聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問53「聖霊なる神の恵み」ヨハネ14章16-17節

2017-02-12 20:33:48 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/2/12 ハイデルベルグ信仰問答53「聖霊なる神の恵み」ヨハネ14章16-17節

 キリスト者が信じる神とはどんな神か、と言われたら、どう答えるでしょうか。キリスト教の神は三位一体の神と言う呼び方も有名です。父、子、聖霊の三つの神が一体である。これは人の理解を超越した神秘です。もう一つには「愛の神」という言い方です。キリスト教は愛を大事にし、神が私たちを愛しておられると信じます。「愛の神」を信じるのです。でもこれを言い換えて「友情の神」と言う言い方に、私はとても惹かれます。キリスト教が言う神は友情の神です。「三位一体」というと難しく聞こえます。「愛の神」というのも分かったようで分からない。しかし、父、子、聖霊の三者が互いに厚い友情で結ばれている神。それさえ、完全には理解できない神秘ですけれど、私たちが神を考える上で、とても良いイメージがここにあります。そして、今日の問53では、その神の友情の一角におられる、聖霊なる神のことを問います。

問53 「聖霊」についてあなたは何を信じていますか。

答 第一に、この方は御父や御子と同様に永遠の神であられる、ということ。第二に、この方はわたしに与えられたお方でもあり、まことの信仰を通してキリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、わたしと共に永遠にいてくださる、ということです。

 使徒信条をずっと辿ってきて、今日は「我は聖霊を信ず」に入ります。そこで、その

「我は聖霊を信ず」

とは、どういう事ですか、と問うのがこの問53です。この最初で、聖霊が御父と御子と同様に永遠の神であられる、とあります。私たちが聖霊を、神なるお方、三位一体の「友情」の神。御父と御子とともに、永遠に友情を持っておられる神として信じるのです。そして、その方もまた、私たちの神であられます。御父や御子だけでなく、聖霊も私たちに深く関わっておられます。

「まことの信仰を通してキリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、わたしと共に永遠にいてくださる」

お方です。そう信じるのだ、というのです。言い換えれば、聖霊が私たちに働いて下さったからこそ、私たちは信仰を持ち、キリストの恵みに与り、慰めや祝福をいただくのです。聖霊がおられなければ、信仰も救いもない、ということです。

 私自身、この事では随分誤解をしていました。イエスが救いの御業をしてくださるとしても、それを信じるかどうかは私だと思っていました。また聖霊が与えられるというのは特別な奇跡的な体験をして、恍惚状態になったり、不思議な霊的境地に到達したりするようなことが伴うのだ、といわれる事もありました。「第二の恵み」という言い方もあって、「信じるだけでは足りないのだ。聖霊に満たされる体験が必要なのだ。聖霊を受けたら、癒やしや異言や奇跡的な事を行う賜物が持てるのだ」と説く、聖霊派と自称する教派もあるのです。そこで私は「自分はまだ聖霊を受けていないのだ。神様、どうか私にも聖霊を満たしてください」と祈っていた時期が長くありました。でもそれは「恵み」ではなく、疑問になりました。祈っても祈ってもそんな体験は出来ないし、では自分はダメなのか、と悩んだのです。こういう事を断言する教派は、実は宗教改革の時代にもいたのです。今日のハイデルベルグ信仰問答ではどうでしょうか。

 ここでは

「この方は私に与えられた方であり」

と信じるのだと言いますね。聖霊について、三位一体の神であるだけでなく、この聖霊が「私に与えられた方だ」と信じるのです。これは私にとって、とても驚きでした。そして、慰めでした。私はまだ聖霊を受けていない、ではないのです。聖霊は私に与えられた方だ。そう信じることこそ、キリスト者の信仰なのです。

ヨハネ十四16わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

 これはイエスが「もう一人の助け主」即ち聖霊をお与えになると約束された言葉です。イエスは父に願って、父は聖霊を送ってくださるのです。聖霊なる神は、私たちの所に来られて、信仰を与え、救いに与らせ、慰め、ともにいてくださいます。もう聖霊は私たちに与えられているのです。「聖霊派」を自称する教派もありますが、実は私たち長老教会や改革派教会の土台を造ったジャン・カルヴァンは救いも悔い改めも信仰も全て聖霊のお働きなしにはないのだ、と聖霊を強調したのです。カルヴァンは「聖霊の神学者」とも呼ばれるぐらいなのです。私たちもまた、聖霊派なのです。ただ、特別な体験や恍惚状態や癒やしや異言など、目を見張るような現象と聖霊を結びつけるのではなく、私たちの信仰の始まりや聖書を通しての慰めや励まし、私たちの全てが聖霊のお働きと切り離せないのだ、と考える違いは大きいのです。■

ガラテヤ五22…御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

23柔和、自制です。…

 御霊(聖霊を「御霊」と呼ぶこともあります)の実は愛、喜び、寛容、自制…。「人よりも強く、特別になりたい。自分は聖霊を受けたけれど、あの人は聖霊を受けていないからまだまだだ」そういう思いこそは、御霊の実りがない状態です。私たちが求めるのは、聖霊によって特別すごい人になることではありません。むしろ、聖霊によって私たちの人格がキリストに近づけられ、心が変えられて行くことであるのです。そして、聖霊はそのように私たちの中に働いて下さいます。それが神のお働きだと教会でさえ気づかずに、聖霊のことがよく分からなくて、誤解したり、注意しすぎたりすることもある中で、聖霊は目立とうとせず、黙々と私たちを慰め、励まし、イエスへと向かわせてくださいます。そのような神の控えめなご性質を、聖霊はよく現しています。

 さて次回から

「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、永遠のいのち…」

と続きます。実はこれこそ聖霊のお働きです。教会を建て上げ、罪の赦しを下さるのは聖霊のお働きです。御子イエスの贖いは聖霊が具体的にこうして届けてくださいます。この聖霊を私たちは信じます。まだ与えられていないお方ではなく、既に聖霊は与えられていて、私たちにキリストの救いを届け、今も働かせ、やがて完成させてくださる。今も私たちと共におられて、様々な出来事においても私たちを慰め励まし、キリストの恵みに与らせ、愛や喜び、寛容をもたせてくださる、と信じます。

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「礼拝⑫ 神を王として迎える」マタイ6章31-34節

2017-02-12 20:26:45 | シリーズ礼拝

2017/2/12 「礼拝⑫ 神を王として迎える」マタイ6章31-34節

 主イエスが教えて下さった「主の祈り」は、私たちに祈りについてだけでなく、信仰や神、また自分自身についても多くのことを気づかせる、革命的な祈りです。今日は

「御国が来ますように」

という祈りに目を向けましょう。

「御国が来ますように」。

 この祈りを口にする時に、皆さんはどんなことを考えているでしょうか。「御国」をどんな国と考えているでしょうか。

1.神の支配がここに

 前回もお話ししたように「御国」の「御」とは「あなた様の」という丁寧な言い方を現しています。つまり「天にいます私たちの父よ。あなたの国が来ますように」という意味です。その「国」というと、いわゆる「天国」を考えている事が多いのではないでしょうか。キリスト教信仰には、やがてこの世界にキリストがもう一度おいでになり、全世界を新しくされて、悲しみも不正もない、永遠の御国が始まる、という教理もあります。その国を考えるならば「御国が来ますように」との願いには、この世界の苦しみや争いや悪がもう嫌だから、早くイエス様がおいでくださって、世界を新しくしてください、という意味で祈ることにもなるでしょう。

 確かに聖書には、そのような神の国への待望も満ちています。

「主よ、来てください」

は、聖書の一番最後を飾る部分での言葉です[1]。けれども「国」には場所だけでなく、支配という意味があります。私たちが待ち望むのは天のフワフワとした幸せな場所ではなく、神が王として完全に支配しておられる国です。王様には適当に治めておいてもらって、好き勝手なことをして暮らせる国、ではなく、神の御支配そのものが「御国」なのです。

 「御国が来ますように」

と祈る時、私たちは

「天にいます私たちの父」

を王として崇めるのです。私たちは自分の思い通りにしたい気持ちがあります。「我が世の春」という言う通り、自分の願いや幸せを第一に求めます。神に祈る事さえも、祈りによって神を呼び出し、願望を叶えるためになりやすいのです。勿論、「世界を征服したい、宇宙の支配者になりたい」と大それたことを思う人は殆どいないでしょう。ただ自分の家族、自分の職場、自分の妄想や趣味や人生を、神にも手出しをさせず、自分の天国にしていたい。自分が王として振る舞える場所を持っていたい。そういう願望なのでしょう。しかし

「御国が来ますように」

と祈る時、私たちは自分が王になることを止めるのです。自分が思い通りに支配しようとすることを止めます、と宣言して、神が王である国が来ますように、と祈るのです。神に白旗を揚げて、降参をして、神の御支配に明け渡すのです。それが「御国が来ますように」という言葉の最も基本的な意味です。「私の国・私の支配ではなく、あなたの国・天の父の御支配が来ますように」。そう祈って、私たちは自分が王であることを止めます。また、誰か人間を王にして、その言うなりに生きることも止めるのです。神の国の市民として、御言葉に従った自由な歩みをするのです[2]

2.「神の国の福音」

 イエスはマタイの六章で「主の祈り」を教えられましたが、「御国」は主の祈りの中だけでなく、その前後の五章から七章の「山上の説教」を貫く大事なテーマなのです[3]。特に有名なのが今日読んで戴いた六章33節の言葉でしょう。

マタイ六33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 言わばこれもまた「御国が来ますように」の言い換えです。御国が来ますようにと祈るのは、神の国とその義とを第一に求めることです[4]。「神の国」は山上の説教全体で繰り返される事ですし、イエスの教え全体、マタイの福音書を通しての中心的なテーマなのです。イエスは

「ユダヤ人の王としてお生まれに」

なり[5]

「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」

と宣言して宣教を始められました[6]。17回も「神の国の例え」が語られています[7]。イエス御自身が「御国」の王であり、私たちを御国へと招き入れてくださる王なのです。

 ただし、イエスが神の国とその義を第一に求めなさいと仰った根拠には、天の父が食べる物や飲む物や着る物など、私たちに必要なことをすべてご存じであるという「天の父」としての恵みの備えがありました。天の父は、善い者にも悪い者にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる、とも言われていました。神が私たちの天の父として、私たちを養ってくださっています。私たちの出来不出来や、問題や強情ぶりにも関わらず、私たちを憐れみ、正しく私たちを扱い、私たちを御自身の子としてくださっているのです。この方は限りなく正しく、恵み深い王です。

 その神の正しく、公平な支配に私たちは服従して、

「御国が来ますように」

と祈ります。神は暴君のようなお方ではありません。神の支配は、恐怖や狂信的なことではありませんし、また強制されることでもありません。何よりもそれは、イエス御自身に現れています。王でありながら、貧しくなり、罪人を受け入れ、御自身を十字架の死にまで差し出された。あのイエスの王としての御支配は、人知を越えて正しく恵みであるに違いありません。神の御支配はもどかしく、業を煮やす思いをします。もっと手っ取り早く自分の願いを強引に推し進めてしまいたくなります。そのような逸る思いをも手放して、

「御国が来ますように」

と祈るのです。

3.「国と力と栄えとは汝のもの」

 ですから

「御国が来ますように」

という祈りもまた、私たちにとって大変挑戦的な祈りです。まず私たちの中には、自分の支配したい思いを明け渡して、天の父に王になっては戴きたくない自我があります。そういう私たちに対して、イエスは「自分が王になれますように」(またその様々な変形の祈り)ではなく、天にいます私たちの父に「あなたの御国が来ますように。あなたを王としてお迎えいたします」と祈るよう教えられました。また、実際、神の支配に抵抗して、自分たちの国を建て上げている、世界の現実があります。そして、そちらのほうが強そうに見えますし、手っ取り早く思えます。神の正義や憐れみなど綺麗事で、経済や軍事力や圧倒的な国家の力を前に、なお「神の国」が来ますようにと祈りなさいと言われました。しかも、そう祈ったからと言って、直ぐに神がおいでになって、悪や不正を一掃したり、世界をバラ色の国に変えてくださるわけではありません。いや、むしろ、イエスが示されたのは、そのような政治的な現実さえも一新してしまう将来を見据えながら、まず、神の国を私たち自身が迎える、という道です[8]。不正や暴力を嘆いたり憤ったりするに先立って、まず自分が、神を王として、私が神の国に従うことを求められました。そしてそれは、天の父が憐れみ深いように、私たちも憐れみ深くなり、真実に生きることです。具体的には次の祈り、

「御心が行われますように」

で見ていきます。それにしても、神の国、神の御心は、私たち人間が思い描くよりも、遙かに深く、豊かで、意外すぎて愚かしく見えるほどの不思議な統治です[9]

 主の祈りの最後は何と結ぶでしょうか。

「国と力と栄えは永久にあなたのものだからです」

と言います。御国が来ますように、と祈るのは国(支配)があなたのものだからです。私のものではないし、強者や大国のものでもなく、天の父のもの。それも永久にあなたのもの。今はまだそうではない現実があるからこそ、

「御国が来ますように」

と祈り続けるのです。神の完全な御支配や、やがての御国の到来を信じつつ、今この現実で、色々な力関係が絡み合う中で、本当に忍耐が必要です。並々ならぬ知恵もいります。毎日聖書を読み祈ることが必要です。でも、そのような必要も主は知ってくださっている、と言われていました。だから私たちに、

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」

と言われ、

「御国が来ますように」

「国と力と栄えはとこしえにあなたのもの」

と言う祈りを授けてくださったのです。主が私たちを治めてくださるように、また私たちを通して、主の良き御支配を現してくださるように、祈りましょう。

「御国が来ますように。あなただけが私たちの王であり世界の王です。それを忘れて空回りし、思い煩い、怒り嘆き、決めつけてしまう私たちを、この祈りによって引き戻してくださる憐れみに感謝します。主の良き御支配が、全宇宙から国々の政治まで、また悪や暴力の横行から、この私自身の心の隅々までも新しくする。その約束を信じて、御国を待ち望ませてください」



[1] ヨハネの黙示録二二20-21「これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。21主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン」が聖書の結びの言葉です。

[2] ウェストミンスター小教理問答「問102 第二の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。答 第二の祈願、すなわち「御国が来ますように」で私たちは、[第一に]サタンの王国が滅ぼされるように、そして[第二に]恵みの王国が前進させられ、私たち自身と他の人々がその中に入れられ、その中で守られるように、また[第三に]栄光の王国が早く来るように、と祈ります。」

[3] 他に、五3、10、19-20、七21。

[4] 「神の御国が来るようにと祈ることは、私たちに代わって神が支配されることを受け入れることです。」フーストン、『神との友情』、195頁。

[5] 二章でイエスがお生まれになった時、東方の博士たちはイエスを「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」と誰何しました。マタイ二2。

[6] マタイ四17。

[7] 神の国は辛子種のようなもの、パン種のようなもの、自分の持ち物を預けて旅に出掛けた主人のようなもの。その驚くべき例えをよく聞こう。

[8] W・H・ウィリモン、S・ハワーワス『主の祈り 今を生きるあなたに』(平野克己訳、日本キリスト教団出版局、2003年)「私たちの目指すところは、霊的な熱い空気を吹き込んで、あなたが地の上にふわりと浮くことができるようにすることではありません。私たちが目指すところは、政治やパンのように物質的な事柄が、そのままあなたにとって霊的な事柄になることを願いつつ、祈ることを学んでいくことです。主イエスは、私たちにご自分について考えさせたり、ご自分について深く感じさせたりするために来られたのではありません。主イエスが私たちを弟子に召されたとき、肉体から遊離した個々の魂を捜し求めませんでした。主イエスは来て、ご自分の国に加えるために、私たちを招いてくださったのです。主イエスが人びとの病を癒やし、悪霊を追い出すのを見るとき、「神の国があなたがたのところに来た」ことを、私たちは知ることになるのです。」(98-99頁)

[9] やがての完成を信じる。小さな始まりでも、それは確かに実を結び、やがて全地を覆う日が来る。傲慢なもの、自分を正しいと思う者、他者を裁く者は恥じ入る国が来る。貧しい者、悲しむ者、罪人、異邦人、マナーに欠き、恵みがなければ到底希望がないような人が手放しで迎え入れられる国が来る。そう信じるのです。

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