けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

<前編>集団的自衛権の憲法解釈に関する現状を整理してみた

2014-02-28 23:59:45 | 政治
最近、集団的自衛権にまつわる憲法解釈の変更の議論が急速に高まっている。様々なテレビやラジオ、ネットの情報などを読み漁る中でポイントが明らかになったのでここでメモ代わりに整理しておこうと思う。

これまでも何度かブログにも書いてきたが、朝日新聞などの反政府よりのマスコミや野党の言い分は、安倍政権の主張とは真っ向から対立をしていて、殆ど人格攻撃に近いところまで手段を選ばず攻撃をしている。しかし、例えば東京新聞・中日新聞論説副主幹の長谷川幸洋氏なども明確に指摘している通り、事前のバイアスがそれほど強くないニュートラルな人の論説を見れば、殆どの論点で安倍政権側に軍配が下るようである。しかし一方で、法律の専門家の意見など(例えば2月25日の荻上チキSession22のポッドキャストなども参考にさせて頂いた)を聞くと安倍政権の行おうとしていることには反対の人が多い。この様に聞くと、「ではやはり安倍政権が間違っていて、野党や朝日新聞などの言い分が正しいのではないか?」と勘違いをする人がいそうであるが、それは全くの間違いである。一見矛盾しているようであるが、この辺の理解の仕方を私なりに整理してみたい。

まず、これらの議論をする上では論点を整理すべきである。その論点を大きく二つに分けるならば、

(1)安倍政権の集団的自衛権容認に向けた最近の動きは、手続き論的には正しいのか否か?
(2)最終的に安倍政権が集団的自衛権の容認を行った場合、その判断は正しいのか否か?

の2点になると思う。非常に乱暴な言い方をすれば、(1)は最近私が拘っている「手続き論」的な議論での正当性を議論し、(2)では「価値観」てきな議論での正当性を問うているに近い。この2点を個別に確認してみたい。

まず、(1)について議論する。最近話題になっている(1)に関する個別の噛み砕いた論点では、

a). 内閣法制局長官の答弁と内閣総理大臣の決断と、どちらが優先されるべきか?
b). 閣議決定を行ってから国会で審議するのは乱暴であり、閣議決定の前に国会の議論を戦わせるべきである

などがポイントになりそうだ。このa).に関しては、「内閣法制局は法の番人であり、内閣も内閣法制局の憲法解釈に従うべきだ」とか、「安倍総理が決断すれば、内閣法制局長官はそれに従うべきという考え方は横暴だ!」とか、「安倍総理は立憲主義を無視した暴君だ!」とかの声が聞かれた。しかし、この辺の事情に詳しいジャーナリスト及び法律の専門家などに感想を問えば、異口同音に口をそろえてマスコミや野党の言い分に分がないことを指摘する。前出の長谷川幸洋氏は下記の記事の中で、民主党の枝野幸男元官房長官のことを「官僚のポチ」とまで過激な言い方をして非難しているが、政治主導のあるべき姿としては安倍政権の判断は完璧に正しい。

Zakzak 2014年2月26日「憲法解釈をめぐり『官僚のポチ』と自ら白状した民主党の幹部

過去にも書いた通りであるが、立憲主義とは法の下にルールに従い政治的な行動を進めることであり、その法律の規定では内閣法制局は行政の一機関でしかなく、内閣の要請に応じて適切に助言を行うのがその仕事である。したがって、内閣法制局の行動の責任は内閣にあり、その内閣の長である内閣総理大臣が内閣法制局長官よりも上位の最高責任者であることは明確に規定されている。ここで、安倍総理も「内閣法制局長官に対して、有無を言わせずに自分の主張を受け入れてもらう」などとは一言も言っておらず、内閣法制局の適切な助言を受けて、粛々と法に則り進めていくと言っているに過ぎない。当然、内閣法制局長官が安倍総理の意に沿わないことを言っても問題はないし、ある切り口で憲法等の条文と新たな解釈が衝突していると助言を受けたら、衝突しない範囲での解釈の仕方の修正の助言を新たに受けることも可能である。安倍総理の発言をどんなにひっくり返しても、安倍総理がその様なことを発言したことはなく、「(勝手に)行間を補えば、こんな酷いことを言ったと受け取ることもできる」と言いまくっているに過ぎない。

次に、b).の国会の審議が先か閣議決定が先かの議論については、我々は何となく納得してしまいそうだが、話をよく聞けば真逆であることが分かる。この辺は、石破幹事長が昨日のTBSの「ひるおび」で解説していた。今日も安倍総理は国会で説明をしていたようだが、少し噛み砕くと閣議決定に拘る理由は、立憲主義・法治国家の宿命と理解できる。つまり、これまでの政府の憲法解釈は「集団的自衛権の行使は違憲」であったのだが、この方針を別の何かに変えようとしたとする。すると、この議論を国会で戦わせる際には総理にしても閣僚にしても、「現在の政府の公式見解」を発言することが求められる。閣僚は全て公人であるから、これらの人が国会で議論を戦わせる際には、個人的な私見で戦うことは許されない。勿論、答弁の中で「個人的な意見」をピンポイントで求められたときに、「個人の意見」であることを明示して答えるのは可能かも知れないが、長い長い国会論戦を全て私見で通すことなど許されない。であるから、何処かで現在の政府の公式見解が変わった瞬間が存在しないと、新たな見解に立って議論をすることが出来ない。閣議決定はそのためのツールであり、その閣議決定に明示的に記された内容が政府の公式見解となるから、発言の度にぶれないようにするためには、明文化された閣議決定は不可欠なのである。さらに言えば、民主党の岡田克也氏はあたかも「閣議決定がなされたら、法律が制定されたかと同じで、その後で国会で議論を戦わせても意味がない」かの様な発言をするが、これまた全くの誤解である。まず、閣議決定は法律の様な効力を全く持ち合わせていない。例えば、集団的自衛権を行使するためには、それに付随する自衛隊法などの改正が不可欠である。その自衛隊法の改正のためにはその法律の文案を作成しなければならないが、法律の文案と言うのは我々が思う程簡単ではなく、誰が見ても誤解の生じないような様々なルールに則って書き上げなければならないから、自衛隊の様々なノウハウや法律の深い知識を持ち合わせていないと、改正自衛隊法の適切な法案を書き上げることが出来ない。このため、中身が複雑な法律というのは殆ど例外がないと言っていいほど内閣がその法案を提出し、その法案を国会で審議するという手順を踏むのである。しかし、その法案の作成を行政側のスペシャリストである官僚が作成する際には、官僚が自分の好みで好き勝手なことを書くことは許されず、過去の法案やその解釈との整合性が求められるので、閣議決定をしないと文案の作成の指示すら法治国家では出来ないことになってしまう。だから、閣議決定が必要なのである。先程の「ひるおび」では、「であれば、議員立法で法律を国会に提出すればいいじゃないか!それなら、閣議決定前に議論できるだろう」と指摘した人がいるが、しかし、議員立法による法文は限りなく完成度が低いのが一般的で、バグだらけの法案になる可能性が高い。内閣法制局は、内閣が提出する法律の完成度の高さを担保するためのアドバイザ的な役割を負うが、この役割はあくまでも内閣提出の法案に対してだけであり、議員立法の法案を内閣法制局が手直しすることは、その役割的に矛盾するので不可能である。私の解釈で説明すれば、立法権を持つ国会が提出した議員立法を、行政権の一機関の内閣法制局が手直しをすることは、見方に寄っては立法権を犯す行為に繋がる。相当、筋悪の手続きといえる。したがって、この様に閣議決定を行う前に国会で議論を戦わせるためには、「当て馬的に適当な改正自衛隊法を作成し、それを議員立法して国会で論戦を戦わせ、その後に一旦その法案を取り下げながら、その議論の結果を受けて閣議決定の内容を考える・・・」という手順を踏まなければならない。しかし、そんな当て馬の法律案など不毛だから誰も作りたくなどない。少なくとも自民党は、その様な法案が無くても正しい議論は出来ると思っているので、その様な法案を議員立法するモチベーションはない。どうしてもというのであれば、民主党が議員立法をすれば良いのだが、そんな無駄な労力をかけてまで国会論戦を優先する人などいないだろう。つまり、「自分は汗をかきたくないが、あなたの方で圧倒的な汗をかいて、私を満足させておくれ」と高飛車に行っているようなものである。これは流石に筋が通らないだろう。ちなみに、閣議決定をしたら、その後の国会の論戦ではかなわないと諦めを決め込む態度は、政治家として宜しいのかという批判もあるだろう。国会での多数派を与党に握られていても、正面から国会で論戦を挑むのは野党としてお約束ではないのか?その覚悟すらないのは恥ずかしい限りである。

この様に、上述の手続き論である(1)に特化すれば、圧倒的に安倍政権側の正当性が際立ってくる。これは、多分、民主党の人達でも認めるところではないだろうか?

ただ、その様な無理筋のところで攻めまくる民主党や朝日新聞などの主張の根底にあるのは何かといえば、(2)の価値観での論争があるからである。先程の荻上チキSession22のポッドキャストに出演した元内閣法制局長官で弁護士の阪田雅裕氏や、首都大学東京准教授で、憲法学者の木村草太氏なども力説するのであるが、手続き的には正しくても、問題はその変更する憲法の解釈の内容が問題なのだと指摘している。以下は、これらの憲法を中心とする法律の専門家の意見を少し整理してみる。

まず、内閣法制局長官に関する彼らの評価はこうである。あくまでも内閣法制局は内閣の一機関でしかないから、彼らの仕事は政府に対して法律的なアドバイスをすることである。そのアドバイスの内容を今回の憲法解釈に焼き直すとすれば、最終的にその解釈が正しいか否かを判定する権限を持つのは最高裁判所であるから、「将来的に裁判になった時に、最高裁がどの様な判決を下すのかを精度良く予測し、そこで敗訴しないようなロジックに導くこと」が彼らの仕事なのである。問題はこの「最高裁がどの様な判決を下すのかを精度良く予測」する部分であり、そのための最高のスペシャリストの擁立が最高責任者の内閣総理大臣には求められることになる。例えば、将棋で勝負をしているなら、負けないためには羽生名人を雇ってアドバイザに付けるのが筋であろう。しかし、そこで「羽生名人のことは嫌いだから、友達の素人の棋士をアドバイザに付ける」と言い出したら「それは駄目でしょう!」ということになると指摘している。素人を投入すると、将来、何か裁判沙汰になった時に最高裁で敗訴する可能性が高まり、その時の国家賠償のことを考えるとリスクが高すぎるというのである。だから、憲法解釈を行うのであれば改憲するのが筋であり、それを憲法解釈で逃げようというのが姑息であると言っている。かなり真っ当な論理である。

しかし、私はこれを聞いて疑問に思ったのである。

まず、現実の世界では法律も時代の流れと共に解釈が変わり、あるタイミングで過去の判例を覆す最高裁判決が出たり、さらには違憲判決が出たりもする。例えば刑法における尊属殺人と法の下の平等の扱いは、「平等」に対する解釈が時代の流れの中で変わり、その時代の変化を1973年というタイミングで最高裁が追従し、違憲判決を下すに至った。言い換えれば最高裁が憲法における「平等」の解釈を1973年に変更したのである。これは、憲法の条文は何も変わっていないのに、時代の方で平等の意味の解釈が変わったのである。つまり、集団的自衛権の解釈にしても、未来永劫、解釈が変更しえないというのは正しくない。日本国憲法の前文には、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」と明記されているが、最近の中国の情勢は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」という前提と相いれない状況でもある。その様な時代の変化において、国民の生命と財産の危険を顧みずに現状維持を続けるのか、解釈の見直しをするのかは、非常に大きな政治判断と見ることもできる。そもそも、前出の憲法学者の方々の認識では、自衛隊が出来た当初の多くの憲法学者による憲法解釈では、個別的自衛権すら日本は憲法で認められていないという意見が主流派であったという。しかし、憲法9条2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」の条文と自衛隊の存在の整合性を問われる中で、個別的自衛権は国連憲章でも認められた基本的権利であり、同様に国連憲章で認められる集団的自衛権も権利は有するが、その行使は認められないという苦し紛れの解釈を行っていた。この個別的自衛権すら認められない状態から大きく解釈を変更する際のギャップは、今回の解釈変更のギャップとは比較にならない程の大きさだと思うから、今回の変更が駄目ならば遡って自衛隊も違憲だと主張するのが論理的だと思うのだが、現状に関してだけは論理を超越して肯定するというスタンスは理解できない。また、現在の内閣法制局長官の小松一郎氏を「アマチュア」だとこき下ろすのは、彼らの様なこの道のスペシャリストであれば分からなくもないが、しかし、であれば何故、陪審員制度が日本で導入されたのかを彼らに説明して欲しいと思う。つまり、法律の専門家たる職業裁判官の判断が徐々に国民の常識から乖離することを危惧し、国民目線で裁判を改革することが陪審員制度の目的なのだと思う。であれば、過去の自衛隊を合憲とする憲法解釈には目を瞑り、今回の集団的自衛権の解釈変更だけは許せないというのは如何にもバランスを欠く判断である。例えば、「10年の過渡期的猶予期間を与えるが、自衛隊の存在は違憲」という、如何にも尤もらしい判断があったとする。となると、我々国民には「現行憲法を維持して自衛隊を解散する」と、「憲法を改正して自衛隊を存続させる」という2者択一に迫られる。この場合、憲法が改正されるのは目に見えているだろう。一旦、日本語では理解できない無理筋の憲法解釈の合意が得られたら、論理的に破綻していてもそれを維持し続けなければならないというのはどうしても、常識的な一般国民としては理解できない。過去の判断との整合性を重視するのか、それとも時代に合わせるのか?法の安定性とその妥当性の衝突は、多分、法律の世界では常に付きまとう問題なのだと思う。その視点で考えた時、あまりにも凝り固まった頭での判断が、国民の生命と財産を保全するのに支障があるのであれば、その決断の責任の所在を明確にしたうえで、大きな政治決断をするのは苦渋の選択だが仕方がないと思われる。

以上が私の(2)に関する価値観での議論の結論である。ここ最近繰り返しているが、価値観の衝突は多分、皆が納得する答えに辿り着けることは期待できない。その意味で、民主主義は(1)の手続き論的な正当性が問われるのである。小松一郎内閣法制局長官の任命は、適正な手続きを通して行われたから、その意味では(2)に関する上述の「アマチュア」というご指摘も、所詮は価値観の衝突によるボヤキに過ぎない。実際に違憲判決が出たら問題だし、その様な可能性が本当に高いのであれば内閣法制局の官僚連中が本気でなだめに入るだろう。しかし、その様な声は現時点では聞こえていない。

この様に整理すると、明らかに野党や朝日新聞の主張は間違っているし、有効な議論を戦わせることを避けてゲリラ戦を行っているように見える。内閣法制局長官の答弁を国会で禁止していた当初の民主党政権の行動を振り返り、もう少し謙虚に、論点を整理して議論を行ってもらいたいものである。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

中国に別の意味の正しい歴史認識を突きつけろ!

2014-02-27 23:57:39 | 政治
最近、中国・韓国による歴史問題攻撃が過激さを極めている。今日はその様な歴史認識問題に対する対処法について考えてみたい。

まず、日本での報道では、安倍総理の靖国参拝は世界的に見れば「完全に逆風」という報道が多いが、それはそれで事実として認めた上で、過剰に反応すべき話ではない。昨日の新聞に下記の記事が載り、如何にも「大事だ!」と騒いでいるようだが、実際のところはどうだろうか?

産経ニュース2014年2月26日「安倍首相の歴史観に懸念 米議会報告書『米の認識と衝突する危険性』

日本国内では他の新聞でも色々と取り上げられているが、では海外での反応はどうなのだろうか?ウォール・ストリート・ジャーナル、ロイター、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストなど英字の新聞をザクっと探した感じでは、現地では全くこのネタで盛り上がっている気配はない。日本の記事を見ると、「首相が米国の忠告を無視し靖国を突然訪問したことは両政府の信頼関係を一定程度損ねた可能性がある」「安倍晋三首相の歴史観は第2次大戦に関する米国人の認識とぶつかる危険性がある」など、これまで散々紙面をにぎわせていた内容をそのままなぞるだけなので、全く目新しいところはなく、米議会調査局の報告書という部分だけが新しい。過去にも類似の報告書が話題になったことがあるが、アメリカという国はリスクに対して非常に敏感な国だから、特定の立場に立つ人からの報告のみを鵜呑みにせず、様々な立場からの報告を玉石混交状態で集めまくり、その中から精査して有益な情報をピックアップする習慣がある。その過程で紛れ込んだひとつの資料であり、海外メディアが反応しないのはその様な意味合いで取り敢えず作成された「取るに足らない資料」と判断されてのことだろう。
安倍総理にとっては、少なくとも順風ではなく逆風であるのは確かだが、では中国や韓国の主張が認められているかと言えばそうではない。先日のニュースで、中国の習近平国家主席が今年の春に予定しているヨーロッパ訪問の際に、ドイツでホロコースト記念館などの施設の訪問を行い、ドイツの戦後処理と日本の戦後処理を対比させて、大々的に反日プロパガンダをアピールしようとしたところ、ドイツから即答で拒否されたという記事があった。

Reuters 2014年2月25日「アングル:中国が『反日宣伝』を強化、習主席訪独で第2次大戦に焦点か

中国的には日本とドイツを比較して、ドイツの歴史認識を持ち上げているつもりなのかも知れないが、どうやらドイツ人にとっては迷惑この上ない不快なことの様である。さらに言えば、日中の対立に巻き込まれるのは更に迷惑で、嫌悪感さえ抱いているという論調であった。
最近の中国の歴史問題の取り上げ方を見ていると、明らかに戦勝国気分に酔った感じが読み取れる。しかし、それはドイツに限らず多くの国々に嫌悪感をもって受け止められている様である。この辺の事情を少し見て行きたい。

実は来年という年は第2次世界大戦終結70周年記念の年に当たる。この70周年というのは何とも中途半端で「何や、それ!」と突っ込みを入れたくなるところだが、中国などはそんな突込みにはお構いなしに、この70周年を政治的に利用しようとしているようだ。先日、森本敏元防衛相がBS朝日の激論・クロスファイアに出演して語っていたのだが、中国はこの第2次世界大戦終戦70周年記念をロシアなどを巻き込んで戦勝国(連合国)側で式典を大々的に開き、ここで日本を陥れようという計画を進められているという。森本氏は、常識的には中国以外の他国、アメリカは勿論イギリス、フランスなどは、この様な動きに賛同はしていないが、中には何も考えない人がいるので、注意して見守る必要性を説いていた。しかし、この様な注意深さは必要であるが、実際には中国の思惑とは異なる動きになると私は読んでいる。

実は先日のブログで荻上チキSession22の紹介記事を書いたが、このブログで書きそびれた内容の中で、アメリカ在住の冷泉彰彦氏が面白いことを指摘していた。というのは、アメリカという国が中国をどの様に見ているかを端的に示していることなのであるが、本来、中国は「戦勝国」ではないのに途中から割り込んできて、戦勝国という立場を「横取りした」というのである。横取りと言うのは穏やかではないが、実は同様のことをこのタイミングで青山繁晴氏も、昨日の関西テレビの「アンカー 青山繁晴の“ニュースDEズバリ”」の中で指摘していたらしい。と言うのは、ご存知のように連合国における中国側の司令官は蒋介石であり、つまり戦勝国は「中華人民共和国」ではなく本来は「中華民国」(台湾)であったはずであるが、毛沢東に権力闘争で敗れた蒋介石は台湾に逃げ、結果的に現在の中国は国連(すなわち「連合国」)の常任理事国の椅子を濡れ手に粟で手に入れたという訳である。しかし、これが意味することは、中国はあくまでも「国際連合」における「常任理事国」であるにすぎず、「連合国」における戦勝国のメンバであるとは(少なくともアメリカは)認めていないということである。

上述の第2次世界大戦終結70周年記念に関する一連の流れがこの後、どの様に展開するかは見ものであるが、私の予想(というか期待)は下記の様なものである。それは、お祝いをするのではなく、これを機会に第2次世界大戦終結を顧みてみようという動きが起きるということである。例えば、「カイロ会談」の参加者はチャーチル首相、ルーズベルト大統領、蒋介石であった。同様に、「ヤルタ会談」の参加者はチャーチル首相、ルーズベルト大統領、スターリン、「ポツダム会談」の参加者はチャーチル首相、トルーマン大統領、スターリン書記長であった。ここまで書けば分かるように、何処にも中華人民共和国の居場所はないのである。あるのはあくまで国民党を率いた蒋介石及び中華民国であり、中華人民共和国ではない。

森本氏の指摘でも、中国はまず最初にロシアと結託することを試みるということであったが、ロシアは(元々は社会主義、共産主義国として)ポジションが微妙であるが、少なくともプーチン政権下では中国とベッタリの関係ではない。ロシアのラブロフ外相はどうか知らないが、プーチン大統領はこれまでも歴史問題での共闘を持ちかけられても黙殺してきた実績がある。中国と国境を接し、国境の町に膨大な数の中国人が溢れ出し、あたかも中国の領土と化すような状況があることを直視したロシアのプーチン大統領が、この国境付近でのバランス維持を目的に日本を活用したいのは目に見えている。だから、プーチン大統領との関係が良好な安倍総理に対し、プーチン大統領があからさまに日本を陥れるような行動をするとは考えづらいし、東アジアのバランスを欠くような結果もプーチン大統領は望んでいない。

更には、世界的に日本の右傾化を危惧する動きは仮にあったとしても、極端に覇権主義を前面に押し出し始めた中国に対する危惧はその何倍にも及ぶ。だから、一方的に中国を利する行為にアメリカ、イギリス、フランスは勿論、ロシアでさえもが同調するとは考え難い。ウクライナ問題を見ているとロシアが欧米諸国と歩調を合わせることは考えにくいが、第2次世界大戦終結70周年記念を契機に、中国の思いが少なくとも他国とは異なることは明確になるのではないかと思う。その背景にあるのが、中国の「戦勝国」としての正当性の疑問である。

中国はこれまでの長きに渡り「歴史認識」を振りかざしてきたが、世界が逆に中国に「歴史認識」を振りかざすチャンスであるかも知れない。歴史を直視するという意味では、各国の政府がストレートに公言する必要はないが、例えばアメリカの政治家やマスコミが基点となって中国に対して「あなたは戦勝国ではない!」という暗黙の認識をぶつけることがあれば、それに同調する流れが生まれるかも知れない。それを日本が言い出すと角が立つのだが、アメリカ、イギリス、フランス、ロシアの方からカイロ会談、ヤルタ会談、ポツダム会談の経緯を引用しながらこの主張の正当性をアピールすれば、中国はぼやくことはできても、論理的に反駁することはできない。中国は一方的にまくし立てるから「私の言い分が正しい」と勝ち誇るだろうが、しかしそれ以降の世界は中国の発言を白々しく聞くようになる。

いつの日か、中国にとって「歴史カード」を振りかざすことが藪蛇になったと気づかされる日が来る。そうなるように、中国は戦勝国ではないというロビー活動を地道に続けるべきだと思う。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

求められるのは、座布団100枚のウイットが効いた突っ込み?

2014-02-26 01:07:15 | 政治
先日、ウォール・ストリート・ジャーナル紙が本田悦朗内閣官房参与に対してインタビューした記事について簡単に触れたが、その中で本田氏が神風特攻隊に関する話題に言及した部分があった。ここの記事は「敵か味方か」を先に決めて書いた様な記事だから、あまりそれを取り上げても意味はないのだが、ここ最近、この神風特攻隊に関連した話が続いたので、そこを切り口に幾つか思ったことを書かせて頂く。

例えば昨日のブログで紹介した「荻上チキSession22」の放送の中でもアメリカからの報告として触れられていたのだが、安倍総理の靖国参拝の中で(私は確認していないが)神風特攻隊の話題が出ていて、アメリカ国内には靖国参拝を「神風特攻隊などの、戦時中の体制を美化している象徴」と捉える向きがあり、その思想の中心に靖国神社が位置しているという理解のされ方を一部ではしているという。それから少し話は古くなるが、鹿児島県の知覧という場所にある知覧特攻平和会館に保存されている「知覧からの手紙(知覧特攻遺書)」をユネスコ世界記憶遺産に登録しようという動きがあり、中国政府がこれに猛烈に噛みついたというニュースもあった。この知覧という場所は神風特攻隊の基地があったことで有名な場所で、ここから南方の戦場に片道分の燃料を積んだ戦闘機で神風特攻を仕掛けた隊員たちが、死を前に家族に綴った手紙・遺書が多数保存されている。

実は私はこの地を訪ねたことがある。

まだ20代の頃であったが、正直、広島の原爆平和記念資料館を訪れた時よりも何倍ものインパクトがあった。一部には戦闘機などの展示もあるが、この特攻平和会館の展示の主役は明らかに多数の遺書なのである。それほど大きな部屋ではなかったと思うが、多数並んでいた遺書を端々から順番に読んでいったのを覚えている。話を聞いただけではピンとこないだろうが、これまでに読んだどんな文学小説よりも深く深く心を打たれた。止めどなく涙があふれ出てくるのを隠すことなく、次から次へとその遺書の数々を読んだ。中には、強がりだけが目立つ遺書もない訳ではないが、そこにある遺書の殆どは「死にたくない、大切な家族と共に生き続けたい」という気持ちが見え隠れしながらも、書面上ではその様なそぶりを見せず、しかし残される家族のことを心から心配し、精一杯の気持ちで「俺の分まで生きてくれ」と訴えるようなものであった。それらの遺書はどう見ても「二度と戦争など起こしてはいけない」と訴えるものであり、不戦の誓いを新たにするのにはこれに勝るものはないというものであった。相対的に比較するものではないが、広島の原爆平和記念資料館は有無を言わさず殺された人々の悲惨さを訴えるものであるが、知覧の方は死にたくないのに自ら死にに行かなければならない無念さが伝わってくる。変な言い方だが、原爆の悲惨さは「戦争は嫌!」という生理的嫌悪感の様な感情で平和に繋がるのだが、遺書から伝わる無念さは「(強い意志として)戦争を繰り返すまい!」という信念を呼び起こす。少なくとも日本人の感覚、ないしは知覧特攻平和会館を訪れたことがある者にとっての感覚では、不戦の誓いを呼び起こすきっかけとして、知覧特攻平和会館であったり神風特攻隊で死んでいった者たちの霊を弔うことは、決してネガティブな捉え方をされるものではないと確信する。

しかし、実際にはやはりネガティブに捉えられてしまうケースが多いのが現実である。中国や韓国が茶々を入れるのはお約束として、アメリカ人がその様に感じる理由を少し考えてみた。元々、欧米人は論理的な思考を重要視するから、特攻という形で死を選ぶ日本人の感覚はアメリカ人には理解できず、それ故に不気味な行動として特攻を恐れていた部分はあるだろう。少しうがった見方をすれば、誰もが「戦争で死にたくない」という気持ちでいるから、仮に戦争が起きても双方が玉砕する前に何処かで歯止めが効くと信じている部分があるが、自殺することを厭わないとなると戦争がエンドレスに続き、玉砕に至るまで戦争を止められないことになる。だから、特攻の様な考え方は絶対的に否定されて然るべきだと考えるのかも知れない。戦争における殺人行為も戦争のルールの上では国際法上、合法な行為である。その様なルールの上で戦争を定義しようとしても、その枠からはみ出る行為として特攻が位置付けられていると言っても良い。

実はアメリカ人にとって9.11は、まさにイスラム諸国からの神風特攻隊と見ることもできる。戦争のルールでは、兵士は軍服の着用が前提となり、軍服を着用しなければ兵士と見なされずに単なるゲリラと見なされ、ジュネーブ条約上でもゲリラは捕虜の様な様々な権利を保証されず、少なくとも第2次世界大戦当時であれば裁判を経ずにその場で殺害されても文句を言えなかった。9.11で旅客機でWTCビルに突っ込んだテロリストは、アメリカ人にとっては日本の神風特攻隊に通じるものがあり、神風特攻隊の肯定はイスラム諸国のテロリストの肯定に繋がると肌で感じるのかも知れない。その様に考えれば、知覧特攻平和会館であったり神風特攻隊で死んでいった兵士のことをネガティブに捉えざるを得ないのかも知れない。
しかし、この様に考えてくると更に疑問が湧いてくる。日本の初代総理大臣伊藤博文を暗殺した韓国の安重根はまさにテロリストである。テロリストは無条件で認めないと言うのであれば、韓国の主張について「ちょっと待てよ!」と言ってもおかしくはないのにそうはなっていない。まあ、アメリカ人は単に興味がなかっただけなのかも知れないが、だからこそ私は過去のブログで「キャロライン・ケネディ大使に安重根は『英雄』か聞いてみよう!」と訴えさせて頂いた。この私の主張は「品がない」とお叱りのコメントも頂いたが、最近のキャロライン・ケネディ大使の話題としては、日本のイルカ漁を「非人道的」と非難したところ、沖縄県民から「辺野古の埋め立てによりジュゴンが死に追いやられてしまう。イルカは駄目でも、ジュゴンは死んでも良いのですか?」と疑問をぶつけられた。私の知る限りでは、この質問に対してキャロライン・ケネディ大使からの返事はないようだ。

このことからも分かるのだが、善悪であったり価値観というものは、論理的にも首尾一貫しているものではなく、その時その時のご都合主義で右にも左にもぶれたりするものである。しかし、実際にはぶれているのかも知れないが、周りに同様にぶれた人がいる場合には、その人たちと結託して「我こそは正義」というデカい顔をすることが可能になる。理屈や価値観でそれに反論してもあまり意味はない。ただ、所々で「あんたたち、矛盾してるよ!」とツッコミを入れることは意味があることのようだ。

私は辺野古移設賛成派だが、「イルカは駄目で、ジュゴンはいいのか!」というツッコミは座布団100枚に相当するウイットが効いたコメントだと思った。同様に、韓国の日本海と東海の併記の主張に対し、「日本海と呼んだのは日本人じゃない。世界がそう呼んだんだ!しかも、日本が韓国を併合するよりずっと前の19世紀だ!」という外務省のツッコミも座布団100枚だと思う。中々、正面からガチンコでぶつかると返り血が大きいのだが、欧米人から「上手い!座布団100枚!」と言われるようなツッコミがもっと出来るようになると、状況は好転するのかも知れない。中々難しい話ではあるが。。。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

世界は日本をどの様に見ているのか?(荻上チキSession22より)

2014-02-25 00:00:14 | 政治
実は先週の木曜日であるが、時々聞くTBSラジオの番組、「荻上チキSession22」を興味深く聞かせて頂いた。Podcastで今でも聞くことが出来るので、興味がある方は聞いて頂くと良い。今日はこの話題を肴にして議論を深めてみたい。

荻上チキSession22 Podcast 2014年02月20日「日韓ナショナリズム 世界はどう見てる?」(ワールドワイドモード)をポッドキャスティングを聴く

この番組では最近の日韓の争いについて、世界がどう見ているかをアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、台湾という様々な国に在住の有識者の方と電話をつなぎ、その国での扱われ方などについて議論を深めていた。スタジオでのゲストは国際ジャーナリストの小西克哉氏、アメリカからは作家の冷泉彰彦氏、イギリスからはTBSロンドン支局の貞包史明支局長、ドイツから ジャーナリストの松田雅央氏、台湾からはジャーナリストの本田善彦氏が参加した。フランスからは文書でコメントが報告されていた。

さて、この内容を書き起こすととてつもない労力になるのでそれは省略するが、その中で私がポイントと感じたことを列挙してみたい。まず、全体を通しての感想であるが、今回のラジオでの報告は、全ての人に共通して非常にニュートラルな立場で現地の報道の状況をそのまま伝えることに徹していたように思う。従来の大手新聞社の論評などのケースでは、引用する海外の新聞がメジャーな新聞か超マイナーな地方紙かの区別もなく、そして引用した新聞のスタンスがメジャーな認識かごく一部の人の論調かも区別なく、あくまでも事実としてこんな話が合ったという引用をしていることが多い。となると、記事の存在は事実ではあるが、引用する新聞を選べば如何様にも印象を操作することができてしまう。例えばアメリカで日本の紹介として「赤旗」の記事を引用されても、それは日本の総意とは大きく異なることは明らかであるが、その様な偏ったことをするのは大手新聞社であれば日常茶飯事である。先日もウォール・ストリート・ジャーナルの記事を私のブログで紹介させて頂いたが、ここでは記事によって右や左にぶれていることがあったが、日本の新聞では偏り方が一定の場合が多いように感じる。だから、今回のSession22の放送もその様な偏った報告であるとすると聞いてもあまり意味がないところであるが、今回の番組内ではその様な偏りはあまり感じられなかった。

その様に公平な目で見た各国からの報告の中で注意すべきことが4点ほどあった。

まずひとつ目は、全体的に共通していることであるが、世界各国は我々が思う程、日本のことにはあまり興味がないということである。もう少し厳密に言えば、アメリカの場合にはヨーロッパ諸国に比べてもう少し興味があるようで、靖国問題なども全国紙でそれなりに大きく取り扱いがあるのだが、(中国、韓国に加えて)アメリカを除く国々では我々が思うようには日本に対する興味は薄いようである。ましてや韓国などは日本以上に興味がないから、日本と韓国がいがみ合っていても、それ自体は全く記事にはならない。アメリカの西海岸のグレンデール市での慰安婦像に関する騒動や、バージニア州の東海問題などは、そのローカルな地方紙では話題になっているのかも知れないが、アメリカにおける州の位置づけは日本における都道府県とは全く異なり、様々な問題に対する権限が州ごとに分権化されており、アメリカ政府関係者の立場で見れば、取るに足らない地方の些細な出来事でしかなく、やはり国政レベルでは、あまり興味の対象となっていない様だ。この傾向はアメリカよりも欧州の方が顕著で、日本に対して興味があるのは経済と原発の問題で、それ以外では殆どがスルーしており、韓国の話題などはなおさらどうでも良いというニュアンスが強いようである。だから仮に日韓関係の報道がなされても、ストレートニュースとして事案の紹介をすることはあっても、あまりそり以上踏み込んだ論評にまでは至らないようだ。

次にふたつ目であるが、上記の様に日本への関心は比較的薄くても、相手が中国がらみの話になると、それは大問題として突如として興味の対象となるようだ。これは話は単純で、自国の経済に大きな影響があるか否かが興味の対象となるか否かを左右するものであり、現在では貿易相手国としての中国の位置づけは日本などの比較にならない規模になっており、中国の動向を左右する事案に対しては興味が大きくなると言うのである。だから、軍事的な脅威事態は東アジアの諸国(とアメリカ)のように大した危惧とはならないものの、軍事衝突などで東アジアが不安定化するのであればそれはリーマンショックの比ではない影響を被りかねないので、その点には敏感になるようだ。ある程度、中国に対して神経質になっているので仕方がないのかも知れないが、特にヨーロッパにおいては情報不足と中国の反日キャンペーンの影響で、日本が中国を挑発しているとの見られ方が結構浸透しているらしい。

三つ目の注目すべき点は、これはヨーロッパ諸国、特にドイツ、フランスについて言えることなのだろうが、ドイツでは法律としてナチスを肯定的に捉えることを犯罪とすることにしているので、その様な思考として「ナチス以外でも、第2次世界大戦における過ちに対して疑問を投げかける行為に対し、条件反射的に身構えてしまう」という癖がついてしまっているようである。これまでの永きに渡り、中国や韓国が日本の戦争責任を追及しまくる報道がなされてきたので、それに少しでも疑問を投げかける行為については、その行動の妥当性には関係なく、門前払い的に入り口で拒否する傾向がありそうだ。この様な背景が、「日本が中国を挑発している」という誤解を後押ししている感は否めない。

ちなみに、この三つ目の癖と言うのは、我々日本人の感覚からすると少々振り子を大きく振り戻しすぎている感じを否めない。例えて言えば、オウム事件の残忍さに懲りてオウムを忌み嫌い、麻原彰晃(松本智津夫)を崇拝する行為自体を犯罪と認定するようなものである。あの当時の裁判では、現行法を極限まで拡大解釈して些細な違法行為でも懲役刑などになった例も多い。それを、全く犯罪を犯していない信者に対しても、信者であると言うだけで罪に問うという行為は、民主主義国家としてはあまりに稚拙な行為である。しかし、当時のドイツからすればナチス・ドイツと戦後のドイツを切り分けるために、少々オーバーなキャンペーンを繰り広げる必要があったのだろう。しかし、それはナチスの特殊性故に必要であった訳であり、それが本質的であるならば第1次世界大戦に対しても、ドイツは同様の総括をしていなければおかしいはずである。しかし、その様な動きが存在しないことを考えれば、振り子の振り戻しが大きかったのだと客観的に理解できる。であれば、日本に対しても第1次世界大戦に対する総括と同様に対応して頂きたいところであるが、既に癖として身についてしまっているのでどうしようもないようだ。だから、この様な癖があることを我々は前提に作戦を考えなければならない。

最後に、これはアメリカからの報告であるが、これまでは首相の靖国参拝はA級戦犯合祀があるから問題だという認識が一般的だったが、神風特攻隊などでお国のために死んだ若き兵士の魂の追悼という行為を、追悼自体がその行為を肯定的に捉えていると捉える向きが現れ始め、今後は靖国神社自体を「戦争行為の肯定の象徴」とされてしまう可能性が出始めているということらしい。こうなってしまっては、もはや日本政府としては打つ手はない。この様にならないようなロビー活動が必要なのだと思う。

若干本質を離れた蛇足であるが、番組の中では、先日のブログでも触れたダボス会議での安倍首相へのフィナンシャル・タイムズのインタビュー記事なども取り上げ、やはり第1次世界大戦を話題に取り上げることの無神経さを非難していたが、これは私としては懐疑的に見ていて、インタビュアーの主張するように「日中関係は戦争などには絶対に至らない」と間髪いれずに回答すればそれで済んだかと言えば、そんなことはないと感じている。それは、「敵か味方か」で最初に答えがあるのだから、その後の回答に依存せず結論は同じであるわけで、仮に戦争を否定する回答を即答すれば、「これだけ緊迫した両国関係を適切に認識できていない。この緊張感の高まりを実感していないようでは、問題の正しい対処を期待することすらできない」と言いがかりを付けられたかも知れない。だから、そう短絡的に安倍総理を非難するのは妥当ではなく、ボヤいてもしょうがないのだが、適切にフィナンシャル・タイムズの対応を非難する報道の方が正しい対応ではないかと個人的には思っている。

さて、本題に戻って上述のポイントから、日韓関係(及び日中関係)に対する処方箋をどの様に導き出すかについて考えてみる。答えらしきものは番組の中でも言及があったのだが、私の答えは「早い話が、アメリカ国内において日本の立場に理解を示してもらえるような行動を取る」ということである。少なくともヨーロッパにおいては細かなルール作りに興味はないのだから、別のところで別途ルールが出来上がってしまい、少なくともアメリカがそれを「適切」だと評価するのであれば、無駄なエネルギーを使ってまでヨーロッパ諸国は異を唱えることはないということである。三つ目のポイントの癖の話を思い出してみれば、この様な人達の誤解を解くのは至難の業である。であれば、これらの人の誤解を解くことにエネルギーを使うより、それでもまだ相対的には少しばかりは説得のし易そうなアメリカ人にターゲットを絞り、そこを基点にその常識を世界に輸出した方が分が良いはずである。であれば、これまでにも何度か触れてきた「手続き論」を尊重し、アメリカの認識を日本側に引き寄せる努力を最大限に行うのである。あまりアメリカの地方の州で起きていることは本丸のアメリカ政府の立場とは異なるから、その様な枝葉のところで過剰に反応するよりも、アメリカ政府側に「それは地方で起きている枝葉のこと」と認識させ、本丸の方はそれとは異なることを確認し続ければよいのである。

安倍総理からすれば既に1回は靖国参拝をしたのだから、後はその本丸の攻略に全精力を集中し、枝葉の問題を外交問題化させないように振舞うのが好ましい。だから、側近の連中には要らぬ揚げ足取りに引っかからないように歴史認識に絡む問題には「ノーコメント」を徹底させ、表立たないところで着実なロビー活動をしていけば良い。個人の思想信条の自由などと言わずに、その様な側近のコントロールにもう少し安倍総理はエネルギーを割くべきかも知れない。なお、中国の各国大使による反日キャンペーンには的確に反論するのは当然であるが、それは「泣き寝入りはしない」という視点から行うべきであり、過剰に深追いするまでもない。フランスのアングレーム国際漫画祭などについては、手続き論にしたがって、「漫画際を韓国政府は政治利用しようとしている」ことを主催者側にアピールし、出展を取り止めさせる動きに注力すべきであったかも知れない。勝ち越しを狙うところと、失点を広げないところを見定めるのは必要である。

少々、鬱憤の溜まる対応ではあるが、見えないところで勝敗は決まることを肝に命じるべきであろう。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

憲法の解釈改憲にまつわる正論と次善手

2014-02-24 00:08:09 | 政治
今日は、昨日のブログで書いた「憲法の解釈改憲」について個人的な感想を書いてみたい。

本題に入る前に余談だが、昨日のブログでは「敵か味方か」を基準に議論を捻じ曲げるジャーナリズムのあり方について書かせて頂いた。相手を「敵」と見なすとその先の扱いには酷いものがある。最近の本田悦朗内閣官房参与に対しアメリカのウォール・ストリート・ジャーナル紙がインタビューした記事などもその類だろう。同紙によれば、「本田氏が経済政策『アベノミクス』の目的について『より強力な軍隊を持って中国に対峙(たいじ)できるようにするためだ』と述べた」と報じているが、この様な事を本当に発言したと信じる日本人は一体どれだけいるだろうか?私も彼の発言をテレビで見たことが何度かあるが、元々大蔵官僚で経済が専門の本田氏は、脱デフレが如何に大切かを熟知して、そのための経済政策のために奔走していたはずである。にも拘らず、余計な発言で日中関係がこれ以上緊迫すれば、デフレ脱却にどれだけマイナスなのかは容易に予想できるから、常識的にはウォール・ストリート・ジャーナル紙の記者にハメられた感が強い。同紙の2月19日の記事「ナショナリスト本田悦朗氏がアベノミクスで目指す目標」では、何処を読んでも経済政策に関する紹介がない。結構な分量の記事であるにもかかわらず、「【東京】本田悦朗氏。安倍晋三首相の経済再生計画で中心的な役割を担う顧問(内閣官房参与)だが・・・」と彼の役割を的確に紹介しているにも関わらず、その後の記事は靖国参拝や軍事増強、神風特攻隊の話など、全てが彼のナショナリストぶりの紹介に割いている。安倍総理が側近をこの様なナショナリストで固めていることをアピールしたいのだろう。だから、これらの人々は、「ハニートラップ」ならぬ「ジャーナリズム・トラップ」とでもいう様なトラップにかからない様に、過剰なまでに神経質な対応をすべきなのかも知れない。ちなみに余談ではあるが、私の元上司は企業の営業担当が一人で会社に訪ねてくるとき、その担当者が女性だということだけで私をその打ち合わせに同席させていたことがあった。その元上司は極めて潔癖な方だったので、女性がらみの問題など起こすような方ではなかったし、過去に何かの関連した経験があった訳でもないのだが、交通事故よりも確率が低そうなその様な事態にそこまでの防御線を張るというのは、本田氏の様な方にはひょっとしたら求められるのかも知れない。

さて、以下が本題である。集団的自衛権の行使に関する憲法解釈について、現在の多くの人の理解は、日本国憲法よりも上位の国連憲章では自衛権(個別的自衛権に加えて集団的自衛権も含む)が認められており、したがって日本国憲法が放棄する武力にはこれらの自衛権が含まれておらず、よって個別的自衛権に加えて集団的自衛権の保持も日本国憲法は認め得ていると理解されている。しかし、集団的自衛権は政治的・外交的なインパクトが大きくて、「権利は保持するが、行使自体は放棄する」こととしている。ここまでは既に長い間、朝日新聞なども含めて日本のジャーナリズムの世界では常識となっていて、少なくとも現在は日本共産党ですら自衛隊の存在を違憲などとは思っていない。

しかし、常識的に考えて、権利は保持するが行使はしないというのであれば個別的自衛権についても同様であって、国連憲章で権利を認めているからと言って日本国憲法で個別的自衛権を放棄することが認められない訳ではない。であれば、小学生レベルで理解可能な日本国憲法第9条の規定を素直に読み取り、「個別的自衛権も権利は保持するが、これを行使しないし、イザと言うときに行使するための準備として軍事力(自衛隊)も放棄する」と理解することは当然可能なはずである。それを「個別的自衛権は権利を保持すると共に行使を前提とした軍事力を保持するが、集団的自衛権に関しては特別な解釈として、権利を保持するが行使はしないとする」と理解するならば、その時点で「ちょっと待ってくれよ!」と言うべきであろう。つまり、「自衛隊を保有するなら憲法を改正すべき。憲法を改正しないならば、自衛隊も放棄すべし!」という立場を取るのが正論である。しかし、自衛隊と憲法9条を天秤にかけられると憲法9条の改正に世論が傾くのを恐れ、その妥協の産物として「自衛隊を認めるから、憲法第9条は変えない」という着地点を模索したのではないかと思う。それは当時の政権与党である自民党が言い出したことなのか、それ以外の勢力が言い出したことなのかは知らないが、ジャーナリズムがそれを良しとして、しかもその後の長きに亘り「当然、自衛隊は必要」というスタンスを貫いてきたのだから、ジャーナリズムがその玉虫色の決着の片棒を担いでいるのは事実である。それは、原理原則よりも、現実を直視し背に腹には変えられないものを妥協して許容するという考え方を選んできた訳である。その様な歴史の上に現在がある訳である。

集団的自衛権の問題は、今現在の政治・国際状況においては背に腹は代えられない逼迫した状況にある。中国などの周辺諸国が暴走したときの準備を整えることを、日本は長いことないがしろにしてきた。それが、今現在、夢物語ではなく現実味を帯びた状況になってきている。非常に短い期間でこれまでの不備を整えなければならない状況で、安倍政権は着実にその歩みを見せている訳であるが、その中にこの集団的自衛権の問題が含まれている。憲法解釈で集団的自衛権の行使を容認して良いのかという素朴な疑問に対しては、私も正論としてその疑問を認めたいところである。しかし、それは「だから今、集団的自衛権を憲法解釈で認めてはいけない」という結論には至らない。それよりも、寧ろ「集団的自衛権は権利として保持するが、その行使は放棄する」という解釈をした時点で、「本当にその様な解釈で、日本国憲法第9条を理解して良いのか?」と問い直すべきであったと思う。ないしは、最高裁判決で自衛隊を合憲と判断したときに、「自衛隊の存在が肯定されるのか否定されるのか、二者択一で国民投票を行い、憲法改正を行うべき」と国民に問い直すべきであったと思う。しかし、自衛隊の放棄を覚悟するだけの勇気がないから、敢えて玉虫色を好んだのだと思う。極めてズルい選択である。

その様なズルい戦略を選んだ人たちが、現在の国際情勢を無視して空理・空論を唱えるのは卑怯だと私は感じている。明らかに手続き的にはおかしな話で、多分、双方が誤った手続きを取ることに合意し、その誤った不安定平衡点の上に長く胡坐をかきすぎたのだと思う。であれば、今更になって正論に正面から向き合うのは既に非常に危険な状況となっている。だから現在の安倍政権は正論よりも手続き的な正当性に着目し、現在の法律に則り何が出来るかを考えた時、昨日のブログで説明した通り、内閣の一機関でしかない内閣法制局のこれまでの答弁に囚われることなく、所定の手続きを踏んで憲法解釈を改正するのは致し方がない所だろう。それが結果責任が問われる政治というものかも知れない。

今回のケースは決してベストな解ではないのは明らかである。正攻法で行けば、憲法改正というアプローチが正しい。しかし、ワーストな解を避け、少しでもベターな選択を試みるために時の内閣が法に許される行動を模索するのは肯定されて然るべきである。残念ではあるが、これが現実なのである。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

「敵か味方か」で憲法解釈を論じて良いのか?

2014-02-23 01:27:37 | 政治
昨日のブログで森元総理の暴言発言についてコメントした。そのブログのコメントの中でも、全文を読めば悪意は感じられないという私の感想に対する同意のコメントも頂いた。ポイントは「悪意」の有無で、今朝の日テレの「ウェークアップ!ぷらす」でも、番組が組んだCM前の発言の紹介シーンでは「悪意」を強調しながら、CMが明けて辛坊キャスターをはじめとする出演者は「全文を読んだ」と前置きしたうえで、表現の乱暴さは認めた上で「悪意」から来る発言ではなく、真意は真逆のところにあるとのニュアンスを出していた。流石に正面切って擁護することで変なとばっちりを買いたくないという守りの意識は感じたが・・・。

さて、私のブログへのコメントの中でも「報道機関の嘘」について感想があったが、実は私は報道機関が如何に真実を捻じ曲げた報道をするかは問題だと思っているが、多分、彼らが「嘘を振りまこう」という意識であの様な行動を取っているとは思っていない。前々からこの手の「人の考え方」については私なりの考えを持っていたのだが、それを代弁するかのような記事があったのでそれを指摘しておきたい。

池田信夫blog2014年2月17日「朝日新聞の友と敵

ブログの冒頭の部分を直接引用させて頂く。
=======-
今週のメルマガで書いたカール・シュミットの記事のおまけ。シュミットは、法制局の手本とするケルゼン的な実定法主義を否定した。法制局は条文の矛盾や重複を厳重に監視するが、どんなバカげた法律でも矛盾なしに書けるので、それは法律の正統性を何ら保証しない。
法律の形式に意味がないとすれば、その本質は何だろうか。シュミットは『政治的なものの概念』で、それは友か敵かという立場だとのべた。人は他人の意見が正しいかどうかを合理的に理解してから立場を決めるのではなく、まず「こいつは敵か味方か」を感覚的に判断してから、自分の立場を正当化する論理を考えるのだ。
=======-

この最後の部分、「人は他人の意見が正しいかどうかを合理的に理解してから立場を決めるのではなく、まず『こいつは敵か味方か』を感覚的に判断してから、自分の立場を正当化する論理を考えるのだ。」のところは私の周りにもいる非常に短絡的な人の思考の典型的な特徴である。政治問題に関しては、よく「是々非々の立場で臨む」という表現を聞くが、これは例えば野党だから与党に反対しなければいけないというのはおかしいから、与党の言うことでも正当な意見には同意するという意味である。一見、尤もな話であるが、それを実践しているのは政治の世界では橋下日本維新の会共同代表ぐらいしか知らない。勿論、かくいう私にも(ないしは、誰にでも)その様な敵か味方かで判断が決まるという物の考え方がないとは言わないが、それでもなるべく客観的に物事を捉えようとは努力はしている。しかし、どうも新聞社と政治家の世界では、物事の客観性というのは2の次で、敵か味方かを最大限に重視するという傾向があるようだ。これは国内のメディアだけにとどまらず、(中国、韓国という限定的な物ではなく)海外のメディアにおいても同様であるようだ。

例えば、ダボス会議での安倍総理へのフィナンシャル・タイムズの質問の中で、「日本と中国で戦争の危険性はあるか?」との問いに、「ありえない!」と即答しない安倍総理を非難するという愚行があった。有識者の中でも、安倍総理の発言を聞けば何処にも問題点はないと認めながらも、「第1次世界大戦とう、ヨーロッパの人にとってセンシティブな話題を取り上げたときにどの様な反応が起きるか」ということを予測できなかったことを指摘し、「脇が甘い」と安倍総理を攻めていたりした。しかし、それらの記事には明らかに「悪意」があり、その悪意の根底には「こいつは敵か味方か」という品定めが事前に行われており、そこで「敵」と判定されると、どの様な発言をしてもあの様な攻撃を受けることになる。しかし、ではその様な攻撃を避けるために脇を固めると何が起きるかと言えば、「ダボス会議まで出かけて行って、人の記憶に残るような情報発信のひとつも出来ない」とのそしりを受けるような結果となる。ある程度、アグレッシブな攻めの政治をやるのであれば、情報発信は必要不可欠である。中国、韓国の卑劣な歴史認識攻撃に対しても、その積極的な情報発信の重要性が高まる中、その様なリスクばかりを恐れていては何も出来なくなってしまう。だから、日本と中国の間の不慮の事態に備えたチャネルの存在の重要性を説き、それをアピールするための発言として、その発言の真意は肯定的に捉えられるべきで、それを悪意を持って捻じ曲げる方を寧ろ非難して然るべきであろう。

しかし、この「こいつは敵か味方か」という品定めは一旦評価が決まってしまうと、それを変えることは殆ど不可能に近い。非常に価値観が多様化している現代では、その品定め結果を不当だと責めても、その議論が噛みあうことなどあり得ない。つまり、この様に敵か味方かでしか物事を考えられない人たちに対しては、論理的な立場の正当性を戦わせようとしても無意味であり、その様な人との議論においては「手続き」的な正当性が重要となる。つまり、相手も決して逆らうことが出来ない、法律などの拠り所となるルールの確認である。先の池田氏のブログの中でも引用されている「内閣法制局は『法の番人』なの?」には、集団的自衛権の憲法解釈による対処に対する解説が書かれている。他にもより正確な記述は下記のサイトで高橋洋一氏が説明している。

Diamond Online2014年2月20日「『官僚内閣制』の肯定か、『政治主導』か 集団的自衛権で俄然注目の内閣法制局とは?

私もすっかり勘違いしていたが、法律の中で規定される内閣法制局の役割の認識は、これまで多くの誤解を生んでいた。つまり、内閣が勝手に法律の判断をすることが出来ない様に、内閣法制局が政府の見張り番をしているという理解であるが、両氏がご指摘の様に内閣法制局の法的な規定にその様な役割があり得る訳がない。何故なら、三権分立の立場から、行政の一機関の判断よりも最高裁の判断の方がより上位であり、最高裁の判断を無視して内閣法制局が物事を決める権限がある訳がない。三権分立の初歩の初歩の話である。しかし、これが「法の番人」と認識されるに至る背景には、この内閣法制局は新たに行う立法と過去の法律との整合性を管理する機関であり、法律の文案レベルで内閣に助言を行う法律のスペシャリスト、いわば「家庭教師」のようなものである。その様な役割故に、ある種のスタビライザー的な効果が伴っていて、憲法解釈ですら内閣法制局が中心となって行っていたのである。しかし、それは内閣法制局側が「これは、俺の仕事だ!」と言って行っていたのではなく、内閣側からの要請があり過去との整合性をアドバイスしているに過ぎない。あくまでも選挙を経ない官僚でしかないから、当然ながらその様な人に「国家の命運を左右するかも知れない重要事項」の決定権がある訳がなく、それは選挙と国会の運営ルールの上での最高責任者たる総理大臣が、所定の手続きを踏んで、その結果として最終判断をするのが法律的な理解である。

安倍総理の国会での発言をこれらの新聞社が「選挙で選ばれたのだから、私が決める」と傲慢な態度を取ったと非難しているが、それは安倍総理の発言を捻じ曲げていて、手続き論的に「法律の規定ではどの様になっているのか?」を基準に議論を行い、それが内閣、ないしは内閣総理大臣の権限であるとするならば、その権限の行使が間違っていたとすればそれに対するブレーキを法律はどの様に定めているかと順番に問えば、時の内閣、ないしは総理大臣が手続きを踏んで権限を行使し、その権限の行使が不適切であれば国民は次の選挙により彼らにペナルティを課すことが出来る、それが日本人が従うべき法律の規定である。これは法律なのだから、新聞社の「好きか嫌いか」「敵か味方か」などという愚かな議論を超越して、圧倒的に正しい手続きなのである。この様なご指摘は有識者の中でも時折みられ、長谷川幸洋氏なども同様の指摘をされている。他にも一部の新聞社では、同様の記事を書いているようだ。

この様に、我々は「敵か味方か」を基準に法律すらないがしろにする輩が大腕を振って「我こそはジャーナリズムである」と豪語する世界に生きている。私などはブログでぼやくだけだが、多くの政治家や言論人はこの様な残念な世界の中で生きて行かねばならない。だとすれば、それらの人々のバイブルは、「手続き」ないしは「法律」的な正当性を重視し、価値観の正当性は寧ろ封印すべきなのかも知れない。我々は(韓国を含めて)アメリカなどの国々に「民主主義という共通の価値観を共有する国々」と呼びかけているが、この共有の価値観というのは危険である。韓国を見れば分かるように、価値観は多様であり身近な存在と思いきや、結構な頻度で衝突するものだからである。であれば、外国相手との議論を繰り広げるのであれば、手続きや法律、国際ルールを最大限に尊重し、つまらない価値観にはあまりこだわりを見せない方が良い。

最後は抽象的な終わり方で申し訳ないが、ジャーナリズムを自称得る方々には、「敵か味方か」を基準に物事を判断することの是非をもう一度考えてもらいたい。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

正義を振りかざす放火魔に騙されるな(森元総理の暴言問題)

2014-02-21 23:11:11 | 政治
最近、「あれっ?」思う記事があった。森元総理の暴言問題である。今日はこの記事について思うことを書かして頂く。

最初に断っておくが、私は当初、森元総理は大嫌いであったが、私の2年ほど前のブログ「人は見かけによらないか?(その向こうにある希望)」あたりから、彼の評価を見直した。だから、少々、彼に肩入れしている感があるのは認める。しかし、その様なバイアスを除いても、同じ結論にたどり着くのではないかと思っている。

では順番にみて行きたい。まず、最初に私が森元総理の暴言発言を知ったのは下記の記事である。

時事ドットコム2014年2月20日「浅田選手は『大事なとき転ぶ』=森元首相

短い記事だが、浅田真央選手がショートプログラムで16位と出遅れたことについて「見事にひっくり返ってしまった。あの子、大事なときは必ず転ぶ」、「負けると分かっている団体戦に出して恥をかかせることはなかった」と発言したとして、配慮を欠くと非難している。私はこの関連の記事を幾つかの新聞で読んだ時、「あり得ない」と思った。この「あり得ない」の意味は、そんな酷いことを言うのが「あり得ない」のではなく、森元総理がその様な発言をして真央ちゃんを傷つけることなど「あり得ない」という意味である。しかし、多くの新聞社が引用しているので、少なくとも「その様な発言があった」ことは事実であろうと思った。であれば、何でそんなことになるのだろうと気になった。

思い起こせば、麻生副総理の「ナチス発言」も同様であった。過去のブログ「ジャーナリズムの堕落」でも書いたが、発言の内容を通して聞けば、そこで切り取られた言葉の持つ意味が新聞などの報道とは間逆であることが分かる。しかし、新聞というメディアは自分で「放火」しておいてその火事現場にいち早く駆けつけてスクープ取材をするのが得意で、まずは政治家などのある種の権威を持った人々を炎上させ、その炎上の中でその人がもがき苦しむ姿を記事にして楽しみ優越感に浸るようなところがある。そして、その記事だけを読んだ有識者と言われるテレビのコメンテータなどは、さらにそれを「酷い!酷い!」と酷評し、それをさらに記事にして炎上の度合いを高めている。様々な記事を読むと記者の高笑いが聞こえてきそうである。

流石に「あり得ない」と思ったので背景を探ってみると、実は、この森元総理の発言は別のサイトで全文を読むことができる。下記の記事を参照して頂きたい。

荻上チキSession22 2014年2月21日「森喜朗 元総理・東京五輪組織委員会会長の発言 書き起し

思わず繰り返し読んでしまった。悪意のある人は、この記事を読んでも非難をやめないだろうが、純粋な気持ちでこれを読めば森元総理の真意はだんだん見えてくる。他の記事では全く扱われていないが、スノーボードでメダルを取った人達の例を引き合いに出し、日本の殻を飛び出して、海外に活動の拠点を置いて伸び伸びと練習をし、自由奔放にやっている若い世代の人は、結局、本番で実力以上のものを出し切ってメダルをかっさらっていってしまう・・・、真央ちゃんもそんな風になれたら良かったんだけどねと言いたかったようである。しかし、極めて日本的な組織、例えば日本スケート協会などの考え方にはその自由奔放さがなくて、フィギュアの団体戦などで欲をかいて選手に無理を強いて、そしてその無理に応えようとする日本人の真面目さが仇となって、本番での精神バランスを崩し、それが日本の女子フィギュアの惨敗につながったと森元総理は考えているようだ。これまでに真央ちゃんは様々な逆境にぶつかりながら、時に押しつぶされそうになりながらも、その真面目さでここまで乗り切ってきたが、それはやはり自由奔放さとは違うから、ガラス細工のように繊細で、「大事な時に失敗する」という宿命から逃れられない。

多分、真央ちゃんのことを思い、あの様なショートプログラムでの「とんでもないこと」に至った背景を考え、なるべく選手に負担をかけないように団体戦を回避していれば、少なくともショートプログラムで(団体戦の時のような)3位で収まっていたのかも知れない。団体戦でのミスは自分だけのミスではないから、真面目であれば真面目であるほど心の中に傷を作り、1週間という時間がその傷口を深くしていく。森元総理はそんな背景がひしひしと感じられたから、真央ちゃんを弁護しながら、しかし同情されていると真央ちゃんに受け取られないように少し茶化して「あの子、大事なときには必ず転ぶんですよね。なんでなんだろうなと。」と言っているように見える。勿論、その発言は茶化しと言えども品がないから、それなりの立場なのだからもう少し品のある言葉を使えば良かったと言うのは認める。しかし、最近の報道のされ方は「品のなさ」をたしなめるのではなく、「言葉狩り」的に他人を陥れるために利用している悪意を感じる。

勿論、かくいう私もその様な現場の悲痛な叫びのようなものを知らなかったから、「団体戦」が個人戦に対する「ひとつの練習」の様になって良かったのではないかと思っていたのだが、森元総理の発言を読み直していると、多分、団体戦が彼女たち(彼ら)にとって相当な負担になっていたのだろうなぁというのが感じられる。実際、ソチ開幕前にテレビ番組でフィギュアの解説者が団体戦を語るとき、何か奥歯に物が挟まったかの様にすっきりしない言い方で、「選手にとっては負担」という雰囲気が感じられた。今思えば、あの時のその予感は正しかったのだと思う。

森元総理は東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長というポジションだから、今から6年後の東京オリンピックでのメダルラッシュのために何をやるべきか、何を考えるべきかを深く考えているのだと思う。その中で、ひとつの大きな議論として、選手たちが全力を出し切れる環境を作り上げることは、非常に重要なことであることは疑いもない。そのためには、自由奔放な選手を育成することであったり、各種競技の元締め的な組織が選手たちを本番前に消耗させないような、そんな体制・ルールを確立する必要がある。口で言えば簡単だが、真面目な日本人の体質の中で、その様な正論は中々通りはしない。何処かで大きな問題提起をし、そこで広く議論してもらわねば、状況を変えることはできない。

であれば、真央ちゃんの一件は日本国民にとっても凄まじいショックだったから、真央ちゃんには可哀想だが、この場を利用して問題提起をしなければ・・・と考えてもおかしくない。少なくとも、この長い長い書き起こし記事を読めば、森元総理の思いが軽はずみのものでなく、深い洞察があっての発言であることは読み取れる。しかし、新聞記者はそれでは飯を食っていけないから、放火をして炎上させ、いち早く駆けつけてスクープ記事を書こうとする。森元総理もその辺の事情を分かっているから、会見の最後に新聞記者に挑戦状を叩きつけるような煽りの言葉を喋っている。

しかし、本当に日本のこと思い、選手のことを思い、それを単なる同情などでは終わらせず、未来に繋げようという思いをしているのは誰かと問われれば、少なくとも新聞記者でないことは分かるはずである。

品がないのは認めるが、スノーボードのメダリストたちの自由奔放さがポジティブに働くことを考えれば、少々品がなくてやんちゃな森元総理の自由奔放さは認められるべきなのではないかと思う。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

何故マスコミは石原信雄元官房副長官の参考人招致のニュースをスルーするのか?

2014-02-21 00:15:57 | 政治
何とも不思議な状況に出会った。訳あって、今日はNHKのニュース9とテレビ朝日の報道ステーションを見ていたのだが、両方ともスルーした重要なニュースがあった。今日行われた河野談話に関与した石原信雄元官房副長官の衆議院予算委員会の参考人招致の話題である。

まず、下記のYouTubeのサイトで質疑の状況を見ることが出来る。また、産経新聞の記事もその下に引用した。

YouTube「【河野談話】山田宏議員の歴史的質疑
産経新聞2014年2月20日「『河野談話、(慰安婦聞き取り調査の)裏付けなし』石原元副長官が国会で証言

産経新聞はここ最近、河野談話の出来上がるまでの経緯を積極的に記事にしており、その様な記事で扱われた内容からすると特段に新しい情報の開示があった訳ではないが、しかし、非常に重要な参考人招致であったことは間違いない。私の去年の8月のブログ「石原信雄元官房副長官を証人喚問してはどうだろうか?」でも主張していた通り、河野談話の出来上がるまでの経緯を熟知している当事者である石原元官房副長官に、その背景を直接的に語らせることには非常に意味がある。世界では、河野談話のことを「日本よ、語るに落ちた!」とばかりに強制連行の証拠を自らが作り上げたと認識している。それを弁解している人達が何を語っても、あくまでも推測でしかないという事で「現状を覆して、確定した歴史認識を修正しようとしている」と評価されている。だからこそ、その当事者が何を語るかは非常に意味があるのである。

以下に、少しばかり特筆すべき発言をピックアップしてみたい。文字お越しではないから発言は正確ではないが、ニュアンスとしては大きく外れてはいないと思う。まず、これは若干驚かされたことではあるが、官房副長官というポジションから裏方のトップという事で、何から何まで裏の事情を熟知していると思ったのだが、実際には「聞き取り調査の報告書などを担当者が取りまとめ、最後の河野官房長官談話となる調整段階で(石原氏は)関与するようになったので、新聞などで指摘されている様な裏事情は承知していない」ということだった。質問者の日本維新の会の山田宏氏曰く、実際にこの聞き取り調査などに主導的に関与したのは外政審議室の某官僚でありその実名を公開し、この人を参考人招致しなければ全貌は明らかにならないとのご指摘だったので、石原元官房副長官でも把握しない闇が存在するのかも知れない。その部分が当事者の口から明らかにされれば、もう少し状況は変わるかも知れない。次に興味深かったのは、石原元官房副長官が慰安婦のことを呼ぶときに、繰り返し用いた表現がある。それは「慰安婦とされた人々」という表現である。つまり、決して「”従軍”慰安婦」とも呼ばないし、「慰安婦」という断定的な表現すらしていない。あくまでも、検証のなされていない自己申告的な狭い意味での「慰安婦」という表現に拘っている。更に興味深いのは、韓国側の一方的な主張に対して裏付け調査をしなかったのかとの問いに、「本来は裏付け調査をするのが筋であると承知しているが、その様な裏付け調査は一切していない」「(裏付け調査をしなかった理由は)当時はとてもではないが、日本側から裏付け調査などを要求出来るような状況では決してなかった」と明確にしていることである。つまり、韓国が日本に圧力をかけて河野談話の文案を修正させた経緯は承知していないが、しかし、常識的な裏付け捜査がとてもできないような空気を韓国側が漂わせていたという証言をしたことになる。できれば、「どうして、『とてもではないが裏付け調査の要求などできない』という印象を得たのか?」と聞いてもらえば、それが韓国側からの具体的な言動によるものなのかが明らかに出来たかも知れないが、取りあえずはここまでの情報でも意味は大きい。なお、石原官房長官は何度も何度も繰り返し聞かれる中で、韓国側と日本側の文案のすり合わせにおいて、具体的な動きを承知してはいないが、しかしその様な何かがあってもおかしくないという感触を肯定していた。そして最後に、これも重要なことであるのだが、「河野談話における慰安婦の聞き取り調査など、韓国側が善意をもって信頼できる人を選別して行ったものであり、その内容に疑義がないという前提を日本の善意で受け入れた。少なくとも私(石原元官房副長官)の在職中は韓国政府内からは『未来志向で行こう(慰安婦問題はこれ以上深追いはしない)』という暗黙の了解があったが、その後に韓国政府は掌を返したような対応を取った。これは当時の日本政府の善意が生かされていない状況であり残念である」という様なニュアンスの発言をしている。つまり、双方が「善意」で対応したはずなのに、政権が代わればその善意はチャラにされ、日本が譲歩すれば譲歩しただけ後の世において不利になるという現実を明らかにしている。

なお、既に第1次安倍内閣でも閣議決定で明らかにしている通り、河野談話では「軍の直接的な関与」「強制性」を認めたものではなく、あくまでも主として民間業者が慰安婦を集めていた中で、個人的にその募集の中で何らかの関与を行った軍人、官憲がいることを認めたものであるということも明言していた。

限られた時間の上に、質問者の山田氏は石原元官房副長官からの情報の引き出し以上に、自らの認識を石原元官房副長官にぶつけて同意を得ようという手法を取っていたようで、例えば検察官の様な「裁判でも有効となるような証拠・証言の収集」という視点で見れば不満は残るものである。しかし、今回はあくまでも突破口である。世界が日本をボロ糞に貶めようとする中で、反撃のための論理武装を積み上げなければならない。

この様な意味で、少なくともニュースとしての価値は十分高いと思うのだが、今更ながらのNHKの籾井会長への質疑などはニュースで流しながら、肝心のこの石原元官房副長官の質疑は完全にスルーだった。あまりにも明らさまな「自分に都合の悪い報道は避ける」というスタンスがジャーナリズムの良心の欠如を表しているようで悲しかった。しかし、仮にニュースでの扱われ方は小さくても、内容的には非常に大きなないようであったと私は感じている。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

ウオール・ストリート・ジャーナルの記事から読み解く「アメリカによる日本の見方」

2014-02-19 23:09:02 | 政治
少しばかりウオール・ストリート・ジャーナルに記載された記事を読み漁ってみた。中国系の息がかかった人材が新聞社や政界・経済界に浸透しているアメリカ国内においては、あまりに刺激的で読んでいると頭を傾げたくなる記事もあるのであるが、結論としてはその様な記事に一喜一憂する必要もないようであるという結論に達したので簡単に紹介してみる。

まず、最初に取り上げる記事は下記のものである。

ウオール・ストリート・ジャーナル2014年2月17日「日本に対する怒りの輸出に失敗した中国.

タイトルから分かるように、中国が日本の歴史認識問題で世界が日本を批判するように誘導しようとした動きに対し、概ねその企てが失敗したことを報じたニュースの様に見える。このタイトルから受ける印象は、日本の日頃からの主張、ないしは日本のこれまでの行動が示した真実が中国の謀略を防いだという記事のように感じ取れてしまうのだが、中身を読むと全く逆のことが書かれている。例えば、幾つかの表現を引用してみよう。
======-
「歴史問題に関する中国の外交官の主張には説得力があった。」
「中国政府が日本に対して抱いている不満は正当なものだ。ドイツのアンゲラ・メルケル首相がナチスによるユダヤ人虐殺を軽視したり、米国の政治家が主人と性的関係を持つよう強要された奴隷を売春婦と呼んだりすることは考えられないだろう。しかし、著名な日本の政治家たちは最近、何度もこれに等しい発言をしている。」
「中国は第2次世界大戦中、計り知れない苦しみを味わった。戦時中の罪の全責任を引き受けようとしない日本を非難する権利は韓国だけでなく中国にもある。」
======-

どうしてこの様な一方的なスタンスの記事が掲載されるのかは非常に興味深いところだが、この記事の最後の結びを引用してみよう。

======-
「歴史をめぐる中国の不満がいかに正当なものであっても、米国が日本を非難しないのは、中国が近隣諸国をいじめる独裁国家で、アジア太平洋地域を仕切る米国の指導力に深刻な脅威をもたらしていると広く認識されているためだ。
日本がどれほど悔い改めてもこの認識を拭い去ることはできない。」
======-

つまり、歴史問題における中国・韓国のスタンスが正当であることを断定し、それでも中国は「日本に対する怒りの輸出に失敗した」と結論付けている。その理由は、アメリカの認識が「中国が近隣諸国をいじめる独裁国家」であるからであり、「虐めっ子の言い分は仮にスジが通っていても聞いてあげることはない」のと同等であるとしている。なお、この記事を読む限りでは、このアメリカの「中国が近隣諸国をいじめる独裁国家」という認識について、否定はしていないがこれが正当な認識だとも言っていない。(正当か不当かは別として)様々な思惑の中のパワーバランスが丁度拮抗している地点で、行いの悪い日本が命拾いしているという内容の記事となっている。なんとも納得できない記事である。

しかし、ではこの記事の著者は誰なのかというのが気になるところである。記事の最後に著者の紹介が記されていたのでこれも引用しよう。

======-
Ying Ma氏は「Chinese Girl in the Ghetto(ゲットーの中の中国人少女)」の著者で、香港の公共放送局、香港電台で「China Takes Over the World(中国が世界を征服する)」の司会を務める。ツイッターは@gztoghetto」
======-

調べてみたが国籍までは分からなかったが、香港を拠点とする中国系の人(ないしは中国人)で、かなり中国に軸足を置いた人らしい。たまたま香港という場所が、長いこと英国領であったがために英語に堪能な中国人が多く、(国家戦略的な意図が背景にあることは勿論だが)英語での中国よりの発信が日本に比べて多く、日本人には信じ難いほど中国の言い分を鵜呑みにするメディア・人がアメリカ、イギリスに多かったりする。この事態を是正するのは日本として当然の権利だと思われるのだが、第2次世界大戦での戦勝国側の論理としては、日本に戦争の敗北の受け入れを強いるのみならず、戦後何十年も経過する中で吹聴された数多くのデマに関しても、戦勝国の権利として「デマをデマのまま受け入れよ!」と主張しているようにも見て取れる。

これがウオール・ストリート・ジャーナル紙がアメリカ国民に「伝えるべきニュース」として選んだ記事なのかと頭を抱えてしまうところであるが、しかし、これが全てではない。この記事の真逆を行くような記事もある。下記の記事はウオール・ストリート・ジャーナルの「社説記事」であるから、こちらの方が社の公式見解と言える。

ウオール・ストリート・ジャーナル2014年2月6日「【社説】日本には集団的自衛権が必要―アジアの民主主義に貢献

タイトルの通り、日本の集団的自衛権容認を好意的に評価する内容の記事である。元々アメリカ側から日本に求めていた集団的自衛権の問題であり、下記の様にその意義を説いている。

======-
集団的自衛権は別の理由でも日本にとって重要だ。その原則は民主主義国が独裁者の脅威に立ち向かうために結束するべきだとするもので、第二次大戦後の世界秩序の要となっている。欧州ではこの構想に基づき、ソビエト連邦を抑止するため北大西洋条約機構(NATO)が設立された。
======-

つまり、冷戦時代のヨーロッパにおけるNATOの位置づけと同様に、東アジアにおける日本の貢献を評価しているのである。そして「日本が率いる民主主義国の連合は、中国から迫り来る独裁主義に対峙する一段と有効な勢力となりうる。」とも述べている。明らかに中国の独裁主義を非難し、日本の行動の正当性を保証しているのである。ただ、アジア諸国の懸念として「安倍首相が昨年12月28日、A級戦犯をまつった靖国神社に参拝したことや、(日本軍の)戦争中の残虐行為を否定する一部の政府高官の発言で、アジアの隣国は日本の軍国主義の亡霊がまだ完全に追い払われていないという疑念を募らせている。」とも指摘しているが、ここでの表現は「疑念を募らせている」であり、微妙なニュアンスとしては「あくまでも疑念であり、的を得ている可能性は低い」という指摘の様にも読める。そして、「中国は集団的自衛権をめぐり大騒ぎする一方で、中国政府首脳は自らの行動が政治的に道筋を開いたと考えるかもしれない。中国が尖閣諸島や南シナ海の問題をめぐって武力で現状を変えようとし続けるなら、安倍首相あるいは次の首相が憲法第9条を丸ごと削除するかもしれない。」との指摘からは、日本がこの様な「右傾化」と言われるような事態を招いた根本原因は中国にあり、「安倍首相は、日本をアジアで主導的役割を果たすことのできる正常な国にしようとする取り組みにおいて称賛に値する。日本政府は平和に貢献し、この70年間で過去の行為を償ってきた。」と我々日本人の感覚をなぞらえるような評価で締めくくっている。

なお、この記事の日本の右傾化を招いたのは中国だとするご指摘は、同様に下記の記事からも読み取れる。

ウオール・ストリート・ジャーナル2014年2月12日「過去への謝罪にうんざりな日本

まず、記事の出だしから「学者で評論家の秋山信将氏の言葉を借りれば、日本は第2次世界大戦で負けたことをはっきりと認め深く謝罪する『グッド・ルーザー』役を演じ続け、久しく二級国家としての地位に甘んじてきたが、その役回りにすっかりうんざりしている。」としており、戦後70年の日本の歩みを正しく表現する言葉で始まっている。ただ、記事の途中で「安倍氏がナショナリストであるのは疑いない」とも言っているが、ナショナリスト、ないしは右翼と言うのは立ち位置のポジション次第で相対的にその様に言われることはあるから、これ自体はそれ程悪質ではない。そして、「日本の国民は日本が近隣諸国にもう十分に悔恨の情を示したとのメッセージを送っている」として、右でも左でもない平均的な日本人は、これまでの70年間の歩みの中で十分な謝罪を行っていると感じており、それを比較的公平な目で否定することなく記述している。一方で、中国・韓国の立場の紹介として用いられた言葉は「だが近隣諸国では、日本が永久に謝罪を続けることを広く期待している」であった。常識的に、一度戦争に負けたら「未来永劫、無限の年月をかけて謝罪し続けなければならない」という必然性は欧米人は持ち合わせていないから、これは暗に中国・韓国の感覚が少しずれていることを暗に批判している。実際、朴大統領は千年の恨みとも言っているので、単に国民感情としてあるだけでなく、少なくとも韓国はそれを正当な権利だと公言してはばからないのである。記事全体を通してだが、安倍総理を含め日本政府については好意的に捉えているが、ガラス細工の様な東アジアの安全保障体制の維持を考えるうえで、安倍総理が起こす僅かな水面に非常にセンシティブになっている感が伺える。これを「不安」という言葉で表している。

色々と書いてきたが、アメリカにおける日本の評価を理解しようとするとき、一部には中国系のステレオタイプの反日記事を受け入れる人々がいる一方、「社説」というオフィシャルな記事からも分かるように、日本のことはそれほど悪くは見てはいないが「何となく不安」に感じている人が大半なのだと思う。であれば、例えば靖国参拝などのひとつひとつの行動に対して説明責任をしっかり果たし、その個人(安倍総理)の人間性を明らかにすることで信頼を勝ち得ていくしかない。少なくとも「失望」という言葉を「売られた喧嘩」と捉えるのではなく、相手の反応にぶれることなく、淡々とやるべきことをやるというのが正攻法なのである。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

ジャーナリズムが平和国家や民主主義実現の障壁になるという喜劇

2014-02-18 23:52:03 | 政治
今日はジャーナリズムが平和国家や民主主義実現の障壁になるという喜劇のようなコメントを書かせて頂く。最近の集団的自衛権や特定秘密保護法案に関する議論においては、活発な議論と国民的理解を深めるという点において、この様なジャーナリズムによる障壁が深刻であるというお話である。

さて、最初に少しばかり違う話題から入らせていただく。以前、竹中平蔵氏がBS朝日の激論クロスファイアに出演した際に、非常に的を得た発言をしていたのを思い出す。それは、岩盤規制の打破について問われた時のコメントで、「打ち破らなければならない分厚い岩盤の打破のための障壁の中にはジャーナリズムが含まれている」という発言があった。竹中氏曰く、岩盤規制を打ち破るためには、非常に丁寧な議論を積み重ねていく必要があるのだが、その丁寧な議論を妨げる大きな障壁のひとつがジャーナリズムであるとのことであった。この手の議論においてのジャーナリズムの関与の仕方は非常に守旧的で性質が悪いことが多い。何らかの大きな問題点、議論のテーマに対し、ことの本質の議論をしようとしても、枝葉末節の些細なことを過剰に大袈裟に取り上げて議論の論点を有耶無耶にしてしまい、その後はイメージ中心の世論誘導で肝心要の部分が置いてきぼりとなってしまう。つまり、多くの国民に議論の本質が何処にあるかを隠し、イメージ戦略で直感的かつ短絡的な善悪感覚を植え付け、半ば消耗戦の様な状況に持ち込んで議論が本丸に至らないようにしているというのである。何故、マスコミがその様に国民の利益に反する行動を取るのかは色々理由があるのだろうが、私の感覚では「議論を深掘りする能力の欠如」と「世論を背に受ける優越感への傾斜」であると思う。何かを論評しなければならない状況で、有益なことを発言するよりも自らの地位の保全を優先しているような感じである。ジャーナリズムの堕落と言っても良い。

竹中氏が最初にこの話題を引用した元ネタは、医薬品のネット販売に関する是非論において、「副作用のリスクがある医薬品を一部ネット販売禁止するのは分かるが、何故、医師の処方箋がある医薬品のネット販売が駄目なのか?」との田原総一郎氏の質問に答えたものである。まず、同席していたコメンテータがこの質問に「処方箋があれば副作用の心配はないので論理的にネット販売規制は矛盾しているが、その矛盾を突かれるのが嫌だから(処方薬の前段の)市販の医薬品レベルでのリスクを過剰に煽り立て、何となく危なそうという雰囲気をつくっている」と答えていた。つまり、市販薬の段階で、ネット販売のリスクにジャーナリズムが噛み付くことで、その先のより深い議論(医師による処方薬の扱い)が途中でストップしてしまう。これは、ジャーナリズムが障壁と化しているひとつの例であると紹介していた。

番組では同様の例として、2012年に改正された労働契約法に絡んだ「雇止め」問題についても指摘されていた。改正された労働契約法では、非正規雇用を5年以上継続する場合には、労働者側の希望に応じて無期限労働契約への転換(すなわち正社員化)すべきというルールが導入されている。しかしこのルールは非正規雇用者を救済するための役には立たず、逆に4年ないし4年半で「雇止め」に合う労働者が激増することになった。これは、性善説に立ってそのルールを見るならば明らかに正社員化を促す良いルールであるのだが、実際には性悪説に立った雇用主が圧倒的に多く、5年継続して非正規雇用の契約を継続すると正社員化しなければならないことから、雇用主側が5年を待つ前にクビを切る行為に出る事案が頻発したのである。性善説に立つ人と、性悪説に立つ人がいる場合、片側の側面での議論では不十分である。非正規雇用が生まれる最大の理由は、正規雇用に対する法的な縛りが強すぎる為、大企業においては景気・不景気や様々な生産体制への柔軟な対応を考えた時、どうしても正社員として雇用するリスクを背負えないと判断するからである。しかし、実際には中小企業など、あまり世間の冷たい目線を気にすることの無い企業においては、法的な縛りを無視して一方的な首切りをすることが多い。労働組合がそれなりに機能する大企業と異なり、首を切られた個人が会社と戦わなければならない中小企業では、費用が掛かる裁判もそう簡単には起こすことが出来ない。結局は泣き寝入りとなるケースが負い。首切りの理由は全く異なる事例だが、過去にも某出版社で実際には送っていない景品を「複数の読者に当たる」と誌上で偽っていたことを内部告発した社員が一方的に解雇された問題があった。しかし、この様な無謀な解雇が世の中で通用するとは思えないのだが、実際にはそれがまかり通ってしまうぐらいだから、企業の業績が不振という見方に寄っては正当な理由の中で不当解雇が起きたとしても、中々それを是正するのは難しい。であれば、この様な「不当解雇」をせめて「妥当な解雇」とするための金銭手当のルールを明確化することは、(それがベストないしはベターな解であるか否かは別として)真っ当に議論の遡上に上げることは有意義なはずである。しかし、マスコミはその一面だけに着目し、その背後にある問題を無視して「大企業の論理など許すまじ!」と一大キャンペーンを繰り広げる。もう少し多面的に物事を捉え、多くの国民に様々な選択肢の一長一短の詳細を説明すれば、国民的な議論に格上げすることが可能になるのだが、何故か議論が巻き起こる前にジャーナリズムが問題を矮小化して火消しに走る事態である。まさに、弱者の側に寄り添うポーズを示しながら、実際には多くの弱者が涙を呑んでいるのを黙殺する行為である。この様な議論の矮小化は、民主主義の本来のあるべき姿から逸脱しており、活発な議論を阻害する大きな障壁・岩盤のひとつとして捉えられるべきである。特定秘密保護法などもその良い例だろう。

ここで、最近のジャーナリストを称する彼らのターゲットは集団的自衛権の問題に移りつつある。多くのオピニオンリーダとも言われる著名人が集団的自衛権を否定的に捉えているが、それらの人々が口々に言うフレーズは、「集団的自衛権の容認とは、日本を『戦争が出来る国』にするための決断である」という言い回しである。多くの人は、「あなたは、これまでは日本は『戦争が出来ない国』ないしは『戦争をしない国』だったのが、『戦争を出来る国』ないしは『戦争をする国』に変えていくという決断を容認するのか?」という問いかけをされれば、何も考えない人であれば「『戦争をしない国』の方が良いに決まっている」と答えるのは当然の帰結である。しかし、これには「戦争が出来ない国=戦争をしない国」、「戦争を出来る国=戦争をする国」という前提条件が暗黙の中に隠されている。しかし、この前提条件は正しくない。例えば、東西冷戦の時代、(今もそうであるが)アメリカは確実に「戦争のできる国」であった。同様に、当時のソ連も「戦争の出来る国」であった。ここでその当時、仮にアメリカが「戦争の出来ない国」であったら何が起こったであろうか?ベトナム戦争が起きなかったことは理解できる。しかし、その見返りに、ソ連がアメリカに何らかの攻撃を仕掛け、第3次世界大戦が起きていたとしてもおかしくはない。1962年のキューバ危機の時には、一触即発で世界規模の核戦争が起きてもおかしくはなかった。しかし、その戦争が起きなかった理由は、アメリカもソ連も「戦争の出来る国」だったからである。アメリカに核ミサイルがなく、ソ連のみに核ミサイルがあったのなら、キューバ危機でソ連のフルシチョフはアメリカへの攻撃を躊躇わなかったはずである。相手が「戦争が出来る国」であることが、結果として抑止力として働いたのである。勿論、ベトナム戦争にしてもイラク戦争にしても、アメリカが戦争の出来る国であったが故に起きた戦争ではあるが、この事実は「『戦争が出来ない国』であれば戦争に巻き込まれない」という命題に対して何らアドバイスを与えるものではない。仮に「戦争が出来る国」であっても、自らの意志として「戦争をしない国」であり続けることは可能なのである。一方で、上述のキューバ危機の例を見れば、(近隣に戦争を起こすかもしれない国が存在する場合においては)戦争が出来ない国であれば戦争に巻き込まれるリスクが高まるのは事実である。だから、これらをどの様に思考的に整理するかが問われるのである。

一部のジャーナリストは、「日本が丸腰なのに、中国が攻めて来るはずがない」と言うかも知れないが、世界中でその様なことを言うのは日本人だけである。あまりに現実離れした非常識な発想である。だから、「あなたは、これまでは日本は『戦争が出来ない国』ないしは『戦争をしない国』だったのが、『戦争を出来る国』ないしは『戦争をする国』に変えていくという決断を容認するのか?」という問いかけをすること自体が、問題の所在を矮小化し、論点を有耶無耶にする悪意のある戦術だと言わざるを得ない。

勿論、言論の自由はあるのだから、今後もいつまでも「日米安保タダ乗り論」を謳歌し続けることが出来るかも知れないと言うのは勝手である。しかし、であればその「仮設」を検証する努力を合わせて求めればよい。アメリカの大統領や国防長官、国務長官をはじめとするアメリカ政府の重鎮が、「日本が尖閣を守る気持ちが全くなくても、アメリカが守ってやるから安心しなさい」と言ってくれるかどうかを確認すれば良い。「バカヤロー」と答えが返ってきたら、その様な仮説が成り立たないものとして議論を再構築すれば良い。それすらしないで空理空論をぼやきまくるジャーナリストは、やはり日本の安全保障の障壁と見て然るべきである。

繰り返すが、ここまでの私の主張は、「だから集団的自衛権を容認すべきだ!」という結論を訴えているものではない。あくまでも、論理的に丁寧な議論が出来る土俵を確立し、その上で真っ当な議論を国民に分かり易く戦わせることの重要性を訴えているに過ぎない。その様な正攻法を邪魔するジャーナリストがいるのであれば、その様な人は平和国家への道への障壁であると評価されるべきである。その様な人が多すぎるのが残念である。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

インドネシアとシンガポールの歴史認識問題から世界のルール作りを考える

2014-02-15 23:24:44 | 政治
日本にやっと金メダルがもたらされた。重圧をはねのけて金メダルを獲得した若き世界のエース、羽生結弦の頑張りを純粋に祝福したい。実は思わずLiveで観戦してしまったが、素人目には氷面が荒れて、パトリック・チャンにしても実力を出し切れずに双方が痛み分けをし、ショートプログラムでの得点差がそのまま最終結果に繋がったように思えた。昨日の演技を除けば、最近の彼のしなやかで品のある、流れるような演技は見ていて気持ちが良い。4回転ジャンプを決めた後の「自然な流れ」の中でのガッツポーズは、如何にも王者の風格である。その様な演技を出しきれなかったのが氷上のコンディションだとすれば少々残念だが、しかし結果が全てのスポーツの世界できっちりと結果を出した精神力は流石である。

と、関係ない話から入らせて頂いたが、以下が本題である。物事を客観的に議論するための良い例となる記事を見つけたので紹介したい。以前、安重根がテロリストか英雄かをキャロライン・ケネディ大使に質問して見ては・・・?というブログを書いて「品がない!」とお叱りのコメントを頂いた。個人的には、この問題は日本と韓国・中国との間のローカルな問題と決めつけるから話がややこしくなり、もっと一般化して議論をすべきだと思っている。その様な議論を起こすための手段として、ケネディ大使に質問をぶつけるというのは好都合だと思っていたのだが、その質問することの是非は横に置いておいて、もう少し頭を冷やして冷静に考え直すのも良いのかも知れないと感じた。下記の記事がそのきっかけとなった記事である。

産気新聞2014年2月14日「『歴史認識で対立』緊張高まるインドネシアとシンガポール

事態は極めて安重根問題と酷似しており、最近、インドネシアが新しい艦船に付けた名前が、シンガポールで爆弾テロを起こしたとして処刑された、インドネシア国軍兵士の名前から取ったものだったということで、両国の間の歴史問題が再燃した形である。インドネシアからすると、1965年当時、英国主導による「大マレーシア構想」にスカルノ大統領が強く反発し、こうした構想を推し進める「英国の傀儡」とみなしてシンガポールに爆弾テロを実行した二人を長いこと英雄扱いとしてきた。しかし、シンガポールからすれば単なるテロリストであることは間違いない。新聞では某大学の准教授の発言として「シンガポールからはテロでも、インドネシア側からみれば英雄だ。どの国も異なる歴史の解釈を持っている。問題は2国間でうまく管理できるかだ」と言う言葉を引用し、ある意味で双方が双方を尊重して関係を管理することを説いている。しかし、冷静に考えれば、既に艦船に命名した後で名前の変更をすることは有り得ないので、相手側からすれば抗議をせざるを得ない。その抗議を受け入れるという事は命名を撤回することになるから有り得ないし、撤回しなければ抗議を黙殺することになるからやられた側からすれば「やられっぱなし」ということになる。となると、やられっぱなしで矛を収めるとなると、「やったもん勝ち」の構図が浮かび上がってしまう。つまり、「問題は2国間でうまく管理できるかだ」という言葉の具体的な意味が重要であり、そこに言及しないでお茶を濁すのは日本の有識者にありがちな「高みの見物をしながら、無責任な正論を吐く」ことに近い。

さて、この様な問題の起こる背景には、偏狭なナショナリズムが国内に渦巻く環境で、その世論に乗っかって政府が火遊びをすることを国民が許していることがある。これは何処の国でもあることで、その様な行動に対して何ら国際的なルールが確立していないことが問題である。ここでのルールとは、その様な行動に対して国際社会が「No!」と言うべきか、それとも「黙認する」べきかなどのルールである。少なくとも、アメリカからすれば世界中の至る国から(発端はアメリカの善意であったかも知れないが)憎まれる構図があり、たまたま、現在のアメリカはその問題の当事者にはなっていないが、潜在的には物凄い勢いでその様な歴史問題を世界中から吹っ掛けられる可能性を秘めている。
この手の問題に何らかのルールを導入する場合、一番大事なのはそのルールを決める過程において、その時点で問題の当事者がルール作りに介在しないというのが重要である。幸いなことに、現時点ではまだその当事者とはなっていないアメリカは、かろうじてこの問題のルールメーカになれる存在である。その他にも、フランスなどの国など、ルール作りに適した国があるならそれらの国が中心となれば良い。そして、そこに何らかのルールを決めて世界に発信するのである。

そのルールの有り得そうな選択肢をあげてみよう。

一つには、偏狭なナショナリズムの台頭の芽を摘むために、例えばテロや暗殺などの犯罪行為を犯した者に関しては少なくとも、慎むべき行為を規定しておき、その規定を破った場合には国際的な非難の対象とするという合意を形成することが考えられる。問題はこの慎むべき行為の範囲であるが、国内的な歴史認識はどの様に持っても仕方がないが、少なくとも外国にまでその認識の同調を求めるような行為などは禁止行為の対象だろう。また、国内に石碑や銅像、記念館などを作るのは良いとしても、国家元首(皇室や大統領・首相など)などがその様な場所を訪れるのは許されないだろう。この辺は国家の品格の問題と言える。問題は、艦船へのネーミングなどであるが、通常、この様なネーミングは国家としての誇り高き存在を国内外に示す意味を持つから、私としては禁止事項に該当して然るべきだと思う。他にも、紙幣の図案への採用も同様だろう。

しかし、ここまで行くと国家ごとに個別に行って然るべき歴史の解釈に外部が踏み込むことになるから、当然ながらもっと控えめな選択肢があっても良いと思う。それは、例えば単純で、例えばシンガポールとインドネシアの例を引き合いに出せば、「やったもん勝ち」を許さないためにやられたシンガポールの「遺憾の意」を世界が認めるという扱い方である。この「世界」には他方の当事国も含まれる。すなわち、インドネシアが自国の艦船にテロリストの名前を命名したとして、シンガポールによる「遺憾の意」をインドネシアが尊重するのである。つまり、インドネシア政府の立場として、「シンガポールが『遺憾の意』を示したことは尊重する。その点については反論しないし、その様な歴史認識は認められて然るべきである。ただ、我が国(インドネシア)の歴史解釈は異なるものであり、今回の件はその解釈が異なることで起きた悲しい事態である。だから、今後は過剰にこの問題を誇張して挑発することを慎むと共に、この問題がこれ以上拗れることの無いように最大限の努力をする。」と表明し、シンガポール政府は「インドネシアが我が国(シンガポール)の遺憾の意の正当性を認めたことを評価する。艦船の命名が遺憾であることには今後も変わりないが、この問題がこれ以上拗れることが無いように、この問題に関しては遺憾の意の表明以上の対抗措置は控えることとする。」と表明するのである。相互に自己主張をしながらも、相互に相手の主張を尊重するのである。この相互に尊重し合うための最低限のマナーとして、第3国を巻き込まないというのは当然のルールでもある。

この様なあるべき姿を国際間のマナーとしてルール作りし、そのルールに照らし合わせてこの手の問題に国際社会が明確な意思表明をするのである。それを世界に発信するとすれば、現在の手続き論的にはロビー活動の中心地であるアメリカが主導的になるのが良い。そして、あまりに政権の中枢で「アメリカの損得」を秤にかけたかのような人が発信しても説得力はない。丁度、これらの歴史問題が起きている東アジア地域に縁があることを考えれば、やはりケネディ大使は適任だろう。彼女の様な人がその発信力を活かし、その発言から世界中での議論が高まり、その結果として良識ある合意に導ければそれは好ましい。仮に、この議論が発散して収束しなかったとすれば、それは逆の意味として「中国・韓国の言い分もあまりに主観的な主張で、国際社会はその様な一方的な言い分をそのまま受け入れることはない。つまり、日本の言い分にもそれなりの妥当性を見出すことが出来る。」という認識が多くの国の中にあることを意味する。

いずれにしても、この手の議論は今後は一気に噴出してくる可能性がある。その前に、問題解決のための手続き・ルールを確立することは世界にとって喫緊の重要課題と言って良いだろう。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

独善的な価値観の信じ込みの裏に潜む危険性

2014-02-12 23:26:23 | 政治
最近のブログでは手続き論を中心に議論を行ってきたが、これらのブログで手続き論の対極?と位置づけられた価値観を基準とする議論の危険性についても再確認してみたい。

まず、非常に分かり易い例を取り上げてみよう。一例として交通事故を起こしてしまった場合について考えてみる。日本であれば、自分の犯したミスに対する自覚があるならば、そのミスを先方に謝罪し、その後の示談において双方が良好な関係を保ちながら話し合いを進められるようにするのが「人の道」と考える人が多い。それはある部分では正しいところもあるかも知れないが、しかし、これは明らかに世界標準とは異なっている。アメリカであれば、何があっても決して「謝ってはいけない」と教育されている。何故なら、「謝る」イコール「自分の過失を認める」ということになり、その後の裁判などにおいて絶対的な不利な状況を作る原因となるからである。交通事故という事象が発生した原因の善悪・過失割合は、何らかのルールに基づいて極めて事務的に公平公正に判断されるべきものであるから、事故後の本人の反省の色などは本来は裁判において議論されるべきものではない。しかし、本人が「自分の過失を認める」のであれば、議論の出発点はまずは確定した過失を原点とせざるを得ないから、その後に自らの主張を裁判に反映させるのは厳しくなる。だから、短絡的な謝罪は避けながら、相手の怪我の状況を気遣う程度で発言に抑えておくのである。これが世界標準である。

もちろん、これが全てだとは言わない。あくまでもひとつの価値観であり、異なる価値観が多数派を占める環境であれば答えは違ってくる。相手が「確実に話せば分かる、誠意を見せれば確実にそれに応えてくれる」と確信できる場合にはこの限りではない。ひたすら低姿勢で謝罪することで、損害賠償が必要なケースでありながら、先方から「損害賠償だなんて、そんなのお互い様よ!気にしないで!」という言葉を引き出すことも可能かも知れない。しかし、安易な見込みだけで謝罪しまくると、最悪の場合には膨大な賠償請求をされるリスクもあるのである。

それが、今我々が直面する慰安婦問題などに通じるものがある。

河野談話などはまさにその典型例であり、謝罪さえすれば相手は引き下がるという安易な見込みで「相手の言い分だけで検証のされてない事象」に日本政府が「真実」のお墨付きを与えてしまうことになった。その結果、日本はナチス・ドイツのホロコーストに匹敵する極悪非道な残虐な人種として、世界に誤った情報が発信し続けられているのである。それに丁寧に反論しようとも、「河野談話が動かぬ証拠だ!」と言われると、その当時の政権が如何にアマチュアであり、短絡的で安易な判断をしてきたかを痛感せざるを得ない。

面白いことに、このタイミングで村山元総理が韓国を訪れて、活発な活動をしている。下記にふたつの記事がある。

産経新聞2014年2月11日「『女性の尊厳奪った』『恥ずかしい限り』村山元首相が韓国国会で講演
産経新聞2014年2月11日「村山元首相訪韓、賠償求める元慰安婦に無言でやり過ごし

読んだ通りの記事だが、村山元総理が韓国国会内で開かれた超党派の国会議員連盟の会合で、歴史認識や日韓関係について講演し、慰安婦問題について「女性の尊厳を奪ったものだ。日韓両政府の話し合いのもとに解決せねばならない」と語ったそうである。さらに続けて、、「日本国内では不規則発言をする者もいるが、恥ずかしい限りだ。(慰安婦の強制性を認めた1993年の)河野談話はしっかり調査してまとめたもので信頼すべきものだ」と断言している。後者の記事は、国会内で開催中の日本統治時代に慰安婦だった女性らの作品展を見学し、そこで元慰安婦3人と握手しながら言葉を交わすことになったというのだが、その1人が「日本政府の謝罪と賠償の必要性」に言及すると、無言でやり過ごしたという。

上述の交通事故の例と比較してどう思われるだろうか?

村山元総理は、河野談話の正当性まで踏み込んで相手の主張を援護射撃し、繰り返し慰安婦問題について謝罪を行っている。まさに交通事故を起こしてしまった後で、過失割合や損害や責任の程度を議論する前に、自らの過失を過大なまでに認める様な謝罪で相手の寛容な対応を促している様である。しかし、イザ、慰安婦の女性から裁判での判決に相当するかのような「日本政府の謝罪と賠償の必要性」を問われると、いきなり口を閉ざして無言でやり過ごすことになる。つまり、交通事故の裁判で過大な慰謝料を請求されたのに対し、その請求を拒否するかの様な行動である。多分、交通事故であれば任意保険の保険会社が相手との示談を行い、相手との交渉結果を自分のところに報告に来ることになる。法律や過去の判例に照らし合わせれば、「ここまで過失があると認められるケースでの賠償額は幾ら幾らですよ」と伝えられると、散々潔く過失は認めておきながら、「過失を認めて謝罪して相手の心証を良くするところまでは私がやったのだから、その先の裁判はあなたの仕事だ!」と開き直る状況に近い。これでは一方的で独善的な価値観を信じて勝手な行動と言われても仕方がない。

この様に、「価値観」とは安易に「絶対的」であると決めるべきものではなく、様々な価値観が世に数多く存在することを前提として議論を進めなければならない。

同様のことは、例えば「原発即ゼロ」問題についても言える。昨日の報道ステーションでは、番組の冒頭から世界の異常気象の問題が伝えられていた。この番組の中では、記録的な寒波も含めて異常気象の原因として温室効果ガスの影響を疑っているが、であるならば、「原発即ゼロ」の主張は短期的には火力発電所の稼働率向上で原発の発電量の代替を前提としているので、その意味では温室効果ガスの大量発生の見返りとして原発暴走のリスクを僅かながら縮小していることになる。しかし、この見返りの元である温室効果ガスの影響は、それは確かに日本国内での発生量の増加に起因した部分は限定的となるのかも知れないが、日本という先進国ですら「何とでも言い訳して、大量の温室効果ガスをばら撒いても開き直れる」という誤ったメッセージを世界に発信することになるから、その影響を過小評価するのはフェアではない。実際、昨日の産経新聞の社説では、「脱原発から舵を切った人々」の話を取り上げていた。

産経新聞2014年2月11日「反原発を放棄した人々 冷厳な事実描いた『パンドラの約束』湯浅博

一旦、脱原発を叫んだ人がその方針を撤回するのには、相当なハードルがあるのだろうと思うのだが、ロバート・ストーン監督の原発問題を題材にしたドキュメンタリー映画「パンドラの約束」では、「やはり原発を推進しないと、地球温暖化や人口増加に対応できない」と訴えているそうである。私はその答えが正しいとまで認めている訳ではないが、価値観とはその様に切り口や物事の重要性・優先順位の設定次第で、同じ情報を提供されながらもそこから導く結論が正反対となる可能性を秘めているのである。あくまでもポイントは、「発生確率は限りなく低いが、発生したら甚大な被害が発生する」事象と、「ほぼ確実に発生するのは間違いないが、急激な状況の変化を伴わず、少しづつ真綿で首を絞められるようで、甚大な被害を直感的に感じにくい」事象との対立である。当然ながら単純な2者択一で議論すべき問題ではなく、今後の対応の仕方で両者のリスクが変化し得るという前提で、その最適解を探していくのが筋である。例えば、原発の安全性を極限まで高める工夫を最大限努力したり、その安全性監視のメカニズムを確立するのもひとつの選択肢だろう。地球温暖化にしても、各国の合意を早期に取り付け、それぞれの国の排出量を制限することで事態の改善を図ることは可能である。しかし、エゴ丸出しの発展途上国を強引にまとめ上げる手続き論が存在しない中で、その実現性は相当疑わしいとしか言えない。対立し得る価値観が存在する場合には、その価値観の基本コンセプトの正当性を純粋に議論するのではなく、もっと総合的で定量的な議論を現実に即して噛み砕いて丁寧に議論しなければならないはずだが、少なくともマスコミはその様な議論の仕方を好まない。

振り替えれば、第2次世界大戦中の大手新聞社の価値観は、極めて好戦的でその結果として多くの国民が戦争を正しいものと信じて疑らなかった。同じ過ちを繰り返す可能性は今でもあるはずである。ただ、最後に一言だけ付け加えるのであれば、村山元総理の行動を全否定するつもりはない。安倍総理もいれば村山元総理もいる。右翼もいれば左翼もいる。勿論、中道的な立場の国民が大半である。その様な多様な価値観があること、そしてそれを認めることは、ある意味で日本には成熟した民主主義が根付いていることの証拠でもある。一方的に日本が悪いと全国民が一枚岩になる韓国の方が圧倒的に怖いのである。だから、私は日本に生まれて良かったと思っている。

なお、村山元総理は非常に重要な発言をさりげなく韓国に置き土産として残したことに気が付いた人はいるだろうか?村山元総理は、村山談話の正当性を表現するために、「村山談話は閣議決定されたものだ。反対する閣僚はひとりもいなかった。安倍総理も村山談話を踏襲すると言っている。」という様なニュアンスの発言をした。本人にその意図があるかどうかは知らないが、村山談話が閣議決定されているから正当であるという説明は、逆説的には閣議決定を伴わない河野談話の正当性は村山談話には到底及ばないという意味にも取れる。この発言が今後どのような意味を持つかは分からないが、私はこの発言に注目している。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

手続き論的靖国問題の解決法(最後の手の内は秘密ですが・・・)

2014-02-12 01:01:05 | 政治
これまで数回に渡り「手続き論」についてブログを書いてきた。そんな中で、歴史問題で後手に回りつつある日本の現状を打開するためのひとつの突破口として、靖国問題についてその解決方法を思いついた。この提案の実現性が何処までであるかは関係者にて本気で議論して頂くしかないが、あながち夢物語ではないと確信している。ただし、この方法を中国・韓国に悟られると途中で対策を打たれてしまうかも知れない。ここでのブログでは手順の途中までを書かせて頂いて、もし仮にその様な展開になったらその時点で続きを書かせて頂く。もったいつけて大変恐縮だが、その辺はご勘弁願いたい。

さて、順番に議論しよう。現在、総理大臣が靖国参拝するのに最大の問題は、言うまでもなくA級戦犯がそこに合祀されているからである。中国・韓国に言わせれば、A級戦犯だけではなくB・C級戦犯も同罪で、仮にA級戦犯を分祀したとしても決して納得したりはしないだろう。反日メディアは中国・韓国にべったりだから、これらのメディアに付け入る隙を与えない戦略も必要である。さらに言えば、一旦合祀してしまった御霊を分祀することは論理的に不可能であり、分祀という議論自体が無意味かも知れない。しかし一方で、千鳥ヶ淵戦没者墓苑などの追悼施設を代替えにすれば良いという主張もあるが、こちらの方は別の意味でハードルが高い。私はこの目で見た訳ではないが、靖国神社は多くの人が参拝に訪れ、その逆に千鳥ヶ淵戦没者墓苑の方は閑古鳥が鳴いている状況だと聞く。国のために命を捧げて亡くなって行った多くの無念の御霊に対して尊崇の念と不戦の誓いを表すのであれば、それは当然ながら国民的に多くの支持を受けている靖国神社の方が適切であり、千鳥ヶ淵戦没者墓苑はあまりにも役不足である。したがって、目指すべき答えは「靖国神社に天皇陛下や総理大臣が参拝をしても、それが国際的な外交問題化しない決着方法を見つけ出すこと」であることには違いない。問題は、そのハードルが余りにも高すぎることである。
しかし、この問題を少しずつ切り分けて考えると、意外にも答えは見いだせるかも知れない。私が最大の課題と位置付けていた問題は、仮にA級戦犯の問題に決着をつけても、戦火がB・C級戦犯の問題にまで拡大すると鎮火する術がない。あまりにも人数が多すぎる上、実際に戦地で命を懸けて戦った兵士たちであるから、本土でふんぞり返ってお高くとまっていたA級戦犯の面々と違い、例えば分祀などの議論となった時には必要とするエネルギーは桁違いになる。だから、A級戦犯だけに議論を囲い込む必要性があったのだが、その方法論が見つからずにいたのである。

しかし、最近私のブログで行っている「手続き論」に則った議論をするとなれば、世界中がルールブックとでも認めているかのようなアメリカの納得する手続きを適切に踏んで対処するなら、答えに辿り着けるチャンスはあるのではないかと考えるに至った。慰安婦や日本海の名称を「東海」と併記する議論など、全く関係のない「アメリカ国内で承認」されることが何故か「世界中からの承認」にすり替わるロジックを、中国や韓国は積極的に利用している。であれば、アメリカが「勝負あった!」と認定してくれる手続き方法を見つければ、欧州の諸国においても同様の評価に繋がり、結果的に中国・韓国の孤立化に繋がる。その様な道を模索するのである。

であれば、アメリカ的にはどの様にすれば「靖国問題は解決した」と認定してくれるだろうか?答えは簡単である。アメリカが問題解決の条件を提示し、世界的にその条件に対する不満がないことを確認し、その後でそのアメリカの条件をクリアする方法で解決を図るのである。あくまでもアメリカの「手続き論」に則って処理しているので、問題が解決した後で「やっぱ、それでは納得できない!」と言うのは許されない。

では、前回の安倍総理の靖国参拝で「失望」という言葉で日本を牽制したアメリカにとって、「解決した」という状態はどういう状態なのだろうか?それは簡単で、「問題の本質は、戦争責任者であるA級戦犯が合祀されている点である。A級戦犯が合祀さえしていなければ総理も天皇陛下も靖国参拝をしても構わない。しかし、合祀されているのであれば他の戦没者追悼施設を探しなさい!」というところだろう。多分、アメリカの国務省が公式にこの「ルール」を提案したとすれば、(日本を除けば)この提案に「No!」と言うことは難しい。実際にはA級戦犯が合祀されて以降、総理大臣が何度も靖国参拝を行っていたが、当初はその総理の参拝すら問題にならなかった。その後外交問題化し、「総理、官房長官、外相のトップ3が参拝しなければ、その他は許す」という暗黙の合意があったくらいだ。今となっては中国や韓国もハードルを上げまくってきているが、先日の「失望」という意味不明の微妙なアメリカの反応に飛びついて中国韓国は大喜びするくらいだから、多分、この様なハードル設定をすれば「実質的に実行不可能だから大賛成!」と言う事は目に見えている。この様にして国際的に承認されたこの「手続き」に沿って問題を解決すれば、アメリカを筆頭に中国・韓国を除く諸国は、手続きの正当性を認めて問題の解決を承認してくれるはずである。問題はそのやり方であるが、そのやり方はここでは大変申し訳ないが秘密としておきたい。いつの日かブログに書こうと思うが、今はここまでで勘弁して頂きたい。

私の主張は先日からの主張の通りであり、日本政府が関与して「手続き」を日本に有利になるように設定し、その手続きを世界的に承認させた上でその土俵の上で戦うという戦法である。少々、アクロバティックな空中戦だが可能性は十分にあると信じている。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

外交の世界では「論理的議論」よりも「手続き論」が優先する!

2014-02-08 18:49:46 | 政治
先日から手続き論の正当性の話をさせて頂いているが、この様な視点で見ると今まで腑に落ちなかったことがストンと理解できるようになったりする。少しこの辺を検証してみたい。

色々あるが、例えば国連の話をしてみよう。現在の国連にはアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の5つの常任理事国がある。ご存知のように、政情不安な地域に対して安全保障理事会で何らかの決議を採決しようとするとき、これらの常任理事会には拒否権が与えられていて、いずれかの国が拒否すれば(当事者を除く)残りの全ての国連加盟の参加国が賛成しても適切な決議を行うことが出来ない。これまでも国連改革は様々な形で叫ばれてきたが、結局、本質的な部分が揺らぐことはなかった。したがって、あまりにも目に余る人権侵害がある国家があっても、国連決議をもって事態を改善しようという試みは多くの場合に失敗してきた。これは、価値観で考えれば勝てそうな議論であっても、手続き論的に国連のルールに照らし合わせれば勝てないことの良い例であろう。

では、何故、手続きがこの様になってしまったのか?それは、国連の名前にその答えが隠されている。これは独立総合研究所の青山繁晴氏が言っていたことであるが、国連、すなわち「United Nations」を我々日本人は「国際連合」と訳すのであるが、これは適切なようで適切ではない。元々は「United Nations」は第2次世界大戦における「連合国」であり、日本としては敗戦国という立場からこの名称を嫌い、わざわざ「国際連合」と訳している。多くの国では「国際連合」と「連合国」の区別をしない。だから、「本家」である主要5か国が特権を持つところから始め、後から加入する国にはその特権を認めることを強いたのである。無茶苦茶と言えば無茶苦茶だが、嫌ならば加盟しなければ良いのだから文句は言えない。これが常任理事国のみが拒否権を持つことの「手続き論的な正当性」である。全ての議論は、その手続き論の上で議論しなければならない。

最近の話題に関しては、TPPなどもその例であろう。TPPでは先発組の国々が民主的な手続きで一定のルールを定めるが、一旦そのルールが定まると、後発組の国々はTPP参加にあたってはそのルールを丸呑みすることを強いられる。後でちゃぶ台をひっくり返すことは出来ないのである。巷でTPPが中国包囲網的な意味合いを持つといわれるのはまさにこの意味で、民主的な手続きで定められたルールである以上、中国が加盟するに当たってはこのルールに従わなければならない。アメリカが日本の参加を強く望んだ理由は、この先発組が形成する一大経済圏が魅力的でなければ後発組の参加は期待できず、その経済規模を拡大する上で日本は非常に重要なのである。これだけの規模であれば、将来は中国もTPPに加盟せざるを得ない時期が来るが、その時、ドラえもんのジャイアンの様な中国であっても、「法の下の支配」に従わなければならないことになる。そのための基盤作りの取り組みなのである。

例えば別の例では、地球温暖化対策の気候変動枠組条約、京都議定書に対する取り組みの中では、何も前提となるルールが存在しない中で議論をするから、中国の様な世界第2位の経済規模を持つ大国であっても、「発展途上国は相当なハンディキャップを付けてもらって当然」とばかりに、言ったもん勝ちの我儘な振る舞いをする。そこには手続き的な正当性は何処にもないし、多様な価値観の存在する中で議論しても着地点を見出すことは出来ない。こう考えると、「手続き論的な正当性」は非常に理不尽なことはあるのだが、仮に上手く常任理事国の利害関係を調整できれば議論を着地させることができる。何もルールがないよりはましなのである。

ところで、先日の産経新聞に面白い記事があった。少しばかり読んで頂きたい。

産経新聞2014年2月5日「『すべて日本が悪い』は神聖不可侵の命題なのか

この中で、記事を書いた湯浅氏は数年前に韓国で開かれた日韓編集セミナーの中で、「中央日報の盧在賢論説委員(当時)の基調報告に『なるほど』と納得したことがあった」という。記事を少しばかり引用してみよう。
======================
彼によると、韓国の報道姿勢は、靖国、教科書、竹島問題など日韓の微妙な問題を扱う際は、はじめに大前提を立てて事実を積み上げる「演(えん)繹(えき)法」であるという。大前提とは、いうまでもなく「すべて日本が悪かった」という神聖不可侵の命題である。従って、韓国紙の論調は「断定的な考え方、同義反復、誇張、論理の飛躍などが生じる」と自嘲気味に語っていた。盧委員はそれを「空虚な演繹法」と呼んだ。空虚な例でいえば、盧(ノ)武(ム)鉉(ヒョン)政権が打ち出した親日・反民族行為者の財産の国家帰属に関する法律が当てはまる。
・・・(中略)・・・
もっとも、盧委員は日本メディアについては事実を積み重ねて結論を導く「帰納法」であると指摘し、「狭量な帰納法」と定義していた。
======================

ここで、「演繹法」と「帰納法」について簡単に整理しておこう。理系の人は「帰納法」と聞いて「数学的帰納法」を思い出すが、「数学的帰納法」は分類上は明らかに「演繹法」である。「演繹法」とは、前提となる真理をベースにし、その上に議論を積み上げるのである。「演繹法」の代表例が三段論法である。ご存知のように、「Aの条件を満たせば必ずBである」「CはAの条件を満たす」「ならば、Bは必ずCである」というように、真理を組み合わせれば新たな真理を導き出せるというものである。しかし、問題はスタート地点の「真理とおぼしき命題」が本当に真理であるか否かが重要であり、出発地点が間違っていれば当然ながら帰結は誤りとなる。上述の中央日報の盧委員が自戒の意味を込めて「空虚な演繹法」と呼ぶのはその様な意味があり、出発点が「すべては日本が悪い」であれば、確かに彼らが主張する様な結論に容易に導けるのは理解できる。ちなみに「帰納法」とはこの逆で、真理のないところで様々な経験を集約し、その経験から「真理である可能性の高いもの」を導きだす議論の仕方である。実際の物理学などは帰納的に仮説を打ち立て、その仮説が正しければある実験結果がどうなるかを予測し、その実験結果が予測した通りとなることでその帰納法の確度を高めるのである。多分、日本のことを「狭量な帰納法」と呼ぶ理由は、「多くの戦地には慰安婦がいた」という事実を積み上げ、「戦地で慰安婦がいるのは不自然ではない」という真理を導き出し、日本がかって慰安婦を利用したとしても、それをもって日本をナチスと同等に扱うことなどできないと結論付けようとしていることを指してのことなのだろう。つまり、国毎の価値観が異なる中では、一般的に「論理的な議論」をしているつもりでも相手が同意してくれる可能性は低い。我々は、ついつい共通の「価値観」とか「論理的」という事に重きを置きがちだが、実際の世の中がその様な思い込みで上手くは回らない理由を考えれば、それは世の中は「価値観」や「論理的」というものに対する位置づけが我々の思い込みとは異なるところにあるからなのだろう。繰り返すが、「論理的」な議論は役に立ちそうで、意外に役に立っていないのである。

そんな中で「手続き論」に着目すれば、今回、アメリカのバージニア州で「日本海」のことを「東海」と併記するようにする法案が可決した理由は、(それはこの様な結果を意図してのことではないだろうが)手続き的に韓国系の移民の人口を増やし、それらの勢力が選挙において特定の候補者に投票することで選挙の結果を左右することが出来る状況を生み出し、その結果選ばれた議員に自らの主張を代弁させるという手続きを地道に行ったからだろう。ないしは、ロビー活動で地道に反日的な嘘八百を連呼し続け、人々の心の中に潜在的にその嘘を浸透させるということをした結果とも言える。当事者ではないアメリカ国内での評価が世界における評価に直結するという共通の合意事項が何処かで出来上がって以降は、中国や韓国は積極的にこの共通合意を利用し、その中での手続きを最大限に活用してきた。この結果、性善説に立つ日本がその様な行動を「姑息な手段」と言っている間に彼らは「定められたルールに従って」プレーをし続けたのである。手続き論的には完敗と言わざるを得ない。

色々書いてきたが、大切なことは、第1には「手続き論」の何たるかを熟知し、そのルールに従ってプレーすることの重要性を意識すること、第2には「手続き論」のルールメーカの立場に身を置くことの重要性である。TPPは幸いなことにルールメーカのポジションにいる。しかし、残念なことに歴史論争では日本はルールメーカにはなれなかった。であれば、自分のルールでの議論をここでは封印し、既存のルールを解析し、その中で相手に勝つための戦略を練ることに徹しなければならない。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます

手続き論的なフェアネスの重要性(南京大虐殺・慰安婦問題への対処の仕方)

2014-02-07 00:50:22 | 政治
昨日のブログでも触れた橋下大阪市長のツイッターの引用であるが、実は、非常に興味深く読ませて頂いた箇所がある。昨日の記述の視点では本質ではないので触れなかったが、今日はこちらの方にフォーカスしてみたい。

まず、2月4日のツイートの下記の部分を引用させていただく。

BLOGOS 2014年2月4日「そして都構想実現までいよいよ残りの階段は3段となった。 - 2014年2月4日のツイート」からの引用
===============
自分が正しいと思っている価値観でも、相手にとっては正しくないという事態がどんどん生じる。この価値観の実体論にこだわっているのが日本のメディア。自分の価値観が絶対的に正しいと信じ込んでいる。違う。どの価値観が正しいかは分からない。だから公正なプロセスでどれを採用するか決定しよう。
これが手続き・プロセス論。手続き・プロセス論では、価値観の対立議論はしない。どう物事を進めていくか。ここに焦点を当てる。その時の基準はフェアかアンフェアか。僕の慰安婦問題を巡る発言もそうだ。保守論客のように、日本の過去の行為を日本的な価値観で正当化しても世界には通用しない。
世界に主張していくにはフェアかアンフェか、ここに絞って主張すべき。慰安婦問題についての世界の対応は、完全にアンフェアだ。この主張をすると自己正当化していると誤解をされるが、これは日本人が手続き論を学んでいないから。アンフェアとは、実体を正当化しているわけではない。
===============

ちょっと分かり難い部分もあるが、私なりの解釈を加えてみる。以前の橋下市長の慰安婦発言の際には、(本人の意図に反して)慰安婦問題を現在の価値観で捉えるか当時の価値観で捉えるか、その辺の議論が話題になった。しかし、(中国、韓国のロビー活動などの影響で)アメリカをはじめとする各国の論調は、「今現在の価値観で非人道的と見なされる行為(慰安婦の存在)は、時代を遡って戦時中に当てはめても、『それは非人道的』と断定するのが妥当である」という価値観のもとにある。現在の価値観と過去の価値観が同一である保証などありえないから論理的には破綻している議論なのだが、いわば宗教の様にそれを「前提」とすることで合意している人達には何を言っても意味がない。キリスト教信者に、「キリストが復活した逸話などあり得るわけがないだろ」と言っても議論が成り立たないのに似ている。

つまり、異なる宗教の間でどちらの神を信じるかの議論をするのと同様で、価値観を基準に善か悪かを問うても狙ったゴールにたどり着ける可能性は低い。両者が何処かに合意できる着地点を見出すとすれば、それは手続き論的に相手が「フェア」と感じるところに論点をフォーカスする必要がある。仮に明らかに相手が「アンフェア」であっても、相手にその自覚がないところで議論を戦わせても労力ばかりかかって得るものは少ない。あくまでも、手続き論的に相手が「フェア」と感じる議論の仕方が重要なのである。

ではこの手続き論とは何を意味しているのか?

例えば、慰安婦問題について中国、韓国から責められまくったときに、それに反論しない日本は手続き論的に「中国、韓国の主張を認めた」ということになっている(少なくとも欧米諸国の人はそう感じている)。ましてや河野談話などは、手続き論的には「語るに落ちた」証拠の自白に近い。であれば、欧米諸国の人はこの既に手続き的に合意がなされた案件に対して、いきなり乱暴に「それは間違いだ!」と言っても「あなたはアンフェアだ!今までの手続きを無視するのは許せない!」と感じる。橋下市長の慰安婦発言が欧米メディアにすら受け入れられなかった背景にはその様なものがあるのかも知れない。

では、手続き論的に相手がフェアに感じる議論とは何であろうか?南京大虐殺と慰安婦問題を例に議論してみたい。

例えば、河村名古屋市長が以前、「所謂、南京大虐殺はなかったと思う」と発言して問題になった。多分、論理的には正しい発言なのだと思うが、これが欧米諸国から見たときの手続き論的には誤っていることになる。つまり、これまでに「歴史的事実」と確立しつつある「所謂、南京大虐殺」に対して、主観的に「誤っている」と主張するのであるから、それは「ホロコーストを否定するようなもの」とレッテルを貼られても反論は厳しい。もう少し言うならば、「南京大虐殺」というものを噛み砕いて考えた時に、「中国の主張する30万人もの虐殺」という「所謂、南京大虐殺」の他に「2千人ぐらいの虐殺(2千人は2千人でも、国際法的に兵士と見なされないゲリラなどを中心に2千人ぐらいが殺害された)」という解釈があり、我々はそれを「所謂、南京大虐殺」と「南京大虐殺」と区別するのであるが、欧米人にはその様な区別がない。既に出来上がってしまっている合意の中では、その合意の否定は「ホロコーストを否定する」という主張として受け取られてしまう。まずはこの様な合意があることの前提に立たなければならない。

となると、この合意を覆すにはどうすれば良いのか?それは彼らがフェアと感じる手続きを通して少しずつ変えるしかない。では、そのフェアと感じる手続きとは何か?それは単純で、「南京大虐殺」の存在を認めるのである。その上で、それだけ酷い南京大虐殺をより理解するために、様々な「南京大虐殺の不思議」という疑問を投げかけ、その謎を解くための証拠の積みあげを試みるのである。例えば、下記の資料では南京大虐殺がなかったという根拠として次のように書かれている。

Wedge Infinity 2013年12月27日「『靖国ではなく、南京に行くべき』中国が仕掛ける反日歴史工作『南京事件』を考える(前篇)
==========
1937年12月1日から38年10月24日まで、南京戦を含むこの約一年の間に、国民党中央宣伝部国際宣伝処(中華民国政府の対外宣伝機関)は、約300回もの記者会見を開いた。毎日のように会見があったことになるが、参加者は平均50名、うち外国人記者、外国駐在公館職員は平均35名であったという。ところが、この300回もの記者会見において、ただの一度も、「日本軍が南京で市民を虐殺した」とか「捕虜の不法殺害を行なった」との非難がされていない。
==========

間違ってはいけないのは、これは南京大虐殺がなかった証拠だと主張してはいけない。あくまでも「南京大虐殺」は間違いなくあったという立場を維持するのである。しかし、これは見るからに不自然である。「南京大虐殺」は間違いなくあったのだから、調べてみれば30万人もの虐殺に見合う非難声明などがあってしかるべきである。そして、その証拠があれば日本は否定したくても否定できなくなるのである。だから、この様な証拠を積極的に集めようとする行動は、彼らにとって手続き的にフェアなのである。フェアな行動を続ける限り、相手はその行動を否定したりはしない。そして、そこから出てきた証拠の解釈を、彼らも協力して行ってくれるのである。しかし、探せば探すほど謎は深まるばかりである。そしてある時、積み上げられた合意自体に何か問題があるかもしれないという立場に立つときが来るのである。この様な突破口は幾らでもあるはずである。この様なフェアな手続き論をもっと活用するのである。

ちなみに慰安婦問題も同様である。ご存知の通り「従軍慰安婦」と「慰安婦」は似て否なるものである。しかし、ここで「所謂、従軍慰安婦はなかった」と言っては、「従軍慰安婦」と「慰安婦」の区別のない人々にはホロコーストの否定と同罪となってしまうのである。下記の記事を読んでいただきたい。

産経新聞2014年2月2日「韓国展実施を後悔、仏主催者『すべて不満』

先日話題になったフランス・アングレーム国際漫画祭の後の顛末である。日本の展示が排除され、韓国の展示が許容されたことの是非はともかく、このフランス・アングレーム国際漫画祭のニコラ・フィネ実行委員は産経新聞の取材に対し、上述のフェアかアンフェアか、手続き的な瑕疵があるかないか、その様な点を重要視していることを示す発言を行っているのである。本当か嘘かは知らないが、ホロコーストの否定に繋がる手続き的な瑕疵がなければ、日本の展示も排除されずに済んだ可能性が高いということである。多分、今後も韓国はこの様な形で攻めてくるに違いない。その時、我々は価値観で戦うのではなく、手続き的な正当性、フェアであることを最重要視しなければならない。

最後に言っておくべきことは、これは答えではない。単なる突破口である。戦いはまだまだこれからである。橋下市長は慰安婦発言で大火傷をしたが、その失敗から学び、事の本質を見抜いているのではないかと感じた。

←人気ブログランキング応援クリックよろしくお願いいます