聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカ二四13~35節「心はうちに燃えていた」

2016-01-31 16:09:04 | ルカ

2016/01/31 ルカ二四13~35節「心はうちに燃えていた」

 

 聖書の中でも最も美しい物語の一つと言われるのが、今日の「エマオ途上」の物語です。主が十字架の死から三日目に復活された時、まだその知らせを信じられない二人の弟子の所に、イエスが近づかれて話しかけられました[1]。復活を信じられないまま、仲間の弟子たちから離れて行く二人にご自分から近づいて、語り掛けてくださいました。ここには、よみがえられたキリストが、本当に生きておられて、実際に弟子たちに近づき、出会って、その心を捕らえて下さることが証しされています。この二人の弟子たちだけではありません。今に至るまで、イエスは私たちに近づいてくださり、私たちが気づかなくとも語り掛けておられます。そして、御言葉を説き聞かせて主の御業を教えてくださり、心燃やされるような思いを下さり、また主の聖晩餐において、パンを裂いて渡してくださっています。そうやって、私たち一人一人の歩みにおいて、働いてくださっている。復活されたイエスが、私たちを引き戻して下さる方であることが、美しく証しされているのが、今日のエマオ途上の記事だと言えます。

 しかし、です。確かにこれは、大変美しく、ドラマチックな事実として読むことが出来ます。でも実際、私たちがこの弟子たちの立場だったらどうでしょうか。「イエス様と会ったのに最後まで気づかないだなんて恥ずかしい。[2]」「もっと早く目を開いて下されば良かったのに。」「分かった途端に消えてしまうのではなくて、もう少し一緒にいてくださったら良かったではないか。」私だったら、そんなふうに思いたくもなったと思うのです。特に、十代や二十代の頃だったら、そう考えていました。クリスチャンホームに育った者の贅沢と思うでしょうが、教会でよく聞く「救いの証し」は大抵、ドラマチックで、イエス様の十字架の愛を知って劇的に変わったという話です。また、祈りが奇跡的に叶えられたり、病気が癒やされたり、神様の臨在を強く感じたり、という話もよく聞くものです。そうすると、自分の現実との違いが気になります。小さい頃から教会に来て、福音についても一通りのことは聞いているけれど、今更感動の涙も出て来ない。ドラマのような奇蹟や、聖霊に満たされて心が燃やされる熱烈な感情もない。だったらむしろ、クリスチャンホームじゃなくて、聖書について全然知らない家で育って、大きくなってから初めて福音を聞いた方が、もっと新鮮に感動して、劇的な変化が出来て良かったんじゃないか、などと思ってしまう。そういう気持ちが私にもありました。

 そういう考えからすると、今日のエマオ途上の弟子たちの体験は、実に地味です。最後のギリギリまでイエス様だと分からず、分かった途端に呆気なく素っ気なく消えてしまう。

「心はうちに燃えていた」

とは言いますが、よく読めば、いかにも「思い出してみれば、心は燃えていたなぁ」という後付けで、感情的な高揚とか感激とは違ったようです[3]。そして、急いで帰って、弟子たちに話して驚かそうと思ったら、もう、

34「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。[4]

 なんだ、自分たちが最初にイエスにあったわけでもなかったのか、と思ったかもしれません。

 しかし、このシモン・ペテロによみがえった主イエスが現れてくださった事実は、具体的にどんな出会いだったのか、どこにも伝えられていないのですね[5]。それこそとてもドラマチックな出会いだったでしょう。ペテロはどんな言葉をかけられ、なんと答えたのでしょうか。しかしそれは秘められたままです。ペテロと主イエスの間のこととして、そっとしています。

 イエスの十字架も復活も、大変大きな奇蹟でありドラマです。そのイエスが、私たちに出会うことも一つ一つがかけがえのないドラマです。けれどそれは、私たちが期待しがちなドラマや感動体験とは違って、もっと一人一人の心の深い所でヒッソリと行われる出会いです。イエスは、私たちをただ驚かせたり奇蹟を現したりして気分を高揚させるような、そんな扱いは望まれません。感動したければそういう映画やドラマはあるし、興奮したければスポーツ観戦やコンサートにでもいけばいいのです。しかし、そういう高揚感は、いつまでも続きません。信仰を感動やドラマに求めるなら、次々に新しいエクスタシーを求めながら、心の奥にはいつまでも深い渇きがあることになります。そんなものがイエスを信じる生活ではありません。ここでイエスは、ご自身が殺されて項垂れている弟子たちにさえ、仰いました。

25…「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。

26キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」

27それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

 苦しみとか死とか、一見勝利や祝福とは反対の所に、神は栄光を現される。それが、聖書全体の中で書かれている主の栄光だと教えられました。直接にイエスについての預言と言うよりも、聖書に証しされている神である主のお姿が、民とともに苦しみ、痛みを負い、悲しまれる、深い慈悲の神なのですね[6]。全能の力で、人にその場凌ぎの問題解決を与えるのではなく、イエスはもっと深い所で、私たちに出会われます。だから、彼らにすぐに正体を明かされたりせず、まず聖書の神の栄光について道々説き明かされたのです。そして、その御言葉の説き明かしが、二人の弟子の心を静かに燃やし始めたのです。まだ、彼らの目は暗く、悲しみがあり、イエスが見えませんでした。それでも秘かな熱い思いが灯りました[7]。そして、彼らはまだ先に行きそうなご様子のイエスを、無理に引き留めようとしました。その強い願いもまた、イエスが彼らの心に起こして下さった変化です。御言葉を通して神の深い愛を説明されると、心に深い情熱と、強い願いが与えられます。それは、小さくても、確かな神の御業です。そこにこそ、主が復活されて生きていることを信じて、一見地味な歩みを続けるのが信仰生活なのです。

 イエスは、パンを取って祝福し、裂いて渡されました。その裂かれたパンは、イエスが十字架の上でご自分の肉を裂かれた証しです[8]。聖餐においてパンをわざわざ裂くのは、神が私たちのために苦しみ、心を引き裂かれ、私たちにご自分を与えてくださったからです。イエスを目の前に見ていてさえ分からない鈍く不信仰の私たちに、主が裂かれたパンを差し出されます。私たちに深く、じっくりと丁寧に関わってくださって、ずっとともにおられ、時間をかけて私たちの目を開いてくださいます。今が神さえ死んだような現実に思えても、それでもイエスは確かによみがえり、私たちとともにおられ、私たちの人生を導き、御業をなしておられるのです[9]。御言葉を聞いて、神の愛に燃やされる思いが芽ばえるなら、それを大切にしましょう。自分や周囲の闇に目を奪われるより、その闇の中でこそ、御言葉に聞き、心燃やされて、導かれることが必要なのです[10]。私たちの心も歩みも、よみがえられた主の、見えない御手に確かに導かれています。人の予想を越えた形で、私たちを愛し、苦しみ痛みつつ、導いておられるのです。その主の栄光を誉め称えて、心燃やされつつ淡々と歩ませていただきましょう。

 

「主よ。この静かな物語に、語られないペテロの物語に、私たちもまた、見えないあなたの確かな御手に導かれていること、主の愛と苦しみとを知る歩みにあることを重ねさせてください。御手を裂かれ、心も裂かれた主を知る事で、心を燃やされ、強い願いを持つ者へと変えてください。いいえ、あなたが既にそれを願い、一人一人と共にいてくださいますから、感謝します」



[1] このもう一人の無名の弟子は誰なのでしょうか。ルカ自身ではないか、という節もありますが、クレオパ夫妻(クロパの妻マリヤ。ヨハネ十九25)とも言われます。いずれも推測です。

[2] 「さえぎられて」は受動態です。ただ彼らの不信仰のために見えない、と以上に、あえて見えなくされていた、神の御業でした。「もう少し早く気がついて、イエスだと見るだけの信仰があれば…」という問題ではないし、彼らや私たちが自分を責めるのも筋違いです。私たちは自分の力で気づくことなど出来ないのです。それでも、今すでに、キリストがともにいてくださる、というのが信仰です。

[3] 言わば、聖霊降臨の「舌のような火」にも通じるでしょうか。「燃えさし」も旧約で出て来る大事な言葉。

[4] 33節にはヒューロン(彼らは見つけた)があります。出かけるときは、この二人と同様、全体がもっとバラバラだったのでしょうか。悲しみや事態への戸惑いを受け止めきれないでいたのでしょうか。しかし帰ったら、彼らがまた一つに集まり、イエスの復活を信じていたのを見つけたのです。しかしこれも考えてみれば、女たちの言葉では信じなかったのが、ペテロだと信じたというのだから、失礼な話でもあります。

[5] Ⅰコリント十五5にも事実が記されていますが、出来事を詳しく記している箇所はありません。

[6] ヤハウェの苦しみは、イザヤ書六三8-9「主は仰せられた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」と。こうして、主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」、エレミヤ三一20「エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。-主の御告げ-」、ホセア十一8-9「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。」など。

[7] この「燃える」は、十二35とここのみに出て来る言葉。(使徒の働きにはなし)燃えた結果の明るい光よりも、熱によって温められることに重点が置かれる言葉です。

[8] パンを「裂く」とあるのは二二29の聖餐制定辞とここのみです。そして「使徒の働き」では二46、二〇7、11、二七35と繰り返し、教会が聖餐共同体であったことを書いています。この時の二人は十二弟子ではなく、最後の晩餐の席にはいなかったでしょう。それゆえ、このパン裂きを見て、最後の晩餐の聖餐制定辞を思いだした、とは言えません。しかし、ルカのポイントは、私たちの聖餐において、このエマオでの晩餐を思い出させることです。35節ではハッキリと「パンを裂かれたときにイエスだとわかった」。目が閉じていた自分を、苦しみを通して全うされるイエスを見ることを、今の状況でも必ずキリストが贖いを果たされることを、自分もまた裂かれるパンとなって生きることを思い起こしつつ、聖餐のパンを受け取るのです。

[9] 「「最も悲惨で、最もつらく、最も絶望的な状況が、何にも増して思い焦がれていた解放への道となる」ということでした。」(『ナウエンと読む福音書』、p.148)

[10] 彼らがイスラエルの政治的な解放を待ち望んでいたのは、それだけ彼らの生活がローマによって苦しいものとなっていたからです。このエマオまでの旅路でさえ、ローマの影や暗闇は付きまとっていたでしょう。暗くなったから旅を止めようと考えたのは、「良きサマリヤ人」の喩えにあったように、強盗に襲われかねない、治安の悪さもあったかもしれません。そのような現実的な暗さ、厳しさに心は重く、期待が外れた失望、孤独、喪失を覚えていたのです。しかし、キリストご自身が、その暗さ、絶望、痛み、暴力、犠牲者の思いをとことん味わって知っておられるお方でした。

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