鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

邪馬台国問題 第4回(「史話の会」10月例会)

2020-10-21 11:11:04 | 邪馬台国関連
魏志倭人伝読解の3回目を史話の会の10月例会(10月18日)で行ったので、以下にその概要を。(※会場は鹿屋市東地区学習センター)

まずは【前回までの要点】

邪馬台国問題の中心課題は、何と言っても邪馬台国(女王国)の場所である。

朝鮮半島の魏の植民地「帯方郡」から女王国までの行程記事を正確かつ素直に解釈していくと、畿内説が成り立つ余地は全くない。

そのカギを握るのが、①水行1000里とは距離の単位で表記された所要日数1日のことであり、②伊都国は福岡県糸島市ではなく、佐賀県唐津市(末盧国)から東南に延びる松浦川流域にあった「イツ国」である、という二点である。

このことから帯方郡から朝鮮半島南部の「狗邪韓国」(現在の金海市)までが水行7000里であるから、所要日数は7日。ここから朝鮮(対馬)海峡を対馬へ水行1000里(所要日数1日)、壱岐へ水行1000里(所要日数1日)、そして九州北岸の末盧国(唐津市)へ水行1000里(所要日数1日)。

以上から帯方郡から末盧国までは1万里であり、所要日数は10日と判明する。この1万里は、女王国に属する21国の羅列の最後に、南部にある狗奴国の国情を記載したあと、「郡より女王国に至るや、万二千余里。」と記されたうちの1万里のことで、そうすると残りの二千余里で邪馬台国に到達するわけである。

帯方郡から唐津市の末盧国まで1万里であり、ここからあと2000里余りで邪馬台国なのであるから畿内説は、まずここで脱落するほかない。

さらに帯方郡からの行程記事の最後に「南、邪馬台国に至る、女王の都する所。水行10日、陸行1月。」と記載されていることを勘案すると、この「水行10日」は上記の「帯方郡から末盧国までの水行10日」と同値であり、したがって「水行10日、陸行1月」の残りの「陸行1月」というのは、末盧国から陸行で1ヶ月のところにあることを意味する。

要するに、邪馬台国は九州北岸の末盧国(唐津市)からは徒歩の行程で行き着く所にある—―と言っているわけで、畿内説はここでも否定される。

前回の最後に書いたように「邪馬台国が九州にあった2~3世紀当時、畿内にも何らかの王権はあったのだから、倭人伝に拘泥することなく調査研究するべき」なのである。

邪馬台国は九州島に求める他ないとはいっても、九州説は多岐多様にわたり、収拾のつかない様相を呈しているが、その元凶は「伊都国=糸島市」説である。

これは畿内説でもそうなのだが、糸島に眠っていた弥生甕棺王墓の豪華絢爛な副葬品に幻惑され、「伊都(いと)国は糸(いと)島で決まり!」という比類なき先入観が研究者を襲ってしまった。

その結果、糸島なら壱岐から直接船を着ければよいという中学生でもわかりそうなことを考慮せず、末盧国の唐津で船を降り、わざわざ「東南陸行500里」を歩かせるという珍道中を構想してしまった。(※ここでダジャレではないが、まさに「イトおかし」だ。)

さらにその挙句、唐津市から糸島市へは「東南」ではなく「東北」なので、「魏志倭人伝上の方角は東北を東南としてあるから、90度反時計回りに読み替えるべきだ」として、そのあとに記されている方角を「南なら90度反時計回りの東に変えるべし」と投馬国も邪馬台国も九州北部から東へ東へと道程を取らせ、堂々と畿内に所在地を持って行ってしまった。

九州説もこの「伊都国=糸島市」という幻惑から逃れられず、結局、第一奴国、不彌国、投馬国がとらえきれずに終わっている。邪馬台国も「投馬国から、南、邪馬台国に至る水行10日、陸行1月」と解釈しているので九州内のどこにも比定できないままである。

末盧国(唐津)から東南へ松浦川沿いの隘路を行けば、距離・方角共に無理のない比定地がそこにあるというのに、先入観というのは恐ろしいものだ。


以上が前回までの復習。以下に今回のあらましを書いていきたい。

今回は、「倭人の風俗」を描いた段落で、海人族の「黥面(げいめん)文身(ぶんしん)」という内陸の中国人から見たらびっくりするような風俗から描写が始まっている。

倭人伝の本文で漢字600字ほどで記録されているが、ここではすべては取り上げず、特に大事な部分だけを抽出して解釈を加えたい。


まず「黥面(げいめん)文身」だが、これは海中に潜るとき、サメなどの害から身を守るために施したのが始まりで、当時でもすでに「飾り」(おしゃれ)化している向きもあったようだ。中国の伝承でも、夏王朝代の少康王の息子が会稽に封じられた時、自ら文身したというから、中国大陸でも南方の海岸地帯では同じ風俗があった—―と書いている。

衣装は男子は長い木綿を頭に巻き(鉢巻)、広幅の布を体に巻き付けていた。女子はいわゆる「貫頭衣」で、長い髪を頭に纏めていた。

産物に「米・麻・桑・絹・布」があり、「牛馬・虎豹」などはいなかった。木弓を使い、矢には竹・鉄・骨が使われていた。

身体には「朱丹」を塗っているが、これは中国で「白粉」(おしろい)を塗るのと変わらない。

人が死ぬとお棺に入れて葬るが、直葬であり、槨はない。ただ埋めて土を盛り上げるだけである。(※土饅頭=円墳はあった。)

航海では「持衰」(じすい)という名の不可解な人物を乗せて行く風習がある。乞食同然の姿で同船するのだが、航海がうまくいけば褒美を与え、途中航路が荒れたりすると「持衰」のせいだとして殺さんばかりに罰を与える。(※「持衰」に邪気を吸い取らせるということのようである。)

自然の風物では、海産の真珠・青玉があり、樹木などは中国の南部と共通している。はじかみや①橘、山椒、薄荷などを産するが、利用はしていない。

卜(うらない)は鹿の骨を焼いて行うが、これは中国で亀の甲羅で占うのと同じである。

大人と出会うと下戸は手を叩いて敬うだけで、中国のように跪拝はしない。

人々は②長生きで、100年生きる者もいる

尊卑の差はあるが、お互いに信頼し合っている。租(税)や賦(出役)があり、租を収める大きな建物もある。


・・・以上が倭人の主な風俗・風習である。

晋の史官だった陳寿が記録したように、邪馬台国のある場所は南部中国の「会稽」や「朱崖」と風物が似ているようである。また海人族らしく「文身」(入れ墨)をして素潜りで魚や貝類を採取しているとも書いている。これらも文身の面影をその名に伝える胸形(宗像)族や安曇(あずみ)族のいたのが九州であるから、九州説にはもってこいの描写である。

ただ、上の説明の中で下線を引いた「①橘」と「②倭人の長生き」について若干のコメントを加えたい。

「橘(たちばな)」は一般的には日本書紀の「垂仁天皇紀」に登場するタジマモリが、常世の国に10年かけて採取し、垂仁天皇のもとに献上した(が、垂仁天皇はもう他界していた)「非時香菓」(ときじくのかくのこのみ)こそが橘だとされているが、倭人伝の記述からは橘はすでに九州に自生していたようなので、「ときじくのかくのこのみ」は橘ではないだろう。

自分としては常世の国の支配者である「西王母」から見て、桃の実ではないかと思っている。

また、「倭人の長生き」だが、記述からは8,90年は生き、中には100年の者もいる—―という記述はそのまま受け止める。

これを〈倭人の2倍年歴説〉を持ち出し、「倭人は稲の植え付けから収穫までを1年、収穫後から次の春までをまた1年と数えるから、100年とは50年のことだ」と唱える向きがあるが、正史である魏志倭人伝は皇帝を筆頭に中国大陸人に読ませる文書なのであるから、年数については中国の年歴で記すはずで、この100年は文字通り今と同様の100年でよいのである。


(邪馬台国問題 第4回 終わり)