鴨着く島

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串間出土の玉壁の謎(1)

2019-07-26 11:17:08 | 古日向の謎

7月16日のブログ「北海道成立150年と古日向」の続き。


あのブログの最後に玉壁が出た石棺の被葬者について書くと言っておいたが、これについては魏志倭人伝ではなく「魏志韓伝」を援用しなければならない。


魏志韓伝は倭人伝の描く邪馬台国時代の九州島の情勢と大きくかかわっているので、非常に大切な史料なのだが、巷間の邪馬台国論争で取り上げている論者は数えるほどしかいない。


拙著『邪馬台国真論』(2003年刊)では、倭人伝解釈と同じくらいの力の入れようで全文を解釈したのだが、そこで発見した馬韓55国の一国「月支(ゲッシ・つくし)国」を治めている「辰王」の不可解な存在感が非常に気になった。


というのは辰王は「月支国」にはすでにおらず、祭祀を継ぐ者だけがいるだけだとしているのである。また次に書くように馬韓の南東にある「辰韓12国」も辰王が統治者であるのだが、この国を馬韓人を採用して治めさせている、というのである。


何のことはない、辰王は最初に王となった馬韓内部の「月支国」にもおらず、自分が王である辰韓にもいない、つまり半島にはいないーーというのである。


これは一体どういうことか?


もともと箕子という人も、大陸北部の殷から見れば南方の朝鮮半島に逃れ、その子孫の準王も朝鮮北部から南の馬韓に落ち、さらにその南の辰韓に国を開いたわけだが、その地にも安住できなかったようで、さて、そこからさらに南と言うと、朝鮮海峡を渡った九州島しかない。


渡った先は糸島(前原町)で、そこには「五十迹手(いそとて)」という首長がいたと「仲哀天皇紀」と「筑前風土記」にあるが、その五十迹手の本貫の地は半島南部の「意呂山」だと書いてある。つまりこの五十迹手こそが「辰韓の王」(辰王)の末裔なのである。そしてこの五十迹手の数代前の先祖が「ミマキイリヒコ・イソ(五十)ニヱ」こと崇神天皇だったのである。


大陸からやって来た箕子(北朝鮮)から準王(南朝鮮)を経てついに九州島北部にまで遷り渡って来た箕子の王統の歴史の流れを「魏志韓伝」によってあらましを記すと次のようである。


 


「辰王」はBC1000年代に朝鮮を開いた殷王朝最後の悪王と言われている「紂王」の叔父に当たる「箕子(キシ)」の流れを汲む王である。箕子の何代目かは不明だがBC194年に朝鮮北部に逃亡して来た燕の衛満によって国を奪われて南の韓の地に亡命した「準王」は馬韓に土着して「月支国」を王都とした。


しかしその後も半島を巡る南下勢力による侵攻があり、まずBC108年には漢王朝による「四郡設置」があり、これにより準王の子孫は馬韓からさらに南に移り「辰韓12国」を治めるようになった。その際に「月支国」は放棄して馬韓人の管理に任せた。


時代は下ってAD204年、燕王を自称した公孫氏の帯方郡設置によって馬韓は当然のことながら、はるか南の辰韓も危機感に晒された。その極めつけがこの公孫氏を排除しようとした魏王朝の半島侵攻であった。


この侵攻は237年から行われたが、韓伝によると戦後処理の不手際から諸韓国の猛反発を買い、帯方郡が諸韓国によって攻撃されて郡守が戦死するほどであった。しかし魏の大将軍・司馬懿の力量は大きく、結局のところ諸韓国は降伏を余儀なくされた。


この降伏を韓伝では「二郡(楽浪郡と帯方郡)、ついに韓を滅す」と激烈に表記しており、単なる白旗では済まなかったことが窺い知れる。おそらく最大の首謀者つまり辰韓を支配していた辰王の首を所望されたはずである。(以上が韓伝から読み取れるダイジェスト)


 


この時(237年)に辰王は居所を九州島に完全に遷したのであろうと思われる。それが崇神天皇こと「ミマキイリヒコイソ(五十)二ヱ」の親の代で、糸島がまさにその地である。ここから崇神天皇は糸島生まれの垂仁天皇を引き連れて、さらなる安全地帯を目指し大和への「崇神東征」を敢行する。


(※この「崇神東征」については「神武東征」をめぐって書いた時にも触れているのでここでは差し控える。)


さて肝心の「玉壁」の被葬者であった。


私見ではこの玉壁は朝鮮半島経由のもので、箕子の子孫でまだ北部朝鮮に王都を築いていた何代目かが、周王朝から殷王族の末裔であることを理由に破格の優品を賜与されたのではないか、と考えている。その年代は分からないが、漢代よりは古いと思われる。おそらく東周の時代(春秋時代)で、周王朝の威令がまだ十分にあり、大陸全体がまだ落ち着いていた時代だったろうと思われる。


しかし衛満の乱後は南朝鮮に遷り、馬韓の「月支国」時代は主のいなくなったあとも祭祀のために保持されていたが、その祭祀を担当したのが同じ馬韓に属する「臣雲新国」ではなかったかと思われる。というのも「臣雲」(シウ)とは「辰王」を指す言葉だからである。つまり「臣雲新国」とは「辰王の新国(別国)」という意味の国なのである。


この国では辰王の血統に近い者が祭祀王となっていたのだろう。したがって魏王朝による237年からの半島侵攻(公孫氏の排除、および馬韓・辰韓・弁韓倭人国群の支配)の際に、一族であるがゆえに辰王同様に抹殺されるという危機に瀕しなければならなかった。


辰王が糸島に本拠地を移したように、この臣雲新国の王も九州島へ逃れたに違いない。その場所こそ「志布志」であったと思われる。「シウシンコク」から「シブシコク」への転訛を考えたいのである。


以上から馬韓の一国「臣雲新国」の祭祀王が、鴨着く島(鹿児の島)の水運によって海路志布志に逃れ、祭祀にとって命よりも大切な祭具「玉壁」を堅持しつつ、箕子王統の祭祀を続けられる適地として串間に定住し、寿命が尽きた時に石棺に副葬したのではないかーーという結論を出しておく。


(※馬韓の55国のうち志布志のほかにも、例えば「莫盧国」(マクロ・マクラ)は枕崎、「臼斯烏旦国」(クシウタ)は串良など古日向域の地名を思わせるのがある。)