きることを想定し、(門田氏の言葉を借りれば)「非戦闘員」である女性や事務職の人々をF2に退避させるタイミングを見計らっていた。その為の議論もしていたし、その退避の際の移動手段としてのバスの手配も指示していた。それを熟知していた所員は、その指示がいつなされても良いように常に意識し、吉田前所長が曖昧な発言をした際に誤解して、「F2へ行け!」とバスの運転手に指示してしまったのである。門田氏の話では、吉田前所長らは3月11日から次から次へと難題が押し寄せてきて、睡眠時間が全くないような状態であり、「打ち合わせ等で必要性がない場合には、お互いに『声をかけない』」という約束をし、緊急を要しない時間を1分でも見つけて机にふさり、30分とか1時間と言う短い時間の睡眠を確保していたという。100時間近くに渡り殆ど徹夜をし、且つ、精神的に追い詰められると共に肉体的にも負担がかかる状態が続き、意識がお互いに朦朧とした中で曖昧な発言や伝言ミスがあったとしても、それは「極めて当たり前」の結果である。極限状態に置かれていたのは事実である。そんな中で2号機のサプレッションプールの圧力が下がった。誰の目にも、膨大な量の放射性物質が大気中に放出されたのは明らかである。放射性物質は大気に乗って拡散するから、その圧力低下から極短時間で放射線量が急激に上がるのは、現場の所員なら誰でも分かることである。吉田前所長の退避の指示が、圧力低下の前になされたのか後でなされたのかは分からないが、少なくとも防護服と防護マスクの様に放射線の遮蔽機能を持たない状態で屋外にいたら、下手をすると数秒で死に至るほどの放射線量を受けていたかも知れない。

つまり、「真実」を伝えるために補足の言葉を加えるなら、「それは(吉田前所長は退避指示を出す前から『非戦闘員』のF2への退避のタイミングをうかがっていたのだが、F2への退避タイミングと退避者の具体的な人選の一部が)吉田所長の意図することではない(ので当初は『しょうがないな・・・』と思ったが、それは意識が朦朧とする正常な判断能力がなかった時の感想である)」「何か事が起きた時に、吉田所長には所員たちにやって欲しいことが色々あったはずである(が、それは放射線量が急激に跳ね上がった時にまで何かをしてもらうことを意図しているのではなく、線量が高い時には免震重要棟内ないしはF2にて待機し、線量が低下して作業できる体制になってから作業をお願いしたいと思っていた)」「所員がF2に行っている間に2号機から大量の放射性物質がまき散らされた(のだが、これは所員が居なかったから事態が悪化した訳ではないし、仮に居たとしても高線量時には何も出来なかった)」ということになる。

つまり、福山氏は「所員は命令違反ではなかったかも知れないが、吉田前所長を困らせ、非常に危機的な状況に導く危険性をはらんでいた」という意識を強く持っており、これを周りの人に吹聴しようとしていた訳である。容易に予測できるのは、福山氏を始めとする当時の首相官邸メンバは事故当時に東電との間で強烈な不信感を持っており、何処かのタイミングでF2に退避した班長(GM)クラスの所員を吉田前所長が呼び戻すのを見て、「何か裏にあるに違いない」と感じたのだと思う。そして、政府事故調の調書を手にする権限を当時の首相官邸は持っており、福山氏(ないしは他の誰か)は吉田調書を読む中で、所長の意にそぐわない退避が行われていたことを知ったのだろう。そして、「所員がF2に退避した」から「所員がF2に行っている間に2号機から大量の放射性物質がまき散らされた」までの間のストーリーを書き上げ、そのストーリーを朝日新聞の記者に何度も語って聞かせたのだと思う。その様な洗脳の元、何処かのタイミングで「吉田調書」を朝日新聞にリークし、「これは非公開で機密性の高い資料だから、他の報道陣は入手できないはず」と囁いたのだろう。

私は、昨日のブログでも「朝日新聞担当者の国語力のなさ」を指摘したし、どうも石破茂地方創生担当大臣も「国語力のなさ」を指摘していた。多分、誰が考えても不自然な展開である。デスクや複数の担当者というチェック体制がありながら、全員が「あの国語力」というのは不自然だし、単純に「他の報道陣が資料を入手できないから、捏造してもバレない」と思うのは余りのリスク管理能力のなさから俄かには信じ難い。しかし、当時の首相官邸メンバから度重なる洗脳があり、その洗脳の中で吉田調書がリークされ、「逃亡した」というのを「吉田調書」から導くことは不可能だが、他の証言から裏が取れている所に「吉田調書内にも、引用可能な表現がある」との状況が加われば、オウム信者が疑いもなくサリンガスを捲いたように、朝日新聞の記者であっても世界に向かって「捏造記事をばら撒いた」という展開に懐疑の念を抱けなくなっていたとしても仕方がないのかも知れない。

この推測が正しいとすると、「吉田調書」に関する捏造記事の「A級戦犯」は朝日新聞の担当者ではなく、当時の首相官邸の誰かが「A級戦犯」であるのではないかと推測できる。更に一歩踏み込んで言わせて頂けば、その洗脳活動の起点は菅元総理であるが、流石の朝日新聞であるから「あれほど歴史的に類を見ない無能な総理」の言い分を真に受けるとは思えず、その「裏取り」作業の中で福山氏などが「その通りですよ」と語ったことで朝日新聞記者は洗脳されてしまったのだと思う。

多分、どの登場人物も一人として「悪意」を認識していないのだろうが、しかし、結果はそこに「悪意」があることを示している。第三者委員会がこの「洗脳」を暴けるかどうかは疑問だが、このシナリオは非常に筋が通っている。プライムニュースでの福山氏の発言が、その推測の可能性の高さを物語っていると感じた。

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驚くべきテレビ朝日「報道ステーション」のホットな捏造報道

2014-09-13 00:55:10 | 政治
先程、報道ステーションで驚くべき報告が古館キャスターから紹介された。報道ステーションの所謂「謝罪会見」である。実は私はその報道を生で見ていて、原子力規制委員会の田中委員長に対し、(元々は田中委員長を非常に評価している立場であるにもかかわらず)「ちょっとこれは酷い。傲慢にもほどがあるんじゃないの?」と思ってしまった内容である。しかし、その謝罪会見によれば、それは全くの真逆であることが分かった。しかも後程触れるが、この謝罪会見でも情報伝達が適切になされておらず、不十分な訂正になっている。

まず、その謝罪した内容は実は原子力規制委員会のホームページで公開されている。

原子力規制委員会2014年9月11日「9月10日放送分の報道ステーション(テレビ朝日)での報道について

ここでは大きく二つに分けての誤報を訂正している。問題は二つ目の誤報の方が重要だが、一応、時系列に従い順番に紹介する。

まず、九州電力川内原発原子力発電所の設置変更許可に関する報道の中で、田中委員長の記者会見のシーンが挿入されていた。ご存知のように川内原発原子力発電所には、周辺の火山のカルデラ噴火が起きた場合のリスクが取りざたされており、ナレーションでも火山の審査基準について記者会見で話題になった旨が紹介され、そこで「審査基準が不十分では?」という指摘を受けて田中委員長が「不十分な審査基準の今後の是正」に関する発言があったことを紹介し、「であれば修正した基準で審査をやり直すべき」と指摘していた。しかし、実際の質疑は火山に関するものではなく、竜巻に関する質疑に関するやり取りをしている所から「一部を切りだし」あたかも火山の審査が不十分であったかのような印象操作をしている。

ふたつ目の訂正はさらに悪質である。まず、報道ステーションの訂正の紹介をすると以下のようになる。まず、記者Aの質問があり、それに続いて記者Bの質問があり、それら二つの質問を受けて田中委員長が「答える必要がありますか。なさそうだから、やめておきます。」と回答したことを報道した。しかし真実は驚くべき内容である。まず、記者Aから火山に関する質問があり、田中委員長がこれに対して丁寧に答えている。さらに記者Bから同様の質問があり、それに対しても田中委員長は丁寧に答えている。正確を期すならば、そのやり取りは記者B→田中委員長→記者B→田中委員長→記者B(長々とその前の議論を繰り返し、「現在の科学の知見をねじ曲げて、これで審査書を出すと、これはいわゆる安全神話の復活になるということは言えないでしょうか。」との質問を再度行う)→田中委員長「答える必要がありますか。なさそうだから、やめておきます。」となっている。報道ステーションの説明は、記者Aと記者Bの間で記者Aに対する質問に田中委員長が答えた後で、記者Bの「現在の科学の知見をねじ曲げて、これで審査書を出すと、これはいわゆる安全神話の復活になるということは言えないでしょうか。」(というストレートな質問を受けて、記者Aの質問に答えているのだから)「(記者Bに記者Aと同じ答えを)答える必要がありますか。なさそうだから、やめておきます。」と解説していた。

この二つ目の誤報は明らかに「捏造」以外の何物でもない。正しくは記者Aの質問にも真摯に丁寧に答え、記者Bの質問にも丁寧に答え、記者Bの引用する「東大の藤井先生や中田先生の主張」の中で、田中委員長は、両教授共に川内原発運用期間中にカルデラ噴火が起きるとは思っておらず、その点では原子力規制委員会でも同様な認識を示しながら、それでも100%というものはないから火山の予測を最大限に努力しながら運用し、その点で「分からない」とは「予測不可能」とは違う旨を説明している。これを「安全神話の復活」と揶揄したので「(これだけ丁寧に回答しているのを、一方的に自分の主張をされるのであれば)答える必要はない」と回答している。つまり、記者Bに対しても質問の本質に対しては回答しているのだから、それを「質問の門前払い」という印象を与える報道は、まさに「吉田調書」と同じ構図なのである。

ちなみに、この原子力規制委員会のホームページへの掲載は9月11日付である。時間は不明だが、常識的に考えて9月10日の夜の報道ステーションの報道を受けての対応だから、11日のに中にホームページに掲載されたのは予想できる。掲載内容には記載がないが、当然、そのクレームをテレビ朝日には通知しているはずだから、テレビ朝日はこの事実を昨日の夕方の時点では知っていたはずである。昨日のテレビ朝日報道ステーションでの慰安婦報道の検証報道は、明らかに8月から綿密に計画された内容で、そのタイミングを朝日新聞社長の謝罪会見の日にぶつけるよう、仕込んだネタを寝かしておいた状態である。朝日新聞木村社長の謝罪会見を受けて急きょ準備したものではなく、新聞朝刊にもその放送内容を宣言していた。だから、明らかに昨日の時点で訂正&謝罪が出来たはずである。

しかし、昨日の謝罪を思いとどまったのは、特に吉田調書の捏造の構図そのままが、テレビ朝日にも鏡写しの様に存在し、「同じ穴のムジナ」であることをある意味、証明してしまった訳である。しかし、それを視聴者に気づかれない様にするために、1日の寝かしの期間を取ったのである。あくまでも推測でしかないが・・・。

これまでも口酸っぱく言ってきたが、「事実」と「真実」は全く異なるものである。何処かの発言の一部を切りぬくと、全く本来の真実とは別の何かを演出することができる。それは周知のとおりである。そして、ある種の政治的思想を報道機関が持つことも周知の事実であり、その報道機関が国家権力に負けずとも劣らない権力を同様に持つことも周知の事実である。その報道機関が「事実」を自分好みに加工すると、「真実」と真逆なその報道機関の主張を補強する報道を行うことが可能になる。しかし、最近ではその様な捏造への関心が高まった。朝日新聞が最初にその槍玉に上がったが、今回の報道ステーションの捏造の訂正は、朝日新聞の謝罪がなかったら少なくとも今回ほど丁寧に(それでも訂正の仕方が不適切なのは呆れるが)訂正など行わなかっただろう。ある意味、リスク管理としては「お見事」かも知れないが、これが天下の「朝日新聞」「テレビ朝日」の素顔である。橋下大阪市長の父親など自出の人権侵害報道を行った「朝日新聞出版」も合わせれば、捏造・人権侵害3兄弟の本質はその様なところにある。「慰安婦問題の本質」を上から目線で訴える前に、「捏造の本質」を自らに問い直した方がいい。

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朝日新聞の謝罪会見を見て

2014-09-12 00:56:10 | 政治
今日、朝日新聞の木村社長が謝罪会見を行った。手短ではあるが、若干コメントをしたい。

まず、今回の記者会見の特徴は、福島第一原発所長の「吉田調書」に関しては「完全降伏」の宣言を行い、そのついでに慰安婦報道の捏造に関する検証記事に絡んで、「どの点に対し、何の為の誰に対する謝罪」であるかを有耶無耶にしたどさくさまぎれの「謝罪とお詫び」をして「ガス抜き」をしたという点であろう。「吉田調書」については後程触れるとして、まず先に慰安婦問題の扱いについてコメントしておく。

今回の木村社長のガス抜き謝罪は実はテレビ朝日との連携が図られており、報道ステーションではこの日に合わせて「朝日新聞の慰安婦報道の検証記事の総括」を行い、(吉田調書誤報や池上彰氏の記事掲載拒否問題などで信用が失墜した)朝日新聞からは言い難い「弁解」を古館一郎氏が代わって代弁するという展開があった。そのクライマックスは「河野談話は吉田証言を前提として出されてはいない」という長ったるい説明である。少々解説をするならば、「河野談話」はいわば「霞が関文学」の最高傑作のひとつと言っても良いもので、日本政府側から見れば「強制連行」の事実を否定しておきながら、何らかの「強制性」があったことを微妙に認めており、この「強制連行」の否定とはつまり「吉田証言」の否定とリンクしている。遠回りな言い方だが、河野談話は吉田証言を前提としていないことは、少しでもこの問題を勉強した人であれば常識であり、あくまでも朝日新聞が韓国にくすぶっていた火種にガソリンを注ぎ込んだから河野談話を発表せざるを得なくなった訳で、「河野談話は吉田証言を前提としていない」ことは攻める側からしても守る側からしても、全く本質ではない。1996年の国連のクマラスワミ報告書では、吉田証言やその他の日本語ないしは韓国語で記載の資料を反日系が恣意的に英語に翻訳した資料を基にして、さらには慰安婦本人からの直接的なヒアリングも行ったが裏付け調査を全く行わず、その様な限定的な証拠からあの様な結論を見出したが、この中で「通常の裁判で証拠能力を持ち得る根拠」は唯一、加害者からの自白である「吉田証言」なのである。この、唯一の証拠能力ある証拠が崩壊した場合の「意義」については言及がない。河野談話の訂正はアメリカなどの反応を見るとハードルは高いので、まずはクマラスワミ報告書の事実再認定を求める活動が必要なのだろう。

さまた、木村社長の会見にしても報道ステーションにしても致命的な点を忘れていて、朝日新聞の慰安婦の検証において吉田証言以上に重要な意味を持つ、「慰安婦」と「挺身隊」の誤用の1993年以降の意図的な隠蔽に関する影響を議論していない。本来はこちらのインパクトの方が大きかったのだが、私に言わせれば朝日新聞にとっての「生命線」がここにあるから、社長も報道ステーションもこの点には触れられなかったのだろう。ちなみに、木村社長の記者会見の詳細は産経新聞に記載されているので読んでみると良いが、この記者会見の中でもこの「慰安婦」と「挺身隊」の誤用の意図的な隠蔽を糾弾する記者はほんの僅かだった。この辺は非常に残念であった。

なお、以下は「吉田調書」問題であるが、報道ステーションの直前にBSフジのプライムニュースでもこの吉田調書問題が取り上げれれており、こちらでのやり取りについてもコメントしておく。この番組には福山哲郎元官房副長官やジャーナリストの門田隆将氏なども出演していた。私が見ていたのは最後の部分だが、ここで重要なやり取りがあった。所謂「全員撤退」と首相官邸が誤解した経緯であるが、福山氏の記憶では東電から「撤退」の申し出があり、これは「全員撤退」の意味であるとの主張であった。しかし、キャスターの反町理氏からは「『撤退』と言われたら、その意図を正確に確認しなければおかしい。『全面撤退なのか?』と確認しなかったのか?」と問われ、福山氏は非常に面倒くさそうな顔をして「あの時はメルトダウンが疑われる状況で、大爆発が起きてもおかしくないという状況だった。あの状況で『撤退』と言われれば、誰でも『全面撤退』と思うだろう。」という様な趣旨の発言をされた。ただ、一方で事実として分かっていることは、菅元総理が参議院予算委員会で2日に渡り発言している内容を引用すると、「社長にお出ましをいただいて話を聞きました。そしたら社長は、いやいや、別に撤退という意味ではないんだということを言われました。」(2011年4月18日)、「ある段階で経産大臣の方から、どうも東電がいろいろな状況で撤退を考えているようだということが私に伝えられたものですから、社長をお招きしてどうなんだと言ったら、いやいや、そういうつもりはないけれどもという話でありました。」(2011年5月2日)と発言している。海江田元経産大臣も「撤退」ではなく「退避」と聞いたとか、記憶があいまいで覚えていないなどと発言しているが、比較的記憶がクリアな1か月経過時点での国会での発言であるから、その後の思い込みで記憶の書き換えが起こる前の証言として信憑性は高い。つまり、東電の清水社長や武黒一郎フェローなどと官邸との間での信頼関係が崩れ、少々、歯切れの悪い発言を東電側がしていたのは事実だが、その様な歯切れの悪さ故に事前の思い込みの強さから、完全に「全員撤退」と思い込み、しかもその思い込みを首相官邸では全員がそれを共有し、その様な前提で東電と対峙していたことが分かる。

ここでこの様な問題が重要である理由は、朝日新聞が吉田調書の誤報を生んだ背景はまさにここにあり、民主党政権の中の特に菅元総理を中心とする「反原発派」勢力に援護射撃をするために、この菅元総理と対立する東電側を完全に悪役に仕立てる必要性に迫られ、その結果としてあの様な誤報記事を書かざるを得なかったのだろう。

いずれにしても、私のブログ「欧米に蔓延する圧倒的な反日的先入観念を打ち破るために(1)」の第1のステップはひとまず大きな山を越えた。後は、安倍政権を中心に続きのステップを忠実に実行して頂きたい。

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民主主義のコストを嫌い「徳治主義」を目指す韓国

2014-09-10 23:51:43 | 政治
先日のブログ「ウクライナの次は韓国か?」でも引用させて頂いた下記の記事にある、韓国に関するあるポイントについて今日は考えてみたい。

日経ビジネスOnLine 2014年9月4日「『米国の上着』と『中国の下着』をまとう韓国人 法治より徳治――読者と考える

例の如く、会員登録の必要な記事なのだが、その中の後半部分の興味深いところを紹介しておく。この記事は、日本経済新聞社の編集委員でもある鈴置高史氏の記事なのだが、韓国の置かれている状況を韓国やアメリカでの記事、論文等を引用する形で解説をしている。その中で、アメリカは韓国に対して民主主義を教えてきたのだが、その民主主義の運用におけるツールとしての「法治主義」が韓国には性に合わないようで、逆に徳のある指導者の判断による「徳治主義」が性に合っているのだという。この辺は非常に分かり易く、その典型例として「セウォル号特別法」に関する最近の動向を紹介している。詳細は新聞記事に任せるが、セウォル号犠牲者家族は政府側が事件の収束を狙い有耶無耶な幕引きを図ろうとしないよう、与野党、法曹界、被害者の遺家族の3者で構成する真相究明のための真相調査委員会の設置を決めた。しかし、遺族側はこれだけでは不十分だとし、委員会の設置に加え、この委員会に捜査権と起訴権を与える特別法としての法案の制定を狙っている。そして、その要求の直談判の為に、遺族側は朴大統領への面会を求め、大統領府は面会したら世間の同情から「捜査・起訴権」を遺家族に渡さざるを得なくなると心配し、これを拒否したという。

ここで問題なのは何かと言えば、セウォル号事件の当事者である遺族が捜査と起訴権を握れば、「被害者が加害者を裁く」という「人民裁判による復讐」が可能となり、この様な「自救行為」は法律体系においての禁止行為であり、与党や法曹界が強く反対したという。言い換えれば、裁判所による最終的な判断のチャンスは残されるものの、行政サイドで法律の恣意的な運用を許すことになり、これが「法治主義」を破壊するというのである。しかも、与党や法曹界など言わば良識ある立場の者が「禁止行為」と指摘しながらも、それを「大統領であれば超法規的措置が実現可能」と信じて「大統領決済」を求めるという流れである。

この様な流れを理解する上で、もう少し背景を噛み砕いた方が良いかと思い、私なりの解釈を付け加えさせて頂く。世界史は苦手だから詳しくはないが、中国初の統治国家「秦」では法治主義を採用したが、結果的にはその当時は法治主義に失敗した。それ以前からも、有能で徳の高い王が国を支配すれば、それは法治の様なアプローチよりも数段優れているとの考え方が支配的であった。実は、それは私も大いに賛成するところであり、唯一絶対で万能な神の様な聖人君子がありとあらゆるところで判断を行い、全てに関してリーダーシップを発揮できるのであれば、それに勝る統治方法はないと思う。現在の企業においても、非常に優秀な創業者がワンマン経営を行いながら、その創業者社長が従業員の働きぶりを常に把握し、納得感の高い評価を行っていたとする。更には従業員に対しては常に謙虚に接し、従業員の権利や賃金の支払いを従業員目線で行うことが出来たなら、そこにはパワハラやセクハラも存在などしないだろう。従業員は勤労意欲も高く、愛社精神も強いだろうから業績はうなぎ上りとなり、更に有能な人材が集まってくる。好感度企業としての評判も高まり、信頼度がブランド力を生み、世界的にも強い競争力を勝ち取ることになる。この様な展開は私も十分に理解できる。しかし、その様な経営が成り立つのは一体どれ程の規模の企業だろうか?10万人を超える従業員を抱える超大企業にまで成長したとき、一体、社長は社員の顔のどれだけを識別できるだろうか?顔すらわからない人の業績など把握不可能で、結局、組織としてのシステムの中で経営層と労働者は対峙することになる。社長に加えて取締役など幹部陣、事業本部長や各部の部長、課長などの管理職連中を、全て聖人君子並みの人で固めることが出来れば理想通りにもなるだろうが、全てをその様な人で埋めることは出来ない。国家の運営も同様であり、ありとあらゆる犯罪現場に遠山の金さんが出没することを期待することは出来ないから、良からぬことを考える者を取り締まるための法律は必要である。さらに、様々な行政の運用のためのルールや、個人個人の間の利害対立を解決するための法律も必要になる。組織が大きくなればなるほど、運用のルールをきっちり決めておくことが重要なのである。

しかし、その様な法治主義に慣れ親しんだ我々にも、時として首をかしげたくなる事態が起こる。個人情報の漏えいを取り締まり、プライバシーの保護を守るために個人情報保護法が制定されたが、気が付くと子供の小学校の連絡網(住所・電話録)の作成は禁止され、何か子供通しがとラブった時に学校に連絡をしても、子供が迷惑を相手の御両親に謝罪の電話を入れたくても、先生の権限では相手の連絡先を教えることが出来ない。教頭先生などが相手の御両親に連絡を取り、そこで電話番号を伝える了承を取って初めて連絡先を教えることができる。厳密には個人情報保護法ではそこまでの運用を強いる規定とはなっていないとも言われるが、実際には学校側などが(何があっても学校が責められない様な安全側の運用として)杓子定規な行動を取っているので、実効的に我々は非常に不便な思いをすることになる。

しかし、この様な不便さは所謂「民主主義のコスト」の一部であり、相対立する意見が乱立するとき、それらの意見を集約して前に進むために何らかのルールが定められ、一見、遠回りの様に見えるそのルールに従うことで、どの様な時でも権力者が法律を恣意的に運用できない様に取り決めをしている。ポピュリズムの民主党に振り子が振れてしまったのも、為政者に対する国民の監視メカニズムのひとつであり、大分無駄な回り道ではあるが、それでも自民党の腐敗や驕りにブレーキをかけるのには有益だったと思うし、ポピュリズムの危険性を世に知らしめるにも役立ったと思う。高い高い授業料だが、これが民主主義のコストである。
しかし、唯一絶対で万能な徳のある王による統治によりこの様なコストを払いたくないと思えば、それはいつかはヒトラーの様な独裁者を生むことになる。

韓国に話を戻せば、先ほどのセウォル号特別法に関しては、韓国のマスコミはどれ一つとして法律の恣意的運用の危険性を指摘して、遺族側に捜査権・起訴権を渡すことに反対してはいなかったという。徳のある大統領のご判断で、(法的には少々リスクが伴うが)正しい法整備がなされるはず・・・と考え、原理原則など糞くらえということらしい。まさにポピュリズムの何たるかを示している。産経新聞のソウル支局長の拘束なども同様だし、対馬の仏像盗難問題もそうである。そして慰安婦問題や徴用工問題など、理屈もへったくれもない、法律(国と国との条約を含む)など眼中にないという、「正しいものは正しい」「正しいのだから証明の必要がない」という無茶な一方的な主張に疑問すら抱かない。

これらの流れは全て根底では一つに繋がっていて、「民主主義」や「法治主義」、「証拠主義」云々、様々な我々の常識と考えている原理原則が韓国には根底的に根付いておらず、「徳治主義」に代表されるような「法律の恣意的な運用」を合法視する「法の上の(徳のある王による)支配」を志向している。安倍総理が日々訴えている「法の下の支配」の真逆である。

この流れは暫くは止まらない。誰にも止められない。行くところまで行きついたら戻ってくるかも知れないが、まだ当分、戻りそうにはない。韓国の動向を責めるより、この様な視点の冷めた目で韓国を分析していた方が当面は面白そうである。韓国がウクライナ化するかどうかを含めて、暫くは遠巻きに眺めていよう。

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朝日新聞は「結果責任の何たるか」を語れ!!

2014-09-09 22:56:51 | 政治
今朝は朝から気合を入れて錦織圭の応援をしていた。結果は残念であるし、それ以上に残念であったのは錦織選手のコメントで「チリッチは何回も勝っている相手。勝てるというのが見えたのも、集中できなかった理由の一つ。ここまで硬くなったのは久しぶり。試合に入り込めなかった。(四大大会で勝つ)チャンスだったので、逃したのは悔しい。」とあり、決勝の雰囲気にのまれて集中できなかったというのが悔しい。私は素人なので分からないが、サーブの威力は4回戦のラオニッチに比べれば大したことがなかったように見えたので、「これなら勝てる」と思っていたのが流れが一方的で驚いた。相手は常に集中を切らさず、ピンチにも全く崩れなかったので、その辺を考えれば結果は順当であろう。この経験を活かして決勝の場でも平常心でプレーできるようになれば、その時がグランドスラムでの勝利を手に入れる時だろう。

試合が終わった後の今日1日は長く感じられ、今でも逃がした魚の大きさを思い出しては悔しさがこみあげてくる。まあ、次を期待することにしよう。
さて、以下が本題である。

朝まで生テレビの様な討論番組を見ていると、途中で会場の方に質問する時間帯がある。まあ、その様な場所に行くことはないのだが、その様な質問の機会があった時、聞いてみたいことが私にはある。それは以下の様な質問である。

まず、質問は大きく3つのStepで順番に確認をさせて頂きたい。

一つ目のStepでは、まず、前提条件を確認したい。ここ20年ほど、日本では「失われた20年」とまで言われるほど、不景気に苦しんできた。デフレ脱却の呼び声は常に聞こえていたが、今現在でも完全にデフレを脱却できた状況にはない。つまり、「この様な日本の置かれた経済状況を1発で解決できるような簡単な処方箋など存在しない」ということを確認したい。勿論、それは処方箋がないという意味ではなく、様々な症状を併発しているような状況で、「あちらを立てれば、こちらが立たず」的に、様々な要因が複雑に絡み合い、100次元の非線形連立方程式を解いているようなものだろう。完全に全ての方程式を満たす解を見つけることは非常に困難で、どうしてもポイントを絞った政策を選択しなければならない・・・というのが私の理解だ。まず、ここまでは多くの方に同意を頂けると思う。

であるとするとStep2として、この様な複雑系の問題を解くべき政治家は、如何にこの問題を上手に解くかでその政治家の評価が決まることになる。選挙などでは、自分がその問題を解くためのアプローチなどを公言し、有権者はその公言されたアプローチを聞いて、その政治家に対する期待度を1票を投じて意思表示する。結果的に選ばれた政治家は、その自らの主張するアプローチで政治を実現するのだが、問題はその政治家の評価をどの様にして行うべきかである。これまた私の理解では、この評価方法についてもある程度のコンセンサスが得られていて、「政治とは結果責任である」の言葉通り、結果が全ての評価の基準になるべきであると考える。オリンピック選手であったり、発展途上の小中学生であれば、その努力のプロセスを評価することもあり得るが、政治家とはあくまでも結果責任が全てであり、幾ら高尚なことを言っても結果がついてこなければ評価は0点である。例えば、中国や韓国に対して「誠意を持って友好関係を作ろう」と理念だけは素晴らしいことを言い、戦時中の日本人が行ってもいない無実の罪(厳密には、現時点ではその証拠が見つかっていない罪)をも引き受けて謝罪を行い、世界に向けて「日本は残忍な国家でした」と宣言したとしても、結果的に現在の様に取り返しのつかない事態を招いては、結果責任としては「中国・韓国との関係悪化を決定づけた政治家」とのレッテルを貼られても文句は言えない。あくまでも「結果責任」の原則に立ち、結果を客観的に見ることでその評価がなされるべきである。このStep2では、「結果責任」の原則を確認しておきたい。

さて最後のStep3だが、歴史の中でこの様な「結果責任」を考えた時、その結果の当事者である政治家はどの様にその「結果責任」を受け止めるべきかについて、政治家に聞いてみたいと思う。具体的には、大局的には何が正しくて何が間違っていたと考えるべきか、そしてその根拠は何であるか。それに対する反対の立場からの評価についても総括して頂き、海外での評価なども踏まえて客観的に自らの結果責任を振り返って欲しい。そしてそれは全く同様に、報道機関に対しても確認しておきたい。報道機関なら無責任な報道をして良いと言うのではなく、報道機関なりのそれらの総括の中で、「結果責任」の何たるかを語って欲しいと思う。それらは、政治家と報道機関に課せられた義務であると思う。

例えば日本では「小泉・竹中改革」が推進された時、それまでのデフレによる「失われた10年」で溜め込んできた不良債権を一気に解決し、更には景気を上向きにして増税なき財政再建が推し進められた。後一歩のところでプライマリー・バランスの黒字化が実現できるところまで道筋をつけたのは疑いもない事実だろう。少なくとも数字はその様な結果を示している。勿論、その様なタイミングで2006年3月に日銀が量的緩和解除を行い、その様な景気好転の流れに水を差してしまい、完全にブレーキがかかてしまった。我々にとって不幸だったのは、この様な停滞状況でリーマンショックが訪れたことであり、その後の民主党政権の超円高政策で製造業の空洞化が進んでしまった。超円高政策にはそれなりの利点もあり、何もしなくても日本の資産価値は為替レートのせいで高騰したから、例えばこれをチャンスとばかりにM&Aを徹底的に仕掛けて海外の優良企業を傘下に収めていれば、長い目で見ればそれらの収益が日本に還流して、国家としては大きなプラスになるかも知れない。しかし実際はどうかと言えば、政府がその様なお膳立てを整えても民間ではそこまで急激な買収劇が行われる訳ではなく、一方では製造業では国内生産は割高になるから、販売の現地に生産拠点を移したりして、どんどん日本国内の工場は閉鎖されていった。この結果、ただでさえ日本国内の労働者人口が減少(失業者は増える)するのに加え、円高による海外での価格競争力の低下がトドメを刺す形で輸出が振るわず国内の景気が低迷し失業者が増え、デフレが更に進行して景気が後退しまくった。この様な不景気による株価低迷で日経平均株価は8000円台まで下がり、年金財源の株による運用における大幅な損失が年金の原資を圧迫し、こちらは高齢者や高齢者予備軍の将来不安を煽りまくり、これらの僅かだがお金を持てる層(高齢者を中心とした富裕層)までもが財布の口を閉じてしまった。デフレスパイラルは止まらず、韓国や中国などから「日本はもはや終わった!」とまで揶揄される状態となる。しかし一方で、民主党政権のばら撒き政策には歯止めが効かず、財政赤字はみるみると目に見えて膨らんで、ギリシャの二の舞の様な財政破たんのリスクが国内外で声高に叫ばれるようになった。世界に対して財政再建のファイティング・ポーズを見せる為、消費税増税の法案を通し、法令により2014年の8%、2015年の10%が縛られることになる。そこで登場したのが安倍政権であり、大胆な金融緩和、機動的な財政出動、民間投資を喚起する成長戦略の3本の矢を前面に打ち出し、少なくとも第1の矢、第2の矢によって、日経平均株価は2倍近い上昇を見せた。その後、様々な政情不安要因が入りまじり、淡々と進む株価上昇には水が刺され、さらに8%の消費税増税がこれまでの流れに完全なブレーキをかけた。安倍総理が様々な税制の優遇措置や法人税減税などを通して企業に対して賃上げを促す働きかけを強め、大企業を中心にその様な賃上げの動きが強まった。賃金は上昇し、企業の業績は部分的に改善したが、産業の空洞化が進んだために円高が進んでも輸出が伸びず、輸出が伸びないから景気の回復ペースも鈍化する。結果的に賃金の上昇ペースよりも円安による材料・資源の高騰により物価が高騰し、さらに追い打ちをかけるように消費税もアップしたから、実質的な賃金の上昇より物価上昇ペースが上回り、財布の紐は思ったよりも緩まなかった。ただ、見かけ上は悪循環の様に見えるのに国内の産業界の先行きが以前よりは大分明るいのは、産みの苦しみの向うに僅かながら明かりがさしこみ、思ったほどの景気回復は実感できないながら、「景気は気」からの言葉の如く、それでもまだ期待感が強いから、スパイラル的な沈降ではなく一進一退を繰り返している状況である。慰安婦問題の拗れによる韓国、中国との関係悪化(中国に関しては、尖閣漁船衝突事故をきっかけにさらに関係は悪化した)も経済の足を引っ張る大きな要因だが、これ程までに「経冷」が強まってもそれでもスパイラル的沈降に待ったをかけているのは驚きの事実とも言える。靖国参拝は(是非はともかく)安倍総理が捲いた種かも知れないが、それ以外の種は安倍政権とは違うところで巻かれたマイナス要因である。にも拘らず、株価の倍増や景気のマインドの転換など、圧倒的なプラスの結果を導いている事実がある。3本目の矢は意見が分かれるところだが、思いっきり不評な割には海外ではそれなりに評価されている。例えば、「特区」などは国家レベルの「岩盤」を地方レベルで風穴を通し、規制改革を根本から進める「仕込み」を行っているという位置付けて、話を聞けば、結構納得感が強いものである。少なくともこちらはお手並み拝見であり、現時点では批判すべき段階にはない。展開としては、まずまずのところと言えば良いだろうか?

この様なこれまでの一連の流れを振り返って見た時、少なくとも「小泉・竹中改革」と現在の「アベノミクス」は、海外から見れば大きな結果を残した成功例と評価されている。勿論、格差の増大など「光と影」の部分は否定しないが、光があれば影が生じるのは当然のことであり、Step1で確認したように完璧な解など存在しない(というか、見出すのは至難の業である)。であれば、100もの指標の中の重要な大部分の指標がプラスを指示しているのであれば、重箱の隅を突いて批判するのは卑怯である。それぞれの異なるアプローチによる結果の指標がひとつひとつ星取表的に分かるように解説してもらい、総合的な評価が一目瞭然の形で示されて、初めて我々は政治家の評価が分かるようになる。小さな指標ひとつがダメでも、全体で「ダメダメ」の烙印を押されるべきかどうかは分からない。さらには、相手の「結果責任」の中の部分的な失敗点を指摘しても、それは自分の政策が「及第点」であることを意味しない。相関はゼロである。

この様に、少なくとも「小泉・竹中改革」はちゃんとした結果を残し、「小泉・竹中改革」とアプローチ的には同じくする「アベノミクス」も不完全ながらも途中までは及第点と評価されるべきであろう。一方で、民主党政権は幾つかの期待感を抱かせる政策はあったが、大局的には大幅にネガティブな結果を残したと断ぜざるを得ない。3.11の東日本大震災と福島第1原発事故のマイナス要因は同情の余地はあるが、その様な情状酌量を行っても、現在までボディブローの様に続くネガティブな流れを決定づけたのはこれらの政権である。

それらの政権の人々が、ないしはそれらの政権を後押しした朝日新聞などの報道機関が、その様な総括をすることなく重箱の隅を突いて「アベノミクスは駄目だ!」とか「小泉・竹中改革は失敗だった」と声高に叫ぶのを見ると、上述のStep1~Step3の中で確認した「結果責任を基準とする評価」とは何だったのかと聞いてみたくなる。「結果責任の何たるか」をどの様に考えているかを聞いてみたい。

 少しばかり引用させて頂くと、高橋洋一氏の下記の記事では上述の様な指摘があり、政治家の評価を「結果責任」で議論するのと同様に、報道機関も「結果」に伴う「統計データ」を基に論理的に「結果責任」の定量化とその評価、及び将来に向けた提言を行うことが求められる。

現代ビジネス ニュースの深層 2014年9月8日「池上さんだけじゃない!筆者が体験した『朝日新聞』もう一つの掲載拒否原稿を読者に問う

しかし、朝日に頼まれて高橋洋一氏が寄稿した記事の中では、ジャーナリスト(ないしは、それを目指す人)向けの雑誌の中で「統計データ」を基にした定量的且つ論理的評価の重要性を説いたところ、「思い込みによる主観的な論理性を伴わない議論」を張る側の逆鱗に触れて「掲載拒否」にあったという。池上彰氏の記事に比べると、高橋氏の記事は少々過激で挑発的だから個人的には「掲載拒否」は仕方がないと思うが、もしジャーナリズムの良心があるのなら、「対論」としてそれに真っ向から反対する意見をぶつければ良いはずである。それでこそ、真のジャーナリズムと言える。

政治家は、次の選挙で生き残るために平気で嘘をつきたいところだろうが、少なくとも良心を捨てていない報道機関であれば、その様な嘘をつく必要性はないはずである。しかし、現状はその様な結果責任の何たるかを(少なくとも朝日新聞からは)聞くことはない。

慰安婦問題で火がついたから言う訳ではない。この問題は今現在の問題である。当事者が入れ替わってしまい過去を振り替えれない状況とは訳が違う。報道機関は政治家に対し、「これぞ結果責任だ!」と手本を示して欲しい。

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ウクライナの次は韓国か?

2014-09-08 23:34:54 | 政治
タイトルが何とも強引で意味不明かも知れないが、意図していることは読んでそのままの内容である。ウクライナでは親欧州派の政府と一部地域の親ロシア派が対立し、内紛状態になった。クリミアは事実上の独立を行い、いわゆる戦争による分裂ではなく、微妙な政治的バランスの結果としての無血の分裂となった。それと類似の事態が韓国でも起こりかねないというのが私の強引な予想である。

世間的には、中国の覇権主義が南シナ海、東シナ海の諸国との衝突を引き起こし、例えば尖閣諸島を巡る日本との対立が本格化するなど、地域限定の戦闘状態が起こり得るとの考えが一般的だろう。しかし、私の予想では少々違う。中国が侵略を行っても、侵略を受けた国が一丸となってそれに対抗し、国連や米国に助けを求める様なことになれば、軸足をアジアに置くと公言してはばからないオバマ政権では、シリアやウクライナの場合と異なり、躊躇なく軍事行動を起こすのだと予想している。「それでは、何故、アメリカはシリアやウクライナでは行動を起こさなかったのか?」については単純で、極めて単純な構図である「特定の国による、ある国からの侵略」の構図がそこになかったからである。シリアに関しては、シリア政府側に問題があるのは確かだが、少なくとも対立するふたつ(正確には3つ以上)の勢力がそれぞれの正当性を主張しており、国際社会での多数決的には多数派を構成できても、それが軍事的な殺戮を正当化するのに十分な勢力には成り得なかった。ウクライナに関してはさらに微妙で、国内的には完全に親欧州と親ロシアで2分され、地域によっては親ロシアが圧倒的な多数派を構成したりする。クリミアでは実際にその通りで、国民投票でも圧倒的な結果を残していた。これがロシアが親ロシア派に堂々と軍事支援を行える背景であり、「毒ヘビと毒サソリの争い」という、どっちもどっちという微妙な状況故に、多国籍軍の派遣などと言う直接行動に結びつけることが出来ないのである。

この様に見た時、仮にフィリピンやベトナム、更には日本に中国が軍事侵攻したとして、それぞれの国ではほぼ100%の国民が反中国で一致団結し、国際社会に中国への制裁を求めることになるだろう。中国は付け込む隙がなく、何処かで躊躇せざるを得なくなる。しかし、この状況は韓国においては異なるのではないかと私は読んでいる。私の思い描くシナリオは以下の通りである。

最近の韓国の動向を見ると、明らかに中国に呑みこまれるのを良しとする勢力が存在する。北朝鮮が暴発したとき、中国は北朝鮮が壊滅的に自滅する前に軟着陸をするように誘導し、中国主導のもとで韓国側との統一が図られるのではないかと予想する。この時、韓国は北朝鮮の残存勢力との統一・融合の話し合いを行うのではなく、中国が後見人として同席する北朝鮮の残存勢力との統一・融合の話し合いを行うことになる。それまでであれば、韓国政府の方針に対する中国による内政干渉は許されなかったが、統一以降は何故か堂々と内政干渉が出来るようになってしまう。悲しいかな民主主義の制度が確立してしまっている韓国では、多数決の原理は絶対である。現在の韓国国内ですら左派勢力がある程度の勢力を占めているのに、統一後には北朝鮮系の勢力がそこに加わるから、左側に振り子が振れることは想像できる。これが、中国がいなければ反金王朝で北朝鮮も団結できるのかも知れないが、中国が介在することで中途半端に左派系勢力が温存され、韓国国内が左派系に侵食される可能性が予想される。ソウルを中心に、その様な政治的体制が強化され、米軍が追い出されて親米系の人々も地方に追いやられる。地方で民主主義を求める勢力のデモが乱発し、今現在ですら強権的なデモの弾圧を行う韓国では、躊躇することなく強制的なデモの排除に踏み出すことになる。そこで暴動が発生し、軍が出動することになる。仮に地方の韓国軍の将校が「韓国国民を守る」を合言葉にクーデターを起こせば、中国軍も一緒になってその制圧が行われ、この反政府軍にアメリカが支援を行えば、ウクライナの構図と全く同じ状況がそこに再現されることになる。

問題は、韓国国内にその様な中国に呑みこまれる動きを許容する人々が多数いることである。現在、韓国が中国と共に日本叩きをしている中では、19世紀以前の中国に隷属していた長い歴史に目を瞑り、20世紀の一時期の日本による支配のみを「耐え難い屈辱の歴史」として共闘している。それは中国にとってはその様な見解になるのだろうが、本来の韓国にしてみれば「日本も許せないが、中国はもっと許せない!」となるのが筋である。にも拘らず、朝鮮戦争の歴史も忘れて「戦友」と手を取り合う姿からは、日本に対抗するためには中国と一体化するのも止む無しとのコンセンサスが見られる。ましてや、そのプロセスの中で夢である北朝鮮との統一が図れるのであれば願ったり叶ったりである。ただし、その様な甘い蜜には毒があり、失うものも非常に大きいのだがそのことを語ろうとする人は少ない。多分、現在のウクライナが欧州側に寝返ったその時から後戻りが出来なくなった様に、北朝鮮との統一に目途が付いたタイミングで、韓国は後戻りできなくなることになる。

最近の韓国の報道の中には、その様なリスクを肌で感じてオブラートに包んだ様な論評をする人もいるが、まだまだ自覚が足りないようである。私も信頼を置いている日本経済新聞社の編集委員でもある鈴置高史氏は日経ビジネスON LINEで色々と解説をしているのだが、最近の記事の中では「韓国というのは「法治主義」よりも、優れた指導者による「徳治主義」の方を生理的に好む傾向があると解説していた。つまり、対馬の仏像の返還問題でも明らかになったが、法律よりも上位の概念があり、優れた指導者が導くのであれば「法律なんていらない」という考え方があるという。あれだけ無茶苦茶な朴大統領であるのに、それでも自分たちの命運を左右するリーダーとして朴大統領を崇拝して止まない。あと3年この状態が続けば、その間に上述した中国主導による朝鮮半島の統一のシナリオは十分にありそうだ。その時、中国政府は「永遠の忠誠を誓い、政権内に中国政府の意向を汲む勢力を取り込むことを条件に、北朝鮮の核を与える」という罠をかければ、対日本で圧倒的な優位に立てる武器を得られるなら「悪魔に魂を売る」という決断を朴大統領はするだろう。それが罠だというのは明らかであるのに・・・。

私は「ウクライナの次は韓国でした」というシナリオは決して望まないが、その様なシナリオが実現しないとはたして言えるだろうか?今は、ウクライナなどの問題で揉めている場合ではないのである。

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