日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

とかく人生は難しい。

2009年01月16日 | Weblog
とかく人生は難しい。 2009年1月15日

恋に命をかけて、一瞬に生きるか。結婚して平凡を選ぶか。なかなか難しい問題ではあるが、情熱に身を焦がしたときは、あとでの後悔が大きいように思う。

かといって、平穏無事で、何の変哲もなく、一生を過ごすのも、ばかげているようで。とかく人生は難しい。

バランス

2009年01月15日 | Weblog
             バランス

 幸・不幸のバランス計算はどのようにして求めればよいのか
幸と不幸はコインの表裏の関係にあり、幸の裏側には不幸が、不幸の裏側には幸が背中合せにくっついている。

そして人は不幸を出来るだけ少くして、幸を出来るだけ多く求めている。

然るにこの世は魂の修行の場。修行の為に、この世に生れ出たのであるから、少々の不幸で、つらい試練を受けるのも仕方のないことかもしれない
幸がプラス10.表にあれば不幸がマイナス10だけ背中合なって裏に隠れていることを知っておくと油断がない

 味う

2009年01月15日 | Weblog
             味う
良い香りは鼻で、よい味は舌で、きれいな花は目で、美しい音楽は耳できゝ味う。
ところで幸福(感)は一体どこで味うのか。肉体なのか、それとも心なのか。

中味はさまざま

2009年01月14日 | Weblog

 中味はさまざま

魚を例にとるとわかりやすい。
イワシは魚である。アジは魚である。タイも魚である。魚といえば、イワシもアジもタイも魚である。
ところが同じ字で、同じ読み方をしても、 その表す中味は様々である。
イワシはアジとはちがうし、アジはタイとはちがう。
それは人間が価値付けをして区別したり、 差別したりするので、違いがでてくるというのではない。人間の価値付けとは無関係に、個有の種として差異は存在する。
それでは、魚とは何を意味するのか。それは種の最大公約数的なものを意味し、その概念以上の何物でもない。


流行

2009年01月14日 | Weblog

          流行

最近個性の多様化とか、個性の重視とか、個性の尊重 とか、叫ばれながらもその一方で、今年のファッションには熱いまなざしがおくられる。

私は、元来ファッションに身を委ねるということは主体性の欠除ではないかと考えてきた。自己主張を重んじ、個性を重視するのなら、今年の流行が何であろうと平気でいられる筈ではないか、私はそう思う。

誰かが作り出して、はやらせたフアッションの中に身を委ねるということは没主体もいいところ、もともと主体性がなかったのではないかとさえ疑う。言葉を変えれば.主体性のない、つまり中味のない軽薄人間ということになるだろう。

 こういう私の立場からすれば、ファツションも無批判に受け入れて、ファツションという川の中に飛び込むのではなくて主体性をきっちり持ってフアッションとかかわりあいを持ったらいいのではないかということになる。

こういう考えのもとに 、私は万年ジーパンをはいては娘たちのひんしゅくをかっている。がんこ一徹も困りものだがさればとて、何でもファッション・ファシションと騒ぐ娘達の生きざまも困ったもんだ。私はこと服装に関してはファッションのラチ外にいて孤高を保つつもりでいる変人である。

老令時代

2009年01月13日 | Weblog
       老令時代

人生八十年時代になった。寿命が延びて結構なことである。我々世代が、恐らく第一期生であろう。そこで考えた。人生八十年というのなら八十年にふさわしい生き方があって然るべきだ。つまり、心身両面にふさわしい新らしい生き方の模索をすることである。
漫然と生きるのではなくて、生理的にも、心理的にも、生きいきと生きる方法を見つけ出すことである。 それには、あらゆるものに優先して肉体的健康が前提される。つまり、健康があって初めて肉体の自由が確保される訳でこのことを決っして忘れてはならないのである。
今私が直面している問題は、創作と釣りと菜園づくりである。,


バランスはとれている

2009年01月13日 | Weblog
          バランスはとれている。

プラス5があればその裏には必ずマイナス5がある、という鉄則を忘れてはならない。表に幸せがあれば、それと同じ量の不幸が裏にかくされていることを承知しておかねばならない。プラス5だけしか判らないのは人の驕りである。
 マイナス5が厳然として並存している。常にこのことを忘れずに、備えることだ。
マイナス5が表面に出て来ないように 神仏に祈り、神仏に抑えてもらう事が何よりも
大切である。このことを忘れていたり、見逃がしたりすると、あとで大きなお咎めが来ることを覚悟しておかなければならない。

美人

2009年01月12日 | Weblog
美人2009年1月12日


ミス00があるから、一般的な美人というものは、確かにあるのだろう。

女を眺めて暮らすだけであれば、いわゆる美人だけでも充分なのだろうけれど、彼女との寝起きを共にし、二人で暮らしていく上で1番大切なものはハートである。

顔や姿が、どんなに美しいものであったとしても、心の通じ合わない女を美人と思うだろうか。

若い時ならいざ知らず、僕がいちばん問題にするのは、気持ちが通じて気分が良いか悪いか。それに集約される。

人は、男も女も見てくれを重視して、どれほど多くの過ちを犯したことか。
自分の語る夢や希望の方向とは全く違ったものを目指す相手に、どこに共通点を見いだし、共感を得るというのか。、

話をすればするほどお互いに違和感を覚え、心は、砂をかむ思いである。容姿はいかに美人でも、人間的に魅力を感じないなら、僕は美女を路傍の石と決めつける。表面はともかくも、心では切って捨てる。

なによりも心の暖かい人が良い。相手に対して心遣いのできる女らしい人が僕にとっては、美女である。

そういう資質を基本的に持ち、姿かたちが自分の好みにあれば、彼女は僕にとっては、紛れもなく美人である。

あえて言うなら、僕自身が男としてスモールサイズなので、そのサイズにマッチした人が良い。
どんな美人でも、ひと月も、同じ家で暮らすならば、恐らく美人の部分が抜けて、普通の女に見えるだろう。

ところが、心掛けのいい人は、何年間、同じ軒下に暮らしても、飽きないだろう。

それで、顔が、自分の好みの顔であれば、十分美人と思える。枕を並べて、いっしょに生活するならば、心と心の結びつきが、堅くなればなるほど、心満たされるだろう。

女性諸君に言いたい。顔の化粧も必要だが、心を磨くことの方が、自分にとっても相手にとっても、どれほど値打ちのあることか。この辺のところをしっかり考えてほしい。







子宮

2009年01月12日 | Weblog
子宮

心の中に、詩と曲の原型が生まれている。心の状態を変えると、4曲が生まれかかっているのが壊れる。

4曲が、宿の心は子宮にあたる。子宮の状態を健康に保つことを日常心掛けなければならない。

子宮の健康のために、
1、よく寝ること
2,いらだたないこと
3中身を入れ替えないこと。中身を入れ替えると、詩と曲は消え失せる。
4.心の病になること
5、平常心(淡々と生きること)を保つこと

えべっさん

2009年01月10日 | Weblog
          えべっさん

年の初めのえべっさん。商売繁盛じゃ笹もってこい。年の初めに福もろて、商売繁盛じゃ笹もって来い これがロックのリズムに乗っているのだ。なんとあざやかなリズムなんだろう。

このお囃子を何十回となくくり返す。お詣り人はこのお囃子にのって押し合いへしあいする。
今日10日は今宮えびす。 ごったがえす人並みをかき分けて福娘からお札を買う。
今年の福娘はヨーロッパ系の外人娘、打ち掛けもえぼしもよく似合う。
余り大きな鯛をを釣らしてもらわなくてもいいから、10円硬貨のにぶいエビを特大賽銭池に放り込んで、人並みに商売繁盛を祈った。

そして裏側に回り神さんに念を押すために大きな鉄板を二回も平手打ちして、大きな音を出すように(えべっさんは耳が遠いらしい)力一杯たたいておいた。賽銭のわりにしっかり頼んでおいたような気がする。
お詣りの途中でみぞれ交じりの雨が降ってきた。七百円もする普通のお好み焼きを食べて帰った。

自由律

2009年01月10日 | Weblog
 自由律

定型詩は形にはめなければならないので、型が決っている為に、その中に入れる思いはかなり精選されて、それにふさわしい用語がピックアップされる。型が決っているので窮屈は免れない。
自由律は型にはめない自由さがあり 、それだけに散漫になりやすい。 そのことだけ承知し、歯止めさえかけておけば、自由律も使える。
自由律は日常言葉に近いだけに作詞には使えるが出来る限り少い言葉の中に感情を適確に盛りこむことが大切である。
92・12・10

バランスはとれている

2009年01月10日 | Weblog
  バランスはとれている。

プラス5があればその裏には必ずマイナス5がある、という鉄則を忘れてはならない。表に幸せがあれば、それと同じ量の不幸が裏にかくされていることを承知しておかねばならない。プラス5だけしか判らないのは人の驕りである。
 マイナス5が厳然として並存している。常にこのことを忘れずに、備えることだ。
マイナス5が表面に出て来ないように 神仏に祈り、神仏に抑えてもらう事が何よりも
大切である。このことを忘れていたり、見逃がしたりすると、あとで大きなお咎めが来ることを覚悟しておかなければならない。

飼い犬か野犬か

2009年01月09日 | Weblog
飼い犬か野犬か

鎖でつながれて飼はれている犬は、まず食べることは保証されている。 が、自由はない。これとは反対に、野犬は食住は保証されてはいないが、自由がある。
とちらにも一長一短があるが、どちらを選ぶかはおかれている状況にもよる。また
これはマイホーム志向か志士志向かという問題でもあろうが、これは男の生き方の問題
である。安定を望んで飼い犬になるか、それとも 不安定を覚悟で志しに殉ずるか
難しい問題である。

母。

2009年01月09日 | Weblog
自らの生命をかけて私を産み育てた女性。
母性本能とはいへ、ずいぶんつらい想いがあったにちがいない。あらゆる困難を乗り越えて生命を守ってくれ、時には己の生命を的にかけて。  そんな母の想いがわかる年項になった。
母がどんな想いで生きてきたのか、どんな想いをしているのか、それとは別に私には私なりの母への想いがある。
一般化して言うならば、人類の究極の憧れとして母性があり、母性こそがあらゆるものを生み、育くみ、そだてる唯一のもの。それ故に、感謝の対象に収れんしていくのである。それははるかかなたの宇宙からやってくるノス夕ルジァであり、すべてを包みこむ大海であり、ホワ一ッ と包みこむ暖かさである。そして、そこには羊水に包まれたあの安心がある。  
  

我家はマンション

2009年01月08日 | Weblog
    c
 
 我家はマンションである。東南北に窓ガあり、採光がことのほか良い。春には若葉が、秋には落葉が、四季それぞれの趣きが窓からとびこんでくる。今は秋。 イチョウがみるみるうちに葉を散らし 小道に黄金のジュうタンを敷いた。その上を靴であるくとしゃれたフランスの住宅を散歩しているみたい
で、夢心地になる。
 住めば都、だから言うのではなく、この団地は都会の中のオアシスである。都会の便利さはすべて完備され、近くに大きな公園が二つもあり、住宅地域でもある。都心に直結する道路もあるが、車騒音は殆んどない。一万戸もある大きな団地なので、さぞや人が多くごみごみしたところだろうと思はれるが、それが計画的に作られた団地なので静寂そのものである。 この団地のよさはこの団地に住んだ者にしかわからない。団地住いという理由で娘の縁談がうまく行かないこともあるが、そんなこと補って余りある。私はこの団地住いが気に入ってもう一五年間も住み続けている。