始めにお知らせ
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ブログタイトル:「侘びのたたずまい——WABism事始め」
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前回、インド古代の仏教哲学者で大乗仏教の始祖とされる龍樹(ナーガールジュナ)を引き合いに出しましたが、
彼の主著『中論』のことにもう少しふれておきます。
前回は、「自分自身を見ないものがどうして他のものを見るであろうか」ということから、
眼(=見るはたらき)とか「見られるもの」とか「見る主体」とかいったものは本当は存在しないのである、
と結論づけていくのが、“空”を説く『中論』の論理です。
と書いたわけですが、ここで、「本当は存在しない」と書いているのは、ちょっと問題があります。
私が思うには、「本当は存在しない」という言い方は龍樹はしていないのではないかということです。
龍樹の哲学の特徴はその否定性にあるというようなことが言われてますが、
“空”とか十二支縁起のことは説いていても、人間の意識に現象してくる事柄を、
一律的に否定しているわけではないと思います。
それは『中論』を原語であるサンスクリット語で書かれているのを眺めていると、
そういうことが感じられるのです(私は、『中論』を読むために、サンスクリット語を少しかじったことがあります)。
見るはたらきをはじめ、聴・臭・味・触の五感についても同じ理屈で、五感のはたらきというものは存在しないとしていきます。
しかし日本語訳の本では「存在しない」と訳している箇所の単語は、
直訳すると「存在しない」という語感ではなく、「消え去る」とか「遠ざける」といった意味の言葉が使われています。
中国語訳では“無”という字が当てられているので、「存在しない」と意訳するのかも知れませんが、
この語感で『中論』を読んでいくと、どうしても難解で、「なんだかわけが分からない」という混沌とした印象になってきます。

釈迦の入滅後500年が経過する中で、釈迦が説いたことをどう解釈するかでさまざまな考え方が派生して、
龍樹が活動した時代には、部派仏教といって百家争鳴的な状況を呈していたのを、
仏教哲学を成り立たせている基本的な諸カテゴリーを根底的に検証しなおしていって、
仏教を刷新したのが『中論』という著作です。
現代の言葉でいえば、いわば仏教思想を〝脱構築“したのですね。
そこには部派仏教への徹底した批判が遂行されているのですが、
『中論』の土台をなしている論理は、Aというテーゼに対して非Aを立てる、
すなわち、二項対立的な枠組みを立てて既成観念を批判していくというスタイルではない。
言い換えると、「ある―ない」とか「存在する―存在しない」といった二項対立の下に、批判の論理を組み立てているのではないように私には思えます。
たとえば、『中論』の冒頭の出だしは有名な「不生亦不滅 不常亦不断」という偈ですが、
「不生」という詞は「生」の否定としての「不生」、「生じる」(存在する)ことの否定としての「生じない」(存在しない)ことを言ってるのではないということです。
「不生」は「(何事も)生じないことが実相である」、というようなことだけを言っているということです。
「生」というカテゴリーは「不生」の中に含まれている、というぐらいのニュアンスでしょうか。
「見るはたらき」とか「見る主体」といったことは、「存在する―存在しない」「ある―ない」といった枠組みで判断される事柄ではなくて、
いわば“縁起”のなかで現象したり消滅したりする事柄である、といったようなことを言ってるのだと思います。
これが、大乗仏教の世界を説く般若系仏典では「AはAでなく、Aでないのでもない」といった論理の構造や、
天台止観の「仮を出でて空に入る」という中観の思想に繋がっていったりするわけです。
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前回、インド古代の仏教哲学者で大乗仏教の始祖とされる龍樹(ナーガールジュナ)を引き合いに出しましたが、
彼の主著『中論』のことにもう少しふれておきます。
前回は、「自分自身を見ないものがどうして他のものを見るであろうか」ということから、
眼(=見るはたらき)とか「見られるもの」とか「見る主体」とかいったものは本当は存在しないのである、
と結論づけていくのが、“空”を説く『中論』の論理です。
と書いたわけですが、ここで、「本当は存在しない」と書いているのは、ちょっと問題があります。
私が思うには、「本当は存在しない」という言い方は龍樹はしていないのではないかということです。
龍樹の哲学の特徴はその否定性にあるというようなことが言われてますが、
“空”とか十二支縁起のことは説いていても、人間の意識に現象してくる事柄を、
一律的に否定しているわけではないと思います。
それは『中論』を原語であるサンスクリット語で書かれているのを眺めていると、
そういうことが感じられるのです(私は、『中論』を読むために、サンスクリット語を少しかじったことがあります)。
見るはたらきをはじめ、聴・臭・味・触の五感についても同じ理屈で、五感のはたらきというものは存在しないとしていきます。
しかし日本語訳の本では「存在しない」と訳している箇所の単語は、
直訳すると「存在しない」という語感ではなく、「消え去る」とか「遠ざける」といった意味の言葉が使われています。
中国語訳では“無”という字が当てられているので、「存在しない」と意訳するのかも知れませんが、
この語感で『中論』を読んでいくと、どうしても難解で、「なんだかわけが分からない」という混沌とした印象になってきます。

釈迦の入滅後500年が経過する中で、釈迦が説いたことをどう解釈するかでさまざまな考え方が派生して、
龍樹が活動した時代には、部派仏教といって百家争鳴的な状況を呈していたのを、
仏教哲学を成り立たせている基本的な諸カテゴリーを根底的に検証しなおしていって、
仏教を刷新したのが『中論』という著作です。
現代の言葉でいえば、いわば仏教思想を〝脱構築“したのですね。
そこには部派仏教への徹底した批判が遂行されているのですが、
『中論』の土台をなしている論理は、Aというテーゼに対して非Aを立てる、
すなわち、二項対立的な枠組みを立てて既成観念を批判していくというスタイルではない。
言い換えると、「ある―ない」とか「存在する―存在しない」といった二項対立の下に、批判の論理を組み立てているのではないように私には思えます。
たとえば、『中論』の冒頭の出だしは有名な「不生亦不滅 不常亦不断」という偈ですが、
「不生」という詞は「生」の否定としての「不生」、「生じる」(存在する)ことの否定としての「生じない」(存在しない)ことを言ってるのではないということです。
「不生」は「(何事も)生じないことが実相である」、というようなことだけを言っているということです。
「生」というカテゴリーは「不生」の中に含まれている、というぐらいのニュアンスでしょうか。
「見るはたらき」とか「見る主体」といったことは、「存在する―存在しない」「ある―ない」といった枠組みで判断される事柄ではなくて、
いわば“縁起”のなかで現象したり消滅したりする事柄である、といったようなことを言ってるのだと思います。
これが、大乗仏教の世界を説く般若系仏典では「AはAでなく、Aでないのでもない」といった論理の構造や、
天台止観の「仮を出でて空に入る」という中観の思想に繋がっていったりするわけです。