けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

福岡の殺害事件の再審開始決定から浮かび上がる問題点

2011-11-30 23:17:56 | 政治
今日、86年に福井で起きた女子中学生の殺害事件の再審開始決定が出た。

NHKのクローズアップ現代でもこの話題を扱っていたので見入ってしまった。その後もいろいろなニュースで扱われていたので、如何に無茶苦茶な裁判だったかは良くわかる。にもかかわらず、第一審で無罪判決が出た後の第二審以降、有罪判決となり刑が確定し、刑期を終えたあとも引き続き再審請求を続けてきていたという。

話を聞いていれば、問題点がどこにあり、どうすればよいかは明らかなようであるのに、実際にはその様な動きはない。政治家であれば、この様なニュースを聞いたら、即座に法改正なりの行動を起こして頂きたいと思う。少し受け売りながら話を整理して見ようと思う。

まず、この様な冤罪(まだ確定していませんが)事件が起きてしまう第1の原因は、「検察の不十分な証拠開示」に尽きる。警察及び検察は、国家権力を駆使して証拠を根こそぎ集めまくる。そこには強制力を伴う、強力な権限がある。一方、弁護側にはその様な権限はなく、自力で証拠を集めようとすれば費用もかかるし、誰かに情報提供を求める場合にも任意での協力を求めるしかない。ここに、極端な非対称が存在する。つまり、圧倒的に検察が優位な状態で裁判を戦うことになる。そこで、弁護側は検察側に対して証拠の開示を求める。検察は、裁判では自分に有利な証拠のみを提示し、不利な証拠は隠してしまう。厚生労働省の村木さんの例にも見られるように、その不利な証拠の中には、被告の無実を証明できる証拠すら含まれていることがある。しかし、その様な証拠が表に出てしまうと真犯人を捕まえることが出来ていない現状を非難されてしまうために、イマイチ疑わしいと思いながらも、都合の悪いところに目をつむって強行突破しようとする。私は、警察がその様な行動を取ることは十分予想ができるが、検察が何故その様な不十分な証拠で起訴してしまうのかが不思議で仕方がない。

では、この様な状況が現実的にある場合、それを覆す最後の砦は裁判所である。弁護側からの証拠開示要求に対し、私は素人ながら「何故、裁判所は証拠開示を命令しないのか?」と思ったのであるが、過去に証拠開示命令を出した裁判官はいたのだそうだ。その後、その命令の有効性を争う裁判が行われ、最高裁で「裁判所に、証拠開示を命令する権限はない」という判決が出て、判例を重視する日本ではそれ以降、開示命令が出にくい状況になってしまったそうである。つまり、ここに決定的な問題がある。裁判所に、証拠開示を命令する権限がない点である。せめて、裁判所が諸般の事情を考慮し、必要に応じて命令できれば全く問題ないのであるが、法的に命令する権限が無い以上、法律に基づく行動が求められる裁判所には何もすることができない。

そこで、次に誰もが思うのは「何故、証拠の開示が許されないのか?」という疑問である。クローズアップ現代にゲストで出ていた裁判官OB曰く、「開示される証拠には、捜査の詳細が含まれるので、もし、真犯人が別にいた場合、その情報の漏えいが真犯人の逃亡を助ける可能性があるから」というのが理由だそうだ。「えっ?」と驚いてしまう理由だが、百歩譲ってその主張が正しかったとしよう。それでも、素人でも気がつく疑問が湧いてくる。私もまさに「では、最高裁で刑が確定した以降であれば、それは理由にはならないよね?」と思ったのである。実は番組の中でも、その点はその裁判官OBも指摘していたのであるから、それは誰でも気がつくロジックである。もう少し言えば、最高裁で刑が確定した後も証拠を開示しない理由が「もし、真犯人が別にいた場合、その情報の漏えいが真犯人の逃亡を助ける可能性があるから」であるならば、「もし真犯人がいる場合、その存在を明らかにするには証拠の開示が必要であるはずなのに、開示を許さないのであれば真犯人が捕まらずに済むように幇助していることに結果的になる」という事実と明らかに矛盾する。

基本は「裁判中に全ての証拠を開示する義務を検察に負わせる」ことだと思うが、それが一足飛びに無理であるなら、最高裁の判決確定後、速やかに求めに応じて全ての証拠を開示する義務を負わせ、不都合な証拠を隠滅したら、その証拠を管理していた責任者と証拠隠滅の当事者を罰する法律を作って欲しい。

多分、このようなことをする検察・警察の方々は、あまりにも単純なことであるはずなのにことの本質を分かっていないのだろう。冤罪を生むということは、真犯人を野放しにしたままの状態を許すことに他ならない。福井での事件の場合には、警察で拘留中の元暴力団員に対し、今回の再審請求が認められた容疑者が犯人である旨の供述をする見返りに便宜を計り、さらにその元暴力団に虚偽の供述を求められた別の承認に対しても、「ここで供述してくれたら、別の事件で捕まっても見逃してやる」と言って供述を求めたそうだ。つまり、真犯人の逃亡をまさに手助けし、気が付けば時効が成立するだけの時間が経ってしまった。自分が自ら手を下して、真犯人の逃亡を助けたという事実を忘れないで欲しい。

ちなみに、今回の再審請求が認められた容疑者にはアリバイがあったそうである。ご両親に加え、兄弟夫婦と事件があった時間に一緒にいたそうである。ご家族としては、自分達が一番無実であること、冤罪であることを知っていながら、容疑者の家族という理由で証言能力を否定されてしまうことがどんなに辛かっただろうかは予想ができる。

失われた時間は戻らない。だからこそ、これ以降に同様なことが起きないような法改正を速やかに行なって欲しい。

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日本人は「白黒2元論」が好きか?

2011-11-28 23:23:31 | 政治
今日は新聞やテレビ、ラジオなどは大阪ダブル戦の話題でもちきりだった。色々な立場でのコメントが寄せられたが、その中で、「日本人は白か黒か、2者択一を迫るのが好きだ」という2元論的な取り扱いの是非を問うていたところが幾つかあった。

本当にそうだろうか?ちょっと、事情が違うんじゃないかな?と思った。

その様な論調のポイントは、「大阪都を作ったからといって、単純にバラ色の未来なんて待っていない」ということである。先日も、自民党の加藤紘一氏が産経新聞の取材の中で、小泉元首相のことを引き合いに出して「郵便局を直したらこの国が救われるなんて、こんなバカな話があるかね」と言っていたが、まさに議論を矮小化してポイントを逸らした議論に終始する、そういう類の話に近いものを感じる。「財政投融資による財源があるから、無駄遣いをして平気でいられる状況を治すために、財源自体をなくしてしまうのが最も近道」という小泉さんの問題提起に対し、何ら答えを返そうとしていない。

実際のところはどうか知らないが、小泉元総理も橋下新市長も、別に「郵政民営化」や「大阪都構想」を決して目的だとは思っていないと思う。そんなことは、少々乱暴にいえば、別に実現なんかできなくたって構わないと思っているに違いない。つまり「郵政民営化」も「大阪都構想」も、単なる「手段」に他ならない。だから、別にもっと良い手段があれば、「郵政民営化」や「大阪都構想」にこだわったりはしないのだと思う。しかし、長い歴史の中で、それ以外の手段を議論したくても誰も本気で議論に乗ってこないから、だったら最も象徴的な手段を選択し、それを行動に移したのだと思う。未だに、小泉元総理が提起した問題に対し、郵政民営化以外の答えを提示しようとする人は出てこないし、大阪市長選では平松市長は、2重行政の問題を解決するための具体的な策を結局口にすることなく終わってしまった。口にしたのは「大阪都になっても何もメリットはない」ということだけで、現在、目の前にある問題を解決しようという具体策に言及せず、「そんなことは今までもやってきました」と抽象的に答えてそれでおしまいだった。そのやり方が正しいなら、橋下新市長の問題提起自体が間違っていることになるが、その問題自体には理解を示すのだから、何をいってるのだか・・・と思ってしまう。

話をもとに戻そう。日本人は2者択一が好きなのだろうか?

TPPの時もそうだったが、結局、白か黒かをはっきりするのを嫌って、中途半端な結論になってしまった。常にこうである。日本人は白か黒かをはっきりするのが嫌いなのである。今回の大阪の場合を例にとれば、そこら中に無駄使いがあり、既得権益を守りたい人たちが大勢いる。無駄というのは急には巣食う状態には成り得ないので、長い時間をかけて今の状態となった。無駄をなくすためには現状を変えていかなければならないが、長い時間をかけて変わってきたのだから様々な問題がそこに存在し、たったひとつの小さなことを変えただけでドラスティックに変わる訳がない。以前、「非線形の100次元連立方程式を解く」でも書いたが、現実の政治は問題が複雑すぎる。それを強引に解決しようとしたら、最も重要なポイントに的を絞り、せめてそこだけは変えていこう・・・と言わざるを得ない。竹中平蔵さんは、最も重要なポイント(方程式で言うところの「変数」)を20個ぐらいまとめて解決する策を提示したのだと思うが、そこまでの精度がなくても世の中は十分良くなれる。

しかし、現状を変えたくない人はそのような議論を逆手にとって、話を単純化し「『白か、黒か?』と言われたら少なくとも『白じゃない!』と答えるでしょ?」という2元論に自ら誘い、相手の主張を否定して回る。相手は、そんな単純な議論が目的ではないことを百も知りながらである。結局、有耶無耶にするために、敢えて問題が「白黒二元論」であるかのような方向に導こうとするのである。

しかし、今回の橋下さんと小泉さんは一枚も二枚も上手だった。相手のその様な戦術を逆に逆手にとってしまったのである。本来、相手が罠を張ってきたと分かれば戦術を見直さなければならないのに、平松さんも郵政民営化の亀井さんも、相手の土俵に乗って勝負してしまった。そして負けた。

硬直化した政治の世界を変えていくためには、少々強引な議題を振って、国民・市民の関心を誘い、現状を変えたくない人を議論に巻き込まなくてはならないことが多々ある。今回もまさにそうだった。「手段」である「大阪都構想」はどのような結果になっても構わない。少しでも現状が良くなっていくのであれば・・・。

p。s。
今日、最も気になったニュースは大阪ダブル選挙ではなく、「福島第一原発の吉田所長の入院」記事である。無事であることを祈りたい。

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大阪ダブル選挙が終わって・・・

2011-11-27 23:43:57 | 政治
大阪ダブル選挙が終わった。

大阪維新の会の圧勝である。Mr.サンデーを見ていたら、3時間以上たっても記者会見を打ち切らずに質問を受けていた。こんな人が今までいただろうか?これだけで頭が下がる思いである。

思えば、平松市長と橋下元府知事との討論番組がゴールデンタイムに予定されていたところ、平松市長のドタキャンで番組が流れた時点で勝負はついていたと思う。そのニュースを聞いたとき、そう確信した。

理由はともあれ、自分の目指す理想を熱く語り、都合の悪い質問も正面から受け付け、勝ちとか負けとかではなく一人でも自分の理念を理解してくれる人が増えたらそれで満足。そんな政治家が望まれている。それなのに、平松市長は抽象的なことに終始し、正面から議論せず、イメージ戦略で橋下さんを悪者にして乗り切ろうとした。しかし、ラジオでの討論会などで分が悪いと見ると、「選対本部の判断」と人のせいにして逃げてしまうのだから、勝負はついていた。

国政の立場の人が、この力にあやかりたいと擦り寄って来ているようだが、あまり、そのようなことには橋下さんは興味がないだろう。少々心配なのは、新府知事であるが、そのへんは橋下さんがフォローするだろう。

とりあえずホットした一日だった。よかった、よかった。

#今日はあまり内容が無くてスミマセン。。。

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放射線を正しく怖がる方法(続編)

2011-11-26 13:54:24 | 政治
昨日、放射線を正しく怖がる方法について書いたので、今日はその続編である。

以前、つくば市が福島県からの転入希望者に放射線の影響を調べるスクリーニング検査の受診証明書の提出を求めていたというニュースがあった。つくば市の職員が勝手に言い出したのか、それとも他県からの避難者が言い出して受け入れざるを得なかったのか、その辺の事情は知らないが、「不安なのはおかしい!何とかしてくれ!」と度を越した典型例だ。

昨日の話をもとにすれば、このようなことを言い出した人は、他の人の守られるべき権利を侵害してまで「不安なのはおかしい!何とかしてくれ!」という権利はないことに気づいていない。「言った者勝ち!」だと思い込んでいる。その様な主張をする人が出てきたとき、「自分は責任を取りたくない。面倒だから、モンスター・シチズンに逆らわないでおこう」と行政側の人が考える点もおかしい。この様な問題に、「それは、この様に考えれば正しい判断ができる」と教えてくれる人がその周りに一人も居なかった点が不幸なのである。

例えば、「ストーカーに見られている、助けて!」と警察に駆け込んだ人がいたとする。警察は、当然ながら事情を聞き、具体的に状況を聞くだろう。その時、「私は被害者」と主張する人が、「○○さんに付き合ってくれと言われたが断った。あの人はしつこい人だから、きっとストーカー行為をするに違いない。」と答えたとする。「何か、具体的に無言電話とか、追い回されたとか、実例はありますか?」と警察は聞き、「そんなのないわよ!でも、あたしは不安で仕方がないの!私を保護して!」と言ったとすると、あなたはどの様に思うだろうか?不安な気持ちは同情するが、具体的な危険性を明示してもらえないと、行政側(警察)は動けないのが原則である。それを「不安なのはおかしい!何とかしてくれ!」という権利は、残念ながらないとわきまえるべきである。そして、その様な場合は具体的な危険性を早く見つけ出し、証拠をもって対応を迫るべきなのである。

では、つくば市の例をみてみよう。何が危険なのか?常識的に考えて、数m離れた場所で基準を超えるほどの放射線量を持った放射性物質が体や衣服に付着しているとは当然ながら考えられない。衣服などは着替えているだろうし、所々でガイガーカウンターでの計測ぐらい受けているはずだ。体内被爆した放射性物質が心配であるなら、周りの人に害を及ぼすぐらいの線量であれば、その人は直ぐに放射線障害で立っていられない状態になっているはずだ。元気でピンピンしていることから、そんな心配が不要であることは明らかだ。つまり、「私はあなたが『危険』であると証明することはできないが、あなたは私に『安全』であることを示す義務がある(ないしは、私はそれを求める権利がある)」と言いたいのであろうが、そんなことを言える根拠がどこにあるのか聞いてみたい。

話は変わって、その後に郡山市の小中学校で基準を上回る放射線量が計測され、表土を削ったら約1/6に線量が減ったが、その土の処分をめぐって市民から「政府が安全と言っているのに勝手なこと(表土を削ったこと)をするな!」と苦情があった。文科相からも別の意味でクレームが付いた。既に論理矛盾しているのであるが、「政府が安全と言っているから安全」だとその人が信じているのであれば、削った土は安全なので、単なる税金の無駄遣いとして後から責めれば良いだけである。その人たちが苦情を言うのは、「絶対危険に決まっている。そんな危険なものを、少なくとも自宅の近くに持ってこられては困る」ということを、そのまま言うと角が立つので別の言い方として「政府が安全と言っているのに…」と言っている訳だ。報道する側も、それは百も承知なのだ。

#私はこの報道があったとき「中立」を装うマスコミに非常に腹が立った。
#何故、自らのスタンスを示し、何が問題なのかは明らかにしようとしないのか…と。

今回話の場合、昨日の説明で言うところの「基準値を大幅に上回る土砂が、放射線の影響を受けやすい子供達が生活する校庭や園庭に、しかも面的な広がりをもって大量に存在している」ことが問題なのである。文科省の言っていることを誰一人として信じておらず、「危険」であるとの判断は妥当である。だとすれば、表土を削ることは喫緊の課題であり、そこまでの行動は全ての人が評価すべきである。問題なのは、その削った表土をどうするかに絞られる。市の職員が、あまり何も考えないで適当な場所に捨てようとしていたのであれば、その行為自体は批判されて仕方がない。ただ、人が通常は入り込まない広い場所が確保出来て、そこからの放射線量が周辺の人の往来のある場所でどの程度の値として測定されるかを予測し、その上で安全性が確保できれば国が最終保管場所を確保するまでの緊急措置として、未来のある子供達にリスクを負わせるのか、それともこの程度のリスクを皆で背負い合うのか…を議論することはできると思う。ちなみに、表土を削った土を一旦校庭のすみに積み上げて、その周りの線量を測定すれば上記の保管場所での線量はある程度の誤差の範囲で予測できるはずである。

最近であれば、被災地の大量のガレキを受け入れる自治体に対し、一部の市民から猛烈な反発が起きていることも問題になっている。この手の議論は、その危険性の定量的な把握とチェック体制の確保が出来るならば、本来、問題にはる話ではないはずだ。「自治体の言うことを鵜呑みにするな!絶対、何か隠しているはずだ!」という気持ちはわからないでもないが、ガレキを処分できないと被災地の復興は始まらないのである。建設的な議論をするならば、受け入れを拒むのではなく、安全確保の検査体制の強化を求めるのが筋である。「じゃあ、安全であることを示せ!」と言うかもしれないが、安全であることは既に示されていて、それに「納得しない」人がいるだけである。どこの世界にも、最後まで納得しない人はいるものだが、その根拠を論理立てて示すことができなければ、その様な人の話を聞くまでもない。

遅かれ早かれ、東京には第2の関東大震災がやがて来る。その際に東京から出るガレキの量は今回の東日本大震災での量とは比較にならないものであろう。今回ガレキの受け入れを反対する人たちは、その様な事態にいつかなったときに、いつまでもガレキを処分できない状況の東京都を素直に許すとでも言うのであろうか?石原都知事が「黙れ!」と言ったのは極めて妥当である。不安になるのはその人の勝手だから構わない。しかし何度も繰り返しになるが、「不安なのはおかしい!何とかしてくれ!」と要求する権利などは誰にもないのである。

前向きの建設的な議論を進めるためにも、放射線を正しく怖がることを覚えなければならない。

【余談】
私が就職したとき、仲の良い友人に某大学の原子力工学出身者がいた。その友人曰く、「『放射能』って言葉はないからね!」と口を酸っぱくして言っていたのを覚えている。テレビを見ると、なるほど専門家は絶対『放射能』という言葉を口にしない(例外的に、視聴者のレベルに合わせた説明をしようと心がけている専門家がたまに口にする程度である)。使うときには必ず『放射線』『放射性物質』と言う言葉を使う。このことから、ほぼ『放射能』という言葉を使うか使わないかで、その人の放射線に関する理解度を判断することができるようだ。実際、ニュースキャスターなどでも説得力のある説明が出来る人は『放射能』という言葉を使っていないから…。

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放射線を正しく怖がる方法(前編)

2011-11-26 01:10:42 | 政治
私はAERAのコラム(内田樹さんと養老孟子さんが隔週で執筆)が好きで楽しみにしているのであるが、今週の養老孟子さんのコラムで、放射線に関する記述があった。今日は原発事故に絡む放射線問題について書いてみる。

最初に断っておくが、私は放射線に関しては専門家ではなく、ただ大学時代の専攻は物理であったので、下記の「高校物理程度の知識と論理的(理系的)な思考ができる人」には該当していると思っているに過ぎない。誤りがあれば指摘していただきたい。

では本題に入るが、まず結論から言うと、今最も大切なことは賢明な専門化が主張する「放射線を正しく怖がる」ことを如何にして実現するかの対策を早急にまとめる…ということである。もう少し踏み込んで言えば、多分、高校物理の知識と論理的(理系的)な思考ができる人であれば「放射線を正しく怖がる方法」を理解できるであろうから、その様な人を世間一般の中に数多く育成し、そこを起点としてその他の人を正しく啓蒙する必要があるのではないかと思う。マスコミには文系の人が多いのかも知れないが、論理的な思考であれば耐えられる人が多いだろうから、影響力の高いマスコミ関係者から手をつけるのが良いかもしれない。

では、この「放射線を正しく怖がる」とは何を意味するのか?それは、数字(放射線量など)に踊らされず、その数字の意味を正しく理解することである。

分かり易く例えて言えば、50ccの原付バイクの制限速度は30km/hである。私は昔、バイク乗りだったので、バイクの危険性は熟知している。バイクには様々な種類があり、非力なスクーターやスーパーカブなどもあれば、オンロードレースのレーサーレプリカのようなスポーツ系バイクもある。この高性能のバイクの場合、リミッターが無ければ最高速度は100km/hにも及ぶほど、その動力性能は高く、実質的には車と同等に走っても軽自動車と比べればそれほど遜色はない。しかし制限速度は30km/hであるので、Keep Leftを守り、自動車にビュンビュン追い越されていくのに甘んじなければ交通違反となってしまう。この様に、相対速度差がある車両が混在した状態は危険であり、もしスクーター等の非力なバイクが存在しなければ、むしろ高性能バイクの制限速度を引き上げた方が、実質的には事故が減り、交通事故死亡者も減るかも知れない。実験などしようもないのであくまでも仮説であることはご容赦頂きたい。

一方で、制限速度が30km/hといわれれば、制限速度を守っていれば安全か?といえば、答えは「否」である。街角の狭い路地を走るのであれば、小さな子供の飛び出しに対し、時速30km/hでも対処できず、ひき殺してしまう可能性は十分にある。他の例として、時速100km/hが制限速度の高速道路で、「俺は安全運転のために、原付バイクと同じ時速30km/hで走ろう!」なんて輩がいたら、これはもう殺人的に危険である。このことから言えることは、法体系的に、全てのことは何らかの基準値(ここで言う制限速度)が必要であり、それなりの根拠をもとに線引きをする必要があるが、「法律的にどうか?」ということとは別に「実効的には本当はどうなのか?」と言うものが個別の事情を背景としてあり、それを理解した上でその状況の危険度を個別に判断すべきなのである。

政府の立場からすると、将来、裁判沙汰になった場合のことも考えて、何らかの基準を示さなければならないし、枝野前官房長官が「ただちに健康に害を及ぼすことはない」との発言を頻発したように、それなりの解釈を示さなければならないだろう。しかし、その基準および言葉の意味をちゃんと理解しないと自分の身を守ることはできない。

しかし、それとは逆に「何でもかんでも怖がれば良い」という結論にもならないことに注意しなければならない。養老孟子さんはAERAのコラムでこの様な人を「不安になる(怖がる)権利」という言葉で捉えたが、言いえて妙である。先ほど例示したように、高速道路で「怖いから時速30km/hで走る」人が出てきたら、高速道路は成り立たないのである。そんな高速道路は怖くて走れないのである。「不安なのはおかしい!何とかしてくれ!」という権利を主張するのは、度を過ぎるとモンスター・ペアレントならぬモンスター・シチズンになりかねない。だから「安全だ、安全だ!」と言うのも問題だが、「怖い!怖い!」と言うのも問題である。

では、正しく怖がるとは何を意味するのか?それは、まさに論理的(理系的)な思考に基づく危険度の定量的な把握に他ならない。少々乱暴な説明と言われるかも知れないが、ポイントは大きく分けて7点ほど挙げることができる。

※注意)ここでは年間1mSv(ミリシーベルト)を基準として説明をしている。一時、文科省が年間20mSvと言っていたが、それが本当に危険と言い切るだけのデータに基づく根拠はないのかも知れないが、特に子供の場合にはリスクは十分大きい。被爆量は少ない方が好ましいが、自然界の放射線量もあるので、年間1mSvであればほぼ全ての専門家が同意すると思われる。言い換えれば、この厳しい基準を採用するならば「政府の言うことなんか信じられない」と恐れる必要はないと言える。

【Point1】
「放射線の影響は、瞬間的な放射線料ではなく、1年間当たりに換算した累積値で理解すべし」
この意味するところは、例えばある場所で放射線量が高かったとしても、その場所に居る時間が殆ど短くて、殆どの時間は放射線量の低い場所で過ごすならば、1年間の被爆量は大した値にならない場合がある。逆に、それほど高い放射線量でなくても、殆どの時間、その放射線量をあび続けるならば、累積値非常に高くなるかも知れない。一例として、年間1mSvを基準値だと考えた場合、1年間は8760時間なので、1/8760倍して0.11μSv/hが単純平均の1時間辺の許容放射線量となる。だから、仮にある場所の放射線量が10μSv/hであったとしても、1日にその場所に居る時間が5分で、残りの23時間55分は0.01μSv/hであったとすれば、1年間の累積線量は{10μSv/h×(5[分]/60[分])+ 0.01μSv/h×(23[時間]+(55[分]/60[分]))}×365[日]=391.4μSv=0.391 mSvとなり、年間1mSvを下回る。逆に、0.2μSv/hに24時間さらされていれば、0.2μSv/h×24[時間] ×365[日]=1.752 mSvとなり、許容線量を超えてしまう。この様に、真の意味での累積値をちゃんと評価しなければ、危険性を定量的に評価することにはならない。

【Point2】
「現実的な条件で瞬間的な放射線量を評価すべし」
例えば、保育園の園庭での空間的な放射線量を地上1mの地点で測定した場合に0.1μSv/h、地上5cmの場所で3μSv/hであったとする。大人が立っていれば、体の中の重要な臓器は地上1m以上の高さであろうから、地上1mの放射線量を累積線量の評価で用いても良いかも知れない。しかし保育園児は、多分、地べたにぺったりとお尻を付けて、非常に体が地面に近いところで遊ぶことになるだろうから、その様な場合には地上1mの放射線量は殆ど意味がなく、せいぜい地上20cm程度の線量で評価しないと過小評価になるであろう。計算する場合には、実際の状況に応じた線量を用いないと、殆ど意味がないのである。

【Point3】
「単純なモデル化が自分の環境と乖離していたら参考にならない」
大抵の場合、「大人であれば1日の大半は屋内で過ごすから、屋内は屋外に比べて線量が1/10として評価する」といったモデルを仮定して評価する。しかし、放射性物質は空間上に浮遊する塵にくっついて運ばれるから、その塵が屋内に入り込んでいると、意外に屋内に入っても線量が1/2にしかならなかった…などと言うことが有りうる。この状況で「屋内は1/10」のモデルで評価しても、当然ながら正しい評価とはならない。モデ化する場合のモデルは、個々のケースに合わせて設定しなければならない。つまり、モデルの妥当性を判断するためには、国や有識者が様々な状況での測定データを広く開示する必要がある。

【Point4】
「局所的な線量に踊らされないこと」
これは理系の人間であれば誰でもご存知だろうが、敢えて、常識的なことを図を用いて丁寧に説明させていただく。下記にふたつの図がある。放射線の線量とは、放射線を出す放射性物質が何処かにあった場合、その場所から全方位にほとばしり出ている。それはあたかもライトが光っている状況に似ていて、遠く離れるほどその光の強度は弱まる。



左の図(1)を見てもらえば分かるように、球状に広がる光はその球の表面積が距離Rに対して4πR^2となることから、遠くに行けば半径の2乗に反比例することが分かる。その状況は、矢印の密度が遠く離れると低くなることからも理解できる。万有引力にしてもその強度が距離の2乗に反比例するのはこの様な理由である。しかし、この光源が面的にズラリと並んでいる場合を考える。右の図(2)を見れば、光源から離れても矢印の密度が殆ど変わっていないのがお分かりだろう。つまり、ひとつの光源からの光は遠く離れると弱まるが、逆に離れれば離れるほどよりたくさんの周りの光源からの光(図における矢印)を集めることが出来るので、両方の効果が相殺されてあまり距離に寄らず明るさは減衰しない。これは、例えば雨樋の下の場所でピンポイントで放射線量が高くても、殆どそこに近づかないのであれば、あまりその放射線量の影響は受けずに済むことになる。逆に、そこまで線量が高くなくても、ほぼ全ての地面が一様に放射性物質を含んでいるのであれば、地面から離れても放射線量は下がらない。この様な性質を理解した上で、怖がるべき線量と恐る必要のない線量を適切に把握すべきである。なお、時間的に短かったとしても、雨樋の下での放射線量が60μSv/hであったとすればこれは放置できない。何故なら、たった3分、その線量を浴びただけで1日分の許容線量に達してしまうからだ。たまたま庭仕事をその場所で1時間続けたとすると、それは22日分の許容線量に相当するので、この様な状況は早急に解消しなければならない。一方、地面全体に一様に放射性物質が含まれる場合には、学校の校庭や保育園の園庭の土を5cmほど削るのには意味がある。

【Point5】
「被爆料は外部被爆と内部被爆の両方に対して累積値(総量)評価せよ」
例えば保育園の園庭であれば、泥まみれになり砂埃を多く吸い込む環境で子供たちは遊ぶことになる。この場合には、その危険性は内部被爆量がどの程度になるかを予測して評価しなければ、外部被爆である空間線量のみを評価しても意味がない。また、一時期、水に混入する放射性物質が話題になりミネラルウオーターが品薄になったが、1日の中で摂取してしまう放射性物質の総量が問題なので、水だけで一喜一憂する必要はない。極端な話、ある水に基準値の2倍の放射性物質が検出された場合、ミネラルウオーターで2倍に薄めて飲めば問題ないことになる。中々全ての食品の総量を見積もることはできないかも知れないが、基準値を若干上回る食品があっても、摂取量が少なければ全体の中では影響がない。水などは摂取量が総体的に多いので気になるところだが、あくまでも総量が問題である。

【Point6】
「年齢により、被爆のインパクトに差があることに注意すべし」
非常に乱暴に言えば、良く「インパクトは年齢の逆数に比例する」と言われる。1才の子供と50才の大人では、その影響の出方が50倍も違うことになる。とすれば、その極端な例は、妊婦のお腹の中の胎児や生まれたばかりの赤ちゃんである。これらの人たちは、通常よりも深刻にその影響を考える必要がある。逆に、(怒られるかもしれないが)60才過ぎた人たちは、基準を少々超えたとしても問題はない。これらの基準は、十分、子供達にも耐えられるように設定されるべきであるから、その基準値に踊らされる必要はない。妊婦と普通の大人は同列に議論すべき対象ではない。

【Point7】
「基準値は単なる基準であり、それを超えたか超えないかよりも比率(総量)で判断すべし」
例えば、水に混入した放射性物質が1L(1kg)当たり510ベクレルであったとする。基準値を超えてはいるが、その危険度は0 or 1で判断すべきではない。基準をちょっとでも下回れば安全で、ちょっとでも超えれば危険という訳でもない。510ベクレルは、基準に対して2%オーバーの危険度と見るべきである。さらに言えば、1日の摂取量に換算した場合、実際には水以外も摂取しているので、その危険度は2%を大きく下回る。基準はあくまでも基準でしかないので、それを上回るか否かが全てではない。

この様な観点に立って考えれば、京都の大文字焼きで被災地の松の木を燃やしても、その影響など絶対量として全く問題ない量となることは分かるだろう。被災地のガレキにしても、線量を図って持ち込み、臨海部の埋め立てに利用する(上に土をかぶせれば線量は減衰する)のであれば、埋め立て後にそれらから出る放射線量がどの程度になるかは計算で推定することが出来るであろう。その値が、自然界の放射線量と比べて殆ど差がなければ、実際には無害と言えるし、多少、自然界よりも線量が高くても、年間1mSvの基準と比較して安全か否かを判断することはできる。

あくまで放射線に関しては素人の私が整理したポイントなので、専門家の方がより正確かつ有益な情報にまとめてもらえるとありがたい。しかし、全体的にはそうは外してはいないだろう。この程度の内容であれは、例えば10人に1人ぐらいは十分に理解できるだろうし、その様な理解者をコツコッツと増やしていき、そこから広く一般に啓蒙していけばよいと思う。官房長官談話で「直ちに健康に被害を及ぼすことはない」とは、「継続的にその状態が続けば危険となる可能性が高い」ということを意味している。政府が「安全」というから安全なのではなく、逆に神経質な学者とともにマスコミが「安全とは言えない」と大騒ぎするから危険という訳でもない。「安全とは言えない」は「危険である」とは微妙に意味が違う。一番信用できないのは、「2重否定的」な表現を使う人達である。妊婦や赤ちゃんが敏感になるのは大いに共感できるが、少なくともそれ以外の人が「不安になる(怖がる)権利」を主張するのには注意が必要であろう。

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セーフティ・ネットのあり方について考える

2011-11-23 22:21:07 | 政治
最近、生活保護の話題を新聞やテレビで良く見る。住んでいる場所や家族構成など、様々な条件で金額が異なるが、自営業者の国民年金と生活保護で支給額の逆転現象が起きているという事態が問題視されている。

マスコミなどで良く比較される例は高齢の単身者などの場合で、非常に大雑把にいえば国民年金が7万円前後であったとすれば、生活保護の方はプラス5万円程度の差がある。つまり、悪く言えば「働かない方が5万円だけ得」なのである。この内訳を説明すると、(私の理解では)生活保護には様々な項目での支給があり、「生活扶助」では概ね同程度であったとしても、「住宅扶助」に5万円程度の加算があるためである。間違っていたら指摘して欲しい。

確かに、生活保護を受ける人は家のない人が殆どであろうから、生活扶助が7万円程度だとすればその半分は住宅費で消えてしまい、残りの金額で生活するのはギリギリかも知れない。しかし、40年近く真面目に働き続け、満額の年金を納付していた人であっても持ち家のない人は相当数いるであろうから、そのような人にしてみると「何故自分には『住宅扶助』に5万円支給してもらえないのか?」と思ってしまうだろう。あくまでも比較の話なので、自分の払った年金と給付額のバランスを議論しているのではなく、「真面目な人が損をするのは納得できない」というだけの話である。

しかし、では「生活扶助」を支給しなくなればそれで良いかというと、それで全てが解決するわけではないので事は厄介である。私はあくまでも素人なので、法体型的に、ないしは現在生活保護を受給している既得権益者の権利的に、どのような議論になるべきかは知らない。だから、あくまでも「ゼロから議論を出発した場合の話」と割り切って読んで欲しい。

ちょっと話がそれるが、「Basic Income」という議論も最近よく聞くようになった。早い話が、働こうが遊んでいようが、どのような人でも最低限の収入を受給できることを保証するというものである。勿論、財源の議論をした途端にこの話は破綻してしまうので、単なる思考実験的なものかも知れない。しかし、私がこの思考実験の結果として考えたことは、「Basic Income」の本質はすべての人に「最低限のお金を渡すこと」ではなく、全ての人が「最低でも生きていける環境を保証すること」と置き換えると、あながち不可能なことではなくなる様な気がする。少なくとも万人にお金を給付するよりは桁違いに費用は少なくて済むと思う。

もう少し話を具体化すると、多くの高齢者が大金を持ちながらも、その溜め込んだお金を使わずにしまい込んでおり、消費にお金が回らない理由のひとつには、「どうかすれば、食うものが食えない、病気になっても医者にかかれない、住む家も無く追い出されて路頭に迷うかも知れない」という恐怖が少なからずあるからである。であれば、所定の条件の下で手続きさえすれば、「何があっても必ず住む家は保証する、食事は保証する、(無駄な医者通いがないかの管理のもと)医者への受診は保証する」とすれば、大分、安心できるのではないかと思う。つまり、年齢や家族構成により環境は異なるものを提供するという前提で、大規模な集合住宅を作り、例えば高齢の単身者であれば6帖間ぐらいにミニキッチンを付けたこじんまりとした部屋を提供し、談話室(コミュニケーションルーム)、風呂、トイレなどの共用スペースと、朝昼晩の3回、無料で食事を提供する食堂などを備えるようにする。その近くには、指定の小さな診療所を作り、その診療所であれば無料で受診できることとする。その診療所で対処できない病気の場合、その診療所からの診断書をもらうことで、その病気限定で他の病院を無料で受診できることとする。

ここまですれば、仮に現金の支給を行うにしても、月に1万円程度の支給でも「健康で文化的な最低限度の生活」と言えるのではないかと思う。このような施設への入所条件は、給与所得ないしは年金所得が幾ら以内の人というような条件を付ければ、それ以上の所得の人は差額に相当する金額を払い込むことで、施設への入所が許されるとすれば良い。財産などの扱いも含め、細かい条件は幾らでも工夫はできる。勿論、収入を正確に把握できないといけないので、納税者背番号制度などは必須になるであろう。

これは子供にも同様である。例えば、高校生以下の子供がいる家庭において、両親が病弱で働けないというような場合、その様な家族を集めた集合住宅に、家族構成に見合う部屋数のスペースを与えればよい。学費などは、無償化や奨学金などで手当すればよい。現金給付の額も、児童手当的な意味合いを込めて給付額を決めればよい。

多分、今の制度よりも自由度が大幅に減るので喜んで入る人は最初は少ないかも知れない。しかし、高齢者に代表されるような同じような境遇の人が1箇所に集まることで、新たなコミュニティが構築され、隣近所と会話することもないような殺伐とした生活で孤立感を深める人たちにすれば、半ば強制的な形で住むことになった場所であっても、住んでみると意外に住み心地は悪くないのではないかと思う。

実は、私の父は要介護認定を受けて、特別養護老人ホームに入っている。一時的に病気で体調を崩し、要介護4であったので申し込んだところ今のところで受け入れてもらうことができた。現在は介護度が低くなったが、一度入ると要介護認定が取り消されない限り、現状を維持できるようである。父曰く、「ホテルみたいだ」と言っていたが、確かに綺麗でそれなりに広い個室で、食事から介護の全てまでやって頂いても、月当たり16-17万円程度ですむ。定期的に医者にかかっているの医療費も必要だが、1割負担のために年間で見れば年金生活者でも十分に黒字の生活ができる。しかし、父よりもちょっと健康体だとこのような施設には当然入れず、私費で同程度のクラスの老人ホームにはいろうとすると、膨大なお金が必要となり、入所時に数千万円用意しなければ、例えば月々の費用が25万円以上必要となったりして、年金生活者にとっては蓄財を食いつぶしながらの赤字生活を余儀なくされてしまい、死ぬまでお金がもつのか?と考えるととても入れるところではない。このような好条件の施設を避けて、身の丈にあった場所を探すとなると、多分、プライバシーなどはカーテン1枚しかない4人部屋での生活が余儀なくされる。現実は非常に厳しい。

このように、介護認定などのわずかの差で、健康体でないが故に「天国」での生活ができる人と、健康体であったばかりにそれより大幅に低いレベルでの生活を余儀なくされたりする。私の父の施設には(ありがたいことに)膨大な介護保険のお金が投入されているのであろうが、これからの時代では、このような大盤振る舞いを続けていくことはできない。人々の感性に照らし合わせて、違和感のない少々不自由な落としどころを探さなければならないことは目に見えている。

3月の大震災の際に、被害に遭った被災者の多くが仮設住宅に入った。高齢者である被災者(全国の高齢者も同様であるが)に関しては、多分、ひとりひとりの部屋は少し狭く(トイレとシャワースペースは確保)し、その代わり風呂や食事などのスペースを共用化した快適なコミュニケーションスペースを確保したような設備を多く作ってはどうかと思う。勿論、このような施設を好まない人は入らなければよい。

話が発散して恐縮であるが、今風に言えば「医(≠衣)」「食」「住」を担保するセーフティ・ネットを確立すれば、多くの人は意外に不平不満を言わなくなるのではないかと思う。少々不自由な、しかし昔何処かで懐かしい長屋の様な生活を強いるのは、いろいろな意味で良い方に好転するのではないかと思う。それによって幾らのお金が節約できるのかは分からないが、その筋の専門家の方で誰か計算してくれないものか・・・。

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大阪ダブル選挙に思う

2011-11-21 23:07:11 | 政治
今更ながらの書き込みであるが、11/27、大阪府知事、大阪市長のダブル選挙が行われる。

私は是非とも、橋下さん率いる維新の会の完全勝利となることを期待している。選挙戦がスタートした日、彼が(多分?)大阪市役所前で街頭演説した言葉に心を打たれた。

「大阪市民を守る。大阪府民を守る。しかし、大阪市役所や大阪府庁という組織は守りません。大阪市長というポストをなくすために、大阪市長になるんです。大阪市長になって、大阪市長をやり続けたいという平松市長と、そこが決定的に違う!」

こんな言葉を吐いて選挙に臨んだ政治家が今まで何処にいただろうか。これまでの政治家は、本能的に議員という自らのポストの維持のために、ありとあらゆる策を弄していた。選挙の票が欲しいから、自らのポリシーを曲げる政治家など腐るほどいる。その様な政治家は、熱い思いを語れない。熱い思いなくしては、国を(地方を)変えることなどできない。

「出る杭は打たれる」と言われる日本で、彼は思い切り「出まくった杭」となった。「叩けば埃が出る」人であれば、その様な行動をとれば直ぐに潰しにかかられる。多分、彼の政治的抹殺のために相当の金と労力が費やされたのだろうが、結局、何一つ出てこなかった。仕方なしに、彼には全く否の無い「彼の生い立ち」を攻撃材料に使った。その結果、ひょっとしたら彼の7人の子供の中の誰かが将来、深く傷つき思い悩む事態になるのかも知れない状況を作った。その様な罪のない子供達までを犠牲にしてまで、彼を潰したい勢力がいる。それに乗っかるマスコミとは、一体何なんだろうか?橋下さんに名前をすっぱ抜かれる前に、自ら署名記事とするぐらいの覚悟を持ってやっているのだろうか?非常に卑劣極まりないやり方だ。

一方、彼を「独裁」と呼ぶ人がいる。少々、誤解を恐れずに言えば、「独裁者ぐらい出てこないと、硬直した現状を打破できない」のである。こう言うと、「独裁を肯定」していると勘違いされるが、それは明らかに違う。「民主主義」とは「手続き」である。最近、「民主主義のコスト」が話題になり、その非効率さが民主主義のコストを全く払っていない中国に対してハンディキャップとなっているかの様な言われ方もする。しかし、この「民主主義のコスト」の代償として、我々は「独裁者」の暴走から身を守ることができるのである。つまり、悪意を持った「真の独裁者」が「独裁者」たり得ないようにシステムが出来上がっているのである。したがって、我々は独裁者を恐れて、政治の選択肢を狭める必要はないのである。「独裁者を許すな!」とは、(独裁者的な)扇動家の言葉としか私には聞こえない。

彼は小泉元首相とも良く比較されるかも知れない。特に今回の選挙などは「劇場型」や「シングルイシュー型」などとも呼ばれる。しかし、私は聞きたい。「劇場型」の全てが悪いのか?「シングルイシュー」ではいけないのか?

小泉元総理は「財政投融資」という制度が諸悪の根源と考え、この対策として「郵政民営化」を掲げて戦った。今の政治には問題が多すぎる。「ひとつの内閣でひとつの問題を解決」するとして何がいけないのか?あれもこれもと言うから、ひとつとして解決できないのである。であれば、優先順位を定めて最大の課題を選び出し、そこに一点集中で改革を求めるのは決して悪いことではない。小泉元首相も橋下元府知事も、その具体的且つ分かり易い解決策を明示しただけである。この「具体的」「分かり易い」解決策を示す力が、彼らの共通点なのだろう。

選挙の結果がどうなるかは分からない。
ただ、歴史的に非常に重要な選挙であることは間違いないだろう。

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政治家の質の向上のために

2011-11-18 22:59:24 | 政治
これまで色々なことを書いてきたが、言いっぱなしの部分は否定できないので、少しは世の中の役に立てないかと考え、提言できることは積極的に提言して行こうと思う。今日はその中から、政治家の質を向上するための取り組みについて意見させていただく。

国会議員は当然ながら選挙を勝ち抜いて現在の職を得ている。しかし、その選挙で勝つためには手段を選ばないという政治家が非常に多い。今回、TPP問題が大きな議論になったが、そこでの政治家の発言のうち、本来自分が正しいと信じている方向性と実際の行動が違う議員が一体どれだけいるのかに興味がある。例えば、「農家の票が欲しいからTPPに反対するが、本当はそれじゃまずい」という人は少なくないであろう。

その様な行動が許されるのは、一体、この政治家が個別の案件でどの様な判断をしてきたかが記録に残らないため、その時その時は無責任な行動をとっても許されるであろうと甘えているからである。しかし、政治家には何度も書いているように結果責任が問われるのである。とあれば、個々の政治家の履歴書として、なるべく多くの情報を記録したデータベースを構築し、そのデータベースを参照することでその政治家を評価できる仕組みを作り上げるべきだと思う。

では、問題はそのデータベースの作り方である。よくマスコミで行うアンケートでは、例えば首相の支持率調査などで「支持する」「どちらかと言えば支持する」「どちらかと言えば支持しない」「支持しない」「どちらとも言えない」などと5段階で評価されている例が多いが、TPPに賛成か反対かを問う場合には、5段階評価などは意味を持たない。もっと突っ込んだ、噛み砕いた具体的な選択肢を作成し、その結果より正確に把握できるように工夫する必要がある。

例えば、TPPを例にして私が考えた選択肢は以下のフローチャートで分類される。ここでの①は、意見をはっきりしたがらない無責任と言われても仕方がない人である。②から⑦の間は、数字が大きいほど積極派で数字が小さいほど消極派であるが、ただ、その程度を数字で表すというよりは、もう少し具体的に分類している。



例えば、「あなたは英語が得意?」と5段階評価で聞かれて、「(本当はペラペラなんだけど)高い目標を持っているので、まだまだです」と答えて②(上から2番目)と答える人もいれば、「(喋れないけど)英語は国語や数学より得意だった」と言う人が①(上から1番目)を選ぶかも知れない。これでは絶対評価とはなりえないので、もう少し定量的に認識できるように選択肢に具体性を持たせなければいけない。

この様な設問を何処かの機関(例えば、複数の報道機関からボランティア要員を出して運営するとか…)で作成し、少なくとも国会議員全員、さらに希望する登録者(何時かは選挙に出ようと考えている人が自分のスタンスを記録に残せるように、一般人にも門戸を開放する)に対してアンケートを行い、データベース上にその記録を残すようにすれば良いと思う。最初のうちは情報が少ないが、長年の積み重ねの後には、選挙の時に候補者選びに参考にできる情報となりえるのではないかと思う。特に、主張が一貫しない、ご都合主義的な無責任な政治家をあぶりだすのには役立ちそうだ。

如何だろうか?

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「言った/言わない」の裏にあるもの

2011-11-17 22:49:07 | 政治
何だか奥が深くて面白い。

野田首相がオバマ大統領との会談で、「すべての物品とサービス分野を、貿易自由化の交渉テーブルの議題にのせる」と言った/言わないの問題である。日本政府は米国政府に訂正を求め、一部報道では米国が日本の主張を認めたとあったのに、その後に「訂正はしない」としている。さらに、政府は訂正を求めたが、訂正しない現状を受けて、それ以上のことは言わないことを決めたともある。

最初、アメリカにいいようにやられているだけと思ったが、よくよく調べてみると面白い。まず、米国の報道資料には以下のような記述がある。

The President noted that all TPP countries need to be prepared to meet the agreement's high standards, and he welcomed Prime Minister Noda's statement that he would put all goods, as well as services, on the negotiating table for trade liberalization.

日本政府が「野田首相はそんなことは言っていない」と言えば、確かに「言っていないことは認める」が、この文章は(その通りのことを)「言った」とは書いていないので、その意味で訂正の必要はない…とのことのようである。つまり、本当に言ったのであれば引用符“”を使っているはずで、そうはなっていないから、これは野田首相の声明をオバマ大統領がどう解釈したかを意味していて、その意味では「大統領はこう解釈しているので訂正の必要はない」というのが米国政府の主張のようだ。一方で、日本の主張を聞き入れて発表内容を訂正すると、米国も日本の「例外品目設定」に同意したことになってしまうので、これを受け入れることは殆ど不可能である。

そもそも、9月のオバマ大統領と野田首相の会談の際に、普天間問題に対するオバマ大統領の発言を敢えて日本政府が不正確に発表したりと、お互いに微妙なところで駆け引きをし合っているのが常識の世界のようだ。だから、今回は米国政府が「野田首相が『そうは言っていない』ことを認める」代わりに、日本政府も「それ以上の深追いはしない(訂正を強硬に求めない)」というところを落としどころと考えているふしがある。

国会では、TPP反対派や野党が首相をこの件で追求しているが、当の政府サイドの人々は、今回の件は貸し借りの範疇で重要な話ではないと割り切っているので、議論はお互いにかみ合わない。

話は変わるが、北朝鮮との拉致問題の交渉でも、交渉を行なっている担当者同士では「○○さんは本当に死んでいる」「横田めぐみさんは返せない」「あと何人までなら日本に返してもいい」「ただし、それを最後にこれ以上は拉致を問題にしないと約束してくれ」というような、相当突っ込んだ話をしているという噂がある。真偽は定かではないが、外務官僚は日本の政治家が行う低レベルな揚げ足取りや有耶無耶な決着よりも、よっぽど微妙な駆け引きをしているようだ。その交渉ノウハウおよびエネルギーを、国内対策ではなく、諸外国との交渉に最大限に活用して欲しい。

同様にマスコミも、もう少し突っ込んだ背景の解析にエネルギーをさき、解りにくい部分の行間を読み込んで読者に解説して欲しい。素人が見ていても、「奥に何かあるな?何だろう?」というところをそのままにしないで欲しい。

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本田圭佑という財産

2011-11-16 22:37:05 | 日記
昨日、2014年W杯アジア3次予選で北朝鮮に日本代表が負けた。

テレビではその状況の異様さから負けた日本代表に対する同情の言葉が多く聞かれたが、よりによって11月15日という日本にとって大きな意味のある日(横田めぐみさんが拉致された日)に負けたことは残念でならない。何故負けたんだろうと考えながら、負けた理由ではなく勝てなかった理由に思い当たった。

本田圭佑の不在である。

少し時計を遡らせよう。2010年W杯の活躍で、岡田監督はいつしか優秀な監督と位置づけられるなった。しかし、W杯直前の代表強化試合の韓国戦までは、多くの人がその能力に疑問を持っていたはずだ。しかし、次のイングランド戦で流れが変った。岡田監督の決断であるが、「俊介のチーム」から「本田のチーム」に舵を切ったのである。この時から川島もスタメンとなった。

何も、これ以降の本田のプレーがどうのこうのと言う訳ではない。個人的には、W杯のプレーで一番気に入ったのは長友の攻守に渡り完成度の高いプレーであった。しかし、重要なのは個人のプレーではない。本田の持つ、闘争心のオーラなのである。誰もが、このイングランド戦から「戦う集団」となったことを実感したはずだ。

それから1年して、今年の8月の韓国戦。これほど気持ちの良い試合を見たのは何年ぶりだろうと思った。3-0の得点差以上の圧勝で、理想とするサッカーができていたと思う。まさに「戦う集団」。

では、何故、「俊介のチーム」ではダメだったのだろうか?それは緊張感が全然違うからである。聞いた話では本田は、試合の数日前から、同僚と一緒に食事をするのも避け、一人、試合に対する集中力を高め、甘えを許さない厳しい気持ちを維持しようとするそうだ。以前、自民党政権時代の安部内閣が「お友達内閣」と揶揄されたが、「俊介のチーム」は「お友達チーム」だったのである。

なでしこジャパンが北京五輪で4位入賞を果たした際、間宮は「苦しい時には私の背中を見なさい」と澤に声かけられ、戦い抜くことができたそうだ。本田はそんなことは決して言わない。しかし、言わなくても彼のプレーが雄弁に物語るのである。その緊張感が、例えばボールの出しどころに困ってバックパスをするような消極的なプレーを抑え、前を見てチャレンジする気持ちを奮い立たせる。自分が目立つためではなく、チームのために献身的に貢献する。そんな姿に心を熱くさせられる。

試合によって、彼自身の好調不調の波はあるが、彼のオーラがチーム全体に与える影響は大きい。誤解を恐れずに言えば、本田の実力を100%とすれば、中田英のパフォーマンスは明らかに120%以上であろう。選手としての技能という意味では、決してヒデには追いつくことはできないだろう。しかし、彼は自分を追い込むことによって、試合の中で120%の力を発揮できるように、自分と、そして仲間の集中力および戦闘意識を高め、その力を発揮してきたのである。

彼が怪我をして以降、日本代表の試合を見ても緊張感が感じられない。戦う集団としてのファイティングポーズを示せていない。例えて言えば、2010年5月24日の韓国戦以前に逆戻りしてしまった感じだ。

あらためて感じる。本田圭佑は日本の財産だと。。。

そしてリーダーシップとは、こういうものなのだろう。政治の世界も同じである。

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巨人問題に野次馬的視点で・・・

2011-11-15 23:33:09 | 日記
最近、巨人問題が世間を賑わせている。今日は完全に野次馬感覚で思ったことを書いてみる。殆ど、好き嫌いの話なので、あまり論理的な一貫性は無いかもしれないが、その点はご容赦を…。

まず、街角インタビューなどの世間的な評価としては、読売グループ会長の渡辺氏のワンマンぶりに巨人軍球団代表兼GMの清武氏が反旗を翻したとの判断から、理屈は抜きにして「どうせ悪いのは渡辺氏」と圧倒的な状況である。

しかし、法律やビジネス側の人からは、概ね「江川氏の問題の暴露は守秘義務(厳密には『忠実義務?』)違反でコンプライアンス的にNG」と評価されているようだ。さらには、桃井オーナーを始めとする球団関係者は渡辺氏の逆鱗に触れないように慎重な発言をするか模様眺めの状態で、清武氏には何処からも援軍はこない。細かい事情は良く分からないが、圧倒的に清武氏が不利な状況といえる。

この様な状況になったのは、渡辺氏の反撃が完璧だったためだろう。反論の文章を読むと、「内輪喧嘩をしているが、それぞれに言い分があって、その中で『法的』にはどうかといえば清武氏の守秘義務違反の方が重そうだな…。」と感じさせてしまう。

しかしこの球団人事の話は、球団代表兼GMのところに原監督、桃井オーナー等を含むオフィシャルなルートでは上がってきていないので、単に一部の平取締役の思いつき(原監督も「色々話題に上った中のひとつ」としか言っていない)とみなせば、守秘義務の対象とはなりえない案件かも知れない。しかし、(仮に平取締役の発言であろうと)渡辺氏の権力を考えれば暫くすれば本当に実現してしまうだろうと誰もが信じるに至り、結果的に実現性の極めて高い秘密の暴露とみなされてしまうのかも知れない。このような点は、清武氏にとって不運だったかもしれない。

一方、清武氏の最大の弱みには、「何故、日本シリーズにこれをぶつけるのか?」という野球人の守るべきマナーを破ったという背景もあるだろう。しかし、日本シリーズが終わる頃には渡辺氏サイドは江川氏の入閣をすっかり固め、既成事実化してしまうだろう。江川氏が完全に乗り気になってから話をチャラにするとなると、それはそれで禍根を残すことになりかねない。そうなる前にそれを暴露する必要があるが、その時点では既に守秘義務違反となりそうなので、まだ今なら守秘義務違反とならないであろうギリギリのタイミングとして、今回の日本シリーズ直前というタイミングを選んでしまったのだろう。

なお、今回の事件は予想に反したタイミングで清武氏が弾けてしまったために渡辺氏としても予想外なのだろうが、清武氏がどんなに頑張っても、渡辺氏が親会社の権限を駆使して子会社のオーナー、代表兼GMの人事刷新を行なってしまえば、ヘッドコーチの人事など簡単に且つ合法的に出来るわけで、そうなる前にことを起こそうとしてこのタイミングになってしまったのかも知れない。これらの意味で、ことを起こしたタイミングが後々、重要な意味を持つのかも知れない。

話を渡辺氏の反論に戻すと、渡辺氏は清武氏の言い分に対して正面からぶつかっていない。当然のことながら、喧嘩のときに分の悪い話題を受けて戦うよりも、自分の都合の良い別の話題で戦う方がよっぽど勝算がある。それを渡辺氏は実践した訳で、まさに老獪の極みである。「球団の人事権(選手の補強や体制作り)のトップである清武氏が、そもそもGMの能力的に不備があり、本来、首を挿げ替えられるべき状況であった。実際、非常に評判が悪く、今期の成績の悪さがそれを証明している。江川氏の問題は、実際には何もことは進んでいないので、(渡辺氏側に)コンプライアンス違反は無い。一方、清武氏側には守秘義務違反という明確な法令違反に該当する。親会社の権限を駆使して球団人事を刷新しようとしたのに、それが気に入らなくてこのような行為に及んだのだろう…」と来ると、色々渡辺氏にも問題があるのかも知れないが、それ以上に清武氏の方に問題があるのでは…と思ってしまう。食うか食われるかの争いであれば、これぐらいの非情さが必要なのかも知れない。

清武氏に同情の余地は大いにあるし、個人的には応援してやりたいところだが、多分、身内から援軍が出てくる可能性はきわめて低く、討ち死にになることは間違いないだろう。ただ、(かっての長嶋監督更迭の時と同様)今回の件で嫌気が差して読売新聞離れの流れを生むことは目に見えているので、渡辺氏も多くの返り血を浴びてまもなく失脚するかも知れない。

結局、ペナントレースで負けた(結果を残せなかった)人間は偉いことは言えないのである。

これもひとつの「結果責任」なのかも知れない。

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25年ほど前の話ですが・・・

2011-11-14 11:22:48 | 政治
今日は今から25年ほど前の私が大学生だった頃の話を思い出しながら書いてみようと思う。

昔、藤尾正行という政治家がいた。中曽根内閣で文部大臣だったが、『文藝春秋』に「放言大臣 大いに吠える」などの記事が載り、中曽根首相に罷免された。当時、大学生だった私は新聞等に載っていた記事を読んで「ひどい奴がいるなぁ」と思ったものだ。

確かに、韓国、中国を怒らせることになり、当時の政府側の人から見れば、明らかに迷惑な人物であった。何しろ、「戦争で人を殺しても殺人には当てはまらない」「韓国併合は合意の上に形成されたもので、日本だけでなく韓国側にも責任がある」と言ってしまったのだから、韓国や中国が怒るのは無理もない。記憶違いかも知れないが、私の記憶ではマスコミの評価として彼にトドメを刺したのは、「今は平和だから良いが、戦争になったらこうはいかないよ!」的な発言をして、それが戦争を連想させて恫喝したという位置づけで評価され、完全に四面楚歌状態になったのではないかと思う。罷免と細かな発言の時系列までは覚えていないが、あまりにも無茶な発言なので気になって真意は何処にあるのだろうと気になり、週刊誌や新聞などを読んだ記憶がある。

勿論、言い方として適切であったかとか、足を踏まれた人の痛みを踏んだ人は理解していない…などの主張は良く分かるし、一方的に擁護するつもりもない。背景には、相当偏屈な右翼的な思想があったかも知れないので、その部分について議論するつもりもない。しかし、最近の閣僚が不適切発言で辞任に至った後は殆ど雲隠れ状態になったり、黙して語らず状態になることが多い中、罷免された後も彼は週刊誌のなどを通じて熱く語り続けた。

私の理解を、現在の状況を加味した上で説明するとこうである。

太平洋戦争では確かに、日本は近隣諸国に迷惑をかけてしまった。個別の事実を見れば、(世間で定説になっていることのどこまでが正しいか否かは議論が分かれるが)少なくとも本当に酷い虐殺などをした軍人は少なからずいただろう。しかし東西冷戦の流れの中でアメリカの顔色を見ているうちに、日本国政府が近隣諸国に明確な謝罪をする機会を逃してしまったのは事実だ。それをネタに近隣諸国は日本を責め続け、教育の中でオフィシャルに反日教育を徹底的に植えつけた。責め続けるのは気持ちとして十分理解できるが、教育という手段を通じて責めるエネルギーを増幅させたのは、明らかにやりすぎである。それは、大袈裟に言えばそれがイスラエルとパレスチナの様な「後に戻れない歴史」を作ることになるからだ。その当時から、日本は申し訳なさそうに丁重に対応すれば良いとひたすら信じ続け、先日の尖閣問題で中国側が無茶苦茶な行動に出てもひたすら低姿勢を続けた。幾度の事件があるたびに、長い歴史の中でもひたすら低姿勢を貫いた。面白いことに、戦勝国側の近隣諸国より敗戦国の日本の方が圧倒的に発展していたため、日本は経済的な援助で詫びの気持ちを示そうとした。しかし、教育で「日本は悪い国だ!」と教えているのであるから、日本を叩いて何かを獲ればかの国では英雄になれる。しかし、そんな状態が長く続いたら、今後何十年かの後、何処かでどちらかの国が弾けてしまう可能性は極めて高くなる。戦争になってから「話し合おう」なんて言ってももはや話し合うことはできない。しかし、平和な時代(25年前の当時)であればこそ話し合える話もある。それは、少々、どちらかにとって都合の悪い話かも知れない。事実を事実として見つめ直すことに前向きになろう、当時の日本が悪いのであればその悪さを定量的に評価しよう、そしてその先を目指そう…、という単純な話が当時の、そして今までの政治家の多くは言えないでいる。ないしは、それを好んで語る現代の政治家は、明らかに中韓に対して嫌悪感を示していることが多いから、どちらにしても前向きではない。仮に日本のためという立場を捨てて考えても、長期的な視点で見れば「反日教育」は中国にしても韓国にしても本当は良くないというのは分かっている話だと思う。多分、中韓の政治家の誰かが「反日教育は止めよう」と仮に言い出したら、その人はあっという間に政治的に抹殺されるだろう。もはや、「反日教育」自体が自らの「反日感情のブレーキ」を壊してしまい、アクセルを踏み続けている現状であるから…。

噂では、藤尾正行氏は文部大臣という職が気に入らなかったとか、中曽根氏との確執があり自爆したとか、そんな話まであるので本当のことは分からないが、ひょっとしたら「このままではいけない!」という責任感からくる言動であったかも知れない。

私がこの話の中で感じたことは、ひとつの出来事があった場合、その出来事を深く掘り下げずに一面だけを見て善し悪しを判断すべきではなく、その出来事に含まれる論点を細かく解析し、個別の議論としてそれぞれが正しいかどうかを是々非々の立場で評価すべきである…と言うことだ。そうでなければ、責任感を持った政治家は報われない。

小泉元総理は波風を立ててでも言うべきことを言っていた。あの時、「中国を怒らせる悪い奴」的な評価をしたマスコミも多い。格差拡大も全体の中のひとつの側面だ。しかし、その時に声高に批判していた人達のその後は見るも無残だ。小泉元総理を継いだ安倍元総理は中国や韓国からその当時は「両国関係が改善しつつある」と見られていたが、思想的には明らかに小泉元総理の方が鳩派なのである。とにかく、「東京裁判なんてデタラメな裁判だ!」と声高に叫ぶ政治家が多かった中で、「A級戦犯」が「戦争犯罪人」であるとの認識を示しているのであるから、少なくとも「小泉はダメだけど安倍なら良い」という中国、韓国人は何も知らずに騒いでいるとしか言いようがない。そんな小泉元総理に、当時、質問主意書で噛み付いた現在の野田総理はどのようなスタンスを今後見せてくれるのだろうか?そして、それなりの覚悟を持っているのであろうか?

もうしばらく様子を見ていこう。

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政治における責任とは?

2011-11-11 23:57:47 | 政治
面白いことに、毎回、こうである。

民主党の中の対立する議題の決着方法とでも言おうか…。今回はTPPの参加表明に関連し、野田総理が微妙な言い回しで交渉参加を表明した。はっきりと「参加」でもなく「不参加」でもなく、慎重に交渉を開始するということのようである。

先日の増税議論でも、「2010年代半ば頃まで…」ということで決着した。今回もそうであるが、相対立する者同士がお互いに「勝利宣言」するという不思議な光景だ。しかし、例えばTPPに話を戻せば、勝利宣言した反対派の代議士は昨日の夜、自らの支持団体の反対派の人々にプロジェクトチームの結論を報告した際に、けちょんけちょんに切って捨てられていた。しかし、「私は(大丈夫だと)信じている」と胸を張る。日本語を理解する人であれば、野田総理の言っていることが、結論として何を意味するのかは明らかなのだが、「信じている」ことで許してもらえると胸を張っているのだ。極めて不思議だ。

思えば、菅前総理の辞める、辞めない発言でも、殆ど誰もがこう理解するという言い回しを使いながら、喋った内容を文字に起こすと、何処にも明示的な表現を用いておらず、後になって「そんなこと言っていない」と開き直っていた。しかもご丁寧に、側近からマスコミに事前に情報をリークさせ、政治家や国民に強い思い込みを植え付けておいて、微妙な発言で窮地を切り抜けていく。良く言えば巧妙でもあり、悪く言えば老獪で汚いやり方だ。しかし、別に民主党だけに限らず、自民党時代も政治家はこのような決着の仕方が大好きだった。

これは何故だろう。それは簡単である。責任を取りたくないのである。

物事は結局、権力者側が主導権を握っている。だから、TPPで言えば野田総理が「やる!」と言えばそれで決まりなのだが、そう言われた側にはそれを言われた(許した)責任が生まれる。もし、本当に責任を取る気があるのであれば、TPPに参加した際に問題となる点をリストアップし、少なくともその幾つかについて「じゃあ、どうすればリスクを最小化できるか?逆にピンチをチャンスに切り替えるような、起死回生の戦略はないのか?」といった議論に真面目に取り組む様を支持者に示すべきである。しかし、今回、そのような行動を取った政治家を私は知らない。

つまり、一方は他方がメンツを保てるようにするために、どの様にすれば喜んでもらえるのか?に腐心し、建設的な前向きな議論はしたくないのである。負ける側も、それが分かっているから深追いはしないのである。一連の応酬は、単なる政治ショーと化した。「民主主義とは手続きである…」と言うが、明らかに意味を履き違えている。「手続き」は必要条件であって十分条件ではない。

かくして、議論が深まることなしに、物事はどんどん進んでいく。そして、「責任」の意味もどんどん曖昧になっていく。この「責任」に対する政治家の評価システム(通知表)のようなものは作れないものか…。

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オリンパス事件と小沢問題

2011-11-10 22:40:45 | 政治
東京証券取引所が、損失隠しが問題となっているオリンパスを管理銘柄に指定した。

不正取引に気が付いた外国人社長を解任した後、僅か2週間足らずで後任の会長兼社長も辞任するに至り、さらに後任の社長が「過去の買収で不正行為は一切ない」と啖呵を切ったにもかかわらず、結局、すぐに不正行為を認めることになった。そして、「前任の社長にも責任がある」と明かす一方、「自分は知らなかった」と答えている。

真相が明らかになるのか藪の中のままになるのか、それは今後の捜査の行方次第だと思うが、仮に「本当は真相を知っていた」でも「本当に真相を知らなかった」でも、どちらにしても新社長は「無能」であるという結論となるのは間違いなさそうである。

しかし、世間的にはどの様な評価を下されようと、とにもかくにも「社長に上り詰めた」という事実は事実である。本人的には満足であろう。少なくとも、オリンパスほどの会社のトップにまで上り詰めるのであるから、真の意味での無能である訳がない。そう考えると、少なくとも不正行為の「危険な香り」は敏感に感じ取っていたはずである。つまり、「危険な香り」を感じて真実を把握しようとした外国人の前々社長は解任され、真実に目を瞑った彼が現在の社長となっている。

「日本の風土」と言われると何とも悲しいものがあるが、本来は知らなければいけないことを、敢えて「知らない」ないしは「知らないことにする」とメリットがあるケースが日本では非常に多い。米国であれば、「知ろうとしないこと」へのペナルティの方が大きいのだろうが、日本では「知ってはいけない(知ったら損をする)」のである。

このことは、小沢一郎元民主党代表についても同じである。そう、陸山会問題である。どう考えても、彼の性格からして、知っていなければおかしなことを、彼は「知らなかった」のだから無罪だと主張し、裁判を闘っている。これは真実かも知れないし嘘かも知れない。しかし、もし私が彼の立場だったら、必ずしていたであろうことがある。それは、秘書に対して「ヤバイこと(犯罪となること)は俺に言うな。」と口すっぱく言うことである。もちろん暗黙の了解として、直接言いはしないが暗示的な行動で気づかせることを期待する。秘書が常にこれを意識して行動していれば、「ヤバイこと」があれば、その時の細かいことを注意深く記憶しているだろうから、取調べを受けても真実を洗いざらい話せば、「(私に)直接、伝えていないこと」を検察官に答えることになる。結果、私は裁判となっても「無罪」となれるのである。

選挙制度に限れば「連座制」という制度がある。良くできた制度である。しかし、小沢問題に「連座制」は適用できない。私は法律に関しては素人だから、具体的にはどうすれば良いのか分からないが、「本来、知っていなければならないことを『知らないでいる』ことの罪」というものを法的に問えるような制度を導入することはできないものか…と最近強く感じる。

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ギリシャ破綻と「盗人にも三分の理」

2011-11-09 23:17:40 | 政治
ギリシャ危機が一難去って、小康状態に入った。次はイタリアか?と注目はイタリアに移りつつある。

傍から見ていると、ほとほとEUは大変だな・・・と思う。EUの中にはギリシャ国民より低い生活レベルを享受しながらも、つつましく、精一杯我慢してやりくりしている国もある。そんな国の人たちからすれば、ギリシャの財政破綻は自業自得としか言いようがない。EUからの緊縮財政の条件提示を受け入れ、金融支援を得るしか道がないのは全てのギリシャ国民も分かっているはずなのに、それなのに国民の暴動は止まない。笑ってしまうのは、政権側のはずの財務省などの職員が官庁の建物を占拠して立てこもったりしていて、「そこまでやるか?」という状況にまでなっている。どう見ても、EU圏内の他国は理解できない状況である。

しかし、テレビの報道によれば、暴動を起こす国民にも一理あるということのようだ。「ここまでの財政破綻を生んだのは、これまでの政権中枢にいた国会議員や官僚たちが、その権力を利用して蓄財しtからだ。さらに、破綻状態にある財政がさも健全であるかの様に情報操作し、急に今になって『ゴメンなさい。皆さん、一丸となって貧しい生活で我慢しましょう』と言われて納得できるはずがない。その責任者が蓄財した財産を全て掃き出し、自らの責任と義務を完全に果たしたら、我々も相談に応じる・・・」というロジックらしい。同情の余地は無くもない。

詳細は省略するが、かって、私も「これに対して、絶対に反論の余地などあろう筈がない」という議論に対し、逆の立場で異を唱える人の言い分を聞いて納得したことがある。その時感じたのは、「盗人にも三分の理」というのは確かに正しく、人は「立場」が変れば全く信じられないような結論を出してもおかしくはない・・・、ということだ。先日から書いている、政治にパーフェクトな解は存在しない・・・という理由付けになっているかも知れない。

日本でも増税の議論がなされる時、「無駄遣いを全てあらためるまでは増税はしない」という議論があるが、所詮、悪いことを考える奴らは腐るほどいるのだから、「完全」を求めるということは「未来永劫、増税はしない」ということを意味する。もちろん、3.11で国内経済が大きなダメージを受け、円高やリーマンショック以降も燻る世界経済の低迷などから、「今、増税すべきか?」の議論は慎重にすべきである。少なくとも、(リーマンショックの際にも使われ、使い古された軽い言葉に感じられてしまうが)「100年に一度の危機」であるならば、100年に一度に対応したスペシャルな緊急避難措置で対応するのが筋である。

だから、今、増税かと言われれば増税には反対するが、「小さな政府」「大きな政府」論争において民主党が提示したニンジンに食いついてしまった国民は、もはや「小さな政府」に戻ることはできないだろう。政治とは、不可逆反応なのである。好むと好まざるとに係わらず、増税の流れは食い止められない。問題は、増税の程度と時期に他ならない。さらには、多くの税種の中のどの税を上げ、所得制限の様な例外を作るのか作らないのかなどの、テクニカルな話が議論の中心となる。もちろん、その税が何に使われ、その恩恵が自分たちにどの様に還元されるかは重要である。ただ、天下りを始めとする無駄使いの監視などの議論と、増税の議論は明らかに分けて考えるべきである。

ここであらためて考えさせられる問題は、立場の違う人がそれぞれの立場で異なる主張をしている時、如何にして議論を収束させるかである。多分、最終的に両者の納得できる落としどころを見つけることは不可能だろう。だとすれば、人として(政治家として)、最大限の誠意と丁寧な対応が、その後の両者のわだかまりを癒す薬となると期待するしかない。ギリシャは誠意と丁寧さでは明らかに道を誤ったが、棚ボタ的に何故か落ち着くことができた。

イタリア、そして日本はどうなることだろう。

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