鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

東京は「排除します」。

2020-07-17 13:53:59 | 日本の時事風景
昨日は実に慌ただしい政界の動きだった。

夕刻になってようやく22日に前倒しで実施することになった「GO TO キャンペーン」において、東京からの出発分と東京への到着分については、キャンペーンの対象から外す――という結論となった。

何のことはない昨日自分が指摘した「感染拡大している大都市からの旅行と、その反対の大都市への旅行は自粛(縮小)した方がいい」というのが、「東京からの旅行と東京への旅行」についてだけは――と縮小したのだ。

今朝の新聞やワイドショーなどでは、すわ「官邸の都知事に対するさや当てか」などとの解説もあった。

1週間くらい前に、官邸の菅官房長官が北海道で「感染拡大でキャンペーンの時期を遅らせようという声があるが、あれは東京問題なのだ」と会見で言ったらしいが、このことが念頭にあったのか、小池都知事が「22日からの実施はよーくお考えになった上で・・・」とやや挑発的な発言をしていた。

これにカチンときたわけでもないだろうが、「東京だけはキャンペーンの対象から除外する」となってしまった。

そもそも自民党の推薦を受けずに東京都知事選に出馬し、推薦候補に大差をつけて勝利した小池都知事を、自民党はよく思っていない。

自民党だけでなく「政界渡り鳥」なるあだ名をつけて悪く言うマスコミも多い。

小池新党「希望の党」を立ち上げた時に、小池氏は自民・公明以外の野党を糾合しようとしたが、民進党だけは「排除します。」と言って加えようとしなかったのも、いまだに尾を引いている。

「男一匹」という言葉があるが、小池女史は女ながら「男一匹」に近い。この「男一匹」はなかなかしたたかである。

と言っても小池さんが東京にホストクラブを増やしたわけではあるまい。大企業の本社や中央官庁が蝟集する東京だからこそ多い「夜の街関連業種」なのだが、何とホストクラブだけでも240軒あるというのだから驚くほかない。他の夜関連推して知るべし。

真の「東京問題」は過密だ。ただでさえ人が蝟集すれば三密になりやすいのに、その上に濃厚接触で飲めや歌えでは、ウイルスが泣いて喜ぶ。

昨日の参議院の委員会で東大の先端技術センター教授が深刻な顔をして次のように言っていたのが気にかかる。

――(夜関連の)飲食業従事者の陽性率はすでに30パーセントを超える値で、このままGO TO キャンペーンを実施したら、日本全体がイタリアのトリノやアメリカのニューヨークのようになります!!

この切実かつ真剣な諫めが効いたのか、少なくとも東京だけはキャンペーンから除外(排除)された。

東京在住者がこのキャンペーンの対象外だというと、まるで東京人は旅行ができないかのように思われるが、それは間違いで、あくまでキャンペーンのサービス対象外、つまり旅行代金の割引サービスが受けられないというだけで、通常の料金で行く分には何の規制もないのだ。

東京人よ、願わくば、旅立ちを、今は控えて下され。

鹿屋で初の感染者

2020-07-16 13:32:22 | 日本の時事風景
鹿児島で初の感染者が出たのは3月26日で、全国の中でもかなり遅い方だった。しかもその後、4月半ばまでに10名ほどが出てからは6月末まで一人の感染者もなく、全国的に見て「非感染優良県」であった。

ところが7月に入ると途端に増え始め、一時は一日当たり30名を超えるような事態になった。昨日までの発生数は158人で、うちショーパブ一軒からのクラスタ―感染が114名と大量で、今度はこのことで全国的にも稀な事案となってしまった。

そのルートかどうかは不明ながら、一昨日、居住地の鹿屋市で初の感染者が出た。その日の夜、全戸に設置されている非常用通信機器を通して市長自らの声で「20代の男性1名の陽性が判明した。・・・決して風評など生まないようにお願いしたい。」などと、放送があった。

今朝の新聞ではその男性の勤務先までが報じられており、記事によると某洋服店で、店のホームページで発表したという。強い倦怠感を感じながら仕事に就いていた日もあったというから、二次感染があるかもしれない。


一方で、昼のワイドショーなどでは、東京都の16日の感染者数が280名以上との話題が出ていたが、この数字が感染の第一次ピーク期間(3月下旬~4月中旬)の最高数を超えているのには驚く。

小池都知事の会見ではPCR検査数が一日当たり4000余りと相当多くなり、中でもいわゆる「接待を伴う飲食店」の従業員たちの積極的な検査が増加しているため陽性者が多くなったのだろう、という見通しを述べていた。

しかし、そういう明確なルート以外からの感染割合(不明を含む)がやはり半分以上はあるので、すでに市中感染が相当に蔓延していると見ていいのではないか。

そうなると今度の「GO TOキャンペーン」には黄色信号が灯ったことになろう。

何しろ都会から温泉やおいしい食べ物を求めて日本各地に散らばって観光に行く数が圧倒的に多いわけだから、観光地の方も手放しで「welcome!」というわけにはいかない。人は来て欲しいが、ウイルスまで持って来られては困る。

といってオンライン観光が可能かというと、これは不可能だろう。臨場感のあるヴァーチャル技術を駆使しても、観光する側はなんとなく行った気がするだろうが、迎える側は何の見返りもない。

何月何日にウイルスが根絶すると分かっていればその日まで待つことはできるが、今の東京都及び全国の感染状況から考えると、根絶はほぼ不可能だ。したがっていつまで待ってもキャンペーンは始まらないことになる。

この際、7月22日からという時期を遅らせることよりも、大都市からの他県への移動(観光)は自粛の対象とし、その逆の動きも同様とする――ことを柱にし、縮小して推進するほかないだろう。

また外国人観光(インバウンド)についてはどの観光地も一様に大打撃を受けており、また国内以上に感染のひどい国ばかりなのでその後も相当な期間回復は望めないはずだから、政府はGO TO キャンペーンを縮小し、余った予算を各観光地に直接給付したらどうだろうか。

混迷の鹿児島県知事選

2020-07-13 08:51:12 | おおすみの風景
予想通りというか、意外というか、解釈は様々だが、私としては意外であった。

というのは、49.84パーセントという低い投票率である(総投票数は66万2千票)。

自分の予想では、50パーセント以下だったら、自民・公明両党の推薦を取り付け、それなりの組織票と広がり票を持っている両党の支持票が盤石だろうから、現職の三反園氏が有利と踏んでいた。

しかも、本来なら自民・公明両党の支持を得ていたであろう保守系の二人で、どちらも国家官僚あがりの元職の伊藤氏、新人の塩田氏が結局一本化せずに、並んで立候補したのだ。

確かに自民や公明の保守票の中に「反現職」もいたことはいたが、彼らが二人のどちらに一票を入れても、がっちりした両党推薦の支持基盤の前に、残念ながら結果としては票が割れてしまい二人とも落選だろう、と思っていたのである。

それがどうしたことか。

新人の塩田氏が22万票余り、現職の三反園氏が19万5千票、元職の伊藤氏が13万票余り(4位に新人で元民放の女性アナウンサー青木氏が5万6千票と健闘)と、わずか2万8千票の差で塩田氏が現職を破った。

前回は反保守・脱原発を掲げて戦った三反園氏が、現職で初の4選知事を目指した伊藤氏に8万票の大差をつけて勝ったことと比べると、たった4年とはいえ「今昔の感」がする。

何しろ前回、自民・公明両党は伊藤氏を推薦していながら負けたので、今回は「勝ち馬」に乗ろうと現職の反保守の三反園氏推薦に回ったのも「今昔」だが、三反園氏も三反園氏で、勝つためには組織票だとばかり、反保守だったはずのスタンスを投げうって自公に擦り寄ったのも「今昔」である。

これが裏目に出たのかもしれない。どこでも「変節漢」は嫌われるわけで、そこを嫌った自民支持者が意想外に多く、新人支持に回ったのだろう。

さらに、特に女子層に多い「脱原発・反原発」支持者が、前回は大いに期待して三反園氏に一票を入れたのだが、「脱原発」を掲げた他党連合候補の立候補を断念させ、政策合意したにもかかわらず、知事就任後に彼との約束を全く反故にしてしまったことも、「変節漢」の資格充分で、三反園離れにつながったはずだ。

昨夜は9時半頃に開票率80数パーセントを過ぎても、三反園氏が塩田氏を1万5千票余りリードしていたのだが、10時半になると塩田氏の「当確」が表示された。これは大票田の鹿児島市の開票がどんどん進み、出口調査などの結果を勘案してコンピューターがはじき出したからだろう。

11時半にはほぼ開票が100パーセント近く、すでに塩田氏が2万票余の差をつけて「当選」となった。元職の伊藤氏は意外な「善戦」で、かれがあと3万票を上積みしていたら塩田氏の当選はなかったかもしれない。塩田支持者は冷や冷やものだったろう。「やることはすべてやった。悔いはない」と言ったが、老兵は早くに去るべきだった。

今回の知事選は昭和22年(1947年)に始まった知事の選挙史上、最多の7人という候補者が出たわけだが、それなりに盛り上がるかと思われた。しかし新型コロナ禍が足を引っ張ったのだろう。

立会演説も演説会もほとんど開かれず、それではと民放が主催した「立候補者合同演説会」には、現職の三反園氏が「コロナ対策で多忙」という選挙民をないがしろにしたような理由で一度も参加しなかったが、これも三反園離れに拍車をかけたに違いない。

大票田の鹿児島市で塩田9万3千、三反園4万9千と4万票余りもの差がついたのは、いわゆる浮動票の多くが塩田氏を選んだのだろう。多分同じ浮動票は、前回は三反園氏を選んでいたはず。まさにしっぺ返し。

今度の知事選の現職敗退の原因は、現職の変節が一番大きいが、自民・公明の「不動票」が実は「浮動票」化していたことにある。鹿児島市では本来の「浮動票」に加えて、「不動票」の中の「浮動票化した票」があったのだ。

大隅地区では、どの市町村も現職の三反園氏への票が多かったのも想定外だった。浮動票が一番多いだろうと思われる10万都市鹿屋でも、塩田9800票に対し三反園1万2千票と25パーセントの差であった。「保守王国」なら本来の保守である塩田氏に入れそうなものだが、自民党の推薦を受けた以上「保守に寝返った」にしても、三反園氏に一票を投じたのだろう。

どの候補も鹿児島の地域格差をなくそうという掛け声はするのだが、大隅地区のことを念頭に置いた公約はほぼなかったのは残念だった。

ただ、当選した塩田氏は一箇所「肝付町の県立南隼中高一貫校は全寮制を外し、共学にする」と公約にあり、注目に値する。元職の伊藤知事の時代に50億円をかけて全寮制に新装し、県立でありながら生徒は地元だけでなく全国からも集めるという妙な体制の学校になっている。

私はこの学校を「県立短大か県立大学」に改組できないかと思っている。大隅地区では地元の高校を出ても鹿屋体育大学以外に進学できる上級学校はなく、ほとんどすべての学生は下宿を余儀なくされる他地方・都府県にある学校や専門学校に行かざるを得ない。

進学する子供はいいにしても、送り出す親たちの経済的困難は計り知れない。おまけに出て行った子供たちが卒業後に帰って来るかと言えば、まず10人にひとりだろう。かくして大隅地区からは若者がどんどん流出していくばかりだ。

鹿屋市立女子高も最近リニューアルした。内容はよく分からないが外観は素晴らしい。ここも短大化はできないものか。最低でも専攻科を設置して短大卒程度の資格が得られるようにすれば、親の負担も少なくて済む。

もう一つ言えば、リモート大学の設置だ。コロナ禍でオンライ授業が普通になりつつある。大学の一般教養科目や、専門でも実験を伴わないような科目はオンライン可能だろう。その視点での高等教育機関を設置するのも「with corona」時代のありようではないか。

この辺りは、若い知事に期待したいところだ。

熊襲・隼人・薩摩・鹿児島という古称(3)

2020-07-10 13:49:56 | 鹿児島古代史の謎

最後は鹿児島及び桜島という古称の成り立ちを述べてみたい。


   鹿児島

鹿児島は史料の上では『続日本紀』の天平宝字8年(淳仁天皇7年=764年)12月の記事に現れるのが初見である。

大隅・薩摩の境の海中に於いて溶岩が噴出し三つの島が生まれた――いうもので、その中に噴出した場所の地名が書かれている。

「麑島・信爾(しんに)村之海」という部分がそれで、「麑」は「鹿児」の合体字であるから、ここは「鹿児島の信爾村の海」となる。

この「鹿児島信爾村の海」の位置がまず問題になる。

現在の鹿児島市とその北部の旧吉田町が中世以降は「鹿児島郡」であったことと、旧吉田町の属する鹿児島郡はまさしく薩摩国と大隅国との境であったことから、この海が現在の鹿児島湾であることは明らかである。

その海を指呼に望むこの鹿児島(郡)とは鹿児島湾の最奥部一帯を指している地名と見てよい。次の「信爾(しんに)村」の特定だが、これは該当する古地名がなく困難である。

ただ、この噴火で生まれたという三つの島は今に残る旧隼人町の海中にある「神造島三島」と特定できるので、信爾村が旧隼人町に属する村であると言うことはできる。

さてこの「鹿児島」地名の由来だが、幕末近い天保14年に編纂された薩摩藩の地歴書『三国名勝図会』では、一説に山幸であるホホデミノミコトが海中へ失くした釣り針を探しに出かける際に「無目籠」(まなしかたま)という竹で密に編んで作った「籠(かご)の船」(潜水艦?)に乗って行ったことから、「籠(かご)」が採用され「鹿児島」になったことを挙げている。

また第二の説として、山幸であるホホデミは山の幸である鹿を多く仕留めたであろうから、鹿の多い国(島)という意味で「鹿児・鹿子(かこ)の島(国)」から「鹿児島」になったともいう。現在の鹿児島神宮も、また裏山に当たる「麑山(かごやま)」も辺り一帯に鹿の多いことから普遍的な地名が生まれたとし、結局、この第二の説を採用している。

面白いのは、あとの説を補強する意味で、『名勝図会』は応神天皇時代の説話「加古(川)」(兵庫県)の地名譚を持ち出していることである。

その中に見える「鹿の皮を被って海上を船でやって来る日向の諸県君の船子たち」の姿を挙げて、「船子を呼びてかこ(鹿子)といふも、けだしこの時より始まる」とコメントしている。

このコメントは船子(船頭)を「かこ」と呼ぶが、それは応神天皇の時代に「鹿子(かこ)」と呼ぶようになったことに由来していることを強調するためであった(兵庫県の加古川は船頭(かこ)たちが長旅の疲れをいやすべく船団を停泊させたので名付けられたとする)。

私はこの『三国名勝図会』が取り上げた応神天皇時代の加古川地名由来譚を読んで、むしろ逆に次のように思った。

船子はどこから来たかと言えば日向(鹿児島を含む古日向)である。そこから船団を組んではるばる瀬戸内海を東へ進んで来たのだが、それを操る屈強な船頭(船子=かこ)たちの多いのが日向(古日向)ではなかったか。

鹿が他の地域に抜きんでて鹿児島に多いのだろうか。そうではあるまい。したがって「かこ」は鹿が多いから「鹿児」なのではなくて、「船子」が他の地域よりかなり多いがための「かこ」ではないか。

そう考えると、鹿児島は「船子(かこ)の島」に由来があるとした方がよい。

さらに「船子」を「かこ」と呼ぶ由来だが、これは「鹿子」からではなく、オールで水を掻くことに由来すると考えるのである。「(水を)掻く人」が「掻き子(かきこ)」となり、「き」が脱落して「かこ」になったのだろう。

火山灰土や台風襲来による作物の生産性の低さが、彼らをして「海の民」としての生き方を選ばせたと思うのである。

話はずっと後世になるが、1914年(大正4年)1月12日は桜島で大正大噴火が起き、島民は這う這うの体で避難したのだが、その時の桜島の人口は何と2万人。県都である鹿児島市の人口は当時7万。面積当たりの人口密度ではそう大きな違いはない。そのくらい桜島は住み易かったのである。海産物(海幸)のおかげで、米野菜肉(山幸)は交換でたやすく手に入れられたのだろう。

その交易の手段はもちろん「船」である。あの時代、自前の船は現代のトラックに匹敵したに違いない。島の住民は誰もがトラックを持っていたのだ。それほど島は豊かであった(桜島の噴火と降灰さえなければ・・・)。

以上から、私見で鹿児島地名の由来は「船子(かこ)」の蝟集する島ということである。


   桜島

西郷(せご)どんか桜島か――そのくらい鹿児島にとって無くてはならぬ観光資源の桜島。

しかし、意外なことだが桜島の名称の由来は不明である。

もう20年以上前になるだろうか、ある本で「桜島は、裂くる島に由来する」という説を唱えていた。裂くるというのは桜島が猛烈な噴火を起こした時、火口から真っ赤な溶岩が流れ出す。その光景がまるで山頂を裂いているように見えるというのである。

なるほどそういう見方もあったかというのがその時の感想で、もっぱら文献によって調べていた自分には刺激になった。

文献で「桜島」が最初に出てくるのは、『続日本紀』の称徳天皇の神護景雲3年(769年)4月8日の記事である。それは次のようである。

「大和国添上郡の人、正八位下横度春山に桜島連の姓を賜う」

添上郡は平城京に近く、やや北に位置するるが、そこの住人で「横度春山」という人物に桜島連(さくらじまのむらじ)という連姓が与えられたというのである。

横度春山という人は、正八位という官僚に与えられる地位としてはかなり低い身分だが、何らかの功績か本人の要請かは不明だが、れっきとした姓を与えられた。

この「桜島」が鹿児島の桜島を表しているとみていいかどうかは、その後に桜島が現われて来ない以上思考停止するほかない。

あとはぐっと時代が下り、室町時代に大隅守だった桜島忠信という人がいて、その所縁で桜島と言われるようになったという説も根強く存在する。

『三国名勝図会』では、「島名諸説」として、桜島の名が見えるのは巣松という僧侶が著した『乱道集』という歌集に「向島を桜島とした」とあるのが最初だという。巣松は大永年間の人とあるから、おおむね1500年代の前半の人物で、少なくともその頃から「桜島」という島名が始まったことになる。

およそ500年前から桜島と呼ばれたことはこれで言えるが、では「桜」という呼称は何に拠るのか。

『三国名勝図会』は種々の説を披露するが、結局次のような結論を見出している。

「桜島の名義は、この島の五社大明神に木花佐久夜姫(このはなさくやひめ)を祭るゆえに、桜島の名はこの佐久夜(さくや)姫より出でたるならん。初め佐久夜(さくや)島なりしを、後世、桜島と転称したるならん。」

要するに島の大社である五社明神の祭神である木花佐久夜姫が島名の起源だということで、これに私も賛同する。

コノハナサクヤヒメはオオヤマツミノカミの娘で、天孫二ニギが国まぎをして「笠狭」にやって来たときに結婚したが、「一夜孕み」だったので二ニギに疑われ、嫌疑を晴らそうと産屋に火を放って無事に三人の皇子を産んだという伝説の女性である。

この「産屋に火を放って」というところは、まさに噴火の絶える間の無い桜島火山とオーバーラップする。

そのような「火にはめっぽう強い」祭神は、同時に「火鎮め・火除け」の霊能力を持つと信じられたはずである。

すなわち「桜島」の「桜」の語源は、コノハナサクヤヒメの「サクヤ」で間違いないと思われる。

(※5年ほど前だったか、ハヤト研究の第一人者である中村明蔵氏が、桜島の周りを鹿児島神宮と鹿児島神社が取り囲むようにして建立されているのは、桜島火山の沈静化を願って建立されたはずで、これら鹿児島神社の「鹿児島」こそが桜島の本名であろう――と南日本新聞に書いていたが、それなら桜島と言わずに「鹿児島」と言えばよく、結局は「桜」という名付けの理由は不問に付している。)

『それが起きた部屋』

2020-07-09 20:50:20 | 専守防衛力を有する永世中立国
『それが起きた部屋』(ジョン・ボルトン著)という暴露本を読んだわけではないが、NHKが著者ボルトンにインタビューしたという報道があったので興味を持って視聴した。

「部屋」とはアメリカ大統領の執務室のことで、ボルトンは安全保障に関する大統領特別補佐官を1年半ほど勤めたが、トランプ大統領と北朝鮮を巡ってそりが合わなくなり、昨年9月に解任された。そのジョン・ボルトンが、彼の目で見たトランプ執務の実態を書いたものだ。

インタービューの全容は不明だが、日本との関わりを中心に放送された。

その中で最も注目すべきが「駐留米軍」の経費負担問題だろう。

米軍は多くの国に駐留軍を送っているが、トランプはどこの国に対しても駐留経費負担の大幅増額を求めている。

その根拠が例の「駐留している国が攻撃されたら米軍が救援するが、アメリカが攻撃されてもその国がアメリカを救援することはない。不公平だ。」という論法である。

日本にも駐留経費の倍増を求めており、その額は80億ドル(8500億円)だそうだ。トランプの計算ではこの額は日本への駐留経費の150パーセントで、差額の50パーセントは安全保証料(みかじめ料)というから、いい商売だ。

安全保障に儲けもへったくれもないが、トランプはビジネスライクにそう考えているらしい。

「不服なら米軍は撤退してしまおう」などとも語ったようだ。これは最高の脅し文句である。日本の米軍依存症の保守派などが聞いたら卒倒しそうな言葉だ。

今、アフターコロナが言われるようになったが、ここらで本気に「日本は日本人自身が守る。米軍撤退もやむなし。」というアフター日米同盟も視野に入れなければなるまい。

その時がいつかは日本人の問題だ。いつまでもアメリカへの忖度外交をせずに、日本らしい積極的な平和外交を進めるべきだ(ただし、専守防衛力は維持し、永世中立国宣言をした上でなら最高である)。

新型コロナの感染が収まらないうちに、今度は南九州で大規模な豪雨災害が発生した。日本のみならず世界には地球温暖化による環境の激変というグローバルな共通の課題がある。

日本はこれに加えて台風、地震、津波、火山噴火という大災害を常に抱えており、言うならば「災害先進国」だ。しかし、そういった災害を低減し、乗り越える姿を世界に示さなければならないのは、日本の宿命だ。

ボルトンの著書タイトルを借りると、「それが起きた国」。世界はそれを見守っている。