日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

シャンソン

2009年04月14日 | Weblog
シャンソン

大人の哀しみ  人生の哀歓  生きることの深み  

シャンソン 人生の歌をメロデーで表現すると演歌の泣き節よりもうちょっとハイカラになる。

陰徳を積む

2009年04月14日 | Weblog
陰徳を積む  

毀誉褒貶は世のならいである。人はその日のあるいはその時の気分でものを言う。
ほめられたら、有頂天になりけなされたら腹が立つ。これが人の自然な姿である。
大切な事は常盤先生のようにもくもくと陰徳を積むことである。
陰徳とは神仏からほめられる徳を積むということだ。
近ごろー60歳近くなってーやっとこの辺の事が分かりかけて来た。

幸せ状況 

2009年04月13日 | Weblog
幸せ状況 
1・生活に困らない
2・自由時間く創作時間〉がある
3、上司とのあつれきがない。
4・健康状態がよい。
5,職務上のなやみなし
6・家庭にも悩みなし。

行動

2009年04月13日 | Weblog
行動  

ある程度の論理を組立てそれに基いて行動することも大切だが、どんなことでも論理抜きで体当りして道を切り開いていく方法もある。
世に(考えるより産むが易し〉という諺があるが、体当り即ち猛烈な行動は案外問題解決のべスト策かもしれない。行動している段階で色々な問題は発生し解決されていくことになる

桜満開4月8日

2009年04月12日 | Weblog
桜満開4月8日

今年の桜は、早くから咲きはじめ、ここ1両日の暖かい日によって、一挙に満開になった。花びらは、枝にしっかりくっついていて、風によって舞い散ることは無い。

僕がよく行くタイ・バンコクでは、今が最高に熱い季節である。4月の13、14、15の3日間は、ソンクラーンと言って水掛祭がある。

タイの正月だとも言われているが、この3が日は、オフィスはもちろんのこと商店街もすべて休業。
若者たちは車に、水甕を積んで、行き交う人々に、遠慮会釈無く、水をぶっかける。

水掛祭のことを知らないので、路地を歩いていたら後ろから、背中の中に水を流しこまれた。驚いたというよりは、怒りがこみ上げて、思わずどなってしまったこともある。

熱帯のタイは年中、気温は高いが、特に4月いっぱいは、40度に近い気温の高い日が続く。

日本にいて、満開の花の下で、宴会をやる風景などは、日本の四季の素晴らしさをこの目に見せてくれる。

寒い冬から解放されて、川の水も、温み、頬を通り過ぎて行くそよ風の暖かさも日本ならではの季節である。日本にいると、四季が、あって当たり前だが、大陸に行くと、年がら年中似たような気候で、日本のように季節に変化がない。

日本の国の自然がどれほど宝物か、どれほど豊かなものであるか。それは日本を出て、海外で暮らしてみると、よくわかる。
僕は心から叫びたい。 素晴らしい日本。我が祖国。日本万歳。


教育

2009年04月11日 | Weblog
教育
立ち向かって行くことー努力、それをさせるのが教育  藤原てい

自分のからだから、にじみ出るものを信じる。

私の歌の基本は西陣の織機のそばで口移し出習ったもの、ピアノではない。   都はるみ

知識をとうして、見ては本物はできない。知識をとうしては真似はで来ても本物はできん。浮き上がってしまう                宮大工 紫授褒賞受賞

体がノート。体に切りきざんで覚えたことは、染み込んでいるので忘れようがない。

感心すること

2009年04月11日 | Weblog
感心すること

高度成長を遂げた今でも、道端で布団もなく寝ている人がいる。
わたしの場合、音がなく、静かであること、明るくないこと、暖かであること、などが眠るための必須条件であるから、道端でなどどうしても眠れない。人もかかわらず浮浪人となって道端にごろごろ寝ている。こんな人を見ていると軽蔑の念よりも尊敬の念さえ生まれてくる。野蛮人はみんな、こうだった。文明人ほどいろいろ難しいところがある。

人相

2009年04月10日 | Weblog
人相

人相には見える部分と見えない部分がある。器量は見れば分かるが、隠れているその人の心理状態なり感情なりは分からない。しかも、心理状態こそが、その人の本質である場合が多い。

見かけのよいのを美人というガ、その人から受けるイメ-ジとはうらはらに,接してみるとぞっとするような冷たさと不快感に出会うことがある。そのとき果たして、見かけ道理の美人と思えるだろうか。
つまり、その人の心の奥底にあるものを無視して美人という認識が成り立つであろうか。

人相は顔にでるとよくいわれるがそれは、心の中が表面に出ての話で、その部分を覆い隠して表面だけで判断するのは間違っている。
心の底に秘めたものを、読めるようになって初めて、人相から人が分かると言えるのである。       
             

私の生きる意味

2009年04月10日 | Weblog
私の生きる意味

人々は何で悩み、何を楽しみにして、人生を送っているのか、天命とは何なのか。
人はどうして生まれてくるのか、そしてどこへ行ってしまうのか、とめども無く思いは膨らんでいく。浮かんでは消えていく。色々な想念が頭をよぎるが自分は一体何をしたいのか。

この時期はタイの人々がうらやましい

2009年04月09日 | Weblog
今年一番の寒い日。寒波来襲とか。日本列島でも南のほうの育ちのぼくは
寒さが一番苦手で、嫌いだ。寒いと、必ずといってよいほど、肩がこって首筋が硬くなる。
すると頭痛がして、一日中何もできない。
これに比べて熱帯のタイはよい。日本では一番寒い1月、2月。バンコクでは夜7時過ぎに32度あった。チエンマイはこれよりも、3~5度くらい低いらしい。
前回ぼくが帰国したときは、バンコク・ドンムアン空港では30度あったが、約6時間飛行機に乗って、日本に帰ってくると、たったの2度だった。機内は別にして、実に30度近い温度差がある。幸い風邪は引かなかったが、思わず身震いした。
霜が降りる。雪が降る。空がしぐれ、みぞれが降る季節になると、決まってチエンマイの
伝統芸術文化センターの伝統舞踊を思い出す。祝いの席の料理といわれる
カントークを食べながら見た美しい伝統衣装をまとい、指先を器用にくねらせて踊る
伝統舞踊を思い出す。できることなら寒い日本を逃げ出して、冬の時期だけでもよい
バンコクにいければ。12月、1月、2月。この時期はタイの人々がうらやましい。
                 

(深い川より) チャムンダー

2009年04月08日 | Weblog
(深い川より) チャムンダー

インドから帰国して、僕はインドに関する本を何冊か読んだ。
本の中に描写されているインドの風景だの、インド人の人情や物の考え方なりを、自分がインドで経験したものと比較検証したかたったのである。
中でも狐狸庵先生の、『深い川』にはホテル・ド・パリの描写が僕が見たとおり、実に正確に描かれており、これには驚いたというより懐かしかった。
ふんふん、そうだそうだ、僕は本の中に引き込まれて行った。中でもこの中に描かれているチャームンダという名の女神には深く心奪われた。
日本では女神と言うものはどんな神でも、美人で柔和に描かれいて、その表情には苦悩の跡がない。すくなくとも僕が知っている女神はそうである。
ところがチャームンダは違う。全身創痍の苦しみを背負い、その苦しみに耐えてはいるが表情に苦悩がまざまざと表れている。胸近くにはさそりが噛み付き、両足は腐りかけて赤く腫れ上がっていると描写されている。
自らをそこまで痛めつけながら、その苦しみの中にあってなお、現世で苦しみもがく人達をすくわんとする貴い姿こそ、この像の真の姿であることを知ったとき、僕は深い感動を覚え、思わず写真の中の像に手を合わせた。
これこそ本当の神である。我々とともに生き、苦しみ、ともにもがき、ともに悲しむ姿こそ百万言よりも説得力がある。
現世、この娑婆の世界で、もがき苦しむ人々と同じ次元の世界に住み、同じ次元に立ち、同じ苦しみを味わい、苦しみに顔を引きつらせ、それどころか民衆の何倍もの苦しみを背負い、しかもそのうえに、苦しむ人々を救おうとする強力な意志をもち、敢然と苦しみに立ち向かう貴さを、何故僕は見落としたのか、何故その表情から苦悩を読み取らなかったのか、僕は非常に残念に思った。
単に像を目で見るだけなら小学生だって出来ることだし、することである。その像に託された作者の意図、願い、希望など、要するに作者の目的を何故探ろうとはしなかったのか、作者はこの像を作り何を言いたかったのか。こういうことに思いをいたして初めてこの像と対面した値打ちがあるというものだ。
実物はデリーの博物館にあるそうだが、見ないままに帰国してしまった。次回インド訪問の時は必ず見たいものである。

大分長い間大阪市内の映画館では、『深い川』が上映されていた。それは新聞の広告で知っていたが、そのうちに、そのうちにが重なって、ついつい見逃してしまった。
僕はどうしても見たかったので、ある日、わざわざ電車にのって遠い貝塚まで見に行った。興業はよい『映画を勧める会』みたいなところが主催して観客の層は五十歳代以上の年齢層の人達に限定されていた。
彼らは映画が終わると、考えられさせられた、と一様に口々に言いながら帰って行った。 人々から漏れ聞くまでもなく、感動もので、いい映画であった。
僕はと言えば、実際に訪れて、感激を受けたバラナシの沐浴風景や、町の様子や、ホテル・ド・パリを知っているだけに、その場面が映るにつけて懐かしさが込み上げて来て、遠くでおぼろ気にかすみかけていた記憶は鮮明に蘇って来た。
特に印象深かったのは、やはりチャムンダーという女神である。
映画で映ったあの場所に安置されていたのかどうかはしらないが、満身創痍の苦しみを体全体で表しながら、なお現世に苦しむ人々を救おうとふんばる姿は、映画であるとはいうものの、思わず合掌したくなった。
インドは現在の日本に比べて確かに貧しい。カルカッタでも、バラナシでもよい、町を歩けばその貧しさは一目瞭然だ。貧しさのなかで苦しむ人は多いが、特に女性はいまなお根強くのこる、カースト制度という社会構造からくる重圧に抑圧されながら、この女神の苦しみのように現実生活の貧困の中で苦しんでいる人が多いことだろうと思わずにはいられなかった。
ところで我々日本人は女神というと、端正で美しい女人像を思い起こす。すくなくともチャムンダーのように苦しみもがく女神など、お目にかかったことはない。どの女神も美人で、いかにも福ふくしく柔和である。弁天さんにしても、観音さんにしても、吉祥天女にしても、みな見とれるほど美しい女神像ばかりである。拷問を受けている真っ最中のような苦しみの表情をしている女神などお目にかかった事はない。そういう意味からすると、日本の女神さんは神の世界の住人であり娑婆の住人とは違っている。ところがインドでは、この女神は娑婆の住人もいいところで、人間世界、特にインド社会の日常生活のなかで、のたうちまわっているインド女性の苦しみを一身にうけて、現実そのものを表しているようだ。
インド女性が天上世界の女神よりも、ともに苦しみもだえる地上に、このチャムンダー という女神の出現を願望して、この女神を迎え、作り出し、親しみを覚え礼拝供養して、救いを求めるのは人情の自然にかなっていると僕は思った。
僕はこのチャムンダーこそが真の意味で救済の女神だと思う。神が姿形をとって人間を救済している瞬間を目撃したことなどないが、チャムンダーこそは神が人間を救済する姿かもしれない。
『深い川』はクリスチャン、狐狸庵先生の作品だ。先生はさすがに目の付け所がちがう。 僕はかぶとを脱いだ。







万人におのおのふさわしい才あり

2009年04月07日 | Weblog
万人におのおのふさわしい才あり

重い引っ越し荷物をかつぐ作業員  老人精神病棟で働く人達  検視をする検視医
私にはとてもできない事を天職として、もくもくと働く人がいる。天は人をこの世に送り出すときにそれぞれの使命を与えて出したものと見える。
したがって人をその従事する仕事によって、差別するなんて許される事ではない。それは天に対する冒涜である。
人は自分が行った行為によって、またその責任によって差別されるのであり出自・門地や経済的あるいは社会的地位によって差別されてはならない。色々な仕事についている人を見るにつけつくずくそう思う。

中道

2009年04月07日 | Weblog
                中道

人は美しいものにあこがれる。
人は汚い物にも憧れる
貴いものにも、憧れる
卑しいものにも憧れる。
人が正反対の両極端に憧れるということは、両極端まで受け入れる許容範囲の動物、それが人間なのである。ただし、人間らしく安穏に暮らそうと思えば、一定のルールを守る必要がある。
そのルールを与えるのが宗教なのである。
お釈迦様は中道を説いた。

テポドン2号

2009年04月06日 | Weblog

テポドン2号

ついにというか、やはりと言うべきか、前からわかっていたことだよと言うべきか、北朝鮮がミサイルを打ち上げた。
平和を希求するなんて言葉には空しいものを感じる。

世界各国の体制がどうあろうとも、打ち上げる事によって外交交渉のカードを手に入れようとするのは、やくざもののすることがである。東北アジアの平和を乱す行為で断じて許すわけには行かない。それ相応の制裁の受けて当然である。地球上の、だにみたいなやつが、居丈高に居直り、それに対して何も出来ないもどかしさは、ストレスを倍増する。
今まで長年の交渉を見ていると、北朝鮮と交渉するというのは、もはや不可能ではないか。国内から革命がおこり、現体制をひっくり返すことなど望むべくもない。とすればやはり国連の決議を盾と言うことになろうが、これも実効性がないように思える。

つまり北朝鮮には痛くもかゆくもない。犬の遠吠えにしか聞こえない。何回違反して何回非難決議がされようとも気にしない国に取ってはそれは馬耳東風も良いところである。つまり実効が伴わないから効き目がない。そしてこれが現時点での世界の英知の結集である。そしてこれは何の解決策にも成らない。こういう事をやって北朝鮮に武器の質の向上や核開発を進める時間的余裕を与え、ますます増長をさせることしか、この種の問題の解決策はないのだろうか。

最悪だとは思うが、武器使用によって一挙に現体制を破壊して、困窮している人民を救うのも1方策ではあるまいか。有無を言わせずたたきつぶす事である。人道支援をしてみても、結果は原体制や、軍部を維持するため支援物資が使われるならば、それは人道支援ではなくなる。実のない支援は無意味である。
今まで日本は経済大国だと自負していた。しかし北朝鮮に対しては何の力も持っていない。外交カードを持っていない。日本から多額の賠償金をもらうことが、彼らの生きる道だなんて勝手に想像している向きもあるが、実効性のあるカードに成っているか。現時点では何の役にも立っていないではないか。実質北朝鮮が多額の賠償金をほしがっていても、そのことがかの国の対日外交が使ってきた場合の話である。彼らの強がりから言えばのどから手が出るほど欲しいと思っても、だから交渉カードを引っ込めると言うことはしないだろう。
ならず者にはならずものでもって対応するのが正当な交渉なのかも知れない。ならず者に紳士的対応は不要である。暴発すればそれはどのときこそ北朝鮮が自滅するときである。

ソウルの裏

2009年04月05日 | Weblog
ソウルの裏

ウルの裏。浮浪者が何か話しかけてきた。100ウオン渡してその場を離れた。
哀れみと言うよりは、不快感が前にたって、その場を離れたかったのだ。 93-4-8