モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

初期「私小説」論――葛西善藏(8 最終回)狂気をめぐる2つの文章

2024年04月05日 | 初期「私小説」論
後半生の善蔵を悩まし続けた、得体の知れない亡霊・夢魔につきまとわれるという“病気”をめぐって、その見えざる精神の格闘に踏み込んでいくことは私の能力ではとてもなしえません。
ここでは、『弱者』からもうひとつの文節と、更に二十世紀のフランスの哲学者によるもう一つの文章とを並列することを試みてみたいと思います。(葛西善藏の文章には現在差別用語に指定されている言葉が使われています。ここでは原文のオリジナリティを尊重してそのまま掲載します。)



(夜になると庭の黒い繁みの中の黒い亡霊に悩まされるという錯乱気味な妄想を叙述する文のあと、)
自分は気違ひに丈はなり度くない。自分はどんな病気で死ぬことも、止むをえないことだとは思つてゐるが、気違ひで死ぬこと丈はいやだと思つてゐる――これ丈の自分は、自意識を持ってゐるつもりだ。ほんとに神経病になるものは、さうした神経病的兆候についての自覚が鈍いものらしい。自分は、そんなことはない。頭痛についても、不快感についても、麻痺感についても、全体としての神経が鈍つてゐるとは考へない。だから、神経衰弱ではあるんだが神経病ではないんだ――かう思ひ込んできてゐたことが、この瀬戸物の割れた堆積を見たときには、自分は悪寒と同時に、シーンとした淋しさと、訳の分らない涙の湧いてくるのを防ぐことが出来なかった。自分の神経が真に犯されてゐるとしたならば、之程悲しいことはない。中庭から覗かれる狭い空を眺めて、自分は呆然とした無力な気持で、突立つてゐた。…(葛西善蔵『弱者』より)


 精神疾患の穏やかな世界の真ん中で、現代人はもはや狂人と交通していない。一方には、狂気の方へ、医師を代表に送り、病気の抽象的普遍性を通してしか関係を許そうとしない理性の人がある。他方には、秩序、身体的および精神的拘束、集団の匿名の圧力、周囲との一致の強要といった、おなじように抽象的な理性を仲立ちとしてしか相手〔理性の人〕と交通しない狂人が一している。共通の言語はそこにはないというか、もはやないのである。十八世紀末における精神疾患としての狂気の成立は、対話の決裂を確認し、分離をすでに確定的なものとみなし、狂気と理性とのやりとりが行われていた。不完全で、固定的な統辞法を欠く、片言ともいえる言葉のすべてを忘却の中へと沈めてしまう、狂気についての理性のモノローグである精神医学の言語は、そのような沈黙の上にしか築かれえなかったのである。(M・フーコー『狂気の歴史』より)


葛西善藏の項は今回でいったん終わります。
次回からは、近松秋江を論じていきます。






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