日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

因縁果

2009年01月17日 | Weblog
               因縁果

因 縁 果  

仏教では、因縁という言葉がよく使われる。
これは単純に言えば、原因があって結果があるということだ。
では原因があれば、必ず結果が、発生するかというと、そんなものではない。
原因が、結果となって現れるには、そこには、ある種の力、縁 が働かなくてはならない。
例えば、波を考えてみよう。水があれば、必ず波が立つ。というものではない。水に、ある種の力。ここでは風が吹くから、波が、できるのである。
つまり、縁というものが、生じる結果に、重要な役割を果たす。縁が原因に働いて結果を生む

この原理原則が、人間のあらゆる事象や、すべての事柄に、置いて成立する。
すべての状況は、因と、縁とによって結果から生まれる と、仏教書には書いてある。では因縁とはなになのか。私はそれをどう考えるのか。というところから話をはじめる。

因縁とは何か。

それは人間が存在することによって作られる、実績(想いや行動の結果)のことであろう。
わかりやすく個人に限定して言えば、この身と心によって作るところの産物・実績であると私は理解している。

世間では良い因縁 悪い因縁と言うが、善悪の価値観を伴うものというと、善と悪は何によって決められるのか。その物差しが何なのか問題にする必要がある。
この物差しは普通の場合、常識的には、神や仏の教えに背くことが悪であり、教えに沿うことが善であると思われている。

神や仏と言ったけど、日本の場合は八百万の神があり、そのすべての神の善悪の判断が一致しているのだろうか。ある神はあることを善と言い、別な神はそれは善ではないという意見の違いはないのだろうか。 ここから先は自分に良いように解釈しないとおそらく客観的な説明は付くまい。

こういう次元では、この問いに正確な判断は下せない。というのはこの判断は私の世界の出来事ではないからである。おなじことが仏の世界においても言えるのでは無かろうか。
そうだとすれば、巷間で言われるような言葉の意味を使う意外に私には方法がない。だから簡単に、常識的に善因善果、悪因悪果を使うことになる

因縁は誰が作るのか

1,自分自身でつくる因縁

2,自分以外のもののつくった因縁
先祖代々から受け継いでいる因縁
関係のない他人、他のもの関係してくる因縁

これらが因縁となってある原因に働き、私たちに結果をもたらす。良い結果も悪い結果も その原因の出所は因縁である。良い結果悪い結果いずれにせよ因縁はその結果に重大な影響を及ぼす。


因縁にどのように対処すればよいか。 
 悪い因縁を断ち切る。浄化・浄滅する。これは人間が自分で出来る事ではないと考える。だから神や仏の領域のことで、人間が出来る事は神や仏に因縁きりを頼む他はない。そのために人間は何が出来るのか。何をしなくてはならないのか。 人間以上の偉大なる力を持つと考えられている神仏に対して働きかけることである。
巷間で言われる金を取って因縁きりや、消滅させるというのは、余り信じられない。

それにはどんな方法があるのか
1,霊地、聖地へいく。聖地の持つパワーによる浄化作用。例えば伊勢神宮など
2,徳の高い修行者 霊能者に取り除いてもらう。祈祷してもらう。
3,お経(真実の言葉)を唱えて自分の心の中や因縁を 神仏によって浄化・消滅して貰う 。こいうことを必死になって行って初めて因縁きり、特に悪い因縁きりが出来るように思う。 独断と偏見でやっとここまで想像してみた。     






物事はどこで測るか

2009年01月17日 | Weblog
物事はどこで測るか。2009年1月15日

物事の価値づけをするのは、どこか
人はすべてを心で測る。心がものさしになる。
腹が減ったときに食べ物に与える価値は腹が決める。のではなくて、心が決めるのである。

だから心というものさしを大切にして、限りなく普遍的で、客観的なものにすることが望まれる。

生きていることは

2009年01月17日 | Weblog
生きていることは2009年1月15日、

生かされているから生きているのである。生きていることは、生かされているから可能になる。

神仏から生かされ、人は生きているのである。単に生きるということはそれ自体存在しない、

誰かが命の火をつけてくれて、それが燃えているから生きているのである。

誰も、命火をつけてくれなかったら、どうして一人でに命の火がつくだろうか。点火されて以降から我々は、生きるのである。