聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答105~106 Ⅰヨハネ1章3~4節「あふれて生きる」

2019-05-19 20:42:31 | はじめての教理問答

2019/5/19 Ⅰヨハネ1章3~4節「あふれて生きる」はじめての教理問答105~106

 

 今日で、「はじめての教理問答」の十戒についての告白は最後になります。殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽りの証言をしてはならない、と続いてきた十戒の結びは、「あなたの隣人の家を欲しがってはならない」です。

問105 第十の戒めはどういうものですか?

答 第十の戒めは、「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」です(出エジプト20:17)。

問106 第十の戒めは、あなたになにを教えていますか?

答 神がわたしに与えることをよしとしたもので、満足することを教えています。

 神が最後に与えられたのは

「隣人の家をほしがってはならない」

です。建物のことだけでなく、隣の家の家族、持ち物全部。

「男奴隷、女奴隷、牛、ろば」

は、今で言うなら、家具や車、年収、暮らしぶり。どんなことでも、他人のものを見て、自分のものにしたい、自分にはあれがないなんて不幸だ、不公平だ、と考える心を、十戒は退けます。

 「隣人の家をほしがる」は、周りの人の持ち物や暮らしを、自分のものにしたいと強く願うことです。何でも「欲しがる」ことそのものが良くないのではありません。何も欲しがることなく、無欲で、不平や熱情もなく、夢も希望も持たない人になれ、というのではありません。むしろ、この「欲しがる」は良い意味で使われる場合もあります。

創世記二9神である主は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。

箴言二一20知恵のある者の住まいには、好ましい財宝と油がある。しかし、愚かな人はこれを吞み尽くす。

 神は、この世界を好ましいもので満たしておられます。世界には、欲しがらなければもったいないほどの素晴らしいものが満ちています。神に「何がほしいか?」と聞かれても「いいえ、私は何も要りません」なんて言ったほうがいいなんてことはありません。神は私たちに良い物を願って欲しいのです。知恵がある人は、神からその好ましい財宝をいただいて、十分に味わい、生かしています。質素で、何も欲しがらないのが良いどころではなく、神は私たちに強い情熱、熱心を求めます。何が欲しいのかを聞かれます。でもその時に「私の隣の人の家が欲しい。同じ車が欲しい。あの人の食べているようなのが食べたい」と願うとしたら、勿体ないでしょう?

 他人のものを欲しがる事を、十戒は窘めています。言葉や行動に出さなくても、心の中で欲しがる。その事を、十戒は言っています。ここには、神が求めている私たちへの要求の高さが最高に示されています。神を礼拝するとか、真面目に生きるとか、そんなことを神は喜ぶと思い込んでいることが多いのですが、十戒は、私たちの心の奥にある、毎日の妬みとか人のものを欲しがる思いに光を当てるのです。パウロは言います。

ローマ七7…律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。

 律法が第十戒の「隣人のものを欲してはならない」と言ってくれたことで、私は自分の中にある欲望に気づいた。十戒がなければ、自分には罪はないと思えたのに、十戒のおかげで、隣人のものを欲しがる自分に気づき、それをどうしようもない自分の罪に気づいたというのです。そして、そのパウロは、こうも言っています。

コロサイ三5…貪欲は偶像礼拝です。

エペソ五5…貪る者は偶像礼拝者であって…。

 神を信じると言いながら人のものを欲しがる。他人のものを自分のものにしたいと考える。それは、神よりも、隣人のものを神にしてしまっている「偶像礼拝」なのです。そして、決して幸せになることの出来ない、ますます心が渇いてしまう悲しい心です。

Ⅰヨハネ一3私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

 私たちの喜びが満ち溢れるため。なんと美しい言葉でしょう。主が私たちに下さるのは喜びに満ち溢れる歩みです。神が下さる交わりや御言葉を受け取っていく時、私たちの喜びが満ち溢れる。神様が福音を通して、そして、交わりを通して与えてくださるのは喜びに満ち溢れた歩みです。満ち溢れた心は、人のものを見ても、欲しがる必要がありません。交わりを持った時、当然、そこにいる人は誰も同じではありません。自分より素敵な家に住んでいる人、自分の家族にはないものを楽しんでいる人がいるでしょう。みんな違います。そこで比べたり妬んだり、欲しくなったりする心を十戒は否定しています。でもそれを否定するだけではなく、もっと積極的な、喜びに満ち溢れる交わりがゴールにあるのです。誰も、人のものを妬まず、欲しがらず、自分の物は自分の物、人の物は人の物、と弁えて、違うお互いを喜び合い、楽しみ合う。そういうゴールに向かっていると思えば、今ここでも、私たちは人のものを見て、欲しくなる気持ちがわき上がっても、それに振り回されたりせず、楽に生きられるようになります。

 何度かお話ししたように、元々の十戒の言葉遣いは

「してはならない」

という命令でなく、もう言い切って「しない」と断言しているのです。ここでも

「隣人の家をほしがらない」

です。天地の神が私たちの神となってくださったことで、人は人のものを欲しがらず、自分の生活を喜び、本当に必要なものや欲しい物で生活を豊かにするようになります。本当に幸せな恋人は、幸せな他者を見てもうらやましく思う事はないでしょう。何よりも、かけがえのない相手がいて、自分を喜んでくれるから、満たされているのです。イエス・キリストが下さるのは、それ以上に満たされた関係です。私たちを愛し、私たちに特別な人生を用意し、私たちの罪や弱さも全部受け止め、私たちを喜んでくださる主との歩みです。そして、隣人や友人やどんな人との出会っても、その人もまた、主に愛され、違う満たされ方、特別な愛され方をしている同志だと知る時に、私たちの交わりも、妬みや羨む必要のない、喜びを満ち溢れさせてくれる交わりになるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創世記22章1~14節「主の山には備えがある 聖書の全体像15」

2019-05-19 20:38:26 | 聖書の物語の全体像

2019/5/19 創世記22章1~14節「主の山には備えがある 聖書の全体像15」

 聖書が書き綴るのは、神が

「ともにいる神」

であり、創造されたこの世界に、神が何を願い、どう関わり、どう導くかを現した「神の物語」です。その最初に、神の民を生み出していくために選ばれたのがアブラハムでした。アブラハムを語る上で、今日の22章の出来事はクライマックスだと言えます。百歳になって、神がようやく授けてくださったひとり子を、その神が

「全焼のささげ物として献げなさい」

と命じられるのです。とても理不尽な命令です。神が授けてくださったイサクです。その子を、同じ神が「生贄として献げなさい」という。それは大きな

「試練」

でした。決して「最後には神が止めてくださるだろう」と期待したのでもありませんし、「アブラハムは神への信仰が深かったからわが子も喜んで捧げたのだ」だとしたら意味がなくなります[1]。アブラハムにとって、悲しみや疑いや嘆きが心中に渦巻いたことでしょう。アブラハムは黙々と翌朝早くに旅支度をして、二人の若者と一緒にイサクを連れて出立します。薪も割って、場所へ向かいます。三日目、その場所が見えると、

それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」…

 「私の息子は、あそこに行き、礼拝をして、二人で戻ってくる」というのです。イサクが、

…「お父さん…火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」

と尋ねた時も、アブラハムは「お前を捧げるのだ」と言わないばかりか、暗示的に答えます。

…「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」…

 こうした言葉やそれ以外のアブラハムの沈黙は、彼の信仰なのか、それとも他に言う事を思いつかず、こう言うしかなかったのか。言葉少なに二人は一緒に進み、9節で到着するのです。

 9神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。

 イサクは薪を背負って山を登ることが出来たのですから、小さな子どもではなく、アブラハムより体力はあったでしょう。アブラハムが不意打ちで縛ったとか、嫌がるイサクを無理に殺そうとしたわけではないはずです。むしろ、父が捧げる羊の生贄を見慣れていたイサクは、献げ物に託して、主に自分を献げするのが信仰だとその姿から見ていた。だからこの時も抵抗せず、だからこそアブラハムはイサクを祭壇の上に載せることが出来たのだろうと思います。

10アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。11そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」12御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」

 主の御使いですが

「わたしは」

というのですから、神ご自身でもありました。主は、イサクを刃物で屠ろうとしたアブラハムを止められました。本当にアブラハムがわが子より主を恐れ、主を大事にしていると分かった所で、主はご自分の命令を撤回します。その時、アブラハムは、

13…目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。

 主は雄羊を備えてくださっていた! アブラハムが主に従ってひとり子をさえ捧げた、という以上に、主がアブラハムに犠牲や従順を求める、という以上に、主がご自身で雄羊を備えてくださっていた。それがこのエピソードの大きなメッセージです。ですから、

14アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。

 アブラハムの信仰より「主の山には備えがある」がこの出来事の記念なのです。それも、7節8節では、主が羊(小羊)を備えてくださる、という暗示的な言葉でしたが、13節で実際に備えられていたのは立派な

「雄羊」

でした[2]。迷子の小羊ではなく、藪に引っかかっているなんてあり得ない雄羊がいました。アブラハムはそこに主の備えを、それも人の予想を上回る善い備えを見たのです。主は、最高のものを備えてくださる。それがこの出来事だったのです。

 アブラハムがイサクを惜しまずに捧げたのにも勝って、主がアブラハムにもイサクにも惜しみない備えを用意しておられた。いいえ、もとよりイサク自身が、主からアブラハムに備えられた贈り物でした。主の祝福と慈しみ、そしてアブラハムの疑いや裏切りへの赦しと憐れみがあったから授かったイサクです。イサクの子孫がやがて天の星のように増え広がると、神は約束されました。イサクを育てる喜び、家族の笑い、愛するわが子との歳月そのものが主の恵みです。主は恵み深いお方なのです。だからその恵みを通して、ますます主を喜び、崇める。そこに伴って祝福や喜びは豊かにありますが、でも、その祝福や喜びがあるから神を愛する、という関係ではなく、本当に神を恐れ礼拝し、神を神として喜び、従う関係が主の目的なのです。

 この後、アブラハムのように「わが子を生贄に」というような命令は決して与えられません。むしろ聖書は、子どもを神々に捧げて願望を叶えようとする習慣を、非常に忌まわしい習慣として厳しく禁じています[3]。イサクもその子のヤコブも、その子を捧げるよう求められることはないのです。ただ、アブラハムとは違う形で、大事な家族を失いながらも「それでもなお、主を信じるか、主を主として礼拝し続けるか」という問いはいつもありました。私たちの生活でも、失ったり選んだり、変化や試練はつきものです。創世記43章でヤコブが言う

「私も、息子を失うときには失うのだ」

のセリフはヤコブの人生の大事な転換点になります。ヨブ記も、財産や家族や健康、妻の愛や友人からの友情を失ってもなお主を恐れるか、神が願う人との損得抜きの契約関係などあり得るのかをテーマとしています。そして、そういう関係を神は必ず私たちとの間に作り、私たちの心を新しくなさる。それが聖書の物語のメッセージです。

 主は私たちに求めただけではありません。主ご自身も民に(私たちに)にご自身のひとり子を捧げてくださったのです[4]。主はご自身の愛するひとり子イエスを私たちのために生贄となさいました。イサクが薪を背負って山を登ったように、イエスは十字架を背負い、カルバリの丘を上りました。縛られて、刃物で屠られました。主は愛するひとり子を与えることで、神がこの世界にご自身を与えて、惜しみない恵みを現すかをハッキリと示してくださいました。そういう確かな関係の中に私たちは入れられています。そして、私たちもその主の恵みの中で新しくされてゆき、御利益とか祝福のためではなく、主を愛し、隣人を自分のように愛する者に変えられて行くのです。神が求めている関係はそういう、自分を捧げる関係なのですから。

 財産も家族も健康も主からの祝福です。すべて善いものは主の贈り物です。でもそれが偶像になって主よりも握りしめやすい。失わないで済むことを主に期待するなら、それは主への信仰や礼拝ではないし、主が求める人とのいのちの関係でもありません。必ずいつかは壊れたり、失われたり、手を離れていきます。我が子を失う経験も起こります。これからの社会でも沢山の喪失を私たちも体験するでしょう。それでも主を愛する、多くを失いながらも神を神として礼拝する。主以外の全てを失い、時には自ら手放さざるを得ない思いをしながら、でもそれを主が備えて一時でも楽しませてくださったと感謝して、主を礼拝するのです。途中で御心が分からなくても、奪われるばかりのように見えても、「主を信じて何になるんだ」と思いたくなっても、主を礼拝し、誠実に歩み、ハッキリしている御言葉に従っていく。そんな山を登る思いで進んで行く人生には、必ず新しい主の備え、惜しみない備えがあると励まされるのです[5]

「すべての贈り主なる神よ。惜しみない御恵みを感謝します。その恵みを偶像にして、主を二の次にし、失う恐れに囚われてしまうとしても、あなただけが私たちの神です。あなたの備えの素晴らしさを期待して、旅路を続けさせてください。失う悲しみもご存じである主イエスが、どうぞ一人一人を支え、決して失われないあなたとともに歩む幸いに心を向けさせてください」



[1] ヘブル書11章17節以下には「信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。18神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、19彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。」とありますが、ヘブル書11章全体のいくぶん「美化」したとも言える表現であることを心に留めて読まれるべきでしょう。

[2] 7、8節の「羊 שֶׂה」は若い羊、小羊、など羊一般。13節の「雄羊 אַיִל」は、強い羊に特定する言葉です。21章28節などの「子羊 כִּבְשָׂה」は一歳未満の羊です。ちなみに、「雄羊」は生贄とされるときも、大祭司の任職や、年に一度の「贖いの日」の献げ物だけで、特別な儀式用でした。

[3] エレミヤ19:6、レビ18:21、20:1-5、申命記18:10、ミカ6:6-7

[4] ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

[5] 「主の山に備えがある」の「備えがある」は、欄外のように「見る」という言葉です。ですから、いくつもの訳・意味が提案されています。その可能性の一つは「山では主を見る」です。「備え」とは「主ご自身」との出会いである、ということです。これもまた味わい深い提案です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする