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邪馬台国問題 第3回(「史話の会」9月例会)

2020-09-25 14:44:06 | 邪馬台国関連
前回からいよいよ倭人伝本文に即して解釈を施していったが、今回はその2回目である。

【前回の要旨】
コースは船で帯方郡から半島を沿岸航法で南下し東して狗邪韓国に到着し、そこから朝鮮海峡を渡り、対馬国・壱岐国を経て九州北岸の末盧国(唐津市)に上陸した(水行10日=距離表記では1万里)。この時点で「帯方郡より女王国に至る1万2千里」のうちの1万里が消化されたことになる。

末盧国から邪馬台国までの残りの2000里は徒歩(陸行1ヶ月)で、まず東南の松浦川沿いを遡上し、500里で「伊都(イツ)国」の厳木(きゆらぎ)町へ。ここで旅装をあらためて東南へ100里で奴国(戸数2万戸=多久・小城市)、東100里歩いて不彌国(大和町)へ。

残り1300里は今日の佐賀平野の山沿いをほぼ東へ、途中、吉野ケ里を通過して筑後川に到り、三根町辺りで川を渡り、久留米から筑後八女へ。私見ではここに邪馬台国の女王卑弥呼が住んでいた。

以上が邪馬台国への行程である。

「海峡渡海水行所要日数1日=水行1000里」説によって帯方郡から末路国(唐津市)までの水行1万里は所要日数が10日。また唐津から東南に松浦川沿いに遡行していく陸行2千里は所要日数が1ヶ月。

これが「南至る邪馬台国、女王の都する所へは水行10日、陸行1月(かかる)」という行程記事の正体であった。

ただし、水行(船行)では一日に行ける距離を「1000里」とし、陸行(徒歩)では一日で行ける距離を「100里」としてあり、どちらの「里」も、実際の距離単位の里ではないことに気が付かなければならない。


さて、今回はこの邪馬台国の「官制」の記述から始まる。原文の書き下しは以下の通り。

〈官に「伊支馬」有り、次を「彌馬升」と曰い、次を「彌馬獲支」と曰い、次を「奴佳鞮」と曰う。7万余戸なるべし。女王国より以北はその戸数・道理の略載を得べくも、その余の傍国は遠絶にして詳しきを得べからず。

 次に「斯馬国」有り、・・・(中略=以下20か国を挙げるが煩雑なので省略する。ただし最後の国「奴国」を記しておく)・・・、次に「奴国」有り。これ女王の境界の尽くる所。その南に狗奴国有り。男子を王と為す。その官に「狗古智卑狗」有り。女王に属さず。
 郡より女王国に至るに万2千余里。〉

邪馬台国の「官制」(統治組織)だが、トップに出て来るのが「伊支馬(イキマ)」である。これは当然倭語なのだが、帯方郡からの使者が邪馬台国で聞いた名称を、まず帯方郡使が記録した時点で「イキマ」を漢字の音を取り入れて「伊支馬」と書いたのか、もしくは陳寿の史局にもたらされてから陳寿が「伊支馬」と記載したのか、どちらかであろうが、今のところ決定打はない。

いずれにしても「伊支馬」を私は「イキマ」と読む。

「イキマ」とはどのような存在なのか。官制のトップであるから今日で言えば「首相・総理」に当たるわけだが、私はこの「イキマ」を「生目(いきめ)」の転訛と捉え、邪馬台国へよそからやって来て監視する総督のような存在と見る。

すなわち、邪馬台国は「伊支馬」によって監督される保護国のような状況であったと考えるのである。

ではどこの勢力によって保護国化されたのか?

この勢力とは倭人伝の後に出て来る「大倭」のことである。「大倭」についてはまだ先で詳述するので、ここでは「九州北部倭人連合」のことであるとの指摘だけにとどめておく。

さて2番目の官は「彌馬升(ミマショウ)」といった。これの当時の倭語を私は「ミマシヲ」と考える。つまり「ミマの男」と復原する。

では「ミマ」とは何か。これは「スメミマ(皇孫)」のミマ、すなわち「孫」に該当し、要するに子孫の男ということである。女王卑弥呼一族の直系の男子に他ならない。

三番目の「彌馬獲支(ミマワキ)」は、「ミマ」は二番目と同じ「子孫の」という意味だろう。それより考えなければならないのは「獲支(ワキ)」の方である。

「ワキ」は「脇」「別」などの倭語だろうとは考えられるが、果たして具体的に何を指すのだろうか。私は前者の「脇」ととり、ミマワキは「ミマ」の配偶者、つまり「女官長」クラスの倭語ではないかと思う。これも後述になるが卑弥呼が擁立された時、「婢千人を以て、自ら侍る」ことになったようだが、この千人の婢を統括するのが「女官長」の役割と見たい。

最後の第四番目の官を「奴佳鞮(ナカテイ)」と言ったとあるが、これこそ後出の「卑弥呼のもとに出入りして飲食を提供したり、卑弥呼へ情報を伝えたり、卑弥呼からの「ご神託」を持ち返ったりする役目の官である。

このナカテを倭語の意味では「中手」で、「中に立つ人」のことだろうと思われる。のちに「中臣(なかとみ)」と表記されるその祖語ではないかと考えたい。

さて、末盧国(唐津市)に上陸してから伊都国をはじめ奴国や不彌国など徒歩で通過して来た国々については、その官の名や距離・方角・戸数を記載できたが、それ以外で女王国に属する国の数は21か国あるが、遠方なので詳細が分からない。ただ国名を列挙するだけだ――とある。

いま煩雑を顧みず、すべてを挙げると次の通りである(「国」は省いてある)。

1斯馬、2已百支、3伊邪、4都支、5彌奴、6好古都、7不呼、8姐奴、9対蘇、10蘇奴、11呼邑、12華奴蘇奴、13鬼、14為吾、15鬼奴、16邪馬、17躬臣、18巴利、19支惟、20烏奴、21奴

以上が女王国に臣属している国々である。これらはすべて倭人が国名を述べたのを帯方郡の使者が聞き覚え、それを陳寿のいる晋の史局にもたらし、今度は陳寿自身が倭人の発音を基にして万葉仮名風にその音に近い漢字を当てて記したものであろう。

これらのうち、音価で拾えるのは、1「しま」、3「いさ」、4「つき」、5「みな」、9「つそ」、10「そな」、12「かなさな」、13「き」、14「いご」、15「きな」、16「やま」、18「はり」、19「きい」、20「うな」、21「な」の15国だろうか。

無理に読めなくもないが、しかし読めたからと言って現在の九州島のどこの地名なのか、明確にはしがたい。

それでも1は「杵島」、2は「諫早」、9は「鳥栖」、12は「神崎」、13は「基山」、16は「山国」、そして21番目の奴国は「玉名市」に比定できると思われる。女王国連盟のうちもっとも南に位置する国で、菊池川を挟んだ南側は狗奴国の領域になる。

この狗奴国についてはこう記してある。

〈その(最南部の奴国の)南に狗奴国あり。男子を王と為す。その官に狗古智卑狗(くこちひく=きくちひこ)あり。女王に属さず。〉

狗奴国は男王がいて、官を菊池彦といい、女王国には属していなかった。

この狗奴国についてはあとの本文で邪馬台国との関係が描写されているので、これ以上の言及は避けておく。

そしてこの段落の最後に陳寿はこう書いている。

〈郡より女王国に至るや、万2千余里である。〉

この12,000里のうち、1万里が帯方郡から末盧国までの1万里(水行で表記すると所要日数10日)であり、上陸した末盧国(唐津市)からは、まずは東南方向へ徒歩で2000里(陸行で表記すると1か月)行った所に女王国がある――ということをダメ押ししているのがこの一文である。

邪馬台国畿内説はこれで100パーセント(最近の強調法で言うと200パーセント)成立しないことになる。

邪馬台国が九州に存在した2~3世紀の頃、畿内には(他の地方でも)邪馬台国とは別の王権があったのだから、それをこそ畿内説の人たちは追うべきだろう。

(邪馬台国問題 第3回 終わり)

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