鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

沖縄復帰50周年記念式典(2022.05.15)

2022-05-15 18:47:14 | 日本の時事風景
終戦後に沖縄県が米軍の占領下に入って施政権が日本を離れ、その後27年経った1972年5月15日にアメリカから施政権が日本に返還された。

その時の首相は佐藤栄作であったが、米軍基地に関しては「核抜き本土並み」というキャッチフレーズが飛び交った。しかし核抜きは実現されたが、「米軍基地の本土並み」は全く反故にされて今日に至っている。

日本本土では武道館が式典会場で、当の佐藤首相が意気揚々と沖縄返還の意義を強調していたのに対して、沖縄で開かれた式典では当時の屋良朝苗主席(知事)が重い口調で「返還は嬉しいが、内容には賛成しがたい」という趣旨の式辞を述べていた。

その後50年を経た今日2022年5月15日、復帰後50周年の記念式典が沖縄の宜野湾市にある沖縄コンベンションセンターで開かれ、岸田首相、玉城沖縄県知事など来賓が挨拶し、同時に東京会場でも三権の長たち(両院議長、最高裁長官)が式辞を述べた。

その中で異色だったのが全国知事会会長の鳥取県の平井知事の式辞であった。

何と式辞の中で沖縄民謡の『てぃんさぐぬ花』のワンコーラスを口ずさんだのだ。

平井知事がどの場面でこの歌を唄ったのかは前後関係が定かではないが、口ずさんだ歌詞は一番で「てんさぐの花は(その汁が)爪先を染めるが、親が言うことは心に染みる」という内容で、親からの言い伝えはちゃんと守りなさいと子供に諭す歌詞である。

また同知事は沖縄県の終戦時の官選知事であった島田知事を高く評価しているとも言っていた。島田知事は兵庫県出身ながら沖縄県民が米軍の攻撃に身を挺して奮闘していたことに感激し、島を去ることなく県民に寄り添い、ついに海中に消息を絶った人物だそうである。

児童疎開船「対馬丸」撃沈事件の生き残りで、今は「対馬丸記念館」の理事を務めているという高良政勝氏の挨拶も心に残った。

沖縄の役割について、「世界に平和を発信していくことです」というフレーズは生死を分けた事件を体験しているだけに、優しい物言いの中でキラッと光るものがあった。

式辞の終わり近くで天皇陛下のお言葉があった。


両陛下は皇居内の特設会場で、式典の一部始終をご覧になっており、そのご様子はコンベンションホールの舞台正面に設置されたモニター画面に大写しになっていた。

さて、沖縄県は玉城知事によれば「146万県民」だそうで、三昔前は120万県民だったはずだから、この30年で20パーセントも人口が増えている。鹿児島県と比べると、鹿児島の人口は同じ30年で20万減って今や166万か7万だから、20万人多いだけだ。このままでいくとあと10年余りで彼我の差が一気に縮まり、20年後には逆転されている可能性が高い。

沖縄では以前からの観光業に加えて、IT産業の振興に力を入れているようで、若者の起業も多いらしい。これを後押しするのが沖縄科学技術大学院大学の設立で、産学のコラボが軌道に乗れば世界の若者たちが集まるようになるそうだ。

式辞で岸田首相が言及していたように、新しい沖縄が始まるのかもしれない。米軍基地の問題はこれからも残るが・・・。

日本への進駐軍(記紀点描51)

2022-05-14 19:37:40 | 記紀点描
先日大隅史談会の役員をしている人が、高須海岸の「進駐軍上陸地」を通った時に、

「ここが日本が初めて本土に外国軍の進駐を受けた場所ですね」

とつぶやいたので、「いや、最初ではないよ」と応じると驚いて、「最初ではないんだすか。じゃあ、最初は何時ですか?」

そこで私が「白村江の海戦(663年)で敗れた天智天皇時代に、唐からの交渉団が九州に来ているよ。その数は多い時で2000人だったそうだ。」

そう答えると、「えっ、2000人も来たんですか!」と驚いていた。

歴史仲間でもその当時の経緯はほとんど知ることはない。だが、日本書紀ではそう記している。

次にその「唐による進駐」を記してみよう。すべて日本書紀の天智天皇紀に記載されている。

承知のように日本(天智天皇の時代までの日本はまだ「倭」を自称していたが便宜上「日本」を使用する)は562年に朝鮮半島の倭国であった「任那」を失い、その後は百済と連携を取りつつ半島との交流を続けていたが、660年に百済が唐と結んだ新羅によって壊滅に瀕すると、663年3月から百済救援のための遠征軍を送り始めた。

しかしながら、その年の8月27日から28日の白村江河口における海戦で唐軍に完膚なきほどに敗れてしまう。(※唐船は170隻の楼船(構造船)、倭軍は400艘余りの準構造船で、倭船はほぼ壊滅の憂き目に遭った。)

この敗戦の翌年(664年)以降唐からの使者が5回もやって来ることになる。以下に年代順に箇条書きで記しておく。

(1)664年5月17日
  百済の鎮将「劉仁願」及び朝散大夫「郭務宗」らがやって来る。表函と献物を進上した。滞在期間7か月。
(2)665年9月23日
  唐使、朝散大夫「劉徳高」らがやって来る。総勢254人。7月28日に対馬に上陸し、さらに9月20日になって筑紫(九州)に上陸する。同23日に    表函を進上する。(※この船団の中に藤原鎌足の長男で留学僧として唐に行っていた「真人」こと出家名「定恵(じょうえ)」がいた。)
(3)667年11月9日
  百済の鎮将「劉仁願」及び熊津都督府の「司馬法聡」らが筑紫都督府にやって来る。
(4)669年
  この歳に、大唐が「郭務宗」ら2000余人を派遣したとの情報が入る。
(5)671年正月13日
  百済の「劉仁願」が「李守真」らを派遣し、表を進上した。
(6)671年11月2日
  沙門「道久」、筑紫君「薩野馬」、「韓島勝佐波」、「布師首磐」の4人が捕虜になっていた唐から帰国し、「郭務宗ら2000余人が47艘の船に乗って倭国にやって来るが、攻めに来たのではありません」と注進する。

以上の6か所が日本(倭国)への唐使による「進駐」である。

このうち武将(鎮将)によるいわゆる「進駐軍」の上陸は(1)・(3)・(5)だが、(2)は文官である郭務宗の引率であり、また(4)で予告された(6)の2000余人の到来も、引率者は同じく郭務宗であるから厳密には「進駐軍」とは言えないかもしれないが、文官を守る武人は同行したであろうから、これも「進駐」の範疇に入ると思われる。

いずれにしても白村江の海戦で敗れた日本へは、唐からの武人を伴った交渉団が5度も訪れており、外国軍の進駐はこの時代に確実にあったことになり、太平洋戦争に敗れた後の米軍による進駐は日本としては2回目ということになる。

(※1019年の刀伊の乱や1274年と1281年の元寇では、壱岐と対馬は彼らの蹂躙に任せたが、九州本土には上陸していない。)

さて、白村江の戦役後の唐軍の進駐は664年から671年のことであり、期間は天智天皇統治時代の最終局面であった。

最期の5回目671年の進駐2000余人の中には、倭の軍人で唐軍の捕虜になった者や、百済から倭国へ移住する者もいたようだが、それにしても大量の進駐であった。

この年の12月3日に天智天皇は崩御するのだが、天智天皇の殯宮についても御廟についても日本書紀の記録にはない。また翌年の6月から8月にかけて起きたいわゆる「壬申の乱」もタイミングとしては出来過ぎているようにも思われる。

また持統天皇の6年(692年)閏5月の次の記事は、天智天皇の不審死をさらに増幅させるものだろう。

<15日、筑紫大宰率(おおみこともち)河内王らに詔して曰く「沙門(僧侶)を大隅と阿多に遣わし、仏教を伝ふべし。また、大唐の大使「郭務宗」が「御近江大津宮天皇(天智天皇)}のために造れる阿弥陀像を上送せよ」とのたまふ。>

これは古日向のうち阿多と大隅に僧侶を派遣するという政策が690年代には発令されていたことを示すものだが、それよりも後半の部分である。

持統天皇が、わが父天智天皇のために唐使でありながら郭務宗が造ったという阿弥陀像を、筑紫の大宰率であった河内王に送って寄越すように命じたというのだ。

命じたのは692年の閏5月、郭務宗が最後に筑紫に上陸したのは672年。その時間差は20年。郭務宗が20年後の692年になって阿弥陀像を作って筑紫に持参したというのは考えにくい。

とすると672年の時点で、つまり天智天皇が崩御した翌年に阿弥陀像を造って筑紫に置いてきたことになるが、そう考えると天智天皇の死は阿弥陀像を造って弔うべき死であったということになる。

(※阿弥陀仏は来生の至福を願う仏とされるから、天智天皇は戦犯としての死を遂げた可能性が高い。そう捉えて矛盾しないと思われる。)





ウラジーミルとシンゾー

2022-05-12 08:40:31 | 日本の時事風景
アメリカの前大統領ドナルド・トランプが2017年の11月、大方の予想を裏切って民主党候補のヒラリ-・クリントンを破って当選を決めた時、安倍晋三元首相が世界の並みいる指導者たちに先駆けてトランプタワーに祝意を伝えに行ったということで、トランプに気に入られ、以後はドナルド=シンゾーとファーストネームで呼び合う仲になったというのは記憶に新しい。

まさに外交通のシンゾーの面目躍如と言った一場面だった。その前に安全保障関連法案を成立させているから、共和党の大統領にとってはいいお土産を引っ提げて行ったわけである。

ところがトランプの日米安全保障条約に対する考え方は、「日本周辺で起きた紛争は日本が片付ければよい、何で米軍が血を流さなければならないのだ」というものだった。つまり日米安保は「片務的に過ぎる」というのだ。常識的に考えればその通りだろう。

独立国家なら、自分の近辺(領海や領土)に関わる紛争が発生したら、当事国として自前で処理できなければおかしいというわけで、これも世界の常識である。

――ああそうですか、それなら日米同盟は終わりにしましょう。日本は独立国家ですから個別的自衛権があり、それに応じた軍隊(自衛隊)もありますから、なるほどご指摘の通り領海領土問題なら自分たちで解決しますよ。

と応じていたらシンゾーも「あいつはシンゾーだけになかなか心臓の強い男だ」と世界から持ち上げられていただろう。

おそらくロシア大統領のウラジーミル・プーチンもそう思ったはずだ。いやそれどころかシンゾーがアメリカとの二国間軍事同盟である日米安保から離脱したことに驚喜したに違いない。そしてシンゾーの呼びかけに応じて開いた27回もの会談の半分もしないうちに「日ソ共同宣言(1956年)より一歩進んで平和友好条約を結ぼう。そして北方領土4島(国後・択捉・歯舞・色丹)は日本に返還しよう」となったかもしれない。

こうなったらシンゾーは戦後の首相経験者で最も高い評価を受けたはずだ。しかし日米安保がなければ絶対に日本は攻め込まれると思い込んでいる超保守層からは恨みを買い、即日退陣となる可能性が高い。あの母方の祖父の岸信介元首相が1960年に改定安保に調印すると同時に退陣したように・・・。

しかしながら・・・、アメリカとの交渉となると決まって「日米同盟のさらなる緊密化」とか「より一層強固な日米同盟」と言うのが口癖になっていたシンゾーの対米従属フレーズがあだとなり、プーチンの肚の底の嫌悪感を見抜けぬままいたずらに27回という他のどの国のトップよりも費やした会談は、悉く物別れに終わってしまった。

全くの拍子抜けと言うところだ。

拍子抜けと言えば、北朝鮮の拉致問題でもそうだ。

民主党政権後に首相になったらすぐに拉致被害者家族たちと面会し、「私の任期中に必ず解決します」と大見得を切ったはずなのに、一向に進展はなく、相方のドナルドが2度も北朝鮮を訪れ金正恩に直接会っているのに、それに驥尾して自身も行くのかと思いきや、まったく鳴かず飛ばず、あの威勢のよさはどうしたのかと誰もが思ったものである。

世界中を飛び回る腰の軽さを見せていたのだが、肝心の相手となると腰が引けたり、抜けたり、おまけにあの「桜を見る会問題」「小学校用地の土地代大幅値引き問題」「獣医学部新設口利き問題」など国内問題については結局うやむやのままだ。

外交関係に期待を寄せていた自分などは騙され感が強い。

外交と軍事は結局のところ、「アメリカへの忖度抜きには決定できない」のが日本の外交であり軍事なのだ。

これでは真の自立した独立国家とは言えまい。

日本は幸いにも他国との地続きの国境を持っていない。今度のロシアによるウクライナ侵攻を見ていて、その幸運が思わされる。

もちろん現代の戦争は飛び道具(ミサイル)が主役だが、その効果も陸戦部隊の侵攻と占領があってのことだ。

いずれにしても、もう戦争は止めよう。他国を侵略するな。

七回目のベルで受話器を取った君

2022-05-08 15:29:32 | 日記
昨日放映された歌番組の正式なタイトルは忘れたが、若手の音楽関係者が選ぶ平成以降の歌で最もすぐれた曲は何か、と問わtれて挙げられた20曲を視聴したが、トップは宇多田ヒカルの「オートマチック(automatic)」だった。

この曲を聴いたのは20数年前のことだったが、前奏からして「何?この曲は?」という反応で、耳をそばだてたことを覚えている。

そして何回か聞いてるうちに、「これは素晴らしい!」と思うようになった。

1970年代のグループサウンド全盛から、1980年代に入っていわゆる和製ポップスが流行期に入り、これはこれで大量の新曲を生んできたし、在来の歌謡曲の分野でも、カラオケブームに乗って次々に新しい曲が生まれて来ていた。

そこへこの曲である。

一種のアメリカンポップスだが、その中でもソウルミュージックを思わせる曲調と歌い方が新鮮だった。

驚きはそれだけではなかった。彼女の母親はあの一世を風靡した藤圭子だというのだ。

これには心底「へえー」が隠せなかった。

藤圭子が引退後はアメリカに行っていたことは知っていたが、その娘がこんな才能でデビューしたとは全く予期しない出来事だったのである。

しかもわずか15歳、日本でいえば中学3年生がこんな曲を作るとは、「へえー」を何度も漏らす他なかった。

この番組では宇多田ヒカルの歌が8位にもう一曲入った。「ファーストラブ(first love )」だ。この曲もいいが、やはりオートマチックだろう。

曲調も歌詞もいいが、何と言っても歌い方が素晴らしい。15歳の少女かいったいどうしてこの歌い方をマスターしたのか、感心する他ない。

ただ面白いのは歌詞の最初の部分である。

♪七回目のベルで受話器を取った君・・・

この曲が作られた1998年の頃は、まだ携帯もスマホも普及していなくて、固定電話が当たり前の時代だったことを如実に表現している。

そしてこの曲が作られた5年後には携帯が普及し始め、10年後にはもう当たり前の日常のアイテムになったことが思い出される。

したがってこの曲は2000年にようやく入った当初の「古い時代相」を歌に残しているという意味でレアな曲である。

10年ひと昔というが、まさに10年単位でガラッと変わるIT時代の急速な変貌が読み取れるのがこの歌と言えよう。偉大な楽曲と言うべきではないだろうか。

もっともこの曲を選んだ若手の20代や30代前半の音楽家たちには、そういった事情(歴史)には無縁で、ただ曲のすばらしさを評価しての選曲だったに違いない。



神川大滝(錦江町神川)

2022-05-03 18:36:12 | おおすみの風景
昼過ぎ、錦江町の友人と会うために神川の鳥浜海岸に行った。

まだ時間に余裕があったので、ここの内陸にある「神川大滝」まで足を伸ばした。

神川を走る国道269号から4キロほど内陸に行った所にある神川大滝は、大根占最大の川「神之川」の中流から下流に移行するところを高さ20メートル余りで落ちている滝で、そのフォルムの美しさは大隅半島では随一だろう。


高さ約20メートル、滝の幅は25メートル、周りに小さな滝をいくつも控えている凝灰岩を穿った滝ならではの滝つぼである。

遊歩道があるので誰でも滝つぼのすぐ際まで行けるが、こんなアプローチの簡単な滝はそう多くあるまい。

大隅で滝と言えば、南大隅町の「雄川の滝」が有名で、「大隅の旅」というような番組がもしあったとしたら、まず100%雄川の滝を選んで紹介するに違いない滝である。

ところが雄川の滝は、高さ40メートルはあるのだが、滝の落ち口で大部分の水が発電用に取られてしまうため、余程の大雨で水量が増して余剰があるような時にしか見られないのである。

しかも大雨の時は雄川の滝への遊歩道は通行止めになるので、その時は見ることができない。また遊歩道が歩けるような天気の良い時は、川の水量が少なくなるので発電用に大部分の水が取られてしまう。結局、一般的には「滝の雄姿」は拝めないのである。

そのことが「稀有な滝だ」「神秘な滝だ」と逆にアピールポイントになっているらしい。

それに比べると神川大滝は、訪れる者を裏切らないまっとうな滝である。

滝を空中から見下ろす人道橋があり、右岸から左岸へと一周すると一キロはある結構なハイキングだ。しかも標高差は50メートルはある。

また子供用の遊具も設置されているので親子で楽しめる。

川のせせらぎと滝の音が、周囲の凝灰岩によってできた屏風岩に反響して心地よい響きをたてる。

清流を眺めていると誰しも心が洗われるだろう。