聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/2/9 マタイ伝6章9~10節「あなたの御心が行われますように」

2020-02-09 20:31:19 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/2/9 マタイ伝6章9~10節「あなたの御心が行われますように」

 「主の祈り」の第三の願い
「御心が天で行われるように、地でも行われますように」
に聞きましょう[1]。ここでも「御心」とは「あなたの御心」、天にいます私たちの父である神の意思、喜び、計画のことです。普通「祈る」と言えば、自分の願い事、「こうなってほしい」という私たちの願望を神に叶えてもらう事を言います。自分の心を神に聞き届けてもらうこと。私の願いを何とかして叶えてもらう、そうでなければ「祈りが聞かれなかった」と言い、「神に祈っても聞かれないなら祈っても意味はない」などと、堂々と言われることがあります。それに対して、イエスは「御心が行われますように」と祈るように、主の祈りを授けてくれました。自分の願いを聞いてもらうために祈るのではない。御心――神の願いが行われますように、と祈る。祈りを通して、私たちが自分の願いを、もっと大きな神の願いやご計画への信頼の中に置く。イエスは、祈りという定義・意味合いそのものを全く引っ繰り返してしまうのです[2]。
 しかしそうしたら今度は、「私たちが何を祈っても仕方がない」とか「神の御心に委ねなければならない。私たちは自分の願いを捨てて、感情や意思を封じ込めて、神の意思だけに服従するのだ」という、行き過ぎた理解に振り切ることが起きます。御心を「御意」とも書けます。「御意(ぎょい)」と言えば、絶対服従、問答無用、有無を言わせない響きがあります。「結局、神には逆らえない、自分の心に蓋をしてでも「御意(ぎょい)」と言うしかない」…そんな誤解もあるでしょう。
 しかし、この祈りの直前でイエスは、神を
「天におられるあなたがたの父」
として繰り返して示しています。私たちの隠れた思いや行いも見ている神、私たちが求める前から私たちに必要なものを知っていて下さるお方、何よりも「天にいますあなたがたの父」となってくださった神をイエスは引き合わせてくださいました。私たちの心に無関心で、私たちが何を必要としているのかも関知しない神ではありません。私たちが従わなければ怒って見捨てるような神ではなく、私たちをわが子として愛し、ご配慮下さり、決して見放さない神。その神に向かって、「天にいます私たちの父よ」と呼びかけて始まる「主の祈り」です。そこで私たちは、心からの信頼を込めて、「御心が行われますように。私たちの願いや考えよりも優って大きな、あなたの御心が行われますように」と祈るのです。諦めではなく、安心してお任せできるのです。
 御心が天で行われるとはどういうことでしょうか。天をよくある「天国」と考えて、悪も問題も全くない世界を思い描き、この地上、私たちの今の生活も問題や煩わしさが全くなくなり、平穏無事に生きる事が出来ますように…そういう考えることもあるでしょう。改めて、そうだろうかと思いながら、聖書を読んでいきますと、マタイの18章にこんな言葉が出て来ます。
10あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
…14このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。[3]
 この「小さい者」とは直接には一人の子どもです。引いては私たちが「小さい者」「つまらない人」と思ってしまうすべての人です。イエスは、その小さい一人が滅びることは天におられる父の御心ではない、と言われます。ルカの福音書では、
「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです」
と言い換えています[4]。天で行われている御心とは、一人を喜ぶ喜びです。地では、人が人を小さいと見縊(くび)ったり、神から離れた生き方で滅んでいき、それを見る世間は「自業自得だ」と突き放したりする。そんな冷たい地の中で、一人が神に立ち返る。それを大喜びして、そのために一人が滅びから救われるために、天の御使いは労を惜しまないでいる。九九人の正しい人より一人の罪人が神の元に帰って来て大喜びするよう、御使いたちはたゆまず働いている。それがここで言われている御心です。神のあわれみ、深い愛、本当に尊い恵みで、一人の命が神のかけがえのない命として回復される働きです[5]。私たちの生き方や心の底がその神の御心と同じように、誰一人軽んじたり嘲ったりしないようになることです[6]。「あなたの御心がなりますように」とは、決して私たちの願いや気持ちは二の次で、神のご計画通りなる、ということではありません。この山上の説教の最後に、もう一度「御心」という言葉が7章に出て来ます。
21わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。[7]
 こう言われた後、イエスは、多くの人が、主の御名によって神の言葉を語り伝え、悪霊を追い出し、奇蹟まで行ったとしても、それが父の御心ではないと語ります。父の御心は、私たちが神のために何かをする、ということではありません。天の父は子である私たちが、神の憐れみを知って、私たちの心も神の深い憐れみによって変わることです。私たちが神の深い愛に信頼して、私たちの生き方、心の深い思いが新しくされる。それが、他の人を蔑んだり憎んだり裁く見方から、自分と同じ一人の人と見る見方に変えていく。それ自体が神の御心です。ですからこの願いは、私たち自身が、この地で天の御使いのように神の憐れみを知って、そのように生きるようにしてください、という祈りでもあります。私たちを差し出す祈りです。
 地上では人の力や知恵で物事が動いたり、偶然で不幸が降りかかったりします。私たちも神を信じながらも、「所詮、人生はこんなものだ」と諦めているかもしれません。主イエスは、私たちをそのように諦めさせません。天は遠くて、地は仕方がない、これも神の御心だ、などとは言わせません。「この地で天でのように御心がなりますように」と祈りなさい、と仰る。イエスは、目の前の出来事、病気や行き止まりや挫折が「神の御心だ」と言う態度とは反対に、「御心が天でのように地で行われますように」と祈り続ける姿勢を教えられます。
 確かに、神は、願う所のすべてを行われ、神の御心だけが成る、と聖書は言います。私たちが祈ろうと拒もうと、神は御心を果たされる、とも聖書は言います。しかし、それは、いま地で起きている事が一つ一つ、神のご計画通りで仕方がない、という運命だというようなものではありません。決して思考停止して、諦めて、心に蓋をして「御心だ」と受け止めるのでなく、もっと正直に、信頼を込めて「御心を天でのように行ってください」と祈るのです。
 「神の御心」が分からない出来事があります。なぜ神がそれを許されたかは私たちには分からない。その、御心が分からない体験を通して、他の人の痛みや悲しみに思いを馳せることが出来るようになります。痛みの中にある人に、安易に「御心は」とか神を語ったりせず、ともに深く共感できるようになっていくでしょう。それこそが、憐れみ深い神の御心――イエス・キリストを通して示された、私たちに対する天の父の御心に近いのです[8]。その御心を祈り求めていきたいのです。
 主イエスご自身が、十字架にかかる前、逮捕される直前に、ゲッセマネの園で祈りました。
26:39「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。…わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」[9]
 イエスご自身、十字架の厳しさにたじろぎつつ、大きな御心に自分を献げました。そのイエスが私たちにも、自分の見える所より遥かに大きく深い御心を信頼して生きるため、「御心が天で行われるように地でも行われますように」と祈りなさいと言われます。何よりも御心が行われますように。そう祈り、イエスにおいて為された父の深い愛の御心を仰げる事は本当に幸いです。この祈りがあるから、私たちは天の父の最善に信頼して手を開くことが出来ます。この地に御心がなされるため、私たちの祈りも、思いも、手も捧げていきたいのです[10]。

「すべてを御心のままになされる父よ。本当に沢山の痛みがあり、言葉を失います。それでも諦めず、御心がなされますようにと、私たちの願いも、存在もあなたにお捧げします。あなたの憐れみを求め、私たち自身の狭く冷たい心も変えられることを求めます。どうぞこの地に、あなたの尊く深い、慰めの御業を今日も推し進め、小さな私たちもそのために用いてください」

[1] 第三の願い、といっても前の「御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように」と別々ではありません。「御名が聖なるものとされる」のは「御国」であり、「御国」とは「御心が行われる」場です。
[2] Ⅰヨハネ5章14節「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。15私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。」
[3] マタイ18章10~14節の全文「あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。(11異本のみ)12あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。13まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。14このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。」
[4] ルカの福音書15章7節。同4~7節の全文は「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。5見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、6家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。7あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」
[5] それは、既にこの山上の説教で語られてきたことです。敵を赦し、迫害する者のために祈り、壊れた関係を修復していく御心です。言わば、御心が天で行われるように、地でも行われるとは「山上の説教や、主イエスの教え、聖書の言葉が、この地上で、今この世界で現実となりますように」という事に他ならないでしょう。
[6] マタイにおける「みこころ」(セレーマ)は他に、7:21「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」、12:50「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」、18:14、21:31「二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」彼らは言った。「兄です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。」、26:42「イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。」
[7] マタイ7章21~23節「21わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。22その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』23しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」
[8] 御心は行われるべきものである。何よりも、私たちが御心を行うことである。私たちには、何が御心なのか、神が今これを許している・あれをしないでいる理由は分からないが、私たちには自分に出来る事があるならば、それをなす。「祈るしか出来ない」と簡単に言わず、声をかける、人に伝える、出来ることは何かあるかもしれない。私たちが、王様のように座り込まず、しもべとして淡々と出来ることをしていくよう変わることは、私たちに対する御心。
[9] マタイ26章37~46節「そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。38そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」39それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」40それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。41誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」42イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。43イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。44イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。45それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。46立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」
[10] ヨブ記23章13節「しかし、みこころは一つである。だれがその御思いを翻せるだろうか。神はご自分が欲するところを行われる。」、詩篇33篇11節「主のはかられることは とこしえに立ち みこころの計画は 代々に続く。」、135篇6節「主は望むところをことごとく行われる。 天と地で 海とすべての深淵で。」、イザヤ書53章10節「しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」、ダニエル書4章35節「地に住むものはみな、無きものと見なされる。この方は、天の軍勢にも、地に住むものにも、みこころのままに報いる。御手を差し押さえて、「あなたは何をされるのか」と言う者もいない。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/2/2 ローマ3:19~24「神の律法はプレゼント」ニュー・シティ・カテキズム15

2020-02-02 16:39:04 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/2/2 ローマ3:19~24「神の律法はプレゼント」ニュー・シティ・カテキズム15

 今日の説教題「神の律法はプレゼント」。神は人間に、大事な律法(戒め、命令)を与えてくださいました。その律法の中心は、
「神を愛し、隣人を自分自身のように愛する」
ことです。私たちが神を愛すること。そして、隣人を愛すること。神は愛のお方ですから、人間を創られたのも、愛するためでした。私たちは神を愛し、隣人を自分のように愛するために創られたのです。嬉しいことです。律法は、その神の愛を私たちに命じます。しかし、神を愛し、隣人を愛する事はとても難しいことです。いいえむしろ、律法を守ることが出来る人はいない。一番肝心の、神との関係を人間が壊した時以来、人は神の律法を守ることは出来なくなって、律法という言葉自体嬉しくありません。では、どうして神は私たちに律法を下さっているのでしょうか。誰も律法を守れないのであれば、律法を与える必要なんてないではありませんか、というのが今日のお話です。
第十五問 誰も神の律法を守れないのであれば、律法の目的は何ですか?
答 律法の目的は、私たちが神の聖なる御性質とみこころを知り、私たちの心の罪深さの本質と不服従を知り、それによって、私たちには、救い主が必要であるということを知ることです。また律法は、私たちが救い主の御前にふさわしい人生を生きることを教え、勧めます。
 ここには、律法の目的が4つあげられています。つまり、神が私たちに律法を下さったのには4つの目的がある、ということです。
 第一は、私たちが神の聖なる御性質と御心を知ること。
 第二は、私たちの心の罪深さの本質と不服従を知ること。
第三は、私たちには救い主が必要であるということを知ること。
第四に、私たちが救い主の御前にふさわしい人生を生きる事を教え、勧めること。
 この四つです。
 第一の「神の聖なる御性質と御心を知ること」は、神が聖なる愛の方だと言うことは、律法で分かる、ということです。人間が律法を守れないから、と言って、律法もハードルを下げて、「他の神は二人までOK。嫌な人は殺しても良い。姦淫も盗みも嘘も少しなら許す」としたらどうでしょう? 私たちはきっと、神のことを小さく引き下げて考えないでしょうか。神は聖なるお方です。そして、私たちの心の奥底にまで、一切の妥協をせずに、聖なる生き方を求めるお方です。私たちは、律法を通して、神が聖なるお方であり、神の願いやお考え、ご計画が完全に聖いことを知るのです。それが律法の第一の目的です。
 次の第2以下は、先のローマ人への手紙3章の言葉を引きながら見ていきましょう。
ローマ3:19私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。20なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。
 ここには、律法が私たちの心に罪の意識を生じさせるとあります。律法を通じて、自分の罪を知り、神が求めている高い律法の前に、自分の罪が分かるのです。律法がなければ、私たちはいい加減に思うでしょう。けれども神の律法を通して、私たちは自分が紛れもない罪人だと分かります。「人と比べて」とか「みんなもやっている」とか言い訳は出来ないし、自分の考えの間違いに気づかされます。律法は、私たちに罪の意識を生じさせてくれるのです。それも律法の大事な目的です。しかしそれでは終わりません。
 第3に、律法は私たちに救い主が必要であることを教えてくれます。罪の断罪では終わらず、その罪からの救い主がいてくださる! これも律法の目的の一つです。
3:21しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。22すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。
 律法とは関わりなく、つまり「律法を守ったかどうかに関係なく」、律法と預言者たちの書、つまり旧約聖書は神の義を証ししています。「人間が正しく生きよ」という要求ではなく、「イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義」が神の律法の証しなのです。人の罪から救う救い主がおられる。十戒を与えた神は、人を奴隷状態から救い出してくださった方。私たちを罪からも救い出してくださるお方。神の言葉は、救い主を証ししています。そのことを教え、私たちを救い主へと向かわせてくれるのが律法です。
 最後に律法はその救い主の御前にふさわしい人生を生きることを教え、勧めてくれます。律法が示すのは、救われた者としての生き方が、どのような歩みか、どのように生きる事が私たちの道なのかを丁寧に教えてくれます。
3:31 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。
 救い主イエスを信じたら、もう律法は要らない、のではありません。むしろ、私たちが律法を守れないことを認めて、救い主イエスを信じる時、初めて律法の道に踏み出すのです。律法は、神との関係が壊れたままでは、守りようがありません。救い主イエスによって神の子どもとされる時、イエスは私たちの心に律法を教えてくれます。律法が示す神を愛し隣人を愛する生き方を、私たちに教え、励ましてくださるのです。
 多くの物語で光は大事な役割を果たします。光が照る時、真実の象徴です。闇の中の悪の正体を暴き、戦いが始まり、希望が出て来ます。弱さや辛い事実を見ることもありますが、光によって人が変わるのです。聖書の書かれたギリシャ語で、光をフォースと言います。フォースとは力であり光のこと。そして人は光の物語に憧れています。
 律法は光です。私たちに罪を示します。自分の罪を示されるのは痛いけれども、そこから闇と決別して、勝利が始まるのです。そして、そこに私を救う方、救い主であるイエスが見えます。そして律法に照らされて、立ち上がって、進むべき道に歩み出すことが出来ます。それはフォース、光であり、神からの素晴らしいプレゼントです。神が私たちを照らすために下さった光の言葉、聖書を毎日読んで、光の力を頂きましょう。

「すべての良いものを与えてくださる神よ、あなたの律法は正義を現します。確かに律法は自分自身の罪を責めます。しかし、律法によって私たちはあなたの聖さと偉大さを知り、ひとり子イエスの完全な従順を知ることができました。私たちは完全には程遠い者です。どうか、あなたの律法にいつも感謝と賛美を捧げ、私たちに救い主が与えられていることを喜ぶことが出来ますように。アーメン」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/2/2 マタイ伝6章9~10節「御国が来ますように」

2020-02-02 16:33:14 | マタイの福音書講解
2020/2/2 マタイ伝6章9~10節「御国が来ますように」

 「御国が来ますように」。
 文語訳では
「御国を来たらせたまえ」。
 最初の「御名をあがめさせたまえ」を「私たちに御名を崇めさせたまえ」と誤解されかねないように、「御国を来たらせ給え」もひょっとすると「私たちに御国をもたらさせてください」だと思われているかもしれません[1]。これは神ご自身が御国を来たらせるの願いです。そして「御国に行けますように」でなく
「御国が来ますように」
だと驚かされることも、とても大切な気づきです。[2]
 賛美歌や聖歌でも「御国」といえば、死後に行く場所、所謂(いわゆる)「天国」という意味で歌われることが少なくありません。勿論、私たちは死の後に、主が私たちの魂を迎えてくださり、安らかに憩わせてくださることを期待して良いのです。しかし、それがゴールではありません。最後には、神が王として世界に来られる。やがて、この世界が本来の神の国に変えられて、永遠の御国が始まる。死後の魂の安らぐ場所はそれまでの「仮の場所」に過ぎません。だからここで祈るのも「御国に行けますように」ではなく
「御国が来ますように」
 私たちが生きている今この場所、この世界に神が来て下さって、王として治めてくださる。そのことを願うのです。
 このマタイの福音書は、特に
「神の国」
の事が繰り返して語られる福音書です。神の国を指す言葉が50回以上出て来ます[3]。他の福音書と比べて断トツです[4]。何より2章のクリスマスの記事で、東方の博士たちが言ったのが
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」
でした[5]。イエスの宣教の開始も
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
という言葉で、イエスが伝えたのも「御国の福音」と言われています[6]。この5章から7章の「山上の説教」の最初も「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」という語り出しでした。イエスは王として来られ、イエスが王である国を造ろうとしています。
 この「御国」という言葉も、場所としての「国」というよりも、支配そのものの事です。王という言葉から派生した言葉で、直訳すれば「あなたの王国」というのが正確です。イエスが王となる。そして、マタイの2章で「ユダヤ人の王」という言葉が投げかけられた、当時のユダヤの支配者ヘロデ王やその都の住民たちが激しく動揺したように、「御国が来る」という知らせは、この世界の支配者や体制にとっては、脅威でしかありません。自分たちが支配者だと思っている人にとって神が王として来られるのは甚(はなは)だ不都合なことです。そして、マタイにはそのような不都合さを感じた人びとが、ヘロデの他にも沢山いて、最後はイエスを十字架にかけてしまう。それがこの「王なるイエス」をテーマとするマタイのストーリーなのです[7]。
 私たち自身、「御国が来ますように」と祈る時、自分が王となろうとしていたことに気づかされるのではないでしょうか。「御国が来ますように」とは、神ではないものの支配から、神に支配権をお返しする祈りです。神の支配は世界全体に及ぶことでもありますが、まず私自身が、自分の握りしめている手を開いて、王であることを止めて、神の支配に委ねることを、繰り返し繰り返して決意する祈りです。神が王であるのに、神ではない者、誰かや自分を王や神にしていること-これが「罪」です。私たちは、自分が物事を支配していたい、自分の人生や自分の職場、家庭、周囲をコントロールしたい。神を信じるのも、神から力を頂いて人生を思うように乗り切りたい、という願いと紙一重であることが正直な現実です。イエスの弟子の母は
「御国で自分の息子たちがイエスの右と左に座れるようにしてください」
と願いました[8]。それは遠回しな支配欲や名声欲です。私たちは「あなたの御国が来ますように」と祈る時、自分は王ではない、物事を握りしめ、自分の思うままにしたい、という願いを完全に手放して、「私は王ではありません。あなたが王です。あなたが王として来て下さい」と祈るのです。
 しかし「神の王国」というと違う宗教を思い起こしかねません。王国、支配、王、どの言葉にもどっぷり手垢がついています。日本語でも本来、「支配」は「支え配慮する」ものなのに、経験的に支配には力尽くや権力というイメージが染みついています。神の支配も、圧倒的な力で治める。すべての悪や人間の罪を、有無を言わさずお裁きになる、恐ろしい支配を、教会の中でさえ教えていることが少なからずあるのです。しかし、マタイの福音書でイエスが語る「神の国の福音」は常に驚きです。聴く人にとって、価値を引っ繰り返す言葉です。先の弟子の母親が、息子たちをイエスの左右の地位を求めた後、イエスがこのように教えました。
マタイ20:25「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。26あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。27あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」[9]
 イエスは仕えられる王ではなく仕えるために、自分のいのちを与えるために来た王でした。そしてそれはこの世界に来た二千年前だけの特例ではなく、「仕える」こそが「神の御国」の原理でした。やがて神の国が現れて、力尽くで世界を治め、悪を一掃する…なんて宇宙人の侵略と変わらないような話ではなく[10]、イエスが来て、人に仕えてくださり、恵みの国をもたらしてくださることを願うのです。
 この世界の悪や正義の殺伐とした争いに疲れ切っている心を、イエスが癒やしてくださる。人を心の奥底から新しくしてくださる。
 神の御国は、心の貧しい者に与えられます。人の支配で抑圧され、裁かれている人に希望と回復をもたらします。
 人に赦しと和解を与えます。
 今ここでの自分の生活が、幸せに守られることを願う生き方から、今この世界では悲しみや暴力、競争や見せかけ、後悔や恐れが尽きない現実を受け止めます。
 失うことを恐れる生き方から、すべてを失っても神が私たち一人一人を愛されている事実を喜び、私たちも互いに分かち合い、祝い合う生き方に変えられて行く。
 そうなるのが、神の御国です。

 私たちは、今ここに神が御国を来たらせ、神が本当の王であることを、既に始めてくださるようにと期待して祈るのです。私たちが祈るから来る、祈らなければ来ない、ではありません。御国はもうイエスによってきて、始まっているのです。やがて、神の国は完成するのです。人が考える支配や楽園とは全く違う、その人の考えそのものが神の恵みによって新しくされ、喜んで仕え合う御国が、必ず来るのです。聖書の最後にある言葉も、こうです。
黙示録24:20これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。21主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。
 主イエスが来る。「すぐに」が「まだまだ」に見えますが、それでもイエスが来て、全てを治める、という告白は聖書を貫く大事な告白です。私たちはお互いにも自分にも「御国が来ますように」と祈るよう励ましていく必要があります。今ここでの生活が永遠に続いたり、幸せに守られるような夢をこの世界の支配者は教えます。
 戦前の日本は「神国日本」を標榜して、日本の教会や指導者も「神の国」と日本をごちゃ混ぜにして、戦争の勝利を祈った。そんな時代がありましたし、教会の歴史ではそういう誤解が多くありました。だからこそ、私たちは「御国が来ますように」との祈りを教えられることが必要です。
 世界のどの国も神の国ではなく、永遠には続かないことを。
 そして、神の国は上からの支配ではなく、イエスの謙りの愛による支配であることを。
そして、今私たちがその支配に与って、変えられる。仕切ろうとか冷たい思いを手放して、主の良き支配を信じて、愛と喜びをもって生きるよう変えられ始めることだと教えられることが必要です。
 だから「あなたの御国が来ますように」と祈るのです。
「王なる主よ。あなたの御国が来ますように。それを妨げるものが私たちの中にあるとしても、どうぞ主よ、恵みの光によってその抵抗を溶かし、御国の平和に与らせて、愛と赦しと喜びを与えてください。今、そのしるしである聖餐に与ります。王である主がご自身の命をもって招いてくださったこの食卓を共に囲みます。どうぞ恵みによって私たちを養い、恵みの業を行う器とならせてください。私たちの歩みがあなたの御国の訪れを知らせるものとなりますように」

[1] 以前にもお話しした笑い話ですが、私が小さい頃、私の父や信徒さんが献金の祈りなどで「御国建設のためにお用い下さい」とよく祈っていました。私はてっきり「御国建設」というクリスチャンの建設会社があるのだと思い込んでいて、いつ頃かそれが、特定の会社のことではなく、全教会がともに取り組む「神の国」の建設の使命だと気づいて自嘲したものです。
[2] 「問 第二の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。 答 第二の祈願、すなわち「御国が来ますように」で私たちは、[第一に]サタンの王国が滅ぼされるように、そして[第二に]恵みの王国が前進させられ、私たち自身と他の人々がその中に入れられ、その中で守られるように、また[第三に]栄光の王国が早く来るように、と祈ります。」(ウェストミンスター小教理問答102)、「問123 第二の願いは何ですか。 答 「御国が来ますように」です。すなわち、あなたがすべてのすべてとなられる御国の完成に至るまで、わたしたちがいよいよあなたにお従いできるようにあなたの御言葉と聖霊とによって私たちを治めてください、あなたの教会を保ち進展させてください、あなたに逆らい立つ悪魔の業やあらゆる力、あなたの聖なる御言葉に反して考え出されるすべての悪しき企てを滅ぼしてください、ということです。」(ハイデルベルグ信仰問答123)
[3] マタイで54回。3:2「「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。」、4:8「悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、」、17「この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。」、23「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。」、5:3「「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」、10「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」、19「ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。」、20「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」、6:10「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」、33「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」、7:21「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」、8:11「あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。12しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」、9:35「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。」、10:7「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。」、11:11「まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。12バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」、12:25「イエスは彼らの思いを知って言われた。「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。26もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか。」、28「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」、13:11「イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。」、19「だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。」、24「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。」、31「イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。」、33「イエスはまた、別のたとえを彼らに話された。「天の御国はパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの小麦粉の中に混ぜると、全体がふくらみます。」、38「畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。」、41「人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、」、43「そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」、44「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」、45「天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。」、47「また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。」、52「そこでイエスは言われた。「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」、16:19「わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」、28「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」、18:1「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」、3「こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。4ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」、23「ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。」、19:12「母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」、14「しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」、23「そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。24もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」、20:1「天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。」、21「イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」、31「二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」彼らは言った。「兄です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。」、43「ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。」、22:2「「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。」、23:13「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。」、24:7「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。」、14「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。」、25:1「そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。」、(25:14の「天の御国」は意訳)34「それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。」、26:29「わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」その他、代名詞で引用されて、神の国の譬えが語られる箇所も多数。
[4] 「国」という言葉だけで比べると、マタイが54回に対して、マルコ18回、ルカ44回、ヨハネ3回。
[5] マタイ2:2。
[6] マタイ4:17、23。
[7] マタイ12:1~14、21:33~44、26章。
[8] マタイ20:20~23。「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。21イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」22 イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。23イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」」自分がイエスを差し置いて王になろう、とは願いません。王座はイエスのものだと認め、イエスにひれ伏して、自分の息子たちには慎ましくも左右の座を求めただけ、に思えます。しかし、それは遠回しな、権力欲でした。
[9] マタイ20:24~28「ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。25そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。26あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。27あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」
[10] 実際、アメリカのディスペンセーション主義と呼ばれる、携挙・再臨・千年王国を強調するロードマップは、UFOや宇宙人とのコンタクトを求めるメンタリティとの親和性があるのではないかと考えます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする