鴨着く島

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沖縄独立論を巡って

2022-05-18 13:33:39 | 日本の時事風景
【琉球王国から沖縄県へ】

沖縄はかつて琉球王国と呼ばれたが、明治12年の「琉球処分」によって、一時的に設置された沖縄県の官選知事となった琉球王朝の19代目の尚泰王が退位し、日本に吸収合併されて解体した。

沖縄の歴史は考古学的には2万年前の保存状態の良い人骨が南部で発掘され、本土でいう旧石器時代から人の営みがあることが分かっているが、その後本土では縄文時代が始まっても、本土では見られる早期の土器は見られず、数千年のずれがあると言われている。

稲作の定着普及が見られなかったことが、本土との間で考古学年代にかなりの遅れが生じた最大の原因だろうと思われるが、文献の上でも琉球を統一的に支配した権力については「舜天王」の存在を待たなければならなかった。

もっとも舜天王と言うのは本土の武将「源為朝」のことであり、平安末期の1160年代に琉球へ渡り、運天港に上陸して現地を討伐して従え、王となったと言い伝えられているに過ぎず、為朝が支配したということの証明は不可能である。

江戸時代になって編纂された琉球の歴史書『球陽』などによれば、舜天王が統治する前に琉球では「天孫氏25代」があったとされるが、具体的な王名は記されていないので、架空だろうとされる。

そこへ行くと舜天王については、その人物は源為朝であると書かれており、まったくの造作とも言えない気がする。

この舜天王の系譜はわずか3代70年余り(1187年~1259年)で終わり、それを継いだのが天孫氏の苗裔の英祖であったが、この由緒ありそうな系譜も5代90年(1260年~1349年)で終わってしまった。

この後を継いだのが浦添の察度と言われる一族でこれはわずか2代55年(1350年~1404年)しかなかった。そしてさらに後を「第一尚氏」といわれる尚思紹が継ぎ、尚徳まで7代65年とやはり短命の王統であった。

以上の短命王統が4つ続いた後、明治の最後の王「尚泰」まで続いたのが5番目の王統「第二尚氏」であった。

第二尚氏の始祖は尚円(在位1470年~1476年)といい、舜天王の孫の義本の後裔と伝えられており、舜天王こと源為朝の琉球渡来が本当でなければ出自には疑いが持たれるところだが、なにしろ系譜上は300年近く前の岐れであってみれば系図を信じざるを得ないだろう。

この尚円から始まる琉球統一王朝が明治まで続いていたのだが、明治12(1879)年の琉球処分によって最後19代目の尚泰王が退位させられ、ここに1470年から始まった第二尚氏王統が支配する琉球王国は400年余りで滅亡し、日本に組み込まれて沖縄県が確定したのであった。
(※この項は『沖縄志』伊地知貞馨著を参照した。)

【琉球征伐】

琉球王国から沖縄県への移行の記述が長くなりすぎた感があるが、もう一つ忘れてはならないのが「琉球征伐」である。

「琉球征伐」とは江戸時代の慶長14年(1609年)に薩摩藩が行った琉球王国への侵攻である。この征伐の意味は太閤秀吉亡き後に天下を統一した徳川家康が、全国を掌握する過程で起きた事件であり、それを薩摩藩に担わせたのは中世以来の対宋対明交易に明るかったためで、他の藩では決して成し得ない水軍力があったからである(薩摩藩の兵力を消耗させる狙いもあったに違いない)。

当時の国王は第二尚氏王統7代目の尚寧(在位1589~1620年)であったが、薩摩藩はこの琉球征伐を難なく成し遂げてしまい、尚寧王は捕らえられ江戸に送られている。この時第二尚氏の王統は断絶の危機に瀕したが、琉球王国の存在は許され、その代わりに薩摩藩の監視下に置かれることになり、将軍の代替わりには慶賀使を送る義務が課せられた。

薩摩藩は琉球国を監視下に置くことで、琉球国と明・清王朝との間の交易に関与することが可能になり、大きな利得を掌握することになった。

※この利得と奄美諸島の隷属化による砂糖生産の収益とともに藩財政は豊かになったが、幕府からはそのことに目を付けられ、薩摩藩の強大化を削ぐために木曽川治水工事(お手伝い普請)(1754~1755年)が命じられ、逆に数多の借金を背負う羽目になったのは歴史の皮肉と言えよう。

【沖縄独立論】

時代は下って昭和も戦後の話になるが、「沖縄独立論」が声高に唱えられたことがあった。

嚆矢は1972年の沖縄の本土復帰(アメリカの施政権返還)の直後にはあったのだろうが、国会内でそう発言したのは沖縄県選出の衆議院議員(社会党)の上原康助(1932~2014年)であった。

1945年に日本がポツダム宣言を受諾して連合軍に降伏した後、本土にもだが沖縄には膨大な米軍基地が構築された。そして沖縄は日本本土から切り離され、本土が1951年のサンフランシスコ講和により主権を回復した後も引き続きアメリカの施政権下に置かれた。

その後1972年5月15日には待ちに待った本土復帰を迎えるのだが、「核抜き本土並み米軍基地」と思っていたのが、まったく本土並みではなかったのであった。
 
これへの失望と落胆は非常に大きく、狭い沖縄本島に日本本土の4倍もの面積で米軍基地が存在し、戦闘機などの離着陸の騒音、米軍人・軍属の交通事故や性的暴行など、治外法権そのものの有様だったのだ。

上原康助は非自民・非共産政党によって連立された細川内閣(1993年~1994年)の閣僚に迎えられたが、沖縄県選出の代議士としては初めての就任だった。就任した役職は北海道開発庁・沖縄開発庁の各長官であり、まさにうってつけであった。

この時期に唱えたのが「沖縄独立論」であり、本土にある米軍基地と沖縄の米軍基地の現状を比べ、余りにも沖縄への負担が重すぎると認識したのが引き金になったようである。

1945年の4月から始まった沖縄への米軍上陸作戦は、上原の13歳という多感な心に大きな傷を残したであろうことは想像に難くない。

上原の独立論は日本からの真の独立ではなく、「一国二制度」という中国と香港のような関係になることに落ち着いた。

真の独立と言うと「琉球王国」の復活ならいわば沖縄版「王政復古」だが、昭和の民主主義の世となってはいまさら「王制」は有り得ないだろう。

といって沖縄住民投票(民意)による独立の可能性はゼロとは言えないが、その時は当然、米軍も自衛隊も沖縄を撤収することになるが、その後に自衛のための沖縄人民軍のようなものを置くのかどうか。

沖縄の歴史から言うと「非武装非同盟」がふさわしいが、果たしてそれでやって行けるのだろうか。「万国津梁」(世界の橋渡し)に徹しても現状では難しいだろう。特に中国がどう出るか、その点に尽きる。

沖縄ならうまくやれる? いっそのこと「永世中立」を宣言する?

考えさせられる問題提起である。