夫が12時半頃帰ってきて、一緒にお酒飲みながら話をした。
「しゃくにさわる」出来事も話して、ちょっとスッキリ。
いろんな話をして、私は目が冴えてしまったので、もう少し書くことにした。
今日はなんぼでも飲めるモード。
って言っても、ビール500mlとハイボール3杯で、今、ターキーをロックで飲み始めたところやけど
先に書いた仕事関係者のKさん。
毎日こまめにフェイスブックにいろんなことを書いている。
まだ4回くらいしか会ったことがないのだけど、それを読んでいると、人となりがよくわかる。
いつも「まじめやなー」と思うのだけど、この間はこんなことを書いていた。
「フリーランスの人は本当に大変だと思います。
自分で仕事を取ってきて、その仕事で相手を喜ばさないと次はありませんし、
レギュラーの仕事でも、発注者の気分一つで無くなることだってあります。
そのために取引き先をできるだけ多くして、一つや二つ取引き先が
無くなったとしても大丈夫なように、収入源を分散しないといけません。
言うなれば一人企業です。
忙しさにも波があり、稼げるときに稼がないと、
暇になったときの不安と言ったらないと思います。
弊社もいろいろなフリーランスの方と仕事をしているので、
その苦労、その仕事ぶりにはいつも頭が下がります。」
すみません。完全コピペ。
同じフリーの人とこんなことを話すとか、フリーではない友達にこのような愚痴を言うとか、そういうことは多々あるのだけど、フリーランスの人と仕事をしている人がこんなふうに寄り添って見てくれているのを初めて感じて、ちょっと感動した。
それに対して私は知らない方がコメントしてらした。
「それでも替え難い何かがあってフリーランスでいるわけだ」と。
15年、私はまさにこんな状況&精神状態でいるわけで・・・。
それでもその方の言うように、替え難い何かがあるわけで・・・。
そのことをコメントしようと思ったのだが、途中で消した。
長くなりそうだったしやめた。
短く書いて誤解されるのも怖いし。
私はこれを読んで、自分にとっての「替え難い何か」ってなんだろうかと考えてみた。
いつもフリーでやっている理由を聞かれると面倒なので、「ラッシュの電車に乗りたくなかった」「OLさんとお弁当食べるのが嫌だった」と言うが、これは真実であるけれど「全て」ではない。
あくまでも「一因」ってやつだ。
「替え難い何か」と言われると、やっぱり「自己責任ですべてをやりたかった」ということなんだと思う。
「自己責任」というとなんだか背負ってるみたいできれいだが、逆の意味も含まれている。
「人の責任なんか負いたくない、自分の責任だけは負ってやるけど」
わー・・・
めっちゃ悪いやつ(笑)悪党やな
もちろん、自分の責任も誰かに負ってほしいとは思わない。その代わり、誰の事も負いたくないのだ、私は。
と言いつつ、私の事をよく知っている人ならわかると思うが、すぐ人の事を負いたがる。
例えば、塾にいたときは、後輩の面倒をよくみたし、塾長の面倒もよくみたし、その間に立ってパイプ役もやった。
基本的な性質は「おせっかい」であり「世話好き」だ。
でも、決していい人間やできた人間ではないので、そうやって人の事を負っていることを黙って受け入れられない。
「ダイハード」のマクレーン刑事のように(たとえが古っ!)、いつも「なんで私がこんなことしないといけないんだよ?」と思いながらやってしまう。
自分でそれがわかっているから、事件の起こりそうな場所を避けてしまうのだ。
自己責任って、きれいに聞こえるけど、結局のところは「ワガママ」なんだと自分では思っている。
一人でワガママにやりたい、ただそれだけ。
そして、ワガママを通すためにはどんなリスクを負っても構わないと、そういう気持ちだった。
こんなこと、仕事もらってる人のフェイスブックのコメントでは書けないわな
それと、少し前に友達のブログで「自由」ということについて意見を交し合ったことがあったのだが、「フリーランス」になったのは、言葉通り、やっぱり「自由」になりたかったのだと思う。
今思い返せば、子供の頃から人に何かを強要されるということを極端に嫌うところがあった。
一番わかりやすいのが「勉強」。
中学生の時、塾には一度も行ったことがなかった。それはまあ、私の時代には珍しいことではない。
でも、いつも思っていたことがあった。
「誰かに『勉強しなさい』と命令されたり、お金をかけないと勉強できなくなったら、私はもう学ぶことをやめよう」と。
こんなややこしいことを思っている中学生はあまりいなかったのではないだろうか。
でも、これはいつも思っていた。当時の日記にも書いてある。
勉強は自分がしたいからすることであり、人に言われてやるくらいなら、一生学ぶことをやめてやる、そういう覚悟をもって、一人でコツコツと勉強していた。(お金をかけずに。これ大事!)
いつも「自由」を求めていた。
それがなぜなのか、自分でもよくわからない。
前世があったのなら、かなり縛られた人生を送ったのかもしれないなぁ
自由を求める代わりに、「自由」を得る代償というものも深く受け止めていた。
自由を得た人間は、自由でない人間よりもきちんと生きなければならないと。
きちんと生きられるからこそ、与えられる自由なのだ、と。
本当に、そのことは深く深く肝に銘じていた。
まあでも、そんなこと、大人になればみんな自然に理解している。
だから、「フリーでやっています」と言ったときに、「わー、自由でいいですねー」なんて言う能天気な人はいない。
ほとんどが「大変でしょう・・・」と同情的だ。
同情するなら仕事をくれ!(あー、なんかまた古い匂いが・・・)
フリーランスは本当に大変だ。
そりゃ、私なんかと違って才能がある人なら、フリーでもいいんだろうが。
凡人なのに組織の盾もなくやっていかなければならないのだから。
でも、自分で考えて、自分で決めて、自分で行動して、自分だけの責任をとる。
これって、ワガママ人間としては本当にラクなのだ。
これが「替え難い何か」なんだろうなぁ。
でも、先にも書いたように、「自由」の重みは感じている。
自己管理をきちんとすることはもちろん、人の期待を越えるものを常に生み出し続けなければ、すぐに奪われるものだということも。
Kさんのおかげで、そんなことも振り返ることができた。
毎日のように、自分の才能のなさ、無力さに突き当たる。
でも、そんなことはもう子供の頃からずっとわかっていて、慣れている話。
ただコツコツと真面目に、誠実に、一生懸命頑張って、とにかく結果を出すだけだ。
夫が言う。
「本当にすごい人のコピーは、本当にうまいから!」
うまいんだろうなぁ・・・
私の友達のライターでも、すごくいいコピーを書く人がいる。
夫に言わせれば「気分」なのだとか。
そのライターさんの気分が、その商品にのっている。
私の書くものはコピーではなく、単なる「上手な説明文」らしい
残念ながら、才能ってあるのだ。
でも、私はそんなことには絶対負けない。自分を卑下したりもしない。
なぜなら、最初からAクラスではないからだ
子供の頃からずっとBクラスの人生。
今更Aクラスに行きたいという欲望もない。
Bクラスなりにコツコツと、真面目に、誠実に、一生懸命やっていたら、それなりに感動してくれる人がいるのだ。
私はそれでOKの人生。
ほら、広島カープを応援してる人もたくさんいるやん!(って、広島ファンに失礼やな)
いっぱい失敗して、いっぱい人を傷つけて、自分も傷ついて。
人生折り返しになってようやく悟ったこと。
私はダメなところがいっぱいある。
だけどそれでOKなんだ。
いや、そう思うことさえ違うっていうことをこの言葉で気づいた。
「人は何か一つくらい誇れるものを持っている
何でもいい、それを見つけなさい
勉強が駄目だったら、運動がある
両方駄目だったら、君には優しさがある
夢をもて、目的をもて、やればできる。
こんな言葉に騙されるな
何も無くていいんだ
人は生まれて、生きて、死ぬ
これだけでたいしたもんだ
ビートたけし」
まだ結婚する前の私に、夫が送ってくれた言葉。
いつも、自己嫌悪に陥るとき、自信をなくすときは、この言葉を思い出す。
「しゃくにさわる」出来事も話して、ちょっとスッキリ。
いろんな話をして、私は目が冴えてしまったので、もう少し書くことにした。
今日はなんぼでも飲めるモード。
って言っても、ビール500mlとハイボール3杯で、今、ターキーをロックで飲み始めたところやけど
先に書いた仕事関係者のKさん。
毎日こまめにフェイスブックにいろんなことを書いている。
まだ4回くらいしか会ったことがないのだけど、それを読んでいると、人となりがよくわかる。
いつも「まじめやなー」と思うのだけど、この間はこんなことを書いていた。
「フリーランスの人は本当に大変だと思います。
自分で仕事を取ってきて、その仕事で相手を喜ばさないと次はありませんし、
レギュラーの仕事でも、発注者の気分一つで無くなることだってあります。
そのために取引き先をできるだけ多くして、一つや二つ取引き先が
無くなったとしても大丈夫なように、収入源を分散しないといけません。
言うなれば一人企業です。
忙しさにも波があり、稼げるときに稼がないと、
暇になったときの不安と言ったらないと思います。
弊社もいろいろなフリーランスの方と仕事をしているので、
その苦労、その仕事ぶりにはいつも頭が下がります。」
すみません。完全コピペ。
同じフリーの人とこんなことを話すとか、フリーではない友達にこのような愚痴を言うとか、そういうことは多々あるのだけど、フリーランスの人と仕事をしている人がこんなふうに寄り添って見てくれているのを初めて感じて、ちょっと感動した。
それに対して私は知らない方がコメントしてらした。
「それでも替え難い何かがあってフリーランスでいるわけだ」と。
15年、私はまさにこんな状況&精神状態でいるわけで・・・。
それでもその方の言うように、替え難い何かがあるわけで・・・。
そのことをコメントしようと思ったのだが、途中で消した。
長くなりそうだったしやめた。
短く書いて誤解されるのも怖いし。
私はこれを読んで、自分にとっての「替え難い何か」ってなんだろうかと考えてみた。
いつもフリーでやっている理由を聞かれると面倒なので、「ラッシュの電車に乗りたくなかった」「OLさんとお弁当食べるのが嫌だった」と言うが、これは真実であるけれど「全て」ではない。
あくまでも「一因」ってやつだ。
「替え難い何か」と言われると、やっぱり「自己責任ですべてをやりたかった」ということなんだと思う。
「自己責任」というとなんだか背負ってるみたいできれいだが、逆の意味も含まれている。
「人の責任なんか負いたくない、自分の責任だけは負ってやるけど」
わー・・・
めっちゃ悪いやつ(笑)悪党やな
もちろん、自分の責任も誰かに負ってほしいとは思わない。その代わり、誰の事も負いたくないのだ、私は。
と言いつつ、私の事をよく知っている人ならわかると思うが、すぐ人の事を負いたがる。
例えば、塾にいたときは、後輩の面倒をよくみたし、塾長の面倒もよくみたし、その間に立ってパイプ役もやった。
基本的な性質は「おせっかい」であり「世話好き」だ。
でも、決していい人間やできた人間ではないので、そうやって人の事を負っていることを黙って受け入れられない。
「ダイハード」のマクレーン刑事のように(たとえが古っ!)、いつも「なんで私がこんなことしないといけないんだよ?」と思いながらやってしまう。
自分でそれがわかっているから、事件の起こりそうな場所を避けてしまうのだ。
自己責任って、きれいに聞こえるけど、結局のところは「ワガママ」なんだと自分では思っている。
一人でワガママにやりたい、ただそれだけ。
そして、ワガママを通すためにはどんなリスクを負っても構わないと、そういう気持ちだった。
こんなこと、仕事もらってる人のフェイスブックのコメントでは書けないわな
それと、少し前に友達のブログで「自由」ということについて意見を交し合ったことがあったのだが、「フリーランス」になったのは、言葉通り、やっぱり「自由」になりたかったのだと思う。
今思い返せば、子供の頃から人に何かを強要されるということを極端に嫌うところがあった。
一番わかりやすいのが「勉強」。
中学生の時、塾には一度も行ったことがなかった。それはまあ、私の時代には珍しいことではない。
でも、いつも思っていたことがあった。
「誰かに『勉強しなさい』と命令されたり、お金をかけないと勉強できなくなったら、私はもう学ぶことをやめよう」と。
こんなややこしいことを思っている中学生はあまりいなかったのではないだろうか。
でも、これはいつも思っていた。当時の日記にも書いてある。
勉強は自分がしたいからすることであり、人に言われてやるくらいなら、一生学ぶことをやめてやる、そういう覚悟をもって、一人でコツコツと勉強していた。(お金をかけずに。これ大事!)
いつも「自由」を求めていた。
それがなぜなのか、自分でもよくわからない。
前世があったのなら、かなり縛られた人生を送ったのかもしれないなぁ
自由を求める代わりに、「自由」を得る代償というものも深く受け止めていた。
自由を得た人間は、自由でない人間よりもきちんと生きなければならないと。
きちんと生きられるからこそ、与えられる自由なのだ、と。
本当に、そのことは深く深く肝に銘じていた。
まあでも、そんなこと、大人になればみんな自然に理解している。
だから、「フリーでやっています」と言ったときに、「わー、自由でいいですねー」なんて言う能天気な人はいない。
ほとんどが「大変でしょう・・・」と同情的だ。
同情するなら仕事をくれ!(あー、なんかまた古い匂いが・・・)
フリーランスは本当に大変だ。
そりゃ、私なんかと違って才能がある人なら、フリーでもいいんだろうが。
凡人なのに組織の盾もなくやっていかなければならないのだから。
でも、自分で考えて、自分で決めて、自分で行動して、自分だけの責任をとる。
これって、ワガママ人間としては本当にラクなのだ。
これが「替え難い何か」なんだろうなぁ。
でも、先にも書いたように、「自由」の重みは感じている。
自己管理をきちんとすることはもちろん、人の期待を越えるものを常に生み出し続けなければ、すぐに奪われるものだということも。
Kさんのおかげで、そんなことも振り返ることができた。
毎日のように、自分の才能のなさ、無力さに突き当たる。
でも、そんなことはもう子供の頃からずっとわかっていて、慣れている話。
ただコツコツと真面目に、誠実に、一生懸命頑張って、とにかく結果を出すだけだ。
夫が言う。
「本当にすごい人のコピーは、本当にうまいから!」
うまいんだろうなぁ・・・
私の友達のライターでも、すごくいいコピーを書く人がいる。
夫に言わせれば「気分」なのだとか。
そのライターさんの気分が、その商品にのっている。
私の書くものはコピーではなく、単なる「上手な説明文」らしい
残念ながら、才能ってあるのだ。
でも、私はそんなことには絶対負けない。自分を卑下したりもしない。
なぜなら、最初からAクラスではないからだ
子供の頃からずっとBクラスの人生。
今更Aクラスに行きたいという欲望もない。
Bクラスなりにコツコツと、真面目に、誠実に、一生懸命やっていたら、それなりに感動してくれる人がいるのだ。
私はそれでOKの人生。
ほら、広島カープを応援してる人もたくさんいるやん!(って、広島ファンに失礼やな)
いっぱい失敗して、いっぱい人を傷つけて、自分も傷ついて。
人生折り返しになってようやく悟ったこと。
私はダメなところがいっぱいある。
だけどそれでOKなんだ。
いや、そう思うことさえ違うっていうことをこの言葉で気づいた。
「人は何か一つくらい誇れるものを持っている
何でもいい、それを見つけなさい
勉強が駄目だったら、運動がある
両方駄目だったら、君には優しさがある
夢をもて、目的をもて、やればできる。
こんな言葉に騙されるな
何も無くていいんだ
人は生まれて、生きて、死ぬ
これだけでたいしたもんだ
ビートたけし」
まだ結婚する前の私に、夫が送ってくれた言葉。
いつも、自己嫌悪に陥るとき、自信をなくすときは、この言葉を思い出す。
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