鴨着く島

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古日向論(4)三国分立と古日向②

2019-07-01 09:11:09 | 古日向論

①で触れたように、古日向が「薩摩国」「大隅国」「日向国」の三国に分割されたのは、700年代に入り律令制による中央集権統治が現実のものとなって来た証であった。

大和王権としては地方に旧来の大国があって、土着の首長(身分としては国造が多かった)により勝手な統治をされては困るので、強権でもってその支配にくさびを打ち込んだわけである。

また古日向は南島への重要な通過点で、南島とは海を通じた交易的な支配関係があり、これも大和王権にとっては都合の悪いものであった。

そこで天武王朝以降の670年代からは、国家の支配領域を広げかつ確定しようとして南島への「覓国使(ベッコクシ=くにまぎのつかい)」を派遣し始めた。要するに「大和王権への慫慂及び古日向及び南島の実状を把握するための調査団」であった。

その結果、678年には「多禰人(種子島人)」が、682年には「大隅隼人・阿多隼人」が、683年には「多禰・掖玖(屋久島)・阿麻彌(奄美)人」が朝貢している。

ただし調査団と古日向の現地首長との間で諍いが発生したことが読み取れる史料がある。『続日本紀』文武天皇4年(700年)6月3日条に載った次の記事である。

【薩末比売・久売・波豆、衣評督衣君県(えのこほりのかみ・えのきみ・あがた)・助督衣君弖自美(すけのかみ・えのきみ・てじみ)、また、肝衝難波、肥人を従え、兵を持ちて、覓国使・刑部真木等を剽却(ヒョウキョウ)す。是に於いて筑志惣領に勅し、犯すに准じて決罰せしむ。】

これによると古日向と南島を調査・視察に派遣されするために大和王権から派遣された刑部真木一行を、古日向の薩摩半島側の女首長(さつまひめ・くめ・はづ)、衣君(南九州市の頴娃領域の首長)の県(あがた)と副首長の弖自美(てじみ)、さらに大隅半島側の首長・肝衝難波(きもつきのなにわ)たちが、それぞれの支配地域において「武器を手にして脅したり、妨害したり」したので、筑志惣領(のちの太宰府)によって「決罰」(厳罰)した、というのである。

厳罰の内容は分からないが、ニ年後の大宝2年(702年)には薩摩国と多禰国に該当する地域が征討されて戸籍が挍定され、官吏が置かれ、さらに「辺境支配のための柵」(唱更国)が設けられている。すなわち702年の時点で薩摩国の前身が古日向から分立されていることから見て、薩末の女首長である「くめ・はづ」は断罪された可能性が強い(衣君もその可能性が大きい)。

一方で大隅半島側の首長・肝衝難波は、例えば「大隅彦」とも「肝属君」とも敬称が付いていない。と言って「兇徒」というような蔑称も避けられている。要するに「無位の首長」ということである。

これは一体どういうことか。察するに、今回の国覓ぎにおいては薩摩半島側に主な拠点を設けての実施だったため、まずは薩摩半島側から集権化支配を及ぼそうとしたからだろう。下手に大隅側に手出しをすると「ミイラ取りがミイラになる」可能性が大であり、大隅半島側は後回しにしようということだったのではないだろうか。

したがって今回の事件において、肝衝難波については「決罰」の対象から外されと思われる。

ただ、大隅については天武天皇の15年(685年)、6月20日の記事に、大倭連(やまとのむらじ)はじめ11氏に「忌寸(いみき)」姓を与えたという中に「大隅直(おおすみのあたい)」が登場するが、この大隅直と肝衝難波との関係はどうなっているのか、という疑問が生じる。

この685年の時点で大隅には「大隅直」が支配者としてやって来ていたから、大隅は早くから大和王権に従属していたーーと考える学説があるが、上の11氏を見るとすべて大和王権のある飛鳥居住の豪族であり、この「大隅直」も例外ではないとしたほうが合理的である。

またもし大隅半島側にすでに「大隅直」という大和王権側に与した豪族がいて支配しているのであれば、肝衝難波というような人物が出て来て大和王権からの覓国使を脅したりすることはあり得ず、むしろ積極的に協力したはずである。

以上から700年の時点で大隅半島側の豪族として登場した肝衝難波は、大和王権側の支配者「大隅直」を大隅から駆逐しており、いわば「大隅の王」的な存在だったのではないか。だから大和王権側の使者を追い返したのだろう。

この肝衝難波だが、「肝衝」は「肝属郡」「肝付氏」の「きもつき」であり、『倭名類聚抄』の「郡郷一覧」によれば、万葉仮名で「岐毛豆岐」とされている。

この「岐」を使った人物が古事記に記載の神武天皇の第ニ皇子の「岐須美美(きすみみ)」で、これの意味するところは「港の王」であった。

また「岐毛豆岐」の最後の「岐」は「港」、「豆」は「~つ」で「~の」であるから、「岐毛豆岐」とは「岐毛の港」。「岐毛(きも)」は「鴨」の転訛なので、「鴨の港」というのが「きもつき」の意味である。

この「鴨の港」とは現在の肝属川(串良川)合流地点から下流に存在した広大な「河口の入江」、すなわち私見での「大隅ラグーン」のことである。ここを拠点として活躍したのが「岐須美美(きすみみ)」であった。

神武天皇の第一皇子と記紀に書かれている兄の「当芸志美美(たぎしみみ=船舵王)」が東征で大隅を後にしたのち、大隅に残って大隅全体を支配したのが「岐須美美(きすみみ)」及びその一族・後裔であった。

肝衝難波は「鴨の港の難波」であり、大隅ラグーンを支配して難波にまで船足を伸ばしていたゆえにそう名付けられた豪族で、橿原王朝を開いた神武天皇(私見では投馬国王タギシミミ)の皇子「岐須美美(きすみみ)」の後裔であったというのが私見である。

難波の時代にはすでに前方後円墳を象徴とする古墳を築く時代ではなくなっていたが、大隅半島一円に見られる壮大な古墳や古墳群は「岐須美美(きすみみ)」一族(大隅王家)を中心とする系譜につながる支配者たちのものに違いない。