聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答58 ローマ書10章1~15節「悔い改めも信仰も贈り物」

2018-11-25 16:22:42 | はじめての教理問答

2018/11/25 ローマ書10章1~15節「悔い改めも信仰も贈り物」はじめての教理問答58

 今日の夕拝の説教テーマはこれです。

問58 救われるために、なにをしなければなりませんか?

答 罪を悔い改めて、キリストを救い主と信じることです。

 救われるためには、私たちがすることは罪を悔い改めて、キリストを救い主として信じること。悔い改めとキリストへの信仰、この二つをここで言っています。しかし、微妙なことで誤解しやすいことを確認させてください。前回までお話しして来たのは、救いは「恵みの契約」だということでした。私たちが罪を赦されて義と認められ、神の子どもとなることも、神の子として成長していくことも、神からの約束です。神が「恵みの契約」において下さった約束です。それは、私たちが良い子だったら、という条件付きではありません。また、私たちが罪を悔い改めて、キリストを信じたら、その約束がいただける、ということでもありません。まず、神さまの約束があるのです。神の大きな約束によって、私たちは救われるのです。でも、私たちが何もしなくていいのではありません。罪を悔い改めて、キリストを信じる事、このことは私たちに求められ、応答していく二つの大事なことなのです。いわば、「恵みの契約」の約束の中には、私たちが罪を悔い改めて、キリストを信じるようになることも含まれているのです。悔い改めも信仰も、

「恵みの契約」

の中に入っている贈り物、プレゼントなのです。

 今日のローマ人への手紙10章では、パウロがユダヤ人の救いのことを書いています。ユダヤ人は、旧約聖書で神に選ばれた特別な民で、パウロもユダヤ人でした。しかし、パウロ自身かつてはキリストを信じなかったように、パウロは同胞のユダヤ人たちがイエス・キリストを信じようとしない現状を嘆いています。ユダヤ人は神に選ばれて、奴隷生活から救い出されて、律法を与えられました。聖書という神の言葉をたくされました。紆余曲折を経て、とても熱心に神を礼拝して、自分たちを聖く保とうとしていました。しかしパウロがここで言うのは、聖書が与えられたのは、神を待ち望み、キリストに目を向けるためだったのに、ユダヤ人はそのことを誤解している、と言うことです。

律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。しかし、信仰による義はこう言います…。

 聖書の命令は、キリストを目指すものです。でもそれを勘違いして、律法の掟を行うことで神に認められよう、神に受け入れてもらおうとするなら、どうでしょう。その人は信仰によってではなく、掟によって生きることになります。それは、キリストに対する信仰とは違います。人間が自分で正しく生きる事によって救われるのでは無く、救って下さるキリストを信じるのが

「恵みの契約」

です。そうだとしたら、

しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」それはキリストを引き降ろすことです。また、「『だれが深みに下るのか』と言ってはならない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。

 私たちは心の中で「誰が天に上るのか」誰が、神の元に行くのか。誰も天に上ることなど出来ないとか、あの人は立派な信仰だから神に迎え入れられるだろう、この人はキリストを告白しなかったのだから、天には行けないだろう・・・そういう風に心の中で言ってはならない。また、「誰が深みに降るのか」…滅びについても、あの人はどうだこうだと考えることを窘めています。なぜなら、天にいますキリストが、死者の中にまで降りて来てくださったからです。イエスのこの上ない高さも、イエスの限りない謙りも、どちらをも私たちは値引きすることが出来ません。律法の掟を行うかどうか、を基準にしない、キリストへの信仰を持つ私たちは、誰が天に上るのか、誰が深みに降るのか、判断することを慎むように言われるのです。では、何と言われるのでしょうか。

では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 ここで大事なのは

「あなたの」

です。

「誰が」

という他人事ではなくて、「私」の近くに御言葉があり、口にあり、心にある。私が口でイエスを主と告白し、心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、救われる。誰か、の話ではなく、一人一人が自分の事として、自分に差し出された約束として、戴くのです。そして、その自分の告白や、心での信仰は決して小さくない。それは、自分の救いのしるしなのです。この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。主は、主を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになる、と言われるのです。

 主が豊かに恵みをお与えになるのですから、私たちは誰かが救われる、救われない、と自分で決めつけてはなりません。この9節10節も、ここだけを切り出してしまうことがあります。

「心で信じて、口で告白しなければ救われないのだ」

と言ったり、

「あの人はちゃんとイエス様を告白しなかったから救われないのだ」

と決めつけたりすることがあります。それは、ここで言いたいことの逆ですね。誰かが天に上るか、深みに降るのかを云々することを窘めて、あなたが御言葉を信じて告白することを大事にしなさい、と言っているのです。すべての人が、主を呼び求めるならば、救われるのです。そして、呼び求めるためには信じることが必要だし、信じるためには聞かなければならないし、聞くためには誰かが宣べ伝えていることが必要です。だから、私たちがすべての人に御言葉を宣べ伝えていきましょう、というのです。その口も心も足も贈り物なのです。

 この方はご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになる主です。御名を呼び求める者をみんな救ってくださり、死者の中にまで降りて下さった主です。そして神に背を向ける生き方から悔い改めさせてくださり、キリストを信じる歩みを下さるお方です。悔い改めも信仰も神からの贈り物です。そして、私たちがこの主を宣べ伝える生き方をも下さって、その私たちの歩みを通して他の人を救ってくださるお方です。

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Ⅱコリント書4章7-18節「土の器 第2コリント」

2018-11-25 15:51:41 | 一書説教

2018/11/25 Ⅱコリント書4章7-18節「土の器 第2コリント」

 今月の一書説教は「みことばの光」の聖書通読表に従い、コリント人への手紙第二、「慰めの書」です。神を

「あらゆる慰めの神」(1:2)

と呼び、慰めを語り、いくつもの美しい言葉で慰めを語ってくれる書。この手紙の中にある言葉を大切にしている方は、私も含めて多いでしょう。

1.「土の器」

 Ⅱコリントは多くのイメージを描き出しますが、一(ひと)際(きわ)印象的なのが4章7節

「土の器」

でしょう。イエス・キリストを宣べ伝える私たちは、宝を入れた土の器だ、と言います。

四7私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。

 「土の器」は、宝には相応しくない粗末な土の焼き物です。壊れやすいし、焼いた時点でヒビ割れや歪(ゆが)みが入ることもあるでしょう。欠けたら元には戻せません。そういう壊れやすい土の器を、神はご自身の宝を運ぶ器として選びました。神の宝はここで

「イエスのいのち」「神の栄光」「一時の軽い苦難…とは比べものにならないほど重い永遠の栄光」

などと言い換えられています。イエス・キリストが下さった福音、慰めは、測り知れない喜びです。どんな宝よりも尊く、決して朽ちない幸いです。その事もⅡコリントでは実に力強く、豊かに描き出されます。同時に、その宝を入れられている私たちは「土の器」です。8節以下、

四方八方から苦しめられ、

途方に暮れ、

迫害され、

倒され、

死と隣り合わせです。

外なる人は衰え、

いろんな艱難があります。

 人は「神が守ってくださるなら、そんな苦難や惨めな思いはしないで済むはずだ」と思いたいとしても、パウロはその逆を言います[1]。私たちは土の器。あらゆる苦難を通り、人として戸惑い、悩むのです。その私たちの欠け多く、弱く、人間臭い歩みを通して、神の宝はますます輝くのです。私たちは傷を通してキリストの慰めを戴き、この世界に今も生きて働き、やがて永遠の御国を来たらせる神の御業を知っていくのだ。パウロは、いくつものイメージを重ねながら、強くなろうとすることによっては決して見えない慰めを示すのです。

 これは抽象論ではありません。パウロはコリント教会への対処に手こずっていました。先に書いた手紙も功を奏さず、問題はもっとこじれていました。手塩にかけた教会との関係がギクシャクして心が安らがない。牧師、伝道者としての無力感に潰れそうでした。恐れやもどかしさに悲しむ中で、自分自身を「土の器」と思い至っていたのです。自分の弱さ、人としての限界を痛感しつつ、その脆(もろ)い私たちの内に神は働かれるのだと思い至った告白がⅡコリントです。私たちが鉄の器となるのでなく、土の器のままで神の宝を運んでいる、その実感を語るのです。

2.コリント教会と使徒パウロ

 コリントはギリシャの大都市で、パウロはここに教会を育てました[2]。パウロがコリント教会に書いた手紙は2通有りますが、それを読み比べると、他にもう2通の手紙があったらしいし、両者の間にパウロが直にコリントを訪問したようです[3]。つまり、パウロの3通の手紙もうまく働かず、直接の訪問も却って問題をこじらせたのです。加えて第二の手紙には「偽使徒」が入り込んで、パウロをこき下ろしていた事情が伺えます。彼らは雄弁で、パウロとの関係を壊そうとしたのです。パウロの使徒性を疑わせて、パウロの話しぶりが下手だ、苦労の甲斐のない、弱虫で伝道者失格だと決めつけたのでしょう。エルサレム教会のための献金を募るのは、自分で横領するつもりに違いない、と金銭問題もでっち上げたらしい[4]。そういう偽使徒による混乱も背景にありました。その関係を今から修復して行くに当たって、パウロは、自分がコリントのあなたがたをどれほど慕っているか、どれほど誇りに思っているか、を伝えます。

Ⅱコリント一13、14…私たちの主イエスの日には、あなたがたが私たちの誇りであるように、私たちもあなたがたの誇りであることを、完全に理解してくれるものと期待しています。

 こういう信頼から切り出して、パウロはコリント教会との関係がこじれきった失意のうちに、涙ながらにトロアスで前の手紙を書き、テトスに託してコリントに送ったと言います。涙して書いた手紙がどう読まれただろう。真意は届いただろうか。不安で落ち着かず、そのために待っていたトロアスでの伝道は順調に始まったのに、コリント教会とのこじれを思うと居たたまれずに、せっかくのトロアスに別れを告げて、マケドニアに向かったというのです[5]。苦しく切ない親の思いです。でも、そんな弱く傷つきやすい自分だけれど、キリストがこの私たち人間に働いて、神の約束に与らせてくださるのだ。私たちは、キリストの香、宝を入れた土の器だと、主にある希望を6章までつらつらと語るのです[6]

 そして、そう語りながら七章で、遂にテトスが帰って来て、嬉しい事にあなたがたの悔い改めを聴かせてくれた。もう修復不可能かと思えた関係が、和解できる。それがどんなに嬉しかったか。慰めに満ちた神が、あなたがたの心を開いてくれたことが嬉しくて堪らないとパウロは吐露するのです。破綻の傷は深くて、まだ悲しみや恐る恐るの思いがあります。でもパウロは、神が関係の修復を始めてくださったことに慰められ、嬉しくて、その和解をケアするために書いた手紙が、この第二コリントです。

3.「弱い時こそ強い」

 この後、八-九章はエルサレム教会への献金について語ります。これも一般論としての献金ではなく、前からエルサレムへの援助を勧めていたのですから、改めてその献金のことを喜んでしてもらおう、という意味があるのでしょう。今でも献金の教えに、欠かせない箇所です。

 それに続いて一〇章からは、例の偽使徒の言いがかりへの反論が強い口調で語られます[7]。パウロは、偽使徒の自慢話に騙されないよう自分が愚かになって彼ら以上の自慢話で反証しようとします。ところが、その反論もすぐ迫害や鞭打ちや艱難の経験、言わば格好悪い経験リストになるのです[8]。更に、一二章では特別な神秘体験が仄(ほの)めかされますが、それもそのすばらしい体験で高慢にならないように、肉体に一つの棘が与えられた、という話になっていくのですね。それは本当に辛い障害だったようで、

「サタンの使い」

と言う程の苦しみでした[9]。パウロはそれを取ってくださいと主に繰り返して願ったのですが、主の有名な答えはこうでした。

一二9…「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

10ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 強さや特別な神秘体験、奇蹟は魅力的かもしれません。弱くなく、失敗せず、引け目のない在り方で安全でいたいのです。しかし神は弱さや失敗、痛みを通して私たちを慰め、助けます。挫折や障害、悲しみ、恥も通らせ、そこからしか始まらない何事かをなさいます。人は弱さを通して高慢から救われます。謙って神の力を求めます。思いやりが持てます。正直に自分を差し出す時、本当の共同体が生まれます。キリストの教会は、強さや見栄えや競争心で動く方向では育ちません。キリストご自身が弱くなり、貧しくなり、ご自身を与えて、限りなく低くなり、苦しみを通して愛を示されました。死によっていのちを現されました。それがキリストの教会の姿です。弱さを通して働かれる方を信頼して、正直に分かち合うのが教会です。

 Ⅱコリントの最後、13章13節は

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」

です。私たちの礼拝がいつも最後はこの第二コリントの祝福で派遣されるのです。祝福を運ぶ「土の器」として出て行きます。弱さや涙や恥を通して、イエスの慰めが、神の力が現されることを信じて派遣されます。そのことを大いに励ましてくれるコリント人への手紙第二を私たちへの手紙として読ませていただきましょう。

「主よ。あなたが十字架と復活により新しい契約を完成して、私たちを招き入れてくださったことを感謝します。私たちがあなたの宝を入れる「土の器」だとは何と恐れ多い、なんと不思議なことでしょう。主の謙り、私たちのために担われた痛みを心に刻み、その主の愛を運ぶ歩みを私たちに歩ませてください。この宝のようなⅡコリントをこれからも味わわせてください」



[1] そのような勝利や奇跡や成功指向の考えそのものをひっくり返すのです。

[2] 使徒の働き18章以下を参照。第二回伝道旅行の最後の2年間でした。

[3] 直接、コリントで問題を起こしていた人を指導しようとしたのですが、この指導は失敗して、パウロはコリントを引き上げ、手紙をトロアスから書いたのです。参照、Ⅱコリント二章1~4節。「そこで私は、あなたがたを悲しませる訪問は二度としない、と決心しました。…あの手紙を書いたのは、私が訪れるときに、私に喜びをもたらすはずの人たちから、悲しみを受けることがないようにするためでした。私の喜びがあなたがたすべての喜びであると、私はあなたがたすべてについて確信しています。私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。」

[4] Ⅱコリント十一7-11、十二13を参照。

[5] Ⅱコリント二12「私がキリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いておられましたが、13私は、兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがありませんでした。それで人々に別れを告げて、マケドニアに向けて出発しました。」

[6] 七5-15「マケドニアに着いたとき、私たちの身には全く安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました。しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。テトスが来たことだけでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められました。私を慕うあなたがたの思い、あなたがたの深い悲しみ、私に対する熱意を知らされて、私はますます喜びにあふれました。あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。10神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。11見なさい。神のみこころに添って悲しむこと、そのことが、あなたがたに、どれほどの熱心をもたらしたことでしょう。そればかりか、どれほどの弁明、憤り、恐れ、慕う思い、熱意、処罰をもたらしたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明しました。12ですから、私はあなたがたに手紙を書きましたが、それは不正を行った人のためでも、その被害者のためでもなく、私たちに対するあなたがたの熱心が、あなたがたのために神の御前に明らかにされるためだったのです。13こういうわけで、私たちは慰めを受けました。この慰めの上にテトスの喜びが加わって、私たちはなおいっそう喜びました。テトスの心が、あなたがたすべてによって安らいでいたからです。14私はテトスに、あなたがたのことを少しばかり誇りましたが、そのことで恥をかかずにすみました。むしろ、私たちがあなたがたに語ったことがすべて真実であったように、テトスの前で誇ったことも真実となったのです。15テトスは、あなたがたがみな従順で、どのように恐れおののきながら自分を迎えてくれたかを思い起こし、あなたがたへの愛情をますます深めています。」

[7] 中傷に対して、偽使徒の問題を指摘したり、その教えの問題点に反論したり、という対応はしないのです。パウロを疑うコリントの信徒の問題を非難して厳しい態度を取ることもしません。そういう正面対決はしません。それよりもパウロが語るのは、信頼です。主への信頼と、コリント教会への信頼です。

[8] 加えて、「すべての教会への心づかい」と言い、教会のために悩み、戸惑い、苦しむ心をさらけ出します。

[9] 「とげ」の正体については、目の病気、性欲、マラリア、てんかん発作、背中の鞭打ちのむごい傷跡、など諸説あります。どれとも断定できませんが、断定できない所にこそ、私たちへの共感があるのでしょう。

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