鴨着く島

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「北海道」成立150年と古日向

2019-07-16 11:18:25 | 古日向の謎

昨夜のNHK19:30からのドラマ『永遠のニシパ』は北海道という地名の名付け親・松浦武四郎(1818年~1881年)の物語であった。


物語と言ってもほぼ実録に近いが、時代劇初登場という松本潤の松浦武四郎とアイヌの女リセ役の深田恭子の間のほのかな恋愛感情が描かれていて、心惹かれるものがあった。


「ニシパ」とはアイヌ語で「旦那、親方」という意味だそうだが、武四郎が北海道を探検して回った時はすでに40代だったので確かに旦那(ニシパ)がふさわしい。


北海道に開拓使が置かれたが、その初代長官は薩摩藩出身の黒田清隆で、配下の官僚にも鹿児島出身者が多かった。あの西郷どんも一時は北海道(当時はまだ蝦夷地)の開拓をしようとしていた。それほど鹿児島では禄を失った旧武士たちが多かったのだ。


三重県一志郡(松坂市)出身の松浦武四郎は間宮林蔵や近藤重蔵と並んで幕末から明治初期の探検家の一人だが、この人、実は古日向の方まで足を伸ばしている。


宮崎県と鹿児島県との県境志布志湾沿いに串間市があり、この串間から出土した天下の稀覯品「玉壁(ぎょくへき)」を当時、何のつてによってか入手していたのである。


ただし、明治10年(1877年)には旧加賀百万石・前田侯爵家の所蔵品になっていた。前田家が入手した際に玉壁を保管した箱(多分、桐箱)の「箱書き」に次のように記されていたのでそれと知られる。


【文政元年(1818年)2月、日向の国、那珂郡今町村の農佐吉所有地の字王之山より掘り出だせる石棺中、獲し所の古玉・古鉄器30余品のひとつなり。けだし日向は上古の遺跡多し。いわゆる王之山もまた必ず尋常の古塚にあらざるなり。 明治10年12月 湖山長愿題す】


これは前田家に依頼された湖山という学識者による「題書き」で箱の蓋の裏に記されたもの。実は箱の真裏(下面)に「多気志楼(たけしろう)蔵」とも書かれていたので、串間で購入した武四郎が少なくとも明治10年以前に前田家に譲渡したのは確かだろう。


発掘された文政元年は偶然にも松浦武四郎の生まれた年だが、串間の今町村に住む百姓の佐吉という人が自分の持山(山畑)で石棺を掘り当て、その中に鉄器類とともにこの玉壁があったーーという。


この玉壁(鉄器類も)がその後佐吉のもとにあったのか、別の人物に渡っていてそれを当地を訪れた武四郎が譲り受けたにちがいない。


さてこの軟玉製の玉壁だが、直径は36センチ(串間市史では34センチ)もあり厚さはわずかに6ミリという「穀粒文」の逸品(まさに文字通りの完璧)で、これは周王朝時代(前1100年~前220年)に王から諸侯に賜与された臣下としての徴であり、爵位によって大きさと文様にに差があった中でおそらく最大・最高の物である(穀粒文は子爵相当に賜与されたらしい)。


日本では北部九州福岡の春日遺跡からガラス製の欠品が出たのみで、近隣諸国では北朝鮮に数枚、また南中国の南越王国の遺跡から10枚くらいしか出ていないようである。


3,4年前に宮崎県西都原考古博物館で催された東アジアの王権を巡るシンポジウムでも、この玉壁のことが話題になったが、結論としては朝鮮半島との関連で渡来したものというよりは、南中国の南越(越人)王権とのかかわりが強いという話だったと記憶する。


周王朝が成立した頃(前1100年頃)、たしか二代目の成王の時に「越人は白雉を献じ、倭人は暢草(チヨウソウ=霊草)を貢ず」と史記に書かれているから、越人である南越王と倭人の王は周王朝からは特別扱いを受けていたのかもしれない。


南越王の方はある程度賜与された王の名などが分かるのだろうが、串間出土の玉壁の被賜与王については皆目わからない。


また発掘された場所の特定もできていない。『大隅39号』所載の故・深江洋一氏の「串間出土の刀銭」には串間市今町(西方)の区割り地図が載っているのだが、それによると日南線の北方駅の西方約1.5キロに「王子谷」という小字があるのでそこだろうと見当をつけて散々探したがそれらしき遺構はなかったとのことで、いまだに出土地も不明である。


ただ深江氏の論考のタイトルにある「刀銭」(大陸の戦国時代に流布した青銅製貨幣。前4~5世紀)については、串間市出身の旧制中学校の同級生の畑で見つかったことが分かっており、その畑の所在地の小字名は「天神」だそうである。


天神は名前からして神社があってもおかしくない聖地のような場所だろうから、神社の建つ前は有力者の墓域だった可能性もあり、かの玉壁もこの天神地区から発掘されたとしてもおかしくはない。


また北方駅のすぐ北側には「串間神社」があるが、この神社は福島川と支流の大平川に挟まれた微高地に鎮座しており、この地形はまさに「聖地」の資格十分の土地柄であるから、ここに神社建築以前の墓域があっても何ら不思議ではない。


自分としてはこのどちらかの地中から出土したと思うのだが、どうだろうか。


さらに玉壁が見つかった石棺の被葬者について、思いめぐらすことがあるのだが、長くなるのでそれは次に書くことにしたい。