モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

初期「私小説」論――近松秋江(2)明治男のダメさ加減を晒し出す

2024年04月18日 | 初期「私小説」論
近松秋江の代表作は『別れたる妻へ送る手紙』とするのが衆目の一致するところです。
比較的初期の作品で、これが文壇での評価を得たことで小説家としての地歩を固め、秋江文学の世界を築いていく大一歩となりました。
この作品のあとは『別れた妻』の系列をなす作品群が続き、さらに大阪や京都、鎌倉といった古都の花街を舞台にした遊女との情痴を重ねていく小説シリーズへと展開していきます。
そのほか、歴史小説や政治小説を試みた作品もあって多芸振りを発揮しますが、白眉はやはり『別れた妻』シリーズをもって嚆矢とすべきでしょう。

『別れたる妻へ送る手紙』は、7,8年間ほど連れ添ってはきたが、夫たる“私”は安定した収入も無く、妻は不安がって遂に家を出て行方を晦ます、その妻に送る手紙文で小説を構成した作品です。
この代表作のあと『疑惑』、『閨怨』(『別れた妻…』の続編)といった佳作が次々と発表され、俗に言う「寝取られ男」の惨めな心理や嫉妬心や猜疑心が有体もなく露呈されていきます。
『別れたる妻へ送る手紙』や『疑惑』では、それを凝縮して表現したような文章が見つからない(長めの文節ならありますが、ここに引用するには長すぎる)のですが、『閨怨』にはつぎのように述懐するシーンがあります。

(妻と住みなれた家を引き払うことを決めて引越しの作業をしていくシーンで)
「萎えたやうな心を我から引き立てて行李を縛ったり書籍を片付けたりしながら其処らを見舞はすと、何其につけて先立つものは無念の涙だ。
「何で自分はこんなに意苦地がないのだらう。男がそのやうなことでは仕方がない」
と自分で自身を叱ってみたが、私には耐力(たわい)もなく哀れつぽく悲しくつて何か深い淵の底にでも滅入り込んでゆくやうで、耐(こら)え性も何もなかった。」


いかにもたよりない境涯をみじめったらしく嘆くばかりですが、しかし恨みつらみのようなことは書いていない。
それは男の沽券というものを保とうとして虚勢をはっているからで、そのことが更にさりげなく滑稽感を表出していく効果を出していきます。
そういったことを、秋江は“私”を語り手として、自分自身の体験(実際に、妻であった女性に離縁されている)にもとづいて書いているのが、当時の読書界に衝撃を与え、明治男性のプライドを大いに傷つけたのでした。

女性に対して男性は徹底的にエゴイストで、男の沽券でもって女性を支配しているように見せかけながら、実は小心で嫉妬深く、ある感情に捉われるとそれに拘泥して抜けられなくなり、ついには女性の足元にひれ伏しようになる、といった男性像を描いていくことが、女性に溺れていく男性の姿を描く情痴文学や遊蕩文学のように受け止められていったわけです。
そういったことから近松秋江は情弱小説家のように見なされたりしてるようですが、私の印象ではむしろ男性の本質ということと向き合い、その真実の姿を描くことに文学の使命を見出していった小説家であるように思われます。
私はそこに “ある戦い”のイメージを思い描いてみたいと思います。私小説家近松秋江の内部で密かに設定されていた、明治国家イデオロギー下での“男性社会”との戦いです。



ところで、『別れたる妻へ送る手紙』の後半は、独り身となった淋しさに夜ごと紅灯の巷をほっつき歩いているうちに遊行の町の女とめぐり合って、また性懲りもなく“男性の性”に向き合っていくような事態が始まっていくのです。
その場面転換は次のように書かれています。
「 処がさうしている内に、遂々一人の女に出会(でくわ)した。
 それが何ういう種類の女であるか、商売人ではあるが、芸者ではない、といへばお前(元別れた妻)には判断できやう。一口に芸者ではないと言つたつて――笑っては可けない。――さう馬鹿には出来ないよ。遊びやうによっては随分銭も掛る。加之女だって銘々性格があるから、芸者だから面白いのばかしとは限らない。」

別れた妻への手紙にこんなことを書くなんて、普通に考えてありえません。(つづく)









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