鴨着く島

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古日向論(4)三国分立と古日向④

2019-07-06 16:37:17 | 古日向論

600年代の末期の頃に大隅半島を広く治めていた大首長・肝衝難波の抵抗むなしく、和銅6(713)年、ついに大隅国が4郡を以て創設された。

難波の墓が鹿屋市永野田町で今なおひっそりと祭祀が続けられている通称「国司塚」であることは前項で指摘した。難波の家柄は「神武東征」に参加せずに現地に残ったキスミミ皇子の一族であろうことも触れた。

神武天皇を私見ではキスミミの兄であるタギシミミ(多芸志美美=投馬国の船舵王)その人だと考えるのだが、では残ったキスミミ(岐須美美=投馬国の港の王)から始まり、肝衝難波で没落した系譜とはどういうものだったかを、大隅半島部にいちじるしく多い「畿内型高塚古墳」などを取上げて考えてみよう。

高塚古墳(円墳・前方後円墳)はもちろんいわゆる「古墳時代」(3世紀~6世紀)に築かれた首長墓だが、古日向ではのちの新日向国である宮崎県と大隅半島部に非常に多い。これに比べて薩摩半島部と国分(霧島市)方面にはきわめて少ないのが特徴である。

同じ古日向でもなぜこのように差があるのかについては、おおむね「平野部の農業生産力」の差で説明が可能だろう。

宮崎県と大隅半島の南半分に共通するのは、河川による沖積平野がかなり発達していることで、水利さえ確保できれば気候の点では稲作に適しているのだ。薩摩半島部でまとまった平野と言えば、万ノ瀬川の下流部と川内川の下流部しかない。

キスミミが支配の本拠地とした肝属平野(肝属川と串良川による沖積平野)、そして良港「大隅ラグーン」は古日向の範囲では余所に無い好条件の地域であった。

それゆえこの肝属平野及び大隅ラグーンを取り巻くように、高塚古墳の散在が見られるのが大隅半島の古墳群の特徴でもある。

大隅半島部で最も古い古墳群が「塚崎古墳群」(肝付町塚崎)で、肝属平野及びラグーンを望む舌状台地に点在する。

高塚古墳は前方後円墳が5基あり、その中の11号墳は4世紀代の築造とされ、その後およそ5世代くらいの首長の系譜が見られるようで、この塚崎古墳群の11号墳の被葬者こそがキスミミの後裔の中で最初に前方後円墳に埋葬された首長であろう。

キスミミを2世紀の後半の人物と考える私見からすると、この11号墳の被葬者はキスミミからは200年後の直系の子孫に違いない。

塚崎古墳群の中の前方後円墳が5世代ほど続いた後に築かれたのは、大隅半島最大の前方後円墳「唐仁大塚」(唐仁古墳群1号墳)で東串良町に所在する。古墳自体の全長は140mほどで、後円部にだけ周濠をめぐらした特徴的な前方後円墳である。

この被葬者は塚崎古墳最後の前方後円墳より一世代あとの5世紀前半の大首長で、以前は「大和朝廷から派遣された大隅直など中央官僚の墓だろう」などと指摘されたこともあったが、私見ではキスミミの一族の中でも航海にすぐれ、畿内大和も一目置いた人物だろうと考える。

ズバリその人物を言えば、武内宿祢もしくは応神天皇(応神紀に「大隅宮で崩御」との割注がある)の可能性を考えている。武内宿祢は北部九州で生まれた応神天皇(ホムタワケ)を抱え、南九州周りで紀伊に戻ったと神功皇后紀に記されている。古日向の支配者だった可能性が捨てきれない。

唐仁大塚のあとには「横瀬古墳」が単独で築かれているが、この前方後円墳は全長が135mで、完全な「畿内型古墳」である。周濠は現在全く見られないが「二重周濠」であることが判明している。

この被葬者は畿内で活躍した人物であろう。といって畿内から派遣されて大隅半島部を治めたという「大和王権の官僚」ではなく、大隅出身か、応神天皇または仁徳天皇の頃に大和で活躍しながら、大隅にゆえあって流されたような人物が考えられる。

キスミミの一族ではないが、古日向に縁のある相当な家柄の人物で、横瀬古墳の立地からすればやはり航海に関した事績を持った人ということになるだろう。「葛城襲津彦」ではないか、というのが私見である。(※仁徳天皇紀に、朝鮮に渡って外交交渉をするはずだったが、まったく成果を上げられず、帰朝した様子もなく、「磐穴に入って死んだ」との注記がある。)

大隅半島に見られる前方後円墳は5世紀代でほぼ終わっているので、その後の系譜は辿れないが、高塚古墳に並行しつつ盛行し、高塚古墳が築造されなくなったあとまで多量に造られたのがほぼ古日向域でしか見られない「地下式横穴墓」「地下式板石積墓」で、首長墓に匹敵する大量の副葬品を持つものもあり、現在その意義が論議されている。

大隅半島部の前方後円墳が築かれなくなった約200年後の7世紀後半に現れたのが大首長・肝衝難波であり、その名からして難波すなわち畿内へも交易か朝貢かで航海した人物であったろう。

肝衝難波は③で述べたように、大隅国創設(713年)の際の叛乱で戦死したのであるが、その後継はどうなっただろうか。

肝衝難波の名が登場した『続日本紀』には、その後「肝衝(肝属・肝付)」なる姓を持つ人物が現れないので、肝衝一族は絶滅した可能性が考えられるが、次の二人の人物はもしかしたら後継の意一族なのかもしれない。

それは『続日本紀』の天平勝宝元年(749年)に見える次の人物である。

【(8月21日)、大隅・薩摩両国の隼人等、御調を貢し、並びに土風の歌舞を奏す。(同22日)、勅して、外正五位上曽乃君・多利志佐に従五位下、外従五位下前君・乎佐に外従五位上、外正六位上曽県主岐直・志自羽志・加祢保佐に外従五位下を授く。】

この記事の中の赤い部分の人物がそれと思われる。なぜなら二人とも「曽県主」という古風な姓が付いており、しかも加えて「岐直」という「直姓」も付加されているからである。

「県主」はきわめて古い姓であり、この二人の人物の大隅における来歴がそれ相当に由緒があることを示している。

そして何よりも「岐直」である。この直姓は県主よりはるかに新しい天武朝頃からの姓で、大和王権のお墨付きを得たというタイプの姓だが、「岐」すなわち「港」の管理者であることを認められたということである。

「岐」は「岐毛豆岐(きもつき)」すなわち「肝衝難波」の「肝衝」でもある。そうするこの二人の首長は、難波の流れを汲む者たちではないかという推測が成り立つ。

そう考えると「肝衝難波」の一族は絶滅させられてはいないとしてよいのだろう。

古日向(投馬国)は完全に沈んだわけではなかったのである。