鴨着く島

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アインシュタインの来日

2020-10-11 11:48:24 | 専守防衛力を有する永世中立国
10月6日のブログ『「総合的・俯瞰的な活動」?』で、日本学術会議の設立が1949年であり、同じ年に湯川秀樹博士がノーベル物理学賞を受賞したこともあって国民は設立を喜んだなどと書いた。

その日のうち、どこのテレビ局だったかは定かではないのだが、やはり1949年は湯川秀樹がノーベル賞をもらった年である――という解説とともに、湯川秀樹とアインシュタインが、どこか木立のある公園のような場所を連れ立って歩いている映像が何秒か流されていた。

その時期が何時のことか、多分解説では言われていたと思うが、聞き漏らした。憶測するにアインシュタインは1922年の11月から12月にかけて日本を訪問しているが、その際の映像ではないことは確かで、とすると湯川秀樹がノーベル賞の授賞式にスェーデンを訪れた時だろう。

アインシュタインの生まれは1879年で1949年なら70歳、湯川秀樹は1907年生まれなので42歳。白黒のビデオ映像だったが、そのような年回りに見えた(湯川博士はすでに頭部が半分禿げ上がっており、42歳よりは上に見えたが・・・)。

さて、アインシュタインが1922年に日本を訪れたのは、当時「円本」で一世を風靡していた出版社「改造」社主・山本実彦の招きによるものだ。山本は鹿児島県の薩摩川内市出身の実業家である。

アインシュタインは1922年(大正11年)の11月17日に船で神戸港に到着し、日本に上陸してから東京、仙台、名古屋、京都、大阪、神戸そして最後に福岡で講演し、門司港から船で帰路に就いている。

日本人の歓迎ぶりはすさまじかったようで、特に仙台駅では30分も観衆に囲まれて立ち往生したという。

なぜ高名とはいえ、難解な理論物理学者がそのような大歓迎を受けたのか。それは実はアインシュタインが日本に来る船上でノーベル物理学賞が知らされたからで、日本でも大きな話題になっていたのであった。

当時まだ日本人でノーベル賞の受賞者はなく、同賞や受賞者は「雲の上の存在」だったので、科学界の最高峰の人間を一目見たいという群集心理がそうさせたらしい。

なぜここで日本学術会議の話からアインシュタインの話に移行したかというと、これには私の若い頃の神道学習上の恩師がかかわっているからである。

恩師は女性だが、子供のころから目に見えない何かが見える人で、人に話しても信じてもらえず悩んでいた。

たまたまアインシュタインが来日した1922年の頃、恩師は奈良女高師の学生で、アインシュタインが講演日程の合間に観光と休息を兼ねて奈良に二泊したことがあった。

このチャンスをとらえて恩師はアインシュタインを訪ね、自分の不可解な精神状況を話し、物理学的(空間に時間をミックスした相対性理論的)に説明してもらいたいと相談したそうである。

「私が奈良女高師にいるころ来日したアインシュタインに聞いてみたけれど・・・」とは何度か耳にしていたが、1907年生まれの恩師が15歳かそこらの時であったことになる。

アインシュタインがどんな返事をしたのかは失念してしまったが、とにかく見えない世界があってこの世と交流があるというのは、科学的には証明されない、というかできないようである。

しかし自分としてはあっておかしくない――というレベルでは信じている。

アインシュタインは日本の伝統や風景が大好きだったそうで、この点に関しては多くの「トリビア」が語られている。

曰く「日本は世界の救世主になる」。曰く「日本人は科学を尊重するが、目的が欧米とは違う」。曰く「日本のような国が世界にあってよかった」などなど・・・。

最後の「日本のような国」というのは説明が要るが、「心が純粋で、謙虚な人々がにこやかに暮らし、隅々まで美しい国」ということである。

太平洋戦争後は、「おのれ第一主義、金第一主義、物量第一主義」のアメリカ的価値観に翻弄され、真逆に近い状況にあえいでいる。

「アメリカの核の傘」の「核開発」の一端を担ってしまったアインシュタインだったが、今の「核抑止力競争」の現状を見て、泉下でどう思っているだろうか。

「心が純粋で、謙虚な人々がにこやかに暮らし、隅々まで美しい国」の回復のためにはどうすべきだと思っているだろうか。