聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答133~136 マタイ19章13~15節「こどもたちの御国」

2019-09-01 15:55:33 | はじめての教理問答

2019/9/1 マタイ19章13~15節「こどもたちの御国」はじめての教理問答133~136

 先週から「洗礼」についてお話しをしています。水を用意して、私たちがキリストによって洗われ、いのちを注がれたことを表すのが洗礼(バプテスマ)。では、洗礼を受けるのは誰でしょうか、というのが今日の学びです。

問133 洗礼を受けるのはだれですか? 答 信徒とそのこどもです。

問134 どうして幼児のときに、洗礼を受けるのですか?

答 神さまは、信徒のこどもも契約に入れられ、洗礼によってその民のしるしを与えられるからです。

問135 キリストは幼児について、どのようにいっていますか?

答 「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです」といいました(マタイ19:14)。

問136 洗礼を受けることで、あなたはどのようなものとならなければなりませんか? 答 ほんとうにキリストに従うものとならなければなりません。

 まず、洗礼を受けるのは誰か、というと、信徒とその子ども。キリストを信じた人が洗礼を受けます。その子どもも一緒に洗礼を受けることが出来ます。私たちの教会、長老教会は「幼児洗礼」を行います。洗礼式に、信じた方だけでなく、その子どもも一緒に預かります。また、信徒の方に赤ちゃんが生まれたら、その赤ちゃんに洗礼を施すこともあります。それは、ここに書いてある通り、「神様は、信徒の子どもも契約に入れられ、洗礼によってその民のしるしを与えられるから」と書いてある通りです。

 聖書を読むと、神は最初から、人間を家族として見ています。神の約束は、私たちだけでなく、私たちの家族、子どもたちにまで代々祝福を約束するものです。ペテロは、

使徒2:39この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」

と語りました。あなたがたの子どもたちに、とわざわざ言われます。それは、子どもを持つ親にとっては当然嬉しい驚きです。神は私たち一人一人に信じることを求めるだけでなく、私の子どもたち、家族にも祝福を約束して、良いご計画を持っておられます。ですから、同じ使徒の働きの後の方では、こんな言葉も言われます。

使徒16:30…「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。31二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」32そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。33看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。

 この「その家の者全員」に子どもがいたかどうかはハッキリしません。パウロの言葉もあなたが信じれば自動的に家族も救われる、と言ったのではなく、あなたもあなたの家族も、主イエスを信じなさい、そうすれば救われます、と言ったのです。けれども、その前に

「(自分が)救われるためには何をしなければなりませんか

と問うた問に、聞かれてもいない

「あなたの家族」

の事まで話している事自体が素晴らしいですね。神が見ておられるのは、あなただけでなく、あなたの家族丸ごとです。聖書のメッセージは、私たち一人一人だけでなく、家族単位の、私たちの生活丸ごとの祝福なのです。そして、それは例え夫婦両方でなく、片親が信者であるだけでも、既にもう片方の親も、子どもたちも神様との特別な関係に入れられていると言われる程です。

Ⅰコリント7:14なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。

 夫も子どもたちももう「聖なるもの」、つまり神様との関係に入れられているのです。こういう言葉を、幼児洗礼は幼い子どもが洗礼に与ることによって、見せてくれます。

 とはいえ、それは決して自動的にその子が救われる、何をしても関係ないということではありません。洗礼自体が、特別な魔力や保証になるのではないのと同じです。しかし、残念なことに教会の中では幼児洗礼が儀式的に行われてきた歴史もあります。本当に神の民とされて、聖い生き方を求めることもないまま、洗礼や幼児洗礼が行われてきました。それに対する反動として、今では幼児洗礼をしない教派も沢山あります。私も、生まれ育った教派は、幼児洗礼なんてとんでもないと思っていました。ですから、幼児洗礼に抵抗を感じる心情も自分なりに理解できます。無理に押しつけることはしません。それでも、今日のマタイの福音書の言葉を一緒に味わうことは出来るでしょう。

14…イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」

 弟子やオトナの目から見れば、子どもは聖書の事も信仰の事も分からず、礼拝でも静かにしていなさいと言われる脇役に見えるかもしれません。でもイエスは、子どもたちこそ天の御国の所有者です。イエスは子どもを神の国に招かれました。「良い子にしてたかい?」とか「洗礼を受けるまでじっとしていなさい」などと仰らず、天の御国にイエスは子どもを迎え入れてくださいます。本当に、イエスは天の御国を子どもの国と仰いました。その子どもたちを邪魔して、見下すなら、大人をイエスは叱るのです。

 今日の最後で

「洗礼を受けることで…あなたは本当にキリストに従う者とならなければなりません」

とありました。キリストに従う。それは、清く真面目で立派な人になることではありません。子どもを喜び、小さな人を受け入れたキリストにならうことです。一人の救いを通して、その家族まで招いてくださるイエスの大きな愛に私たちもついていくのです。私をキリストが愛してくださっているように、私たちもキリストに従って、自分を愛し、人を愛したいと思います。自分の力で頑張るのではありません。イエスご自身が私たちを助けて、イエスに従う者にしてくださるのです。

 イエスに従うような人に変えられる…。それ抜きに洗礼だけ受けて自分は救われた、なんて姿がクリスチャンだったら、ああはなりたくないと思うでしょう。キリストに従う姿は、それを見る子どもたちにも、主を信じる素晴らしさを伝えます。あなたがたも神の国に招かれているんだよ、と伝わるような大人の模範です。子どもも大人も、このイエスに招かれて、洗礼を受けて、一緒に歩んで行くのです。

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はじめての教理問答130~132 ローマ6章1~4節「洗礼のよろこび」

2019-08-31 21:56:13 | はじめての教理問答

2019/8/18 ローマ6章1~4節「洗礼のよろこび」はじめての教理問答130~132

 

 先回から「聖礼典」についてお話ししています。私たちの教会では、二つの儀式をイエス・キリストが定めて下さった「聖礼典」として行っています。それは、洗礼式と聖餐式(主の聖晩餐)です。この二つが、イエスが定め、聖書で守られている聖礼典です。今週と来週は、洗礼がどんなもので、どんなに喜ばしいものかを教えられます。

問130 洗礼式ではどのようなしるしが用いられますか?

答 水によって洗うというしるしが用いられます。

問131 この水によって洗うというしるしは、なにを表しますか? 

答 わたしたちがキリストとひとつにされ、その血によって罪からきよめられることを表します。

問132 だれの名前によって、わたしたちは洗礼を受けますか?

答 父と子と、聖霊の名前によって、洗礼を受けます。

 洗礼式(バプテスマ)は水によって洗うという印の礼典です。水を使って洗われます。それは

「私たちがキリストと一つにされ、キリストの血によって罪から清められること」

を表しています。勿論、洗礼式を受けたらキリストと一つにされ、罪から清められるのではありませんし、洗礼を受けなかったら、キリストに結ばれないのではありません。洗礼式そのものに魔力やパワーがあるのではありません。これはよくある誤解で、長い間教会には洗礼式の水を「聖水」と呼んで、悪魔を祓う力があるとか、きよめの儀式に使うことがありました。私たち、長老教会ではそのような考えをしません。洗礼の水や儀式そのものに特別な力はありません。ただ、イエス・キリストが、私たちをご自身に結びつけて、私たちの罪をきよめて、新しい歩みを下さるのです。それが本当のことであると、洗礼は水の洗いをもって、表してくれるのです。

 その水の使い方にも、3種類あります。

全身を水につける全浸礼

頭の上から水を掛ける灌水礼

指を水につけて額を濡らす滴礼

 この3つです。私が洗礼を受けたのは、全浸礼で、頭まで沈められました。長老教会では、滴礼でするところが多いですが、全浸礼をすることもあります。もともとの言葉、バプテスマから、全部を水に浸すのが正しいやり方だ、という人もいますし、バプテスマという言葉も、全身を浸すわけでは無いという人もいます。今日はその議論には立ち入りませんが、私たちは、大事なのは水による洗いを表していれば、このどれでもよいと考えています。そして、洗礼は大事なことですし、個人個人が勝手にやるようなことではありません。洗礼は、教会の行事として、教会の役員が承認して、牧師が執行することにしています。洗礼を授けるのは、教会が牧師に委託する務めです。それぐらい、洗礼は大切な式なのです。

 しかし、洗礼は

「父と子と聖霊の名によって」

授けられます。先週見たマタイの28章の言葉でもイエスご自身が

「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい」

と言われていました。全浸礼か滴礼か、どこでやったか、授けたのは誰だったか、有名な牧師か、田舎の牧師か…そんなことは何にも関係がありません。いつ、どこで、だれが、どう授けた洗礼だった、とは言わず、

「父と子と聖霊の名によって授かったバプテスマ」

つまり、父と子と聖霊、という神様に結びつけられるのです。イエスは、私たちをご自分に結びつけて、神様との交わりを回復して下さいました。私たちを、神の子どもとしてくださり、神の子として喜んで生きるために、イエスはこの世界に来て下さいました。そのイエスを私たちは信じて、イエスとともに生きるのです。造り主である神との関係が回復されて、神を神とする生き方、心をいただいていくのです。それが、イエスが私たちに下さる「救い」です。イエスに結ばれるということは、イエスだけでなく、父と子なるイエスと聖霊なる神、その三位一体の神に結ばれることなのです。

 「父と子と聖霊の名によって」洗礼は授けられます。この

「名」

は単数で、父と子と聖霊が一つの名前を共有しているのです。大いなる神と、人となったイエスと、聖霊なる神は、本質において一つ。これを教会は「三位一体」という言葉で言い習わしています。私たちには到底理解できない神秘ですが、神ご自身が、父と子と聖霊の交わり、愛し合う関係、永遠の友情を持っているお方なのですね。神とは、孤独な神ではなく、父と子と聖霊という、永遠の三つのお方なのです。その神が私たちを造って、私たちを愛し、私たちにも愛し合うように、違う互いを喜び合うように、と願われています。それなのに、人間は神から離れた結果、お互いにも裁き合ったり、傷つけ合ったり、競争するようになってしまいました。人も、神をも、疑って、怖がって、自分をかばいながら生きています。そういう人間の考えでは、「救い」ということさえ、人と関わらず、仲良しクラブのようなフワフワした場所でゆっくり過ごす、というようなものでしょう。

 「洗礼を受けなくてもイエスを信じれば救われるのなら、洗礼は受けたくない」と言うようなことを思っている方も多いのですが、そういう時に思っている「救い」とは、「イエスと結ばれる」とか「父と子と聖霊の交わりに入れられる」とは違う「救い」でしょう。ですから、

「父と子と聖霊の名によって」

洗礼を授かる、ということは、キリストが下さる救い、信じるだけでいただける救いとは何かを思い出させてくれます。

 イエス・キリストは、私たちを愛して、私たちの罪を赦して、新しい命を下さいます。自分中心に生きて、神とも人とも自分との関係も壊してしまう罪から救い出して、神の交わりに入れ、私たちのお互いをも神の愛と知恵をいただいた、新しい関係にしてくださいます。そういう新しさを、イエスを信じる時にいただけるのです。でも、それだけでなく、洗礼式をイエスは定めてくださいました。私たちが本当にイエスから新しい命をもらったと、自分も他の人も分かるためにも、洗礼式を用意してくれました。全浸礼だろうと滴礼だろうと、それは水を使った儀式に過ぎないようですが、でもイエスが私たちの罪を赦して、神の家族に迎えてくださったことは、変えられない事実なのだと、洗礼式は表してくれています。

 そして、洗礼は一度受けたら、再び受け直すことは出来ません。教会から離れたり、罪を重ねたり、信仰を捨てることがあったとしても、再び帰ってくるなら、イエスは迎え入れてくださいますし、前の洗礼が無効になったとは考えません。イエスが私を救って始まった新しい歩みにも、山あり谷あり、何でもあっても、それでもイエスが私を捕まえてくださった新しい関係は決して解消されることがない。そのことも洗礼はハッキリと示してくれるのです。洗礼は本当に喜ばしい儀式です。

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マタイ28章18~20節「水とパンとブドウ酒」はじめての教理問答126~9

2019-08-13 14:52:13 | はじめての教理問答

2019/8/11 マタイ28章18~20節「水とパンとブドウ酒」はじめての教理問答126~9

 

 「水とパンとブドウ酒」。いったい何の事でしょう。しかし、イエス・キリストを信じる事と、この三つのものは切っても切れない関係があります。先週まで「主の祈り」からお話しをしてきました。今日からこの三つの話、「聖礼典」をお話ししていきます。

問126 聖礼典はいくつありますか? 

答 ふたつです。

問127 そのふたつとは、なにとなにですか?

答 洗礼式と聖餐式です。

問128 聖礼典を守るように命じたのは誰ですか? 

答 主イエス・キリストです。

問129 キリストはどうして聖礼典を命じられたのですか? 

答 おのれの民をこの世から区別するため、そしてその民を慰め、力づけるためです。

 私たちの教会では、二つの聖礼典の儀式を行います。教会で「儀式」というとなんだか不気味な気がするかもしれませんが、私たちはふたつの聖礼典を行います。それは、洗礼式と聖餐式の二つです。洗礼式や聖餐式については、次回から詳しく見ていきますが、簡単に言えば、洗礼式は、水で人を濡らす、入会式。聖餐式は、パンとブドウの汁をみんなで分けていただく軽食です。だから、水とパンとブドウ酒、なのです。この洗礼式と聖餐式を「聖礼典」として定めたのは、主イエス・キリストです。ですから、私たちは、主イエス・キリストが守るように命じられた洗礼と聖餐式を、ずっと大事にしていきます。それによって、私たちは、キリストの慰めや力をいただくのです。教会の教えはただの知識や言葉ではありません。礼拝で話されているお話しは、ただの思い込みではなく、本当の出来事です。水をかけられ、パンとぶどう酒をいただいた実感が、私たちが本当にキリストの恵みをいただいた実感になると信じるのです。

 洗礼も聖餐も、教会が考え出した儀式ではなく、イエス・キリストが定めた儀式です。教会が、勝手に付け加えたのであれば、聖礼典とは呼べません。長い間、教会には、この二つの他に、色々な儀式が続けられていたことがありました。洗礼の他に、司祭に任命すること、結婚、罪の告白、死ぬ前に油を塗って祈ること、などがありました。

 このどれもが大切な事です。けれども、イエスはそのような儀式を特別にお定めにはなりませんでした。私たちにとって大切でも、教会がそのことを特別な儀式にするなら、おかしなことになります。ですから私たちは、イエスが定めた聖礼典は、二つですとハッキリさせています。洗礼式と聖餐式は、イエスご自身がお定めになった儀式です。教会では結婚する人のために結婚式もしますし、死んだ方のお葬式も、病気の方のためには癒やしのお祈りもしますが、洗礼と聖餐式はすべての信徒が招かれている、キリストと結びつけてくれる儀式なのです。マタイの福音書の結びは、イエスのこの言葉です。

マタイ28:18…「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、20わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。…」

 イエスは、弟子たちに、あらゆる国の人々を弟子としなさいと言われ、そこに「父、子、聖霊の名においてバプテスマを授け」とあります。「バプテスマ」とは日本語にすると洗礼です。洗礼を授けなさい、とイエスは言いました。イエスの弟子たちは、あらゆる国の人々に、イエスの言葉を伝えて、洗礼を授けるのです。ただイエスのすばらしい教えを伝えて、信じることを求めるだけではなく、洗礼を授けて、本当にあなたの罪は赦されて、新しいいのちを授かった、あなたはイエスに結ばれた、そうハッキリと見える形で表すことを弟子たちに命じたのです。だから教会は今も洗礼を授けるのです。そして、洗礼を受けた後は、聖餐式に与るようになります。

問129 キリストはどうして聖礼典を命じられたのですか?

答 おのれの民をこの世から区別するため、そしてその民を慰め、力づけるためです。

 ここに聖礼典は、私たちを、この世から区別して、私たちを慰め、力づける、とあります。水、パン、ぶどう酒そのものに、何か特別な力があるとは考えません。ただ、冷たい水を浴びたり、パンを食べたりぶどう酒を飲んだりすることは、話しを聞かされるのとは違って、私たちの体でキリストの福音を味わうことです。イエスの慰めと励ましを、頭ではなく、体で体験して、キリストは私たちを守ってくれます。

 キリストは、本当に生きておられます。この世界や見えるもの、見えないものもすべてを造った神様、私たちを体あるものとして造られたお方です。今、皆さんの体はどんな感覚がありますか? お腹が空いていますか? 眠たいですか? 椅子の座布団の感触はちょうどいいですか? 服の肌触りはちょうどいいですか? 体を動かさないとムズムズしたり、仲良しの人とタッチするのが楽しかったり、嬉しいと踊ったり、悲しいと病気になったり、美味しいものを食べたら幸せになったり。そういう体を持つ者として神は人間をお造りになりました。

 そして、その神が、私たちに触れて、やがて神の国で、本当に豊かないのちを注がれて、主の食卓を一緒に囲む、永遠の生き生きとした将来を示してくださっています。その世界の前味として、今、イエスは聖礼典を下さっています。それは、ただの御言葉の補助とか、教会の習慣にしている儀式というより遥かに勝って、神が私たちにやがて用意されている世界をのぞき見る時間です。神は、この世界を造られたように、永遠の世界を用意して、私たちもそこで恵みを体感しながら生きるのです。そして、そこに向かう毎日の生活においても、食べたり飲んだり、触れたり見たり、体の感覚を大事に研ぎ澄ませながら、生きていくのです。

 夕拝では聖餐式をしていませんし、礼拝でも聖餐式は月に一度だけです。しかし、聖餐式を行わなくても、礼拝の真ん中には聖餐の食卓があります。私たちは、主の食卓を囲む交わりです。聖餐に与るのは、洗礼を受けた後ですが、「洗礼を受けていないと聖餐に与れない」ではなく、「だれもが洗礼を受けて聖餐に与るよう呼ばれている」と思ってください。イエスは、私たちを、神の国の食卓に招いてくださっています。洗礼を授けなさい、とイエスは弟子に言い、聖餐を通して慰め、励ましを実感させたいのです。もし、洗礼を受けて、聖餐式に与りたいな、と思ったら、いつでも話してください。準備を始めましょう。私も、パンとブドウ酒が食べたくなったのが洗礼を受けてきっかけでした。食べ物や見えるしるしもまた、イエスが下さっている恵みの手段なのです。

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はじめての教理問答124~125 マタイ4章1~11節「試みにあわせず」

2019-07-28 21:20:47 | はじめての教理問答

2019/7/28 マタイ4章1~11節「試みにあわせず」はじめての教理問答124~125

 主イエスが教えてくださった「主の祈り」は、とても大切な祈りのお手本です。イエスは六つの大事な願いを教えてくださいました。その最後の願いを、今日は見ましょう。

問124 第六の願いごとはなんですか? 答 第六の願いごとは「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」です。

問125 「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」とはどういう意味ですか? 答 わたしたちを誘惑から守り、誘惑されたときにはそれに惑わされないよう、強くしてくださいという祈りです。

 天の父に願うべき、大切な願いの最後は「私たちを誘惑から守り、誘惑に惑わされないよう、強くしてください」という祈りです。イエスはそう教えてくださいました。そしてそう教えるだけでなく、イエスご自身が誘惑を経験してくださいました。その事が、今日読んだ、マタイの四章に書かれていました。イエスは、人々を教えたり癒やしたりする働きを、三〇歳ごろから3年間なさったのですが、その働きに出て行く前に、荒野に行って悪魔の誘惑と戦いました。活動を始める前に、まず、厳しい誘惑に、自分を晒したのです。それは、私たちを教え、救うために、どれほど誘惑という問題が大きいか、イエスの働きにとって、人間を惑わそうとする悪の問題が決して避けては通れないと思われたか、を現しています。誘惑、試みは、私たちの生活に付きまとっています。

 イエスは、荒野でまず四〇日、何も食べずに過ごしました。お腹がぺこぺこだったでしょう。するとそこに悪魔が近づいて来て、言いました。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」石をパンに変える? そんなことは私たちには出来ませんね。けれども、イエスは神の子でしたから、石をパンに変える力も持っていました。しかし、この時イエスは、そんな力で自分が神の子であることを証明しようとはしませんでした。私たちと同じ、ひとりの人間として神様の養いに信頼しました。イエスは

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と書いてある」

と応えたのです。四〇日何も食べていなかったのですから、石をパンに変えられたら、と思わなかったはずがありません。しかし、イエスは悪魔からそう誘われても、それには流されませんでした。

 次に悪魔はイエスを神殿に連れて行き、そのてっぺんから飛び降りるよう勧めました。聖書にも、神様は守って下さるって書いてあるんだから、飛び降りてみなさい。そうしたら神殿に集まっている大勢の人は、神殿のてっぺんから降りて来たイエスを見て、驚いて、イエスの弟子になりたがるでしょう。断食をしたり、十字架にかかったり、遠回りの道をしなくても、皆の心を一気につかむことが出来るでしょう。でも、イエスはここでも悪魔に耳を貸しませんでした。聖書に書いてある言葉を、自分に都合良いように使うことはしませんでしたし、人を驚かせて、人気者になろうとも思いませんでした。

 最後に悪魔は、世界中の国々の輝かしさを見せて言いました。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう」。悪魔にひれ伏せば、悪魔はイエスに世界を上げよう、というのです。神様に従わなくても俺にひれ伏せば、助けてやろうと申し出たのです。イエスはこう答えました。

下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある」。

 本当の神以外の何者をも礼拝してはならない。それが聖書で言われている事だ。悪魔が神のように礼拝されたい、世界を引き替えにでも、自分を崇められたいと思っても、それに従うことは出来ません。世界や命や人生を引き替えに約束されても、神ではないものを拝むことはしない。

 そうイエス様はきっぱりとサタンの申し出を退けました。そして、イエスは人々の所に行ったのです。人からスゴいと言われ、楽な格好良い、そして悪魔と取り引きするような華やかな道では無く、イエスの生涯は飼葉桶から始まる低い生涯でした。貧しい人の所に行って友となり、集まった人に神の国の話をし、病人を癒やし、弟子を教育しました。人から誤解され、馬鹿にされ、憎まれ、最後は十字架に殺されました。どんなに損をしようと苦しもうと、人からどう見られようと、イエスは神様に従い、人として歩みました。その私たちとともに歩むイエスの生涯が、私たちの希望なのです。

ヘブル2:17…イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。…18イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。…4:15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

 穴に落ちた人を助けるには、登り方を教えることも出来るでしょう。ロープを下ろすことも出来るでしょう。しかし、イエスはその穴の中に飛び込んで、私たちの所に来て、一緒に上らせてくださるのです。イエスは、神の子で石をパンに変えることも出来るのに、それよりも私たちとともにいて、人としての私たちを助けてくださいます。

 生きていると病気や問題や悲しいことがあります。そういう苦難が「試練」とよく呼ばれます。でも、苦しい事だけでなく、もっと楽をしたい、苦しみを避けたい、人から認められたい。そういう誘惑も沢山あって、嘘やズルや悪事へのきっかけになります。その結果、人を悲しませ、神様を悲しませて、大きな後悔になります。ですから、

「私たちを試みに遭わせず悪からお救いください」

とは、ただ苦しい目に遭わせないでください、という以上の祈りです。私たちが、神様を信頼して、神様の導きに信頼して生きていけますように。苦しいことも、うまい話も、冒険も臆病も、色々な誘惑がありますから、どうぞそうしたあらゆる試みから守ってください。でも、誘惑は避けられませんから、どうぞ悪からお救い下さい、惑わされないように、私たちを強くしてください、という祈りです。そして、そう祈りなさいと教えてくれたイエスは、本当に私たちと同じ人間となって、誘惑を味わい知ってくださっています。私たちを助けてくださいます。また、誘惑に私たちが惑わされても、最後には必ず救い出してくださいます。私たちは、その神の助けを求めるだけでなく、神がイエス・キリストによって人生を導いてくださいと願います。人の声に振り回されそうになっても、神が私を導いて、私を守り、救い出してくださると信頼して、お預かりした私の人生を歩ませて戴きましょう。

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夜の教会学校「もしもし。神様です」

2019-07-28 06:39:33 | はじめての教理問答

2019年7月14日 夜の教会学校「もしもし。神様です」 

 「もしもし」ってどんな時に使いますか? すぐに思いつくのは、電話を掛けた時。僕が誰かと電話で話をしたい時は、電話をかけて「もしもし、古川です」と言います。教会には「もしもし、教会ですか?」と電話が来ます。その電話を取った時、「もしもし神様です」ってことは、神様からの電話ですね? 神様から電話が来たら、ビックリしますね。そんな電話が本当に来たら、すぐに切った方が安全です。神様は電話よりもお祈りでお話しをします。電話は使いませんが、神様はみんなとお話ししたいと願っているお方。そんな神様なんだって思って欲しくて、今日は「もしもし。神様です」というタイトルにしてみました。

 教会では、神様がおられることを信じています。この大きな世界を造られた、すばらしい神様がいて、今も世界を治めていること、ただ一人のその神が私たちに命をくださっていると信じます。でも、神様の大きさ、すごさを言うだけではなく、その神が私たちを造り、愛しておられるとも信じるのですね。世界よりも大きな神が、この私たちを造られたのは、私たちを愛するためです。君は愛されるため生まれたってさっき歌った通り、神様は私たちを愛して、私たちが神の愛を現すような人になるために、人間を造りました。でも、そんなことは信じられなくなるぐらい、人間は今、神様から遠く離れてしまっています。その私たちのために、イエス様が来て下さいました。イエス様は、神のひとり子であるのに、私たちと神様との間をもう一度結び合わせるために来て下さったお方です。だからイエス様は私たちに祈りを教えてくださいました。私たちが親しく祈ることが出来る神様。「もしもし」と電話したいぐらい、神様は私たちと話したい。私たちが神様にお話しするのを待っているお方なんだと、イエス様は教えて、私たちと神様を結び合わせてくださったのです。だから、教会ではお祈りする時に、よく最後に

「イエス様のお名前によって祈ります」

と言います。そう言わない時でも、イエス様が私たちと神様とを結びつけて下さった、唯一のお方なのです。

 私たちは、神様の愛をいただくために造られました。だから、お祈りは大事なのです。

 この絵を見て下さい。これは、キリスト教会で一番古い絵の一つ。お祈りをしている人ですね。どんな特徴がありますか? 目を開いて天を見ています。手も上にあげて、のびのびと祈っています。その頃の多くの宗教にも、お祈りはあったそうですが、キリスト教の祈りの嬉しさ、明るさはユニークです。そして、この人は女性です。昔は、男性が偉そうにしていましたが、イエス様は女性にも近づいて話しかけました。女性が祈っている。この絵は、イエス様のことを知って、神様ってどんな方かを知ったクリスチャンの特徴が現れています。私が話しかけるのを待ってくださっている神様。私の祈りを聴いてくださる神様がいる! 女性も男性も、こどもも、神様に祈れる! イエス様が、天の神様と私をつなげてくださった! そんな喜びが、この祈りの絵になって、二千年近く経った今も、目にしているんですね。

祈りとは、神さまをほめたたえ、神さまの与える祝福に感謝し、そして聖書において約束していることを、神さまに願い求めることです。

 こういう説明があります。お祈りって、神様はすばらしいなぁとか、神様のなさることはすごいなぁとか、神様への驚きを言ったり、神様のくださる良い物を「ありがとうございます」とお礼を言ったり、神様に御願いをすることです。なんでも御願いしてもいいようで、僕たちはよく腹を立てたり、悲しすぎたりして、適ったら困るような御願いをすることがあります。ですから、なんでも、とは言われていません。でも、御願いして良いのです。そして、大事なのは、御願いを叶えてもらうためにお祈りするのではない、ということ。祈りは、御願いが適うかどうかではないんです。みんなの家族や友だちとの関係も、そうでしょう? 御願いを聞いてくれなかったら、もうおしまい、と言われたら、嫌だと思いませんか? ですから、こんな言葉もあります。

「祈りとは神との友情を育てること」

 世界を造ったただひとりの神様が、私に話しかけて、私の祈りを聴いてくださっている。私の心の声を聴いてくださっている。私の友だちでいてくださる。それ自体、凄いことだと思いませんか? お祈りの度に、私たちは神様とますます友だちになるのです。神様が友だちだから、ひとりぼっちの時も、本当は独りではなくなります。神様がいてくださると思うと、私たちの心は強くなります。神様の優しさを思うと、私たちも優しくなります。祈っている時も、神様は私たちのことを全部ご存じなのですから、嘘はつけません。正直なことを祈り、正直な人になっていくのです。

 ぼくは、朝起きたら、「神様、今日も起きられてありがとうございます。今日も1日よろしく御願いします」と祈ります。妻が起きたら、一緒に手をにぎってお祈りします。遠くにいる家族や友だちのことも大事ですから、神様によろしくお願いしますと祈ります。ご飯を食べる前、朝、昼、晩それぞれに祈ります。そして、夜寝る前にも、夫婦で手を繫いで祈ります。そして、歩いていても、何かをしていても、お仕事の合間にも、祈っています。「神様、ありがとうございます」とか「神様、助けてください」とか、短くお話しすることもありますし、「神様」とだけいって、しばらく静かにじっとしていることもあります。目を瞑るときもあれば、目を開いて手を前に向けて祈る時もあります。どんな祈りでも、神様は待っておられるはずです。祈るとホッとします。祈ると、神様がいてくださることが分かって、安心できますし、本当に嬉しくなります。

 皆さんも、いつでも祈ってみてください。短くてもいいから、祈ってください。上手な言葉で祈ろうなんて思わなくて良いから、祈ってください。言葉で祈るより、手紙を書くのが好きな人は、神様にお手紙を書いてみてください。日記のように、神様へのお祈りを書いていってもステキですね。

 今からカードを配ります。これは、イエス様が教えてくださった「主の祈り」という祈りです。イエス様が教えてくださったのですから、この祈りを読むのも良いです。この祈りは最初、神様に向かって「天にいます私たちの父よ」と始まります。天の神様に「私たちの父よ(お父さん)」と呼びかける。神様が私の天のお父さんになってくださった。そういう素晴らしい関係があることを、祈りは思い出させてくれるのです。

 

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