仮面の告白『雲の上の虹』

この世の誉・不正・不道徳・破廉恥・権力者を追及し、無害なことも記録しつつ、雲の上の虹をめざす枕流亭の日記(日乘)

石巻市教委・柏葉校長:今頃謝罪の無能!

2011年06月19日 | 卑怯

  怒りというより、その行いのあまりに恥知らずなことをみて、市教委というものもいかに無能かわかる!

  あの石巻市立大川小の悲劇の続報のことだ。他の市内の小学校では校長らが率先して児童の命を守り、過労で倒れても避難場所の運営に奔走したおかげで命は守られた。それが校長たるものの責務だ。そのために高額の給与をもらっているのだ。

 勘違いしてはいけない、管理職は責任を取るために高額の給与をもらっているのだ。それがわからない者は校長になってはいないのだ。

 市教委は避難マニュアルに不備があったと説明し、謝罪したそうだが、ちがうのだ、マニュアルを無視することで児童らの生命を守った学校もあったのだ。

 要は場に応じた臨機応変なことを判断できるだけの能力を持った者を校長になかった県教委・市教委の選考システムに問題があるのだ。公用より私用を優先するものを任命したことの責任は大きいのだ。

 市教委も校長も本当にどうしようもないレベルだ。

 


山に逃げるという、判断・選択
ができなかったばかりに!

ある教員(教務主任らしい)は山に行くことを主張したが、教頭は不覚にも己の判断によった。

津波のある地域の管理職とは思えない不勉強さだ。実は学校のことに一番詳しいのはこの教務主任と呼ばれる教員だ。彼が馬鹿教頭に逆らって山に子供たちを連れて行く行動はできたはずだ。実際、その結果わずかだが児童は助かっているのだから。

この教頭の不明な管理職意識はどうしようもない。

そのそしりは後輩の管理職志望の

方々が受けねばなるまい。

 

 


あの校長はまだコウチョウをしているのか!!!!???

 

学校側、対策の不備謝罪 石巻・大川小合同供養式

河北新報 6月19日(日)6時13分配信

 児童108人の7割に当たる74人が死亡、行方不明になっている宮城県石巻市大川小の合同供養式が18日、同市桃生町の斎場で営まれた。学校と市教委の関係者も出席し、津波発生時の避難場所を定めていなかった点など防災対策の不備を謝罪した。
 遺族でつくる実行委員会が主催し、約350人が参列。震災が起きた午後2時46分に合わせて黙とうした。2人の子どもを失った武山剛PTA会長は「子どもたち、先生のみ霊が安らかであるよう念じたい」などとあいさつ。学校行事の写真スライドも上映され、子どもたちの姿に遺族からすすり泣きが漏れた。
 市教委によると、同小の柏葉照幸校長は「安全に対する取り組みの不十分さ、すべては私の至らなさの結果です」などと保護者に陳謝。市教委の今野慶正事務局長は「学校の防災計画を点検、指導するなど、津波への危機意識を高めるべきだった。本当に申し訳ありません」と述べた。
 3月11日の地震直後、児童らは校庭に避難。津波が来る直前に北上川の橋のたもとにある小高い場所へ移動する途中、川から押し寄せた津波に襲われた。教職員も現場にいた11人のうち、10人が死亡、行方不明。保護者からは「裏山に登れば、多くが助かったはず」と疑問の声が出ていた。
 供養式の後は遺族会が設立され、学校近くに慰霊碑を建て、植樹を進める方針などを確認した

 

宮城・大川小でも合同慰霊祭=校長「ごめんなさい」と何度も謝罪

時事通信 6月18日(土)19時52分配信

 宮城県石巻市立大川小学校でも18日、死亡・行方不明の児童と教員84人を悼む合同慰霊祭が市内の葬儀場で執り行われた。ユリの花束を抱えた遺族や学生服姿の生徒ら数百人が参列し、会場のテレビ画面には学校行事に取り組む生前の児童らの写真が映し出された。
 柏葉照幸校長は遺影の前で「命を守ってあげられなくてごめんなさい。防災に対する備えが不十分で本当にごめんなさい」と何度も謝罪の言葉を口にした。続いて教育長代行の今野慶正市教委事務局長が「これからは津波に対する危機意識を高めるために最善の努力をする。申し訳なかった」と述べた。
 慰霊祭を主催した武山剛PTA会長は「PTAとして、学校や教育委員会に避難経路はどうなっているのか確認したことはなかった。三者が手を携えて防災教育に取り組み、きょうを区切りに共に前に歩もう」と訴えた。
 長女巴那さん(10)が今も行方不明の鈴木美穂さん(41)は「まだ毎日がお通夜みたいで」と寂しそうに語った。49日目でようやく三女愛さん(12)の遺体が発見された狩野あけみさん(42)は「時間がたつほどにあの子を失った実感が湧いてくる」と声を詰まらせた。

避難より議論だった40分…犠牲者多数の大川小 読売新聞 6月13日(月)14時55分配信

 東日本大震災で全校児童の約7割にあたる74人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市立大川小学校で、地震発生から児童らが津波にのまれるまでの詳細な状況が13日、市教委や助かった児童の保護者らへの取材で明らかになった。

 学校側が、具体的な避難場所を決めていなかったことや、教諭らの危機意識の薄さから避難が遅れ、さらに避難先の判断も誤るなど、様々な〈ミスの連鎖〉が悲劇を招いた。

 市教委の調査などによると、3月11日午後2時46分の地震発生時は、児童は下校中か、「帰りの会」の途中だった。校舎内の児童は教師の指示で校庭に集合し、学年ごとに整列した。下校中の児童もほとんどが学校に戻った。

 午後3時頃、点呼を終えると、教頭と数人の教諭が桜の木の下で、「山へ逃げるか」「この揺れでは木が倒れるので駄目だ」などと話し合っていた。学校の津波の際の避難マニュアルは避難場所について「高台」としていただけで、具体的な場所を記していなかった。

 ただ、津波被害を受けた周辺の5小中学校のうち、1校には避難マニュアルがなく、作成していた4校のうち1校は避難場所を「校庭」としていた。

 一方、防災無線からは大津波警報が鳴り、避難を呼びかける声が響いていた。余震が続き、泣き出したり、嘔吐(おうと)したりする子もいた。保護者らが相次いで児童を迎えに訪れ、教諭は対応にも追われた。「ここって海岸沿いなの」と不安がる女子児童や、「死んでたまるか」と口にする男子児童もいて、騒然とした雰囲気になった。

 当時6年生の女児を連れ帰った母親(44)によると、母親が担任に「大津波が来る」と慌てて伝えた際、担任は「お母さん、落ち着いてください」と話した。しかし、すぐに避難する様子はなく、「危機感がないようだった」という。暖を取るため、たき火をしようとした教諭もいたとの証言もあったが、市教委は確認できなかったとしている。

 市教委の調査では、その後、市の広報車から「津波が松林を越えてきた。高台に避難してください」と呼びかける声が聞こえた。教諭と、この時も、集まった地域住民の間で「山へ逃げた方がいい」「山は崩れないのか」などのやり取りがあった。結局、約200メートル先の北上川堤防付近にあり、堤防とほぼ同じ高さ6~7メートルの高台に避難することになった。

 避難を始めたのは地震から約40分後の午後3時25分頃。約10分後の午後3時37分頃、6年生を先頭に、学校の裏手から北上川沿いの県道に出ようとしたところで波が襲い、高台ものまれた。

 

生徒7割亡くなった大川小学校教頭の後輩 叩きに苦悩訴える  ※女性セブン2011年6月23日号

 3.11東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手・宮城・福島の3県。そこで暮らしてきた人たちはもとより、彼の地を故郷にもつ人々の心の傷もまだまだ癒えることはない。宮城県石巻市出身のコラムニスト・木村和久さんが、縁のある人々の安否確認など、震災当時の状況をひとつひとつ掘り起こしていく。

 * * *
 私の故郷、石巻は大震災で壊滅的な被害を受けました。震災当日は、親戚の安否確認ができないことにいら立ち、悶々と眠れぬ夜を過ごしました。連絡網は一切途絶え、押し寄せる津波のニュース映像に、ただ恐れおののくばかりだったのです。

 なによりいちばん心配だったのは、実家に住む大正生まれの叔母夫婦でした。足腰も弱っているうえ、近辺で津波が2階まで押し寄せたニュースを聞き、正直ダメかと諦めかけていました。眠れない日々が続きます。

 地元にいる兄と数日後に連絡がつき、近くなんだから叔母の家を見てこいと大喧嘩にもなりました。しかし、実際のところ、兄も被災者。しかもガソリン不足で身動きが取れないのです。

 ようやく5日後、私がインターネットで捜索を出していたのを手がかりに叔母の孫から連絡が来て、無事が確認できました。そのときは陳腐な表現ですが、涙がとめどなく溢れて止まりませんでした。恥ずかしい話、この年まで“涙がとめどなく溢れる”といった経験はなく、それは映画とか小説の世界での表現だと思っておりました。ところが今回の大震災で、私自身、涙が止まらなくなったことが3回もありました。

 最初は叔母の無事を確認したこのときでした。2回目は震災数日後、新聞で亡くなったかたの名簿を目にしたときです。東京の新聞を読んでいるのに、1面全部が地元のかたの名前ばかりです。青森県、岩手県と読み進み、宮城県の部分がやたら大きく紙面の8割を占めます。その大きなスペースを詳細に見ていくと、石巻市、石巻市、石巻市…と、延々地元のかたばかりです。やや新聞から目を離し、石巻市が紙面のほとんどを占めていると気づいたとき、愕然としました。なんで私の故郷ばかりなんだ! 同時にとめどなく涙が溢れてきて、その涙をぬぐいながら、親戚や同級生の名はないか、必死に探しました。

 そして3回目に涙したのは、生徒の7割が流された大川小学校の悲劇です。亡くなった子供の頬についた泥が取れないといって、母親が手でなく舐めて取ってあげたと報道されていました。こうして書いている段階でも、また泣けてきます。

 しかも、大川小学校では先生の多くも亡くなっています。震災当日、校長不在ゆえ、教頭先生が指揮を執りました。実はその教頭は私の高校の先輩で、尊敬する人です。しかし避難誘導に間違いがあったのか、多くのかたが亡くなりました。あえてそれを口にはしないものの、残された家族にはいまでもやり場のない怒り、悲しみが充満しています。その教頭先生本人も、亡くなっているのに、死してなお責められるそのつらさ…です。