鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

『日本人の誇り』(藤原正彦著)を読む

2020-09-14 08:42:37 | 日記
元お茶の水女子大学教授で数学者の藤原正彦という人が書いた『日本人の誇り』は、歴史を学ぶ者にとって非常に有意義である。

私の歴史研究対象は邪馬台国はじめ古代の前史にかかわる年代だが、昭和史、特に太平洋戦争をはさんで日本がどのように変質したかにも大いに興味があり、この書はそのあたりのことを大局的かつ緻密に描いている。

そして、大方の太平洋戦争観が、日本の卑怯な奇襲攻撃から始まり、悲惨な結果に終わったが、その原因は日本の「軍国主義」にあった――とするのに異議を唱えている。

しかもただ義憤的に異議を申すのではなく、主に海外の歴史家の著作などを引用して太平洋戦争の意味をその勃発の経緯から終戦前後の英米(主として米)の画策まで、私など到底触れることのできない資料を駆使し、客観的に問いただしている。

筆者藤原正彦氏の父は作家の新田次郎(本姓・藤原)であり、母も作家の藤原ていであることが、筆者をして文章家たらしめている面は筆致の端々に感じられ、硬いはずの昭和史をほど良く和らげて表現しているのはさすがである(「です・ます調」なので余計にそう感じられる)。

出版社は(株)文芸春秋で、文春新書という新書版(初版は2011年4月)であるから、実際に購入して読むことをお勧めするが、この書を通して自分なりに掴んだこと、了解したこと、共感したことをいくらか書いておきたい。

その前に氏の経歴を少し書くと、東大の数学科(修士)からアメリカへ留学し、30歳前後の数年間、コロンビア大学で助教授を務めたあと、帰国してからはお茶の水女子大学教授となり同大で定年を迎えている。1943年生まれだから今年77歳になる人である。

この書の大枠のテーマはタイトル通りで、「日本人よ誇りを取り戻せ」ということだが、文章上の表現からくる印象からは想像もつかないようなシビアな内容が盛り込まれているのが特徴だ。

第1章から8章まであるが、第1章は「政治もモラルもなぜ崩壊したか」。
 戦後政治家の不甲斐ない外交音痴が米国との片務的な安全保障同盟関係に起因し、さらにアメリカの「年次改革要望書」への卑屈な従属では対等な関係にならない。何よりも、日本が日本自身の手で自国を守るのだという気概が生まれない――とする。

第2章は「素晴らしき日本文明」。
 日本の歴史から生まれた文明は世界7大文明の一つに数えられるほどであり、江戸時代末期に日本を訪れた西欧人のほとんどが日本人の日常を見て、「貧しいが貧困者はいない。子供をはじめ皆倖せそうだ。また農村が美しく豊かである。」という感想を述べている。

第3章は「祖国への誇り」。
 知識人ほど「日本人は恥ずかしい存在」だと思っているが、それは実は戦後とともに開始されたアメリカ中心の占領政策の肝である、「罪意識移植計画」(war guilt information program) のなせる業だった。日本人は知的に劣っているから愚かにも「軍国主義」に踊らされ、戦争に加担してしまった――という太平洋戦争への罪悪意識を植え付け、結果としてアメリカの行った都市部への無差別攻撃と広島・長崎への原爆投下を仕方ないものと思わされてしまった。

第4章は「対中戦争の真実」。
 まず南京大虐殺に関して、東京裁判の時(1946年)になって初めて1937年の日本軍の南京入城の際の残虐行為の証言の数々が出てきたが、1937年12月当時の記録(主に在中国キリスト教宣教師などの記録)では残虐行為(通常の戦闘によらない殺人行為)など数えるほどしか記されていなかったことが判明している。
 中国本土における中国兵の数々の日本人居留民への残虐行為は旧ソ連コミンテルンが糸を引いており、南京入城の前の「上海事変」はそのためのやむを得ない反撃だったことは英米等列強の認めるところだった。

第5章は「昭和史ではわからない」。
 対米戦争(太平洋戦争)がなぜ起きたかは、「排日移民・土地法」や「石油その他の禁輸」や「ハルノート」が原因ではなく、それよりはるか前の欧米列強のアジア進出・植民地化の動きから辿らなければ分からない。いわゆる帝国主義の世界分割競争が始まり、その流れが鎖国をしていた日本にも押し寄せて来た幕末(もう少しさかのぼれば英国が引き起こしたアヘン戦争)まで視野に入れなければ説明がつかない。

第6章は「日米戦争の語られざる本質」。
 日米戦争は日中戦争とひとつながりであった。これらをひっくるめて「大東亜戦争」と言う方が実態に即している。日中戦争の間、コミンテルンのソ連が中国(国民党)の後ろで糸を引いていたが、米英も中国に肩入れをしていた。中国の秘めた巨大な市場への権益、宣教師の大陸への流布、中国国民党の対米宣伝(日本を貶める反日活動)など、米国が日本を敵国視する条件は整っていた。
 いずれにしても日中が和解し合い手を携えるなど、英米の最も嫌うことだったのである。

第7章は「大敗北と大殊勲と」。
 冒頭、対日占領軍総司令官だったマッカーサーの言葉を掲げている。
「日本は絹産業以外には固有の産物はほとんど何もないのです。(中略)もしこれら(各種産業用)の原料の供給を断ち切られたら、1千万から1千2百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」(1951年のアメリカ上院軍事外交合同委員会での答弁)
 日本の近代史における戦争を考える時に、満州事変頃から敗戦までをひとくくりにした15年戦争や昭和の戦争観があるが、このように短く切るのは不適切。この切り方はまさに東京裁判史観である。
 独立自尊のために対米戦争を始めた結果、惨憺たる敗北を喫したのだが、戦後は帝国主義によって植民地化されていた多くの国と地域で独立への動きが加速されたのは、日本の大殊勲だった。

 イギリスの歴史家トインビーは、1956年にオブザーバー紙にこう書いている。
「日本は第二次大戦において、自国ではなく大東亜共栄圏のほかの国々に思わぬ恩恵をもたらした。(中略)それまで200年の長きにわたってアジア・アフリカを統治してきた西洋人は無敵で神のような存在と信じられてきたが、実際はそうでないことを日本人は全人類の面前で証明してしまったのである。それはまさに歴史的業績であった。」(著者訳)

 日本は白人のアジア侵略を止めるどころか、帝国主義、植民地主義、さらには人種差別というものに終止符を打つというスぺクタキュラーな偉業を成し遂げたのである。

第8章は「日本をとり戻すために」。
 日本人は「敗戦国」をいまだに引きずり小さくなっている(第3章で触れた「罪意識移植計画」が尾を引いている)。
 誇りを取り戻す第一歩はあの戦勝国による復讐劇に過ぎない「東京裁判」を断固否定し、逆に日本が幕末から100年かけて戦い、大敗北を喫しはしたが、「植民地廃絶」という世界史に残る大殊勲をしっかり胸に刻むことである。
 第二は「自主憲法」の制定。第三はアメリカとの対等な同盟関係。


以上がこの本の要点であるが、第3章から6章までは実に勉強になった。

第3章は東京裁判史観の否定で、今ではこの考え方に傾斜している人の方が多いと思うのだが、学校の教科書ではそう教えていないのが残念だ。

第4章では最近読んだ本で「満州某重大事件」(張作霖暗殺)にはソ連のスパイが関与していたらしいことが明かされていたが、もっと多くの事件でコミンテルンの関与があったことに、なるほどと思うことだった。

第5、6章は米国側の開戦に到る種々工作も、第一次大戦の直後から始まっていたということで、その根底には人種差別感が横たわっていたなど、共感を覚える内容だった。

最終章で紹介したこれからの日本の指針として筆者が挙げたのは、1東京裁判の否定、2自主憲法制定、3アメリカとの対等な同盟、だが、3の対等な同盟とはトランプ大統領が言う「日本がやられたらアメリカが助けるのに、アメリカがやられても日本は助けに来ない片務的同盟」から「相互に防衛し合おう」という同盟になることなのか?

そうなると今後アメリカが出て行く戦争に日本も同盟軍として軍事的にコミットしなければならなくなると思うが、それでいいのか。

私はそもそも集団的自衛権の発露である国連憲章が「対等な二国間軍事同盟」(二国間相互防衛同盟)を禁じている以上それは出来ないことだと思う。

筆者は江戸時代(末期)の日本のすばらしさに西洋人が驚嘆したと書き、そのことが誇りの一端につながっているはずである。江戸時代、日本は鎖国をしていたのだが、鎖国というのは外交的には完全な「局外中立」であり、言ってみれば「黒船以前は永世中立国」だったわけである。

今さら鎖国など考えられもしないが、鎖国の「永世中立性」を今に生かしてもいいのではないかと思うのである。それこそ環海日本の生きる道ではないだろうか。


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サツマイモの花

2020-09-10 09:32:03 | おおすみの風景
被害らしい被害の出なかった台風10号だったが、それでも鹿屋市の一部地域では1日半くらい停電だったらしい。

そういえばよく行くコンビニ(田舎とはいえ我が家の2キロ圏内に一軒、4キロ圏内だと四軒に増える)に立ち寄ったら、アイスクリームやシャーベットなどが入っている冷凍ケースが空っぽだった。その他の商品でも品薄が目についた。

我が家でも被害は皆無というわけではなく、昨日は庭の南に生えているマテバシイで、二本とも枝をぽきりと折られていたのを処分するのに汗をかいた。一昨日までは台風の余波でやや風が強く、折れた枝を引きずり出すことができなかったのである。

高さが5メートル近くあるほうのマテバシイは、樹高1メートル余りから三本に分かれているのだが、そのうちの一本が分岐部分から完全に折れていた。

枝というより幹と言った方がいいだろうが、折れた部分の太さは20センチ近くあり、その部分をノコギリで切る前に枝葉を先に切り込んでいき最後に丸裸になったやつを引きずるのだが、結構力が要った。(※それやこれやで汗をかいた後はお決まりの銭湯行きとなった。)

今朝、例によってウメと散歩に出て帰る途中、収穫もだいぶ進んでまばらになって来たサツマイモ畑の脇を歩いていると、何やら奥ゆかしい色の花が目に入った。サツマイモの花だった。やや秋めいてきたこの時期になると、よくサツマイモ畑に花の咲いたのを見かけるが、一本のツルにこんなに四輪も咲かせているのは珍しい。ごく薄い紫の花びらで、その中心部は濃い紫色である。朝顔と同じヒルガオの仲間という。

上空を見ると確かに秋の気配のすじ雲が浮かんでいる。ウメもそう暑くはないのか、今朝は吐く息が荒くない。

台風が来る前には聞こえていたツクツクボウシの鳴き声も全くなくなった。夏ももう終わりに近い。210日を過ぎて、間もなく220日になる。

大型台風10号の通過

2020-09-07 11:09:51 | おおすみの風景
いま現在、9月7日の11時。外は日が差し始め、やや強い西の風が吹くが、雨は降っていない。

昨夜は台風10号が9時頃に最も接近するとニュースが言い、その通りになった。どうせ外は荒れ狂い、停電するに違いないと、まさにその9時頃にスマホと懐中電灯を持って早々と床に就いた。

音楽を聴いているうちに、外は荒れ狂うどころか風がウソのように収まって行ったのに気付いたが、「おかしいな、台風の目に入るわけないのだが・・・」と半信半疑のまま寝入っていた。

気が付いたのがちょうど12時で、外の風や雨の音は聴こえてはいるが激しいというほどのものではなく、停電もしていなかったので起きてテレビを見ることにした。

テレビでは台風の位置が阿久根市だったか出水市だったか忘れたが、中心が薩摩半島北部の西方海上に移っていた。ここ鹿屋からは直線距離にして150キロほどの海上を台風は北に進んでいることになるが、そこまで行ったらので暴風圏からは外れたようだ。

画面に、台風の中心が枕崎の西方海上にあった9時に最大瞬間風速が43mだったと表示されていたので合点がいった。

鹿児島本土で最も台風に近い枕崎でさえ43mだったのだから、枕崎から直線で70キロも東に離れた鹿屋なら30mほどだったのだろう。予想外に気圧が弱まって来たためだろうか、うれしい誤算だった。

むしろ昨日の夕方の4時過ぎだったか、玄関を少し出て庭を眺めていた時に猛烈な東風が吹いていたが、あれが最大風速だったかもしれない。40m近くはあった気がする。

それから再び床に入り5時半ごろ目覚めてみると、もう風向きが真反対の西風に変わっていた。雨も霧雨のような柔らかいものになっており、愛犬ウメを連れて散歩に出てみた。

回っていると近所の人たち二人に出会ったが、一軒は道路に面したアルミ製のフェンスの半分位が倒されていた。ここは以前の台風でも、もう3回くらいはやられている。見に出て来た旦那は公園にあるような金網式フェンスに変えようと思う、と言っていた。

もう一軒は無傷だった。おまけにやられると思って諦めていた柿の木の実がたわわのままだった、と喜んでいた。(※我が家にも柿木が大小5本あるが、2本は完全に落ち尽くし、3本はまだ無事だ。)

とにかく被害は軽微だったのでやれやれである。

それにしても9号と言い今度の10号と言い、どちらも沖縄や奄美からそのまま北上して朝鮮半島へのコースをとったが、前代未聞ではないか。

夏の終わりから秋口のこの時期の台風は、奄美近海を過ぎたら黒潮ルートをとって四国から潮岬あたりへ進むのが普通だったはずだ。地球温暖化のせいで、東シナ海の海水面温度が異常に高いのが原因だろうか。

しかし2つの台風で東シナ海はかき回されて水温が下がったに違いない。次に発生する台風からは本来の黒潮暖流に沿って進むのではないか。伊勢湾台風のように、9月も末頃になって超大型が襲来しているから、まだまだ油断はできない。

昨日は一日中、家の中で過ごしたので、テレビの台風情報を横目に、藤原正彦の『日本人の誇り』というエッセーを読み返していた。

エッセーというには骨っぽいが、実に良い本である。特に維新以降の日本史の勉強になること請け合いだ。

大方の昭和史は昭和を大戦に導いた戦前と終戦(敗戦)後を180度向きを変えた歴史のように書いているが、昭和史も明治維新からの流れの一部、つまり100年にわたる西洋列強との交渉史として捉えなければ史観を誤り、「日本罪悪史観」から逃れられない――というのである。

今回はこの書を紹介するにとどめるが、近いうちにブログで内容に立ち入りたいと思っている。

【追記】台風10号が鹿児島県本土に最接近した時に945ヘクトパスカルと予想を大きく上回ったのは、進行方向の東シナ海が、一週間前に東シナ海を北上した台風9号によって撹拌され、海面温度がかなり下がったことによるそうである。ラッキーだったというしかない。(9月9日)

大型台風10号が接近

2020-09-06 09:08:30 | おおすみの風景
今朝8時の気象情報では、大型台風10号は、現在、奄美大島の南島海上140キロまでやって来ている。

中心部の気圧は925ヘクトパスカルで、20キロのスピードで北北西に進路をとっている。情報によると予想した915ヘクトパスカルまでの発達はなく、すでに通過した南大東島では最大瞬間風速が50メートル台で収まっているらしい。

この分だと奄美大島を直撃しても、言われている70~80mということはなさそうだ。それでも60m程度にまでは行くのだから安心してはいられない。

台風は今後さらに北寄りに進み、昼過ぎに奄美に最接近し、その後は吐噶喇列島を巻き込みつつ屋久島の西方海上を行くらしい。屋久島の近海に来たら鹿児島本土も薩摩半島の一部が暴風圏に入るだろう。

進路の予報円によるとその中心は東シナ海だが、東寄りだと薩摩半島の西南部(坊津から枕崎辺り)に上陸する恐れがある。その時の気圧がもし925ヘクトパスカルのままだと、上陸時点の気圧の最低記録である第二室戸台風の924ヘクトパスカルに次ぐ第2位となるらしい。

これまでの記録では2位は伊勢湾台風の929ヘクトで、3位が平成5年(1993年)9月3日に鹿児島南部に上陸した台風13号の930ヘクトだそうだが、実はこの3位の13号台風には直接遭遇している。

27年前の平成5年という年は、今年のように梅雨が長く、結局梅雨明け宣言をする前の7月に小型台風が九州を横断したりして、そのまま8月1日は姶良町(現在は姶良市)で豪雨の被害があり、その5日後の8月6日には県都鹿児島を集中豪雨が襲い甚大な被害が発生している(8・6水害)。

8月中にも小型台風は2つくらいは来たと思うが、何と言っても9月に入った直後の13号は強烈だった。(※13号台風は前日に南薩の海岸に上陸して指宿をかすめて錦江湾を渡り、鹿屋の海岸に再上陸した。)

その年に私は家族とともに肝属郡田代町(現在は大根占町と合併して錦江町田代)に「入植」したのだが、夏休みは雨また雨で、まだ米は栽培していなかったが、作っている農家によると「平年作の6割」だったそうで、米不足で早期米の売買価格がかなり高騰したという話だった。

それでも米作農家はコメ不足に困ることはない上、高く売れたので、ある意味「うれしい悲鳴」だったのかもしれない。ほとんどが早期米の田代では8月の旧盆の頃には刈り入れを済ませていたから、都会にいる子供や親せきに新米を届けることができたはず。

しかし秋には全国的にコメ不足を呈し、アメリカのカリフォルニア米を緊急輸入するこという騒動になった。(※今でも続いているアメリカ米の輸入「ミニマムアクセス」の原因がここにある。)

さて月が替わって9月。新学期が始まって3日目、その前日から学校は休校になっていたから子供たち(小学校2年と幼稚園の年長組)は家にいたのだが、朝から強い風と雨に不安を覚えていると、午後3時頃だったか、強風で玄関の脇にある戸袋がガタンと落ち、風がサアっと吹き込んで来た。

慌てて強風の中を隣家に行き、玄関に入れてもらいやれやれと思う間もなく、今度はその玄関のガラス戸が破れたので、強風雨の中、歩いて5分ほどの学校の体育館に避難することにした。

しかし学校の避難所である体育館の屋根の一部が剥がれて吹き飛んだというので、昼前から体育館に避難していた人たちは、鉄筋2階建ての1階部分にある職員室前の長い廊下に移動していた。我々家族4人も同じ廊下に座り込んで通り過ぎるのを待ったのであった。

最大瞬間風速は、当時の田代町役場の屋上に設置してあった風力計が65mくらいまで記録した後は針が吹っ切れてしまったので最大の数値は不明なのだが、おそらく75m位まで行っていたのではないかと思われた。

この台風被害は豪雨を伴わないうえ短時間で通り過ぎたので、がけ崩れや河川の氾濫はなく、主にやられたのは家屋で、特に屋根がひどかった。

当時の家で瓦の1枚も飛んでいないという家はまずなかった。借家だったが我が家も例外ではなく、飛ばされていなくてもズレがひどくすぐに元通りにしないと雨漏りに悩まされる。そこでブルーシートを応急に被せるのだが、高い所から地区を眺めると、まるで難民キャンプ地のような風景だった。

当然瓦屋さんが大忙しで、忙しいのはいいが瓦自体の生産が追い付かないということで、多くの家ではこの難民キャンプ状態が初冬まで続いたのである。幸いその後に大きな台風は襲来せず、時の経つことが復旧を加勢したのであった。

この大規模な台風被害に対して、赤十字から「義援金」を生まれて初めて貰うことになったのだが、実はその前の鹿児島8・6水害に対して義援金を出しているので、家内と「何だ、帳尻があったんだ」と笑ったことを覚えている。


今度、十島村と三島村では「島外避難」というのを初めて行ったそうだが、それほど10号台風は恐れられている。気象庁も早くから口を酸っぱくして「最大規模の台風災害回避」を訴えている。鹿屋市でもすでに昨日の4時から指定避難所を開設した。今朝も8時から追加の避難所を放送で知らせ、避難を促している。

この分で行くと、あと10時間後には我が家周辺も暴風圏に入りそうだ。西寄りに進んでくれればありがたいのだが・・・。

懐中電灯、カセットコンロ、スマホの充電器に使えるキーソケット(自動車用)、インスタント食糧類などは昨日買い揃えた。あと車のガソリンも満タン、風呂場の湯船も満タンにした。

庭にあって飛ばされそうな植木鉢や布団掛けも処置した。泣く泣くニガウリの棚も処分した。さあ、来い(本音は「あっちへ行け」)、台風10号!!

ポスト安倍(自民党総裁選)

2020-09-02 09:05:35 | 日本の時事風景
8月28日の午前中に安倍首相の「歴代最長」総理就任についてこのブログで書いたのだが、その日の夕方の会見で首相自ら総理を辞する旨を語った。

近いうちに辞任するだろうとは思っていたが、1か月半ぶりの久々の会見でいきなりその話になるとはちょっと意外だった。でも、まあ、賽は投げられた。


2006年末に最初に総理になってわずか一年で「投げへ出した」時と理由は同じ体調の不調(潰瘍性大腸炎)だが、今度は誰も投げ出したとは思っていない。それくらいこの7年8か月は内政と言い、外交と言い八面六臂の活躍をしており、メディアへの露出もすさまじいものがあった。

内政では、途方もない金融緩和による景気刺激策はトリクルダウンによって頂上から裾野へと確かに広がりを見せ、雇用は増加し、株価も上がった(しかし実質賃金は国民全体で見ると下がりこそすれ上がっては行かなかった)。

そして二度にわたる消費税アップ。これによって政権が命取りにならなかったのは高い支持率によるのだろう。この功績は大きい、と思う。

だが、他にも憲法改正、拉致被害者救済、地方創生、一億総活躍社会・・・とキャッチフレーズはたくさん掲げられたが、どれも未完のままである。

むしろ、今度総裁選に立候補した菅義偉官房長官が立案したという「ふるさと納税」が、地方創生を上回り、唯一国民に浸透し順調に発展しているのが最大の(?)功績だろうか。


功罪の「罪」では、例の森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会問題、高検総長閣議決定問題、そしてこれは首相事案ではなく党の事案だが、衆院議員選広島選挙区買収疑惑がくすぶっている。最後の事案以外は首相の説明責任の範疇だが、いずれもなされていない。

予算委員会で森友問題を追及されたとき安倍首相は、「私か私の妻がかかわっていたとすれば総理をやめますよ、いや国会議員をやめてもいいですよ」と大見得を切っていたが、こんど総理を辞するのであれば、いっそのこと説明責任を果たしたらどうかと思う。


外交についてはこの人の右に出る者はそう多くないだろう。対象国のトップとの会談は170か国を超えたそうである。もちろん就任期間が長かったことにもよるが、いずれのトップと出会っても微笑みを忘れなかったのはさすがだ(ただ、韓国の文在寅大統領の時はそうではなかったが・・・)。

ただ、アメリカは最初は安倍首相を「憲法を変えて日本が戦争できるようにしようとしている超タカ派」と思っていたようで、就任一年後に安倍首相が首相としては久々に靖国神社を参拝した際には、「失望した」とチクっている。

その後はアメリカ寄りを鮮明にし始め、あの「安全保障関連法案」を国民多くの反対を押し切って制定してしまった。これによって日本は世界の常識「集団的自衛権」を獲得した――との認識のようだが、もともと集団的自衛権は戦後の国連体制の中で確立された考えで、固有の個別的自衛権では守り切れない事態を集団で(つまり国連で)解決しようというもの。

日本のようにすでにアメリカとの間に安保という「二国間軍事同盟」を結んでいるのであれば、国連本来の「集団的自衛権」には入れないはずのものだ。逆に日米安保を解消すれば、その時には国連の有する集団的自衛権の枠組みに入れるのである。

国連憲章では戦前の反省を踏まえて「二国間軍事同盟」は認められておらず、ただ、日本のような敗戦国については特別に国連に加盟が許されるまで「戦勝国側の占領政策」が是認されているに過ぎない。

本来なら、日本が国連加盟した時(1952年)に占領政策は終わり、国連軍(中心は米軍)は引き揚げ、当然「二国間軍事同盟」は締結されないはずであった。しかし、1950年から始まった朝鮮動乱が待ったをかけたのである。


繰り返すが、日米安保という二国間軍事同盟を結んでおきながら、「集団的自衛権を云々」することはできない。外務省アメリカ忖度組はそのことは知っているはずなのだが、アメリカも日米安保の国連憲章違反なのは知っていながら、日本側のアメリカ忖度をうまいこと手玉に取っている。

アメリカのトランプ大統領は言わば外交の「ど素人」なので、こういった駆け引きを知らないのだろうか、「日本は米軍に守られていたいのなら、必要経費をもっと出せ」と言って来ている。つまり自分の国は自分の手で守ればいいのに、それをアメリカに「委託」するのであれば「経費を全額負担せよ」というわけで、ある意味で非常に分かりやすい。

私などは「そうだ、その通り。独立国には個別的自衛権がある。ならば二国間軍事同盟である日米安保は解消しよう。そして個別的自衛権に基づく現有の自衛隊は保有したうえで日本は永世中立国になることを宣言しよう。」と応じたいところだ。

安倍首相にはこのあたりまで踏み込んだ日本のあるべき姿を構想して欲しかったのだが、残念ながらトランプへの忖度(トランペットの騒音?)が強すぎて道が見えなくなってしまったようだ。


今度のポスト安倍総裁選では地方党員の総裁選挙参加は見送られ、当面のポスト安倍一番乗りは菅官房長官となった。他に石破茂、岸田文雄両氏が立候補するようだが、前回の総裁選で地方党員票が安倍さんを超えた石破さんにとっては不甲斐ない話である。「石破外し」と言われても仕方がないだろう。

今度の総裁は安倍総裁の本来持つ任期の残りである来年10月までの短命総裁だ。菅さんで十分やって行けるかもしれない。大きく変わるのは次の総裁からだろう。