けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

その変り身の速さは許せない!

2012-05-30 22:22:38 | 政治
正直、私は頭に来た。小沢元民主党代表と野田総理の会談の後での小沢氏の言い分である。

私は今NHKのニュース9を見ながらこれを書いているが、彼は驚くことにこれまでの主張を翻し、あたかも「私たちは大阪維新の会のコピー的な政策を目指します」でも言わんとしているようである。「地方主権による行政改革」がキーワードのひとつであり、今までと同じやり方では自民党のコピーにしかならないから、(橋下市長の言うところのグレートリセットとも言うべき)今までの制度を大幅に変える新たなやり方を目指すべきだとのことである。旧来の中央集権は官僚支配に通じており、これを前提とせずに革命的な新しい国の仕組みを取り込み、国のあり方、行政のあり方を根本から変えるのだという。

しかし、小沢氏が幹事長をしていた政権交代直後に自らが主導していたやり方は、これまで自民党の集票マシンと化していた業界を全て民主党側に取り込み、コンクリートから人への理念をひっくり返して公共事業を餌に民主党への忠誠を求めたり、近年の自民党より古い金権体質の昔の自民党へ回帰する様なことであったはずだ。しかし、鳩山・小沢政権の1年間ではそれを果たすことができなかった。続く政権は、その様なエゲツナイやり方を好まなかったこともあり、宙ぶらりんの状態で当初の作戦は完全に失敗してしまった。

このような中で最近の大阪維新の会の人気を横目に見れば、次の選挙では前回のバラマキ・ポピュリズム作戦ではどうも国民を騙せそうもない。一方で維新の会は飛ぶ鳥を落とす勢いだから、政策を乗り換えて維新の会に擦り寄り「グレートリセット作戦」に打って出ようという感じである。あわよくば大阪維新の会と連携し、合流までして戦えば次も勝てるのではないかという魂胆が見え見えである。

そもそも、大阪維新の会が目指すべき将来は「グレートリセット」というだけあって時間軸の長い政策が多い。その割には橋下市長もテレビなどを通して細かいことを語るので、抽象的ながらもその言葉の信憑性はそれなりにあるものだと実感することが出来る。しかし、その時間軸の長さは小沢氏にとれば短期的には「何もしなくても言い逃れができる都合の良い政策」とも見ることができ、抽象的な言葉を弄して全てを有耶無耶にしても、(それ以上のツッコミを直接誰かが入れない限り)維新の会との差は解りにくい。彼らはこれを利用して、反民主党票をドサクサに紛れて奪い取ろうとしている。つまり自分たちの身をさりげなく入れ替え、国民から集中砲火を受けている現民主党(執行部)を一緒になって批判することで、ダメダメ民主党のレッテルを自分達からこっそり剥がして誰か他の人に貼り付けようとしている。誠に姑息な手法である。

橋下市長は、船中八策の中に国民の理解を得にくいような「年金の掛け捨て」の様な政策も盛り込んでいる。小沢氏には、決してその様な勇気などないだろう。昔は消費税の必要性を問いていたし、細川政権時代には実際に国民福祉税を画策しもした。しかし、安倍政権時代の参院選で勝利し、それに続く政権交代につながった衆院選でもバラマキ・ポピュリズム作戦で勝利した。一度日和ってしまえば、もう二度と戻れない。

多分、参院を意識すれば野田総理は小沢氏切りを決断せざるを得ない。テレビの野田総理の紅潮した顔を見れば、その決意が見て取れる。意外に国民は冷静に事態を観るだろうから、小沢氏の作戦がそれ程上手くいくとは思えない。選挙のために民主党は、少なくとも小沢陣営との対決姿勢を強めた方が(郵政選挙の例からも)得だろうから、両者の戦いは泥沼に陥る。橋下市長が手を差し伸べれば別だが、橋下氏が石原都知事と歩調を合わせるためには維新の会も小沢切りを決断するだろうから、結局、小沢陣営は孤立化するだろう。

その後の情報では野田総理は会期末までの衆院での採決を決断したとも言われている。ついに、野田民主党は解散総選挙の崖に向けてフルスロットルで突入しそうである。来週あたりには問責2閣僚の更迭でもあるのであろうか?

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新聞が報道しない国会事故調聴取会で判明した原発事故の人災の原因

2012-05-29 22:08:48 | 政治
現在、国会事故調による福島第一原発の調査が進められている。ここ数日、海江田元経産相、枝野前官房長官ときて、昨日、菅前総理の番になった。新聞やテレビの報道で概ね紹介されているが、やはり、東日本大震災の時にこの人が総理であったことが国民の不幸であったことが思い知らされた。概ね、何処かの新聞などに解り易いツッコミ処は書きつくされているので、ここでは今回の聴取会で明らかになった新聞が指摘しない福島第一原発事故の人災の本当の原因について書いてみようと思う。

国会事故調の菅前総理への聴取の中で、私が最も注目した点は(何とも情けない話だが)「情報が上がってこなかった」という発言である。この部分を多くの報道機関や事故調も聞き流してしまっているが、多分、この発言の裏に潜む問題が今回の人災の根本原因なのだと思う。以下は私の予測であり、全く裏など取っていないのでその辺はご容赦願いたい。

東日本大震災の前からのことであるが、菅前総理は官僚を「大馬鹿者」呼ばわりして、一方的に言いたい放題の暴言を吐き、本当に必要な時しか部下が菅前総理に近寄れない状況を作り出していた。とにかく誰かに対して強く叱責すると言う癇癪持ちの性格が強い。言うまでもなく、権力を握った人間がその権力を振りかざしてみたくなる欲求に負けた、その人間的な幼稚さが原因である。原発事故の発生時には、未だに原子炉の中がどうなっているかを完全に把握できていないことからも分かるように、当時は不確定な情報しかなく、当然ながら部下からの報告には断定的な結論など言えなかったはずである。しかし、そこで「予測ではあるが」との前置きに続けて、「○○%程度の確率でこの様なリスクがある。更に、××のリスクは□□%程度であろう」とリスクについて積極的に議論することが求められていたはずである。

しかし、これまでの彼の言動から、有能な部下たちは「責任の取れる確実なこと以外は、断定的な答えは命取り」と骨身に沁みて感じていたはずである。菅前総理が「(何を聞いても)『分からない』との返事が返ってきて困った」と言っているが、身から出た錆とでも言うべき、当然の結果なのである。この様な性格の人には当然ながら周りからは情報が上がらず、どうしても報告しなければならない事態においても、本音ベースの正直な現状把握に有益な情報ではなく、「現在調査中です」という決断を下すためには誠に役に立たない情報しか上がらなない。

実際、海水注入の可否が問題になった際には、菅前総理は再臨界の可能性が「完全にゼロであると言い切れるのか」と迫っていた。原子力安全委員会の斑目委員長も、科学の世界にabsolute zeroの確率は存在しないから、「大丈夫!」と太鼓判を押さなかった。東電のフェローも、吉田所長に対して海水注入の中止を指示している。本来であれば、周りの専門家が全て確信していた「科学に100%はあり得ないが、理屈の上では再臨界は考えられない。海水を注入すべきです!」との助言を引き出すべき場所で、全く逆の結論を引き出してしまったのである。しかし、今回の聴取でも明らかになった様に、菅前総理には自らの言動が周囲の人間に対してその様な判断をもたらしてしまった自覚が全く無い。おまけに、「再臨界の可能性がないことなど知っていた!」などと嘯く始末である。

まかりなりにも内閣総理大臣とは、(建前上は象徴天皇に元首の座を譲るとしても)実効的には日本国民の生命・財産の安全に係わる最高責任者なのである。だから、本人の趣味や気分で国民を危険に晒すことは許されないのである。しかし、あの時の菅前総理の言動を総合すると、国家の最高責任者であることに酔いしれて、部下に罵声を浴びせ続けることばかりをしていた。海江田元経産相が事情聴取で、「初め菅前総理のスピーチを聞く人は違和感を持つと思う」と発言したが、非情にオブラートに包んだ大人しい発言ではあるが、翻訳すれば「常軌を逸した、相手の全人格を否定する罵声」「ヤクザの様な恫喝」といった意味になるのだろう。
これが、(私の理解では)今回の人災の最大の原因なのだと思う。そしてその証拠の映像は東電には残っているのである。多分、その映像を国民全てが見れば、「ああ、この人のせいで福島の皆さんは、そして日本は多大なる損失を出すに至ったのだ」と実感するに違いない。

折しも、今日から原子力規制庁法案が審議入りした。民主党案と自民党案の一番の違いは、緊急事態において国家が積極的に関与するのか、基本的に事業者の責任で判断を下すのかの違いだそうだ。自民党の塩崎議員曰く、「菅直人リスクをなくす」ことが今回の組織改革のポイントだという。私は、現時点での直感的な感覚としては、利益を追求する企業がビジネス的な見地から正しい判断が下せるか否かを考えると国家の関与が必要だとも考えるが、実際の福島第一原発事故の対応においては、少なくとも政府よりも東電の方が安全側の適切な判断が早かった実績がある。今回の教訓から、電力会社はもう決して博打を打とうなど思わないだろう。一方で、「菅直人リスク」の排除のためには、上述の人災の責任をその責任者に問うのが近道である。国会事故調には証人喚問などを含めて、更なる原因追求をする権限があるはずである。3月15日の東電での映像を公開し、関係者から事情聴取すれば、さらに私の推測を裏付ける証言は出てくるだろう。菅前総理は、「今後の再発防止、対策のために原因追求を望む」と他人事のような発言に終始していたが、国家の最高権力者たる者がその責任を果たさずに、権力をお遊びで振りかざしていたら、最終的にはその重大な責任を取らされるという実績を残すことが、ひょっとしたら最大の再発防止につながるのかも知れない。

そんな風に感じた聴取会であった。皆さんはどの様に感じたのだろうか?

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場外乱闘している場合ではない!

2012-05-28 23:46:04 | 政治
生活保護問題が場外乱闘に展開している。

河本氏の謝罪会見を受けて、それで「やっぱり、不正受給はいけないよね!」と言う話が広がるかと思えば、吉本芸人を中心に片山さつきバッシングが広がっている。昨日も報道ステーションSundayで片山さつき議員が涙目で語っていたが、相当なバッシングぶりなのだろう。彼女がその場で語った内容に関しては、Youtubeなどで確認する限り、片山氏の発言には誤りがありそうだ。しかし、その芸人の発言はここでは全く関係のないはずの片山氏の夫に対する悪意のある発言だから(片山氏の理解と)同じ効果を期待していたと糾弾されてもおかしくはない。多分片山氏は、その番組の映像を事前に入手できない一方で、ネット上でそれなりの記載があり、片山氏に直接的に伝えてくれる人の発言などを総合して内容を推察したのだろう。立場により意見が分かれるところかもしれないが、政治家なのだから自分の発言に対する責任は負うべきであり、すったもんだの場外乱闘に関しては、関係者で勝手にやってもらえればいい。

しかし、ネット上および一部のテレビ番組で見られる吉本芸人やその友人などの発言からは、「何が悪い!」という開き直りの発言が多いのは見逃せない。「役所の方で判断したのであるから詐欺ではない!なら何が悪い!」と言うが、片山氏を含めてこの事案で詐欺罪に問えるとは到底思っていないだろう。政治の世界に限らず、何処にも抜け穴が沢山あって、裁判で争って財産を差し押さえるようなことが出来るとは思えない。しかし、その様な抜け穴が存在する制度の不備が明らかになる中で、財政が破綻しようとしているこの国家財政の中で、本当に生きるか死ぬかで困っている人をターゲットにしたセーフティネットが悪用され、お金を渡さなくて良いはずの人が国民の血税をせしめている事態をどう考えるかの話をしているのである。あくまでも同義的な責任を問うているのである。

分かりやすく問題を言いかえれば、塩谷瞬氏が「二股したけど、詐欺罪には問えないだろ!じゃあ、何が悪い!」と開き直ったときに何と言うかという問題なのである。実際、河本氏本人が友人にも散々、母親の生活保護の話を吹聴し、親からも「貰えるものはもらっておけ!」と言われ、その結果、親族側から週刊誌にチクられてこの様な事態になった。法的な罪かどうかではなく、(当初の受給し始めた時点では問題はなかったが、その後に事態が変わったのにもかかわらず)役所側が一方的に生活保護を打ち切ることが制度的にできなかったことを利用して、国民の血税からの生活保護を受給し続けたのだから、塩谷瞬氏と同様に同義的に責められるのは当然である。通常、あの手の芸人は売れない後輩芸人に頻繁に食事をおごるなど「援助」を当たり前のようにしているのであるから、母親にも同様な援助がなされていると考えるのは自然である。仮に「法的には問題ない!」と言い張るなら、母親との間の金銭の流れを洗いざらい調査すれば良い。母親に対する経済的な援助が年間110万円を超えていたら、贈与税が発生する事案である。当然ながら生活保護を継続している母親が贈与税の申告をしてはいないだろうから、その場合には脱税の可能性が指摘される。脱税は明らかな犯罪だから、そうなれば誰も反論などできなくなる。しかし、片山氏にしてもそこまでの泥仕合を期待しての告発ではなく、素直に社会が「不正受給はいけない!」と認めるようになることが社会の利益につながる。いわば「塩谷瞬を弁護」しようとする芸人仲間の行動は、この様な社会的利益に背を向ける発言であり、不適切であろうが貰い得を推奨するようで許容できない。

ただ、私はあまり場外乱闘には興味はない。

つまり、国民の血税を如何にして無駄に使わないで済むようにするかが今議論されるべき問題である。前回のブログでは私の考えを書いたが、中々、コンセンサスが得られないものだろうと思うから、短期的にはそのギャップを埋める実効性のある案が求められる。自民党は生活保護費の10%削減を提案し、小宮山厚労相も扶養義務を負う親族が扶養できない場合、その扶養できない理由の立証責任を負う旨の発言をしている。更に言えば、厚生労働省と全国銀行協会は、生活保護の申請者や扶養義務者の収入や資産を正確に把握できるよう、銀行など金融機関の「本店一括照会方式」を実施する方向で合意する予定だという。これらは、「何故、今までそうなっていなかったのか?」と頭を抱える話だが、やっと一歩前進なのかも知れない。少なくとも、受給者本人の資産とお金の流れは100%把握して貰わねば、血税を投入するには値しない。しかし、一方で今回の事件の様に数千万円の収入のある直系血族が存在するケースは稀であり、その年収に多少の差はあれ、この不景気で給料の上がらない時代を生き抜く一般家庭では、住宅ローンや子供の教育費などを考えれば、新たに月額2~3万円の仕送りを捻出することすらギリギリの家庭も多い。理想的には親との同居で生計を共にするのが良いのだろうが、住宅事情を考えれば今まで別居していた親子がこれを期に同居するということも期待し難い。ましてや、現在の制度でも特例的な直系でない3親等への扶養の負担は、殆どコンセンサスを選られはしないだろう。だから、これらの対策に引っかかり受給を停止させることが出来る人は、ほんの一握りに過ぎない。

であれば、もう少し実効性のある方策を考える必要がある。例えばこんな例である。生活保護を新規に受給する人は、現行制度の満額を受給できても構わない。しかし、年々、その支給額を減らすのである。年々、1割減でも良いだろう。3年後には当初の約73%、5年後には59%となる。しかし、流石にこれ以下では生活できないという限度はあるだろうから、最低額は設定しておく。国民年金の受給額より少し少ない額として、一例で月額6万円としてみよう。さらに各市町村に1箇所ぐらい、生活保護支給者限定で1食100円程度で食事提供を行う場所を設ける。これなら1日3食で300円、1箇月で9000円で食べていける。仮に住居費が4万円だとすれば、電気、ガス、水道代を払って、ギリギリ6万円で生活できるというところだろう。東京23区で4万円のアパートは厳しいかも知れないが、少し東京から離れればその程度のアパートは見つかるだろう。以前、生活保護を食い物にするビジネスが話題になったが、保証人がいないとアパートを借りられず、一方で定住所がないと生活保護も受けられず、それが理由で悪質な宿泊施設にお世話にならざるを得ない事態があった。であれば、生活保護費を分割して入金可能とし、アパートの管理人の希望で生活保護費を直接アパートに振込み可能とすれば、管理人も取りっぱぐれはなくなる。生活保護を需給し続ける限りにおいては、アパートの管理人が直接振込の打ち切りに同意しない限り分割自動振込が自動継続するようにすれば、管理人は安心して受け入れられるだろう。もちろん、引越しをすれば以前の自動振込は打ち切られる。支給額が毎年減額されると、時としてより安いアパートに引っ越す必要が生じるが、その際の敷金などは2箇月分を上限に申請すれば支給(アパートに直接入金)されるものとしても良い。場合によっては、引越しのための費用も1万円程度を上限に支給しても良い。また医療費も、条件付きで申請すれば帰ってくる制度を導入すればよい。要は、生活保護を短期で打ち切るモチベーションを与える工夫を加える一方、少なくとも食事を含めて真の意味で最低限度の生活は保証するのである。また、短期的に生活保護から抜け出せるのであれば、そのような人には現状と同レベルのサービスも許容するのである。身障者には、生活保護費の下限を増額するのも構わない。減額制度の適用外としても良い。食事も自宅を離れるのが困難なら、1食200円程度で配達サービスを加えても良い。

細かいところは詰めれば幾らでも現実に即したものを考え出すことは出来るだろう。しかし、その根底を「自助努力」とするか、過保護をも許容するかの根底の考え方は決めなければならない。民主党と自民党ではこの点で相容れないように見えるが、実際のところはどうなのだろうか?

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秘密会議が悪いのではない!ルールを守らないのが悪いのだ!

2012-05-26 22:10:05 | 政治
二日ほど前のニュースだが、核燃料サイクル政策の見直しを議論している内閣府の原子力委員会が、業界関係者など原発推進派だけを集めた秘密の勉強会を開き、使用済み燃料の処理方法の評価をまとめた報告書原案を事前に示していたという。

「誠にケシカラン!」と各新聞社がこぞって非難している。私も呆れて声がでないが、私の感想は少々違ったニュアンスである。私が問題視しているのは原子力委員会の座長や事務局が関与していることであって、残りの人たちが幾ら秘密会合を開こうと問題ではない。事務局が関与するから報告書案がこの秘密会合の出席者にリークされ、さらにその内容を書き換える様な疑惑を抱かれるのである。これだけノー天気だから、実際、報告書の書き換えが行われたと見るのが妥当だろう。

私は、業界関係者、ないしは原子力ムラの村民が大挙して集まり、秘密会合を行い今後の方針を議論するのは大いに結構だと思う。あれだけ先行きが不透明な核燃料サイクル政策のあり方を議論するのに、反原発派の人がいたら都合の悪い手の内を明かすような議論など出来たものでない。しかし、短絡的に「もう、やーめた!」と言えるような代物ではなく、これまでに行なった投資と、それが成功した場合のインパクトを考えれば、撤退するなら撤退するなりのロジックがしっかりしていなければならない。今現在のやり方がいけないなら、どうすればうまくいく可能性があるのか?その際の追加の投資とリスク、成功確率とその根拠など、本音での議論が必要なはずである。だから、それを同じベクトルを共有する専門家が集まって本音の議論をするのは決して悪くはない。私もその様な人達の議論がどの様な判断なのかを知りたい。少々、不幸が重なった感もある「高速増殖炉もんじゅ」であるが、あれが何故、これほどまで上手くいかないのかの原因を私は知りたい。技術的に相当な無理があるのか、ただヒューマンエラー的な失敗が起きただけなのか、仮にヒューマンエラーなら何故これほどまでエラーが続くのか、などなど、その本音の議論が聞いてみたい。昔の帝国陸軍のような精神論ではなく、定量的な評価を聞きたい。しかし、その様な情報を外部に漏らすことはありえないだろうから、それを期待しようとは思わないが、せめて内輪の関係者同士ではその情報を完全に共有して頂き、「やはり、撤退の決断をすべき」とか、「即座ではないが、徐々にフェードアウトする道筋を作るべき」とか、その方向性を決めて欲しい。

そして、その秘密会合の内容を事務局にリークしてもらうのは結構である。私は全ての議論を平場でやるべきだとは思わない。先日の「幼稚な政治とスマートな談合」でも書いたが、非常にセンシティブな議題を平場で議論すると、まとまるものもまとまらなくなることは多々あるから、ある程度の根回しをするのは構わないと信じている。普天間問題と今回の話題は全く別問題であるから、その根回しの意味が全く異なるのであるが、原子力委員会の事務局が原子力ムラの関係者に「我々は関与しないから、そちら側の統一見解を集約して下さい。そして、その結論を教えてください。それを見て、その先どうするかを我々も考えますから・・・」ぐらいの事を言ったとしても、それは別におかしな話ではない。議題が原子力だから話がこじれるが、一般的な議題であれば事務局が事前に関係者にインタビューして論点を炙り出し、それを整理して議論が噛み合うように交通整理をして会議を効率的に進めるのはあっても良い話である。しかし、今回の問題は、今、国民からの信頼を勝ち得なければならない公の機関が、その権力を乱用して結論をねじ曲げようとしているから叩かれるのである。

各新聞社がご指摘のように、この人達には反省の色がない。今回の件に限定して言えば、この人達とは原子力ムラの人達全般ではなく、政府側の事務局の人間である。この点を、当人達には理解してもらいたい。

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「安全基準」を決める法的権限とその責任について

2012-05-25 21:50:19 | 政治
少し前の話題になるが、政府は5月19日に関西7府県などによる関西広域連合の会合に細野豪志原発相を派遣し、大飯原発の再稼働へ理解を求めた。確か月曜日の報道ステーションでこの際の映像を見たのだと思うが、議論のかみ合わなさが何とも情けなかった。

ポイントはこうである。

関西広域連合の各自治体の首長は、それほどヒステリックな反原発派の方々ではなく、多分、論理的に納得できる内容であれば原発の再稼動を容認できる人たちなのだと思われる。それらの人々が納得するためには、世界的な常識に照らし合わせて妥当な原発の安全基準をまず定め、その基準に対して公平な見地から評価を行ない、その結果として安全であると確認できる必要がある。だから、政府が最初にやるべきことは、常識に照らし合わせて妥当な原発の「安全基準」を定めることである。この「安全基準」はあくまでも客観的な技術的見地からの基準でなければならず、背景的なその他の事情(即ち電力不足や燃料の高騰など)などは全く排除されて行なわれるべきである。現時点では、国家としてこの「安全基準」をオーソライズできる機関は原子力安全委員会である。だから、出席者の多くはこの点を政府に対して追求した。

例えば橋下市長は「政府の示す基準は『判断基準』であり、『福島の事故を参考にした対策』でしかない。我々が求めているのは『安全基準』である」と指摘し、山田啓二京都府知事も「新しい基準をつくるのに、なぜ原子力安全委員会に決定させなかったのか」と指摘した。これに対する細野原発相の回答は「法律に従えば、原子力安全委員会にはそのような基準を決める決定権がない」というものであった。これを受けて山田京都府知事は法令を読み上げて、「この法令に明確に『決定する』と書いてあるじゃないですか。決定する権限が法律で規定されているんですよ!」と指摘した。また、元経産省官僚の経歴を持つ仁坂吉伸和歌山県知事なども、官僚時代の記憶を呼び起こしながら、原子力安全委員会には決定の権限があることを解説していた。ニュースの映像ではそれを受けての細野原発相の回答はなかったが、映像では細野原発相の「鳩が豆鉄砲をくらったような顔」が流れ、どうも心の中で「えーっ、聞いてないよ!」とでも言わんとするかのような光景であった。

細野原発相を弁護させて頂けば、彼は福島原発事故とも関連のある放射線に関するIAEAの勧告書なども読み漁り、(元々は素人だったのだろうが)その分野の専門知識を貪欲に吸収しようとする誠実な政治家だと私は理解している。しかし、多分、今回の件は官僚などから「原子力安全委員会にはそんな権限はないですよ!」と洗脳されていたのだろう。

以前、ストレステストが話題になった時、マスコミの人々が原子力安全委員会の斑目委員長に対して「この様なストレステストで、本当に安全だと言い切れるのか?」と追求した際に、斑目委員長は「(政府が決めたストレステストに関する規定では)原子力安全委員会の役割は、保安院が審査したストレステストの内容に対して不備がないか、つまり評価の妥当性を判断することであって、ストレステストの項目自体の妥当性を評価することではない」と言っていたのを記憶している。しかし、それは政府が導入を決めたストレステストという制度に関するルールであって、政府から「安全基準を定めよ!」と指示があれば、国家としての原子力の安全運用のための安全基準を定める権限はあるということなのだと思う。この辺に詳しい方がいればフォローをお願いしたいが、やはり、少なくとも現時点では責任の所在を明確にするためにも、「原子力安全委員会」が責任を持って安全基準を定めることが求められている。

ここ最近の動きでは、「電力不足が心配だから」、「燃料の高騰が心配だから」、「国内の産業を守るために」とかいう理由から、原発の再稼動を決断すべきかどうか・・・という議論が先行している。もちろん、緊急避難的に橋下市長が指摘するような夏季限定の短期の再稼動という選択肢は当然あって良い。しかし、それを例外として認めるためには「そもそも論ではどうあるべきか?」の基準を明確にし、現状がそれからどれ程乖離した状況であるかを熟知した上で、その定量的に評価されたリスクに対して内閣総理大臣が責任を負う決断をしなければならない。そこまですれば、「緊急避難措置」があっても国民は許してくれるだろう。大体、刑法においても「緊急避難」と「正当防衛」は例外的に人を殺しても罪に問われないものと規定されているのだから。しかし、この刑法の令を引き合いに出しても、勝手に人を殺して「緊急避難」と言い張られても困るわけで、だからそれを認めるか認めないかの基準は定められている。現時点では、原発再稼働の「緊急避難措置」についての法律は存在しない。しかし、「緊急避難措置」なのだから、誰もが納得できる基準は必要なのである。野田政権は、まさにその権限と責任を有耶無耶にしたまま「緊急避難措置」を実行しようとしていることに等しい。これでは関西広域連合の首長は納得できない。

関西電力によれば、原発の再稼動(100%の状態での稼動)には6週間ほどの時間を要するとのことだから、未だ形のない「安全基準」の取りまとめはこの夏には間に合わない。であればあるほど、政府は遅ればせながらでも、「そもそも論」を実現するためのマイルストーンを示し、今回は例外的に間に合わなかったその責任とリスクを一心に総理大臣が背負うということを宣言し、今後のあるべき姿での運用を確約しなければならない。これなしに「周辺地域のご理解」を求めようなど、チャンチャラおかしな話である。

段々、関西広域連合の人たちには今何をすべきかが見えてきたのではないかと思う。ならば、政府にも「自分達には何が見えているのか」を態度で示して欲しいと願う。

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政治を前に進めるための提言をしてみよう

2012-05-23 23:46:57 | 政治
今日は非常に重要な提言をしてみようと思う。結論は最後に述べさせて頂く。

まず最初に、その背景から説明させて頂く。前回の衆院選で民主党は300以上の議席を獲得した。その多大なる議席の獲得にはあのマニュフェストが大きく貢献した。しかしそのマニュフェストは、民主党支持の人達を除けば殆ど全ての人が「あれは詐欺だ!」と認めるような代物であった。選挙の時から指摘されていたように、財源が確保できなければ絵に書いた餅である。しかしその「財源を何処に求めるのか?」という疑問には、これまでのところ殆どゼロ回答に近い。もちろん、民主党議員に言わせれば弁解がましいことが帰ってくるに違いない。間違いなく「政権を取るまでは、財源が何処にあり、どの様にお金が眠っているか正確に把握することは出来ない。いささか判断が甘かったかも知れないが、それは仕方がないこと。」と言うだろう。しかし、予測が外れたことを取り返すための我武者羅な活動は見えてこない。あれだけ国民に受けが良かった事業仕分けですら、全くもって寄って集って骨抜きにしてしまい、蓮舫議員などは野田政権でも如何にもお飾り的に閣僚に据えられながら、いつの間にかお払い箱である。それで仕方ないとはないだろう。

最も分かり易いのは、暫定税率廃止の見送りである。小沢元幹事長が首を縦に触れば簡単に実現できたのであるが、「コンクリートから人へ」を選挙の票欲しさのために、利益誘導の「人からコンクリートへ」と速攻で戻してしまった。思い出せばすぐ分かることであるが、民主党が最初に行なったマニュフェスト違反の決断は、小沢元幹事長が決断して鳩山元総理(元代表)が追認したことに始まる。「命より大切なマニュフェスト」などと、よくも恥ずかしくなく言えたものである。それが良いか悪いかは別にして、八ツ場ダムの建設中止など、財源も大震災も関係ないから実現しようと思えば出来たはずだが、結局は中止の撤回となった。天下りの廃絶に関しても、やろうと思えば簡単に出来たかもしれないのに、日本郵政の社長にこれ以上ない典型的な天下り社長を据えてしまったから、それ以降は何でもアリとなってしまった。骨抜きも良いところである。

マニュフェストとは直接関係ないが、鳩山元首相に至っては、選挙前には普天間基地問題に関して「最低でも県外!」と言い続けた。民主党のオフィシャルなマニュフェストにはそこまで踏み込んだ内容は書かれていなかったにも係わらず、時の民主党代表としてその様な断言を行い、そして選挙に勝つことが出来た。その後、彼の発言がどの様になったかは周知の事実である。責任を取って首相の座を降りたと思ったら、それで禊が済んだと勘違いして、現在では好き放題政権の足を引っ張ることを平気でやっている。責任の何たるかを全く分かっていない。思いつきで急に鳩山元総理が国際公約したCO2削減25%も、あれは一体何だったのだろうと今になって思う。これだったら、所謂「故人献金」に関する政治資金規制法の虚偽記載や、月1500万円の子ども手当を貰ったことに対しする脱税容疑に対し、いっそのこと起訴してしまえば良かったのではないかと思う。総理を辞めたら次の選挙には出馬せず引退するとも言っていたが、これも大嘘だと宣言するに至った。

子供手当てにしても、当初掲げた26000円の手当ては一度も実現されることはなく、結局は半額の13000円から、更にはそれよりも額の小さい児童手当に戻った。しかも、扶養控除の廃止など、付随した政策については既に実行済みであるので、子ども手当が撤回されたとたん、結果として大幅な増税という結果になった。殆どの子育て世代にとっては厳しい状況だ。

明らかに「それは詐欺だ!」と言うことになるのだが、それを幾ら追求しても民主党の人達は「まだ4年は経っていない!」とか「東日本大震災があったではないか!」とか、色々、もっともらしい理由を並べて、結局、真摯にその厳しい現実を受け止めようとはしない。自民党にしても公明党にしても、政局の中でどうしても次の選挙のことを気にしてしまうから、政治が1歩でも前進することよりも、民主党の悪行の数々を洗いざらい訴えることで、民主党の息の根を止めようとする。しかし、多くの国民は決してそんなことを望んではいない。とにかく、「(この様な状態を)少しでも前に進めてくれ!」その様に考える国民は多いはずだ。政治を一歩でも前に進めようと思うのであれば、(当然ではあるが)過去を振り返るのではなく、覚悟を決めて未来を見据えなければならない。あまりにも幼稚な民主党政権が犯した3年前の過ちを今ここで断罪しても意味がない。それは次の選挙の時に行えば良い話である。

では、今やるべきことは何であろうか?

それは過去のマニュフェストを一旦リセットし、今現在の民主党の意見を集約し、その上で「何がベスト」だと考えているのかを国民に明らかにすべきである。例えば、子供手当てはどうすべきなのか、7万円もの最低保証年金を本当に実現すべきなのか、消費税増税はどうするのか、TPPへは前向きに臨むのか(関連して、農業の個別補償はどうするのか)、普天間基地の移設先はどうするのか、原発問題をどうするのか、エネルギー政策をどう進めるのか、後期高齢者医療制度はどうするのか、高速道路の無料化はどうするのか、暫定税率は継続のままか、高校の授業料無償化は堅持するのか、などなど。その様なことを、過去のマニュフェストをリセットした上で、現時点では本当はどう考えているかを、ひとつひとつ明らかにして欲しい。

そして、ここがポイントであるが、自民党も公明党も全ての野党は、新しい民主党のマニュフェストが前回のマニュフェストとひどく乖離していたとしても、少なくとも国会の場では追求しないということを約束するのである。その追求は次の選挙で行えば良い。少なくとも国会の場ではそのような追求を封印する条件で、民主党も正直ベースでの現在最善のマニュフェストが如何なるものであるかを示すことが可能になる。政争の道具にされるのが分かっていたら民主党はそんなものを出せる訳がない。しかし、仮に今このような新マニュフェストを提示しなかったとしても、少なくロも一年後の衆院選では新たなマニュフェストは提示しなければならない。遅かれ早かれ、その差は一年ほどの差でしかない。であるならば、その1年の前倒しを決断することで、変な束縛の下でもがき苦しむ必要がなくなるのである。よほど、こちらの方が建設的な議論ができる。そして、混沌とした今の政治を前に進めるという果実を民主党は得ることができる。野党としても、この様な提言を民主党に飲ませて政治を前に進めることで、無党派層からの指示を勝ち取ることが出来るかも知れない。相対的に民主党との関係がどうなるかは保証できないが、絶対的な支持率は大幅に改善されるのは間違いない。与党にしても野党にしても決して悪い話ではないと思う。そして国民にとっては、これはありがたい話だと思う。国民の方を向いた政治をするならば、この様な決断をして欲しい。

私としては、これに対して誰が言い出しっぺになっても構わない。自民党か公明党あたりが党首討論で提案するというのが良いような気がするが、それ以外のアプローチでも構わない。実際、自民党は次なるマニュフェストの叩き台の情報を開示し始めている。バランスを考えれば、民主党も明らかにしてもおかしくはない。如何だろうか?

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世間の常識を無視した開き直りはやめてくれないか!

2012-05-22 23:43:08 | 政治
最近、にわかに注目を集めている問題のひとつに、お笑いコンビ「次長課長」の河本準一氏の母親の生活保護受給問題がある。

自民党の片山さつき議員や世耕弘成議員がこの問題を取り上げ、吉本興業に対して事情聴取を行なったりしている。当の本人である母親は、報道に驚き受給を辞退したそうだが、辞退しても生活できるとなれば、それこそ不正受給を自らが証明したことになる。河本氏の推定年収が3000万程度、さらに母親をネタにして出版した「一人二役」なる本の印税も4000万程度であるから、河本氏が母親と絶縁関係にあり、扶養義務を放棄していない限りは不正受給であるのは間違いない。自民党は河本氏にこれまでの10年程度の期間の受給額の返金を促し、返金に応じれば特に彼をターゲットにした追求をする必然性はないとして、少なくとも彼に対してはこれ以上の追求をしない方針も明らかにしている。ちなみに河本家側の言い分として、彼の姉がテレビの取材で「市役所が認めたのだから不正受給ではない、何が悪い!」と答えたらしい。河本本人も、twitterの中で「twitterの意味自体を把握してない人は今後一切見なくていいなぁ。」「その生き生きとしたパワーをもっと他の事で使えばいいのになぁ。」とつぶやき、プロフィール欄にもご丁寧に「人の嫌な事を生きがいにしてる人達がどうか無くなりますようになぁ。」と書かれているという。つまり、自分は嫌がらせを受けている被害者であり、反省することなど微塵もないという立場を表明していることになる。

今回の問題は、生活保護不正受給問題の本質を突いているような気がする。つまり、本当に生活保護の受給が妥当か否かを適切に判断することは(これほど典型的な状況であっても受給を阻止できないほど)極めて困難であること、一旦受給が認められてしまうと既得権益的になり判断の見直しが図りにくいこと、受給する本人側のモラルが非情に低い故に性善説に立った議論など出来ないこと、生活保護の対象となる人の親族の扶養の義務をどの様に考えるべきか、などなどである。これまでも、本当に生活保護が必要な人に生活保護を支給できず、結果として死に至った事件があった。その様な事件が明るみになる前は、各自治体は「不正受給撲滅のために、生活保護申請者に対して安易に申請を受け付けてはならない」という態度を貫いてきたが、報道でその事件の責任を追及されると逆に手綱を緩めだしてしまう。制度自体が不完全なものであり、財産があるうちはその財産を食い潰すまでは自助努力での対応を求める反面、本当に財産を食い潰ししまってからのレスポンスは悪い。結局、タイムラグの間を食い繋ぐだけのマージンを見込んで申請をせざるを得ないが、そのマージンはその人の良心次第で幾らでも変る。結局、不正に生活保護を貰った方が得なのである。

生活保護の対象となる人の親族の扶養の義務については、これを法的に強制することは不可能だろう。また、当人が本当に扶養を放棄しているか否かを正確に判断することも困難だから、行政側が「きっと、面倒を見てくれるだろう」という楽観的な見通しから給付を打ち切ると、(生活が困難な側が生活が豊かな側に援助を積極的に求めなければ)誰にも気づかれずに死んでいく事態を生みかねない。だから、今回の河本氏の様な事例が生まれるのである。河本氏は、「芸人の収入は不安定であり、いつか売れなくなった時のためには、現在の収入を母親のために使うのではなく、それを貯蓄させてもらって(国民の血税の財源から)母親の生活費を出してもらうのは問題ない」という様な言い訳をしているそうだが、その様なことを平然と語り、自分がつるし上げられることへの被害者意識を感じる辺りからは、もはや生活保護のあり方を根本から変える以外は手がないのではないかと思ってしまう。

私の主張はこれまでのブログでも書いた通り、国民年金受給者の年金額をはるかに越える10万円以上の大金を現金で渡して「どうぞ、ご自由に!」というのではなく、衣食住を確実に提供する代わりに現金支給を最小限にするというものである。公営の施設の小さな部屋と食事や風呂などを生活保護対象者に国が提供する一方、例えば現金支給は1万円以下に抑える。そこで生活する範囲においては、職業訓練などの再就職支援なども行い、自分で自律できる状況を促すのである。つまり、生活保護受給生活の居心地を過剰に良くしてはいけないのである。少なくとも国民年金受給者よりは遥かに不自由な不便さを強いらなければ、誰もがそこから這い上がろうというモチベーションは湧かない。そして、這い上がるための支援を合わせて行うのである。

一方、例えば身体障害者、知的障害者などの自助努力では解決できない類の人に関しては、もう少し違った対応をしても構わないと思う。例えば、知的障害者で収入が見込めない場合、多分、親が子供の成人以降も継続的に面倒を見ることになる。しかし、その親の年金だけでは成人した子供の面倒を十分に見ることが出来ない。その場合は、その知的障害者の子供だけを先ほどの施設に入れることは不可能だから、現金支給は致し方ないところだろう。もちろん、医師と組んで年金の不正受給を行なう話も良く聞かれるから、その様な悪意のある人に対する最低限のペナルティは必要だが、医師が認定を躊躇しなくて良いような制度にすることは必要だろう。一例として、例えば5年以内に2人以上の不正受給が発覚したら、その医師は(通常の医療業務に関しては一切のペナルティを設けない代わりに)生活保護の認定権限?を取り消すといったものでも良い。理想的には、国が障害者の能力に見合った就労条件を提示し、適切な労働で生活に必要な対価を得るのが好ましいが、障害者でも職業選択の自由はあるから、少ない選択肢しか国が示せないならば、望まれない労働を強いることもできない。

中々完璧な答えは見いだせないが、少なくとも障害者とそれ以外を明確に線引きし、障害者以外の一般の生活保護受給者にはそれなりの不便を強いる制度への改革が求められている。

あまり話題にはなり難いが、最近の自民党の取り組みの中には的を得たものが少なくない。地道な作業をコツコツと続け、国民の信頼回復を目指して欲しい。

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だから天体ショーはやめられない!

2012-05-21 22:44:56 | 日記
今日は政治の話はお休みである。

昨日の夜の時点ではかなり厳しい予測が広がっていたが、今朝は金環日食を見ることが出来た。自宅で朝起きたときには窓の外は雨だったが、テレビやネットの情報を頼りに方向を決め、車で40分ほど走らせたところで無事に金環日食を見ることができた。ちょうどラジオでカウントダウンが始まったところだったので、雲の切れ間から綺麗なリングが見えた瞬間は感動した。そこで車を止め、思う存分日食を楽しんだ。子供の頃に部分日食を見たことはあるが、部分日食と皆既日食ないしは金環日食は雲泥の差である。私が最も驚いたのは、金環日食では空が真っ暗にはならないということである。天の岩戸の話ではないが、一瞬は夜のようになるのかと信じていたが、よくよく聞いてみれば今回はリング状にはみ出した太陽の面積は10%程度あり、それだけでも十分な明るさになるということのようだ。なるほど納得である。多分、皆既日食を見ることができたらもっと激しい感動をしていたかも知れない。

思い起こせば、就職してまもなくの頃の夏、友人に誘われて見に行ったペルセウス流星群には思い切り感動したものだ。山の中の明かりの全くないところまで車を飛ばし、開けた場所を探して寝転がり空を見上げた。その友人の別荘が近くにあるということでその場所を選んだのだと思うが、明かりのない場所の星空があれほど綺麗だとは思いもよらなかった。「降るような星」とはよく言ったものである。天の川のことをMilky Wayと言うが、これも上手い表現だと感心した。その様な満点の星の中で、流星がビュンビュンと飛ぶのである。その時は、一分間に数個のペースで流星が流れていたと記憶している。何時間も流星を見続けたが、全く見飽きることはなかった。

その次の記憶は百武彗星である。同じく友人と夜中に車を飛ばして彗星を見に行った。高速を飛ばしている間は空が明るく見つけることが出来なかった彗星が、高速を降りて山の中に入ってしばらくして車を止めた途端、空を二つに分けるようにうっすらと白い尾を引いた彗星が空に見えた。更に山奥に入りカメラを構えると、その彗星の尾は標準レンズでは収まり切らないほどの長さだった。当時はデジカメなどなかったから、色々露出を工夫して何枚も撮ったが、流石に端から端までの彗星の尾を写真に収めることはできなかった。後から知ったのだが、丁度この日は彗星の核の一部が分裂し、最も尾が綺麗に見えた日だったらしい。昔の人は彗星を不気味な出来事の余兆だと考えたそうだが、確かに原因を知っているから綺麗だと思えるのだが、知らなかったら気味が悪いと感じたかも知れない。それほど、強いインパクトを感じたのを覚えている。

その後もヘールホップ彗星やしし座流星群など、メジャーな天体ショーは見に行くようにしている。友人の中には海外まで日食を追いかける日食ハンターもいるが、そこまでやらないにしても、手の届く範囲でベストを尽くして見るのは大切である。今回は子どもの小学校の運動会が週末にあり、その代休で子供も休みだった。急に「よし、出かけるぞ!」と私が叫んだ時、嫁さんと子供は呆気にとられていたが、結果は子供たちも満足してくれた。急いでとんぼ返りし、その後に私は仕事に出かけたが、中々良い一日だった。

この程度のことなら、ちょっとその気になれば出来るはずである。今年の夏はペルセウス流星群の条件は比較的良いらしい。山の中のキャンプ場を探すなどして、今年の夏も子供と一緒に宇宙の神秘に触れるのを是非ともお薦めしたい。

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橋下大阪市長のたたき台案に賛成!

2012-05-20 23:53:11 | 政治
今日は明日の金環日食に備えて、短めのコメントになります。ご容赦を・・・。

さて本題であるが、(昨日のブログを書いた後で)今日になって知ったのであるが、実は大阪府市統合本部の元経産相官僚の古賀茂明氏が17日のテレビ朝日の「モーニングバード」内で、 「(関西電力)火力発電所でわざと事故を起こす。電力が足りないという状況を作り出して原子力を再稼動させるしかないという、いわば停電テロという状態にもっていこうと しているとしか思えない」と発言していたという。橋下市長も、ギリギリの発言として、不適切であることは認めながらも特別の対応はせず容認する態度を示している。まあ、直接的に手を下して電力不足に積極的に関与するか、直接に手を下さずに消極的な関与で対応するのかの違いはあるが、何を心配しているかという点では共通している。つまり、関電に取って電力不足は既にWelcomeになっているという点である。

私の認識では、古賀さんが危惧している直接的な「火力発電所でわざと事故を起こす」という手法を関西電力は絶対取らないと確信している。賭けてもいいとすら思う。何故なら、彼らの対応を見ていれば明らかであるが、彼らは死ぬほど責任を取るのが嫌いな人種であり、全ての対応は責任の所在が何処にあるのかを曖昧にしながら、特定の誰かが絶対に責任を問われずに済むような対応に終始している。消極的な不作為の罪というのは責任を問われて当然であるが、しかし、その罪の追求の基準が現時点では確立しておらず、少なくとも今回に限れば関電側は絶対に逃げ切れるという確信を持っているはずである。しかし、直接的な破壊行為を行えばそれは刑事罰を伴う違法行為であり、その様な事件が発覚した際に上司がそれをかばえば、その上司にすら共謀の疑いがかかる。実際、誰かが命令して組織的に行なったとすれば、多分、企業としての責任追及は熾烈を極め、社長を含む大部分の取締役の総入れ替えは避けられない。とてもではないが、関電の上層部にそこまでの覚悟があるとは思えない。関電社員も、その様なことはお見通しだから、トカゲの尻尾きりが容易に予想される事態において、自らが泥をかぶるといったことをしたりもしないだろう。だから、あくまでも関電は一貫して消極的な不作為の戦略に出るものと予想している。

一方、私が「なるほど」と唸った記事がある。橋下大阪市長が「夏の間の短期限定で大飯原発の再稼働を容認する」という案である。これを聞くと、脱原発派の人達は「とんでもない!」と言うのであろうが、そこは橋本市長のしたたかさを痛感した。と言うのも、関西電力社長もその発言を受けて「とんでもない!」と言っていることからも分かる。

つまり、こういうことである。関西電力の戦略は、ドサクサに紛れて大飯原発を再稼働することにあり、一旦再稼働を決めてしまえば幾らでもなし崩し的に原発容認に話を持っていくことができるということである。だから、とにかく喉から手が出るほど再稼働を行いたいのである。しかし、橋下市長の戦略は、いつ何時であろうと、一旦稼働した原発であろうと簡単に停止させることが出来る実績を作り上げてしまおうということである。13ケ月で定期点検を行うくらいだから、今回のような非常事態において7〜9月の3ケ月間の稼働後に再度定期点検に入るのは全くもって問題ないはずである。今回は、政府の対応のまずさも相まって、昨年からの一年間を無駄に過ごしてしまった。だから、次の一年間の猶予を与える代わりに、来年こそは厳しく望むという条件付きでの「3ヶ月限定の再稼働」は落としどころとして悪い話ではない。しかも、その後においても、何処かの原発で再稼働後に何らかの隠蔽工作や不適切な事態が発覚した際には、何時でも稼働停止に持ち込めるという切り札を勝ち取ることにもなる。この様な緊張感は、電力会社は嫌うかも知れないが、実は産業界も含めて日本全体で見れば明らかに有益なものである。

野田総理は「(大飯原発再稼働の)判断の時期は近い」と言っているそうだが、その短期間に限り国家が保証を与えることにすれば、関係自治体の了解も得られやすいだろう。全てが丸く収まるかも知れないひとつのたたき台として、十分に検討の価値はあると思う。

如何だろうか?では、明日の朝の好天を祈りながら・・・。

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次のステージに入ったチキンレース(関西電力の行方)

2012-05-19 23:29:47 | 政治
一体何が起きているのかが良く分からない。関西電力の電力需給予測の話である。

これまでずっと15%以上の電力不足と主張していた関西電力が、急に5%の不足で済むと言い出した。ニュース番組でも色々とカラクリの解説をしているが、その値がどこまでが責任ある立場から見て妥当と評価できるのかは、私の理解では相当怪しいと感じている。順番に説明していくが、結論として、関西電力はこれまでの速やかなる原発再稼働の戦略を切り替え、今夏に限っては原発を再稼働させずに臨み、そして電力不足に陥らせることで「やっぱり原発を再稼働させなければダメだったじゃないか!」という世論を作り上げ、夏以降の再稼働につなげる戦略を選択したのではないかと感じている。

それでは、まず、今回の電力需給予測について振り返る。ここでの電力受給予測はあくまでもある種のモデルを前提とした予測であり、猛暑となるか冷夏となるかで結果は大きく変ることになる。更に言えば、全体的には冷夏でありながらも、ピンポイントで特定のある日だけが特異的に広域に亘り記録的な猛暑になれば、その日限定で需要が供給量を上回る可能性もある。予測に用いる前提条件が崩れれば予測が外れるのは当然であり、現時点では需要予測の議論の精度はあまり議論になっていないように思える。つまり、仮に予想に反した事態に陥っても、あまりその責任の所在を追求できる状況ではない。これがある意味では今回の迷走の原因となっているように思えてならない。

大体、一昨年並みの猛暑の場合の電力需給の予測というのは何を意味しているのか、分かっているようで分かっていない。察するに、一昨年の消費電力が最大だった瞬間をスナップショットで捉えた場合、その瞬間最大風速的な総電気使用量に対して、今年の節電効果を見込んで減算したものを需要予測値とし、一方で原発を再稼働しない場合に利用可能な発電設備の発電量、揚水発電による発電量、各企業などの自家発電設備の発電量の総和をとった値を供給可能予測値としている様に思える。だから、夏の間の一瞬を切り抜いた極めて限定的な状況の議論になっている。しかし、例えば台風を例にとれば、広域に被害をもたらす非常に大型の台風の瞬間最大風速と、小規模ながらもエネルギーが一点に集中した小規模な台風や竜巻のピンポイントでの瞬間最大風速とでは、必ずしも大型の台風の最大瞬間風速が大きいとは限らない。つまり、ピンポイントの議論をする時に、仮に一昨年が猛暑であったとしてもそれを引き合いに出すのが適切なのかどうかをまず吟味する必要があると思う。例えば、局地的には最高気温を塗り替える猛暑ではあったが、地域により気温にムラがある場合には、比較的気温が低かった地域での電力使用量が抑えられ、結果的に総使用電力量がそれ程上がらなかったということもあるかも知れない。また、その日の気温が朝から晩まで継続的に高かった場合、揚水発電では前の晩までに汲み上げた水による水力発電を長時間に渡り継続しなければならないから、瞬間的な発電量はその分だけ低めに設定されることになる。一方、午前中は温度が低く、午後になって一気に気温が上がった場合には、揚水発電は午後に集中的に利用できるから瞬間的な発電量は高めに設定出来ることになる。この様な評価においても、一昨年が評価モデルとして適切であるのかは不明である。

だから、常識的に責任ある立場の人が責任をもって評価するならば、無条件で一昨年の特定の日の瞬間最大風速的な最大使用電力を基準にして単純な評価を行うことはできない。もう少し過去数年のデータを解析し、10年に一度程度の最悪条件を見つけ出し、その場合の需給条件を評価するのが妥当である。更に言えば、今回の需給量の不足が5%というのは、あくまでも現在想定している対策が上手く機能した場合の見込み値であり、それがどの程度の確度で実現可能かも議論されていない。「やるしかない!」というのは分かるが、全ての責任を関西電力に押しつけ、あれもできるこれもできるというのは少々アンフェアとも言える。

多分、関西電力側の主張では、電力供給料の過去と現在の予定値の差は揚水発電の評価量の違い程度であり、その意味では切り札を隠し続けていた訳ではない。5月7日発売のAERA(5月14日号)では、関西電力では休止中の火力発電設備を幾つか隠し持っており、それを再稼動させれば不足分のかなりを補うことが可能であるとしていた。実際、最近のニュースでもその点を指摘していた。しかし、先日みたテレビでは、比較的公平な立場と思える専門家の発言として、「その火力発電所は既に老朽化しており、再稼働のためには部品の取替などの措置を講じる必要がる。しかし、稼働を休止してから数年経つために、既に部品の在庫すらなくなっている。それらの部品を新規に製造し直すとなると、この夏には間に合わない」という話があった。関西電力の言い分の裏が取れた訳である。もちろん、半年前に行動を起こしていれば間に合った話かも知れないが、火力発電所再稼働の為に部品材料の再製造のための金型起しなどの投資は、原発裁可動が認められれば無駄になる費用だから、その時点での決断を求めるのはフェアじゃない。ここまで切羽詰るまで関西電力を追い詰めて来なかった側の責任でもある。しかし、原発再稼働反対派の需要予測には、この様な楽観的な予測値もいっぱい盛り込まれているので、果たして何処まで責任を取れる値なのだろうと心配になってしまう。

また、最近出てきた話題のネガワット取引市場についても、実際の導入には色々なハードルが予想される。温室効果ガスの排出量取引を参考にする制度なのだろうが、例えば温室効果ガスにしてもどの年の排出量を基準とするのかという問題ひとつとっても意見の集約が困難だったはずである。それでも、ある程度、プレーヤー(取引の主体になる国家数)が少なく、日本や欧州などの国々が大幅な譲歩をしたために、現在ではその市場が成立している。しかし、今回のネガワット取引市場は関連する企業の数が非常に多くなることが予測される。例えば、数年前から環境への貢献を歌い文句に節電努力をしてきた企業と、節電努力など一切してこなかった企業があるとする。一昨年の電力使用量を基準として電力の権利を売り買いするならば、節電努力をしてこなかった会社は、今年の節電のためのノリシロを多く持っている分だけ有利である。しかし、それは節電努力を行ってきた企業としては納得できない。この様なゴタゴタをまとめ上げ、7月前にネガワット取引市場を立ち上げられるのかと考えると、結構、疑わしいような気がする。

この様に考えると、言葉は悪いかも知れないが無責任に「足りる、足りる!」という人と、「足りない、足りない!」という人のギャップが大きすぎて、あまり精度の高い議論ができているような気がしない。一方で、(その責任の多くは関西電力にあるのは明らかだが)マスコミを始め多くの一般市民は関西電力を信じていないので、一方的に「足りる、足りる!」派に分があるような報道がなされる。関西電力も、「これに反論しても勝ち目はない」と悟りを開き、夏前の大飯原発の再稼働を諦めた雰囲気が漂っている。そして、「(再稼働反対派の)あなたの主張を丸呑みするから、その結果の責任も共同で背負ってください!」という立場に切り替えた感がある。もちろん、「あなたも責任を背負って下さい!」とは心の中で呟くだけで、声を大にして叫ぶのは何か事が起きてからなのだろうが・・・。つまり、電力不足による緊急事態の発生があれば、多分、「誰がこんな甘い需給見通しを主導したのだ!」という世論の批判を巻き起こる。「だから原発を再稼動しろと言ったじゃないか!」という追求が激しくなる。それを狙っているのだろう。

もちろん政府の方でも、その緊急事態が起きた時のための対応は議論している。最後の最後の手段として計画停電があるのだが、その一歩手前でも、緊急時において工場の稼働停止などの対応を企業に求める方法や、一斉放送で各家庭に節電を求めるという方法などである。しかし、その効果がどの程度なのかデータが揃っていない現状では、かなりマージンを見込んで早め早めの緊急事態宣言が必要となる。当然、需給がマイナスになる直前ではなく、余裕が2~3%を切った時点などに緊急事態宣言の発出条件が設定され、意外に頻繁に緊急事態宣言を多く聞くことになりそうな気がする。場合によっては、医療機関などに迷惑をかけない体制を敷くことを前提に、試験的に計画停電が行われるかも知れない。この様な対応を見据えたうえで、「だったら、バンバン、緊急事態宣言を出させてしまえばよい!」と関西電力が開き直ったとしても不思議ではない。大阪府市統合本部のエネルギー戦略会議の会合で関西電力側が「我々も、このくらいやらなければいけないだろうとして出した数字」と言って不足量の5%を提示したそうだが、これまでの彼らの言い分からすると、にわかには良心的な発言が急に聞かれるようになるとは思えない。

言ってみれば、これまでのチキンレースは古典的なチキンレースで、「電力不足が嫌なら再稼働しろ!」というものだったが、現在は次のステージのチキンレースになっているような気がする。それは単にハンドルをどちらが先に切って逃げるかの勝負ではなく、お互いの車をぶつけて大怪我をした後での「どちらが、その治療費を払うか」という責任の押し付け合いというレースなのかも知れない。

ちなみに、ついつい喜びがちだが、電力不足が5%と言えど、他の電力会社からの供給を見込んだ上でもまだまだマイナスである。この点を決して忘れてはいけない。やはり、何とも雲行きは怪しい。

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大阪市の刺青問題はどう考える?

2012-05-17 23:54:21 | 政治
橋下大阪市長が大阪市役所の職員に対し刺青の調査を行なった。110人ほどの職員が刺青をしていることが分かり、そのような職員に対して「民間へ行ってくれ!」と言ったという。橋本市長のこれまでの活動については私は概ね賛同しているが、この刺青問題だけは少し違った視点で見ている。というよりも、その判断が正しいのか正しくないのか、イマイチ判断できないでいるというのが本音である。

市長のこのような判断に対して批判的な立場の人たちは、概ねその根拠として「刺青も表現の自由のひとつ」だと主張する。確かにその様に考えると、橋本市長の判断は少々行き過ぎのようにも思われる。にもかかわらず、何故橋下市長はこのような決断をしたのだろうか?

この議論の前に、私が以前から疑問に思っていることがある。日本中の多くの温泉施設ないしは銭湯において、入口には決まって「刺青を彫ったお客様のご入浴をお断りします」との張り紙が貼られている。そこら中でこの様な張り紙がなされているので、これは既に一般市民のコンセンサスが得られた社会常識となっているのではないかと私は理解している。しかし、先程の「表現の自由」の問題にも絡むことではあるが、このような施設に人を選んで「この人はこの施設には入れない」という差別的な行動を取ろうとした時、それが刺青の有無を条件としていなければ、大きな批判を受けてもおかしくはない。例えば、足が不自由な人は温泉内で転んでケガをする可能性があるので、その様な身体障害者は入浴を禁ずるということを言い出したら、間違いなく「それは差別だ!」と言われるだろう。にもかかわらず、刺青に関しては(刺青をほっている人を除けば)誰も文句を言わないのである。これは、納得できると言えば納得できるが、なぜそのような結論になるのだろうと考えると不思議でもある。

話を大阪市にもどすならば、この問題が「橋下市長が言い出したことだから・・・」という先入観念をもって考えるのではなく、この刺青というものを「社会の敵(悪)」だと見なすのか見なさないのかと、そのような問題だと話を限定して考えないと判断を誤ることになる。では、刺青は社会の敵で追放すべきものなのなのか?と考てみると、それは刺青によるのではないかと思える。例えば海外のスポーツ選手には、ワインポイントの小さな刺青を見かけることが多い。有名なところでは、サッカーの元イングランド代表のデビッドベッカム選手が刺青マニアであるのは有名である。彼はワンポイントの刺青ではなく、両腕全体に加えて、そこら中にワンポイントを入れている。ここまで来ると流石に顔をしかめてしまうが、普通の選手ならばもっと小さなワンポイントであることが多い。しかしそれを見て、片っ端から「こいつは悪い奴だ!」と言う人はいない。だから、私はこのようなワンポイントの刺青まで、ないしはさらに限定して、服を着ていれば他の人の目につかないようなそのような限定的な場所に刺青をしている場合でも、それが社会の悪だと言い切れるのかと考えると悩んでしまう。ベッカムは良いが、この人はダメというのはフェアではない。もし、社会が刺青の善し悪しを個別に判断するのは無理だから、一律に全ての刺青を「社会の敵」だと見なそうというコンセンサスをまとめようと言うのであれば、それは橋下市長が行なったことは認められて良いのではないかと思う。一方で、「ワンポイントで服を着れば見えないような刺青なら許そうじゃないか」というのであれば、ないしは「全てを社会の悪だと言い切るのは行き過ぎだ」と、そちらのコンセンサスが得られるのであれば、橋下市長もそのような限定的な刺青の職員に対する処分は保留するとして、話は丸く収まるような気がする。橋下市長がどこまで強硬にこの話を押し通そうとするのかが分からない段階ではなんとも言えないが、単純に橋下市長がやったことだからということで、かなりバイアスをかけた議論をするのは正しくない。

そのような邪念を取り除いた上で、「そもそもどの様に考えるべきなのか?」と、シンプルな議題に話を焼き変え、その上でシンプルに議論するという考え方が、物事のあるべき考え方ではないかと思う。

如何だろうか?

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幼稚な政治とスマートな談合

2012-05-16 23:47:18 | 政治
昨日のブログで、実現不可能な正論は「机上の空論」と書いた。これは政治の世界ではひとつの重要なポイントかもしれない。これを切り口に、類似の問題についても議論してみたい。

報道によれば、鳩山元総理が沖縄復帰40周年の式典に出席し、「私は今でも普天間飛行場は最低でも県外だと思っている。総理の時代には、一生懸命何処かの自治体が受け入れてくれないかと努力したが、結局何処も手を挙げてくれなかった。鹿児島県の徳之島への移設も考えたが、反対派に押し切られて結局実現できなかった。」と弁解していた。この程度のことは最初から分かっていたはずだ。にもかかわらず、彼は努力すればそれで許されると、総理大臣の仕事とはその程度のものだと理解していたらしい。全く幼稚な総理大臣だ。よくもそれでオバマ大統領にTrust me!と言えたものだ。この点は非常に重要なことだ。ああしたい、こうしたい、理想的なことを話すだけならば、それは誰にでも出来るのである。総理大臣には、発言したことを実際に実行に移せる人になってもらわなければ困るのである。

正論ないしは理想的に言えば、一見、それがベストなアプローチと思えることが、政治の世界ではそれが意外にも実現不可能であったりする。巷では「密室政治はいけない」「談合はいけない」と言う。確かにそれは正論であることは私も認めるが、しかしそれが本当に実現可能なのかという一点について言えば、多くの場合においてそれはかなり疑わしいと言わざるを得ない。

例えば、米軍基地の移設という非常にセンシティブな課題に関しては、一瞬でも報道において「ここに移設するかも知れない」という情報が流れたとたんに、その地域の反対派が一斉にこぞって大声を上げて「絶対にそれは許さない!」と叫ぶはずだ。そして裏のルートを通じて関連する企業や機関、政治家に圧力をかけ、力技で阻止しようとするだろう。やり方が汚かろうが結果が全てと割り切り、決して話し合いの席に着こうとはしない。

しかし、それでは何時まで経っても沖縄の米軍基地の負担を減らすことは出来ない。迷惑施設と割り切るならば必ず何処かにその迷惑を負担してもらわなければならない。その分担先を探す時、全ての人が喜んで受け入れてくれる所を探そうというのは現実的ではない。であるならば、ある程度のところまでは水面下で少数の人数で、「この様な条件をつければ、その迷惑を受け入れても構わない」と言ってくれる自治体を探し、関連する部署に事前の根回しを行ない、大きな障害が取り払われて実行に移せるようになった段階で情報を公開するのが大人のやり方だと言える。こちらもやり方が汚いと言われそうだが、どちらにしろ推進派も反対派もフェアな勝負を望んでいないのでお互い様である。

繰り返すが、全ての人が例外なく満足する政治などというものはあり得ない。必ず何処かで対立するのである。その際、ゴタゴタしたままでその問題を放置するのが大人の政治なのか、一部に反対者が出たとしてもトータルで見たときに社会的な正義・幸福(昨日は「最大多数の最大幸福」と語ったが、少々言葉足らずであった)を少しでも前進させるのが大人の政治なのか、その問題に真面目に向き合わなければならない。

もちろん、多数決の論理で全てが決まるべきだと言っているのではない。例えば、幸福の総和の最大化を追求すれば、大都市に偏った政策に重きを置かざるを得ないが、当然ながら公平性などの観点から、条件付でのバランスの取れた社会的な正義と幸福の総和の最大化の両立を目指すべきである。しかし、大都市の住宅密集地のど真ん中にオスプレイの様な航空機が飛び交う飛行場を移設するのは不幸の最小化の観点からは好ましくない。ある程度の過疎地なのか、海上からのアプローチを前提とする滑走路なのか、色々考えた上で選択肢を絞り込むと、ある程度候補は絞られる。その時、沖縄の負担が今後も続くことと本土の何処かにその分担の一部を担わせるのと、どちらが社会的な正義かと言えば相対的ではあるが本土で負担する方に部がある。その選択肢を実行する際に、一部の人の反対を切り捨てなければならないことはあり得るのである。それを切り捨てるのも政治の勇気である。

しかしその切り捨ての際に、大いに揉めに揉めてからの切り捨てと、何となく手際よくサラっと切り捨てられるのでは、多分、その当人の感情としては大分違うはずである。あれだけ政治を信じて裏切られた沖縄県民の気持ちはもう元には戻らない。そうならないようにするためには、ある程度の密室的な談合を裏で行い、十分に根回ししてから最後の最後に「こう決断しました!」と公表するのは認められるべきだろう。

あまり結論めいたことは言えないが、政治においてはある種の切り捨てが求められることは多々ある。そして、その様な切り捨てをやるためには、十分な根回しにより外堀を十分に埋め尽くし、「ああ、そんなものなのかな?」と相手に勘違いさせるぐらいのスマートさが欲しい。それはもはや、正論からはかけ離れた古典的な政治の技なのかも知れない。好きか嫌いかと問われれば嫌いであるが、好き嫌いよりも優先度が高いことがあれば、それを否定したりはしない。

やはり、民主党政権は幼稚だったという結論になるのかも知れない。

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ちょっと待った、本当にそれは正しいのか?

2012-05-15 22:47:26 | 政治
今日は誰もが正しいと信じて疑わない問題について、一石を投じてみようと思う。ただ必ずしも「それは間違っている!」と明言するつもりはなく、本来はどの様に考えるべきなのかという問題提起だと思って読んで欲しい。

まず、報道によれば大飯原発の再稼動問題に対し、大飯町議会は賛成多数で再稼動を容認したという。一方で政府は、大飯原発から半径30km圏内を「緊急防護措置区域」と指定しているために、この区域に京都府と滋賀県の一部が含まれることになり、所謂原発の稼動に同意が必要となる周辺地域を何処まで拡大すべきかが問われている。

この問題について、多分、殆どの国民が「原発が事故に合ったら被害にあう可能性が高い地域(半径30kmないしは100km)の同意は、当然ながら必要であるべき」と考えるであろう。実際、福島第1原発事故では方向によっては半径30kmを超えて正常な生活に戻れない地域が存在する。更に言えば、今回の事故は実際にはかなり運が良い事態であり、格納容器が破壊されたらば30km以内どころか100km以上まで被害が出る可能性がある。現にチェルノブイリでは、500km以上離れた地域でも「(自己責任での生活は許容するが)生活に適さない場所」がスポット的に存在する。偏西風にあおられて、放射性物質が太平洋側に流れたことをどう評価するかは意見が分かれるが、結果的に東海岸に位置する福島第1原発の立地条件により、高濃度の汚染地域の土地がより少なく済んだということも言えるかも知れない。これに対し、大飯原発などは西風が吹けば、その放射性物質は実際に住民が生活する土地に降り注ぎ、福島第1原発の事故以上の被害が広範囲で予想される。

だから、30kmないしは100kmの範囲の中の周辺地域の同意を必須とするのは当然という気持ちは大いに理解できる。だから、誰もがそれを疑らないのも当然かもしれない。しかし、話はそれほど簡単ではない。住民投票で脱原発の様なテーマを判断することの是非にも関係する話であるが、極めて政治的な決断を迫られたとき、どの様なプロセスでどの様に判断するべきかを考えた時、必ずしも一般国民が正しい判断を行なえるとは私は思っていない。例えば、現在直面する解決すべき全ての問題を同時に解決する方法が存在しない時に、誰かに涙を呑んでもらってでも最大多数の最大幸福を追求しなければならない時がある。その際、判断の当事者が多くなれば多くなるほど、決断したくても決断できなくなる可能性が高まる。時の総理大臣ないしは自治体の首長が自分の責任を明確にした上で、心を鬼にして決断を下した方が後世の歴史家の判断において評価されることは十分にありえるのである。
原発問題だと感情的になりそうな気がするから、話を少し変えて普天間問題について議論してみようと思う。

普天間問題に関していえば、多分、多くの国民の理解はこうであろう。「沖縄県民は長い歴史の中で、米軍基地を中心とする多大な負担を負ってきた。その結果、米兵暴行事件など多数の不幸な事件が起き、少しでもこの負担を軽減するために、沖縄の米軍基地を縮小すべきである。その筆頭として、普天間基地を沖縄県外に移設すべきである。一方で、中国、北朝鮮、ロシアなどの周辺諸国を意識した際に、日米同盟はこれまで以上により強固であり続けなければならない。尖閣諸島での漁船衝突事件を見ても、北方領土に対するメドベージェフ前大統領の行動を見ても、日米同盟の足並みの乱れは国益に直結する。だから、そのためには(グアム移転が無理であれば)沖縄以外の自治体のいずれかが米軍基地を受け入れ、沖縄との負担の分担を図るべきである」・・・と、こんなところだろうか?

ところが、その様な米軍基地を受け入れてくれそうな場所は何処にもない。

そんな時、何処かの市が手を上げて、「ここに来てもらって構わない」と発言し、市議会でもそれが通ったとする。さらにその市の住民も、米軍基地で潤うことを期待し大歓迎だったとする。所定の手続きも淡々とこなすことが可能で、米軍・米政府からの承認も取り付け、そのまま行けば問題なく普天間基地の移設が完了できる状況にあったとする。しかし、その市の周辺地域の自治体が、「あなたの市は、基地の受け入れと引き換えに雇用の創出や国からの補助金などメリットがあるからいい。しかし、米兵が事件が起こす可能性があるのはその半径30km程度を見込まなければならない。その周辺地域に我々の市が含まれている。だから、我々としては断じて米軍基地の受け入れは認められない」と言いだしたらどうだろう。普天間基地の代替場所を探すのは更に困難になり、かくして普天間基地の固定化(多分、辺野古移設も困難なので)が避けられなくなる。

この様に、原発に限らず様々な分野で迷惑施設は存在するのである。その迷惑施設を喜んで受け入れる場所など本来何処にもなく、その迷惑さと引き換えの何らかの経済的なメリットがあるから受け入れるのである。しかし、その経済的なメリットは距離と共に急激に減衰する。政府も大盤振る舞いで、かなり離れた地域までお金をばら撒けばどうか知らないが、この緊縮財政の中でそんなことは通らない。結果として、当該自治体は賛成し、周辺自治体は反対するという状況が起こる。

「日米同盟を破棄するなり強制的な国外移設を求めるなり、選択肢は他にあるじゃないか!」という人がいるかも知れない。では他の例を考えてみよう。放射性廃棄物の最終処分場はどうすべきだろうか?既に原発が存在してしまっている以上、日本国内の何処かに最終処分場を建設することは不可避である。「札束で相手の顔をひっぱたいて、貧乏な国に最終処分を押し付けてしまえばいいじゃないか!」という逃げ道もなくはないが、人道的にそんな選択肢を議論するつもりはない。だから、国内の何処かがその迷惑を受け入れなければならない。しかし、ここでも周辺地域を広げれば広げるほど、その了解を得て最終処分場を建設することは不可能に近づく。このまま行けば未来永劫、最終処分場がないまま核のゴミは増え続ける。安全性の観点から見たときに、それを仕方がないと言えるのであろか?何とも危険である。

この様に説明すれば明らかだが、迷惑施設の扱いにおいて、誰もが納得するように周辺地域を広げて考えるのは理想的とは言えるかも知れないが、しかしそれは現実問題として実現不可能な選択肢なのである。幾らそれが正論であったとしても、それが実現不可能であればそれは「有意な正論」ではなく単なる「机上の空論」に他ならない。「決断できる政治」と言うが、それは実効性を伴わなければ意味はないのである。

多分、大飯原発の再稼動がなければ関西電力管内での電力使用制限例の発動は避けられない。そして仮に今年、電力使用制限例の発動があれば多分来年も大きく条件は変らないから、今後もしばらくは同様に発動され続けることになるだろう。もし、数年間も連続でその様な事態が避けられないと予測されれば、少なくとも関西電力管内にある大きな工場は海外に移転先を求めることになり、関西地域の経済の空洞化は避けられない。失業者が町に溢れ、税収は大幅に落ち込み、財政赤字は更に加速する。日本のギリシャ化が目前に迫り、日本経済は最大の危機に陥る。こんなシナリオも容易に想像できてしまう。となると、その責任を担う日本政府は、万人がハッピーになれる解が存在しないのだから、最大多数の最大幸福のための何らかの政治判断が迫られるかも知れない。もちろん、法律に則って行なうことは前提条件であるが、周辺地域の解釈の様な問題は、政治的に立地自治体のみ(大飯町と福井県)に限定して了解を得るとしても法的・制度的な問題は発生しない。もちろん感情的に納得できないのは理解できる。しかし、先日のブログにも書いたが我々に求められるのは「どう感じるか?」ではなく「どう考えるか?」なのである。

今は我々は(立場がどうであれ)この件に関しては感情的になり過ぎて、客観的な判断ができない状況である。だから、多くの人が正しいと信じている(感じている)ことが必ずしも正しいとは限らない。もちろん、何をもって安全と見なすのか、その判断の責任者は誰であるのか、その安全の妥当性は正統に検証可能であるのか、前提条件が崩れたら見直しはできるのか・・・等の議論は別途行なわれるべきである。しかし、これらの条件を正しく判断できる人がいるという前提のもとで、判断の当事者は少ない方が良いのかも知れない。もし、これらの条件を正しく判断できる人が政権側にいないというのであれば、原発の再稼働を議論するよりも先に現政権に退場して頂かなければならない。

議論が各論になると邪念が入るが、一般論として議論すれば、私の言っていることも、それなりには理にかなっているのではないだろうか?

如何だろう?

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流石にそれは、ズルくないか?

2012-05-14 22:32:55 | 政治
先日、東京電力からピークシフトの為の、昼間の料金が高い料金プランが提案された。午後の最も需要の大きい時間帯の料金を2倍以上に上げ、逆に夜間は半額以下にするというプランだ。多分、これを見た人は極めて常識的なプランだと感じたはずだ。もちろん、トータルで見たときに増収になるような値かもしれないから、その場合にその儲けを如何にして還元するかは工夫が必要かも知れない。春、秋の需要が厳しくない時の電気料金を大幅に割り引くとか、工夫の余地は幾らでもある。しかし、マスコミはこれをこぞって「弱い者虐め」と非難し始めた。言い分としては、高齢者や幼い子供がいる弱者は、昼間の電気使用を抑えられる訳ではないから、その様な弱者を狙い撃ちして電気料金が値上がりになるのがけしからんと言うのである。

しかし、私は言いたい。幾ら何でも「流石にそれは、ズルくないですか?」と。

現在、福島第一原発の事故の影響で、世の中は脱原発でイケイケドンドンになっている。あまり政治的なことには興味がなかったような人まで巻き込んで、一種の流行りの様な反応を引き出して、何とか脱原発で寄り切りたいという風潮だ。あまり情報がない人々は、声高に叫びさえすれば、安い電気料金で火力発電を中心とした電力を幾らでも使え、「おい、なんとかしろ!」と言えば、火力発電の比率が高まろうと環境的に問題となるCO2排出量も抑えられると思っている。きっと、誰かが自分の知らないところで、自分のために全てのつじつまを合わせてくれるのではないかと信じている。しかしちょっと考えれば分かるように、そんなうまい話があるはずがない。そんなことを信じる人は、きっと、ネズミ講などに引っかかって大損するような人なのだろう。

そもそも、その様な勘違いがなぜ起きるのか?それは脱原発派およびマスコミがアンフェアであるからである。脱原発派がアンフェアなのは、原発賛成派がそれ以上にアンフェアだから、喧嘩両成敗でも良いかもしれない。しかし、あたかもニュートラルで公平な顔を示しながら、ミスリードを狙ったような報道をするのは、ジャーナリズムの道に反する。

マスコミは、料金プランをこぞってけなしているが、そのような人はこの電力不足の事態をどの様に解決すべきだと考えているのであろうか?原発再開を前提とするなら矛盾しているとは言わない。それ自体は妥当な発言である。しかし、仮に脱原発というのであれば、どうすれば電気料金の値上げもせずに、電力需給料のバランスを取れると言うのだろうか?太陽光発電の買取り価格を高く設定しながら、どうやって辻褄を合わせられると言うのであろうか?再生可能エネルギーの買い取り制度は、それが普及して政策的に成功すればするほど、国民への負担は大きくなる。現在では、現実問題としてそれ程太陽光発電が普及しないだろうとタカをくくった見積もりなのだろうが、普及の程度に合わせて幾つかのシミュレーション結果として、料金の上昇率を定量的に示すべきであろう。

だから今回の短期的な電力不足を何とかするためには、あの程度には過激な料金体系にしなければならず、細かい金額の調整や還付などの工夫は別途行うとしても、まずはそれが「妥当な制度」であることを認め、我々はそこまでの覚悟が必要であるとをもっと周知・啓蒙しなければならない。しかし、マスコミはその道を逆行するかの様な報道の仕方である。

また、何故誰も指摘しないのかが分からないのだが、今回のピークシフトの料金プランは選択制であるが、本来はこれを全員に強制しなければ意味がない。だから選択性ではなく、政府の方が寧ろリードして、関西電力を含めて全国規模で強制的なピークシフトプランを導入すべきである。しかし、そんなことを言うと読者からの反発を買うと思うから、どの新聞もそんなことを書いたりはしない。今回の案は夏場だけかも知れないが、通年でこのプランを採用し、このプランを来年以降も長期的に継続することにすれば、それは太陽光発電の導入への強力なモチベーションとなるかも知れない。しかし、そんなことも誰も書こうとはしない。みんな、反発を買うのが怖いのである。

しかし、その様なことを語ることを恐れ、一方では「脱原発」というのは流石にそれはズルイとしか言いようがない。せめて、この程度の常識は持って欲しい。

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「感じる」ことと「考える」こと

2012-05-12 23:19:59 | 政治
既に1週間ほど前の日付だが、産経新聞に「感じるな、考えろ!」という記事があった。書き出しは大橋巨泉さんの逸話から始まっているが、内容としては、問題、課題、事件や事象について、ついつい我々は「好きか、嫌いか」といった感覚での判断をしがちだが、そうではなく「考えて判断する」ことの重要さを知り大切にしなければいけないと説いている。

実はこの記事を読んで、思わず膝を叩いてしまった。特に最近の政治家には考えもせず感じて済ませる人が多いような気がする。しかし多分、それは政治家だけではなく一般市民の多くの人も考えることの大切さを感じていないのではないかと思っている。

話は逸れるが、先日、原発稼働の是非を問う住民投票条例制定を目指している団体「みんなで決めよう『原発』国民投票」が都に条例制定を直接請求し、都選挙管理委員会の集計によれば、その署名数が32万を超え住民投票条例の制定を請求するのに必要な署名数を上回ったという。その署名が都に運び込まれるシーンもニュースで流れたが、確かダンボールで160箱を上回ったと聞いている。いつもの通り、私の意見を最初に述べるとすれば、住民投票をやるのは「どうぞご自由に!」だが、その結果に強制力を与えるというのは反対である。つまり、長い人類の歴史は成熟した制度として間接民主主義を選び現在に至るのであり、その間接民主主義に対して拘束力のある直接投票はあるべきではないと信じている。その理由はまさに「感じるな、考えろ!」にある。

もちろん現在の政治家の中に考える能力の低い人が紛れ込んでいる事実は大いに認めるが、多くの国民が「感じた結果としての判断」ではなく、「考えた結果としての判断」を下せるとは私は信じていない。もし国民が自らにとって厳しい選択を敢えて選ぶことができ、その様な判断を行うと宣言した人をちゃんと当選させることができるならば、これほどの財政赤字を積み上げてなどいないはずである。しかし、これはギリシャをはじめ世界中で起きている事態なので、何となく感じるままに行動していたら、破滅への道に一目散に向かってしまうのは間違いないだろう。その様な責任ある「考える」行動を一般市民に求め、そしてその責任を同じ市民に求めるのには無理がある。最後は政治家が責任感を持って判断し、何かあればその責任を取るのである。

そもそも、仮に住民投票を行うとしても、どの様な命題でYes/Noを求めるのであろうか?巷では様々な政治的な議題について世論調査としてアンケートが行われている。そのアンケートですら選択肢を5つ程度(賛成/どちらかと言えば賛成/どちらかと言えば反対/反対/どちらとも言えない)用意しているのに、多分、住民投票ではYesとNoの2者択一になるのであろう。その時、住民投票の命題が「あなたは民主党政権を支持しますか?」の様な表現だとして、仮に「民主党政権には反対だが、野田総理の国民に痛みを強いることも敢えて行う政治姿勢には賛成」というスタンスの人は、「民主党政権を支持」と回答すべきか「不支持」と回答すべきかは、人によって意見が分かれるところである。そこで「野田さん、頑張って」という気持ちを込めて「支持」としたが、その後、9月の代表選で4人目の総理が生まれた後で、「あなたは住民投票で『支持』したのだから、4人目の総理にも責任を持ちなさい」と言われても、当然ながらそんなことを言われても困るだけである。世論調査の5つの選択肢ですら自分の複雑な気持ちを表現するのには不十分なのに、それを二つの選択肢で正確に意見を吸い上げることなどできるはずがない。一口に脱原発と言っても、数十年かけた緩やかなソフトランディング型脱原発もあれば、即時の脱原発というハードランディングもある。これでは正確な意見の集約にはなり得ない。

まあ、住民投票のやり方は今日の議題ではないのでこの辺でやめておこう。話を元に戻せば、これまではどちらが国民が喜ぶか悲しむか、すなわち「感じる」を重視した政治が行われてきた。しかし、それはもう限界が来ているということである。「非線形の100次元連立方程式を解く」でも書いたのだが、現在おかれている状況は簡単に答えが見つかるような単純な問題を扱ってはいない。だから、ちょっと考えただけでは答えにはたどり着けそうになり。そんな時、何となく「有権者が喜びそう」と「感じる」ことへの感性だけに敏感になり、民意はここにありと言っても意味はない。少なくとも論理的な議論を丁寧に行い、最大限の「考える」努力とその結果得られた知見を示してもらわなければ、それは政治家としての価値はない。我々はそれを政治家に求めているのである。だから、選挙においては我々は、政治家がその難解な方程式を解く能力(自分で解かなくても、ブレーンが解けても良い)を持ち合わせているかどうかを判断して投票をすることを求められる。

そして、そんな政治家に対し、時としてイザ本番の前に練習問題として「こんな問題をあなたはどう解く?」と簡単な練習問題が与えられる。政治の世界の難しい方程式の解き方は分からなくても、もっと単純な方程式なら解答例を見れば答えが合っていそうか間違っていそうかが判断できる。

例えば、ある判断をしたとき、その判断に論理的な正しさが伴うのかどうか、単に感情的な判断なのか?言い換えれば、「感じる」の答えなのか、「考える」の答えなのかをその判断から読み取るのである。論理的な判断であるか否かは、論理的な判断の前提条件を崩さずに積み上げた結果であるかどうかをみることで分かる。例えば、例外的な特別の計らいがそこに含まれていないか、原理原則にどれだけ基づいているか、世間の常識に照らし合わせてみたときにどれだけ合致しているか。だから、ご都合主義でコロコロ言い分を変えるのは相当怪しいとしか言いようがない。

しかし、ただ一つだけ例外はある。これを忘れてはいけない。例えば総理大臣や閣僚になり、国家を背負った発言が求められる場合である。国家には国家として、諸外国に対してご都合主義と思われる行動は決して許されないのである。だから、その国家としての継続性、整合性を維持するために、政治家個人の心情を曲げるのは仕方がない。全ての優先度を国家に置くのか個人の信条に置くのか、それは政治家であるのであれば間違いなく国家に置かれなければならない。

この例外だけを許容した上で、政治家の言動を顧みると見えてくるものがある。誰に信用がおけて、誰が信用できないのかを・・・。

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