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薩摩ヒメ・クメ・ハヅ(『続日本紀』散策②)

2021-11-16 15:31:42 | 『続日本紀』散策
【はじめに】

11月13日に書いたブログ「古日向のヒメたち」で取り上げたヒメたちでは、古日向出身の王妃としては仁徳天皇の妃となった日向諸県君の娘「髪長媛」が最後であった。

武内宿祢・応神天皇亡きあとでは、古日向最大の豪族が諸県君牛諸井(うしもろい)で、その娘が仁徳天皇の王妃に入内したのは、古日向勢力の衰えを背景にしており、髪長媛とは「神長媛」のことで、古日向の祭祀権が仁徳王権へ移動した象徴だと思われる。

南九州(古日向)は魏志倭人伝上の「投馬国」(つまこく)であり、投馬国では女王のことを王をミミと呼ぶのに対して「ミミナリ」と言っていたが、これは近世以降の沖縄で「聞得大君(きこえのおおきみ)」と呼ばれ、王の統治権に並ぶ祭祀権を担当していた女王を髣髴とする。髪長媛はまさにミミナリに相当し、古日向の祭祀権を担う女王であったと思われる。

その祭祀女王が畿内河内の仁徳側へ移動したということは、取りも直さず、古日向が仁徳王権(河内王朝)に屈した証でもある。

髪長媛後の古日向のヒメたちは知られていないが、同じ「古日向のヒメたち」において、「薩摩ヒメ・クメ・ハヅ」というヒメたちを登場させている。これらのヒメたちの素性を追ってみたい。

【薩摩ヒメ・クメ・ハヅとその時代】

続日本紀は第42代文武天皇(在位697~707年)の元年から、第50代桓武天皇(在位781~806年)の10年までの95年を紀年体で記した、正史(六国史)の2番手である。ほぼ奈良時代を網羅していると言える。

その早い方の文武天皇の4年(700年)6月条に現れたのが、タイトルの「薩摩ヒメ・クメ。ハヅ」で、個人を特定できる人物名として南九州では初めての登場になる。

次にその部分を掲げるが、書き下し文かつ現代漢字・仮名遣いにしてある。また訓を括弧付きで補った。

<6月庚辰の日(3日)、薩麻比売(ひめ)・久売(くめ)・波豆(はづ)、衣評督衣君県(えのこおりのかみ・えのきみあがた)・助督衣君弖自美(すけのかみ・えのきみてじみ)、また肝衝難波(きもつきなにわ)、肥人などを従え、兵を持して、覓国使の刑部真木などを剽劫(ヒョウキョウ)せり。ここにおいて、竺志惣領に勅して、犯に准じて決罰せしむ。>

これは西暦700年の旧暦6月3日の記事である。

内容を簡単に言えば、「南九州に出かけた覓国使(ベッコクシ・くにまぎのつかい)という名の「国境調査団」のうち、刑部真木(おさかべのまき)たちを、肥人たちが武器(兵)でもって脅迫したという事件があったということで、そのため朝廷が竺志惣領(筑紫総領=のちの太宰府)に命じ、肥人の支配者である薩摩ヒメ・クメ・ハヅたち首長層を、その脅迫の程度に応じて罰を与えた」というものである。

彼ら首長層の詮索を始める前に、この「国境調査団」が南九州に送られた経緯・経過をかいつまんで書くと、以下のようである。

覓国使(調査団)が発遣されたのは、続日本紀によると2年前の4月のことであった。この調査団は8名の編成で、団長は文忌寸博士(博勢とも書く)であった。刑部真木もその一人であった。「戎器(ジュウキ)」(兵器)を持たせたとあるから、これは警護役の刑部真木の担当であったろう。

そして翌699年の11月の記事に、「文忌寸博士、刑部真木ら、南島より至る。位を進めること、各々差あり。」と見え、調査団は無事に帰京し、朝廷から位階を上げられる待遇を受けたという。派遣期間は1年半に及んだことになる。

ここで元の史料に戻るが、700年の6月3日の記事として書かれたこの史料が意味するのは、あくまでも筑紫総領に対して「彼ら首長層に罰を与えよ」という勅命を出し、その結果が分かった日だということである。一見すると間違いやすいのが、「700年の6月3日に剽劫事件が起きたのだ」と捉えてしまうことだ。

上の調査団派遣の期間中、つまり698年4月から699年11月の間に現地の南九州において、その地の首長層から脅迫を受け、そのことを刑部真木たちが帰京してから朝廷に報告したわけで、それへの対応の「決罰」の勅命が筑紫総領に伝わり、さらに実際に「決罰しました」という報告が筑紫から朝廷にもたらされた日が、700年6月3日だったということなのである。

今日なら報告の類はすべて電信電話で済むから、こんなタイムラグは有り得ないのだが、調査団の都から南九州への往復と、朝廷から筑紫への往復でそれぞれ数か月はかかることを念頭に置かないと、早とちりをしてしまう。史料を読み取る際に特に注意を要する点である。

さて、肝心の「薩麻ヒメ・クメ・ハヅ」であった。

この「薩麻」だが、これは「薩摩」の旧字である。「ま」については「摩」より「麻」の方が簡略で使い勝手がいいのだが、なぜわざわざ「摩」を使用するようになったのかは、以前に書いたことがあるが、仏教用語で「薩」は「観音菩薩」を意味し、「摩」も仏教用語中の「摩訶般若波羅蜜」の「摩」から採用したと思われる。

南九州への仏教普及の端緒は前代の持統天皇の6年(692年)、阿多と大隅には僧侶を派遣せよとの勅命が出されており、それ以降、南九州に僧侶と仏典の入り込みがあり、ある程度、仏教に関する知識の広がりはあったと考えてよいだろう。

実際に702年の8月の記事に、「薩摩と多禰が、化を隔て、命に逆らったので、兵を発して征討した」とあり、ここでは薩摩が使われているのである。

この「薩麻ヒメ・クメ・ハヅ」を三人の「ヒメ・クメ・ハヅ」と見るか、それとも二人のヒメと見るかがちょっとした問題点である。私は二人と見たい。つまり、「薩麻ヒメ、すなわちクメとハヅ」としたいのである。要するに「薩摩ヒメ」を「薩摩」と「ヒメ」に区切らず、一般名詞とみなし、「薩摩のヒメ(女性首長)すなわちクメとハヅ」と解釈するわけである。

(※このヒメたちはこの後、どこにも現れないので、どちらとも決めようがないが、これはこれで置いておく。)

「薩摩のヒメ」とは女首長ということで、薩摩すなわち薩摩半島は女首長が取り仕切る世界だったということになる。古代及び古代以前の地方では女首長が立てられていることが多い。その典型は邪馬台国だろう。卑弥呼とその後継の台与の2代にわたって女が代表者であった。

薩摩でもそのような統治形態であったのだろう。女首長の名は「久売(クメ)」及び「波豆(ハヅ)」といった。

二人の女首長の名が挙げられているということは、この二人は母子関係だったのか、それとも邪馬台国の卑弥呼と台与のように宗族の中で後継される関係なのか、見解の分かれるところだ。

邪馬台国の場合は、ヒミコが死亡したので、その後継に宗族の中から13歳の台与が抜擢されて立てられたのだが、クメとハヅは同時に立っているので、そのような後継関係ではなさそうである。あるいは「両頭体制」なのかもしれないが、今はここまでしか言うことができない。

薩摩半島の首長として刑部真木の調査団に抵抗したのは他に「衣評督衣君県(えのこおりのかみ・えのきみあがた)」と「助督衣君弖自美(すけのかみ・えのきみてじみ)」がいる。

この「衣(え)」は今日の南九州市頴娃町のことだというのは大方に共通の見解であり、私もそれに従う。「評(こおり)」とはのちの「郡」であり、郡より古い名付けであった。この古称が使われるのは南九州独自であり、南九州(のみならず九州一円)が大和王朝にとっては特別な地域であったことを物語っている。

【南島調査団の目的と南九州】

大和王権からの南島調査は698年よりもっと古くに行われていた可能性が高い。

というのは、書紀の天武天皇6年(677年)条に、「この月、多禰島(たねがしま)人らに、飛鳥寺の西の槻の下に饗え給う」とあり、少なくとも677年よりも前に何らか種子島との交渉があり、島人がそれに応じて朝貢して来たことが推測されるのだ。

これを嚆矢として、南九州との「外交」が行われた結果、5年後の682年には、「秋7月3日、隼人多く来て、方物を貢げり。この日、大隅隼人と阿多隼人と朝庭にて相撲せり。大隅隼人が勝ちぬ」という記事がある。種子島より5年遅れで、大和王権に恭順したことが分かる。

そして何と、天武天皇が15年(朱鳥元年=686年)の9月23日に崩御し、殯宮(もがりのみや)が営まれると、百官の最後に誄(しのびごと=弔辞)を捧げているのである。これを隼人が重視されていたと解釈するか、珍客としての扱い、つまり王権支配が辺境にまで及んでいることを示すための、いわばデモンストレーションと見るかで多少の違いはあるが、いずれにしても王権側に隼人が「汚れた存在である」との認識はなかったはずである。

持統天皇の時代になってその9年(695年)には、「文忌寸博勢と下訳語諸田(しものおさのもろた)らを多禰に遣わして、蛮(ひな)の居所を求めしむ」(3月23日)、「隼人大隅に饗え給う。21日に隼人の相撲取るを西の槻の下に観る」(5月13日)と2か月足らずの間に南九州関連の記事が連続する。(※「隼人大隅」というのは「大隅隼人」の誤記だろう。)

3月23日の記事には700年6月3日の記事に書かれた南島調査団の団長格の「文忌寸博勢(士)」の名が見え、結局、文忌寸博勢は695年と698年の2回、南島調査団を率いていたことが分かる。

677年に朝貢して来た種子島人の話を聞いて、種子島が余程気になったのか、あるいは「宝の山」だったのか、大和王権は続けざまに2回の派遣団を送ったわけだが、後者の698年に送り出した時には団長の文忌寸博勢を警護するためか、刑部真木というのちの兵部省に属しそうな刑部氏に「武器」を携行させたのが不穏と言えば不穏であった。

それかあらぬか、おそらく種子島に渡る直前に、出航場所である現在の薩摩半島の山川港あたりで、薩摩半島側からは頴娃の首長である衣君や薩摩半島側の大首長であるクメ(ハヅ)、そして大隅半島側の大首長・肝衝難波の配下にいる「肥人(ひびと)」たちが、武器を携行している刑部真木たちを見て「何しに来た。武器を捨てよ」などと凄んだに違いない。それはもちろん王権側にとっては「脅迫」以外の何物でもなかった。

このありさまが、700年6月3日の記事の光景だが、その結果として朝廷の命令を受けた筑紫総領がどんな処罰を、各首長に対して行ったかについては書かれていないので不明であるが、おそらくその処罰さえも南九州側からは拒絶された可能性が高い。

というのも『続日本紀』の大宝2年(702)の8月に次のような記事があるからだ。

<8月1日、薩摩・多禰、化を隔て、命に逆らう。ここにおいて兵を発して征討す。ついに戸を挍し、吏を置けり。>

この記事で「南島調査団」(覓国使=くにまぎのつかい)の本性が判明する。要するに一種の国勢調査であり、大和王権支配の下に置くための派遣業務だったわけである。

薩摩・大隅の首長たちが色めき立ったのもむべなるかなで、この702年に行われた王権による武力行使によって、薩摩と種子島が鎮圧され、住民の数が把握され(「戸を挍し」)、役人を置く(「吏を置けり」)ことになった。

武力行使(征討)の程度がどのようなものであったか、これも書かれていないので詳細は不明だが、少なくとも種子島と薩摩半島側の首長たちは連行されるよりかは殺害されたのだろう。女首長のクメもハヅも断罪されたに違いない。

同じく山川・指宿を支配下に持つ頴娃の首長・衣評督衣君県(えのこおりのかみ・えのきみあがた)も助督衣君弖自美(すけのきみ・こおりのきみてじみ)も断罪をまぬかれなかっただろう。

この結果、大和王権側の官吏を置かれた薩摩は薩摩国に、種子島は多禰国になったと考えられる。

ところが、702年の大和王権による征討は上述のように薩摩半島側と種子島に限定されており、大隅半島側への征討はまだ着手されていなかった。

大隅半島側の大首長・肝衝難波(きもつきのなにわ)は702年の時点では健在であったと思われるのだ。

その肝衝難波が殺害(戦死)されるのは、薩摩国の次に古日向から大隅国が分立された和銅6(713)年4月の「日向国の肝杯・曾於・大隅・姶羅の四郡を割いて大隅国を置いた」時の「戦争」によるものだろう。

古日向(日向国)が三か国に分割され、律令体制下の「令制国」になった時点(713年)で、薩摩のクメをはじめ南九州の首長たちは次々に命を落としてしまったようである。

最後まで残った(と言っても713年までだが)肝衝難波については、別項を考えている。








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