日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

借景

2009年01月20日 | Weblog
借景

人間はうまいことを考え出すもんだなあ、とつくづく感心した。
大和郡山にある慈光院は、建物、庭そのどれもが、方何里というようなものではない。

しかし、方何里に匹敵するような庭のある家に、勝るとも劣らない効果を持っている。座敷から遠望さられる山の麓までの眺めを、この建物の庭として見立てるというから、スケールは大きい。

自家の建物の余った部分の広さが庭という形ではなくて、自家の庭など、問題にせず、座敷から眺められる視界そのものが庭であるという発想である。

自然が生んだ山も川も、野も、原も、畑も、田も全部ここでは庭の一部を構成する。

これほど雄大で、維持管理の手間のかからない庭園がかってあっただろうか。

視界そのものを自家の庭にするという発想は、中国の仙人を彷彿とさせるものがある。そして、これを景色を借りるという意味で借景という。なるほど、借景か。実にうまいことを考え出すものだ。

現在、公共団体が売り出す土地でさえ、30坪買えば
1000万円の金がかかる。30坪の家というと、自分の家の庭を楽しむなんていうことは全然できない。隣との境目との間隔はわずか50センチ。なんていうことに落ち着くのが一般庶民の住環境である。

とても庭をつくる空き地はなく、庭なしで過ごさざるを得ないが現実だが、庭の欲しい人は、借景の発想をもつ以外には一般概念の庭というものを放棄せざるを得ないようだ。

もし、自家の部屋から見えるものがすべて自家の庭であるとしたら、どうなるか、たぶん気宇壮大になるだろう。

庭に作った池の鯉にエサをやるのが、唯一の楽しみだとか、庭に植えた野菜の手入れをするのが、健康のために良いとか、四季折々の花が咲くように、庭の手入れをするとか、
庭に対する相当の思い入れがないと、庭に値する土地を買うだけでも大変だ。

僕のような面倒くさがり屋は、このことはすべて借景の発想で、間に合わすのが、最もふさわしい。

第一、維持管理のお金も時間も必要がない。それでも、日本では、春夏秋冬に合わせて、それぞれの草花が、花を咲かせて目を楽しましてくれる。心を憩わせてくれる。
庭に関して言うならば、僕にとっては、借景が最もすばらしい。こういうのを団地族というのかも知れない。
そして、借景の原理を拡大解釈して、援用し、銀行の金庫に眠る札束を想像して、自分が裕福になった気分にになれば、法外の余録である。


































それでも満足ワットアルン

2009年01月20日 | Weblog
日中は35度の暑さが 常温のバンコクでも、日が落ちると気温はどんどん下がってくる。 正確に測ったわけではないが、皮膚感覚から判断すると、多分25度くらいまで下がる。

夕方夕涼みをかねて、有名な観光スポットのある王宮周辺を散策して、最後にスポットライトを浴びて幻想的な雰囲気をかもし出している、ワットアルン仏塔のおだやかな、姿を見て癒やされて
帰途に着いた。

宿は日本で言う木賃宿で、ビジネスホテルよりはずっと格下である。だから冷房の効いた部屋ではない。天井ではフアン(オオキナプロペラ)がかさしゃかしゃ音を立てて回っている。

午後8時を過ぎて、気温はぐんぐん下がりだした。10時にはごろには27度くらい、12時20過ぎると、 25度は下回る。
シーツも毛布もなく、病院で見かける、鉄パイプむき出しのベッドにごろ寝するが、ぼくはそれが不足には思わない。心の中ら不満が噴出しない限り、まあまあ満足である。日本では考えられないことだが、環境が変われば、こんなにも変わるものかと自分で驚いている。
そう言う情況の中で作詞作曲に夢中になって、1曲仕上げた。
思いの深い作品である。