モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

「わざ」の観点からアートを見るならば…。

2009年06月27日 | アートの工芸的見方


かたち21のHP



森田珪子さんの「わざのないものはつまらない」発言以来、
「わざ」という言葉が頭にこびりついています。
今の世に流行っていてもよさそうとも思える言葉ですが、
ネットで検索しても案外そうでもないのです。
斎藤孝さんの膨大な著作群からも、「わざ」という言葉の入った本を見つけられませんでした。
考え始めると、想定外に奥が深そうです。

「わざって何?」と、身近の人と話してみました。
ブラインドタッチでキーボードを超高速に打てるというだけでは「わざ」とは言えない。
超絶技巧だけでは「わざ」とは言えない。だけどフジコ・ヘミングには「わざ」を感じる。
辻井伸行君はどうかな?

わざは、技であり、芸であり、態であると森田さんは言います。
「技」というのは分かる。「芸」というところまでも、なんとか……分かる。
しかし「態」というところになるとね…。

フジコ・ヘミングの音の出し方、ひとつひとつの音の明確さ、音の読みの深さは、
「技」や「芸」を支える「態」を含んでいると考えるほかありません。
そうやってフジコ・ヘミングは、たとえばショパンをうたっているんです。
同じように60年代までのジャズマンやブルースシンガーもうたっていて、
やはり「態(わざ)」があったと思います。

今のアートは遊園地グッヅ化してますが、ちょっと前まではコンセプチュアルであるとか、
オリジナリティとか、自己主張がどうのとか、言ってました。
だけど「わざ」ということには目を向けてこなかったですね。
それが遊園地グッヅ化を、もたらしたひとつの要因ではないかと思われます。

いま改めて、「わざ」という観点からアートを見ていくというのはどんなものでしょう。
それは、いま人はどう生きているのかを問うということですね。
それをいわば「技」や「芸」を通して問うということです。
そんな重ったるいことは、今のアートには求められていないのでしょうか?
そうかもしれません。そうやって人の世から、「わざ」が消滅していくのかもしれません。





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