仮面の告白『雲の上の虹』

この世の誉・不正・不道徳・破廉恥・権力者を追及し、無害なことも記録しつつ、雲の上の虹をめざす枕流亭の日記(日乘)

大川小 追悼法要

2012年03月04日 | 哀悼

大川小で追悼法要 遺族ら百数十人出席

 

大川小学校で営まれた法要で遺族らが手を合わせていた=3日午前10時20分、宮城県石巻市、小宮路勝撮影

 東日本大震災の津波で、児童と教職員計84人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市の大川小学校の校舎前で3日朝、追悼法要が営まれた。遺族ら百数十人が出席。時宗総本山(神奈川県)や県内の寺院の僧侶20人以上が読経し、焼香が行われた。

 宮城県登米市の常楽寺の佐々木文海住職は「ここに来た時はあまりの変わりように声もなかった。1年前でも遺族にとっては昨日のことのようだろう。祈りを捧げ、少しでも癒やされるならば」と語った。

 同小の惨事について、石巻市教委は1月に学校側の責任を認めたが、遺族からは疑問の声が出ており、今月、保護者に4回目の説明会が予定されている。


大川小の悲劇:未だ御霊の不還!  

2012年03月04日 | 哀悼

  この記事涙せずに、読めない。

  このような悲劇を人災として起こしてはいけないのだ!

 

 

大川小 遺族の1年 長女捜し続ける両親 いつも最後…きっと戻ってくる 2012.3.4 21:17 (1/2ページ)

大川小学校の行方不明児童、鈴木巴那ちゃんを捜す母の実穂さん。川底から児童のランドセルが出て確認をしていた=2月16日、宮   城県石巻市(矢島康弘撮影)

 ショベルカーが川底にたまった汚泥をすくい取り、川岸にうち捨てると、1人の女性が駆け寄り、どろどろのジャンパーを木の棒でたぐり寄せた。「娘が着ていたものに似ている」。一瞬、胸が高まったが、すぐに落胆に変わった。

 鈴木実穂さん(43)は、大川小6年だった長男の堅登(けんと)君=当時(12)=と4年だった長女の巴那(はな)さん=当時(9)=を震災で失った。堅登君の遺体はすぐに見つかったが、巴那さんは今も見つかっていない。

 実穂さんは、大川小の脇を流れる川で2月14日から10日間にわたって行われた大規模捜索に連日立ち会った。寒風が吹き荒れる中、汚泥を確かめ、休憩時には重機の窓ガラスを拭いた。「これが頼みの綱だから」。いてもたってもいられなかった。

 捜索の最中の2月19日、2人の一周忌が近くのお寺で営まれた。夫の義明さん(50)が昨年秋、迷いながらも予約していたからだ。「1年たつころには巴那も見つかると思っていた。今は静かに見つけ出すのを待ってくれているはず」。そう心に言い聞かせて手を合わせた。

  両親は震災以降、大川小に通い、巴那さんの手がかりを探し続けた。義明さんは週1回の休みを潰し、実穂さんは仕事を辞めた。 「夢の中でいいから会いたい」。昨年4月、実穂さんはそんな思いから2人に宛てた手紙を書き始めた。

 《お兄ちゃんと巴那には『なみだをみせるな!』って言っていたお母さんなのに すっかり泣き虫になってしまいました》

 日が暮れ、季節が移るたび、「今日こそ戻ってくる」という思いが何度もくじけそうになった。

 

《お父さんもお母さんもいろいろな人たちに支えられて毎日がんばれてます。きっときっと会えるから。待っててね。待っててね》

 巴那さんに届くよう、手紙はひと月に1回ほど大川小の献花台に添えた。

 《となりにお母さんがいなくてもねむれてる? お母さんは朝おきた時 もしかしたらとなりに巴那がねているんじゃないかって毎日のように思ってしまいます》

 今年1月、実穂さんはようやく手紙を書く手を止められるようになった。巴那さんが初めて夢に出てきたからだ。

  

 葬儀も済ませた。一周忌法要も営んだ。だが、区切りは付けられなかった。「必ず戻ってくる。それまではずっと捜し続けてやりたい」。そう誓い合う両親が最近、堅登君と巴那さんについてそれぞれ感じていることがある。

 堅登君が震災当日に背負っていたランドセルに、巴那さんが大好きだったアイドルグループ「嵐」の本が入っていた。「分厚い本なのに妹のために何度も図書館で借りていたらしい。お兄ちゃんも絶対、一緒に巴那を捜してくれている」

 巴那さんは友達を気遣い、教室を出たり整列したりするときはいつも最後になっていた。「みんなの後ろに付いていくタイプだった。他の子供たちが全員見つかるのを見守って最後に戻ってくる。本人はそう思っているのかもしれない」

 5月には兄妹の墓が完成する。墓石には両親の思いが込められ、両手に幼子を抱くお地蔵さんが刻まれる。

 「また、2人を抱きしめたい。いつまでも抱きしめていたい」

(是永桂一、荒船清太) 


大川小:一周忌法要  校長と教育委員会の責任がほとんどすべてだ!

2012年03月04日 | 哀悼

  大川小の悲劇は全面的に人災である。

  自然災害を人災にしてしまったのは、菅も同じだが、この校長も管理能力と意思と気概において無能であった。その彼は未だ校長という。普段はどうでも仕事をしているようだが、彼らの力量はいざというときに発揮されなければ何の意味もない。

 私事を優先した勤務態度で日常を過ごしていたのが、今回の悲劇を生んだ。

 さらに無能な決断できない教頭の存在。彼は自分の判断で犠牲者をだした。教務主任で山に避難することを進言した職員は数人の子供と助かった。もっとも学校をよく知っている教務の話を聞けなかったのは教頭の人格の不徳というものだ。

 管理職になるということはそのくらいの覚悟が必要なのだ。

 戦後の教育行政はそのような覚悟を管理職という「授業放棄者」に真には求めなかった。

 だから心ある管理職は自らその覚悟と知恵を磨くのだ。それが普通だ。だから同じ石巻の学校でも被害の少ない学校があるのだ。

  繰り返すが大川小の悲劇は人災だ。校長も教育委員会も天災に隠れてごまかすつもりなのか?

 

 

 

宮城・大川小の一周忌=84人死亡不明、遺族「実感ない」 時事通信 3月4日(日)18時51分配信

 東日本大震災の津波で児童74人と教員10人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校の一周忌法要が4日、石巻市の公共施設で行われた。遺族と在校生約500人が参列し、遺族代表の武山剛さん(57)は「生かされた命を大切に、泣きながら苦しみながらも懸命に生きていこう」と呼び掛けた。
 祭壇には遺影が並び、バラやカーネーション計8300本で作った校章のオブジェが飾られた。献花台には色とりどりの菊が積み重ねられた。
 次女の千聖さん=当時(11)=を亡くした紫桃隆洋さん(47)は、「自分で遺体を抱き上げたが、いまだに実感がない。(死を)認めたくない気持ちもある」と伏し目がちに語った。
 昨年3月18日に火葬した遺骨をなかなか手放せず、ずっと自宅に置いていた。震災1年を迎えるに当たり、3日に納骨を済ませたという。隆洋さんは「1年たったが、なぜすぐに避難しなかったのか分かっていない。亡くなった命を無駄にしないためにも学校や市教育委員会はきちんと検証してほしい」と訴えた。

東日本大震災 全校児童の7割が津波の犠牲になった宮城・大川小学校の1周忌法要

フジテレビ系(FNN) 3月4日(日)17時52分配信

東日本大震災の発生から1年になるのを前に、宮城・石巻市で、全校児童の7割が津波の犠牲になった大川小学校の1周忌法要が営まれた。
震災から1年を前に、大川小学校の合同供養式が、石巻市の河北総合センターで営まれた。
会場には、児童の保護者らが続々と入っていった。
1周忌の法要には、保護者などおよそ500人が参列した。
石巻市の大川小学校では、津波で全校児童108人のうち70人が亡くなり、4人の行方が、現在もわからないままとなっている。
祭壇には、犠牲になった児童と教職員の写真が飾られ、参列者が花を手向けたという。
大川小学校をめぐっては、2012年1月の保護者説明会で、市の教育委員会が、人災の面があったことを認め、公式に謝罪している。

 

 

石巻・大川小で合同一周忌法要 「耐える日々が続いている」2012.3.4 21:16 産経

 

東日本大震災から1年を前に営まれた大川小学校の一周忌法要。津波の犠牲になった児童らの遺影が祭壇に飾られた=4日午前、宮城県石巻市(代表撮影)

 東日本大震災で児童70人と教職員9人が死亡し、児童4人と教職員1人が行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校の合同一周忌法要が4日、市内のホールで営まれた。遺族らと同校が主催し、参列者約500人が冥福を祈った。

 児童と教職員の遺影が並べられた祭壇には、遺族や在校児童一人一人から花が手向けられた。

 遺族会の武山剛会長は「苦しくつらい思いは少しも癒えることなく、耐える日々が続いている」と述べ、犠牲者の鎮魂と捜索続行、防災行政の見直しを訴えた。

 3年だった一人娘の香奈さん=当時(9)=を失った中村次男さん(38)は「1年という区切りは全く感じないが、静かに祈りたい」と話し、法要後も大川小校舎前の祭壇と、近くの墓で手を合わせた。

 市教委は1月、遺族への説明会で学校側の責任の一端を認めたが、一部の遺族からさらなる調査と検証を求める声が上がっている。