月と歩いた。

月の満ち欠けのように、毎日ぼちぼちと歩く私。
明日はもう少し、先へ。

サギサワさんのこと

2020-07-09 | 
好きな作家を問われたら、ベスト10くらいには入ってくるのが鷺沢萠さんだ。

彼女のデビュー作は「川べりの道」1987年(昭和62年)。
この作品が第64回文学界新人賞を受賞し、彼女は女子大生小説家としてデビューした。
受賞が史上最年少であったことや、ちょっと目を引くようなきれいな顔立ちから、当時はかなり注目された。

私もデビュー作の入った「帰れぬ人々」という単行本を読み、衝撃を受けた。
私よりたった3歳上(姉ちゃんと同じやん!)。それでこんなものを書けるのだと。
また、その作風が私の気に入った。
純文学なのに、現代風のニュアンスもあって。まさにその当時の自分が書きたかったものだった。
好き、憧れ、面白い、素敵、もっと読みたい。
そんなポジティブな感情が9割。
あとの1割は、悔しい、なんでやねん、自分もこんなん書きたいねん、書かれへんやん・・・だった。

ポジティブが9割なのだから、私は彼女の作品に夢中になって、とにかく新作が出れば買い求めた。
そして今も、1冊も捨てずに置いている。



これ以外にも、文庫が何冊か。

少し前に、Facebookでまわってきた「7日間ブックカバーチャレンジ」。
毎日1冊だけ、ブックカバーを撮ってアップするというもの(本の説明はなくてOK)。
たった7冊!
それは、本を心の拠り所としてきた身としては難しい選択だった。
最後まで悩んだ中にあったのが、鷺沢さんの「果実の舟を川に流して」だった。
ただし、この作品は「葉桜の日」というタイトルで出版されている本の中に入っている。
そして、候補にはあがったものの、もう四半世紀読み返したことがない作品でもあったため、最終選考からは外れた。

なぜこの作品をこんなに好きなのに、四半世紀も読まずにいたのかといえば、20歳くらいだった私が打ちのめされたからだ。
あの頃、私は本気で作家になりたいと思っていた。
だから、自分とそれほど年齢が変わらない彼女が文壇に出てきた時の衝撃はすごかった。
憧れたし、打ちひしがれもした。
特に、この「果実の舟を川に流して」を読んだ時に、ああ、同年代でこんな作品を書く人がいるんだ。それじゃ、もう私みたいな凡人がどんなに努力したって無駄だなと思った。
突っ伏して、頭を上げることができなかった。これはまさに自分が書きたいと思っていた世界観だった。

そして、作家をあきらめた。

数年後、鷺沢さんが自害されたとニュースで知った時はショックだったけれど、なんとなく予想していたような気もした。
「なんであの人が・・・」みたいな感じはなかった。
尾崎豊の死を知った時に似ていたかもしれない。
悲しいし、生きていてほしかったし、もっと作品を感じたかったけれど、仕方ないと認める自分もいて。
彼女は若くして、あまりにも世の中を繊細に表現しすぎていた。

先日、四半世紀ぶりにこの作品を手に取り、ページを開いてみた。
20代前半の女性が書く瑞々しさ、少し道を外した人が生きる様を真摯に見つめる眼差しの鋭さを感じた。
だけど、あの頃の私が受けたような衝撃はなかった。
打ちのめされて、もう立ち上がれない。いわばノックダウンのような、そんな衝撃はなかった。
それがあると警戒していただけに、あれ?と思った。あの時は確かにあったのだけど。

いい作品だったことに変わりはない。
でも、衝撃がなかったのは、私が年をとったということなのか。時代が進んだということなのか。
あの打ちのめされる感覚が怖くてずっと読んでいなかったのに、拍子抜けした。

それで思った。
例えば、村上春樹の名作「ノルウェイの森」を、今、20歳の若者が初めて読んでどう思うのか。
10人読んだら、数人は気に入ってくれるかもしれないけれど、それは私がリアルタイムであの作品に出会った時の感情とは絶対に違う。

今も時々、鷺沢さんが生きていたらどんな作品を書いていたのかなと思うことがある。
それくらい私にとっては、人生において大事な作家の一人だ。

一歩ずつ前進

2020-07-06 | 想い
土曜日は夫と一緒に私の実家へ行き、2時間ほど両親と共におやつを食べながらおしゃべりした。
身内とはいえ、コロナ自粛以降は家にあがることも躊躇していたが、少し距離をとりながら向かい合った。

両親はマイナンバーカードを持っており(マイナンバーが配布された時、すぐに作っている)、どこかでもらってきたマイナポイントについてのチラシを見せてきた。
マイナポイントをもらえるようにしたいのだが、やり方がわからないとのこと。
説明を見ると、アプリをダウンロードしてマイナンバーを登録しなければならない。
母のスマホでやろうとしたが、カードを全く読み取らないので調べてみると、母のiPhoneは機種が古すぎて対応していなかった。
今度PCでやってあげるからと約束して、ひとまずこの作業は保留にしたが、夫と「これ、老夫婦には無理やろ・・・」と話す。
わかりにくい。ちっとも親切じゃないな。

今年、父は83歳、母は76歳。
おかげさまで高齢にも関わらず二人とも元気で、母はいまだに週2~4回ほど、園芸店で働いている。
しかし、先月は園芸店で毎週末にフリーマーケットのイベントがあり、そのたびに駆り出され、いよいよLINEで「疲れた」と私に贈ってきた。
母から「疲れた」なんて言葉を聞いたのは生まれて初めてのこと。「鋼鉄の女」も年齢には勝てないらしい。

とはいえ、肌つやもよく、シャキッとしている。
年々体は小さくなり、老人ぽい振る舞いも増えてきたが、同年代の人と比べれば元気なほうなんだろう。いつまでも元気というのは、ありがたいことだ。

先週はコロナ自粛以来、以前のようにいろんな人と会う1週間だった。
連続で外出しても疲れなくなったなと思う。
前回の治療から45日が過ぎ、完全に体力も戻ってきたのだ。
手足の痺れも少しずつだがよくなっており、例えば100粒の砂を踏んでいたとすれば、今は50粒くらい。先日、急に足の裏の感覚が戻ってきて、久しぶりに「床」を感じた。
痺れは長く残る人もいると聞いていたので恐れていたが、少しずつでも良くなっているということは、完全に治る可能性もあるということ。そのことにホッとした。
その他はすこぶる元気で、相変わらず自覚症状は一切なし。食欲は人の2倍(また太ってきた!)

正直、もうガンをなくそうという気持ちもない。それは自分の中にあるガンに対して恐れがないからだ。
この不安定で混乱している細胞を可哀そうに思うだけで、憎しみもなければ、叩いてやろうという攻撃的な気持ちもない。
私に何の痛みももたらさず、そこにあるだけなら、このまま一生共存しても構わないと思っている。
もし、痛みをもたらし、内臓まで侵食し、機能を弱らせ、食欲をなくし、体力を奪い、死を近づけていくならば、何とかして取り除きたいと思うけれど。
今私の中に確かにあるはずなのに、何の攻撃もしてこないのであれば、私だって自分の一部なのだから攻撃したいとは思わない。
8月の検診で「現状維持」ならば、また2~3ヶ月、また2~3ヶ月と、ずっと検査だけ続けながら治療はしないでおきたい。それが今の私の一番の望み。

仕事も戻り始めた。
来週また兵庫県で取材が入ったし、4月に打ち合わせをして企画提出してからストップしていた某スポーツメーカーの小冊子制作も今月後半から動き出すとのこと。
とりあえず大阪以外では、奈良、山口、神奈川に取材に行く予定だ。(今、ディレクターさんにスケジュールを引いてもらっている)
ただ、首都圏で感染者が増えてきているので、2~3週間後のことだからどうなるかわからないけれど。このままだと、また県外移動ができなくなってもおかしくはない。
本当に、先の予定が立てづらくなったなと思う。
日本酒の雑誌に関しては、残念ながら7月号が休刊になったし、今のところ取材の予定は全くなし。どちらにしろ夏場は酒造りをしないので、再開は9月だろう。

夫は変わらず在宅ワークが基本だが、週に2日くらいは出社してくれるようになった。
先週と先々週は東京出張もあり、大きな仕事を終わらせてきた。
日本でまだほとんど例がないプロジェクト。それも2週間というタイトなスケジュールの中、文字通り不眠不休の働きぶりを見せ、結果的に大成功を収めた。
クライアントが涙を流して喜んでくれたという。
このクライアントがまた素晴らしい人で、夫を含めたチームメンバーに向けてお礼のメールを送る時、CCに夫の会社の社長も入れてくれたのだ。
社長は夫の活躍とクライアントからの評価を目にすることになる。
そのうえ、その方は同じプロジェクトを「うちもやってほしい」という人を夫に紹介してくれたので、新たな取引先と次の仕事にまでつながった。

クライアントからのお礼メールを私も見せてもらい、思わず涙があふれた。
「なんでかおりが泣くの?」と言われたが、そりゃ感動するよ!
誰もやったことがない、例がない、失敗は許されない、時間はない。そんな悪条件とプレッシャーの中、どれほど頑張ってきたか、私が一番よく知っている。
私だってハードワークをこなしてきた人生だったけど、その私が「人間ってこんなに働けるんだ・・・」とびっくりするほど集中して仕事をしている姿を、在宅ワークだったから、ずっとそばで見てきた。
その頑張りが報われ、仕事として評価され、何よりもクライアントにこんなにも喜んでもらえた。新たなキャリアとなって、次の仕事にまでつながった。これ以上はないというほどの大成功。
これが泣かずにいられようか!
いい仕事ができるって、本当に素晴らしい。感動したし、夫を誇らしく思った。
同時に羨ましくも思った。
私も寝食を忘れるほど夢中で働いて、こんなふうに人に喜ばれるような仕事をまたできるようになればいいのだけど。

来週から少しずつ仕事が増えてくるので、今週は営業用の「自分の文章」を書くことにした。
記事を書き溜めて、今月中には自分のホームページを公開できるようにしたい。
休薬して体力も回復し、仕事に追われていない今こそ、私も新たな一歩を踏み出さなければ。

いつだって大満足!

2020-07-04 | 美味しいもの
気のおけない友達と、3人でビストロ・モナミへ。
できればいろんな店を知りたいので、強い気持ちがなければどの店もリピートしない私だが、モナミへは何度もランチを食べるために足を運んでいる。
機会があればいつでも行きたい「お気に入りの店」のひとつ。

毎年3人の中では、それぞれの誕生日を祝う食事会が行われるのだが、5月の私の誕生日会はコロナ自粛で延期になっており、今回ようやく開催となった。
2人に「どこに行きたいか」を聞かれて、迷わず「モナミ」を挙げた。ずっと行きたかったのだ。

入店すると店員さんがお客一人ひとりの手に除菌スプレーを吹きかける。
座席も以前より少しゆったりしているようだ。「小さな声でしゃべってほしい」等の注意書きの紙も渡された。
どこもこうやって対策しながら営業しているのだろうな、と思う。

いつものように2800円のコースを注文。
同店の売りである前菜は、自慢のキッシュにたっぷりの野菜が特徴だ。今回はタコのマリネやジェノベーゼのカッペリーニも。
毎回食べるたびに「小食女子だったら、この1皿で満腹やんね」「ほんまにこういうワンプレートランチあるもんね」と話す。



グリンピースの冷製スープ。
先日も別の店でヴィシソワーズを食べたが、夏はこういう野菜の冷たいスープがおいしい。



選べるメインは鯛にした。
初めて見る人はこの大きさにびっくりするだろう。一般的なお店の2倍くらいはある。付け合わせの野菜も大胆に、ほぼそのままの形で切らずに、どーん!と添えられている。(ちょっと食べにくい)
身がふっくらとし、表面は香ばしく、ソースも美味しかった。



最後はデザートとコーヒー。キャラメルとバニラのアイスは少し大人の味だった。(できればもう少し甘いものが欲しい)



今回も大満足!
私の誕生日会なのでお会計は二人が済ませてくれた。ありがたい。

ランチの後は、雑貨屋と一緒になったオシャレなカフェへ移動し、ジンジャーレモネードなるものを飲みながら長時間しゃべった。
2人に会うのは今年に入って初めてだったので、近況報告だけでもたくさんあった。
会わない間も、それぞれの場所で頑張って生きていた。

ガン再発の心配もコロナ感染への恐怖も、心の中から完全に消え去ることはないけれど、のんびりと穏やかな気持ちになれるひと時だった。

愛しき「日常」が、再び。

2020-07-02 | 
月曜の夜、かどやと二人で飲んだ。
外で飲むという行為自体がおよそ4ヶ月ぶりのこと。
高槻の夜の街はどんな感じだろうかと思っていたが、閑散とするわけでなく、かといって元通りの人混みでもなく、ちょうどよく感じた。
若い女性がほとんどという客層の、カジュアルなイタリアンレストランに入り、ピザやアヒージョ、シーザーサラダなどを注文。
生ビールで乾杯したら、ああようやく「日常」だと思えた。急激に目に映る人やモノの色が濃くなったのを感じた。

久しぶりに会ったというのに、話題は無農薬野菜の育て方のこと。
「土が大切」「化学肥料はあかん」等、農家の人のように話すのを聞いていたら、なんだかおかしくなって笑ってしまった。
でも、そういう肩ひじ張らない会話が、私の心も体もゆるゆるとほぐしてくれるのを感じた。
あっと言う間に赤ワインのボトルが空になると、「ウイスキー飲みに行こう」とかどやが言うので、近くのJKへ。
エヴァンウィリアムスのロックに、スモークチーズ。
お酒が進めば、少し話題も深くなり、1時間のつもりがまた2時間。楽しい時間だった。

この日を皮切りに、週に1回程度、友達と会っていきたいと思っていたのだが、想定外のことが2つも飛び込んできて、結果的に3日連続で飲むことになった。
土曜、飲み友達でもあるカメラマンMさんからLINEがきて、「相談があるので電話していいですか?」とのこと。
彼がそんなことを私に言うのは珍しく、何か深刻なことのように思ったので、電話より少し会いましょうかと提案した。
そして、こういう時こそフリーランスの特権を活かして街に人があふれる前の「昼飲み」にしようと、火曜の15時に大阪駅に集合し、ルクアのバルチカへ。
福島駅近くにある「ジャックとマチルダ」の系列店がつい先日オープンしたと知っていたので、そこに行きたかったのだ。
(酒のアテも日本酒も美味しくリーズナブルな立ち飲み屋。同系列の福島の店や天満の店には何度も足を運んでいる)
立ち飲みのほうが2時間でさっと切り上げられるのもいい。
思った通り人もまばらで、感染リスクはかなり低そうだったのでホッとした。

Mさんからの相談事は身内のガンの話だったのだが、それ以外はいつものようにたわいもない話。
外で飲む日本酒も4ヶ月ぶりで美味しかった。
やっぱりリモートじゃダメだ。リアルじゃなきゃ。
若いころからずっとあちこち飲み歩き、人と会話を重ね、自分のエネルギーに変えてきた。
それが原点。
それが源。
自分の生活には、人生には、やはりこういう時間がないとダメだと実感した。

また、今は感染リスクを考えて、さくっと2時間で切り上げられるのもいい。
いつもなら「よーし!調子上がってきた!2軒目じゃ~!」と行くところ、17時になって人が増えてきたのと同時に、「では、また~」と程よいところでスムーズに帰宅できた。(私としては珍しいこと。リスクでもないと、とことん飲むはず)

そして昨日、これまた予定外でふみこと飲んだ。
月曜の夕方、かどやと会うために駅まで急いでいたら、仕事帰りのふみこに遭遇。(これだから近所は・・・)
「急やけど水曜なら仕事休みやから遊べる!」と言うので、その場で即決。駅前でランチしてからうちへ来て、飲みながらしゃべることになった。

うちでタロット占いもしてあげた。
実際に人を前にすると、とっさに言葉が出ないので難しい。
でも、「当たっている」かどうかより、カウンセリングじゃないけど、
「こういうことない?」
「あ、もしかしたらあのことかも」
「今、こんな気持ちじゃない?」
「思い当たる節はある。今こういう環境だから・・・」
みたいな感じで、私が一方的に未来を予想するような占いではなく、一緒に今の置かれている環境や心の動きを整理していくような占いができて、私もまた一段レベルが上がったように思った。(一体何を目指しているのだ、私は・・・)

瞑想の先生に言われていたことをふと思い出す。
私は「のど」が弱い。それは肉体的な意味(病気ということ)ではなく、ヒーラーとして見た時のこと。
「もっと言葉にして喉を使ったほうがいい」と言われていた。
それはなんとなく昔から私も思っていたことで、ペラペラとおしゃべりなように見えて、実は言いたいことを「話す」ということが苦手だ。「思考」→「話す」の流れがスムーズでなく、うまくまとまらないし、話しながら「あれ?こんなこと言いたいんじゃないのに」と思うこともよくある。
それが、「思考」→「書く」だと本当にスムーズで、自分の考えが脳の中で言葉として認識されるのと同時に書き表していくことができる。だからこそ、物書きになったわけだけど。

タロット占いも、A4用紙にびっしりと文章にしてまとめてあげるのはたやすいのだが、ふみこを目の前にして言葉を紡いでいく作業がとても難しかった。カードのイメージ・持つ意味は理解していて、もやっと心に浮かぶのだけど、それが喉を通して発するとなった時にするするとは出てこない。
でも、これは「のど」を使う、いい訓練になるなぁと思った。

そんなこともやりながら、ちびちびとビールやワインを飲み、ふみこがビールをぶちまけるというハプニングも乗り越え、なんやかんやで夜の9時までうちにいた。(これだから近所は・・・)
ちなみに夫は出勤だったので、終電で帰宅。

ふみこを玄関で見送った後、残ったミントハイボールを飲みながら、コロナ自粛が明けたと思ったら、いきなり濃厚な3日間だったなぁと振り返る。
今くらいの感染リスクなら、このくらいの行動範囲で、このくらいのリスク管理で、皆とまた以前のように過ごせることを確認。
私も休薬中だから、免疫力はほとんど普通の人と変わらなくなっているし、少し安心。まだ気を抜いてはいけないけど。

こうやって、1つずつ戻ってくる日常を、これまでとは違う気持ちで抱きしめる。
愛しく思うし、感謝もあふれる。
1年後、5年後、10年後、このブログに書かれたコロナ時代の私の想いを、未来の私はどんなふうに思い返すのだろうか。
あんなこともあったよねと、誰かと懐かしく笑い合える未来をつくるために、今日を真摯に生きて、綴る。