けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

判断に迷った時の考え方(TPPについて考える)

2011-11-08 22:41:20 | 政治
今、巷で最もHotな話題といえばTPPだろう。

どう考えても結論にたどり着ける状況ではない。ことの様相は、原発賛成、反原発の議論に似ている。お互いが、ガブリ四つに組もうとせず、ゲリラ戦を相互に仕掛け、特にTPP参加反対派は「議論が長引き決着が付かなければ、政治決断は出来ないはず」と考えているのではないか?一方で、TPP賛成派は、抽象的な議論に終始していて中々核心に踏み込めず、「結局は総理が『えい、やっ!』で決めてしまえば良い」と考えている節もある。

生きていれば、複雑な問題に遭遇し、どう判断して良いか分からないことが多くある。私の嫁さんは、子育ての中でその様な問題にぶつかり、多くの場合で判断を誤ってきた。判断を誤るにはそれなりの理由がある。逆に言えば、どう考えてもパーフェクトな答えが導き出せない場合に、どうやってbetterな選択をするかというのは非常に重要な問題だ。私は私なりに、単純なひとつの答えがあると信じている。

話はちょっとそれるが、私が子供に良く引き合いに出す話がある。それは高速道路での車の運転の話だ。子供には車の運転の経験は無いが、話せば大体理解してくれた。それは、高速道路で時速100キロで走っている時に、どうすれば真っ直ぐ走れるかの話だ。既にお分かりの方も多いと思うが、高速道路を運転する時の鉄則は、「遠くを見て運転すること」である。そもそも、自分が行きたい方向、行くべき方向がどちらの方角で、現在の車の位置からするとハンドルをどの程度操作すれば適切なラインをなぞれるかを考える。決して、車が少し車線に近づいたからといって、急ハンドルを切ってはいけない。目先のことに気を取られると、判断を誤り、本来すべきハンドル操作と異なる操作をしてしまうことが多い。

私は元々バイク乗りだったので、バイクでもこれと同じことを痛感した。バイクで峠を攻めていると、コーナーに少々オーバースピード気味で突っ込み、崖に向かって吸い込まれる恐怖に襲われることがある。怖くなると、ついつい行きたくない場所(つまり激突しようとしている崖)を見てしまう。そんな時、常に恐怖心と向き合い、コーナーの出口を見据えようと心がけた。面白いことに、コーナーの出口を見ると、まるで嘘の様にバイクがそちらに向かって適切なラインをトレースしてくれるのだ。

つまり、迷った時ほど「遠くを見つめる」のである。決して論理的ではないかも知れないが、多分、多くの方が別の形で経験している話だと思う。複雑な問題ほど、話をシンプルに焼き直し、『そもそも論』に照らし合わせて判断をすべきである。これならば、子育てのとっさの場合でも、まあまあ結論を出すのに困らない。私の嫁さんが子育てで判断を誤ったのは、目先のことを気にし過ぎたからである。遠くを見据えた判断が求められる中で、近場で子供に感情移入をし過ぎると状況が分からなくなる。

もちろん、それがBestな解である保証は無い。というより、Bestな解など存在しないのだ。昨日の「非線形100次元連立方程式を解く」でも書いたが、所詮、政治の世界ではパーフェクトな解など存在しない。我々が導けるのは「近似解」でしかなく、その近似の精度を如何にして上げていくかが重要なのである。近似解には、その精度を高めるための補正処理が必要であるが、当然ながら出発点が理想的な解に近い点から出発するのに限る。その理想的な解に近い点が何処にあるかを判断するのに、「そもそも、どうあるべきなのか?」の判断が有益なのである。

話をTPPに戻そう。日経ビジネスに「TPP亡国論のウソ」というタイトルで特集が組まれていた。賛成派の論客が、反対派の論客を切り捨てている。しかし、その議論を受ければ反対派も賛成派に逆に切り返すこともできよう。つまり、どちらも一方的な勝者とはなり得ない。

そんな時、「そもそも論」は何であるかを考えてみる。多分、反対派の代表意見は「国内の農業を守れ!」ということなのだろうと思う。もちろん、その他にも論点があることを「TPP亡国論のウソ」は解説しているので、細かい話は専門家に任せよう。仮に「国内の農業を守れ!」ということがポイントだとすると、TPP不参加によりそれが実現できるのかを考える。現在の農業政策は滅茶苦茶で、どう考えてもジリ貧である。農家の後継者問題はいよいよ深刻で、TPPに参加しなかったからと言って問題は解決しない。だとすれば、「国内の農業を守れ!」とい命題に対して「そもそも論」を戦わせるとすれば、その主戦場はTPPではなく別の場所にあるはずだ。その主戦場での議論をTPPほど熱心に戦わせない人が、このことを理由にTPPでだけ騒ぎ立てるのは「そもそも論」に照らし合わせればおかしな話だ。この様に考えれば、TPPに関する「そもそも論」の議論は別のところにあると言わざるをえない。

TPP賛成派の基本的な主張は、「資源の少ない日本では、外国との貿易なしには発展はあり得ない。鎖国を脱して開国し、グローバルな世界での主導権を握ることこそ、日本が生き残る道である。」ということだろう。これだけ聞くと抽象的で、そこら中に落とし穴がありそうである。しかし、その落とし穴は努力次第では避けて通ることが可能である。TPPの各論に特化し、既に見えているバグを指摘すれば、TPP参加に色々問題があることは否定しない。しかし上述のTPP賛成派の命題は、(これがTPPとは関係ない場でこの命題が正しいか否かと質問されたなら)多くの人がその方向性を否定したりはしないだろう。

もちろん、このような言い方をすると「かならずしも、それが正しい訳ではない。そうでない場合もあり得る。」と例外の話をする人がいるが、私は「必ずしも、××××ではない。」という2重否定の文章を使う人が、正しい方向を指差してくれる人だとは思わない。

原発問題では、枝野官房長官(当時)が、「必ずしも、直ちに健康に被害を与えるレベルではない。」という言葉を連発した。私は枝野さんは論理的な人で大好きな政治家の一人ではあるが、あの発言は頂けなかった。住民は、(少なくとも未来を託すべき子供達に)健康被害が全くでないような安心できる対応を求めていたのである。「『健康被害が全ての人に現れる』とは必ずしも言えない」状況なんて、誰も求めてなんかいない。政治家が2重否定の文章を使う時は、大抵は何かのトリックを仕掛けているのである。

大切なのは、そんなトリックでうやむやにすることではなく、「そもそも論」として何を目指し、何処へ向かおうとするのかを明確にすることだ。今、総理大臣に求められるリーダーシップとは、その方向を国民に示し、その重要性を熱く語り、その際の問題点を必ず解決すると約束し、それを実行することだ。

多分、野田総理はTPP参加を表明するだろう。自民党は、民主党の分裂を引き出すために、総理の足を引っ張ろうとして反対する(厳密には、「慎重派」を装う)だろう。しかし、1年後、遅くとも2年後には与党と野党の攻守は逆転する。その時、「あの時、あんなこと言わなきゃ良かった」と言わずに済むように自民党もご都合主義に走らない方が良い。

前原さんは「いざとなればTPP離脱もできる」と発言し、他の人は「国際的な信用を失うからそんなことはできない」という。この辺は既に泥試合だ。議論するだけの価値がない。しかし忘れないで欲しい。民主党は、日本国と米国との間の国際的な約束、普天間飛行場の辺野古移転の合意を、「それは前の政権が行った約束で、日本国の約束ではないから反古にしても何ら問題ない」と判断した前歴がある。それができる勇気があるなら、後でTPP離脱なんて怖いものではない。

大局を見て道を選び、選んだ後は緻密にして確実に歩みを進めて欲しい。更に国民に理解を求めるなら、判断と同時に政府は情報開示を進めて欲しい。

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非線形の100次元連立方程式を解く

2011-11-07 21:24:29 | 政治
世間では失われた20年という。

個人的にはバブル崩壊の時代からの「(第1の)失われた10年」と、安部政権時代の参院選惨敗以降の「第2の失われたxx年」と言いたい。「xx年」と書いたのは、今後、何年続くか分からないからである。出来れば現状の5、6年を最後にして欲しいと思う。

自民党の小泉政権時代の歴史評価はまだ先にならないと確定しないのだろうが、もう少し真面目にこの件に向かい合う覚悟が必要ではないだろうか?小泉・竹中改革には賛否がある。「貧富の差の拡大を促進した」というのがマスコミの間でも浸透していると思うが、本当にそうだったろうか?確かに、あの時代に小泉総理が誕生せずに、現在の自民党の派閥の長たちが適当にたらい回しをしていたら、ないしは5年早く民主党政権が誕生していたら、「貧富の差の拡大」の速度はもう少し緩やかだったろうと思う。しかしそれと引き換えに、日本は更なる泥沼に沈んでいただろう。不良債権処理も進まず、ギリシャよりも先に日本が危機に落ち込んでいただろう。ある種、小泉・竹中改革は副作用のある劇薬を処方し、全体的には快方に向かったが、一方で目に見え易い副作用を伴い、それを当の患者本人ではなく患者の親族が非難している様な状況に見える。

話は変るが、友人からこんな話を聞いたことがある。産婦人科医を目指していた彼は、その頃、研修医として大学病院で働いていた。大学病院に運ばれてくる妊婦は、少なからず問題を抱えている患者が多く、死産であったり障害のある状態で産まれてくる赤ちゃんも少なくなかったそうだ。医者の立場からすると、全力を尽くして処置をした結果、多少の障害を伴いながらも死産を免れ元気で産まれてくる赤ちゃんを取り上げると、ひとつの命を救うことができた喜びを感じる。多分、多少の障害にショックを受けながらも喜ぶ母親が殆どだろう。しかし、特に親族などに多いのであろうが、障害が残ったのは病院の責任だ・・・と責め立てる人も少なくないそうだ。

世の中は、時としてパーフェクトにはいかない場合がある。その時、仮にベストを尽くしてリスクを最小化し、考えられうる最善の結果に導けたとしても、それでもそれはパーフェクトではない。いちゃもんをつけようとすれば付けれるのである。もちろん、医療事故は頻繁に起きているので、本当に病院に落ち度があることもあるだろう。ただし、落ち度もないのに責め立てる人が増えてきた結果、病院はリスクのある患者を受け入れなくなってしまった。救急車のたらい回しの事件は頻繁に聞かれる。

だからこそ、「本当にそれは正しかったのか?」の検証は必要であろうが、自分自身では解決できないような問題に対しては、(それなりの根拠もなしに)問題を解決した(解決しようとした)人を非難してはいけない。ないしは、検証においても、「では、どうすればよかったか」の「正解」を示すことなしに、ある一面だけを捉えて評価をしてはいけない。

世界中でも手詰まり感が漂うように、政治の世界は例えて言えば、「非線形の100次元連立方程式の解を求めるようなもの」だと思う。線形演算であれば何とかなるが、非線形方程式では100個も変数があれば解析的な厳密解は殆どの場合存在しない。しかし、何とかその解を求めないと自分たちは破綻してしまう。そんな時、誰もが「近似解」を求めることで答えを出そうとする。

多分、小泉・竹中改革は、100個の変数のうちの主要な変数を20個ほどに絞り、残りの変数は適当な代表値の定数に置き換え、非線形の20次元連立方程式に置き換えて、なるべく解析的にその解を解こうと努力したのだと思う。そして、その近似解を求めた後で、残りの80の変数を少し変化させた時に近似解がどの様に変化するかを評価し、その評価結果をもとに近似解を若干補正することで、精度的に実用に耐えうる近似解を導こうとしたのだと思う。セーフティネットの議論は「近似解」の補正に他ならない。

しかし、それはユニーク(唯一)な厳密解ではないので、「それが『厳密解』とは違う解であること」を示すことは比較的に簡単である。多くの経済学者や政治評論家、及び民主党はその点を指摘し、小泉・竹中改革は安倍政権末期以降、中途で頓挫した。しかし、それ以降の誰一人として、彼らの示した「近似解」以上に実用性のある解を示せていない。

所詮、厳密解は存在しないのである。であれば、「それが厳密解でないこと」を議論するのではなく、「どうすれば近似解の精度を上げられるか」に議論を集中させるべきだと思う。であれば、民主党も自民党も、過去に求められた最も精度の高い近似解を出発点にして、その近似解の課題を克服するための近似精度の改善方法を議論して欲しい。

「第2の失われたxx年」のxxに幾つが入るかはそれで決まる。

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石原知事の「黙れ」発言について

2011-11-05 23:37:52 | 政治
昨日、東日本大震災のガレキを東京都が受け入れた問題で、石原慎太郎都知事が反対の声を上げる都民に対して、「『黙れ』と言えば良い」と言ったそうだ。

ネットでも賛否両論が乱れているという。都に寄せられた意見は9割が苦情だそうだが、ネットでの意見はそうでもなさそうだ。概ね、「石原は嫌いだが、今回の件は筋が通っている」といった感じか…。

面白いことに、受け入れ反対派の人の主張は傾向が似ており、大抵は「石原知事は『皆、自分のことしか考えない』というが、それはアンタだろう」といった口調で、今回の件とは関係ないことを引き合いに出し、人格攻撃的なことを言う。

私は石原知事が好きか嫌いかの論争は興味がない。自分が好きなら好きで良いし、嫌いなら嫌いでいい。彼は好きだが、具体的な○○○の件は反対だ…といったこともあるだろう。それは個別にやってもらえば良いが、議論とは焦点を絞り、その焦点に限って賛成反対の議論をすべきである。脱原発でも何でもそうだ。ところが、議論が深まらない理由は、議論が発散する方向に関係ない話を持ち出し、「だから、あいつがやることは全部ダメだ!」と決めつけるためである。「理屈で攻めたら負けてしまう、であればゲリラ戦法で戦うしかない。」と自覚がある人ならまだいい。しかし、今回の知事発言を避難する人の多くは、理屈で負けることの自覚がなく、別件で責め立てれば「理屈でも勝った」と誤解しているのではないかとさえ感じる。

11/2の「東京湾に原発を作るという議論から始めると・・・」でも書いたが、「議論できる状態」の確保は民主主義の中で最低限必要である。しかし、それを面倒臭がって怠っていると、いつの日か取り返しのつかない事態になりかねない。成熟した民主主義国家であるためには、好き、嫌いといった「(理屈の伴わない)感覚」を判断基準にしていてはダメである。

多分、マスコミは絶対にこのような論評を載せないだろう。マスコミは、政権や権力者、有名人の批判はお得意であるが、批判されることには滅法弱い。だから石原知事が正しい、反対する人は間違っている…、と言えとまでは言わないが、せめて、正面から議論しようとしない人にそれを指摘するぐらいのことはして欲しいものである。

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母、娘の喧嘩

2011-11-04 21:46:25 | 日記
毎日の様にであるが、嫁さんと娘が喧嘩している。単純にヒステリーのぶつけ合いなのだが、今朝も嫁さんにたたき起こされた。

嫁さん曰く、「二人では埒が明かないから、間にお父さんに入ってもらおう」ということだった。今朝の喧嘩の原因は明らかに娘の方にあるのだが、話はそう単純ではない。

間をすっ飛ばして結論を言えば、娘が嫁さんを怒らしている理由はこうである。我が家には小学生の男の子、女の子、未修園児の男の子の計3人の子供がいる。一番わがままなのは上の男の子で、ダダをこねまくる。少なくとも数年前まで、娘は非常に聞き分けが良かった。一方、嫁さんは大の面倒臭がり屋さんで、子供にダダをこねられるとアメを与えてなだめるタイプである。お兄ちゃんがダダをこねまくるのを妹は我慢してみていると、やがてお兄ちゃんは美味しいアメを手に入れる。良識のある自分は、褒められることも無く、アメを手にすることも無く、損をしてそのままである。いつしか、「得をするためにはダダをこねないとダメだ!」という感覚が身についた。まさに今、それを実践しているのである。

この様な理由で娘がダダをこねていることに嫁さんが気が付けば直ぐに改善できそうであるが、実際は厳しい。何が厳しいのか?私は心理学に関しては全くのド素人で、大学の授業ですらそんなものを受けたことはない。だから間違っているのかも知れないが、心理学の教科書にでも出てきそうな背景から来ているようだ。

正しいか正しくないかは別として、私の理解はこうである。嫁さんはヒステリックである。自分でもそれを理解しており、それを直さなければいけないという自覚もある。娘もその影響を受けてヒステリックだ。その娘のヒステリーを見ると、自分の中のヒステリックさの鏡写しであることを感じる。「本当の私はヒステリーを忌み嫌う、ヒステリーとは縁の無い人間なんだ!」と信じたい気持ちにより、自分自身の問題を解決するよりも前に、目の前の目を覆いたくなる鏡に映った自分(つまり娘のヒステリー)を押さえつけたくなる衝動に駆られる。必然的に娘に対する態度は厳しくなる。

一方の娘は何が起きたのか分からない。ダダをこね続ければアメをもらえると信じて行動しているのに、いつまで待ってもアメがもらえない。「これは、ダダのこね方が足りないんだ。」と感じ、更にダダをエスカレートさせる。嫁さんもエスカレートして、二人で炎上している。

ではお兄ちゃんの方はどうかと言うと、女と男の差から、息子のヒステリーを見ても、嫁さんは自分の姿を鏡に映して見せられたとは感じないようである。だから、平気でアメを与えることが出来るのである。何とも不公平な話である。

「3人も子供がいて、それぞれがわがまま言うんだから、そんなに冷静に対処なんかできないわよ!」と嫁さんは言う。しかし、40過ぎた大の大人が冷静さを保てないというのであるから、「10歳に満たない子供なんだから、そんなに冷静に対処できないわよ!」という娘の言い分は容易に予想できる。どちらに分があるかといえば、言うまでもない。

嫁さんの性格を知り尽くしている私は、今朝、嫁さんではなく娘に穏やかな口調で諭した。私が好きな落語で「里帰り」というネタがある。私は5代目三遊亭円楽の話を聞いて心を打たれた。ストーリーは次の通りだ。嫁姑が仲たがいして、実家の母に窮状を訴えると、母が紙に包んだ白い粉を渡し、「これは毒薬だから、姑さんに飲ませて殺してしまいなさい。」と伝える。驚く娘に母は続けて、「ただ、今、お姑さんを殺したら犯人はお前だと直ぐにばれてしまう。1年間、お姑さんの言うことを聞いて、仲の良い嫁姑を演じなさい。そうすれば、姑さんを殺しても、誰もお前が犯人だと分からないから…。」

ここまでくれば話は分かると思うが、1年後に嫁姑は本当に仲が良くなり、娘は白い粉を母親に返すと、母親は娘に白い粉が毒薬ではないことをばらすと言うものである。人と人との関係を改善するのであれば、相手を責めて事態の打開を図るより、自分を変えた方が早い。娘は心底、母親に甘えたいのであるから、その希望を叶えさせてあげたいのであるが、嫁さんと娘の性格を比較し、どちらを諭した方がより現実的かを私は判断した。落語の話を引き合いに出せば、もし仮に、白い粉を受け取ったのが嫁ではなく姑だったら、ストーリーは全く違ったものになっていただろう。姑が嫁さんの味噌汁に実際に白い粉(片栗粉)を入れてしまい、トロミが付いてドロドロになった味噌汁を見た嫁さんが怒り出す…という話かも知れない。

私は考えて、白い粉を渡す相手として娘を選んだ。娘は一応、聞き分け良く話を聞いて納得したようだった。事態が変わるかどうかは分からないが、コツコツと地道に対応するのが子育てなんだろうと思う。

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政治とは結果責任である

2011-11-03 23:22:35 | 政治
政治とは結果責任である。

仮に、悪意はなくとも、ないしは発想自体は評価されるべき内容であったとしても、結果が裏目に出たのであれば、その責任は何処までも追求されるべきである。

先日、東京都小金井市の市長が辞職した。周辺の市のゴミ処理場を利用する際の費用が無駄遣いと断じて市長に当選し、その結果、周辺の市の反発でごみ処理の受け入れを拒否されて、にっちもさっちもいかず、やむなく辞任に追い込まれた。産経新聞の社説?「産経抄」にて、このニュースを取り上げていた。

元市長は元朝日新聞の記者だったそうだから、無駄の追求はお得意であり、悪意ではなく善意から出た提言であったことは伺い知れる。しかし、結果として市民を窮地に落とし込んだのであるから弁解の余地はない。辞任すればそれで良いのではなく、辞任表明後も解決の糸口が見えてない現状では、無給であろうと今後も元の状態に復帰するためにどこまでも尽力し続けなければならない。それが結果責任というものである。

「産経抄」では、鳩山、菅、両元首相の話を引き合いに出していたが、誰もが同じことを思い出したであろう。

菅さんは多分、戦後最悪の首相として後世に長く語り継がれるであろうが、しかし、鳩山さんも醜さでは負けていない。民主党は「自民党時代の辺野古移設案なんて、どうせ元々不可能であったんだから、現状と大して変わらない」と開き直るが、これほど無責任な主張はない。ハナから責任を取る気のない人は、政治家なんかにならないで欲しい。

自民党時代の橋本政権では、橋本龍太郎、梶山静六のツートップが汗をかき、大きな筋道をつけることまでこぎつけた。確かに、ここまで住民の半分ぐらいが常に反対派であったから余談を許さない状況であったのは間違いないが、少なくとも残り半分は条件付き賛成と言っていて、知事や市長も慎重ながらも移設に前向きであった。正直、札束で頬を叩き、強引に言うことをきかせるという感じはフェアではないかも知れないが…。ただ、それが綺麗か汚いかに関係なく、安全保障上の理由で選択肢が絞られる中、結果的に普天間周辺の危険性が改善され、沖縄全体でみればプラスとなると判断されるのであれば、多少はアンフェアであっても、結果責任が問われる政治家は敢えて悪人となる覚悟が必要である。

繰り返すが、沖縄の具体的な議題に特化すると解りにくいが、失敗したら致命的となる課題がある場合、理想的な状態を達成できる可能性が1%に満たない状態ならば、当たって砕けろ的な博打打ちの政治家は最低である。もちろん、課題を解決することに目をつむり、自分が権力を持っている間は当たり障りのないように静かにしていよう…、話題を他に逸らせよう…、という政治家は同様に最低である。どちらが最悪かを議論するのに意味がないが、普天間問題について言えば、前者が鳩山さんで、後者は鳩山政権で副総理になった頃からの菅さんのスタンスである。

結果、今後、30年間は解決不可能だろうという状態に至った。日米関係がギクシャクし、尖閣問題、北方領土問題と、中国、ロシアが徒党を組んで日本を揺さぶり出した。単なる普天間問題以上の最悪の状態を生んでいるのが現状である。

玄葉外務大臣が鳩山元首相の発言に対し誤りを認め「お詫びの思い」を述べたのに対し、野田首相が鳩山さんに謝罪したという。もし、鳩山さんサイドから発言への不快感が伝えられなければ、野田さんからわざわざ話題にして謝罪することはないだろう。とすれば、鳩山さんは未だに反省の色が見られないということになる。

本来であれば、ここまでの状況に追い込んだ責任をとって、首相を辞任しようが議員辞職しようが、そんなことと関係なく沖縄に頻繁に出向き、沖縄県民に謝罪の行脚をし続けなければならない。それが嫌ならば、沖縄以外の県知事を周り歩き、米軍の受け入れをしてくれる県を探し出さなければならない。ウルトラC的な戦略を練るために、日本中の頭脳を結集し、知恵を出し続ける行動でも構わない。

しかし、である。
彼が辞任後にしたことは、裏で民主党員を操り、自らがキングメーカとして闇の権力を握り続ける努力である。仮に自分のためではないと弁解したとしても、民主党政権を延命させるために腐心していたのは間違いない。決して国民や沖縄県民のことを考えているのではない。次の衆院選には立候補せずに引退するといった約束も保古にした。

以上は鳩山さんを中心とした話だが、菅さんもそれ以上のことをしてきた。結果責任の「責任」の意味を理解できない総理はもうこれ以上はいらない。

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東京湾に原発を作るという議論から始めると・・・

2011-11-02 20:52:38 | 政治
たけしのTVタックルを良く見る機会がある。

面白いことに、結構、たけしとは意見が合う。

例えば、東日本大震災があった際に、復興大臣を「小泉元総理にお願いできないのか?」ということをたけしが言っていたのであるが、その当時、私も切にその様に願っていた。あれから7ヶ月以上が過ぎた今となっては、緊急避難的な感覚は薄れ、その様な夢が実現するわけがない状況になってしまい残念だ。本人(小泉元総理)にはそんな気持ちは毛頭ないかも知れないので空想の上での話しだが、実現していれば今の日本はもっと違った世界になっていたかも知れない。

その他には、「東京湾に原発を作ればいい」という話もあった。私もまさに同じ意見を持っていた。と言っても、私もたけしも、本気で東京湾に原発を作ろうと言っているのではない。そうではなくて、何処まで安全基準を高めることが出来たら東京湾に原発を作っても良いと決断できるのか…をまじめに議論しましょうという意味である。

現在、原発賛成派と脱原発派とで議論が激突しているというが、微妙なニュアンスに気をつけて言えば、賛成派と言うのは「20~30年程度のスパンで、徐々に原発をフェードアウトすべき」という、「長期的見地に立った脱原発派」と理解すべきである。手放しで賛成と言う人は、3.11以降、殆ど影を潜めた。その意味では、3.11以前に比べれば、現在は賛成派と反対派のベクトルの向きはかなり似通った方向に収束しつつあることになる。しかし、それでも賛成派と反対派の「議論にならない状態」は継続してる。

この「議論にならない状態」というのは、非常に残念な状況である。福島の原発がこの様になってしまったのは、この「議論にならない状態」が継続していたから起きたことは間違いない。もし、3.11以前から「議論できる状態」が確保できていれば、(その当時の時点で)現状がどの程度危険で、その危険を回避して安全度を高めるにはどうすれば良くて、そのために必要な経費を誰がどのように負担すべきか…を議論できていたはずである。しかし、その当時の賛成派と反対派は会話する共通の言葉を持ち合わせていなかったようだ。

原発反対派の言う「安全」とは、多分、100万年に1度(ないしは、それより遥かに低い)という頻度であろうと決して起こり得ない「安全さ」を意味する。しかし、ヒューマン・ファクタが絡む事象において、その様な微小な頻度を評価する手法は確立されていない。反対派の人々は、賛成派の人に「そりゃ無理でしょう…」と言わせることが目的と化してしまい、それ故に賛成派の人は「そんな議論には乗りませんよ」とばかりに安全神話という空想の世界を語り始める。異なる方向のベクトルは先に行けば行くほど大きく距離が開くことになり、ますます「議論にならない状態」が安定化する。

スリーマイル島、チェルノブイリ、福島と、大雑把に言えば20年に一度という頻度で深刻な原発事故は起きている。今後の科学の進歩による安全性の改善を考慮すれば、多分、千年に一度程度の頻度以下に危険性を押さえ込むことを指標とした議論を膝を突き合わせて行えば、少なくとも20年に1度程度のレベルでしかない現状の安全性(危険性)を如何にすれば1桁以上改善できるのかの答えを導き出せたかも知れない。

ちゃんと聞いてみないから分からないが、少なくとも3.11以前に賛成派であった人の多くも、自分が住んでいる近所である東京湾に原発を作ると言われたら、「そこまで安全と言い切る自信はない。安全性について、もう少し真剣に議論して見ましょうか?」と答えたのではないかと推察される。

この夏、多くのサラリーマンは「今年だけは特別だから…」との諦めのもと、非常に辛い生活を強いられた。被災者の皆さんとは比較にならない辛さだから、誰一人、声高にその辛さを語ることはないのかも知れないが、それはボディーブローの様に精神的、肉体的に少なからぬ影響を与えた。企業の立場からしても、ギリギリのところで乗り切ったという感じだろう。しかし、多分、その様な影響を受けない生活をしている学者さんや俳優さん、元々、普通の人が耐えられない厳しい世界に身をおいているマスコミの人々からしてみると、この夏は全然特別な夏ではなかったのだろう。その様な人々が「このまま、原発なんかいらない」と言いたくなる気持ちは理解できるが、それはそれで乱暴な議論だと思う。

建設的な議論は、「少なくとも数百年に一度のレベルまで安全性を高めた、世界共通の安全基準を確立すること」「その基準を満たした原発は再稼動しても良いが、2、30年を待たずに、1年でも早くフェードアウトして脱原発に導くためにはどうすれば良いか」に真面目に向かい合うことから始まると思う。

あくまでも「たら」「れば」の議論ではあるが、3.11以降の今だからこそ、「議論できる状態」である環境作りに有識者は頭を悩ませて欲しい。

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4つの人種(政治の信頼を取り戻すには…)

2011-11-01 23:31:52 | 政治
最近、テレビやニュースで「政治家の質の劣化」が話題になっている。

質が劣化したかどうかは定かではなく、昔は昔なりに族議員が私利私欲に走ったり、汚職なども今よりもチェックがが緩いために問題とならないケースもあっただろう。だから、今と昔を比較するのはあまり建設的ではないと思う。しかし、民主党に政権が変ってから、目に余ることが多くある。

今回は、4つの人種について、日頃思っていることを書かせてもらう。

世の中には、大別して4つの人種がいる。「自分に厳しいが、他人にも厳しい人」「自分には厳しいが、他人には寛容な人」「自分に甘いが、他人にも寛容な人」、そして「自分には甘いが、他人には厳しい人」。

政治家にとって、信頼の置ける人であるか否かは生命線である。上の4つの人種のうち、誰からも避難されることなく受け入れられるのは、「自分には厳しいが、他人には寛容な人」であろう。2番目、3番目は意見が分かれるところであろうが、少なくとも「自分には厳しいが、他人には寛容な人」「自分に甘いが、他人にも寛容な人」がそれぞれのいずれかに該当ずるのは間違いないだろう。問題なのは「自分には甘いが、他人には厳しい人」である。この様な人は誰からも信頼されない。そんな人の話は聞きたくもない。

さて、政治に話を戻せば、信じ難いほど「自分には甘いが、他人には厳しい人」が多いことを痛感させられる。民主党が野党の時代、当時の与党自民党に対して色々と攻め立てた。別に、その当時の自民党が良かったとか悪かったとかは別にして、当時の民主党の言い分にはそれなりに理にかなった部分が多かったと思う。しかし、政権を取ってからの民主党は、あまりにもご都合主義の部分が多い。
その最たる物は小沢氏の証人喚問招致の問題だろう。少なくとも、秘書が3人逮捕され、1審で有罪判決が出た。もし、自民党政権時代に自民党側にこの様な事件が起きたら、間違いなく野党であった民主党は証人喚問を要求するだろう。そして、過去の実績からすれば、自民党はその要求を最終的には受け入れただろう。(その政治家の政治的力量は別にして)良識ある自民党の某幹部は、それを理由に自ら襟を正して議員辞職までしている。

民主主義とは「手続き」そのものである。物事にはルールがあり、それが良かれ悪かれ、ルールに則って事を進め、その結果として独裁者や不正を働くものを排除する。それが民主主義である。これまで、悪事を働く少なからぬ政治家は、自らの身を守るためにトカゲのしっぽ切りとして、秘書に責任を押し付け逃げてきた。この様な事態を防ぐため、国家には疑惑を究明する権限があり、ギリギリのところで自民党政権時代もそれに応えてきた。

しかし、である。民主党政権では、衆院で大勢力を持つ与党民主党のNo.2の幹事長が一介の議員に指示しても拒否される。痺れを切らしてNo.1の代表が直談判しても話はまとまらない。なのに、それに対するペナルティは非常に甘い。

派閥の議員からは「推定無罪の原則」という声を聞く。当の国会議員が法律を作ったために現在がある「検察審査会による強制起訴」のルールも、「不当な法律」と一蹴する。ソクラテスは「悪法もまた法なり」と言ったそうだが、それが民主主義である。JR西日本の旧経営陣や明石警察署の副署長などに強制起訴の判断が出たとき、彼らが「不当な法律」と声高に叫んだというニュースは私は聞いていない。制度そのものにバグがないとは言わないが、これでは単に「私はご都合主義者です」と宣言しているようなものだ。

もちろん、「小沢氏は証人喚問に応えるべきだ。ただ、制度そのものには不備があるから、小沢氏問題と切り離して、この法律の是非を議論しようではないか!」と言うのであれば、これは非常に筋が通っている。私はこの様な人のことを、「自分には甘いが、他人には厳しい人」とは言わない。しかし、「私はご都合主義者です」と宣言しているような人たちは明らかに「自分には甘いが、他人には厳しい人」そのものである。

もちろん、民主党が全て悪いと言っているのではなく、自民党にも今現在もこの様な人は多く残っていると思う。だから、これは全ての政党に当てはまる問題である。ただ、自民党は長い歴史を生き抜いていく過程で、その様なガスを爆発する前にガス抜きする術を持っていたような気がする。今の民主党にはその術は残念ながら持ち合わせていないようだ。
ちなみに、このご都合主義者の傾向として、自分のご都合が「わがまま」と言われて孤立しないよう、徒党を組むことが多いようだ。民主党であれ自民党であれ、所謂、派閥とはそういうものであろう。権力を握れば何でもできる。それが、彼らが信じるルールのようだ。

具体的な答えそのものではないが、「自分には甘いが、他人には厳しい人」が権力の座に着かないよう、その様な人たちを政治の場から排除できるルール作り、環境作りが急務であると思われる。

その様なルールはないものか・・・。

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