けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

放射線を正しく怖がる方法(続編)

2011-11-26 13:54:24 | 政治
昨日、放射線を正しく怖がる方法について書いたので、今日はその続編である。

以前、つくば市が福島県からの転入希望者に放射線の影響を調べるスクリーニング検査の受診証明書の提出を求めていたというニュースがあった。つくば市の職員が勝手に言い出したのか、それとも他県からの避難者が言い出して受け入れざるを得なかったのか、その辺の事情は知らないが、「不安なのはおかしい!何とかしてくれ!」と度を越した典型例だ。

昨日の話をもとにすれば、このようなことを言い出した人は、他の人の守られるべき権利を侵害してまで「不安なのはおかしい!何とかしてくれ!」という権利はないことに気づいていない。「言った者勝ち!」だと思い込んでいる。その様な主張をする人が出てきたとき、「自分は責任を取りたくない。面倒だから、モンスター・シチズンに逆らわないでおこう」と行政側の人が考える点もおかしい。この様な問題に、「それは、この様に考えれば正しい判断ができる」と教えてくれる人がその周りに一人も居なかった点が不幸なのである。

例えば、「ストーカーに見られている、助けて!」と警察に駆け込んだ人がいたとする。警察は、当然ながら事情を聞き、具体的に状況を聞くだろう。その時、「私は被害者」と主張する人が、「○○さんに付き合ってくれと言われたが断った。あの人はしつこい人だから、きっとストーカー行為をするに違いない。」と答えたとする。「何か、具体的に無言電話とか、追い回されたとか、実例はありますか?」と警察は聞き、「そんなのないわよ!でも、あたしは不安で仕方がないの!私を保護して!」と言ったとすると、あなたはどの様に思うだろうか?不安な気持ちは同情するが、具体的な危険性を明示してもらえないと、行政側(警察)は動けないのが原則である。それを「不安なのはおかしい!何とかしてくれ!」という権利は、残念ながらないとわきまえるべきである。そして、その様な場合は具体的な危険性を早く見つけ出し、証拠をもって対応を迫るべきなのである。

では、つくば市の例をみてみよう。何が危険なのか?常識的に考えて、数m離れた場所で基準を超えるほどの放射線量を持った放射性物質が体や衣服に付着しているとは当然ながら考えられない。衣服などは着替えているだろうし、所々でガイガーカウンターでの計測ぐらい受けているはずだ。体内被爆した放射性物質が心配であるなら、周りの人に害を及ぼすぐらいの線量であれば、その人は直ぐに放射線障害で立っていられない状態になっているはずだ。元気でピンピンしていることから、そんな心配が不要であることは明らかだ。つまり、「私はあなたが『危険』であると証明することはできないが、あなたは私に『安全』であることを示す義務がある(ないしは、私はそれを求める権利がある)」と言いたいのであろうが、そんなことを言える根拠がどこにあるのか聞いてみたい。

話は変わって、その後に郡山市の小中学校で基準を上回る放射線量が計測され、表土を削ったら約1/6に線量が減ったが、その土の処分をめぐって市民から「政府が安全と言っているのに勝手なこと(表土を削ったこと)をするな!」と苦情があった。文科相からも別の意味でクレームが付いた。既に論理矛盾しているのであるが、「政府が安全と言っているから安全」だとその人が信じているのであれば、削った土は安全なので、単なる税金の無駄遣いとして後から責めれば良いだけである。その人たちが苦情を言うのは、「絶対危険に決まっている。そんな危険なものを、少なくとも自宅の近くに持ってこられては困る」ということを、そのまま言うと角が立つので別の言い方として「政府が安全と言っているのに…」と言っている訳だ。報道する側も、それは百も承知なのだ。

#私はこの報道があったとき「中立」を装うマスコミに非常に腹が立った。
#何故、自らのスタンスを示し、何が問題なのかは明らかにしようとしないのか…と。

今回話の場合、昨日の説明で言うところの「基準値を大幅に上回る土砂が、放射線の影響を受けやすい子供達が生活する校庭や園庭に、しかも面的な広がりをもって大量に存在している」ことが問題なのである。文科省の言っていることを誰一人として信じておらず、「危険」であるとの判断は妥当である。だとすれば、表土を削ることは喫緊の課題であり、そこまでの行動は全ての人が評価すべきである。問題なのは、その削った表土をどうするかに絞られる。市の職員が、あまり何も考えないで適当な場所に捨てようとしていたのであれば、その行為自体は批判されて仕方がない。ただ、人が通常は入り込まない広い場所が確保出来て、そこからの放射線量が周辺の人の往来のある場所でどの程度の値として測定されるかを予測し、その上で安全性が確保できれば国が最終保管場所を確保するまでの緊急措置として、未来のある子供達にリスクを負わせるのか、それともこの程度のリスクを皆で背負い合うのか…を議論することはできると思う。ちなみに、表土を削った土を一旦校庭のすみに積み上げて、その周りの線量を測定すれば上記の保管場所での線量はある程度の誤差の範囲で予測できるはずである。

最近であれば、被災地の大量のガレキを受け入れる自治体に対し、一部の市民から猛烈な反発が起きていることも問題になっている。この手の議論は、その危険性の定量的な把握とチェック体制の確保が出来るならば、本来、問題にはる話ではないはずだ。「自治体の言うことを鵜呑みにするな!絶対、何か隠しているはずだ!」という気持ちはわからないでもないが、ガレキを処分できないと被災地の復興は始まらないのである。建設的な議論をするならば、受け入れを拒むのではなく、安全確保の検査体制の強化を求めるのが筋である。「じゃあ、安全であることを示せ!」と言うかもしれないが、安全であることは既に示されていて、それに「納得しない」人がいるだけである。どこの世界にも、最後まで納得しない人はいるものだが、その根拠を論理立てて示すことができなければ、その様な人の話を聞くまでもない。

遅かれ早かれ、東京には第2の関東大震災がやがて来る。その際に東京から出るガレキの量は今回の東日本大震災での量とは比較にならないものであろう。今回ガレキの受け入れを反対する人たちは、その様な事態にいつかなったときに、いつまでもガレキを処分できない状況の東京都を素直に許すとでも言うのであろうか?石原都知事が「黙れ!」と言ったのは極めて妥当である。不安になるのはその人の勝手だから構わない。しかし何度も繰り返しになるが、「不安なのはおかしい!何とかしてくれ!」と要求する権利などは誰にもないのである。

前向きの建設的な議論を進めるためにも、放射線を正しく怖がることを覚えなければならない。

【余談】
私が就職したとき、仲の良い友人に某大学の原子力工学出身者がいた。その友人曰く、「『放射能』って言葉はないからね!」と口を酸っぱくして言っていたのを覚えている。テレビを見ると、なるほど専門家は絶対『放射能』という言葉を口にしない(例外的に、視聴者のレベルに合わせた説明をしようと心がけている専門家がたまに口にする程度である)。使うときには必ず『放射線』『放射性物質』と言う言葉を使う。このことから、ほぼ『放射能』という言葉を使うか使わないかで、その人の放射線に関する理解度を判断することができるようだ。実際、ニュースキャスターなどでも説得力のある説明が出来る人は『放射能』という言葉を使っていないから…。

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