鴨着く島

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日本への進駐軍(記紀点描51)

2022-05-14 19:37:40 | 記紀点描
先日大隅史談会の役員をしている人が、高須海岸の「進駐軍上陸地」を通った時に、

「ここが日本が初めて本土に外国軍の進駐を受けた場所ですね」

とつぶやいたので、「いや、最初ではないよ」と応じると驚いて、「最初ではないんだすか。じゃあ、最初は何時ですか?」

そこで私が「白村江の海戦(663年)で敗れた天智天皇時代に、唐からの交渉団が九州に来ているよ。その数は多い時で2000人だったそうだ。」

そう答えると、「えっ、2000人も来たんですか!」と驚いていた。

歴史仲間でもその当時の経緯はほとんど知ることはない。だが、日本書紀ではそう記している。

次にその「唐による進駐」を記してみよう。すべて日本書紀の天智天皇紀に記載されている。

承知のように日本(天智天皇の時代までの日本はまだ「倭」を自称していたが便宜上「日本」を使用する)は562年に朝鮮半島の倭国であった「任那」を失い、その後は百済と連携を取りつつ半島との交流を続けていたが、660年に百済が唐と結んだ新羅によって壊滅に瀕すると、663年3月から百済救援のための遠征軍を送り始めた。

しかしながら、その年の8月27日から28日の白村江河口における海戦で唐軍に完膚なきほどに敗れてしまう。(※唐船は170隻の楼船(構造船)、倭軍は400艘余りの準構造船で、倭船はほぼ壊滅の憂き目に遭った。)

この敗戦の翌年(664年)以降唐からの使者が5回もやって来ることになる。以下に年代順に箇条書きで記しておく。

(1)664年5月17日
  百済の鎮将「劉仁願」及び朝散大夫「郭務宗」らがやって来る。表函と献物を進上した。滞在期間7か月。
(2)665年9月23日
  唐使、朝散大夫「劉徳高」らがやって来る。総勢254人。7月28日に対馬に上陸し、さらに9月20日になって筑紫(九州)に上陸する。同23日に    表函を進上する。(※この船団の中に藤原鎌足の長男で留学僧として唐に行っていた「真人」こと出家名「定恵(じょうえ)」がいた。)
(3)667年11月9日
  百済の鎮将「劉仁願」及び熊津都督府の「司馬法聡」らが筑紫都督府にやって来る。
(4)669年
  この歳に、大唐が「郭務宗」ら2000余人を派遣したとの情報が入る。
(5)671年正月13日
  百済の「劉仁願」が「李守真」らを派遣し、表を進上した。
(6)671年11月2日
  沙門「道久」、筑紫君「薩野馬」、「韓島勝佐波」、「布師首磐」の4人が捕虜になっていた唐から帰国し、「郭務宗ら2000余人が47艘の船に乗って倭国にやって来るが、攻めに来たのではありません」と注進する。

以上の6か所が日本(倭国)への唐使による「進駐」である。

このうち武将(鎮将)によるいわゆる「進駐軍」の上陸は(1)・(3)・(5)だが、(2)は文官である郭務宗の引率であり、また(4)で予告された(6)の2000余人の到来も、引率者は同じく郭務宗であるから厳密には「進駐軍」とは言えないかもしれないが、文官を守る武人は同行したであろうから、これも「進駐」の範疇に入ると思われる。

いずれにしても白村江の海戦で敗れた日本へは、唐からの武人を伴った交渉団が5度も訪れており、外国軍の進駐はこの時代に確実にあったことになり、太平洋戦争に敗れた後の米軍による進駐は日本としては2回目ということになる。

(※1019年の刀伊の乱や1274年と1281年の元寇では、壱岐と対馬は彼らの蹂躙に任せたが、九州本土には上陸していない。)

さて、白村江の戦役後の唐軍の進駐は664年から671年のことであり、期間は天智天皇統治時代の最終局面であった。

最期の5回目671年の進駐2000余人の中には、倭の軍人で唐軍の捕虜になった者や、百済から倭国へ移住する者もいたようだが、それにしても大量の進駐であった。

この年の12月3日に天智天皇は崩御するのだが、天智天皇の殯宮についても御廟についても日本書紀の記録にはない。また翌年の6月から8月にかけて起きたいわゆる「壬申の乱」もタイミングとしては出来過ぎているようにも思われる。

また持統天皇の6年(692年)閏5月の次の記事は、天智天皇の不審死をさらに増幅させるものだろう。

<15日、筑紫大宰率(おおみこともち)河内王らに詔して曰く「沙門(僧侶)を大隅と阿多に遣わし、仏教を伝ふべし。また、大唐の大使「郭務宗」が「御近江大津宮天皇(天智天皇)}のために造れる阿弥陀像を上送せよ」とのたまふ。>

これは古日向のうち阿多と大隅に僧侶を派遣するという政策が690年代には発令されていたことを示すものだが、それよりも後半の部分である。

持統天皇が、わが父天智天皇のために唐使でありながら郭務宗が造ったという阿弥陀像を、筑紫の大宰率であった河内王に送って寄越すように命じたというのだ。

命じたのは692年の閏5月、郭務宗が最後に筑紫に上陸したのは672年。その時間差は20年。郭務宗が20年後の692年になって阿弥陀像を作って筑紫に持参したというのは考えにくい。

とすると672年の時点で、つまり天智天皇が崩御した翌年に阿弥陀像を造って筑紫に置いてきたことになるが、そう考えると天智天皇の死は阿弥陀像を造って弔うべき死であったということになる。

(※阿弥陀仏は来生の至福を願う仏とされるから、天智天皇は戦犯としての死を遂げた可能性が高い。そう捉えて矛盾しないと思われる。)