鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

古日向論(4)三国分立と古日向③

2019-07-04 08:54:37 | 古日向論

『続日本紀』の文武天皇4年(700年)の6月3日の条に、薩末の比売(久米・波豆)・衣君アガタ・テジミとともに、地方の支配者として個人名を挙げられた「肝衝のナニワ」。(※薩末比売・久米・波豆について、薩末の比売・久米・波豆の3人とするより、「薩末比売」は「薩末姫」という身分と考え、その身分を持つ女首長は久米・波豆の二人としたい。)

大隅半島側には「大隅直」が支配者としてすでに682年(天武15年」にその名が出てくるが、大隅直は大隅出身者ではあるが大和在住の豪族で、700年の時点では肝衝難波が現地支配者であったとは、②で述べた。

この地名の「大隅」だが、結論から先に言うと、この地名は大和王権側の政治的命名である。つまり大隅半島に古来からあった現地名ではない。930年頃に源順(みなもとのしたがふ)が編纂した『倭名類聚抄』の「郡郷一覧」の大隅国の各郡についての「読み」を万葉仮名風に記した注記には、

菱刈郡を「比志加里」、桑原郡を「久波々良」、曽於を「曽於」、姶羅を「阿比良」、肝属を「岐毛豆岐」、馭謨を「五牟」、熊毛を「久末介」と当時は大隅国を構成する郡が4郡から8郡に増加していたが、郡名8つのうち7つまでがきちんと「読み」を付している。

しかしながら大隅郡にだけは読みが付いていない。これはどういうことか。大隅は「おおすみ」と読むほかないから付けなかったのではない。その証拠が「曽於」「熊毛」である。この2郡については誰が読もうとも「そお」であり「くまげ」だろう(他のたとえば菱刈・桑原などもそれ以外の読みは考えられない)に、わざわざ読み(つまり現地読み)が付けられていることである。

つまり大隅は現地名でなく大和王権側の命名だから、読みを付けなかった(つける必要がなかった)のだ。

そして「姶羅郷」が「姶羅郡」にではなく「大隅郡」に属しているのも、もともと現地の一大中心地であった「姶羅郷」を大隅郡に(要するに大和王権側に)取り込んでしまったため、姶羅郡が姶羅郷を失った理由であろう。

大隅郡は言うならば大隅半島における大和王権の直轄地で、大隅半島部の穀倉地帯と良港を現地隼人から取り上げたのである。在地の豪族たちにしてみれば怒り心頭であろう。

大隅国が古日向から大隅・肝属・姶羅・曽於の4郡を分立して建国された713年(和銅6年)より3年前の710年に「曽君細麻呂(そのきみほそまろ)」に「外従五位下」が授けられているが、この「曽君」は曽於郡を本拠地とする首長で、曽於郡とは大隅半島北部から国分平野(霧島市)を領域とする一帯であり、これにより大隅半島側は北半分が大和王権に組み込まれたことになる。

残りの志布志湾から鹿児島湾に面する垂水を東西に結ぶ線より南側が肝衝難波の支配領域で、これを大和王権側はさらに中央集権に組み込もうとして「筑志惣領」(のちの太宰府)に命じて官軍を出動させた。これが建国の前年の712年だったろう。

この官軍に中に710年に官位を授けられて大和王権側に屈した曽君細麻呂が加わっていたかどうか、史料は全くないが、少なくとも大隅半島の地理・風俗などに詳しかったであろうから官軍を先導するくらいなことはしたのではないだろうか。

肝衝難波と曽君細麻呂とは旧知の間柄だったろうから、細麻呂は難波に大和王権側に従属するよう働きかけた可能性はあるだろう。

しかし難波は首を縦に振らなかった。

「わしの祖先は大和に橿原王朝を開いた由緒ある家柄だ。わしの家はここ肝属に残ったその由緒ある一族の末裔である。大隅国とやらが作られて国司が置かれるというが、わしこそが国主(国守)だ。実に許されぬ所業じゃ!」

こうして大和王権側と対立しついに戦争となった。戦争自体は史料にないが、戦後に官軍側の兵士に対して「叙勲」の記事が見えている。

【今、隼賊(しゅんぞく=大隅隼人側の抵抗者)を討てる将軍、併せて士卒等、戦陣に功有る者・千二百八十余人、並びにすべからく労に従いて勲を授べし】(和銅6年=713年7月条)

713年の4月3日に大隅国が建国され、その三か月後にこのような勲功がなされているのは、かなりの戦争があったとみてよい。(※「肝衝難波の乱」もしくは「大隅戦争」というべきか。)

この際、肝衝難波は戦死したに違いない。

鹿屋市の永野田町は肝属川と支流の名貫川に挟まれた地域だが、そこにひっそりと佇む「国司塚」というのがある。永野田の名家であり、戦前・戦中の衆議院議員・永田良吉を出した永田家が代々塚を守り祭祀を欠かさないでいる(その祭りを「国守祭」と名付けている)。

この塚を隼人の乱で殺害された大隅国初代国司・陽侯史(やこのふひと)麻呂の塚だという人があるが、これは間違いである。私はこの塚こそが上記の戦争で敗れ殺害された肝衝難波の墓だと考えている。官軍に楯突いたということは「叛逆者」であり、ほとんど人目につかないような塚(マウンドはない)で祭られざるを得ないのであろう。

祭祀を継続している永田家が肝衝難波の一族かどうかは不明だが、祭祀の仕方が皇室の大嘗会のように祝詞を唱えずに沈黙行なのも似ているそうである。(※永田良吉代議士が昭和天皇の大嘗祭に議員として参列した時の感想である。)

(※因みに大隅国初代国司・陽侯史(やこのふひと)麻呂が殺害されたのは、肝衝難波の乱後の養老4(720)年から同5(721)年にかけて勃発した史上名高い「隼人の叛乱」の時で、場所は国分(霧島市)であった。)

こうして713年に古日向は南九州から姿を消し、薩摩国・大隅国・日向国(新日向)の三国に分割された。