けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

セーフティ・ネットのあり方について考える

2011-11-23 22:21:07 | 政治
最近、生活保護の話題を新聞やテレビで良く見る。住んでいる場所や家族構成など、様々な条件で金額が異なるが、自営業者の国民年金と生活保護で支給額の逆転現象が起きているという事態が問題視されている。

マスコミなどで良く比較される例は高齢の単身者などの場合で、非常に大雑把にいえば国民年金が7万円前後であったとすれば、生活保護の方はプラス5万円程度の差がある。つまり、悪く言えば「働かない方が5万円だけ得」なのである。この内訳を説明すると、(私の理解では)生活保護には様々な項目での支給があり、「生活扶助」では概ね同程度であったとしても、「住宅扶助」に5万円程度の加算があるためである。間違っていたら指摘して欲しい。

確かに、生活保護を受ける人は家のない人が殆どであろうから、生活扶助が7万円程度だとすればその半分は住宅費で消えてしまい、残りの金額で生活するのはギリギリかも知れない。しかし、40年近く真面目に働き続け、満額の年金を納付していた人であっても持ち家のない人は相当数いるであろうから、そのような人にしてみると「何故自分には『住宅扶助』に5万円支給してもらえないのか?」と思ってしまうだろう。あくまでも比較の話なので、自分の払った年金と給付額のバランスを議論しているのではなく、「真面目な人が損をするのは納得できない」というだけの話である。

しかし、では「生活扶助」を支給しなくなればそれで良いかというと、それで全てが解決するわけではないので事は厄介である。私はあくまでも素人なので、法体型的に、ないしは現在生活保護を受給している既得権益者の権利的に、どのような議論になるべきかは知らない。だから、あくまでも「ゼロから議論を出発した場合の話」と割り切って読んで欲しい。

ちょっと話がそれるが、「Basic Income」という議論も最近よく聞くようになった。早い話が、働こうが遊んでいようが、どのような人でも最低限の収入を受給できることを保証するというものである。勿論、財源の議論をした途端にこの話は破綻してしまうので、単なる思考実験的なものかも知れない。しかし、私がこの思考実験の結果として考えたことは、「Basic Income」の本質はすべての人に「最低限のお金を渡すこと」ではなく、全ての人が「最低でも生きていける環境を保証すること」と置き換えると、あながち不可能なことではなくなる様な気がする。少なくとも万人にお金を給付するよりは桁違いに費用は少なくて済むと思う。

もう少し話を具体化すると、多くの高齢者が大金を持ちながらも、その溜め込んだお金を使わずにしまい込んでおり、消費にお金が回らない理由のひとつには、「どうかすれば、食うものが食えない、病気になっても医者にかかれない、住む家も無く追い出されて路頭に迷うかも知れない」という恐怖が少なからずあるからである。であれば、所定の条件の下で手続きさえすれば、「何があっても必ず住む家は保証する、食事は保証する、(無駄な医者通いがないかの管理のもと)医者への受診は保証する」とすれば、大分、安心できるのではないかと思う。つまり、年齢や家族構成により環境は異なるものを提供するという前提で、大規模な集合住宅を作り、例えば高齢の単身者であれば6帖間ぐらいにミニキッチンを付けたこじんまりとした部屋を提供し、談話室(コミュニケーションルーム)、風呂、トイレなどの共用スペースと、朝昼晩の3回、無料で食事を提供する食堂などを備えるようにする。その近くには、指定の小さな診療所を作り、その診療所であれば無料で受診できることとする。その診療所で対処できない病気の場合、その診療所からの診断書をもらうことで、その病気限定で他の病院を無料で受診できることとする。

ここまですれば、仮に現金の支給を行うにしても、月に1万円程度の支給でも「健康で文化的な最低限度の生活」と言えるのではないかと思う。このような施設への入所条件は、給与所得ないしは年金所得が幾ら以内の人というような条件を付ければ、それ以上の所得の人は差額に相当する金額を払い込むことで、施設への入所が許されるとすれば良い。財産などの扱いも含め、細かい条件は幾らでも工夫はできる。勿論、収入を正確に把握できないといけないので、納税者背番号制度などは必須になるであろう。

これは子供にも同様である。例えば、高校生以下の子供がいる家庭において、両親が病弱で働けないというような場合、その様な家族を集めた集合住宅に、家族構成に見合う部屋数のスペースを与えればよい。学費などは、無償化や奨学金などで手当すればよい。現金給付の額も、児童手当的な意味合いを込めて給付額を決めればよい。

多分、今の制度よりも自由度が大幅に減るので喜んで入る人は最初は少ないかも知れない。しかし、高齢者に代表されるような同じような境遇の人が1箇所に集まることで、新たなコミュニティが構築され、隣近所と会話することもないような殺伐とした生活で孤立感を深める人たちにすれば、半ば強制的な形で住むことになった場所であっても、住んでみると意外に住み心地は悪くないのではないかと思う。

実は、私の父は要介護認定を受けて、特別養護老人ホームに入っている。一時的に病気で体調を崩し、要介護4であったので申し込んだところ今のところで受け入れてもらうことができた。現在は介護度が低くなったが、一度入ると要介護認定が取り消されない限り、現状を維持できるようである。父曰く、「ホテルみたいだ」と言っていたが、確かに綺麗でそれなりに広い個室で、食事から介護の全てまでやって頂いても、月当たり16-17万円程度ですむ。定期的に医者にかかっているの医療費も必要だが、1割負担のために年間で見れば年金生活者でも十分に黒字の生活ができる。しかし、父よりもちょっと健康体だとこのような施設には当然入れず、私費で同程度のクラスの老人ホームにはいろうとすると、膨大なお金が必要となり、入所時に数千万円用意しなければ、例えば月々の費用が25万円以上必要となったりして、年金生活者にとっては蓄財を食いつぶしながらの赤字生活を余儀なくされてしまい、死ぬまでお金がもつのか?と考えるととても入れるところではない。このような好条件の施設を避けて、身の丈にあった場所を探すとなると、多分、プライバシーなどはカーテン1枚しかない4人部屋での生活が余儀なくされる。現実は非常に厳しい。

このように、介護認定などのわずかの差で、健康体でないが故に「天国」での生活ができる人と、健康体であったばかりにそれより大幅に低いレベルでの生活を余儀なくされたりする。私の父の施設には(ありがたいことに)膨大な介護保険のお金が投入されているのであろうが、これからの時代では、このような大盤振る舞いを続けていくことはできない。人々の感性に照らし合わせて、違和感のない少々不自由な落としどころを探さなければならないことは目に見えている。

3月の大震災の際に、被害に遭った被災者の多くが仮設住宅に入った。高齢者である被災者(全国の高齢者も同様であるが)に関しては、多分、ひとりひとりの部屋は少し狭く(トイレとシャワースペースは確保)し、その代わり風呂や食事などのスペースを共用化した快適なコミュニケーションスペースを確保したような設備を多く作ってはどうかと思う。勿論、このような施設を好まない人は入らなければよい。

話が発散して恐縮であるが、今風に言えば「医(≠衣)」「食」「住」を担保するセーフティ・ネットを確立すれば、多くの人は意外に不平不満を言わなくなるのではないかと思う。少々不自由な、しかし昔何処かで懐かしい長屋の様な生活を強いるのは、いろいろな意味で良い方に好転するのではないかと思う。それによって幾らのお金が節約できるのかは分からないが、その筋の専門家の方で誰か計算してくれないものか・・・。

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